イルカ文明・序(中編)
作:しんじ





 そこにいたのは確かにイルカだったが、予想とはいろいろ違っていた。
「あ、人間」
 その女は、豊たちを見て言った。――イルカスーツを着た人間だ。
「初めてみる顔ね」
 もう一人の女が言った。
「人間の顔なんか、みんな同じに見えるけどな」
 イルカが言った。
「それを言ったら、あなたたちイルカだって」
 と、さらにもう一人の女。
「何言ってんだ、全然違うだろうが。俺とジハードの顔が同じか? 俺の方が男前だろうがよ」
「バカ言うな。――なあキャンドル。俺の方が男前だよな」
「えーっと。それ言ったらアレグラール怒るから」
「フフ。それ言ったら答えたのと同じじゃない。キャンドルってば」
 ――人間の女3人と、イルカ3匹が入り混じっている。イルカ語というのは、話すとき口があまり動かない。そのためもあって、誰が何を言っているのか、さっぱり分からない。
 豊と春菜は困惑したが、
「ちょ、ちょっとアンタたち!」
 と、豊は話に割り込んだ。――話し声は一斉に止む。
「はい?」
 少し太めの女が言った。
 全員の視線が豊に集まった。豊は何だか妙な気分になったが、
「聞いてくれ。――この辺りにはシャチが来ている。今も俺の友達が襲われた。アンタたちも喰われないように気をつけてくれ」
 豊はそう言って彼女らを見回す。――全員が目を丸くしている。
「シャチに襲われた?」
 太めの女が言った。
「ああ」
 豊は答える。
「どうして助けなかったの?」
「は?」
 予想外の返事だった。――どうして助けなかったのか。決まっている。こっちが喰われてしまうからだ。
「その襲われた仲間っていうのは、今も戦ってるの?」
 太めの女はさらに言った。
「分からない。もう喰われたかもしれない」
 豊が言うと、
「まだ可能性はあるってことね?」
 太めの女は言い、「どっち? どこにいるの?」
「正気か?」
「当たり前じゃない! 助けにいかなくちゃ!」
 その女は、妙な迫力があった。
「あっちだ」
 豊は、スライトリーの消えた方向を指さす。
「あっちね?」
 太めの女は言うと、「行こう! アレグラール!」
 と、イルカの背にまたがった。
「よっしゃー!!」
 アレグラールと呼ばれたイルカは、そう雄叫びを上げ泳ぎ始める。
「私たちも行きましょう!」
 残った二人の女も言うと、それぞれのイルカにまたがった。
「あなたたちも行く?」
 女の一人が訊いてきた。華奢な感じの女だ。
「あ、ああ」
 豊は思わずそう答えた。
「じゃあ私の後ろに乗って」
 その女は言うと、ニッコリとした。豊は、いそいそと言われた通りにする。
 豊はイルカの背、その女の後ろにまたがると春菜の方を見た。――春菜は、どうしていいのか分からず戸惑っている。
「あ、あなたは私の方に乗って」
 もう一人の女が言った。春菜は、ただうなずいた。
「しっかりつかまっててね」
 豊の前の女は言うと、またがるイルカの背をポンと叩いた。――それを合図にイルカが泳ぎはじめる。
 イルカは予想以上に素早く泳ぎ始めた。豊は驚いて、
「うわっ!」
 と声を上げ、思わず前の女に抱きついた。その拍子に胸の辺りをさわってしまったが、女は何も言わなかった。だから豊も、そのまま抱きついていた。


 彼女の名前は由貴子といった。豊よりも少し年上に見えるので、25歳といったところだろうか。
「あそこね!」
 由貴子が指さした。――その先には大型の生物が数匹、もめているように見えた。
「そうみたいだ」
 豊は、由貴子に抱きついたまま言う。――イルカはそのまま、そちらに突っ込んでいく。
「ねえ、豊くん、だっけ?」
 由貴子は言った。
「なに?」
「そろそろ離れてくれるかな?」
 由貴子はやんわりと言った。「君はシャチと戦えないでしょ?」
「あ、ああ。確かに……」
 答えながら、豊は情けなく思っていた。
 ――シャチたちが近付いてきた。中にはスライトリーもいる。まだ無事だったのか。
 豊は、由貴子から手を離した。――体が浮きはじめる。
「また後でね」
 由貴子は言うと、どこからかナイフを取り出し、戦いの場に向かった。


 春菜は、不快だった。
 自分の目の前で自分の男が、知らない女に抱きついていたのだ。仕方ない状況だったとはいえ、やっぱり腹が立つ。
