ドラキュリア 第一幕
作:九夜鳥





第一幕 宿名


 そもそも、ドラグ少年は孤児であった。自分がどの民族の血を引いているのかなどわからない。物心がついた時にはいわゆるジプシーの一団に連れられていた。揺れる馬車の中、積み込まれた荷物の片隅で、ずっとうずくまっている。それがドラグのもっとも古い記憶だ。
 中世東欧の歴史は、血塗られた歴史である。
 西には10世紀中ごろから台頭してきた現在のドイツに位置するオーストリア。隣接するハンガリー。東にはビザンツ帝国と、のちにビザンツを滅ぼしたオスマン・トルコ。
 黒海と、黒海を外海へと繋ぐボスポラス海峡およびダータネルス海峡は交易の要衝であり、ヨーロピアとオリエントを別ける重要なラインである。文明と文化が混ざり合うその地を巡り、大国同士が互いに互いを侵略するための足掛かりとして常に戦災に晒されていたのであった。
 ドラグが生まれたのも、そういった戦禍に見舞われた貧しく小さな村であったと、彼を拾った一団の長は語ってくれた。西か東か、どちらの軍勢によるものかはわからない。旅の一団が略奪と破壊の限りを尽くされたその村跡に立ち寄ったとき、ほんの幼子であったドラグは呆然と瓦礫に腰掛けて、煤けた顔を青空に向けていた。どうやって生き延びたのか。側には母親と思わしき女性の遺体が転がっていたという。まだ、自分の名前すらわからない一歳ほどのことである。
 名づけの親は、彼を世話してくれた乳母の夫だった。ドラグのことを疎ましく思っていたその男は、足元を這い寄ったトカゲを見てドラグに名前をつけた。
『堕落せし蛇』即ちサタンの化身であるドラゴン。そのスペルをもじって、ドラグ。キリスト教における忌み名の一つである。こうして洗礼を受けたのかどうかすら定かではない幼子は、キリスト教徒でもないジプシーの男によって呪いをかけられた。
 一方でその呪われた名前のせいか、しばし伝説におけるドラゴンが屈強にして英知を誇る幻獣王として描かれるように、ドラグ少年もまたその様に育っていった。拾われて五年もすれば、十歳のこどもほどの大きな身体になっていた。喧嘩しても滅多に負けることなど無い。学はなかったがそれは仕方が無いこととしても、頭が悪いわけでもない。だから、忌み名とは言え、少年は自分の名前が嫌いではなかった。
 少年に転機が訪れたのは拾われてから八年目の、春のことである。


