イルカ文明・二章(前編)
作:しんじ





   第二章 シャチ


 イルカたちは眠るとき、噴気孔を海面に出して眠る。豊たちもそれを真似て、海面上に顔を出して眠る。が、それはイルカを真似ているというよりも、ラッコを真似ている形だ。
「ん……」
 朝日に視覚を刺激され、豊は目を薄く開いた。
 まぶしい。豊は、光を避けるべく体を反転させた。すると、蒲団がわりの海藻が体にからまる。まさしくラッコだ。
「ちっ……」
 豊は舌打ちすると、体に巻きつく海藻を手で引き剥がした。それから背伸び。
「あ、起きた」
 と春菜の声。
「お、おう」
 そう答えながら豊がそちらを向くと、春菜は海藻を頬張っていた。蒲団代わりにしていた海藻だ。
「お前、海藻だけ食っても味気ないだろ?」
 そう言いながら豊は、体に巻きついていた黒い海藻を手に取る。
「ちょっとね」
 言いながらも、春菜は海藻を食べ続ける。
 ──もともと野菜好きだったな、コイツは。
 豊は、コンビニ製サラダを食べてた春菜を思い出した。──あれは、何人かで行った海水浴だっただろうか。砂浜での昼食。隣りに春菜が座ってくれたことがうれしかったりした。水着はオレンジ色で……。
「あ、遠い目してる」
 春菜の声で、豊の意識は戻された。
「あ、ああ。ちょっと昔のこと考えてた」
 陸に戻りたい。時々思うが、それは叶わぬこと。イルカたちを守ること、イルカ文明を育てることが、豊たちの最後の仕事なのだ。
 ──しっかりしなきゃな。
 豊は自分に気合いを入れると、手にしている海藻に噛み付いた。


 スライトリーは、東京見学をしていた。
 崩れそうなビルに入ったり、細い裏路地を通ったり。
 スライトリーにとって、人間の住んでいたところというのは珍しかったが、どこも似たような造りなのですぐ飽きてしまった。
「つまらん……。よく飽きもせず、こんなところに住んでたもんだ」
 スライトリーは、ひとりつぶやいた。
 ──海は違う。少し動けば違う植物があり生物がいる。そして、それらは一日も同じではない。
「この時点で死んでるな、人間は」
 スライトリーはそう結論付けようと思ったが、豊たちを思い出した。──アイツらだって、毎日同じってわけじゃなかったな。笑っているときもあれば、泣いているときもあった。
 スライトリーは、もうちょっとうろついて見ることにした。


 東京近郊には、食べられる魚がいない。そのため何日かに一度遠出して、魚を生け捕ってくるのだという。生け捕った魚の保管方法は様々だが、網やカゴの中に閉じ込めておくのが一般的だそうだ。
「3日前に捕ってきた奴? どーりで弱ってるわけだ」
 豊は、大きめの虫カゴに手を突っ込んで魚を取り出す。テラテラと光る細長い魚は、抵抗する気力もなくおとなしく食べられるのを待っている。
「こんな虫カゴにギュウギュウに詰め込まれてるんじゃあね。3日4日で死んじゃうみたい。もって一週間かな」
 カゴの持ち主である由貴子が言う。
「ふーん」
 春菜はつぶやくと「じゃあ、買出しは3日にいっぺんくらいの割合がいいわけね」
「そうね」
 と由貴子。「でもその時は私に言って。遠くに行くときは勝手に行かないで。昨日みたいなことがあったら困るし。約束」
「いや、でも昨日は遠くに行くつもりじゃなかったんだけどな。たまたまそういう状況になって」
 豊は弁解ぎみに言うが、由貴子は首を振る。
「昨日のことはもういいから。私が言ってるのは、これからのこと。長生きしたいなら、言うとおりにして」
「……はい」
 豊はしおらしく返事すると、上目使いで由貴子に訊く。「あの、この魚、食べてもいいかな」
「どーぞ」
 言って由貴子は笑った。


 光の届かないビルの中。
 割れた窓から中に入ったスライトリーは、散乱した室内を見回す。もちろん、暗いため視覚によって見ているのではなく、聴覚的に観ている。
「あ、エビーナがいやがる」
 この時点で、スライトリーは嫌な気分になる。
 エビーナというのは、何もないところでもその姿をみることができるが、虫のように物陰にひそんでいることが多い。このビルの中にも、相当数のエビーナがいると思われた。
 ──気持ちわりーからこのビルは出よう。
 そう思って窓の方を向いたとき、視界の隅に光るエビーナを見つけた。
「光る方か……。ますます嫌だな」
 スライトリーは、噴気孔からボコボコ空気を出しながら、外に向かう。
 が、割れた窓の辺りに発光エビーナが数匹、スライトリーの進路をふさぐ。
「……どういうつもりだ、コイツら」
 ますます不快になったスライトリーは、「カッ!」と発光エビーナどもに超音波を放った。すると、発光エビーナ数匹が互いにぶつかり──
 ドン! と、音を立てて小爆発を起こした。
「お、おおー……」
 スライトリーは驚き、目を見張る。
 ──エビーナの数がもっと多かったら……。
 想像すると、少し寒くなった。
 ともかく障害物がなくなったので、スライトリーは窓から外に出る。
「うー寒い寒い」
 つぶやきながら、スライトリーはビルを後にした。