「うあ! 戦ってるぞ、アイツら!」
 豊が声を上げた。――豊と春菜をここまで連れてきた3人と3匹が、数匹のシャチと激闘を繰り広げている。
「戦えるんだな、あんな奴らと……」
 豊は、くやしそうに言った。――何もできないことがくやしいのだろう。春菜は、なぐさめの言葉をかけようと思った。だが、
「戦えても、勝てるかどうか分かんないじゃない」
 などと、皮肉めいたことを言ってしまった。
「お前……」
 と、豊は春菜をにらんだ。「何が言いたいんだ。スライトリーや、みんなの命がかかってんだぞ。死んで欲しいのか?」
 豊は、本気で怒っているようだった。
「違う。そんなつもりじゃ……」
 春菜は慌てた。
「じゃあどういうつもりだ」
 豊の口調がキツくなる。
「私は……」
 春菜は口ごもった。――豊がほかの女に抱きついたから、それに腹を立ててつい、あんなことを口走った。そんなことは言えない。恥ずかしくてしょうがない。
「私は……」
 言葉が出てこない。――ごめんなさい。そう言えればいいのに、とても言える気分でもなかった。
「チッ……」
 豊が舌打ちをしながら、視線をシャチの方にうつした。春菜は少し、ホッとした。
「ギィーーー!!」
 シャチの叫び声が聞こえてきた。――見ると、シャチたちが逃げていくところだった。
「やったか!?」
 豊が声を上げた。――由貴子たちとイルカたちは、逃げていくシャチに向かってガッツポーズ。
「よかった……」
 春菜も小さくつぶやいた。


 スライトリーは興奮ぎみだった。
「おい! 見たか、俺の体当たりを! 俺の尾びれ叩きを!」
 スライトリーは一気にまくしたてる。
「いや、悪い。よく見えなかった」
 豊は、苦笑しつつ答えた。――シャチと戦って勝ったこと。それがよっぽどうれしいのだろう。いつもクールなスライトリーにしては珍しい。豊はそう感じていた。
 続いて、由貴子たちイルカ隊と、最初に襲われたイルカがゆっくりとやってくる。
「私たちは見てたよ」
 由貴子のまたがるイルカが言った。
「あ、そう? 見てた? 見てた?」
 スライトリーが、歯を見せながら言う。
「うん、カッコよかった」
 そのイルカが言うと、他のイルカがスライトリーをにらんだ。
「お、何だお前ら。嫉妬か?」
 スライトリーはうれしそうに言う。「いやいや、モテるオトコはつらいなあ、オイ」
 ――この言葉に、豊はようやく気付いた。ここにいるイルカは、一匹を除いてみんなオトコのイルカなのだ。見た目じゃ分からないが、どうやらそういうことらしい。
「キャンドルも罪作りね」
 由貴子が、そのオンナイルカに言った。
「私はそういうつもりじゃないんだけど……」
 キャンドルと呼ばれたそのオンナイルカは、困ったように言う。
「そういうつもりもなく男をたぶらかす。それほどタチの悪いものもないけどね」
 春菜が、ぼそっと言った。


 この辺りは危険。この海から離れるべき。それが豊たちの下した結論だった。
「それじゃあ、私たちのところに来る?」
 由貴子が言った。
「そこは大丈夫なの?」
 春菜が、うさんくさそうに言う。
「この辺りよりは安全だと思うよ」
 と由貴子。
「ふーむ……」
 と、豊は少し考えたが、「よし、そっちに行こう」
「えーっ」
 と、春菜はなぜか嫌そうに言った。
「何だ。何か問題があるのか?」
 豊が言うと、春菜はチラリと由貴子の方を見て、
「……別に……そういうわけじゃないんだけど……」
 と、モゴモゴ言ってから、「分かった。行こう」
「よし、決まりだ。スライトリー、お前も行くよな」
 豊が言うと、
「そのつもりだ。――ただ、俺たちだけで行くんじゃなくて、みんなも連れていきたい。大切な仲間だからな」
 そう言うスライトリーの口ぶりは、まるで群れのリーダーか何かのようだった。


 由貴子たちイルカ隊を先頭に、イルカの大移動が行われていた。この辺りのイルカのほとんどが、一緒に行くことになったからだ。
「なんか遠足みたいで楽しいな」
 豊は、笑って言った。
「そう? 私は戦争に行く軍隊みたいに感じるけど」
 と春菜。――これには豊も顔をしかめ、
「お前って何か、考え方暗いよな。そんな奴だったんだな」
「ち、ちがう!」