 ブランディアード家は、古くから続くトランシルヴァニアの地方貴族の一族であり、十五世紀末にその歴史を辿ることができる。領地は特に広いわけでもなく、有力な中央貴族との繋がりがあるわけでもない。それでも慎ましやかに土地を治め、代々の善政によって村々の民からは慕われていた。
 一方で、ブランディアード家は武人の家系でもあった。ハンガリーの宮殿に将軍として召抱えられた血族の数は五指では足りないほどである。もちろん、これはただの地方貴族としては快挙などという生易しいことではない。だが、およそ政治的な立ち回りの才能が壊滅的に足りなかったのであろうか、それとも遺伝的に宮殿、すなわちヒトという名の欲望と悪意の巣窟の水が合わなかったのだろうか。いずれの大将軍も政治的な力を手にすることなく宮殿を去っている。とにかく、大きな戦争が無いときのブランディアードはただの田舎者と揶揄されていた。
 ジプシーの一団がブランディアード家の治める村の一角に野営したのも、ちょうど戦争と戦争の合間の、ぽっかりと空いた平和なときのことだった。
 ちょうどその日は、やがて来る秋の実りが多からんことを願う祈祷祭のことだった。森や大地に眠る精霊に豊穣の祈りと踊りを捧げ、祭りの翌日から畑に麦の籾を蒔くのである。
 それは大切な儀式であると同時に、娯楽の無い田舎の村の、数少ない楽しみの一つである。女は年端もいかない少女から婦人まで普段はしない紅を口指し、着飾って踊る。若い恋人たちは人目の隙をついては手に手を取り合って茂みへと隠れて愛を交わす。大人もこどもも老人も、皆が普段とは違う賑わいに酔いしれていた。また明日から始まる、収穫までの半年を乗り切る鋭気を養うために。
 普段はよそ者扱い、時には石を投げつけられることもあるジプシーたちであったが、こういう晴れがましいときは一転して人気者だ。不思議な踊りにあわせて見たことも無い楽器をかき鳴らし、タロットを用いて恋人たちの行く末を(こっそりインチキしていい事を暗示する言葉を少し多めに並べる)占いをしたり、異国の髪飾りを馬車の軒に並べて露店を開いたりと大忙しである。
 ドラグはそういった賑わいに加わらず、村のほとりを流れる川べりにいた。この川を下っていけばやがては雄大なるドナウに繋がっているのだという。見たことも無いその川と、顔を覚えてすらいない母親のことを思う。
 遠くで人々が笑い、唄い、踊る楽しそうなざわめきが聞える。
「僕の生まれた村でも、こんなお祭りがあったのかな」
 ジプシーの一団は、ドラグに優しくしてくれた。育ててくれた乳母もそのお母さんもいい人であった。名付け親のように自分を疎ましく思っている奴も少しはいたし、そいつらは決まって自分に大変な仕事を押し付けたりするので嫌いではあったが、自分は結構あの一団が好きなのだと思う。
 でもやっぱり、彼らと自分は別々なのだなと、ふとした時に思ってしまう。やや浅黒い肌に黒髪、そして黒目の彼ら一族と、白い肌に灰銀の髪と瞳の自分。そのことを意識してしまうと、いつもドラグは荷馬車の薄暗がりに逃げ込むのだった。そこでなら、自分もまた彼らと同じ色になれるから。
「きみ、どうしたのかね」
 顔を上げると、小奇麗な馬車の中から身なりのいい紳士がドラグ少年のことを見詰めていた。彼は馬車から、再び質問を投げかける。
「一人で寂しくないのかね」
 寂しいです、と少年は答える。ずっとずっと、心のどこかで抱えていた寂しさである。
「ではなぜ祭りに加わらない」
「……あとでもっと寂しくなるからです」
 ドラグは何か得意な芸があるわけではなかった。踊ることも楽器を奏でることも苦手で、この世の運気を読み取る占いなど全くできない。だから、祭りでは雑用をこなすか遊ぶことしかできない。
『この、やくただずが!』
 そしてきっと言われるであろうあの男の言葉が、ドラグの孤独を深めるのだ。
 思いもかけない答えに、一瞬紳士はキョトンとして、次に笑った。
「なるほど。それは重大な理由だな。祭りをボイコットするに値する」
 ひとしきり笑った紳士は、笑われてむっとするドラグに再び質問する。
「名はなんと言う。村の子かね」
「名前はドラグ。今、村に来ているジプシーに拾われた子です」
 それを聞いて、紳士の顔から笑みが消えた。視線が宙を泳ぎ、ドラグが訝しがったとき、馬車のドアが開いた。
「乗りなさい。村まで送ろう」
 ドラグが乗り込むと、中には婦人と、彼女に抱えられて眠る小さな女の子がいた。貴婦人は慎ましやかに会釈した。慌ててドラグも頭を下げる。そのかわいらしさに、婦人が微笑んだ。
 御者に指示を出して村に戻る馬車の中で、ドラグは紳士に一つの話を聞かされる。
「きみの世話になっているジプシーの婆さまに、占いをしてもらったんだ」
 紳士はそう語った。少年は知っている。あの占いは、五回に一度しか当たらない。しかもこういう祭りのときに不吉な目が出ても、それをそのまま伝えることは滅多にしないのだ。でないとお客が怒ってお金を払ってもらえないから。
 だが、当たるときはど真ん中である。恐ろしいまでに正確だ。
『貴方を守るものが貴方の血を守る。その守護者と貴方は出会う』
 タロット占いは、そう告げたのだという。
「私の家は白い竜を家紋としている。わかるかね? ドラゴン、すなわち君のことだ」
 今度は、灰銀髪のドラグ少年がキョトンとする番だった。


