求め合うには遠すぎて(前編)
作:砂時



 0

ここは、いったいどこなのだろう?
 なぜ、ここにこうしているのか?
 晶はただ一人、薄暗い森の中に包まれていた。
 どこを見回しても、立ち並ぶ木々しかその視界に入ることはない。
 梢が、暗い地面のあちらこちらに複雑な輪郭を落としている。
 どうして、俺はここにいるのだろう?
 景色にはどこか見覚えがある。
 そう。ここは俺が小さい頃、よく遊んでいた森だ。
 地面から顔を出した木々の根を避けつつ、晶は懐かしい思いに駆られた。
 よく見れば、そこかしこに記憶に残っている風景がある。
 思い出のかけらを辿って、晶は歩みを進めた。
 地面から顔を出した木々の根や草が作る細やかな起伏に足を取られながら、歩き続ける。
 熱に浮かされたように、薄れかけた記憶が指し示す先へと向かって。
 よく仲間と一緒に登ったひときわ高い木。
 遊び疲れては身体を横たえた柔らかな緑の絨毯。
 道しるべとして木に刻んだほんの小さな傷。
 いつしか、晶はそこだけ忘れ去られたように木々の生えそびれた場所に立っていた。
 その中央にはどこからか運んできたものらしい石が子供の背丈ほどに積まれており、それはまるで小さな祭壇のようだ。
 人がいる。
 あれは。
 あれは。
 小さい頃の、俺だ。
 そしてもう一人、祭壇の前で彫像のようにたたずんでいる。
 まっすぐな長い金色の髪。雪白の肌。海のよりもなお深い青い瞳。
 衝撃が晶の身体を走った。
 胸が早鐘のように高鳴り、彼は思わず少女から顔をそむけた。
 荒くなった息を、必死に抑えようとする。
 そんな馬鹿な。
 ティラ。
 どうして、君がそこにいる?
「晶」
 呼び声に顔を上げれば、そこには祭壇の前に立つ金色の髪の少女の微笑があった。
 五年前と何ら変わらぬ少女の。
「晶・多賀。あなたにティラ・バンガートの名において騎士の称号を授けます」
 頭のどこかが痺れていた。
 歌うような少女の言葉に、晶は演劇の俳優のようにひざまずき、頭を垂れた。
「はい。謹んでお受けいたします」
 すらすらと、意識せずに次の台詞が口から流れてくる。
 心のどこかで不可解な出来事を疑問に思いながら、身体と口は役者のごとく晶の意志に逆らい舞台を演じていた。
 やがて、晶の肩に装飾用の剣が軽くあてがわれる。
「では、これより貴方は私に仕える騎士となり、生涯私を護ってくださると誓いますか?」
「はい、誓います」
「それでは、誓いの口付けを」
 少女が、なめらかな一動作でもって晶の眼前に小さな手を差し伸べる。
 晶は迷うことなく、うやうやしく少女の細い指を手に取ると、その手にそっと口付けた。
 晶が手を離すと、少女は満面の笑みを浮かべて晶が口付けた手を大事そうに抱くようにした。
「これで、私……」
 頭を支配していた痺れが、消えた。
 目の前の少女との最後の思い出が鮮烈に蘇る。
 この言葉は……。
「待ってくれ、ティラ」
 俺が最後に聞いた、ティラの言葉じゃないか。
 不安な予感を覚え、晶は少女へとその手を伸ばす。
 掴んだその手は思ったよりもずっと小さく、冷たい。
 少女の微笑みはどこか悲しげで、深海よりも澄んだ青い瞳からは水晶の雫がこぼれ落ちて。
「ティラっ」 
 返事はなかった。 
 掴んだ手の感触がまるで砂が崩れるようになくなっていく。
水面に映る姿のようにゆらめきながら、少女の輪郭は薄れていく。  
 少女だけではない。木々も、大地も、祭壇も、なにもかもがゆらめいては消えていく。
 初めから存在さえしなかったかのように。
 霧のように、少女の姿もまた、消える。
「ティラっ」
 晶は絶叫した。
「ティラぁっ!」
 胸の中で嵐が吹き荒れていた。
 喉の奥から絶叫するが、少女の答えが返ってくることはない。
 絶望に打ちひしがれ、晶はそこに膝を突いた。
 どうして、彼女は俺の前から消えてしまう?
 なぜ、俺は彼女を捕まえることができない?
「晶」
 狭まっていく視界の隅に、何者かの影が踊る。
 ティラだろうか?