「おーい、スライトリー!」
 どこかから豊の声がした。
「ん?」
 スライトリーは声のした方を見る。が、その姿は見えない。
 水中における音速は、空気中の3倍。そしてより遠くまで音は届く。加えてイルカの聴覚。
「呼べば勝手に来ると思ってやがる」
 スライトリーは苦笑したが、結局そちらに向かうことにした。


「魚捕りに行こう」
 豊は言った。
「やっぱりな」
 スライトリーは言う。「お前が呼ぶなんて、そんなときくらいだろう」
「そうか?」
 豊が言うと、隣りの春菜が、
「そういえばそうね」
「ま、ま、いいじゃないか、スライトリー君。君の力を借りたいのだよ。それに今回は、たくさんの魚捕りたいしな」
 豊は言うと、手にしているビニール袋を見せた。──ビニール袋は水に溶けないため、東京には腐るほどある。
「なんだそれ」
「捕った魚をこれに入れて、しょっちゅう魚捕りに行かなくていいようにするんだ」
「ふーん。人間っぽいな」
「確かにな」
 言って豊は微笑する。
「あ、でもその袋な」
 スライトリーが、変な顔をして言う。「俺の知り合いが、喉に詰まらせて死んだことがあった」
「……そうか」
 豊は、人間の罪深さを思い出したりする。しかしスライトリーは、
「じゃ行くか」
 と、何事もなかったように言った。
「そうだな」
 豊も返事すると、
「行ってらっしゃい」
 そう言って、春菜が手を上げる。
「ん? アンタは行かないのか?」
 スライトリーが訊く。
「うん。私はついて行っても、足手まといになるだけだから」
「そんなこっちゃ、いつまでたっても進歩ないと思うけどな。まあいい。行くか」
 スライトリーは泳ぎ始めた。
「おい! 乗せてってくれないのか!?」
 豊が慌てるとスライトリーは、
「クェクェクェ」
 と笑い、「甘えるんじゃねえ。そんなこっちゃいつまでたっても、泳ぎがうまくならねえぞ」
「そういう次元の話じゃ……」
 豊が言う間にも、スライトリーは先に行くのだった。


「さてと……」
 豊たちを見送ったあと、春菜にも一応仕事があった。──この東京の掃除だ。
 掃除と言っても、この汚れきった場所を完全にキレイにするなど、途方もないことだ。だからと言って、何もしないというわけにはいかない。ここに住むと決めた以上は少しでも快適にしたいし、人間はそういう役割を持っていると思う。
「由貴子さん、手伝いにきたよー」
 春菜は、海底で瓦礫を片付ける由貴子に寄っていく。「えーと、何からやればいいかな」
「そーねぇ」
 と由貴子は手を休め、それから腕を組む。「じゃあ、まずね……。っていうか、んーと。あのね、今私がやってるのは、瓦礫をどけてんのね。とにかく、平らなところを出したいわけ。そしてそこに石を積み上げて、建物とか造りたいの」
「平らなところ、なんて出てくるかな」
 春菜は首をひねった。
「出てくる! じゃなきゃ造るまで!」
 さすが年長者だ。春菜は感心してしまう。この人の精神力とか明るさとか、自分も見習うべきなのだ。
「分かりました! 先輩!」
 春菜が元気に言うと、由貴子は、
「ん? どうしたの、急に」
 と首を傾げた。


