イルカ文明・序(後編) |
作:しんじ |
東京という街は、ところどころに面影を残していた。――コンビニがあった。車屋があった。本屋もあった。
「本屋か。……入ってみるか?」
豊が言うと、
「うん」
と春菜はうなずく。「でも本なんて、存在が怪しいよね。溶けちゃってるんじゃないかな?」
「紙だからな」
ふたりはそんなことを話しながら、本屋に向かっていく。
「――ああ、なんかひさしぶりな気がする」
春菜が言った。
「何が。本屋がか?」
「ううん」
春菜は首を振ってから、「ふたりきりになるっていうのが」
「そうか?」
豊はそんな気がしなかったが、春菜にはそう感じられる一日だったのだろう。「ま、今日はいろいろあったからな」
「うん、そうかも。――でも一日はまだ終わってないよ。日が暮れる前にエサを探さなきゃいけないし」
「そうだな」
豊が答えたところで、ふたりは本屋の前にたどりついた。――自動ドア越しに、中の様子が見える。
「うわあ。グチャグチャの本がドロドロでブカブカ浮いてやがる」
豊が、顔をしかめて言うと春菜も、
「ほんと。フニャフニャでビロビロのブルブルね」
かろうじてフニャフニャの意味は分かったが、豊はこの冗談に首をひねるしかなかった。
「――あれ? 中に誰かいる!」
春菜が声を上げた。
「ああん?」
また何かの冗談かと、豊は疑いつつ目を向けた。――が、かき混ざった紙の中に、何か動く物が見えた。
「なんだ?」
豊は、思わずつぶやく。
「人間、じゃないかな?」
春菜は、言いながら豊の腕をつかむ。
「人間?」
確かに、動きや大きさは人間のものと思われた。――それは泥の中を歩くように、自動ドアの方に向かってきていた。
「こっちにくるぞ!」
豊は叫んで、春菜とともにあとずさる。
そいつは自動ドアまでくると、両手でそれをこじ開けた。――中から溶けかけた紙が、大量に舞い出てくる。それと一緒にそいつは出てきた。――全身に紙を張り付かせたそいつは、まるでミイラ男であった。
「キャッ!」
春菜が悲鳴を上げ、豊も、
「なんだコイツ!」
そのミイラ男は、油断なさそうに辺りを見回すと、
「うおおおああ!!」
と叫んで、両手を突き挙げた。
――こいつはやばい! そう悟った豊は、
「逃げるぞ、春菜!」
と叫ぶと、春菜の手を取った。春菜は何も言わずにうなずく。――二人は全速で逃げ始めた。
「ちょっと待て!」
ミイラ男が叫んだ。――! この声は!?
豊たちは、逃げるのを止め振り返った。
「もしかして!?」
春菜が言う。
「そうだ。俺だ」
ミイラは言った。――この癇に障る高い声。妙なしゃべり方。こんな奴はひとりしかいない。
ミイラは、全身に張り付いた紙を取り除き始める。――やがて、その顔が現れる。
「真次さん!」
豊は声を上げた。「生きてたんですね!」
「あん? 生きてた、だと? 妙なことを言う奴だな」
真次は、全身の紙を取りながら言う。
「いや、シャチに喰われて死んだのかと」
「勝手に殺すな!」
「すんません。ああ、でも安心しました。東京まで来れたんだ。いやよかった」
豊は言って微笑む。「おい、お前もなんか言えよ」
豊は春菜に言う。
「え? 何を言えって?」
春菜は冷たく言い放った。その表情は、ミイラ男を見るのと同じ、硬いものだった。――そうだ。春菜は真次さんが嫌いなのだった。豊はしまったと思いながらも、
「いや、なんかあるだろ。ご無事でなによりです、とか」
「ご無事でなによりです」
「お前なあ!」
豊は声を大きくする。
「いやいや。気にするな、豊」
真次は笑って言う。「俺があまりにも偉大だから、緊張してうまく話せないだけだ」
「はあ?」
豊は耳を疑った。何を言ってるんだコイツは。とんだ勘違い野郎だ。――ここは話題を変えるべき、と豊は早口に切り出す。
「あ、そ、そういえば、真次さんはなんで本屋になんかいたんですか?」
「は? 何言ってんだお前」
真次は顔をしかめる。「本を探しに来たに決まってるだろ。本屋でうどん喰うか?」
「いや、そういうことじゃなくて……。あの、本って言ってもグチャグチャになってるじゃないですか」
「あー、中には大丈夫なのもあるんだ」
真次は言って、手に持っていた本を差し出す。
「何の本ですか?」
豊が訊いたその時、目の前を数匹のエビーナが通る。