 最後の力でもって、首を振り向かせる。
 振り向いたとたん、冷たい塊が額に叩きつけられた。




 1

「ほ〜ら、晶。こんなところで寝ていないでよ」
 聞きなれた快活な声が耳を打つ。
 ひび割れた壁。遠くに見える灰色の校舎。両手に缶コーラを持ったポニーテールの少女。
 ここは。
 そう。俺の学校の、体育館裏だ。
「ぼ〜っとしてないで。早く起きないともう一発殴るわよ」
 笑いながら、少女は片手の缶コーラを晶へと放り投げる。
「遠慮させてくれ」
 痛む額に手を当てつつ、晶は缶コーラを受け取るとプルタブを開けてその甘い液体を飲み干す。
 炭酸が喉に染みていく感覚。
「まったく。文化祭の本番まで二日しかないっていうのに、どうして晶はこんな風にサボっていられるのよ?」
「そいつはお互い様だろ、美奈」
 腰を下ろし、缶の縁に唇を当てている少女に晶は悪戯っぽく笑う。
 美奈は頬を膨らませ、
「いいじゃない、疲れたんだから。ちょっと休憩させてよ」
「お前って意外にも世話好きだからな。どうせ張り切って他人の分まで仕事して疲れてるんだろ」
「当たり。どうしてわかったの?」
 驚きをあらわにする美奈に、晶は苦笑し、
「小学校の頃からの腐れ縁だからな。まさか、中学、高校と同じだとは思わなかったが」
「こんな可愛い女の子とずっと学校が一緒で、嬉しい?」
 顔を近づける美奈に、晶は溜め息をつき、
「どちら様のことをおっしゃっているのですか?」
「……本当にもう一度殴られたい?」    
「その缶でか?中身がかかったらクリーニング代は支払ってもらうぞ」
「……可愛くないなあ」
 缶を振り上げる美奈に手を振り、晶は片膝を抱くようにした。
 心地よく涼しい秋風が二人の髪を揺らす。
「それにしても、晶も少しは準備を手伝ったらどうなの?こっちは人手が足りないんだから」
「遠慮しとくよ。そういうのは柄に合わなくてね」
「だからって……私達、来年は受験だから文化祭の準備ができるのはこれが最後なんだよ。最後くらい真面目にやろうって思わないの?」
「ああ、全然」
 呆れる美奈を横目に、晶は缶を地面へ置き、 
「そもそも、うちのクラスの文化祭の出し物すら俺は覚えていないからな」
「晶……自分のクラスの出し物くらい覚えときなさいよ」
「俺は自由を好む射手座なんでね。そういう細かいことは覚えないのさ」
「……何か違う気がするけど、もういいよ。それより、うちのクラスの出し物はガーデンパーティーだからね。覚えといてよ」
「……ガーデンパーティー?」
 まぶたの裏に懐かしい思い出が映っていた。
 花咲き賑わう庭。純白のテーブルクロス。手渡されるカップ。
「そう。野外でのお茶会。ケーキとかパイも作るんだって」
 陶器のポットから注がれる紅茶。作法にのっとり、一息に飲み干す。
「でね、私もウエイトレスに選ばれたんだ。だから、晶が来てくれたら、特別に私がおいしいお茶をご馳走してあげるよ。楽しみにしててね」
 足音が近づき、目の前で止まる。まばゆいほどに白いワンピース。光沢を放つ金色の髪。雲一つない空よりもまだ澄んだ青い瞳。注がれた紅茶はミントの香りがして……。 
「晶?」
 身体を揺さぶられ、晶は我に返った。
 美奈の心配そうな顔が目に飛び込んでくる。
「晶、大丈夫?」
「ああ、なんでもないさ」
 つぶやくように答え、晶は立ち上がった。
 いつのまにか、傾いた日が校舎を赤く染めている。
「なあ、美奈」
「どうしたの?」
「そういえばさ、昔はよくみんなで集まってお茶会をやったよな」
「……うん」
「作法とかは何も知らなかったけど、面白かったよな。広い庭で、みんなで作ったケーキとかアップルパイとかを食べて、おしゃべりして……」
 夢見るように話す晶を見つめ、美奈はかすかに表情を曇らせた。
 立ち上がり、晶から視線をそらして美奈は言った。
「……まだ、ティラちゃんのことが忘れられないの?」
 鋭い針が晶の胸を貫いた。
「……美奈?」
「もう五年にもなるのに。手紙すら送られてこないのに。まだ忘れられないの?」
 振り向いた美奈の視線に、晶は目をそむけた。
 胸の奥に、鮮明に刻まれている思い出の欠片。
 あの思い出の森の中で。
 金色の髪の少女と二人。
 歌うように。
 踊るように。
 まるで何かに導かれるように。
 軽やかに一つの舞台を演じる。
 やがて、舞台はフィナーレを迎えて。