 石をひとつどけると、エビーナが数匹出てくる。春菜も最初それが嫌だったが、作業を続けていくうちにだんだん慣れてきた。
 ──ダンゴ虫みたいな感じかな。
 春菜はそんなことを思ってみたが、ダンゴ虫は空を飛んだりしなかったし、もっと小さかった。陸にいた頃と比べようとすること自体、おかしいのかもしれない。
「ほ?」
 由貴子が変な声を出した。「何これ?」
「どうしたの? 由貴子さん」
 春菜は手を止め、そちらを見る。
「人、かな。死体……」
 言いかけた由貴子は、「あ!」と声を上げた。そして二人は同時に、
『生きてる!』
 その死体かとも思われた人間は、口をパクパクさせていた。──きっと呼吸をしたいのだろう。
「春菜ちゃん手伝って!」
 由貴子が言って、その人間の両脇を抱え込む。「足持って、足!」
 春菜は言われた通りにし、海底を蹴って海面上に向かう。
 イルカスーツを着たこの人間は、目を閉じているが男だと判別できる。顔立ちの整ったキレイな顔ではある。
「──プハッ」
 海面上に出た春菜たちは、呼吸をする。が、男はまだ口をパクパクさせている。自分で呼吸ができない状態なのだろう。
「人工呼吸しなきゃ!」
 春菜は言うには言ったが、ためらってしまった。そして由貴子と顔を見合わせる。
 ──由貴子さんの方が顔に近い。
 春菜はそういう視線を送ると、目をそらした。ズルいとは思うが、結論は急ぐのだ。
 仕方ないと思ったか由貴子は、大きく息を吸い頬を膨らませると、その男の唇に自分の唇を重ねた。
 それを何度か繰り返していると、突然由貴子が咳き込んだ。
「どうしたの由貴子さん!」
 春菜は、顔をこわばらせて訊く。が、由貴子は咳を繰り返す。
 やがて何度かの咳のあと、
「ゴホッゴホッ……おえっ」
 と、由貴子は何かを吐き出した。
「……エビーナ?」
 春菜は驚いた。なぜ由貴子の口から、こんなものが?
「こ、この人の口から出てきた……ゴホゴホッ」
 由貴子はまだ咳をしながら言う。「きっとこの人、エビーナ食べたのね」
「大丈夫? 由貴子さん」
「大丈夫。私は大丈夫。でもこの人は、なんとかして助けないと」
 そう言って由貴子は、気丈にも人工呼吸を繰り返す。
 ──エビーナを食べた? アレ? この人って……。
 春菜は、もう一度男の顔を見る。
「あ!」
 思わず声を上げる。──真顔だから分からなかった。いつもヘラヘラしてたから、全然気付かなかった。それにもう、死んだと思ってた。
「真次さんだ……」
 春菜がつぶやくと、
「知り合い? だったらなおさら助かってもらわないとね」
 由貴子は真剣な顔で言ったが、春菜は複雑な想いだった。
「──ゴッホゴッホッ!」
 大きな咳をして、真次が目を開いた。
「よかった……」
 由貴子が安堵の息を吐く。
「こ、ここは天国か……?」
 真次は言いながら、辺りを見回した。「もしかして助かったのか……」
「生き延びたみたいですよ、真次さん」
 春菜が言うと、真次は納得した顔になり、
「そうか。君が助けてくれたのか」
「違います。私じゃないです。そっちの人です。由貴子さんです」
「そんなに否定しなくてもいいじゃない」
 由貴子は苦笑すると、「えーと、真次さん? 二人で助けたんですよ。かなり危ない状態だったんですけどね」
「なんと礼を言ったらいいのか……。とりあえず、ありがとう」
 真次はそう言って、深く頭を下げた。
 ──なんだ。そんなに嫌な人でもないんじゃない。
 春菜は真次のその姿に、見方を変えるべきかもしれない、と感じた。
「ついでにあとひとつ、頼みがある」
 真次はそう言って、指を一本出した。「体がだるい。どこか休めるところに連れていってくれないか」
「あ、これは気付きませんで。もちろんです」
 由貴子が微笑んで言うと、真次は突然由貴子の背に抱きついた。おんぶの格好だが、いきなりそんなことをするのは失礼だろう。
「ちょ、ちょっと待って下さい!」
 由貴子が戸惑いながら言う。
 やっぱりろくな人間じゃない。春菜は、そう思わざるを得なかった。