「お!」
真次が声を上げて、素早く腕を振った。――真次の手の中には、エビーナが一匹収まっていた。
「うまいもんですね」
豊は、お世辞抜きに言う。
「まあな。さすが俺ってとこだ」
真次は謙遜せずに言う。「いや、そんなことより、知ってるか? これ」
と、エビーナを豊に見せる。
「知ってますよ」
豊が答えると、真次は面白くなさそうに、
「ホントか? ホントに知ってるのか?」
と顔をしかめる。
「知ってますって」
豊は微笑んで言う。
「いーや知らない。これはな……」
真次は、言うと豊を見据えて、「喰うとうまいんだぜ」
と、エビーナを口に放り込んだ。
『あ!!』
豊だけでなく、春菜も声を上げた。真次は、エビーナを噛み砕きながら、
「うん、うまい。エビみたいな味がする。――やっぱり、コレ探してきて正解だったな」
と、手にした本のタイトルを豊に見せる。――「家庭のエビ料理」と書いてあった。
「く、く、喰っちゃダメだ!」
手遅れと知りながら、豊は声を上げる。
「あ? 何言ってんだ、豊。こんなうまいもん、喰わずにどうする」
「いや、だってそれは……」
豊は、何を言っていいか分からなくなっていた。
「ああ、もしかして胃もたれするって言いたいのか? うん。確かに胃もたれする。いや、胃もたれって言うか……うっ!」
真次が突然、苦しそうな表情になった。
「真次さん!」
豊は、真次に寄る。
「いたたたた!」
真次は、叫びながら腹を押さえる。「死ぬ! 死ぬ!」
豊は、こんな状況でオロオロするばかりだった。
「ど、どうしたらいい! 春菜!」
「どうしたらいいって、そんなこと言われても……」
こうなると、春菜もさすがに青ざめていた。
どうしたらいいのか分からない。だが、豊は何もせずにはいられなかった。
「真次さん! しっかり!」
豊は言って、真次の体に触れようとする。――が、真次はそれを嫌うようにあとずさると、
「来るな!」
と叫んだ。
「でも!」
「でももクソも……ガハッ!」
真次はせき込み、口から血を吐き出した。大量の血が、海水に広がる。――その血に、どこから現れたのかエビーナの大群が押し寄せる。
「この血を吸っちゃダメ!」
春菜が叫び、豊の腕をつかむ。
「真次さん!」
豊は、真次に近付こうとする。
「ダメ!」
春菜が言い、豊の腕を引く。「もうこの人は死ぬ! 私たちは生きなきゃ!」
「ああー! くそっ!」
豊は歯を食いしばり、春菜とともにその場から逃げ出す。――見捨てたくはなかった。だがその想いとは裏腹に、真次の姿が見えなくなるまで逃げ続けた。
気が付くとそこは街中でもなく、辺りは薄暗くなりかけていた。――恐怖から逃げている間に、東京の外に出てしまったようだった。
「真次さん、見殺しにしてしまった。……もしかしたら、エビーナを食べるの止められたかもしれないのに……」
豊は、つぶやいてうつむく。
「それは違うよ」
春菜が、豊に触れて言う。「あの口ぶりだと、前からエビーナを食べてたみたいだし、豊くんのせいじゃない。――それよりも、みんなのところに帰ろ。暗くなったら、帰るに帰れなくなっちゃう」
「……ああ」
とりあえず、豊はうなずいた。――自分が悪いわけじゃない。それは豊にも分かっていた。だが「もしもあの時」、人間である以上それを考えてしまうのだ。
「よし、帰ろう」
モヤモヤを振り切って、豊は言った。
「うん!」
春菜は、できるだけ元気に答えた。
いそいで帰っていたにもかかわらず、辺りは真っ暗になってしまった。
「あっちかな」
豊は、海面から頭を出して言った。――頭上には、半分ほどに欠けた月が浮かんでいる。
「きっとそうじゃないかな」
春菜は首をひねって言う。「何か水面から出てるもんね。建物か何かじゃないかな」
「お前もそう思うか? じゃ、あっちに行くか」
「うん」
春菜はうなずくと、豊の手を握った。
水中では光は分散してしまうため、月明かりで海中を照らすことはできない。海面にぶつかって、そこで終わりだ。
「時間はかかるけど、水面上を通って行く方が確実よね」
平泳ぎをしながら、春菜が言った。
「ま、そうだな」
豊は適当に答えた。――なにしろ、疲れ切っていたのだ。まともに受け答えする気が起こらない。
「疲れてるね」
「少しな」
豊は答える。
「ふーん」