 少年は少女へ誓いの口付けを交わす。
 そして、花のような微笑を浮かべて、少女は囁く……。
「……忘れられるかよ」
 晶は空を仰いだ。
 その視線の先には、いつの間にか一つ星が輝いている。 
「忘れられるものか……」
 消え入るようなその声は、側に立っていた美奈の他に聞く者もなく、ただ紺色へと染まりかけた空へ溶け入っていく。 




 2

 晶の机の上には、ここ数年間必ずそこに置いてある箱がある。
 女神とそれを守護する天使達の彫刻の施された、木製のオルゴール。
 しかし、そのオルゴールの音色を晶は知らない。
 なぜなら、オルゴールの鍵は初めから晶の手元にはないのだから。
 それは、オルゴールを晶に贈った、今は海を越えた遥か遠い土地に行ってしまったあの人が持っている。
 思い出の、金色の髪の少女が……。
「まだ、ティラちゃんのことが忘れられないの、か」
 オルゴールを手に取り、晶は先刻美奈と交わしたその言葉を思い返していた。
 ぞくりとくるような、きつい言葉。
 自分でも馬鹿だとは思う。
 五年という時が流れているのに、まだ忘れられないなんて。
 連絡すら途絶えているのに。いつか会えるかどうかすらもわからないのに。
 それでも、俺は……。
 胸を駆け巡る想いに耐えられなくなり、晶は乱暴にその身をベッドに投げ出した。
 体中を包むような柔らかい感触が心地よい。
 寝転がりながら、晶は手の中のオルゴールを見つめた。
 晶の十二歳の誕生日に少女が贈った、その音を奏でることのできないオルゴール。
 やっぱり、忘れられないよな。
 どこはかとなくティラに似ているオルゴールの中の女神を見つめながら、晶はつぶやいた。
 二人が出会ったのは思い出の森の中だった。
 思い出の森のずっと奥。
 柔らかな木漏れ日の中で。
 倒木に腰掛け、少女は歌を歌っていた。
 それは晶にはうまく聞き取ることのできない異国の歌。
 せせらぎのように微かな歌声は、風に乗って晶の耳に届いた。
 穢れ一つない泉のように澄んだ声音。
 その歌に心奪われ、歌が終わると晶は拍手をしながら少女に握手を求めた。
 突然現れたたった一人の観客に少し驚きつつ、少女は笑って晶の手を握り返した。
 握り合ったまだお互いに小さな手。
 それが全ての始まりだった。
 それからは、放課後になると晶は必ず少女の元を訪れた。
 住宅地から離れた、白いフェンスに囲まれた西洋風の住居。
 それが少女の家だった。
 ある時は慣れない手つきで紅茶を飲み交わし。
 よく晴れた日には、仲間を誘って森の中を駆け回り。
 雨の日には、少女の父親の書斎で英語で書かれた本の挿絵を飽きることなく眺めつづけた。
 隣にはいつも金色の髪の少女がいて。
 穏やかに時は流れていく。
 あの頃は、ずっとこういう日々が続くと疑わなかった。
 そう、あの日までは。
 夏休み。クラブの合宿の数日間。
 帰ってくれば、少女の姿はもうそこにはなかった。
 聞けば、両親の都合で突然帰国してしまったという。
 何も知らなかった。
 あまりにも突然だった。
 別れの言葉すら、なかった。
 連絡を取ろうとも、越して行った先の住所すらわからない。
 何の策の講じようもなかった。
 ただ、少女の飛び去って行ったはずの空を見つめていることしかできなかった。
 あれから、美奈の言ったようにもう五年も過ぎている。
 ティラからは何の音沙汰もない。
 彼女の家も、ここ数年の間に取り壊されてしまった。
 住所がわからない以上、こちらからはどうすることもできない。
 どうして、あの人がこんなにも気になるのだろう?
 オルゴールの中の天使を指で弾き、晶は思考を巡らした。
 俺は、ティラが好きだったのだろうか?
 自問するが、彼自身にもよくわからなかった。
 その当時は恋愛も何もなく、ただ遊びたいから遊んでいたように思える。
 では、この気持ちは何なのだろう?
 胸にわだかまるこの感情は、今に始まったことではなかった。
 少女が少年の元をさよならもなしに去ってしまってからずっと、この感情は常に晶の胸の奥に潜み、少女のことを思い出させてやまない。
 やるせない思いが胸を締めつける。
 涙が流れそうになるのを、瞳を閉じることによってこらえる。
 いったい、どうすればこのせつない感情から解放される?
 いつになったら、あの少女のことを忘れることができる?
 いったい、いつ?