 前方に魚がちらちらと見える。三十センチほどもあるだろうか。
「あれはキスかな」
 豊が目を細めて言う。目を細める──視力が低いわけではないが、海中にあっては遠くが見にくいのだ。
「食えりゃ何でもいいんだ」
 スライトリーは言い、魚の方に近付こうとする。
「ちょっと待ってくれ、スライトリー」
 豊が呼び止める。
「あん?」
「今回の目的は、魚を生け捕りにすることなんだ。魚を追っかけてって、この袋にスポッと生け捕ろうと思うんだ」
「そうか。がんばれよ」
「い、いや、そうじゃなくて……」
 豊は、顔をひきつらせる。「つまりな、お前の背中に……」
「分かった分かった。しょうがねえな」
 言ってスライトリーは、豊に背を向けた。
 ──最初から分かってたくせに。
 豊は、スライトリーはつくづく頭がいい、と感じる。分かっているのに知らないふりをする。人間の世界でも、頭のいい奴ほどズルイとこがあるものだった。
「よし。いいぜ、スライトリー」
 スライトリーにまたがり、豊がそう言った瞬間、スライトリーは全速で泳ぎ出した。
「ウプッ!」
 海水が口の中に飛び込んでくる。いきなり全速で泳がれると、こっちはたまらない。いやがらせかとも思う。
 イルカの全速──時速四十キロとも言われる。流体力学からは、水の抵抗、筋肉の限界などの理由から四十キロも出せない、と言われるが実際出ている。世の中、分かってないことだらけで、科学的根拠など後からつくものなのだ。
「五匹目!」
 面白いように魚が袋に入る。ビニール袋も三袋目で、豊は楽しくなってきた。
「次はあっちだ、あっち!」
 豊は指を差し、スライトリーに命令する。
「キュボ」
 スライトリーは不愉快なのか、変な音を立てた。
「おおー! ツガイでゲット!」
 豊ははしゃぐ。これで七匹目だ。──三十センチ大の魚が七匹。一日二日ではなくなるまい。だが、もう少し取っておくべきか。豊は少し考えたが、
「もう帰るぞ」
 と、スライトリーが魚を食べながら言った。いつの間に捕ったのか。
「そうか。じゃ、帰ろう」
 豊は素直に従う。──今日はどうも、スライトリーの機嫌が悪い。これ以上不快にさせないためにも、従っておいた方がよさそうだ。
「じゃあ俺、降りるよ」
 スライトリーの背に乗っている豊は言った。
「いいよ、降りなくて」
 と、スライトリー。「お前遅いから」
「そ、そうか」
 スライトリーは一言多い。だが豊は、それがちょっとした意地悪であると同時に、照れ隠しであることも知っている。
「スライトリー。のんびり帰ろう」
 気を使って豊が言うとスライトリーは、
「そうだな」
 と言って、体の向きを変えた。そして東京の方へと泳ぎ始める。
「なあ、スライトリー」
 豊は言った。
「なんだ」
「前にシャチのこと、どうして知ってるんだって聞いたことあったよな。どうしてお前だけは、イルカたちの中でシャチのこと知ってたんだ。教えてくれないか」
 この質問に、スライトリーは黙りこくってしまった。
 言いたくないことなんじゃないか。春菜はそう言っていた。確かに、誰にだってそういうことはある。そしてその理由もさまざまだ。
 言う必要がないのであればそれでいい。しかし、必要があれば話さなければならない。
「お前がシャチに対して敵意を持ってるってことは、よくないことだと思うんだ。できるだけシャチは避けた方がいい。でも何か理由があるならって思うんだ」
「ふん」
 スライトリーは悪態をつく。「自分が聞きたいってだけのために、偉そうなことを言いやがる」
「そういうつもりじゃないんだけどな」
「ふん」
 スライトリーはまた悪態をついたが、ゆっくりと話し始めた。
「あれは俺が今よりずっと若かった頃の話だ。オンナに振られた俺は、オトコを磨くべく旅に出た」
「イルカでもオンナに振られるってことがあるんだな」
 豊は、面白くなって口をはさむ。だがスライトリーは、構わず話を続ける。
「若い頃ってのはオンナに振られると、自分に魅力が足りないからだと思ってしまう。俺は旅でかなりの無茶をやった。そうすることで、魅力が備わると思ってたんだ」
「若い頃って、お前いくつだよ。今でも若いんじゃないのか?」
 豊は、また口をはさむ。
「8が2つだ」
 スライトリーも、今度はそれに答える。──イルカには、8までしか数字が数えられない。もちろん「0」という概念はなく、2ケタの数字を使うこともない。
 スライトリーは続ける。
「イルカは、8歳くらいでオンナに興味を持つようになる。その頃の話だ」
 豊は、今度は何も言わずにスライトリーの上でうなずく。
「いろんな奴らにあったよ。スナメリ、ゴンドウ、マッコウ、ザトウ。凍えて死ぬかと思ったところでは、ベルーガ、イッカク、ナガス。そして遠く寒いあの場所で──俺は、イシイルカのデンジャーに逢った」
「デンジャーってのは、名前か?」
「そうだ。俺たちとは全然違った姿をしていたが、かわいいオンナだった」
「オンナか!」
「姿形は、俺よりもむしろシャチどもに近かった。だけど俺よりも小さなイルカだった」
「そして二人は恋をした、というわけだな」
 豊は冷やかすように言ったが、スライトリーは怒ろうともしない。
「……違う種類のイルカ同士が、恋をするのはおかしいんじゃないか。そんなことも思ったが、時々あるらしい。もちろん子供は生まれないが」
 豊はここまで聞くと、話が見えてきた。シャチに恨みを持ってしまう出来事と言えば、もう言わなくても分かる。
「もういいよ、だいたい分かったから」
 豊は気を使って言ったが、
「そうだ。お前の予想通り、デンジャーはシャチに喰われた。俺は逃げた。──そして俺はこの群れに戻った。旅に出てから、もう何年もたっていた」
「ふーん」
 豊は数回うなずき、「イルカにもいろいろあるんだな」
「でもあの頃のことって、俺の精神状態もまともじゃなかったし、いろんなことがあり過ぎたから現実と思えないんだな。まるで夢を見てたような気がしていた」
 スライトリーは、泳ぎながらボーッとしている。「忘れようと思ったし、忘れかけてた」
「でも思い出したんだろ?」
 豊が言うとスライトリーは、
「そうだ。シャチどもに、これ以上好きにはさせない」
「いい話だね、豊くん」
 突然、豊とスライトリーの背後から声がした。
 二人が慌てて振り返ると、そこにはイルカスーツを来た人間がいた。──それと三匹のシャチ。
「昨日はどうも」
 その人間は言った。