春菜はそう言ったきり、話し掛けるのをやめたようだった。――疲れている。それは、一緒に行動していた春菜にも言えることだったから。
豊と春菜は、黙々と泳ぐ。海面からのぞく何かに向かって。
「あれ?」
と、豊は泳ぎを止める。
「どうしたの?」
「いや、何か動いてないか?」
言って、豊は向かっている先を指さした。
「え?」
春菜は目を凝らす。「そう?」
「そうだって。何か分からないけど、動いてるよ。――そもそも、俺たちの向かっている方って東京なのか? 何も考えずにボーッとしてたけど、俺たちゃ、そんなに東京から離れなかったはずだぞ。間違った方向に進んでるんじゃないのか?」
「言われてみれば……」
春菜は不安げな表情になる。「じゃあ、私たちの向かっている方って何? あそこには何があるの?」
「そんなの俺が知るか」
豊は言う。「でも、行ってみれば分かる」
「そう、よね。でも、大丈夫なのかな?」
「さあ?」
と、豊は首をひねり、「でも結局、行くしかないだろ」
「うん。そうよね」
春菜は、言って微笑する。豊もそれを見て微笑みつつ、迷子になった、とは思わないようにした。
海面からのぞいていたのは、観覧車や絶叫マシーンだった。
「遊園地だったのか……」
豊はつぶやいた。
「うわあ、もうサビサビね」
言いながら、春菜は観覧車に近付いて行く。
「すげえ、ジェットコースターだ」
豊はそれを見ながら、懐かしい頃を思い起こす。――家族で行った遊園地。母親は、恐がってジェットコースターには乗らなかった。父親と兄とで乗ったのだが、小さかった豊も実は恐かった。恐いものを恐いと言う。豊には、いまだにそれができない。もちろん、それが優れているというわけではないけれど……。
「わっ! エビーナ!」
春菜が声を上げた。
「なに!」
と、豊はそちらに目を向ける。観覧車の中に、エビーナの大群がひそんでいたようだった。
「うひー、気持ち悪い!」
春菜は言いながら、観覧車から逃げる。「あー、ヤダヤダ!」
と、顔をしかめながら豊のそばに寄ってくる。――その時、春菜のはるか後方に、何か動くものを豊は見つけた。――エビーナのような小動物ではない。暗くてよく見えないが、かなりでかい。
「なんだ?」
豊は、目を細める。
「えっ、なに?」
と、春菜も振り返る。
海面から頭を出し、二人はそちらを見据える。――それは、海面付近をウロウロしていたかと思うと、突然空中に飛び上がった。クジラやイルカが見せる、ブリーチという奴だ。
「シャチだ!」
春菜が叫んだ。
「なに!?」
豊も声を上げる。――その声に合わせるかのように、シャチがこちらを向いた。
「シーッ!」
春菜が、声を殺して言う。「鯨類は耳がいい! 大きな声を出しちゃダメ!」
「そうか」
と、豊も声を殺す。「でも、もう手遅れみたいだぞ」
豊の言葉通り、シャチはこちらに向かってきていた。――エサを見つけた。そんな様子だった。
「逃げろ!」
豊は言い、泳ぎ始める。
「ああ、シャチは人間の友達だったはずなのに! きっと食べるものがないのね!」
春菜は言いながら、豊の後を追って泳ぎ始めた。
数匹のシャチが、豊たちを追ってくる。
「うわっ! 一匹かと思ったら、何匹もいやがる!」
逃げながら豊が言うと、
「シャチは社会性の強い動物だからね! 群れで動くものなの!」
と、春菜が解説する。
「そんなことはどうでもいい!」
豊は怒鳴りながら、必死で水を掻く。だがシャチは迫ってくる。二人を食べようと。
「ちくしょう! せめてスライトリーがいれば!」
言ってから豊は、「スライトリーがいたとしてどうなる?」と気付いた。たとえスライトリーがいたとしても、さほど状況が変わるとも思えない。スライトリー一匹では、シャチの群れにはかなわないだろう。
――やがて、二人はシャチたちに囲まれた。
四匹のシャチに、文字通り四方を囲まれた。逃げ道があるとしたら、空を飛んで逃げることぐらいか。
「俺たちも、もう終わりかな」
豊は冷静につぶやき、空に浮かぶ月を見上げる。――自分でも不思議なほど落ち着いていた。ホントに死ぬときって言うのは、案外そんなものかもしれない。
「そうね。いままで生きてこれたことの方が奇跡なんだもの。陸が沈んで人類は滅んだ。そして私たちも死にいく。――死んだら、お父さん、お母さん、友達のみどりちゃんにも会えるかな」
