求め合うには遠すぎて(後編)
作:砂時





 9  

 放課後になると急いで家に帰り、ランドセルを部屋に放り投げるのももどかしくまた走って少女の家へ向かう。晶にとってそれは年中行事となっていた。
 少女は外国人学校に通っているので晶と学校で出会うことはない。だから、晶は学校が終わると全力でもって彼女の家へ向かう。たいていは友達も一緒に誘うのだが、今日は晶一人だ。人気の少ない住宅街を晶は軽く息を切らせ、夏の暑さに汗を流しながら走る。
 いつしか晶にとって少女と過ごす時間は何よりも大切なものになっていた。ただティラの側にいるだけで、その声を聞いているだけで、天空の青よりもまだ青い瞳に見つめられているだけで身体の奥が暖かいものに満たされていく。それが満たされているときだけ、晶は心がとろけそうになるほどの幸せを感じることができた。
 そして、それを満たしてくれるのは一人の少女だけ。
 海を渡った遥か遠い場所からやって来たという金色の髪の少女、ティラだけだ。
 晶がティラの家を訪れると、彼女はいつも白いテーブルの置かれた庭で彼の来訪を待っている。そして、肩で息をする晶にいつの間にか彼専用となったカップにお茶を注ぐと彼の前に差し出してくれる。
 家の立ち並んだ狭い道を抜け、右に折れる。目の前に見える二階建ての赤い屋根の家の前を左に進めば森の入り口であり 、ティラの家はそのすぐ側だ。
 赤い屋根の家を左に曲がると、そこには木々の立ち並ぶ森を認めることができた。そして、晶の位置から歩いて数分といった場所に森に接するように建てられた、白いフェンスに囲まれた西洋風の家が見える。
 もうすぐだ。もうすぐ。
 少女の姿を思い浮かべながら、晶は正面に見える屋敷へと走る。本来なら正面玄関から入るべきだがそこは勝手知ったる他人の家というやつで、庭で待っているティラに会うのならフェンスを飛び越えた方が早い。
 フェンスは晶の腰くらいの高さだが、その先に植えられている植木は晶の背丈ほどの高さがある。だが、晶はためらうことなく地面を蹴るとフェンスに足をかけ、植木を飛び越えようと高く跳躍する。植木の頭に足を突っ込ませつつも、彼の身体は植木を飛び越え……。
「晶っ」
 快活な声と共に、植木の陰に隠れていたのか、突然金色の髪の少女が晶の目の前に現れ、両手を広げて彼を受け止めようとした。だが、少女の細い腕で勢いのついた少年の身体を受け止められるわけがなく、晶が少女を突き飛ばすようにして二人は芝生の上に転がる。
「痛ったぁ……失敗しちゃいましたね」
「大丈夫かティラ……それにしても、何やってんだよ?」
 芝生に転がったまま涙目で頭を押さえているティラに、こちらも肩から落ちた痛みに顔をしかめた晶が呆れたように言うと、ティラは少し目を伏せ、
「何って……物語でこういう風なお出迎えってあったから、ちょっと真似してみようかと思って」
「あれって男の方が女を受け止めたんじゃなかったっけ?逆はちょっと無理なんじゃないか」
「そうでしたっけ。それより……晶って意外と大胆だったんですね」
「えっ?」
 少女の言葉に気がつけば、いつの間にか晶がティラを押し倒したような体勢になっていた。金色の髪が鮮やかに緑の絨毯の上に広がっている。少女の顔は晶の胸の下にあり、息が触れ合うほどの距離に美しく澄んだ海のように青い瞳があった。雪白の頬は、うっすらと赤く染まっている。
「いくらなんでも、女の子を家の庭で押し倒すなんて……」
「誤解を招くようなことを言うなっ」
「でも、両親は家を留守にしていますし、責任を取ってくれるのなら……」
「ちょっと待て、責任ってなんだよ?」
「ふふっ、冗談ですよ」 
 悪戯っぽく笑いながらティラは身体を起こした。晶も苦笑を浮かべながら立ち上がろうとするティラに手を貸してやる。
 こういったやりとりは毎日のことで、いつも晶はティラに振りまわされてばかりだ。だが、晶はそれを不愉快に感じたことは一度もなく、むしろ暖かいもので胸が満たされていくのを感じていた。
「そういえばいつものテーブルが見えないけど、どうかしたのか?」