 不意に鞄に入れっぱなしだった携帯のベルが鳴った。
 億劫だったが無視するわけにもいかず、仕方なく携帯を手に取る。
「……もしもし」
『やっほ、美奈だよ。元気してる?』
「なんだ、お前か」
 残念そうな声音を使いつつも、晶はどこかほっとするものを感じていた。
『お前かって……もう、ひどいなあ。でも、何か晶の声変だよ』
「えっ?」
『うん。泣いてるみたいだよ』
「……まさか。聞き間違いだろう」
 まったく、こういう時だけ勘のいい奴だな。
 答えつつ、どこからか見られているような錯覚に捕らわれ、晶は少し涙ぐんだ目を腕で乱暴にこすった。
「で、どうかしたのか?」
『うん。実はさ、明日のことなんだけど……』
「手伝いなら断っておくぞ」
『つ、冷たいなあ。少しくらいはいいじゃない』
「お礼をしてくれるなら考えてもいいが」 
『じゃあ、私のキスっていうのは?』
「却下」
『なによぉ、照れてるの?素直じゃないなあ』
「素直もなにも本心だからな。それに、お前のキスじゃ役不足だ」 
『……晶、乙女を馬鹿にした罪は重いよ』
「乙女?お前のどのあたりが乙女なのか説明してもらいたいな」
『晶!』
「おいおい、そう怒るなよ。それより、用件を聞こうか」
『……ええ、そうだったわね』
 受話器の向こうで美奈は息を整え、
『あのさ、文化祭のことなんだけど、お茶を買いに行った人がなんか間違えたらしくて、緑茶を買ってきちゃってさあ』
「おいおい。和風のお茶会にする気か?」
『まさか。全然イメージに合わないよ』
「まったくだ」
 白いテーブルクロスに置かれる湯のみ。
 想像し、二人は同時に笑い出した。
『でね。私がもう一度新しいお茶を買いに行くことになったんだけど、晶も一緒に付いてきてくれないかなあ』
「はあ、何で俺が?」
 間の抜けた声をあげる晶に、美奈は笑ったようだった。
『別にいいじゃない。他の人はみんな仕事があるし、どうせ晶は体育館の裏で寝るだけでしょう?」
「まったく、その通りだが」
『なら決定ね。じゃあ、相模原の駅に九時に集合」
「ちょっと待て。誰も行くとは言っていないぞ」
『行かないとも言っていないでしょ?それじゃね』 
「おい、ちょっと待て!」
 時すでに遅く、回線は切られていた。
 掛けなおす気にもなれず、晶は溜め息をついて携帯を再び鞄へ放り投げた。
 一応、晶は美奈とは長い付き合いであった。
 こういう強引なところは、十分に理解している。 
 なんにせよ、学校へ行くよりは有意義だろう。
 そう思うことにし、晶はオルゴールを机の上へと戻した。




 3

 美奈にしてはずいぶん遅いな。
 つぶやき、制服姿の晶は片手の文庫本を閉じた。
 駅の改札口の真横に位置する小さなカフェ。
 その木製のテーブルに腰掛け、晶は人込みの中に視線を落とした。
 しかし、いくら探しても美奈の姿を見つけることはできない。
 時間には厳しい奴だと思っていたんだが……。
 いくらか不安を覚えながら、晶は先ほど注文したコーヒーをすすった。
 時計を見ると、すでに約束の時刻から十五分が過ぎている。
 携帯の電源を切っているらしく、こちらの呼び出しにまったく答える色がない。
 そういえば、待ち合わせに待たされるなんて、ティラ以来だな。
 人波に目をやりながら、晶は小さく笑った。
 しっかりと芯の通った性格でありながら、どこかあの少女には抜けているところがあった。
 特に朝に弱いらしく、早朝に待ち合わせをすればいつも三十分は遅れて来た。
 慌てて走って来るその姿が妙に可愛いかったのを晶は覚えている。
 人の波を掻き分けるように。
 金色の髪を振り乱し。
 肩で息をしながら、待ちくたびれた少年へと声も出せずにただ頭を下げる。
 結局、少年は笑いながら手を振り、疲れた少女を椅子に腰掛けさせて休ませてやる。
 数年前は、休日にはほとんど毎日見ることのできた光景。
 しかし、昔と同じようにこうしていても、待っている人はまったくの別人でしかない。
 きっと、ティラも外国へ戻ってからはこうやって恋人と待ち合わせたりしているんだろう。
 テーブルに肘をつき、晶は瞳を閉じた。