春菜は言うと、豊の顔を見て笑った。――春菜は、豊以上に落ち着いているようだった。
「キギャーギャーギャー」
シャチの一匹が言った。――おそらくシャチ語と思われるため、何を言っているのかは分からない。そして、それに答えるようにほかの一匹が、
「ギュキュークェギャクェーキュー」
さらにほかの一匹が、
「ギャギャギャキャ」
と、笑い声のようなものを発する。
「何話してんだ、コイツら」
豊はイルカ語で、春菜に話しかける。
「さあ?」
と、春菜は肩をすくめて見せる。
「ま、ともかく」
豊は言うと、イルカスーツの隠れポケットからナイフを取り出した。「ただで喰われてやるのは悔しいから、ちょっとは逆らってやる」
と、ナイフを構える。
その瞬間、シャチたちの様子が一変し、緊張感が走る。
「喰えるもんなら喰ってみろ!」
そう叫ぶ豊の隣りで、春菜はひとつの疑問を感じていた。
もしもイルカスーツを造ったのが自分だったならば、機能のひとつとして外敵から身を守る武器なんかをつけたのではないだろうか。春菜は、そんなことを考えていた。
普通に考えれば、水の中でも生活できるイルカスーツを造るよりも、銃やレーザー光線といった既存のものを造る方が、はるかに簡単なはずなのに。――それは科学者特有の偏った考え、知識によるせいなのか。
いや、違う。
春菜はかぶりを振る。
イルカスーツを造った父である細江速人は、世界的権威という立場にありながら、教えることよりも教わることを好むような人間だった。だからこそそれほどの地位を得て、イルカスーツなるものを造ることができたのだ。
何かあるはずだ。
春菜は、自分のイルカスーツを探りはじめた。
ナイフを構えた豊に、四方のシャチが視線を向けた。
「ただじゃ死なねえぞ!」
そう叫ぶ豊の隣りで、春菜はイルカスーツを探る。だが、今まで何も気付かなかったのに、突然何かが見つかるというものでもない。
そのうち、警戒していたシャチの一匹が動いた。それと同時に、もう一匹シャチが動いたかと思うと、
キィー……
微かな音がした。
「ぐあっ!」
豊が声を上げながら、春菜にぶつかってきた。
「いたっ!」
春菜もそれを受け止めながら、「ちょっと、何!?」
と、豊に文句を言う。
「知るか! 勝手に体が飛ばされたんだ!」
と、豊も文句を言う。「でも、これは前にも確か……」
春菜はハッとした。ひょっとしたら……。
春菜がそう考えたとき、シャチはすぐそばにまで突進してきていた。
一匹は豊に向かって、もう一匹は春菜に向かって。
「ナメるな!」
豊は、ナイフを振りかぶって立ち向かう。だが春菜は、
「キャー!」
と言いながら、体を小さくする。
――ドン!
その瞬間、いろんな音が混じり合って響いた。
ひとつは、豊のナイフがシャチの顔面に刺さった音だった。
もうひとつは、春菜を襲おうとしたシャチが、弾き飛ばされた音だった。
「まったく。帰ってこないと思って捜しにきたら……」
そう言って現れたのは……
「スライトリー!」
春菜は声を上げ、自分を助けたイルカを見た。「助けにきてくれたの!?」
春菜が言うとスライトリーは、
「いーや、助けに来たわけじゃない。捜しにきただけだ」
「でも今、助けてくれたじゃない」
「体当たりしただけだ」
「それを助けたって言うんじゃ……」
春菜は言うがスライトリーは、
「違う違う。今シャチを弾き飛ばしたのは、アンタじゃないか」
「はあ?」
春菜は顔をしかめる。
「――おい! スライトリー!」
豊が叫んだ。――豊は、ナイフ一本で手負いのシャチを牽制していたが、苦戦しているようだった。
「おっと、お呼びがかかった!」
スライトリーは言うと、豊の元へ急ぐ。
「ちょっとお! 私は!」
春菜が言うとスライトリーは、
「自分で何とかできるだろ!」
「できないってば!」
春菜が泣き顔で言ったとき、2匹のシャチがこちらを向いた。
「ギャキャラギャキューキュー!」
シャチは、激しく怒っているようだった。さきほどスライトリーに体当たりされたこと、それが頭にきたのだろう。
そして、もう一匹のシャチも春菜をにらんでいた。
「ちょっとぉ……」
春菜は泣きそうになっていたが、構わずシャチは突進してきた。
もうダメだ! 春菜は目を固くつぶる。
――両手を前に!