 緑の絨毯の敷かれた庭に目を向けると、そこにいつもは置いてあるはずの白い椅子とテーブルが忽然となくなっていた。テーブルがなくなったせいで庭がやけに広く感じられ、晶はどこか物寂しさを覚えた。 
「テーブルですか?そろそろ古くなったので、お父さんが新しいものを買ってくると言っていました」
「なあ、もしかしてお茶はないのか?」
「そんなことありません。ちゃんと準備してありますけど、晶ってそんなに私のお茶を楽しみにしてくれているんですか?」
「馬鹿言うな」
 その頬はほんのりと赤く染まっている。
「ただ、走ってきたから喉が渇いているだけだってば」
「走ってきたくなるほど私のお茶がほしいんなんて、嬉しいです」
 本当に嬉しそうに微笑む青い瞳が晶のそれと合う。そのまばゆさに気恥ずかしさを覚え、晶は顔をそむけた。頬が染まっているのが自分でもよくわかる。照れを隠すように晶はわざとそっけなく言った。
「じゃあ、とりあえずお茶を一杯くれないかな」
「はい。実は、もう用意がしてあるんですよ」
 ティラが指差す先には、芝生の上へ直に置かれたティーポットとお揃いのカップが二つ置かれている。草の上に腰を下ろし、慣れた手つきで二つのカップに紅茶を注ぐと、ティラはまだ立ったままの晶へカップを差し出した。
「はい、どうぞ」
「ああ。ありがと」
 カップを受け取り、晶もまた彼女の隣へ腰を下ろす。
「テーブルがないから仕方ないですけど、たまにはこういうのもいいですよね?」
「そうだね。でも、どうせなら家の中で飲めばいいんじゃないか?」
「それはダメです。紅茶は野外で楽しむべきものですから」
「そんなものなのか?まあ、俺はいいけど」
 ティラがカップに口をつけるのを待って、晶もまた紅茶を口に含んだ。 
 口の中に広がる、爽やかな香り。それは晶のよく知っている香りだった。
「へえ。これ、森の妖精だったんだ。この前切らしたって言ってなかったっけ?」
「そうだったんですけど、お父さんがまた買ってきてくれたんです。晶は確かこれが一番好きなんですよね?」
「うん、これっておいしいから。ありがと、ティラ」
 喉が渇いていたこともあって、晶はそのまま一息に紅茶を飲み干す。彼がカップを唇から離すと、慣れたものでティラはすでに片手にポットを持ってお代わりの準備をしていた。
「どうぞ。晶もお代わりするんでしょう?」
「うん。頼むよ」
「はい……それにしても、こういうのっていいですね」
「うん、何が?」
 急に小さく笑い出したティラに晶が怪訝な顔をすると、彼女は彼のカップに紅茶を注ぎながら、 
「こうやってのんびりとお茶をしていると、幸せだな、って思うんですよ」
「ずいぶんささやかな幸せなんだな」
「そうですね。でも、幸せなんてこういうささやかなものなんじゃないかなって私は思うんです」
 どこか遠くを見つめたままティラは呟く。その横顔を、晶は寂しいと思った。
 思い返せば、彼と知り合った頃からティラは時々こういう表情をしていた。どこか儚げな、寂しげな表情。このことを彼女に尋ねても、いつもただはぐらかされるだけなので晶は何も言わなくなっていたが、最近どうもこの表情を見ることが多くなった気がしてならなかった。
「ねえ、晶。今日はあの秘密の場所に行きませんか?この前読んだ本で、ちょっと演じてみたい場面があったんだけど、また付き合ってくれません?」
「ああ……いいけど、戻って来るまでに日が暮れないかな」
「大丈夫です。だけど、早く行った方がよさそうですね」
「そうだね」
 うなずきながら、ふと晶は彼女の屋敷を見上げる。二階建ての、この辺りではまず他に見られないような様式の建物。それは白一色に統一されていて、ベランダには黄色の小さな花が飾られている。今や見慣れたはずのその屋敷が、晶にはどういうわけか空虚なものに見えた。
 紅茶を飲み干し、空になったカップをティラへ渡す。二つのカップとポットを手に屋敷へと小走りに戻っていくティラの背中が彼から遠ざかっていく。彼女の歩調に合わせて踊る金色の髪が光の中に溶け、彼女の姿もまた薄らいでいく。その光景に晶は妙な不安を隠せなかった。 
その不安が的中してしまったことを彼が知るのは、それから数日後のこととなる。 


 10

