求め合うには遠すぎて(中編)
作:砂時







 晶は砂漠にいた。見渡す限りに広がる砂の海、灼熱の日差しが降りそそぐ熱砂の迷宮だ。ゆらゆらと揺れる景色の中に道標などなく、ただ後ろに自分が刻み付けた足跡が残っているだけで、それもまた風に運ばれた砂によって掻き消される。煮えたぎる大気は嘘のように熱く、吸い込むごとに肺が焼かれるようだ。体中から搾り出される汗は一瞬のうちに白い結晶へと変化し、水分と同時に体力までも彼の身体から奪っていく。
 強烈な目眩に襲われ、晶は砂の上へ膝を折った。立ち上がろうにも、苛烈な太陽にいたぶり尽くされた身体は彼の命令に従う力さえ残ってはいない。
 なぜ、俺はこの炎熱地獄をさまよっているのだろう?
 こんな場所で、俺は何を求めている?
 そして、俺は誰を探している?
 朦朧とした意識でそこまで自問して、晶は呆然とした。
 誰を探しているかなど考えるまでもないはずだ。なぜなら、俺はあの日からずっと探し続けていたのだから。金色の思い出の欠片を、遠い幼い日から続いている淡い想いを。
 それなのに、どうして俺は迷っている?
 俺は何を迷っているんだ?
「……晶」
 彼を呼ぶ声に振り向けば、そこには揺らめく陽炎を従えた金色の髪の少女が立っていた。この生きるもの全てを拒むような大気の中で少女は汗の一つさえかかず、砂漠の熱射の下でさえその髪は奇跡のような黄金の光沢を放っている。 
 だが、少女の表情は思い出の中のように微笑んでなどいなかった。その表情はむしろ悲しげで、蒼天の色の瞳はどこか虚ろに晶の姿を映し出している。
「……どうして、そんな顔をするんだ?」
 晶の問いに少女は答えず、表情すら変えなかった。ただ晶に背を向けると、まるで砂の上を滑るようにゆるやかな速度でもって晶から離れていく。
「ティラ」
 砂に足を取られながら、その小さい背中を目指して全力で晶は走る。
「ティラっ」
 そうだった。
 あの時も、俺はひたすらに彼女の姿を追い求めた。
 黄金の彩りの失われた街の中を。
 きっと、彼女はどこかにいるはずだと信じて。
 ティラ……。 
「晶、もう終わりにしようよ」
 突然後ろから抱きすくめられ、晶は草の上に転がった。そのどこか湿った感触に驚いて周囲を見回せば、そこはすでに砂漠などではなく地平線まで続く大草原の中だ。そこには金色の髪の少女の姿はどこにもなく、その代わりに彼の背に抱きついているのは見慣れた制服を着た幼なじみの少女だった。
「よせ。離すんだ、美奈っ」
「ううん。離さないよ」
 晶は無理やり美奈の手を振りほどこうとしたが、彼女の力は意外にも強く、彼の全力をもってしてもその束縛から逃れることはできない。
「やめろっ。俺はティラを追いかけなくちゃならないんだっ」
「じゃあ、私がこの手を離したら晶はティラちゃんに追いつくことができるの?」
 その言葉は、氷の槍となって晶を貫いた。
 そう。夢の中でさえ、俺は彼女に追いつくことはできなかった。
 ましてや、現実ではその姿を一目見ることさえ叶わない。
「それに、晶も気づいているんでしょう?」
 美奈は力の抜けた晶の背中にしなだりかかるようにして、彼の耳元に囁いた。
「晶の見ているティラちゃんは、子供の姿でしかないのよ。ティラちゃんだって私達と同い歳なのだから、当然私達と同じくらいに成長しているはずじゃない?」
「……何が言いたいんだ?」
 力のない、つぶやくような晶の問いに、美奈はわずかに間を置いてから答えた。
「晶の追っているあの子の姿は幻よ。晶の思い出から生まれた、ね。だから、あの子は子供の姿のままだし、晶がいくら追いかけたところで追いつけるわけがないのよ」
「……わかっていたさ」
 本当はわかっていた。
 心のどこかでは、常にそれを認めていた。
 自分の見ている彼女の姿は所詮は幻でしかなく、決してこの手に掴めるものではないということを。
 だけど、たとえ幻だとしても、俺はティラの姿を見ていたかった。
 夢の中だとしても、幻でしかなかったとしても、俺は……。
「ねえ、晶。幻を追い求めることなんて、もうやめようよ」
 背中から手を伸ばし、晶の指をそっと握り、美奈は口を開いた。
「あのティラちゃんは晶の生んだ幻よ。だけど、私はここにいる。幻なんかじゃない」
「ああ」
 絡めた指から伝わる温もりに、晶はうなずいた。
「だったら、ティラちゃんの幻をいつまでも追いかけていないで。お願いだから、もっと私を見て。私の気持ちに答えて」   
 そっと後ろを振り向けば、そこには美奈の顔が意外にもすぐ近くにあった。わずかに顔を近づければ唇が触れ合うような距離。ほのかな香りを発する黒い髪が首筋をくすぐる。戸惑いをみせる晶と目が合うと、彼女はそっと瞳を閉じた。頬をうっすらと染めた美奈の表情に、晶はどうしようもなくこの少女を抱きしめたいという衝動に駆られた。
 だが、お前は本当にそれでいいのか?
 頭の片隅に残った冷静さが、伸ばそうとした腕をかろうじて抑えた。
 本当に、お前はそれでいいのか?
「晶?」
 目を開いて訝しげにこちらを見つめる美奈を晶はじっと見つめた。
 俺は、美奈のことを本当に好きなのだろうか?
 ティラよりも、俺は美奈のことが大切なのだろうか?
 本当に、俺は……。
「ごめん、美奈……やっぱり、ダメだ」
 美奈からそっと身体を離し、晶はゆっくりと横に首を振った。
「そんな……晶、どうして……」
 目に涙を浮かべ、すがるような眼差しで彼を見つめる美奈の視線を、激しい胸の痛みを感じながらも晶は振り切った。
「美奈。すまないけど、俺はこんなあやふやなままで終わらせたくないんだ。誰が大切なのか、誰が好きなのかさえわからないのに、こんな気持ちで決断するわけにはいかないんだ」
 晶の言葉に答えるように激しい砂塵が吹きすさび、たちまちのうちにそれは大草原を膨大な砂で覆い尽くした。視界すらあっという間に埋め尽くされ、美奈の姿もまた砂の中に溶けるように消える。
 本当に、俺はどうすればいいのだろう……。
 降りつける砂の雨を浴びながら、晶はただ美奈の消えた空間を見つめていた。
 だが、そこには砂以外の何も存在せず。
 何の答えも得られないまま、晶の意識もまた砂色の海へと消えていった。