 春菜が慌てて言った。「冗談。冗談のつもり!」
「ふーん。どうだか」
 豊は冷ややかに言う。
「――あ、またケンカ?」
 声がした。見ると、由貴子が近付いてくるところだった。なぜだか微笑んでいる。
「ケンカってほどじゃないよ」
 豊も、つられて笑顔を浮かべる。すると由貴子は口をとがらせて、
「それは残念」
 と、おどけて見せた。
 豊は「ん?」と首をひねった。――残念? それはどういう意味なのか。
「ちょっと、そんな恐い顔しないでよ」
 由貴子が言った。
「え、俺?」
「豊くんじゃない」
 由貴子は言って、春菜を見る。――春菜は、由貴子をにらみつけていた。
「私は別に、そういうつもりじゃないんだってば。怒らないでよ」
 由貴子はなだめるように言うが、春菜の表情はこわばったまま。
 そんな春菜を見ながらも、豊は笑って言う。
「ハハ。ほっときゃいいんだ、こんな根暗オンナ」
「あっ!」
 と由貴子。「それはいくらなんでもヒドいんじゃない?」
「そうかな?」
 豊は言ってまた、ハハ、と笑う。そして、チラと春菜を見る。
 春菜は、悔しそうな顔をしていた。――いや、怒ってるとも悲しんでるともとれる表情だった。
「私は……」
 かすれる声で春菜は言った。豊は続く言葉を待つ。――だが、いくら待っても次の言葉は聞かれなかった。


 しばらく三人は、無言のまま併泳していた。だが、耐えかねたのかようやく由貴子が口を開いた。
「ごめんね、春菜ちゃん」
「……ううん」
 春菜は首を振った。
「あ、あー。えーっと」
 豊は適当に言葉を発した。――春菜、由貴子が視線を向ける。話題を変えるチャンスだ。豊はずっとそれを狙っていた。
「あのさ、由貴子さんたちってシャチと戦えるよね。あれは、イルカに乗ってるからかな。それとも別の理由? 俺もイルカに乗れるようになるかな?」
「一度に訊かないで」
 由貴子は苦笑する。
「じゃあまず、俺もイルカに乗れるようになるかってことから教えてよ」
「ん」
 と由貴子はうなずいてから、「コツがいるけど、練習すれば乗れるようになります。あと、イルカとの信頼関係。つまり、乗せてくれるイルカがいるかってことかな」
「それなら丁度いいのがいる」
 豊が言うと、
「スライトリーね」
 と、春菜が口をはさんだ。
「あ、しゃべった」
 豊が言うと、春菜は「悪い?」という目をした。――その空気を察したのか、由貴子は慌てて話を始める。
「イルカに乗れるようになれば、シャチとの戦いも優位になる。でも勘違いしちゃいけないのが、勝てるわけじゃないっていうこと。シャチは頭がいい。だから、やっかいな相手だと思うと、とりあえず身を引くってだけの話。人間が馬に乗っても、ライオンには勝てない。それと同じだと思ってもらえれば」
「なるほど、よく分かった。――じゃあさっそく、イルカの乗り方、教えてもらえるかな?」
「今から?」
 由貴子が驚いて言う。
「無理かな?」
「いや、だって今移動してる途中だし……」
「移動しながらでも、乗る練習くらいできるんじゃないかな」
 豊は言うと、「スライトリー! ちょっときてくれ!」と声を上げた。
「――うるせえなあ」
 すぐ後ろで、スライトリーの声がした。「そんなにデカイ声出さなくても、聞こえてるっちゅーの」
「おお、そんなところにいたのか」
 豊は、少し驚いて言った。
「ああ。お前らが先頭なのに、あまりにも進むのが遅いからよ。文句言いに来たんだ」
 言ってスライトリーは「クェクェクェ」と笑う。
「じゃあ話は聞いてたの?」
 由貴子が訊く。
「ああ、だいたいな」
 とスライトリー。
「それなら話は早い」
 豊は言って、スライトリーに近付く。だがスライトリーは、
「こら、待て待て」
 と言いながら、胸びれを振る。「誰も乗せてやるなんて言ってないだろう」
「え? ダメなのか?」
 豊はがっかりして言う。
「だから待てっちゅーの。乗せてやらんとも言ってないだろう。――俺もな、シャチと戦ってみて分かったんだ。シャチと戦うには、武器を持った人間の力が必要なんだってな」
「それじゃあ!?」
「ああ。お互い、協力しようじゃねえか」
 スライトリーは言って「クェクェクェ」と笑った。


「2人とも、ずいぶん上手になったじゃない」
 由貴子は言った。