 あの頃はこんな日々がいつまでも続くと思っていた。
 隣にはあの人がいて、自分を見つめていてくれる。ずっと側にいてくれると信じていた。
 だけど、別れは突然にやってきて。
 どうしても失いたくなかったのに、抗う術さえなくあの人は自分の元から離れていく。
 いなくなってしまってから初めて気づく。あの人が自分にとってどれほど大切だったのかを。
 指を伸ばすけれど、それはもうあの人に届くことはない。残ったのは、ただ優しい思い出だけ。
 だけど、それが心安らぐものであったとしても、思い出は思い出でしかない
 だから、あえて思い出を忘れようとする。そうしないと悲しすぎるから。寂しすぎるから。
 でも、あの人との思い出は忘れられない。忘れることなどできはしない。
 いつもあの人を求めている。だから悲しいまま。寂しいまま。それを必死に隠そうとしている自分。
 そして、胸の潰れるような寂しさを思い出にすがることで慰めている。
 決して思い出は思い出以上のものにはなりえない。そんなことわかっているはずなのに。
 だから、こんなことはもう終わらせよう。
 優しい思い出の殻からあえて抜け出そう。あの人の幻を目を閉じて突き放そう。
 たとえどんなに後悔することになっても、いつまでも思い出に縛られるよりはいいはずだから。
 こんなに痛い胸の疼きに、これ以上耐えられそうもないから。
 だから。
 すまない、ティラ……。


 11

 遠くに見える灰色の校舎は赤く染まっていた。
 吹きつける風がやけに冷たい。まだ冬にはならないというのに、身を切るような冷たさだ。紅葉もそろそろ終わろうとしている時期なのだから仕方ないとはいえ、このあいだまでは風が暖かかったのが晶には信じられなかった。
「……冷えるな」
 体育館の壁に背中を押し付け、寒そうにコートの前を合わせながら晶はつぶやいた。
「寒い……」
 文化祭はとうに終わってしまっている。校舎の方から聞こえてきた喧騒は、もはや聞こえなくなっていた。片付けもとうに終わり、学校に残っている生徒はもうほとんどいない。
 学校へ来てから、晶はまだ美奈とは会っていなかった。美奈が学校に来ていることは仲間から聞いたので知ってはいたがどうも美奈と顔を合わせることに気恥ずかしさを覚え、結局彼女に何も伝えることなく晶は体育館裏に足を運び、こうして文化祭が終わるまで何をすることもなく赤く染まっていく校舎に視線を向けていた。
 最後の生徒が校舎を出てからもうしばらく経つ。だが、晶は美奈がこの場所に来ることを信じて疑わなかった。何故かは彼にもわからない。ただ、必ず美奈はここへ来ると確信めいたものがあるのは確かだった。
 ふと、脳裏にある少女の姿が浮かぶ。
 光沢を放つ金色の髪。天空の空よりもまだ青い瞳。忘れもしない思い出の少女だ。ただ、晶を見つめるその表情はどこか悲しげで、その姿もどこかかすれて見えた。
 いつもの晶ならば、ためらいもせず幻とわかってしても少女の姿に手を伸ばしたであろう。しかし、晶はコートのポケットに手を入れたまま、動こうとはしなかった。ただ、少女を遠い目つきで見つめているだけだ。
 少女の頬を涙が伝う。だが、晶はあえて視線を向けたまま動こうとはしない。
 やがて、少女は涙を流しながら儚げに微笑むと、夕日に溶け入るように消えていった。
「これで、いいんだ」
 少なからぬ葛藤を覚えながらも、誰にともなく晶は呟いた。
 俺はもう思い出に縛られたくはないんだ。
 これ以上、このせつなさには耐え切れないんだ。
だから……。
「……晶?」
 自分を呼ぶ声に晶は顔を上げた。目の前には、一人の少女が落ちつかなげな様子で立っていた。その姿は黄昏に紛れてうまく見えない。それでも、晶はその少女の名前を間違えることはなかった。
「待っていたよ、美奈」
「晶……やっぱりここにいたんだ」
 見慣れた制服。見慣れた髪型。彼の幼馴染みの少女はその瞳を彼へと向けたまま、やけにゆっくりとした動作で晶の隣に腰掛けた。
 服越しに感じる美奈の温もりが、冷えきった晶の身体を温める。
「あ〜あ。私、ずっとうちのクラスの喫茶店で晶を待っていたんだけどなあ。せっかく席まで取っておいてあげたのに、どうしてもっと早く来れないかな」