 6

 目覚めると、そこは見慣れた自分自身の部屋だった。窓から差し込む朝の薄い光に照らし出された部分だけが、薄暗い室内の中で彩りを誇っている。
 身体を起こそうとすると、頭がひどく痛んだ。何か大切なことがあったはずなのに、意識が濃い霧に覆わているようで、思い出そうとしたことはおろか自分が誰なのかさえはっきりしない。
 左手で額を押さえながらベッドから起き上がると、晶は窓からの光の中にもう片方の手を差し伸べてみた。艶やかな光の中で、その手は淡い光を放っているようにも見える。
そんなたわいのないことにほのかな面白さを感じているうちに、徐々に頭が冴え、頭の痛みは引いていった。起きてからずっと彼の内にぼやけて存在していたものがだんだんとその輪郭をくっきりと備えていき、やがて一人の少女の姿となる。
 それは、美奈だった。
 彼女と最後に会ったことがずいぶん遠いものに感じられた。何十年も会っていないような感覚に襲われ、言い尽くせない懐かしさがこみ上げてくる。
 なぜだろう。こんなに美奈が遠いものに感じられるなんて。
 やるせない気持ちに、ぎゅっと胸が締めつけられる。
 思い返してみれば、美奈はいつも彼の近くにいた。いつからかなど、思い出すこともできない。とにかくずっと昔、子供の頃からだ。どんな時でも振り向けばいつもそこにいる。晶にとって、美奈はそれほどまでに彼に近い存在だった。
 でも、だからこそ気がつかないこともあったんだろうな。
 差し込む光から手を抜き、晶は額を押さえて嘆息した。
 喫茶店で美奈からの告白を受けるまで、晶は美奈の気持ちにまったく気づくことはなかった。だからこそ、美奈が傷つくようなティラの思い出話でさえ平然と話していたのである。今更ながら自分の無神経さに気づき、晶は唇を噛み締めた。
 もう一度、美奈に会わなければならない。
 会って、彼女に謝らなければならない。
 そうしなければきっと後悔するであろうことは晶にもわかっていた。だが、彼にはまだ美奈に会うことにためらいがあった。
 美奈に会えば、彼女の告げた想いについて返事をしなければないだろう。こればかりはあいまいにすることなどできない。しかし、その晶の気持ち自体があいまいなままではどうしようもなかった。
 晶は机の上に視線を向けた。その瞳に映るものは、天使に護られた女神の彫られた木製のオルゴール。金色の髪の少女が彼に託した唯一の形ある思い出の結晶だ。だが、その音色を晶は一度も聴いたことがない。女神の調べを聴くにはこの世界に一つしかない鍵が必要であり、その鍵を持っているのは今は遠く離れてしまった思い出の少女、ティラだけだ。
ティラ……。
 晶がまだずっと小さかった頃から憧れていた、黄金の燐光を放っているかのような金色の髪を持った少女。だが、今では遠く離れたまま。会うことも、話すことさえもない。そんな状態がもう五年も続いている。それでも、少女との思い出は色褪せることなく、晶の記憶に刻まれている。
 だが、かつては心の拠り所でさえあった彼女の存在が、今の晶を苦しめていた。
 忘れられたらどんなに楽であろう。しかし、忘れてしまうにはティラの存在は晶にとってあまりに大きすぎた。あまりに大切な思い出だった。
 ほんの数日前なら、二人のうちどちらが大切かと問われれば、晶は迷わずティラを選んだであろう。彼にとってティラは最も大切な人であったが、美奈はやはり友達の一人でしかなかった。
 しかし、今は違った。
 胸にもやもやとした雲がかかり、ティラの姿が見えない。その代わりに見えるものは美奈の笑顔。満面の笑みをたたえたその姿は、晶の胸を掻き乱し、迷わせる。