突然、頭の中で声がした。
「え?」
――両手を前にして叫べ!
「え? え?」
春菜は困惑した。――頭の中で声がすることもその理由だったが、なによりもそれが聞き覚えのあるものだったからだ。
――早く!
声は、再び言った。――間違いない。生まれた時から聞いてきた、聞きなれたこの声。
シャチは、すぐそばにまでやってきていた。春菜は、突進してくるそいつに両手を差し出すと叫んだ。
「お父さん!」
――ドン!
という音がして、「キャギャー!」などと言いながらシャチは弾き飛んだ。
さらにもう一匹のシャチが襲いかかってくるが、春菜は同じように両手を差し出すと、
「やあっ!」
と叫んだ。
――ドン!
音がして、そいつも弾き飛ぶ。
「ガギャガウリキャ?」
「ギャキャッキャッキャギャ!?」
「ウギャ!」
シャチ2匹はそうやって何事か話すと、春菜に背を向けて逃げ始めた。――気味が悪い。そう思ったのだろう。
「た、たすかった……」
春菜は全身から力を抜いたが、まだ安心できないことを思い出した。
豊とスライトリーの方を向く。――が、そちらも戦いに勝ったようで、悠然とスライトリーにまたがる豊の姿があった。
「おお、春菜。お前も無事だったか」
豊は言うと、白い歯を見せた。
「うん。お父さんのおかげで」
「なに、お父さん? ひょっとして変な声のことか?」
「え? 豊くんも聞こえたの!?」
「ああ、両手を差し出して叫べってな」
豊は言うと、両手を差し出す格好をした。
「やっぱりお父さんはすごい。イルカスーツにこんな機能つけてるなんて。しかも、ピンチのときに声がする機能まで」
春菜は言いながら、誇らしく思った。
「ああ。ホントにすげえよ」
豊も同調する。
「何言ってんだ、お前ら」
スライトリーが口を挟んだ。「さっき、イルカ語でしゃべってたおっさんのことだろ? シャチと一緒に逃げていったぞ」
「え!?」
春菜は驚いて、目を見開く。「ホ、ホントに!?」
「ホントにって……。ウソ言ってどうする」
「豊くんも見たの!?」
「いや、俺は気が付かなかったけど」
豊が言うとスライトリーは、
「まあ、暗かったからな。人間には見えねえだろう。俺は音で分かっただけだ。――なんだ、アンタの父親か」
「うん、たぶん……」
春菜はそう答えると、「どうして?」とつぶやいた。
父親が生きている。その可能性が高くなったことはうれしい。しかし、なぜ娘である春菜を見つけたのに去っていくのか。それに、なぜシャチと一緒にいたのか。
疑問はたくさんあった。――だが今考えても、答えは見つかりそうもなかった。
二人はスライトリーの背に乗り、東京に向かっていた。
「まったく。いい歳して迷子になんかなるなよ」
スライトリーは言った。
「悪い悪い」
言って豊は苦笑する。「でも、わざわざ捜しにきてくれるなんてな。びっくりしたよ」
「ふん」
スライトリーは言うと、頭のてっぺんの通気孔から、空気をボコッと出した。人間で言えば、鼻に当たるところだ。「別に俺が言い出したわけじゃない。――お、捜しに行こうって言い出した張本人がきたぞ」
「え?」
豊は言うと、辺りを見回す。だが、真っ暗であるため何も見えない。
「無事だったのね!」
暗闇の中から、女の声がした。
「由貴子さん!?」
豊は、見えない誰かに言った。
「うん、私。――ホント、心配したよ」
由貴子は、言いながら近付いてきた。豊にも、ようやくその姿が見え始める。――由貴子は、パートナーであるキャンドルに乗っていた。
「いやあ、まいったよ。見つけたと思ったら、シャチに襲われてるんだもんな、コイツら」
スライトリーは、なぜかうれしそうに言った。
「ホントに!?」
オンナイルカ、キャンドルが言う。「大丈夫だった? ケガとかしなかった?」
「あぶなかった。俺が行ってなきゃ、コイツらは確実に死んでたな。――まあ、俺の活躍で、奇跡的にみんな無傷だけどな」
「ウソばっかり。私を見殺しにしようとしたくせに」
春菜が口を挟む。「ねえ、由貴子さん」
「なに?」
「超音波のこと、知ってた?」
「超音波?」
言って由貴子は首をかしげる。「ああ、超音波。クリック音。――声による攻撃のことね」
「やっぱり知ってたんだ」
春菜は、不服そうに言う。「知ってるんなら、教えてくれればよかったのに」
「知らなかったの!?」
由貴子は驚いて言う。
「だって、誰にも教わってないもの」