 もう五年という月日が過ぎているのだ。
 容姿麗しき彼女のこと、恋人の一人や二人はいてもおかしくはない。
 きっと、彼女の好きな紅茶でも飲みながら、お喋りに花を咲かせているのだろう。
 楽しそうに微笑みながら……。
 微笑みながら……。
「ごめん、待たせちゃった?」
 肩を揺さぶられ、晶は目を開けた。
 自分と同じ学校の制服に、黒髪のポニーテール。
「美奈、遅かったじゃないか」
「あはは。私って朝には弱くてさあ」
「待たせた分のコーヒー代、頼んだぞ」
 美奈の返事を待たず、晶は伝票の紙を美奈の前に差し出す。
「ううっ、少しは息を切らせてまで急いで来た私をいたわってくれてもいいんじゃないかな?」
「浪費させられた俺の貴重な時間はどうしてくれる?」
「まったく、可愛くないんだから」
 頬を膨らませ、仕方なしに伝票を受け取ると、美奈は晶の向かいの椅子に腰掛けた。
「ところで、買い物は急がなくちゃいけないのか?」
 晶の問いに美奈はちょっと考え込み、
「急がなくても大丈夫。学校へは校門が閉じる前に帰ればいいんだから全然余裕。少なくとも、ここでゆっくり朝御飯を食べる時間くらいならあるよ」
「それって婉曲にここで朝食を取りたいって言ってないか?」
「やっぱり、わかる?慌ててたから朝御飯抜いちゃったし、急いで来たからお腹すいちゃったんだ」
「仕方がない奴」
 両手で腹を押さえてみせる美奈に、晶はメニューを手渡した。 
 手早く注文し、しばらくするとテーブルの上に料理が運ばれて来る。
 皿に押しこまれるようにして盛られた、サンドウィッチ。
「わあ、これ結構おいしいよ。晶はどう?」
「いや、腹いっぱいだからやめとく」  
「素直じゃないんだから。あとで後悔しても知らないよ」
「勝手に言ってろ」
 たわいのない会話を弾ませながら、晶の心の片隅で疼くものがあった。
 もし、目の前のこの娘がティラであったなら。
 もしも、彼女が今でも俺の側にいてくれたら。
 ふと差し込んだ日差しが美奈の髪を照らす。 
 目の錯覚だろうか。明るい日差しの中で、少女の黒い髪は金色に輝いているように見えた。
 風に踊る金色の髪。
 喉を詰まらせたのか、美奈は慌てて自分の紅茶に口をつけた。
 その何気ない仕草の中に、晶は思い出の少女の面影を見た。
 胸に走る痛み。
 あの時も、彼女はパンを喉に詰まらせて……。
「どうかしたの、晶?」
 美奈の声に、晶は遠い記憶の縁から呼び戻された。
「いや、どうもしないよ」
「まあ、こんな美人の顔を見つめたい気持ちはわからなくもないけどね」
「さあな」 
 曖昧に返事をし、気持ちを落ち着かせるべく、晶は冷めたコーヒーを飲み干した。
 砂糖がよく溶けていなかったのか、最後の一口は妙に甘い。
 いったい、俺はどうしたのだろう?
 胸に手を当て、晶は深く息をついた。
 胸の鼓動が服を伝わって手の平に感じられる。
 俺もどうかしている。
 一瞬とはいえ、美奈にティラの影を見るなんて。
「ねえ、何か心配事でもあるの?」
 食事の手を休め、心配そうに美奈は晶の方へと身を乗り出す。
 黄金の髪が一房、少年の頬をくすぐった。
 その感触に、晶の心臓が激しく高鳴る。      
「いや、本当に何でもない」
 紅潮した顔を見られまいと、晶は慌てて肘をついた手で顔を隠すようにした。
 収まらない胸の鼓動。 
 俺はどうしたのだろう?
 目の前の彼女はティラじゃない。
 ティラじゃないんだ。
 それなのに……。
 指の隙間から、そっと美奈の髪を見つめる。
 いつのまにか差し込んでいた日差しはなくなり、その髪も元の黒へと戻っている。
 そう。彼女はティラじゃない。
 ようやく落ちつくと、晶は顔を隠していた手を下ろし、いぶかしげな表情の美奈と向かい合った。
 正面から美奈を見つめても、あの胸の高鳴りを感じることはない。
 あれは、偶然が生んだ幻だ。
 美奈と軽く言葉を交わしながら、心の中で晶は断定した。
 日差しの傾き加減が生んだ、俺の幻想に過ぎない。
 だが。
 あの胸の高鳴りは?
 抑えられない、せつないほどの胸の高鳴りは……?