「それはすまなかった。お礼に、今度の休みに何かおごるよ」
「え、ホント?」
「俺は嘘のつけない男だ」
「……嘘つき。さっそく一つ嘘ついてるってば」
「まあ……それはともかくとして、美奈はどこに行きたい?」
「んと、じゃあさ……」
 いつも通り、止めるものさえなければいつまでも続くであろう他愛のない会話。だが、それもどこか晶には固いものに感じられた。
 伝えなければならない。美奈の想いに対する偽りない答えを。悩み続けた末にやっと見つけることのできた自分の答えを。だが、それを美奈に話してしまうことに晶にはまだためらいがあった。いつかは話さなければならないのに、あと一歩を踏み出すことができない。自分の勇気のなさに苛立ちつつも、晶は話を切り出すことができなかった。
 どれくらい他愛のないお喋りを続けていたのだろう。
 いつしか、夕暮れの空は濃紺へとその色彩を変えていた。見上げる空には一点の曇りもない月が昇っている。わずかにも欠けたところのない、完璧な満月。
 薄闇の中で晶達を照らすものは月明かりだけ。それはほんのかすかなもので、隣にいる少女の顔さえ晶にはよく見えなかったが、それでも服越しにとはいえ身体が触れ合っている感触は自分がここに一人でいるわけではないということを実感させてくれる。  
「……晶の手って、温かいね」
 いつのまにか、美奈の指が晶の手を握り締めていた。この寒さの中だというのに、絡めた指は不思議に温かい。
「ねえ、ずっと前に晶がこうして私の手を握ってくれた時のこと、晶は覚えてる?」
「いや……そんなことあったっけ?」
「私は覚えてる」
 握り締める指に力を込め、美奈はまっすぐな眼差しで晶を見つめた。
「晶がまだ私の家の近くに住んでいた頃、近くに森があったよね?」
「ああ」
「小学一年生の頃だったっけ。クラスの皆を集めて、私達が初めてあの森を探検したのって」
「そういえば、そうだったな」
 あの頃の晶達にとって、森は未知の象徴だった。よく子供が森で迷子になったりするので親から口うるさく森に入らないようにと注意されてはいたが、それが余計に子供の好奇心に火をつけた。
「それで、皆で探検しに行ったのはよかったんだけど、私と晶はいつの間にか皆とはぐれて迷子になっちゃったんだよね。暗くなって、道もわからなくて、お腹も減って……ただ泣くことしかできなかった私の手を晶は握り締めてくれた」
「俺だって怖かったさ。だけど、男が女の子の前で泣くわけにもいかなかったからな」
「そう……でも、あの時の晶は不思議にたくましく見えたよ」
 美奈の瞳の奥に揺れるものを晶は見た。
 闇に包まれた森の中。途方にくれて泣き伏す少女。少女の横にいる少年は今にも泣き出しそうな表情だというのに、慣れない優しい言葉とともに少女に手を差し伸べた。
 手を繋いだまま、足元すら見えない闇の中を二人は歩き続ける。どこへ歩けばいいのかなどわからない。まっすぐ歩いているかどうかさえわからない。今にも倒れそうなほどに足がふらつく。それでも、握った手から伝わる温もりだけを頼りに二人はただ歩き続ける。誰もいない森の中を、たった二人で。
「あの時、晶の温もりを感じた時から晶は私にとって大切な人になったんだ。いつもはなんか意地悪そうだけど、本当はすごく優しい人だってわかったんだ」
「そいつは買いかぶりだ。俺はそんないい人じゃないって」
「ううん、そんなことない。だって、私はずっと晶を見てたから」
 静かに身体を寄せ、美奈は晶の腕を抱いた。いきなり腕を抱かれ、晶は驚いたが、なぜかその手を払えなかった。
「あの時から、私はずっと晶を見てた。なんか恥ずかしくて、話しかけることもできなかったけど、ただの友達として一緒に遊んでいられるだけでよかった。ただ、晶を見ているだけでよかった。晶は気づきもしなかっただろうけどね」
 突然の美奈の告白に、晶は動揺を隠せなかった。確かに晶は美奈とは幼馴染みといえるほどの長いつきあいだが、そんな昔からこんな感情を持たれているとはまったく気づきもしなかった。
「……うまく言えないけど、悪かったな」