「先生がいいのよね」
 オンナイルカのキャンドルが言う。
「いやあ、生徒の筋がいいんだろう」
 偉そうに言うのは、やはりスライトリー。
「いやいや、どっちもいいんだろう」
 スライトリーにまたがった豊は、模範的なことを言っておいた。
「そうね。そういうことにしておこう」
 由貴子が言うと、みんな一斉に笑った。


 豊たちが楽しそうにいる中で、春菜は一人、疎外感にさいなまれていた。
 ――自分は何も悪いことをしていないのに、どうしてこんなみじめな気持ちにならなければならないのだろう。どうしてこんな目に合わなければならないのだろうか。
 春菜は泳ぎながら、涙が出そうになっていた。
 ――何も悪いことをしていなくても、つらい目に合う。それが生きるということなら、どうして自分は生き延びてしまったのだろうか。世界が沈んだとき、自分も死んでしまえばよかったのだ。こんなイルカスーツなんかなければ……。
 春菜は、目頭が熱くなるのを感じた。だが涙はこぼれない。海の中だからだ。――もし涙を見せられれば、豊ももう少し優しくしてくれるはずなのに。
 人知れず泣いていると、春菜はふと、あることに気付いた。今、自分たちが向かっている先についてだ。
 現在イルカの大群は、由貴子や玲奈(太めの女)を先頭に、どこかへ向かっている。その向かっている先というのを、方向的に判断すると――まさか東京?
 バカな。東京のはずがない。あんな有害物質だらけのところなんか……。
 でももし、由貴子たちにたくらみがあるとすれば、考えられないことではないのだ。――群れの中心的存在である豊やスライトリーをそそのかし、そして東京に連れていく。それが何を意味するのか。そこまでは分からないが……。
「――おい、春菜」
 豊が言った。――スライトリーの背で、楽しそうにしている。
「なに?」
 春菜は、緊張しながら答える。
「乗れよ」
「え?」
「俺の後ろに乗れって言ってんだよ」
 豊は、言いながら手招きをした。
「え、でも……」
 春菜は言いながらも、豊の方に近付いていく。
「あのな」
 スライトリーが言う。「お前ら人間の泳ぐ速さに合わせてたら、いつまでたっても目的地につかねえよ。日が暮れちまう」
「そういうことだ」
 と、豊が相づちを打った。
「あ、でも群れの人間は私たちだけじゃないよ。私の友達も何人かいるし、豊くんの友達だっているんじゃない? その人たちはイルカに乗れないし、どうしたらいいの?」
 春菜が言うと、豊は「フン」と鼻から空気を出して、
「イルカに乗るだけなら誰でもできる」
「でも豊くんは練習してたじゃない」
「ああ、それは俺が鈍いから……じゃなくて俺がやってたのは、両手を離して乗る練習だ。これは簡単にはできないな。俺以外には」
 豊が自慢げに言うのを聞いて、春菜は頼もしく思う。他人の自慢は腹立たしいが、恋人の自慢はまた別なのだ。
「早く乗れってば」
 豊が催促した。
「うん」
 いろいろと疑問はあったが、春菜はスライトリーにまたがると、豊の背中に抱きついた。


 スライトリーの背中は、バイクに乗っているようだった。――いや、豊も春菜もバイクに乗った経験はなかったが、きっとこんな感じだろうと予想できた。
「ねえ豊くん」
 春菜は言った。
「ん?」
 豊は答える。
「私たちって、今どこに向かってるか分かってる?」
「東京の方だろ?」
「気付いてたんだ……」
「そりゃ分かるさ」
 言って豊は笑う。「だってお前、方向音痴だろ? お前より先に気付くのは当然だ」
「別に私、方向音痴じゃないもん」
 春菜がむくれて言うが、
「あ、そう」
 と豊。
「もう……ううん。そんなことよりも、東京はホントにまずいってば。私たち人間はともかく、イルカたちは死ぬことすら考えられる」
「死ぬことはないだろ」
「いいえ、あります。海の生き物っていうのは陸上の動物に比べて、体内に入った有害物質を分解する機能が劣ってる。例えば、一時期工業用に使われていたPCBがそう。人間はこれを肝臓で分解できるけど、イルカやクジラはほとんど分解しない」
「ふーん」