 4

 そこは賑やかな駅前からかなり離れた閑静な林に半ば埋もれるようにして建つ、落ちついた雰囲気の店だった。
 美奈の話では、この店は紅茶の専門店として若者に人気があるらしい。
 喫茶店も兼ねて営業しているらしく、店の庭には白いテーブルが並べられている。
 外見は赤レンガで造られているが、内部は白と黒を基調とし、ありとあらゆる種類の茶葉が缶に納められて並べられている。
 わずかに鼻につく、どこか甘い香り。
 店内のあちらこちらに、茶葉を買い求めにきた主婦の姿が見える。
 レジには若い女性が立っており、その奥の厨房らしきところには彼女の母親らしい人が何かを調理しているのがちらりと見えた。
 夕方には喫茶店に高校生が集まるらしいが、今はテーブルにつく客の姿はない。
「へえ、意外とまともだな」
「どういうこと?」
「いや、紅茶の専門店っていうから何となく少女趣味な店を想像していたんだ」
「何それ?でも、わからなくはないけどね」
 けらけらと笑う美奈を見つめながら、晶は安堵の息を漏らした。
 こうして美奈を見つめていても、もう特に感じるものはない。
 それでも、先程の喫茶店でのことが尾を引いているのか、どこか自分の彼女に対する態度がよそよそしいものになっていることに晶は気づいていた。
 しかし、美奈は彼のそういう微妙な変化に気づいてはいないらしい。
 珍しそうに店の中を一通り見回すと、彼女は鞄の中から一枚の紙を取り出した。
 どうやら、文化祭で使用する商品のリストらしい。
「それで、何をどれくらい買えばいいんだ?」
「ええっと……とりあえず適当に選べばいいみたい」
「おいおい、ずいぶんいい加減な御注文だな」
「だって、ここにはお茶を予定人数分、としか書いていないよ」
「……お前の前に買出しに行った奴が間違えるわけだ」
 たった一行しか書かれていないメモ用紙を見て、晶は溜め息をついた。
 予定人数分、という曖昧な部分が気になったが、自分にはどうでもいいことと決め込んで無視する。
「まあ、まともな紅茶ならどうでもいいってことだろう。依頼通り、適当に気に入ったものを選べばいいさ」
「それもそうだね」 
 小さい店とはいえ、さすが専門店らしく茶葉の種類は想像より遥かに多い。
 とりあえず一通りは見てみようと、二手に分かれることにした。
 陳列棚には所狭しと茶葉を収めた缶が並べられ、缶の最前列にはプラスチックケースに収められた茶葉が置かれ、そこには茶葉についての説明が短く綴られている。
 そして、どの茶葉にも概して大仰な名前が付けられていた。
 聖夜の歌姫。異国の太陽。華麗なる宴……。
 そのセンスの微妙さに感心していると、片手に缶を持った美奈に肩を叩かれた。
「ねえねえ、晶。この茶葉、灼熱の恋っていうんだって」
「またずいぶんと派手な名前だな」
「いいでしょ。晶、これにしない?」
「お前、名前だけで選んでないか?」
「別に気に入ったんだからいいじゃない」
 こういった大層な名前は、こういう客が狙いなんだろうな。
 この店の経営方針に、晶は変に納得した。
「そう言うなら構わないけどな。一応、全部見て回ってから決めようぜ」
「へえ、結構真面目じゃない」
 からかうような美奈の口調に、晶は茶葉の缶を片手に苦笑した。
「紅茶には目がないのさ」
 実際、晶は紅茶はある程度詳しかった。
 小さい頃からティラと様々な種類の紅茶を飲んでいたおかげで、茶会においての正式な作法すら習得している。
 とはいえ、彼はもっぱら客であったために、自ら茶葉を買い求めるようなことはこれが初めてであった。
 慣れない手つきで、近くの缶を手に取る。
 香りを頼りに、一つずつ丁寧に選んでいく。
 しかし、これといって気に入ったものは見つからない。
 かなりの時間をかけてしまったが、まだ茶葉は半分以上の種類を残している。
「ねえ、晶。もう終わった?」
 やや苛立った声が耳元で聞こえた。
 美奈はとっくに自分の分を選んでしまったらく、籠の中に両手いっぱい分の缶を詰め込んでいる。
「もう少し待ってくれないか」
 晶は振り返らずに言うと、ちょうど手に持っていた缶を元の場所に戻した。
 どうやら、ずいぶん時間をかけてしまったらしい。
 あと何個か見たら、適当に選ぶことにしよう。
 そう思い、晶はある缶に手を伸ばす。
 伸ばしたその腕が凍りついた。
 この香り。
 この香りは。
「晶、それにするの?」
「……ああ」
「どうかしたの?」
「美奈はこの香りを覚えていないのか?」
「えっ?」
 不思議そうな美奈の表情に驚きが広がっていく。
「これって、ティラちゃんの?」
「ああ。そうみたいだ」
 爽やかなミントの香り。