 七十階建てビルの屋上は、海面より上にあった。由貴子は、おぶってきた真次をそこに寝かせる。
「ここなら大丈夫ですよね」
 由貴子は、真次に言った。
「ああ、ありがとう」
 真次は言うが、その目がどこかいやらしげなのは、気のせいだと春菜には思えなかった。
「ねえ由貴子さん。もう真次さんは大丈夫とだと思うから、戻らない?」
 一刻も早く、真次の顔を見ずに済むところに行きたかった春菜は、そんなことを言ってみた。が、由貴子は、
「ダメだって。さっきまで死にかけてた人なのに。何かあったらどうするの」
「そう……か。そうよね」
 春菜はうなずく。──春菜は少し反省した。いくら嫌いな人間だからといって、人を人とも思わないことをしようとする。これは人としてよくないことだ。
「悪いね、二人とも」
 真次が、目を細めて言った。眠たいのだろうか。
「いいんですよ。あ、そうだ。何か欲しいものとかあります?」
 由貴子が、真次の顔をのぞき込んで言う。
「特にない……」
 小さな声で真次は言うと、ゆっくり目を閉じた。
「あ、寝ちゃった」
 春菜が小さな声で言うと、真次は薄く目を開ける。
「起きてるよ」
 どうやら今の声で起こしてしまったらしい。
「寝てもいいんですよ」
 由貴子が優しく言い、その体に触れると真次は微笑み、再び目を閉じた。
 ──あやしい。春菜は、いぶかしく思う。
 相手が病人とはいえ、由貴子は優しくしすぎではないだろうか。こういう男がタイプなのではないか。性格は破綻しているが、由貴子はそれをまだ知らない。
 春菜は、それについて一言言おうと思ったが、自分がとやかく言うべきことではない、と思い直し、
「ふうっ」
 と、ため息だけをついた。するとそれを見た由貴子が、
「どうしたの、ため息なんか」
 と言い、上機嫌に歌を口ずさみ始めた。
 ──歌、か。なつかしいな。
 春菜は微笑み、由貴子と声を合わせた。