「ううん、しょうがなかったよ。だって、晶にはティラちゃんがいたから……」
 ティラの名前を出され、晶の胸が小さく疼く。だが、晶はあえてその疼きを無視した。
「気がついたら、ティラちゃんは晶の隣にいた。そのときまでは誰もいなかった晶の隣に。私がずっと憧れていたけど、近寄ることすらできなかった場所に」
「美奈……」
「私はどうしたらいいかわからなかった。ただ、いつものように晶と一緒に遊んでいたけど、晶の隣にいつもティラちゃんがいることがわけもわからず嫌だった。だけど、ティラちゃんは笑っていて、晶も笑っていたから、その間に入ることなんてできなかった。ただ、晶とティラちゃんを見ていただけ。ただそれだけしかできなかった」
 冷たい頬が晶の頬に触れた。驚いて振り向けば、美奈の顔が意外なほどにすぐ近くにあった。わずかに顔を寄せれば唇が触れ合うような距離。ほのかな香りを発する黒い髪が首筋をくすぐる。まっすぐにこちらを見つめる漆黒の瞳はただ晶だけを映している。
「でも、ティラちゃんはいなくなってしまった。晶の隣に誰もいなくなって、私は……嫌なことだけど、嬉しかった。これで晶の隣にいられるって信じて疑わなかった。だけど、晶の隣にいても晶は笑いかけてくれなかった。ただ、いつも寂しそうにしていて、私のことなんて振り向いてもくれなかった」 
 寂しそうに笑う美奈に、晶は何と言ったらいいのかわからなかった。ただ、美奈の言葉のひとつひとつに戸惑い、困惑するばかりだ。
「中学校、高校と私は晶の後をずっと追いかけた。たとえ振り向いてくれなくても、ただ友達として見てくれていればいい。晶の近くにいられればいいって思ってた。だけど、本当は違う」
 黒曜石の瞳から涙が溢れ、月の光にきらめく雫が晶の胸元に落ちていく。
 その雫のひとつひとつに、晶は制服で駅前を歩く彼。スポーツに汗を流す彼。友人と話している彼。寂しそうにうつむく自分自身の姿を見た。
薄闇の中の美奈の身体は小さくて、信じられないくらいに頼りなかった。普段はいつも明るく振舞っていたというのに、今では闇の中に溶け入ってしまいそうなくらいに脆く儚い。
 でも、彼女の潤んだ瞳はそれでもまっすぐに彼を見つめている。
 森の中で晶と美奈の二人が迷子になったあの日から、ずっと彼だけに向けられていた眼差し……たまらなく胸の奥から言いようのない感情がこみ上がり、晶はこのまま彼女を抱きしめたいという激しい衝動に駆られた。
 だが、お前は本当にそれでいいのか?
 突然湧き上がってきた問いに、晶は美奈の肩に伸ばそうとした腕を止める。
 本当に、晶はそれでいいの?
 晶は心の片隅に、風もないのにさらさらと揺れる金色の髪を見た。その青い瞳は彼をまっすぐに見つめている。それは美奈のように感情的なものではなく、むしろすべてを包み込むような暖かいものだ。
 蒼い海に漂っている自分を見ているうちに、晶は胸の奥の熱いものがすっと冷めていく感覚を覚えていた。
 本当に、俺はこれでいいんだろうか。
 自身に問いかけ、その答えを得られないままにもう一度目の前の少女を見つめる。
 何があっても、ただ俺だけを見つめていてくれた人。それを正直に嬉しいと思う。だけど、それと同時にそんな想いに気づかなかったことを申し訳ないと思う。そして、何もかもをさらけ出して俺を見つめている美奈に特別な感情があるということもまた真実だと思う。 
 だけど、この特別な感情は本当に美奈が求めているものなのだろうか。
 晶は美奈に伸ばそうとした腕とは逆の方の手を胸にそっと当てる。目の前の揺れる黒い瞳を見つめていても、もはやあの激しい感情はこみ上がってこない。ただ、小さな疼きがずっと続いているだけだ。
 それは隠せない金色の髪の少女への想い。どんなに自分をいつわってもいつわりようのない純粋な彼女への想い。忘れようとしても、否定しようとしてもできなかった本当に心からの想い。
「やっぱり……私じゃ、だめなんだね」 
 かき消えそうな美奈の声に、晶は我にかえった。
 濡れた黒い瞳が晶を見つめている。どんなときでも彼を見つめていてくれていたまっすぐな瞳。