 ティラが紅茶を煎れてくれた時は、必ずカップに満たされていた香りだ。
 ずっと忘れていた。
 もう一度この香りに出会えるとは、夢にも思わなかった。
 ふと、缶に記された茶葉の名前が目に入ってくる。
 森の妖精。
 まさにその名の通りだな。
 目を細め、晶は独りごちた。
 思い出の中の少女は、どこか妖精のようだった。
 とらえどころがなく、どこかその存在はあやふやで。
 はかなげで、今にも消えてしまいそうな気がしてならない。
 それでいて、その眼差しに捕らわれればもう逃れることなどできはしない。
 夢の中にさえ、その姿を現し。
 胸を締め付け、心騒がせてやまない。
 こうして遥かな距離を隔てていても。
 五年という決して短くはない時間が過ぎ去っていたとしても。
 その存在は変わることなく自身の内に存在し、色褪せることはない。
 そう。決して、色褪せることはない。
「それで……晶はそれにするの?」
 思い出の余韻が残っているせいか、美奈の声が遠く聞こえる。
 心なしか、目の前の美奈の姿がかすんで見えた。
「ああ。でも、まだ一個しか選んでいないんだ」
「大丈夫だよ。あんまり遅いから、私が晶の分も選んでおいたよ」
 そう言って、缶が八分目まで入れられた籠を持ち上げてみせる。
「本当か。悪かったな」
「ううん。気にしなくてもいいよ。じゃあ、買ってくるね」
 その声がどこか精彩を欠いているように聞こえたのは気のせいだったのだろうか。 
 レジへと向かう美奈の背中を見つめながら、晶は何かその後ろ姿に違和感を感じていた。
 見慣れているはずのその背中は、なぜかいつもよりも小さく感じられる。
 だが、それよりも晶の意識は陳列棚の上の缶に向けられていた。
 森の妖精。
 ティラの煎れてくれた紅茶と同じ香りの茶葉。
 今すぐにでも、これを味わいたい。
 遠い思い出の中に埋もれたあの香りを楽しみたい。  
 窓の外を眺めると、そこには芝生に覆われた庭があり、いくつかの白いテーブルが並べられている。
 そういえば、ここは喫茶店も兼ねているという。
 電車の中での美奈の話によれば、喫茶店のメニューにはこの店の全種類の紅茶が選べるらしい。
「おまたせ、晶」
 缶を詰めた袋を片手に、美奈が声をかけてくる。
 歩くたびに、袋の中の缶が硬く、それでいてどこか軽い音を立てる。
「一応、足りないと困りから予算ぎりぎりの範囲内で買えるだけ買ってみたんだけど、どうかな?」
「まあ、足りないよりは余った方がマシだろうな」
 言いながら、晶は美奈の持っていた袋を受け取ると、自分の鞄の中に押し込んだ。
「へえ、優しいじゃない」
「たまにはな。それより、頼みがあるんだけどさ」
「どうしたの?」
 美奈の視線に、ふと晶は朝食の時の胸の鼓動を思い出し、気恥ずかしさを覚えた。
 無意識のうちにそれを紛らわせようとしたのか、やや茶目っ気を含んだ口調で言った。
「ちょっとお茶につきあってくれないか?おごるからさ」
「……はぁ?」
 思わず目を丸くする美奈が、晶にはどことなく子供っぽく見えた。




 5

「ねえ、本当にいいの?」
「だから、いいって言ってるだろ」
「でもさあ……」
 晶と美奈は店の庭に並べられた白いテーブルに向かい合って座っていた。
 二人のほかに、席に着こうとする客はいない。
 店内にいた主婦達ももう帰ってしまったらしく、店内に人影は見当たらない。
「でも、晶が私におごってくれるなんて本当に珍しいよね」
 遠慮がちにメニューを広げながら、美奈は驚きを隠さない表情で晶を見つめた。
「まあ、誘ったのは俺だしな。しかし、そんなに俺のおごりは珍しいのか?」
 頬づえをついて質問する晶に、美奈は強くうなずき、
「だって、晶が私におごってくれたのって、小学校の頃にお祭りでお好み焼きを半分分けてくれたくらいだよ」
「そうだったっけか?」
「うん。朝だって、朝食をおごってくれるどころかコーヒーを支払いを私に押し付けた」
「あれは遅れたお前が悪いだろう」
「でも、いくらなんでも女の子に対する思いやりがないと思わない?」
「今の時代は男女平等だぞ」
「だからってさあ……」
「女って、口先では男女平等とか言うけど、自分が不利になると女性に対して優しくとか不平等極まりないことを主張するんだよな」
「……可愛くないなあ」
 言葉とは別に、美奈は明るく笑った。
 少女が首を動かすごとに、黒いポニーテールが揺れる。
 悪くないな。
 前髪をかきあげ、晶は胸の内でつぶやいた。
 別に深い意味があったわけではない。
 この穏やかな雰囲気の中で胸の中に浮かび上がってきた言葉、ただそれだけだった。
「お決まりになられましたか?」