 豊は、その人間を見るのは初めてだったが、誰なのか感じることができた。
「春菜の親父、いやお父さんですね」
「そうだよ、豊くん。私が細江速人だ」
 細江はイルカ語でそう言ったあと、後ろのシャチに向かって何事か言う。──何を言っているのかは分からない。きっとシャチの言葉なのだろう。
「みんな、あなたを捜してました。人間たちを救えるのは、あなただけだって。春菜も……。そうだ、春菜が逢いたがってる。はやく、いや、なんだろう。何を聞けばいいんでしょうか。……どうしてシャチと一緒なんです?」
 豊は、三匹のシャチを見回しながら、考えもまとまらないまま言った。
「何を聞けば、か。なるほど。──ふむ。何から話したらいいものか……」
 細江もそう言って腕を組んだ。「あー、簡単に言うと、君たちを助けに来た、というところか」
「助けにきた? 何からです?」
 と、豊は目を丸くし、「この海から、ですか?」
「違うよ、豊くん。陸なんてもうありはしない。あったとしても、暮らせるような場所じゃない」
「じゃあ何のことを言ってるんです?」
「ふむ」
 細江はうなずく。「地球は偉大だね」
「は?」
 豊は顔をしかめた。
「地球は偉大だ。私の想像など、追いつきもしなかった。適応放散、妊娠不能、生態系異常……。いや、それくらいは予想できていたかもしれない。何より失敗だったのは、共生すべき海棲ほ乳類を、イルカと見誤ったことだ」
「なぜ、なぜそれが失敗なんです」
 豊は批判げに言う。が、細江は顔色ひとつ変えず、
「君も分かっているだろう。陸の覇者は我々人間だった。そして海の覇者はシャチなのだよ。──シャチは元来、寒冷地に棲むことが多い。だから私は、シャチとの共生は無理だと思った。しかし何のことはない。シャチはどこでも適応する。暮らしやすいここに来てくれた。我々人間との共生も可能なのだ」
「でも俺は、何度もシャチに食べられそうになりました。共生なんか無理です」
 豊が言うと、細江はフフフッと不気味に笑った。
「それはそうだろう。私がそう仕向けてるのだから」
「なっ!」
 この時、豊ははっきりとした怒りを感じた。「それはどういうことですか」
「どうもこうもない。イルカとシャチの力の差を、身を持って知ってもらいたかっただけだ」
 細江は変わらず、淡々と言う。
「自分の娘、春菜もいたんですよ!」
「実際に『喰え』と命令したわけではない。『おどしをかけろ』と言っただけだ。──そもそも歴史上、シャチは人間を喰ったことはない。実際に、シャチに喰われた人間がいたかな、豊くん」
 言われてみれば、誰かシャチに喰われたというのは聞いたことがない。すべてはこの人の言う通りで、この人に従うのが正しいのだろうか。豊は、そんな気になってきた。
「だが俺の仲間は喰われた」
 そう言ったのは、スライトリーだった。
「確かにそういうこともあるだろうね。君はイルカだもの、スライトリー」
 言って細江は二、三度うなずく。
「なぜ俺の名前を知っている」
 スライトリーは不快げに言う。
「調査は進んでいるよ。知ってるのは君だけじゃない。春菜や田村由貴子くんも君たちの仲間だ。そしてイルカのキャンドルというのもいる。ほかには……」
「もういい」
 豊は静かに言った。「俺たちにどうしろと言うんですか。イルカではなく、シャチと共生しろと言うんですか」
「そのとおりだ。さすが豊くん。物分かりがいい。シャチの仲間は、私を含めてもまだ数人ほどだが、これで少しは明るくなる」
「もし、嫌だと言ったら?」
 豊が顔をしかめて言うと、
「力ずくでイルカたちを滅ぼすだけだな」
 細江は平然と言った。が、豊は首を大きく振り、
「なぜです。それぞれが別々のところで、平和に暮らせばいいことじゃないですか。なぜそんなにこだわるんです。共存できないんですか」
「できない」
 細江はまた、表情を変えずに言う。「君にもいずれ分かる。春菜にも伝えて欲しい。イルカたちは捨て、私やシャチとともに生きようと」
「嫌です。伝えません」
「君の意見よりも、春菜が私と暮らしたいかどうか、春菜の意見が大切だ。赤の他人の君が、それをジャマしてはいけない」
「赤の他人じゃない。あなただって、それを認めたから俺にイルカスーツをくれた」
「違うよ、豊くん」
 細江は首を振る。「私が君にイルカスーツをあげたのは、春菜の恋人と認めたからじゃない。海の王になれると思ったからだ」
「海の王?」
 豊は、眉をひそめる。
「君は、子供の頃から体が弱かった。気管支炎、鼻炎、脳炎、肺炎、虫垂炎……。どれも大事には至らなかったが、いろんな病気にかかったね。それは君の免疫機能が弱かったからだ。白血球とか血小板とかにも、わずかながら異常があった。──海の生き物は陸上生物に比べて、免疫力が弱いと言われる。君はまさしく、海の生き物なのだ」
 確かに細江の言うとおりだった。豊は、子供の頃から体が弱かった。しかし、それをなぜ知っている。
「不思議そうな顔をしているけど、この調査は十年、二十年前から行われてきたことなのだよ。──豊くん。君は海の中では、誰よりも魚をうまく捕れるし速く泳げた。違うかな?」
 細江の言うことは全部本当であり、豊は言葉をなくしてしまった。
「君は気付いてないだろうが、君は人類を救える可能性を持った存在だ。なんだってできる。そして私とともに、この海をすばらしい世界にしようじゃないか」
 豊はもう、何も言えなかった。


 三日後、またここで会おう、と細江は言った。そしてその時には、春菜や由貴子、みんなを連れて来い、とも。
「どうしたもんかな」
 豊は、自分の下のスライトリーに言った。
「俺に聞くなよ」
 スライトリーは憮然と言う。
 ──本当は、スライトリーに聞くまでもなく答えは出ていた。
 豊たちがシャチと暮らすことを選ばなければ、イルカたちは襲われることになる。イルカたちと別れなければならないのは残念だが、彼らの安全を考えると選択肢はひとつしかない。
「みんなに伝えたら、みんなはなんて言うかな」
 豊は訊くが、スライトリーは、
「さあな」
 とだけ言った。
 もう少し、もう少し何か言ってくれるんじゃないか、豊はそう思っていた。
「お前は何とも思わないのか、スライトリー。俺たち人間なんて、いなくなってもどうだっていいのか」
「そうだな。お前らがいようがいまいが、たいした違いはない。好きにしろ」
「そうか」
 豊はうなずいた。──これがスライトリーなのだ。感傷的なことなど、言いはしない。
「──おや?」
 スライトリーが言った。「歌が聞こえるな」
「歌?」
 スライトリーの言葉に豊は耳をすませたが、何も聞こえない。
「やたら大勢で歌ってやがるな。──行ってみるか」
 スライトリーは、スピードを上げた。