「私なんか、研究所にいた頃教えてもらったけど……。じゃ、豊くんも知らなかったの?」
「え?」
突然話を振られて、豊は戸惑いつつ、「ああ、ついさっき知った」
「うわー。超音波攻撃を知らないでいたなんて、自殺行為みたいなもんね。――分かった。この際だから、ちゃんとしたことを教えましょう」
由貴子が言うと、その下のキャンドルが、
「ねえ、それは帰りながらにしない?」
と言った。
帰り道、海の中は暗かったが、月明かりで隣りの顔くらいは分かった。
「超音波っていうのは、私たち人間の耳に聞こえないような、周波数の高い音のことを言うの。それは春菜ちゃんも知ってるよね」
由貴子の言葉に、春菜は、
「うん、知ってる。イルカたちには、普通に聞こえるんだけどね」
「そう。もともと超音波っていうのは、イルカたちがエコロケーションに利用するクリック音のこと。それは、イルカたちが小魚を攻撃するときなんかに使う。そうよね?」
由貴子は、キャンドルに言う。
「そうね。時々使うよね」
キャンドルは、スライトリーに訊く。
「いや、時々っていうか、かなり使うな俺は」
「ま、それは個人差があるわけね」
由貴子は言うと、続ける。「じゃ、なぜ超音波をイルカが出せるのかっていうと……」
「おでこのところにある、メロンのおかげ」
春菜が言う。
「そう。そして、そのメロンってのは脂肪性の組織なの。――これを踏まえて」
「ちょっとちょっと」
豊が口を挟む。「そんな仕組みとか構造とか、かなりどうでもいいんだけど……」
「違うよ、豊くん」
由貴子が微笑む。「これは超音波を使う上で、必要な知識なの。覚えておいて。ね?」
由貴子がそうやって首をかしげるので、豊は、
「うーん。分かったよ」
と、顔を緩ませながら言う。それを見て、春菜は嫌な顔をする。――嫉妬しているのだ。
「じゃ、まず、どうしてイルカスーツを着てると、呼吸が少なくて済むかってことから」
由貴子が言うと、
「ええー、そんなところから?」
と、豊は顔をしかめた。が、春菜も顔をしかめ、
「それは、私が前に教えてあげたじゃない」
「そうだったか? 覚えてねえよ」
「覚えてないって……。ちゃんと覚えておいてよ。こんなところで生きてる以上、知識のあるないが生き死にになってくるんだから。――ヘモグロビンとかミオグロビンの話したでしょ?」
「そうだったかな」
「した!」
春菜は声を上げる。「ヘモグロビンとかミオグロビンってのは、酸素と結びつきやすい性質を持ってるから、それをイルカスーツは増やしてるんだって。だから呼吸が少なくてすむんだって」
「あー、そういえば、そんなこと言ってたような気もするな」
「気がするんじゃなくて、言ってたの!」
そう春菜が怒鳴ると、由貴子はクスッと笑って、
「やっぱり仲いいね、ふたりとも。――何だか妬けちゃうな」
「はあ?」
豊は顔をしかめ、「仲いいように見えますか? お姉さん」
「見える見える」
言って由貴子は微笑む。「でも、春菜ちゃんもさすがね。よく知ってる。これなら説明も楽そう」
「ううん。私はかじってるだけだから。あんまり期待しないで」
「かじってるだけで十分。そのヘモグロビンが重要なんだから」
由貴子は言って、話を続ける。「ヘモグロビンが分かるなら、アドレナリンも分かるよね?」
「うん。なんとなく分かる」
春菜は言うが、
「いや、俺は分からないよ」
豊は言う。
「あ、そう。じゃ、えーっとね」
由貴子は少し考える素振りをすると、「うん、そうだ。――アドレナリンってのは、興奮したときとかに分泌される成分なのね。えー、その機能として血圧上昇、心筋収縮。グリコーゲンを分解して血糖値を高める。さらには脂肪を分解。そしてその際には、酸素消費が高まる……」
「ふんふん」
春菜はうなずくが、豊はもはや返事もしない。
「アドレナリンは酸素消費を高める。ヘモグロビンは体内酸素量を高める。結果、アドレナリンが通常よりも多く分泌されることになるわけ。エネルギー供給体であるグリコーゲンや脂肪が分解されるわけだけど、それも必要以上に行われてしまうわけ。そうして発生したエネルギーは、物理的に使い切ることは不可能。そこで余った糖質が脂肪になろうとするとき、固体である脂肪を強引に液化させ、手のひらから発汗とともに排出。体外で液体脂肪性組織を一時的に造る。それが擬似メロンを形成するわけね。そして、そこに音声を通過させることで強力な超音波をつくる。これが音による攻撃の仕組み。――わかった?」