「ふーん……って人ごとじゃないだってば。それは私たち、イルカスーツを着ている人間にも言えるかもしれないんだから。――イルカたちは血液中のヘモグロビンが多い。それから筋肉にはミオグロビンが多く存在する。ヘモグロビンとかミオグロビンってのはね、酸素と結合しやすい性質があるの。つまりこれが多いおかげで、呼吸が少なくてすむ。そういうふうに進化したのね。――イルカスーツっていうのはそれを真似て、体内でそういう物質が多く作られるようにしてるの。分かる?」
「いや、あんまり……」
「それから、これは私の個人的な考えなんだけどね。ヘモグロビンやらそういう物質が多く作られるせいで、イルカたちは有機塩素系化合物とか、そういうものを分解する機能が劣るんだと思うの。何かを得れば何かを失う。それが自然の摂理。だとしたら私たちイルカスーツを着ている人間も……」
「わ、わかった。もうわかったから」
 豊はそう答えておいた。でなければ、延々とこの話が続きそうだったからだ。
「でも東京には行くぞ」
 豊が言うと、
「どうして! これだけ言っても……」
「俺たちには、選ぶ道がほかにないからだ。お前も分かってるだろ?」
「……うん。分かってる……」
「大丈夫。俺はずっと一緒にいるから」
「……うん」
 春菜はうなずきながら、「私はこの言葉が聞きたかっただけなのかも知れない」と思っていた。
「クェクェクェ」
 突然、豊たちのまたがるイルカ、スライトリーの笑い声。「人間は大変だな。俺はイルカに生まれてよかったゼ」
 そう言ってスライトリーはおどけ、胸びれを上下に振った。


 海の中から見る太陽は、ずいぶん傾いてきたようだった。
「まだ着かないのかな」
 スライトリーに乗った豊は、由貴子にそう訪ねた。
「もうすぐ、もうすぐ」
 オンナイルカ、キャンドルに乗った由貴子は答える。
「さっきからそればっかりじゃない」
 豊の後ろで、春菜が抗議する。それも妙に挑発的に。
 だが、由貴子はそれを気にした様子もなく、
「んーとね……」
 言いながら目をこらすと、「あ! ほら見えてきた!」
 と、遠くを指さした。
「ほえ?」
 妙な声を出しながら、豊はそちらを見る。
 ――遠くに街並みらしいものが見えていた。あれは高層ビルだろうか。
「意外と水はきれいに見えるね」
 春菜が言った。
「あー、それはエビーナのおかげ」
 由貴子は、微笑みながら言った。
「エビーナ?」
 豊と春菜は、声を合わせる。
「そ、エビーナ」
「何だそれは?」
 豊は訪ねる。が、由貴子は、
「行けば分かるよ」
 とだけ言った。


 所狭しと立ち並ぶ高層ビル群。豊たちは、水に沈んだ東京は初めてだった。――剥げ落ちた壁、隣りにもたれかかるビル。無数の車とともに横たわる高架道路。首都高速だ。
「ここが東京か……」
 豊はつぶやく。
「あ! 東京タワー!」
 春菜が声を上げ、それを指さした。
「なに!?」
 豊もそちらに目を向ける。ビルとビルの間から、それはその姿を覗かせる。――他の高い建物同様、東京タワーの上部は海上に突き出している。
「無事だったのか」
 なぜだか、豊はうれしかった。――333mの芸術。それは東京の象徴でもあった。
「おい。お前ら降りろ」
 スライトリーが言った。
「あ、ああ」
 豊は答え、春菜とともにスライトリーから離れる。
「なんだここは……」
 スライトリーがつぶやいた。
「なんだ……って東京じゃないか。知らないのか?」
 豊は言いながら、「知るはずがない」とも思った。
 スライトリーは、キョロキョロとする。いや、スライトリーだけでなく、一緒にきたイルカの大群全てが同じ様子だった。
「ねえ、みんな聞いて!」
 突然、由貴子が声を張り上げた。イルカの大群の目が、由貴子に集中する。由貴子はみんなを見渡すと、再び話しはじめる。
「ここは東京ってところ! ここは安全なところ! でもひとつだけ、絶対にやっちゃいけないことがあります!」
 ここまで言うと、由貴子は再びみんなを見渡し、「ここの生き物は、絶対に口にしないこと! 死にます!」
 この言葉に、イルカたちはざわつく。
「静かに! 静かに!」
 先生、もとい由貴子は、言って右手をあげた。――その手には、赤い奇妙な生き物が収まっていた。魚のように見えるのだが、反った体、飛び出た目玉はエビのようであった。エビとサカナの「相の子」とでも言えばいいのか……。
 と、豊はここで気付いた。――ひょっとして、あれがエビーナ?