 だが、それは晶の求めていたものではない。求めていないものをあえて受け入れることなど、彼にはできはしなかった。たとえ、それがどんなに純粋なものであったとしても。
「すまない、美奈……」
「ううん、いいよ。本当はわかっていたから。晶はやっぱり今でもティラちゃんが好きだって、わかっていたから」
 そう言って美奈は笑ってみせる。涙に濡れた顔で。寂しげな影を落として。
「美奈。本当にすまない」
「だから、もう謝らなくてもいいから。その代わり、一つだけ私の質問に正直に答えて」
 美奈は晶の胸元に視線を下げ、少しためらいがちに、
「晶は、今でもティラちゃんが好きなのかな?」
 俺は、本当にティラのことが好きなのかな。
 美奈の質問に、晶はふと自問する。
 晶はティラへのこの感情が好きという感情なのかはよくわからなかった。
 ただ、このせつなさが好きだという気持ちなのなら。
 いますぐ会いたい。ずっと側にいてほしい。絶対に忘れたくない。この気持ちが恋だというのなら。
「ああ……きっと、俺は今でもティラが本当に好きなんだよ」
 胸の中にずっと埋められていた気持ちをすべて吐き出すように晶は答えた。
「ずっとティラと一緒にいたい。恥ずかしいけど、ずっとそう思っていた。だけど、俺はティラに会えない。ずっと待っているのに、いつも求めているのに、会えないんだ……」
 ずっと待っていた。ずっと信じていた。
 いつかきっと会える。きっとあの人は戻ってくると。
 それでも季節は変わっていって、気がつけば何年もの時間が過ぎてしまっている。
 それでも、俺は待っている。信じている。きっと、もう一度会えると。
 だけど……。
「……ねえ、晶。私がこんなこと言うのもなんだけどさ」
 顔を上げた美奈はもう泣いてはいなかった。ただ、その瞳は潤み、頬には涙の跡が残っている。それでも、その瞳だけは今も晶を見つめている。
「待っていて会えないのなら、晶から会いに行けばいいじゃない」
「なっ」
 突然の美奈の言葉に、晶は絶句した。
 晶もそれを一度ならずとも考えてはいた。しかし、晶は外国のティラの住所などまったく知らない
 ティラを辿る地図は白紙のまま。わかっているのは彼女の名前と、国だけだ。それ以外の手がかりなど何一つない。
「俺だってそうしたいさ。でも……」
「でも、じゃないよ」
 彼の腕を力いっぱいつねり、美奈は叱咤する。
「晶はティラちゃんが好きなんでしょう?」
「あ、ああ」
「それなら、何もしないうちから諦めるなんて晶らしくもないことはやめなよ。本当にほしい恋なら、こっちから積極的に行かなくちゃ」
 衝撃が晶の身体を走った。
 そうだった。
 俺はただ待っているだけだった。ただティラとの思い出を見つめているだけだった。
 自分から探そうとなどせず、ただ求めているだけだった。
 行動することなしにして求めるものなど得ることなどできはしない。
 そんなこと、わかっていたはずなのに……。
「そうか……そうだよな」
 俺は何を悩んでいたのだろう。
 待っていても彼女が来ないのなら、自分から探しに行けばいい。
 ただ、それだけなのに。
「美奈、俺はティラを探すよ」
 身体の奥からこみあげる何かに突き動かされるように、晶は跳ねるように立ち上がった。彼の腕にまわされた手にほんの少しだけ力が込められた気がしたが、その手はそっと彼の腕を離した。
「どれだけ時間がかかるかわからないけど、俺はティラを探す。たとえ何年かかったとしても、どんなに難しくても俺はきっとティラを見つけてみせる」
 すべてを吐き出してしまったせいか、なんだか身体が楽になったような気がして晶は笑った。 
 胸にずっと宿っていた疼きはもう消えている。その代わりに、不思議と身体の奥が目覚めていくような感覚に晶は満たされていた。
「ありがとう、美奈。美奈が励ましてくれなかったら、俺は何もできなかった」
「ううん、そんなたいしたことしてないってば」
 晶に軽く頭を下げられ、美奈は頬を染めて慌てて手を振る。その慌てた動作がおかしくて、晶は声を上げて笑った。それにつられて、美奈もまた笑い出す。
 笑いながら、晶は金色の髪の少女の影を見ていた。その姿は子供のまま。永遠に大人にならないと思われていた少女。彼女は晶にそっと微笑むと、薄闇の中に消えていった。