 高いビルの周りに、十頭ほどのイルカが集まっていた。そして彼らは、海面に突き出した頂上を向いている。
「クィークィー」
「クェークェー」
「クォークォー」
 イルカたちは思い思いの音を発し、メロディーを奏でている。ただ歌詞はついていないようだ。
「あれ、この歌って……」
 豊は海面から顔を出し、ビルの頂上を見た。
「やっぱり」
 春菜と由貴子が屋上に腰掛け、ビルから足を投げ出して歌っている。──イチ時期、流行った日本語の歌だ。
『あ、おかえり!』
 春菜が、豊を見つけて日本語で言った。『取れた? 魚』
『ああ』
 豊も日本語で言い、数個のビニール袋を見せる。中では、魚がもがいている。
『おかえり』
 由貴子も言った。──豊の登場で歌が止んでしまった。
「クィークィー」
 一頭のイルカが、もっと歌ってくれ、と催促した。
「ちょっと待って」
 春菜はイルカ語で言うと、ビルから飛び降りた。──海からは数メートルなので、たいしたことはない。
 水飛沫を上げて海に入った春菜は、豊の元へ泳ぎながら、
「ニュース、ニュース!」
 と、笑いながら言った。
「どうした?」
 豊は、目を丸くする。
「真次さん」
「は?」
「真次さんが生きてたの」
「ホントか!?」
 豊は驚く。「どこだ。どこにいる」
「上。上で寝てる」
 豊と春菜は、ビルの階段に向かった。
 その間に由貴子が歌い出し、イルカたちはそれを真似て歌い出した。
 イルカたちにとって、歌は数少ない娯楽のひとつだった。


 真次は、いびきをかいて寝ていた。
「大丈夫か、この人。やっぱり死ぬんじゃないのか。いびきをかくって、よくないだろう」
 豊が言うと春菜は、
「んー、別に頭打ったとか、そういうことじゃないからね。頭打って気絶したときとか、いびきをかいてると危ないって言うけど、そういうことじゃないからね」
「それにしても、海の外でよく熟睡できるな、この人」
「え? 私だって寝れるよ。当然じゃない」
「そうか? 俺はもう海じゃないと寝れないな。──やっぱり俺は海の生き物なんだな」
「なにそれ?」
 豊の言葉に、春菜は首を傾げた。
「いや、俺もすっかりイルカになったなって」
「ふーん」
「と、ともかく──そうだ。みんなを集めなきゃ」
 豊は言って立ち上がると、歌う由貴子の方に向かった。
「みんなを集めるって、どういうこと?」
 春菜も立ち上がると、豊のあとに従いながら訊く。
「ちょうどいい。ここに集まってもらおう」
 豊が言うと、一曲歌い終えた由貴子が、
「何のこと?」
 と、振り返った。


「春菜の親父さんに会った」
 豊が言うと、驚いたのは春菜だけでなく、由貴子もだった。
「──俺としては、イルカたちと別れるべきだと思う。きっとみんな賛成してくれるはずだ」
「私もそれがいいと思う」
 由貴子も言う。が、意外にも春菜が、
「ほかに方法はないのかな」
「ほかの方法? 例えばどんな」
 豊が言うと、春菜は首を傾げながら、
「イルカたちと一緒に、東京を離れて別の場所にいくとか……」
「また移動するのか? いや、そうするとしても、お前はいいのか? 親父さんと一緒に暮らしたいだろ?」
「それはそうだけど……。でもね、自分の親が無事だって分かって、しかもどこにいるかも分かってる。会いたいときは会えるっていうなら、無理に一緒に暮らす必要もないんじゃないかな? それぞれの生き方、人生があるって思うの」
「……確かにそうだ」
「それにね。あの時言ったじゃない」
「あの時? 何を?」
「イルカたちを守り、イルカの文明を見届ける。それが私たち人間に与えられた、最後の役目だって」
「言ったな、そんなこと。でもそれが間違ってた、ということもあるだろう」
 豊がそう言うと、由貴子も言う。
「春菜ちゃんの言うようにね、もしイルカたちと別のどこかに行ったとしても、シャチたちは追ってくると思うよ。親心としては、一緒に暮らしたいと思うのが普通だもの」
 春菜は、それ以上何も言わなかった。