 晶も美奈に心惹かれている自分を認めてはいた。しかし、だからといってティラへの想いをすべて振り切ることなど彼にはできなかった。
 だが、結局はどちらかを選ばなくてはならない。二人を同時に選ぶことなど晶にはできはしなかった。それでは涙と共に想いを打ち明けてくれた美奈に失礼であろうし、ティラもまた、そんな不実な彼を喜びはしないだろう。なにより、晶にはそんな自分を許すことなどできなかった。
 晶は時計を見上げた。針は午前七時を示している。茶葉は昨日のうちに届けてしまったので、文化祭における彼の仕事はおそらくない。文化祭が終わるのは午後の五時ごろだから、心を整理する時間は十分にある。
 確かめなければ。
 自分の想いが、誰に向けられているのか。
 ティラへなのか。
 それとも、美奈へなのか。
 あの時のように後悔しないためにも。
 確かめるんだ。今。


 7

 かつて、そこには一人の少女が両親と共に暮らしていた。
 白を基調とした、二階建ての広い庭を持つ西洋風の住居。決して大きいわけではなかったが、色とりどりの花に囲まれたその家はまるで小さな宮殿のように見えたことを晶は覚えていた。そして、その屋敷に住む金色の髪の少女との思い出もまた、鮮明に記憶に刻まれている。
 雨の日に読んだ、英語で書かれた本の挿絵。
 広い庭の一角に咲き乱れる小さな花々。
 壁に飾られた、この家の主の故郷を描いたという風景画。
 そして、思い出の少女が煎れてくれた、いつも砂糖を多めに入れていたあのミントの香りの紅茶。
 だが、そこには彼の求めていたものは何もなかった。
 そこに建てられていたはずの屋敷はどこにもなかった。ただ、ひび割れた乾いた土の上に丈の短い草がまばらに生えているばかりだ。
 何も知らない人が見れば、そこに屋敷が立っていたことなど想像もできはしないだろう。
「まさか、取り壊されていたとはね……」
 かつての面影の欠片さえ残していない景色を前に、制服の上に薄手のコートを羽織った晶は溜息をついた。 
 ここに建っていた屋敷を最後に見てから、もう五年も経つ。
 屋敷の持ち主がいなくなってしまってからは晶はここを訪れなかった。あれから間もなくして引っ越してしまったこともあるし、持ち主のいない屋敷を訪れる理由もなかった。何より、思い出の多すぎる場所にいることは、去ってしまった少女に対して何もできなかった晶にとって、懐かしいというよりはただ辛いだけだった。
「何も残っていないのか……」
 少女との思い出の場所が消えてしまったことに晶は言いようもない寂しさを感じ、少女がまた自分から遠くなっていったような感覚を覚えた。
「本当に、何も残っていないんだな」
 かつて花々が咲き賑わっていた場所は掘り返された跡があった。敷地の中に存在するものは雑草と投げ捨てられた紙くずや缶だけ。かつての名残を留めるものは何一つとして残ってはいない。
 晶の求めているもの……それは少女と彼を繋ぐもの。それを探すために思い出を辿って少女の屋敷まで来たというのに、屋敷自体がなくなってしまってはどうしようもない。
 もう、忘れるべきなのだろうか。
 心の片隅で、そんな声が聞こえる。
 いなくなってしまったあの人を想い続けることに、どういう意味があるというのか。
 もはや会うことさえもできないのに、ずっと想い続けてもどうにもならないではないか。
 それならば、いっそのこと諦めてしまえば……。
 優しい声にどうしようもないくらいに強く惹かれながらも、晶は強く首を振った。 
 諦めるにはまだ早すぎる。
 それに、まだ思い出の場所はすべてなくなったわけじゃない。
 まだ、すべてがなくなってしまったわけじゃない。