「ねえ、晶。もう一つだけ、聞いちゃだめかな?」 
 向けられたその瞳は今も彼を見つめている。まっすぐで、純粋な漆黒の瞳。いつでも彼を見つめていてくれた幼馴染みの瞳。 
「もし、ティラちゃんがいなかったら……晶は私を好きになってくれたのかな?」  
 かすんだ、だがそれでいて心に響くような美奈の問いに、晶は少しだけ戸惑った。
 でも……今なら正直な気持ちで言えると晶は思った。嘘いつわりなど何もない、ただ真実の自分の美奈への想いを。
「もし、ティラがいなかったら……俺はきっと美奈を好きになっていたよ」
「……本当に?」
「嘘じゃない」
 その答えに、美奈の表情いっぱいに笑みが広がった。心の底から歓喜を浮かべて、だけどどこかで涙ぐんでいるようなそんな笑みを。
「じゃあさ、晶がティラちゃんを探すのなら、私も手伝ってあげるよ」
「えっ?」
「だって、晶だって早くティラちゃんが見つかった方がいいじゃない。それに、もし晶がティラちゃんに振られたらそのときは私が晶と付き合うんだから、やっぱり早い方がいい。うん、明日からね」
「おい、ちょっと待て。話が進みすぎてるぞ」
「私は本気だよ」
 握り締める手に、再び力が込められる。
「だって、私だって晶が好きなんだから。晶がティラちゃんのことを好きなら仕方ないけど、もし振られちゃったら晶はフリーでしょ。それなら、私が占有権を主張してもいいじゃない」
 美奈の口調は軽かったが、その瞳は真剣そのものだった。理屈などまったく通ってはいなかったが、それは美奈の本心からの言葉だということは晶にも何となくだが伝わっていた。だから、晶もそんな美奈を笑うことなどできなかった。
「占有権って、お前なぁ……」
 呆れたような表情で晶は笑い、美奈の肩を力を込めて叩いた。
「まあ、それでも構わないさ。その代わり、しっかりと手伝ってもらうぜ」
「うん、任せてよ」
「……ありがとうな」
 はじめて晶は自分から美奈の手を握り締めた。意外にも細く、柔らかな指。このとき初めて、晶は目の前の最大の親友がかけがえのないものに思えた。


 12

「晶・多賀。あなたにティラ・バンガートの名において騎士の称号を授けます」
 歌うような少女の言葉に、少年は演劇の俳優のようにひざまずき、頭を垂れた。
「はい。謹んでお受けいたします」
 少年が答えると、少女は彼の肩に装飾用の剣を軽くあてがう。
「では、これよりあなたは私に仕える騎士となり、生涯私を護ってくださると誓いますか?」
「はい。誓います」
「それでは、誓いの口付けを」
 少女がなめらかな一動作でもって少年の眼前に小さな手を差し伸べる。
 少年は迷うことなく、うやうやしく少女の手を取ると、その手にそっと口付けた。
 少年が手を離すと、少女は満面の笑みを浮かべて彼が口付けた手を抱くようにした。
「これで私……晶のことを忘れない」
「えっ、どういうこと?」
 突然少女の口からこぼれた言葉に、少年は驚いて立ち上がった。少年の問うような視線に、少女は目を伏せてうつむく。
「前から言おうとしていたんですけど、もうすぐ、私はお父さんの仕事の都合で国に帰国するんです」
「そんな……いつから?」
「よくわからないですけど、荷物をまとめておけって言われたからあんまり時間がないと思うんです。きっと、今月中には帰国することになると思います」
「いつ、日本に戻ってくるんだい?」
「……わかりません」
 突きつけられた現実に、少年は呆然とすることしかできなかった。目の前の少女がどこか遠いところへ行ってしまおうとしていることはわかっているのに、突然すぎて何を言っていいのかわからない。
「……また、会えるのかな?」
 少年の呟くような小さな声が二人以外誰もいない森に響く。
「うん。きっと、また会えますよ。約束しましょう」
「指きりでもするのか?」
「違いますよ。ちょっと大人の約束のやりかたです」
 言うが早いか、少女は少年の頬にそっと触れると素早くキスをする。
「ティラっ?」
「はい、約束しましたよ」
 目を白黒させる少年から離れると、少女は悪戯っぽく少年に笑いかける。