 東京に住む人間、すべてを集めると三十人ほどだったが、彼らに話をすると様々な意見が出た。
 シャチ側の人間、つまり細江速人がイルカと暮らせばいい、とか、春菜が言ったようにどこかに行けばいい、とかいう意見に続き、シャチどもと戦えばいい、という無謀な意見も出た。が、それらは否定され、反対意見とはならなかった。
 しかし、もっとも困った意見があった。
「──残念だが仕方ない。イルカたちと別れ、シャチたちと暮らす。それしかない」
 ビルの上から豊が言うと、海にいる人間たちは首をひねったりしながらも、理解してくれたようだった。
「ただひとつ、気になることがあるの」
 海の中から、太めの女が言った。
「何? 玲奈」
 ビルの上の由貴子が訊く。
「その話が本当って証拠はどこにあるの? 細江博士に会ったって話が、ウソかもしれない。のこのこ行けば、シャチに食べられるってこともあるんじゃない?」
「もっともだ」
 と豊。「だけど信じてもらうしかない。信じる人間だけ来ればいい」
「じゃあ私は行かない。アレグラールたちと、イルカたちと暮らす。いまさらシャチの仲間なんかになれるもんか」
 玲奈がそう言うと、ほかの人間も言い出した。
「そうだ。俺も行かない」
「俺もだ。──だいたい細江っておっさんは、娘と暮らしたいだけなんだ。娘だけ行かせればいい。それなら不満はないだろう」
「ちょ、ちょっと待ってくれ!」
 豊は慌てる。「細江博士とは確かに会った。そして全員を連れて来いと言った。イルカスーツを造った人なんだ。何か考えがあってのことだろう。言うとおりにしてくれないか」
「なぜお前の言うことを聞かなければならない」
 ある男が言った。「お前の言うとおりにする義務はない」
「それはそうだけど……」
 豊は、弱気になってしまった。──この中では、豊は明らかに若い人間だ。リーダーシップを取るには不適当とも言えた。
「うるせーぞ、お前ら」
 声がして、豊は振り返った。──さっきまで寝ていた真次が立っていた。
 真次はビルの端まで歩き、海の人間を見回すと言った。
「どーせ俺たち人類は長くないんだ。可能性のある方を選べばいい。──それにリーダーの言うことは聞くもんだ」
「そいつをリーダーと決めた覚えはないぞ」
 不細工な男が言う。
「うるせい! リーダーなんて流れの中で決まるもんなんだよ! 少なくとも、お前はリーダーに向いてない!」
 真次はビシッとカッコつけて言うと、由貴子の方をチラと見る。そしてその由貴子も、うっとりしているようだった。
 これに調子づいた真次は、ビルから不細工な男に向かって飛び降りた。が、空中でバランスを崩した真次は、腹から海に落ちた。
「いってー……」
 真次は、うめきながら腹を押さえていた。
「と、ともかく!」
 豊は声を上げる。「3日後にここに集合しよう。みんな来てくれることを望んでいる」
 これにて集会は終わった。


 豊は、ひとり泳ぎながら考えていた。
 細江は、豊を特別な人間だと言った。確かに、人よりも海の生活に適応している。とは言っても、やはりイルカ以上ではないし専門知識もない。
 自分に何ができるのだろう。自分はなぜ、生きているのだろう。
 豊は考え続けたが、簡単に答えの出ることではなかった。


「なあ、スライトリー」
 背中に乗っている豊は話しかけた。
「なんだ」
 と、スライトリー。
「お別れの記念に、ブリーチやってくれ、ブリーチ」
「あん? ブリーチ?」
「ジャンプだ、ジャンプ」
「ああ、飛び上がることか。お前らはややこしいな、いろいろと」
 スライトリーは言うと、海面に向かって全速で泳ぎ始めた。背中に乗ってる豊にも、スピードが加わる。
 シャッ! という音とともに、豊とスライトリーは海面に飛び出した。
 抜けるような空と太陽。──光が二人を照らし、水しぶきが虹を描く。虹のてっぺんで豊は、
「おおー!」
 と叫ぶ。──高い。5メートルは飛んでいる。
 そして落下。バシャッ! と水を跳ねて海に入る。
「もう一回もう一回!」
 豊は、はしゃぐ。
 スライトリーは、何度もブリーチをやるはめになった。


「やっぱり、俺たちがシャチの仲間になるのは嫌か?」
 豊は訊いた。
「まあな」
 スライトリーは言った。
「そうか。──でも、もうイルカたちを食べることはないように、しっかり言っとくから。……それで、勘弁してくれ」
「ふん」
 スライトリーは、噴気孔からボコッと空気を出した。