 8

 遠くから見ただけではその森は昔と少しも変わっていないように見えた。引っ越す前は毎日のように遊んでいた森だ。紅葉に染まった色も、思い出の中と何ら変わっていないように晶には思えた。
 もっとも、それは森というよりもやや広めの林といった方が適切であったかもしれない。それでも、今よりもずっと小さかったかった晶にとっては広すぎるほどの森であり、心騒ぐ世界であり、そして初めて金色の髪の少女に出会った場所であった。
 あの少女の屋敷を除けば、ここは晶にとって最も思い出に溢れる場所であった。よく晴れた日にティラと彼が遊んだ場所はほとんどこの森の中であり、数え切れないほどの思い出が今でも胸の奥に残っている。
 だが、何かがおかしい。
 下草を踏み分け、森の奥へと進みながら、晶は妙な違和感を感じていた。
 森の中は外観と同じように五年前とほとんど変わっていなかった。とはいえ、五年という月日が流れている以上はまったく変わらないというわけにもいかない。それでも、それはよほど注意深く観察しなければ思い出の中の景色と変わったところを見つけることはできないくらいのものだ。
 木々の位置も、草の色も、そよ風に揺れる葉ずれの音さえも思い出の中と変わらない。
 それなのに、何かがおかしい。
「……どういうことだ?」
 その場に立ち止まり、晶は辺りを見回した。
 景色は思い出と何も変わらない。それは晶にもわかっているし、だからこそこうして何の迷いもなく何一つ人工物の見えないこの森の中を歩いて行くことができる。だが何かが違う。それは視覚的なものではなく、むしろ感覚的なものだ。
 晶はある木の幹に目を凝らした。そこにはいびつに小さな×印が彫られている。
かつて、晶達が迷わないようにと彫った目印だ。落ちていた尖った石で彫ったのでかなり形が悪い。 こういった目印はこの森のいたるところにある。石を積んだり、木の棒を地面に突き立てたりと、晶達は冒険気取りでこういった目印を残しては森の奥へ奥へと探検したものだ。
 そう。ここは間違いなく俺達の森だ。
 大切な思い出の残された、俺達の森。
 それなのに、何かが違う。
よく仲間と登ったひときわ高い木。
 遊び疲れては身体を横たえた柔らかな緑の絨毯。
 道しるべとして木に刻んだほんの小さな傷。
 過ぎ去っていく景色は思い出の中とまったく変わっていないのに。
 どうして、この森がまったく違うものに感じられるのだろう。
 どうして……。
やがて、木の密度が少しずつまばらになっていく。もう少し進めば思い出の場所、晶がティラと初めて出会った場所だ。だが、近づけば近づくほど胸の内の違和感は膨らんでいく。
 晶は見知らぬ森の中を歩いているような錯覚さえ覚えていた。だが、辺りの景色は間違いなく彼の知っているものであり、また確かに彼の目的の場所へと近づいているのだ。
 それなのに、何かが違う。
 それは漠然としたものから確信に変わっていた。しかし、その何かがどういったものなのか、それは晶にもよくわからない。
 だが、確かに何かが違う。
 確かに、何かが……。
 晶の髪を軽く何かがかすめた。
 驚いて顔を上げると、それは細い二本の木がお互いに枝を絡みつかせるようにして晶の頭がぎりぎり届くくらいのところを塞いでいた。枝にはまだ黄色に染まった葉が豊かに残っており、さながら自然の門のようだ。
 そして、門の先にはそこだけ木々の開けた場所があり、そこが晶の目的の場所であった。
 この場所を一番最初に見つけたのはティラだった。
 門のような形が気に入って、いつもこの場所で歌っていたこと。たった一人で重い石を運んで、自分だけの祭壇を築いたこと……。
 晶と少女が最初に出会ったとき、彼女はどこか誇らしげにこの場所について話してくれた。そして、この場所を二人だけの場所にしようと約束したのである。
 そのとき、二本の木の枝の織り成す門は晶がどんなに手を伸ばしてもその手は届かなかった。彼の背が伸びるにつれてなんとか手は届くようにはなったが、それでもまだ見上げるほどの高さがあった。
 しかし、今では手を伸ばすまでもなくただ立つだけで頭が門に届いている。背伸びすれば、おそらく太い枝に頭をぶつけるだろう。子供の頃は、飛び跳ねても頭が枝にかすることさえなかったのに。
