ドラキュリア 第二幕
作:九夜鳥





第二幕 黒猫


 それは、よく晴れ上がった初夏の陽気の漂う日のことであった。
 前日まで降り続けていた雨のせいで、少し蒸す感じ。だが陽光に煌く濃緑の森と、渡る心地のよい風が、丘まで遠乗りに出かけた二人の心を躍らせた。
 ドラグがブランディアードに迎えられて八年が経っていた。叩き込まれた教えのおかけで、今では立派な貴族の若様である。相変わらずドラグは同年代の歳の子と比べて体格が良いし、あどけなさが僅かに残る顔つきからトランシルヴァニアの社交界のご婦人方からはちょっとした人気があったりした。今では剣の腕も見事なものとなっていた。時には師であるブランディアード男爵を追い詰めることもしばしばだった。そのかわり、というべきかどういうわけか弓矢の腕はサッパリだったけれど。
 ディティアは相変わらずドラグの後ばかりをついて回りたがる。最近になってやっと編み物や刺繍に興味を持ち出し夫人を喜ばせたが、それでも男の子勝りに走り回って遊ぶ。やはり武家の血が流れているせいだろうか。遊びで振り回す木刀に時折キレがあったりして、ドラグや男爵はディティアの行く末をちょっと不安に思わないでもなかったりするのだった。
 丘を二つほど越えて、森の側の草地に二人は敷き布を広げた。ディティアが抱えていたバスケットを広げると、そこには二人では食べきれないほどのお弁当である。
「もう、私ダイエットしているって知っているのに。マーガリッテたら」
「むくれた顔をしても可愛くないよ、ディティア」
 マーガリッテとは館で働く料理長のことだ。非常にふくよかな体格の彼女は、少し痩せ気味のディティアを心配しているのだろう。
「ディティアはまだまだ身長も伸びるんだし、少しくらい太ったって変わらないよ」
「だって、お兄様」
「ディーがいらないんなら、このフライは全部もらった!」
 アーッ。ひッどぉぉい。それ私の好物だって知ってるじゃないの、いじわる!
 先ほどのダイエット宣言もどこへやら、二人は両手を組んで神への感謝の祈りを捧げると、フォークを手にして食事を始めた。猛然とフライばかりに手を伸ばしているのはディティアである。ドラグは、勢いよく食事する純真な少女を見やった。
 戦争が、始まろうとしている。政治的な外交の衝突から、ここのところ小競り合い程度で均衡状態にあったオーストリア−トルコ間は再びきな臭くなってきている。オーストリアと同盟を結んでいるハンガリーも傍観というわけには行かないだろう。およそ十七歳ほどとなるドラグ青年は、近日中に養父ブランディアード男爵の旗下として男爵とともにハンガリー宮廷に参上する予定であった。既に武具の用意は済んでいる。
 だが、そのことをまだ目の前の娘は知らない。さて、どうやって告げたものか。思いつきで外に連れ出してはみたものの、いい案は浮かばなかった。
 彼女は兄と慕う青年の心の葛藤など思いもよらないといった風で箸を進めていた。
 と、そのとき。
「……なに?」
「え」
 何かに気がついたように、ディティアが背後の茂みを窺った。
 その瞬間、真っ黒な何かが茂みから飛び出してきた。
「きゃッ!」
「ディティアッ」
 黒いそれは、真っ直ぐにディティアに飛び掛った。ドラグは立ち上がると同時に護身として身につけていた細剣を振り上げる。飛び掛る黒と短剣の軌道が交錯しガチンと重い手ごたえがあって、黒いそれはディティアの眼前で弾き返された。数本、ディティアの前髪が切られて舞った。
 ――と。
 宙で身を捻った黒は、その四肢をもって大地に降り立った。氷青の瞳、夜なお暗い漆黒の毛並み。一抱えほどはあるかという、大きな猫である。
「な……、ねこ?」
 黒猫は、どこかやつれた様であった。それでも、猫に特有のあのしなやかさと、冷然とした高貴さを失わずにいる。フゥゥゥ! と黒猫が唸った。
「猫さん、お、お腹がすいているのかな」
 ディティアが顔面を蒼白にしながらそんなことを言った。怯えているのは突然襲い掛かられたことと眼前を刃物が通り過ぎたことによるのだろう。
「わ、わたし猫嫌いじゃないけど、今日はちょっと遠慮したいなぁ、なんて気分なんだけど。餌あげるから、帰ってくれないかな」
「ディティア、いいから下がってろ」
 背後に少女を庇いながら青年は油断なく剣を構えた。
 何か、変だ。この黒猫。
 まず、大きい。太っているというわけではなく、むしろ野良猫のように痩せぎすだ。だが、体格が尋常でない。ちょっとした犬くらいはありそうだ。
 それに何故か立ち去ろうとしない。この草地はこの猫の縄張りなのだろうか。どこかに巣が隠れていて仔猫がいるとでも? そうでもなければ野生の動物がはるかに体の大きな人間に突っかかってくるなど、滅多にあることではないのだ。ましてや猫のように慎重さと臆病さを兼ね備えている動物は。だがこの黒猫は、それどころかドラグに対して明確な敵意を抱いていた。
「ね、ねこさん」
「ディティア!」
 混乱しているのだろうか、少女は、こともあろうか弁当に入っていた肉片をつまんで前に出た。背後の少女に気を取られた瞬間、黒猫が動いた。
 しまっ……!
 振り下ろした剣を掻い潜り、地を蹴って獣はドラグに飛び掛った。
「クッ!」
 返す柄で打ち据えた瞬間、その柄を足場に猫はさらにドラグの顔面に向って跳躍する。伸びた黒い爪が煌いて――
(……なんで爪まで真っ黒なんだよ)
 ドラグの左半面が抉られた。一瞬の間を置いて、血が滲んで噴出す。
 猫はそのままドラグをかわし、その背後にいるディティアに向って。
「……え」
 大きく口を開いて。
「ディッ……!」
 その肩口に、噛み付いた。


 太陽が翳った。
 月が閃いた。
 星が流れた。
 雲が湧いて空を覆いつくす。
 花は萎れた。生気を吸い取られるように。
 目が、見えない。
 耳が聞えない。口がきけない。大地がうねるように歪んで、立ってはいられない。
 風が渦巻いてディティアは世界が昏く暗く真っ暗に、夜のように真っ暗になっていくのを感じる。まるで、真っ赤なワインを水の入ったグラスに垂らしていくように。水が溢れても、ずっとずっと赤いワインが注がれていく。元々入っていた水はワインと混じってしまう。否が応でも、混じわざるを得ない。
 悲鳴を上げたのだと、思う。でも自身の声すら自分には届かなかった。極彩色の爆発が幾度となく脳裏に閃いて、ディティアに手を伸ばすドラグの顔も見えない。
 だが、どうしてだろう。
 ドラグの顔を流れる血の香がしたような気がした。すごく、美味しそうな香りが。


 ディティアは、残りの人生全てを今この瞬間から、夜の世界に生きることを余儀なくされることとなる。