「この生き物はエビーナ! この東京では神にして悪魔的な存在!」
 由貴子が言ったので、豊は「やっぱり」とにんまりする。
「このエビーナは、絶対に食べないこと! それだけは守って! あと、みんな仲良くね!」
 由貴子はそれだけ言うと、豊たちの方に近付いてきた。
「分かりました、先生」
 豊は、敬礼のポーズをしながらおどけてみせた。
「先生?」
 と、由貴子は首をかしげたが、微笑みを浮かべると「よろしい」と言って、敬礼のポーズを真似た。
「フフフフ」
「ハハハハ」
 豊と由貴子が笑いあっていると、春菜がぼそっとつぶやく。
「エビーナ……。きっと適応放散により生まれた生物ね……」
「は?」
 豊は、眉をひそめた。――春菜の奴が、またよく分からないことを言うつもりなのだろう。豊はうんざりしていた。
「春菜ちゃん、適応放散なんて言葉、よく知ってるね」
 そう言ったのは、由貴子だった。
「うん。一応、そのくらいの知識は……」
 春菜は、またぼそぼそと答える。
「ふーん」
 由貴子は、そう言うと考え込むようなしぐさをして「もしかして、春菜ちゃんの名字って細江って言うんじゃない? 細江春菜?」
 この問いに、春菜は無言でうなずく。
「やっぱり!」
 由貴子は声を上げた。「所長、細江速人の娘でしょ!」
 春菜は、また無言でうなずく。
「知り合いか?」
 豊は驚き、二人を交互に見比べた。
「直接の知り合いではないよ」
 由貴子が答えた。「私が勤めていた研究所の所長。それが春菜ちゃんのお父さん。――で、春菜ちゃん。所長は今どこにいるの? 分からない?」
 春菜は首を振った。
「分からない。私が聞きたいくらい」
「そう……」
 由貴子は、あからさまに落胆の色を見せた。
「いやー、それにしても……」
 豊は驚きつつ言う。「偶然だな。そんなふうなつながりがあるなんて」
 春菜と由貴子は、顔を見合わせた。それから豊の方に向きなおると、春菜は首を振り、
「偶然、でもないんだけどね。もともとイルカスーツを配った対象ってのが、縁故的なものが中心だったわけだから。――突き詰めていけば、みんなどこかでつながりがある人ばかりじゃないかな」
「やっぱりお前って考え方暗いよな」
 豊は言って、意見を求めるように由貴子を見る。だが由貴子も首をかしげ、
「いや、春菜ちゃんの言うことは正しいと思うよ」
「ふーん」
 豊は不服ながらも、数度うなずく。――由貴子が言うなら間違いない。少なくともネガティブな春菜よりは公正な意見だろう。
「どうして私の言うことは信じないの?」
 春菜が悲しそうに言った。
「どうしてって言われても、お前……」
 豊が眉をひそめながら言うと、赤い奇妙な生物エビーナが数匹、豊の前を横切る。
「お、エビーナ」
 豊は言って、話をそらす。――どうして春菜の言うことを信じないのか。いや、信じないと言うよりも、ないがしろにしている。そう言った方が正しいのではないだろうか。――それがどうしてか、と言われても豊には、気持ちの問題としか思えなかった。
「ねえ由貴子さん」
 問い詰めるのをあきらめたのか、春菜が言った。「やっぱりこのエビーナって、適応放散による生物なの?」
「たぶんね」
 と由貴子。「もう少し前の東京はね、もっと汚かったの。生物の棲める環境じゃなかったと思う。私たちがここに来たのも、そんなに前じゃないし。――結局推測に過ぎないわけだけど、エビーナは適応放散から生まれた生物、っていう考え方で一致してる」
「ふーん」
 春菜はうなずく。