「なんとなく、分かった」
春菜は言ったが、豊は、
「いや、全然分からん」
「そりゃそうよね」
由貴子は笑った。「じゃ、もっと簡単に説明しよっか。――体に力を入れると、両手から変な液体が出る。そこに声を通すと超音波が生まれる。それだけのこと」
「ふーん」
言いながら、豊は首をひねる。
「どうしたの? まだ疑問?」
言って由貴子は、豊を見つめる。
「あ、いや……」
豊は、なんだかその視線が恥ずかしくて目をそらす。――なんだろう。時々、この人が送ってくるこの視線は。特別な感情があるんじゃないか。そんなふうに思えてしまう。
「あ、そうそう」
由貴子が、思い出したように言った。「春菜ちゃんは分かると思うけど、超音波で見えないところとか、探ることできるから。イルカでいうエコロケーションって奴ね。もちろん、イルカほど正確ではないけど」
「やっぱりね。超音波攻撃ができるなら、エコロケーションもできるんじゃないかって思ってた」
春菜はそう言ったとき、なぜか勝ち誇ったような顔をしていた。
スライトリーとキャンドルは、泳ぐスピードを速めたようだった。
「おい、スライトリー! ちょっと飛ばし過ぎじゃないか!? スピード違反で捕まるぞ!」
豊は、スライトリーの背にしがみつきながら言った。春菜はその後ろで、豊にしがみついている。
「はあ? スピード違反って何だ?」
泳ぐ速度を落とさず、スライトリーは言う。
「何言ってんだ。スピード違反って言ったら……」
豊は、言っていて気付いた。――そうだ。海には警察もなければ法律もないのだ。いまさらながら、そんなことに気付いた。――そしてそれは、海での生活に違和感を感じなくなったという意味でもあった。
「あ、ほら。東京が見えてきたよ」
キャンドルが言った。
「――ほえ!?」
キャンドルにまたがる由貴子が、そっちを見て変な声を出した。「ちょ、ちょっと止まってキャンドル!」
「エェ?」
言いながらキャンドルが動きを止めると、同時にスライトリーも止まる。――それがあまりに急ブレーキだったので、豊と春菜は「うひゃあ!」などと声を上げながら、スライトリーの前方に投げ出された。
「なんで止まるんだよ!」
スライトリーが怒鳴った。
「だって由貴子さんが……」
キャンドルは言いながら、胸びれで由貴子をさす。そしてその背にいる由貴子は、
「ちょ、ちょっと違うの! みんな見て!」
「はあ?」
スライトリーが、顔をゆがめながら言う。
「くっそー! 急ブレーキなんかするんじゃねえ!」
豊もそんなことを叫びながら、東京の方に視線を向ける。
「あれがどうかしたの?」
キャンドルが言う。
「なに言ってんの、キャンドル。昨日までと明らかに違うじゃない!」
由貴子は声を上げる。「どうして東京だって分かるの! どうして暗くても見えるの!」
「光ってるからだ」
豊は言った。続いて春菜も言う。
「うん。何かが光ってる。――アレは東京タワー?」
「そういえば、昨日までは光ってなかったね、アレ」
キャンドルが、のほほんと言う。
「行こう、スライトリー!」
言うと、豊たちはスライトリーの背にまたがる。「全速力だ!」
「スピード違反になるんじゃなかったのか? それは」
スライトリーは言うと、高速で泳ぎ始めた。
――スピード違反。教えられた言葉をすぐに応用できる。豊は、イルカの賢さを改めて感じていた。
東京に着いた豊たちは、まっすぐ東京タワーに向かった。――すでにそこには、多くのイルカたちが集まってきていた。
「電気かと思ってた」
豊はつぶやいた。
「どう見ても違うね」
春菜は、気味悪そうに言う。
――東京タワーには、多くのエビーナが張り付いていた。そしてそのエビーナ一匹一匹が光を発して、東京タワーをライトアップさせて見せているのだ。
「深海に棲むっていう、発光エビみたい」
由貴子が言った。
「ふーん、なるほどね」
悟ったように春菜が言う。「これも適応放散の一種ってわけね」
「たぶんね」
由貴子がうなずく。「東京に適応して、その種類を増やすことが放散。――でも、エビーナは何のために光を?」
言いながら由貴子が、豊に向かって首をかしげた。
「いや、由貴子さんに分からないのなら、俺にはもっと分からないよ」
言って豊が苦笑して見せると、発光エビーナが一匹、豊と由貴子の間を抜けようとする。
「おっ!」
言って豊は、発光エビーナに手を伸ばした。
――バチッ!
