ドラキュリア 序幕
作:九夜鳥





序幕 月想


 1683年、神聖ローマ帝国は、敵対するオスマントルコによるウィーン包囲を見事耐え抜き、やがて攻勢に出る。のち1699年に結ばれたカルロヴィッツ条約により、オスマントルコはハンガリーの支配地の大半を失うこととなった。オーストリア(神聖ローマ帝国)の属領となったその中に、かつてワラキア公国と呼ばれていた土地の一部が含まれていた。
 カルロヴィッツ条約締結の二百五十年ほど前、十五世紀後半。当時、件のワラキア公国に、彼の国の君主であったヴラド・ツェペシュという人物が存在した。彼こそ世に『串刺し公』の異名で知られる、『吸血鬼ドラキュラ』のモデルといわれるその人である。


 だが彼に、一人の妹がいたことは、まったくと言っていいほど知られていない。


 *


 オーストリア帝国領ハンガリー。ワラキアに隣接するトランシルヴァニア地方はその日、静謐な光を湛える蒼褪めた満月の晩を迎えた。カルロヴィッツ条約の結ばれた1699年からさらに二十年を数えた1717年5月5日の夜。
「ディティア」
 構えた剣が、月の光を受けて冷たく輝いた。長剣を手にする、銀髪を束ね背に垂らした青年はつい数時間前まで主として仕えていた少女に呼びかける。
「ドラグ……。まだ、私をディティアと呼んでくれるのだな」
 数メートルを隔てて、少女が答える。その声はどこか嬉しそうで、だが悲しそうでも、懐かしそうでも、どこか淋しそうでもあった。まるでやっと手に入れた何かを失うかの、失うことを受け容れてしまった笑みを浮かべる。それも仕方の無いことなのだ、と彼女は内心で思った。
 濡れた鴉の羽のように深く、まさに漆黒というべき美しく流れるような髪を持つ、ディティアと呼ばれた少女。年の頃は十六、七歳だろうか。女性としてはまだまだ蕾を思わせる体つきではあったが、とても端正な顔立ちと、深い湖を思わせる氷青色の瞳の放つ輝きのせいか、十かそこらは年上に見える。彼女は、髪の色と同じく、漆黒の衣装を纏っていた。体の線が浮き上がるようピッタリと張り付く、マーメイドドレスである。
「この娘を、逃がしてやるわけにはいけないのか」
「済まぬが、それは、できない相談だな」
 ドラグ青年の背後には、意識を失っているらしい娘が木の幹にもたれかかるようにして座っていた。ドラグは彼女を、ディティアの元から逃がそうとしているのである。
「私には、時間がないのだ。やはりあの時行き当たりばったりで手順の殆どをすっ飛ばしてしまったせいであろうな。我が魂の膨張に耐え切れず、肉体に崩壊の兆しが現れ始めておる」
 眼前に掲げられたディティアの右腕。そこにはまるで石膏像かなにかのように、亀裂が入っていた。大きな衝撃を与えればそこから折れてしまうだろう。服の上からは見えないが、同様のものが左脇腹にも走っている。
 ドラグは顔をしかめた。手にした長剣は、教会によって清められた聖銀を、聖水と聖油を用いて鍛えられたという討魔の聖剣である。刀身には聖句まで刻まれており、いかな悪魔であろうとこの剣にかかって無傷でいられるものなどおるまい。
 それは戦場で成年の儀を迎えたドラグに、ディティアの父から与えられたものだった。他でもないドラグの仕えるディティアと、ブランディアード家を守護するために、と。
 今その剣を向けている相手は、よりによって当のディティア・ブランディアードである。
「その娘はヴラドの末裔だ。血の匂いで判る。傍系か、それとも『父上』あたりが市井との間に成した落胤の子孫かは知らぬが……彼女ほど我が贄に相応しいものなど居らぬ。力づくでも渡してもらおう。そこをどけ」
『父上』とは、おそらくディティアの父、二ヶ月前に夭折した前ブランディアード男爵のことではない。ヴラドに関わるということであれば、それは三百年も昔に存在した人間を指しているということになる。あの、黒猫ディティスの父親のことだ。
「どくわけにはいかない」
「貴様は私とブランディアードを守る騎士ではなかったのか? よりによってその私にその剣を向けるのか」
 ドラグが顔をしかめた。苦渋の決断を下したはずであった。俺はブランディアードの騎士として、ブランディアードに仇なすものを、神にさえ見放された吸血鬼を、この剣によって討ち滅ぼすのだと決めたのではなかったのか? ディティアの魂を救うのだと……!
 数時間前の決心は早くも揺らいでいた。
「……それでも、どくわけにはいかない」
「ならば、仕方ない」
 ディティアの手の爪が、大きく伸びた。生半な刃物など及びもつかない切れ味を誇る悪魔の爪だ。戦に出たことのあるドラグは、その経験から魔爪の威力を感じ取る。握り締める聖剣が主に注意を喚起するかのように僅か震えたような気がした。あらゆる迷いが、死に直結すると磨きぬかれた直感が総動員で叫んでいる。
 同時にドラグは心の中で嘆いた。ディティアは既に、自分の知っているディティアではないのだと。ドラグを兄と呼び、慕っていてくれた少女ではないのだ。
 次の瞬間、殆ど一足飛びにドラグの懐に飛び込んだディティアが、その爪を大きく薙いだ。澄んだ音を立てて討魔剣と魔爪が鍔競り合う。
「ッ!」
 ドラグがその体格差を以ってディティアを押し返す。ジッ、と振り下ろした討魔剣の発する霊気が空を焦がした。宙を斬る。切っ先が仕えるべきであったはずの少女に届く前に、彼女は大きく後ろへと跳んでいた。踏み込み、返す刀で下から薙ぐがそれも届かない。
「!」
 瞬間、ドラグは横に身を投げ出して魔姫の発した魔力をかわした。何かが見えたわけではない。不可視の一撃。低く重い音が響きハッと見ると、一瞬前いた地面が抉られている。
「見事! 今のをかわすか!」
 身を起こした時、ディティアは目前に迫っていた。剣を振るって斬撃を打ち払う。再び地に身を投げ出して一転、立ち上がって追撃をかわし、剣を突き出す。ディティアの左肩を聖剣が掠める。聖気によって身を焦がされながらも構わずにディティアは爪を振るった。途端前蹴りで吹っ飛ばされ、魔爪はドラグの脇腹を僅かに薙いだだけだ。互いに致命傷ではない。
「オオオオッ!」
「ガァッ!」
 距離を置いた二人が同時に突っ込む。純度の高い金属同士を叩きつけ合う澄んだ音が数度響き渡り、二人は鍔迫り合った。
 聖剣と魔爪の、二つの形を成す互いの死を押し付けあいながら、二人の視線が交錯する。殺気をぶつけ合いながら、ディティアはドラグの左瞼から頬にかけて縦に並んで走る三筋の傷跡に思いを馳せる。
 この殺し合いは、その傷が付けられたときに端を発する。もう十年も昔のことであった。風が渡り、月と星だけが、この決闘の行く末を見詰めている。今では死者を主とするブランディアードの館。その庭で、幼馴染同士兄妹同然に育った二人はもはやお互いのことしか見えていない。それは貪りあうような愛にも似た、命の奪い合いであった。