「――おいおい」
 豊は、たまりかねて口を挟む。「さっきから言ってる適応放散って何のことだ?」
「知らない」
 春菜はめんどくさそうに言った。「どーせ私の言うことなんか信じないんだから、最初から訊かないで」
 どうやら怒ってるらしい。豊は、救いを求めるように由貴子の方を見る。
「えーっと、適応放散ってのはね……」
 由貴子は言うと、チラっと春菜を見てから話し始める。「地球上のさまざまな場所で空になった環境が生まれると、そこを埋めるように新たな種が誕生する。とりわけ、動物のひとつが新天地を得て、さらに多くの種類に分かれることを適応放散と言います。――これで分かる?」
「分からん」
「そりゃそうよね」
 由貴子は苦笑する。「えーっと」と、由貴子は考え込むと、再び説明を始める。
「地球上には、さまざまな生物がさまざまな場所で生きている。そしてそれらは、地球上に隙間なく存在してるわけ。陸、海、空、地中と問わずね」
「うんうん」
「でももし、ある空間で生物がまったくいなくなったとしたら。空っぽの場所ができたとしたら。――種の絶滅とか環境の変化とか、理由はいろいろあると思うけど」
「うん」
「いや、『うん』じゃなくて答えてよ」
 由貴子はまた苦笑する。
「え? なんだっけ?」
「だから、空になった環境が生まれると、その後はどうなるかって訊いてるの」
「えーっと、新しい種が生まれる」
「そう」
 由貴子は、やれやれ、という顔をする。「動物のひとつが新天地を得て、それがいろんな種類に分かれることを適応・放散というわけ。分かりましたでしょうか」
「なんとなく分かった」
 豊が答えると、由貴子はホッとした表情になる。それを見て春菜が笑う。
「何がおかしい」
 豊は、ムッとして言う。が、春菜は、
「別に」
 と、小馬鹿にしたように言い、「つまり今回の場合、エビーナが適応放散によって生まれた生物だってこと」
「エビーナはね」
 由貴子が、引き継ぐように話し始める。「もともと化学物質やら汚水からできてしまった、奇形の魚だったんじゃないかな。そうするうちに、その有害なものをエサにするようになって適応し、その種を増やしていった。それが結果的に、この東京の浄化につながったと考えられる。――エビーナを食べたら死ぬって言ったわけ、分かるよね?」
「ほーー」
 豊は感嘆の声を上げる。「エビーナは神にして悪魔って言った意味、よく分かったよ。――それにしても、地球っていうのは、うまくできてるもんなんだな」
「そうね」
 と、春菜がうなずく。「私たちには及びもつかない。私たちが何世紀にも渡ってためた汚れ。どんなに努力しても落とせなかったアカを、あっという間に落としちゃうんだから」
「すげえな。――そして今度はイルカや俺たちが、きれいになった東京に再び住もうとしている。生命ってのは神秘だな」
「ホントに……」
 春菜もつぶやく。
 ――豊たちが感慨にふけっていると、スライトリーの声がした。
「何やってんだ、お前ら。そんなところで重役会議か?」
 豊は、声のした方を見る。――上だ。スライトリーとキャンドルが並んでいた。
「重役会議、なんて言葉があったんだな。イルカ語にも」
 豊が言うとスライトリーは、
「いや、そんな言葉はない。お前ら人間が作った言葉だ」
 豊はそれを聞いて笑う。
「そりゃそうだな。イルカに重役なんてものは、存在しないんだから」
「まったく」
 スライトリーは言う。「ところで、重役って何だ?」
「やっぱりね」
 そう言ったのは由貴子だった。