 顔を上げると、先程まで店内のレジに立っていた女性がテーブルの横に立っていた。
「美奈、もう決まったか?」
「うん。私はイチゴショートに、紅茶は華麗なる宴をお願いします」
「かしこまりました。そちらのお客様はいかがなさいますか?」
「俺はシフォンケーキ、紅茶は……森の妖精を」
「かしこまりました。少々お待ちください」
 注文を取ると、女性はテーブルの上のメニューを取り、店のほうへと歩いていく。
 その後ろ姿が店内に消えると、美奈は目を伏せ、
「……やっぱり、晶は森の妖精を選んだんだ」
「……どういうことだよ?」
 その寂しそうな声音に、晶はわずかにうろたえた。
 顔を上げた目の前の少女の瞳は、遠くを見つめている。
 誰にも辿り着くことのできない、遠くを。
 決して戻ることのない、過去の思い出を。
 そのまま、美奈は何も答えようとはしない。
 晶もまた、語るべき言葉が浮かんでこなかった。
 降り立った沈黙。
 静かだった。
 風に揺れる梢の音が聞こえるほどに、静かだった。
 ……紅茶とケーキが、二人の前に運ばれてきた。
 二人の雰囲気を察したのか、女性は何も口に出さずにテーブルの上にケーキと紅茶を並べると、静かに店内へと戻っていく。
 爽やかなミントの香りが漂ってくる。
 遠い記憶の中に埋められた香り。
 思い出の少女の香り。
「……食べようか」
 いつの間にか、美奈の瞳に淡い光が戻っていた。 
 フォークとナイフでもって、どこか機械のような仕草で切り分けたケーキを口に運ぶ。
「これ、おいしいよ。晶も早く食べなよ」
「あ、ああ」
 その口調がやけに冷たいことに気づきながらも、晶の意識の大半はテーブルの上の紅茶に捕らわれていた。
 カップを手に取り、香りを楽しみながら、一口目を啜る。
 それは、思い出の中のものとはわずかに味わいが違っていた。
 やっぱり、違うんだよな。
 かすかに失望し、ケーキを口に運びながら晶は独りごちた。
 ふと、ティラの顔がまぶたの裏に浮かび上がってくる。
 こちらを見つめてくる、曇りのない青い瞳。
 それは、二度と戻ってくることはない。
 思い出の欠片を求めても、それはいつも不完全なものでしかない。 
 この紅茶のように。
 似ていたとしても、決してそれは完全ではあり得ない。
「どう、おいしかった?」
 遠くから、誰かの声が聞こえた。
 紅茶の湯気の先に、晶は金色の幻を見た。
 いつもこの香りの先にたたずんでいた少女を。
「ああ。まあまあだったよ、ティラ……」
 晶の頬が、鳴った。
 鋭い響きが、耳にこだまする。
 幻はすでに消え、現実が視界を支配していた。
 目の前の少女の髪は金色ではない。
 見慣れたはずの、黒いポニーテールだ。
 その少女の瞳がうるんでいるのが、はっきりとわかった。
「どうしてよ……」
 拳を握り締め、美奈は絞り出すような声で、
「どうして、こんなところでティラの名前なんか出すのよ!どうして、ティラの紅茶なんて注文するのよ!どうして、いつまでもティラを忘れられないのよ!」
 矢継ぎ早な言葉に、晶は何もいうことができなかった。
 ただ、美奈の瞳を見つめていることしかできなかった。
 そのうるんだ黒い瞳の中に、晶は見た。
 晶の隣にたたずむ、金色の髪の少女を。
「美奈……」
「どうして……晶はもういなくなっちゃったあの子のことばかりで、私に振り向いてさえくれなかったの!?」
 頬に手を当て、呆然とする晶の紅茶のカップを奪い取ると、美奈はそれを力任せに遠くのほうへ投げ捨てた。
 一拍して、氷を割ったような音が響く。
「どうしてよ……」
 美奈の頬を伝って、涙が雫となって零れ落ちる。
 零れ落ちる涙が晶の手の甲を濡らしていく。
「どうしてよ、晶!」
 美奈は叫び、地面に置いていた鞄を手にとると、そのまま振り返ることなく庭を走り抜けていった。
 すぐに、少女の姿は見えなくなる。
 晶は追わなかった。
 いや、追えなかった。
 美奈の言葉は鋭利な刃となって、晶の胸を深くえぐっていた。
 全身の力が、えぐられた胸から血のように流れていくようだった。
「どうしてよ、か……」
 崩れるように晶は椅子に腰掛けた。
 仰いだ空に、ティラの姿が映っているような気がした。
 その表情は、あまりに悲しげで……。
「どうして、そんな顔をするんだ?」
 口に出してみても、何も変わらない。
 そう、何も変わらない。
 曇りない空の瞳をした少女は、悲しげな面持ちのまま、晶をいつまでも見つめていた。




















 あとがき
 
 はじめまして、新入りの砂時です。拙い文章で申し訳ありませんが、最後まで読んでいただけると幸いです。皆さんのご感想をお待ちしています。