  *


 こうしてドラグ少年は、ブランディアード男爵家に迎え入れられのである。それどころか、養子縁組までしてもらった。破格の扱いとはまさにこのことだ。
 だが、与えられる事となった姓はブランディアードではなかった。リインマイトという、十年ほど前に断絶してしまったブランディアードとは遠縁にあたる家の姓である。遺産と領地は全て親族で分配されてしまっていたから、完全に形式上の養子縁組であった。このような形で名ばかりの貴族姓を得たり継いだりすることは当時ままあったことだった。
 なぜ、ブランディアード家に入れられることはなかったのか、ドラグは本当の理由を知らない。由緒正しい血統にどこぞのものと知れない者を連ねたくなかったのか、それともやがて当主として戴くこととなるディティアの事を考えてだろうか。それを知る必要をドラグは感じなかったし、今となっては主人であるブランディアード男爵はこの世にはいない。
 ただのジプシーからリインマイト家当主に祭り上げられてしまった元孤児は、そのままブランディアード家に従者として預かりの身となった。貴族の子弟はある程度大きくなると他の貴族の従者として主人に付き従い見聞を広め他貴族との交流を持ち、社交界のルールを学ぶ。これもまた当時の習慣である。
 もっとも、ブランディアード男爵はあまり社交的、というわけではなかったので、ドラグ・リインマイトは殆ど男爵の世話係のようなものであった。
 それでも、ブランディアード家は武人の家系である。ドラグは男爵から剣と槍などの武芸と馬術、十四世紀フランスの英雄デュ・ゲクラン将軍の用兵を教えられた。テーブルマナーや立ち振る舞いといった社交の部分、文字の読み書きはブランディアード男爵夫人が教師であった。
 ドラグは貴族の姓を貰っただけの、下男扱いされても文句を言える立場ではなかった。それでも男爵も夫人も厳しくも優しくドラグに接してくれた。一度そのことを言ったら、
「ブランディアードは田舎貴族ではあるが、それでも我が家の守護者殿にも相応の格というものが必要であるからな」
 本当に世間体のことだけであっただろうか。だとしても、ドラグに良くしてくれる。みなしごに相応しからぬ地位を用意してくれた。様々なことを教えてくれる。そのことに変わりは無いし、それでも充分すぎるほどだった。感謝の言葉も無い。
 他の使用人も素朴で気さくな人々ばかりであった。彼をあげつらったり陰口を叩いたりなんて陰湿なこととは無縁だ。まるで、館そのものが一つの家族であるかのように。
 ずっとずっと、ドラグが求めていたものがそこにあった。


 ディティア・ブランディアードは、ブランディアード男爵の愛娘だ。ドラグより六つほど年下で、母親の血が強く出たのであろう。夫人と同じような漆黒の髪と瞳が愛くるしい娘である。あの日、馬車の中夫人に抱かれていた女の子だ。
 ディティアはこどもだったから、小難しいことはよくわからなかっただろう。ただ、年が少し離れた、おにいちゃんができたのだ知ってとても大喜びした。輝く目をキラキラとさせていつもいつも、ドラグについて回っていた。
 ドラグが剣の稽古をするときは自分も木刀をもって、えいやぁと振り回す。小柄な彼女は一体どっちが振り回されているのやらわからない有様でクルクルと回ってはずっこけた。
 夫人に文字を習えば、教わったばかりのアルファベットをおって、自分が好きな絵本をドラグに読み聞かせてくれる。自分の部屋を抜け出しては、ドラグのベッドに入り込んで本を読んでいるうちに、自分が眠ってしまうこともしばしばだった。
「お兄ちゃん、大好き! いつかディーはおにいちゃんのお嫁さんになるの!」
 それは何時のことだったか。夕食の席でそう宣言されて、ドラグは盛大に噴出し男爵は持っていたナイフを手落とした。変わらず夫人は慎ましい笑顔を崩さず、娘の熱い夢を聞いていた。
「……ドラグ?」
 じろりと男爵に見られて、ドラグは冷たい汗が背中を伝うのを感じる。
「えええっと、こ、これはですね。えーっと、ええーっと」
 視線を泳がせながら、ドラグは考えた。なんと答えるべきだろう。唯一ヒントとなりそうなのは、男爵は娘の事を溺愛しているということである。いつだったか遊びに来た友人がディティアにそろそろ許婚を探してはどうか、と言った途端、見るからに男爵は不機嫌になったことがあった。
 ……ロクでもない手がかりだ。
(私ごときがお嬢様を→うちの娘では不服かぁ!)
(こどもの言うことですよ→娘の純情を弄びよって!)
 嫌な結果しか浮かばない。どうしよう。
 と。
「んとね、こどもはね、えーと。……五十人!」
「あら、まあ」
 夫人が笑った。男爵は殺気に近いオーラを放ちながら、ドラグを見ている。
 いくらなんでも五十人って、そりゃ無理だよディティア。母に向って壮大な夢を語り続ける純真な少女に心の中で突っ込みながら、ドラグは翌日の剣の稽古が命がけになることを感じていた。