「約束してください。もし、私がここに戻ってくることができなかったら、晶が私を迎えに来てくれるって。たとえ私達が大人になっても、迎えに来てくれるって」
「……うん、約束するよ」
 真剣な少女の眼差しに、まだ目を白黒させながらも少年はうなずいていた。
「もし、ティラがここに戻ってこなかったら、俺がティラの国までティラを迎えに行く」
「本当に、約束しましたからね」
「うん。約束はきっと守るよ、ティラ……」
 そう。あのとき俺はティラと約束した。
 晶は思い出の場所の入り口である、細い二本の木がお互いに絡みあった門の前から踊る二つの影を見つめていた。
 森は深い闇に包まれ、月明かりすら木々の葉に遮られて届くことはない。だが、自分の足元すら確認することのできない夜の森の下で月光を遮蔽する木々のほとんどない目の前の思い出の場所だけが闇の中に淡く浮かび上がっている。
 晶が門をくぐると、二つの影は闇の中に姿を消した。それと入れ代わるように、白い服を着た金色の髪の少女が祭壇の前に姿を現し、彼を手招く。
 晶はなんのためらいもなく少女へと近づいていった。少女の姿は彼が彼女を最後に見た頃のまま、何も変わっていない。長い金色の髪も、こちらを見つめる青い瞳も、そのあどけない顔立ちも五年前のままだ。
「ティラ……俺はずっと逃げていたんだ」
 目の前の少女を見つめたまま、晶はゆっくりと言葉を紡ぐ。
「俺は大人になった君に会うことが怖かったんだ。心のどこかで、君に拒絶されないかと不安だったんだ。だから、ずっと優しい思い出にすがりついてた。だけど、逃げてばかりでは何も手に入らないことを俺は美奈から教わった」
 俺はずっと逃げ続けていた。
 傷つくことを恐れて、ただ優しい思い出に逃げ込んでいた。思い出は俺を傷つけることはないし、拒絶することもなく受け入れてくれるから。
 でも、逃げているばかりではこの手に掴めることなど何もありはしない。思い出は人を慰めてくれるが、何も与えてくれない。得られたと思ったものは所詮は幻であり、実際には何も残りはしない。
「だから、俺は本当の君に会いに行く。幻ではない、本当の君に会いに行くよ」
 本当は、不安でないわけじゃない。
 俺一人なら君に会いに行く勇気はなかった。だけど、今は俺を支えてくれる人がいる。
 拒絶されるかもしれない。ひょっとすると忘れられているかもしれない。それでも、俺は君に会いに行く。それがどれだけ困難だとしても、俺は君に会いに行こう。
 すべての思い出の鎖を断ち切るため、俺は君に会いに行こう。
 晶の言葉に、少女は花のような笑顔を咲かせた。そして、祭壇の前に置かれていたオルゴールを彼に差し出す。
 女神とそれを守護する天使達の彫刻を刻まれた、木製のオルゴール。かつて少女が晶に贈った、音を奏でることのない思い出のオルゴール。
 晶がオルゴールを受け取ると、少女の姿は白い月光に溶け入るようにして消えていった。それを見届けると、彼もまた祭壇に背を向け、夜の森へと歩き出す。
 ティラを辿る地図は白紙のまま。わかっているのは彼女の名前と、国だけだ。それ以外の手がかりなど何一つない。
 それでも、俺はきっと君を探し出してみせる。それがどんなに困難であっても、どれだけ時が流れたとしても、きっと……。
 
 













   〜あとがき〜

 ついに完結することができました。この作品を読んで下さった皆様、どうもありがとうございます。
 改めて読んでみると、かなり恥ずかしい小説になってしまって赤面するばかりです。
 それにしても、初めての執筆で中編小説というのはかなり荷が重かったようで、至らない面が多く反省する点が多すぎですね。
 至らない面は克服していきたいので、御注意や御感想などをお待ちしております。辛口コメントも大歓迎です。
 この作品を書くにあたってお世話になったT・Mさん。どうも感謝しています。
 それでは、未熟な上に長ったらしいこの作品を呼んでいただきどうもありがとうございました。
                             
                                   〜砂時〜