発光エビーナに触れた豊の手に、しびれが走った。
「いてっ!」
豊は声を上げ、その手をもう片方の手で押さえる。「電気だ! 電気が走った!」
「おいおい、何やってんだ」
近くにいたスライトリーが、馬鹿にしたように言った。「光る生き物にはさわらない。常識だろうが」
「いってえー。……そうなのか、スライトリー。光る生き物は危険なのか?」
「だから、常識だって言ってるだろうが」
「分かった。気をつけるよ……」
豊がそう言ったとき、近くで爆発音のようなものがした。
「なんだ!?」
「どうした!?」
その場にいたほとんどが驚き、辺りを見回した。
やがてガラガラという崩壊音とともに、近くのビルが崩れ落ちた。――それは砂煙をもうもうと上げながら、海中に沈んでいく。
「なんだ、今の爆発は!」
豊は、崩れるビルを見据える。
「あれ? アレはなに?」
春菜が言って、砂煙の中を指さした。――砂煙の中に、青白く光る点々が見えた。
「発光エビーナ?」
由貴子が眉をひそめる。「まさか、あの爆発はエビーナのしわざ!?」
「まさか!?」
春菜は声を上げる。
「そんなわけないだろう。クェクェクェ」
のん気そうに笑ったのは、スライトリーだった。
「はぁ……」
豊は、ため息をついた。
スライトリーやキャンドルは、のん気なところがある。それはイルカが海の生き物であり、のんびり生きているということなのかもしれない。しかし……。
「なあ、春菜」
豊は言った。
「なに?」
「陸が沈んで、海の中も変わろうとしている。ほ乳類であるイルカたちも、人間と同じように滅ぶんだろうか」
「さあ……それは分からない。神のみぞ知るって奴かな。――どうしたの? 突然」
春菜が訊いたが、豊はしばらく口を開かなかった。
「どうしたの?」
春菜がもう一度訊くと、豊は言った。
「イルカたちを守り、イルカの文明を見届ける。――それが俺たち人間に与えられた、最後の役目なんじゃないかって。……そんなことを思った」
それを聞いた春菜は、豊をジッと見つめると、
「……うん」
とうなずいた。
「かっこいい!」
由貴子が言った。それを春菜が露骨ににらむ。――二人の世界をジャマされたことが気にいらないのだ。
「うん。私もそう思うな。イルカ文明を守る! うん。がんばろう!」
由貴子は言うと、握り拳をつくった。
「やれやれ。何を気張ってんだか……」
スライトリーはそう言うと、キャンドルとともに「クェクェクェ」と笑った。
(おわり)
2001.12.18
あとがき
まず、読んでいただきありがとうございます、ですね。
えー、この話は「長編の序章を短編で書こう」と思って書き始めたんですが、短編にはなりませんでした。
しかも、全然すっきりと終わってない。ホントは30枚くらいですっきり終わる予定だったんですけどねえ。
ちなみに、今回のテーマは「イルカ文明を書く」というものでした。
いや、つまり、「イルカ文明」の物語舞台とかキャラクター設定を分かってもらう。それが「イルカ文明(序)」のテーマだったのですね。
もちろん、続きは書く予定です。なにしろ設定を披露しただけで、ストーリーはまだ始まってもいない。
ただ、いつになったら書けるやら、検討もつきませんが。
ちなみに完結したら、SFとして投稿する予定。
ま、ま、繰り返しになりますが、こんな長いものを読んでいただき、ありがとうございました。