「俺も昔に比べればずいぶん背が伸びたんだな」
 頭に触れる葉を避けようと、晶は頭を低くして門をくぐろうとする。
 そのとたん、烈しい違和感が晶を襲った。さっきから感じていたようなものの比ではない。身体が震えるほどに強烈な感覚だ。
 思わず一歩、晶は門から後じさる。
 違和感が限界まで膨れ上がり、音を立てて破裂する。そして、ようやく晶はいままで感じていた違和感の正体に感づいた。
 思い返せば、ここに辿りつくまでの時間はあまりにも短すぎ、そして道のりはあまりに簡単だった。 晶の子供の頃はここに辿りつくこと自体が一つの冒険であり、放課後からでは辿りついてから戻って来るまでに辺りはすっかり暮れてしまっていたほどだったというのに。
 変わってしまったように見えた森の景色。飛び跳ねてももうちょっとで届かなかったあの枝の門。しかし、森も枝の門も、たいして変わってしまったわけではない。変わってしまったのは……。
「変わっちまったのは、俺か……」
 どこか危なげな足取りで、少年は門をくぐる。
 ぽっかりと木々の生えそびれたその空間には森の中とは思えないほどに眩しい日差しが差し込んでいた。隅の方には彼がティラと初めて出会ったときに少女が腰掛けていた倒木が見える。やたら眩しく感じられる日差しも、この心地よい不思議な開放感も昔と何ら変わらない。
 ただ、その空間の中央に位置するそれだけは違った。かつて、金色の髪の少女が一人で石を積んで建てたという祭壇。だが、祭壇は礎の方から崩れ落ち、もはや原型を留めてすらいない。
 この世に変わらないものなんて、ないのかもしれない。
 いくつもの思い出が彼の胸をよぎっていた。初めて出会ったときのあの少女の表情。温かい指先。花のような笑顔。海よりも澄んだ青い瞳。二人だけの戴冠式。肩に触れる剣の感触。差し出された手を取り、少年は頬を染めながらその手に口付ける。少女は口付けられたその手を大事そうに抱くようにし、満面の笑みと共に少年に囁く……。
 でも、あの懐かしい思い出もまたいつか俺は忘れてしまうのかもしれない。
 崩れかけた祭壇を見下ろし、晶は一人ごちた。
 森も、屋敷も、自分自身でさえ形あるものは変わっていく。
 いや、形のないものでさえ変わっていくのだろう。
 あの金色の髪の少女への想いも。
 変わることはないと信じていたこの想いさえ、今は霞んでいる。
 変わらないものなど、この世にありはしないのだろう。
 変わらないと信じ続けていても、きっと無駄なことでしかなんだろう。
 変わらないと信じ続けていても、ただつらいだけでしかないのだろう。
 それなら……。
 寂しげな表情を浮かべながら、晶はコートのポケットからオルゴールを取り出した。
 女神と天使の刻まれた、ティラから贈られた思い出のオルゴール。
 それを、晶は崩れかけた祭壇の前にそっと捧げた。
 そのまま祭壇に背を向け、晶は足を踏み出す。枝の門をくぐり、暗い森の中に戻っても彼は振り返ろうとはしなかった。頬を伝う涙を拭おうとさえすることはなかった。
 一歩。
 また一歩。
 いつしか、晶の踏みしめるものは湿った土から乾いたアスファルトの地面へと変わる。














 
   〜あとがき〜
 
 最後まで読んでいただいてありがとうございます。
本来ならば前・後の二部構成だったのですが、思い入れのある物語なので三部構成になってしまいました。そのおかげで、前編の半分程度の量になってしまいました。
 皆様の感想を参考に色々と試行錯誤しているのですが、相変わらずの拙い文章でどうもすみません。
 皆様からの感想を参考として色々と自分の作風を改善していきたいと思っているので、どうぞ気になったことなどを指摘してください。
 もう一度、最後まで読んでいただいてありがとうございます。
 次で完結です。今度はなんとかもっと早く仕上げようと思います。
 もっとも、受験勉強が始まるのでうまくいかないでしょうが……。
 これからもよろしくお願いします。
                                    〜砂時〜