ドラキュリア 第三幕
作:九夜鳥





第三幕 再逢


 四年。
 出征の日からおおよそそれだけの時間が過ぎた。
 ドラグはブランディアード男爵に付き従い、東欧の各地を転戦することとなった。時には作戦でトランシルヴァニア付近に来ることもあったが、結局は館に帰ることは出来なかった。
 度重なる戦の最中男爵が敵の槍を脚に喰らい、戦線を離れることになった。ドラグはそのとき既に武人として、同時に優秀な指揮官としての評価を確立しつつあった。長年男爵に鍛えられていた賜物である。養い子の成長した姿を見て、男爵は安心してその場を任せることができた。
 同時に男爵は成人の儀としてドラグにブランディアード家の家宝である長剣を下賜する事にした。教会によって清められた討魔の聖剣。それを受け取ると同時に、ドラグは『ブランディアード男爵の養い子』ではなく、『ドラグ・リインマイト』として初めて周りに認められたような気がする。
「あとは、任せた。我が竜よ」
 我が竜。その男爵の言葉は、自分を息子と呼んでくださるに等しいとドラグは思った。私はブランディアードを守る竜。ならば養父の言葉を裏切るわけにはいかない。彼は望んで戦地に赴き、その都度何らかの功績を挙げてみせた。きわどい綱渡りの作戦を成功させ、敵の包囲網を破って味方の退路を開き、時には逆に単隊率いて敵陣に切り込んでは敵方の武将を討ち取って見せた。
 トルコ軍を相手に獅子奮迅の活躍を見せる若い戦士を、周りを捨てておくはずが無い。ハンガリー宮廷どころか、そのさらに上、オーストリアにも彼を手許に置こうとする有力な貴族は後を絶たない。なぜならドラグのような勇者を側に置けば、勇猛を好むオーストリア皇帝の覚えが良くなるからだ。
 それどころか。
「余の許に来い」
 日暮れ前の野営地で、突然ドラグはそう呼びかけられた。またか、と少しウンザリする。このようなスカウトはもはや日常茶飯事に近いほどである。
「さすれば今のような僅か五十や百の兵ではなく、いずれは十万を超す大軍の指揮すら夢ではないぞ」
 なんとも豪儀な物言いをするスカウトマンである。よりによって万単位ときた。それは、当時のヨーロッパにおいて殆ど大将軍の地位である。それも生半可な小国ではない。それこそオーストリアやフランク王国、あるいはオスマントルコほどの大国レベルの。
なんといって断ろうかと、声の主に向き直って目にした紋章にドラグは飛び上がるほど驚いた。『双頭の鷲』即ちハプスブルグ家の家紋である。この紋章を身に着ける事ができるのは、オーストリア帝室に許されたものか、あるいは直系か。でなくば、当主……。
「此度の戦い、見ておったぞ。見事な用兵に、貴殿自身見事な武であった。ドラグ・リインマイトよ。余の許に……オーストリアに来い」
 再びドラグに呼びかける男。来ているらしいということは知ってたが、まさか当人が直接やってくるなんて。ハプスブルク朝神聖ローマ帝国が皇帝、カール六世その人である。オーストリア・ハンガリー連合軍の総大将。もと孤児のドラグにしてみれば、殿上人というより最早天上人である。
 申し出はありがたかったが、ドラグには断ざるを得ない事情があった。二年前に戦場を去ったはずのブランディアード男爵の容態が思わしくないのだという知らせが彼のもとに届いていた。ここでの戦いがひと段落着き次第、ドラグは一時戦場を離れるのである。
 事情を聞いてもカール六世は頑として譲らない。結局譲歩案としてドラグはオーストリア宮廷から多額の年金を受け取ることとなり、代わりに二年以内にカール六世の許に参じるという約束が取り決められたのだった。
「ブランディアード男爵に、余はなんどもあったことがあるぞ」
 まだ若い皇帝はそういった。政ごとよりも戦ごとを好む皇帝は、宮廷などとは比べ物にならないほど粗末な戦場の野営地にあってなお生き生きしている。
ブランディアード一族は、オーストリアの将軍を務め上げた者さえいる。皇帝と男爵が面識があったとして、なんら不自然でもない。
「見事な武人であられた。しばらく無沙汰であったが、そうか。負傷して離脱していたとは残念だ。……いつだったか貴殿のことも話しておられたな」
 ブランディアードを守る白竜とはなるほど、貴殿のことであったか。
 そのときから、ドラグの二つ名は定まった。
『ブランディアードの白竜』
 その名前は、戦いを通してあっという間に両軍に広まっていった。
 トルコ軍にとっては苦々しい思いとともに口の端に上がる。白竜にどれだけ煮え湯を味あわされたことか! 味方からは賞賛と僅かな妬みを込めて口の端に上がる。また、白竜がやってくれだぞ!
 こうして戦場の目と鼻の先、トランシルヴァニア育ちの勇者ドラグ・リインマイトは敵味方から白竜と呼ばれることとなったのである。


  *


 ドラグが戦に出たのは、あのピクニックから僅か一週間後のことである。
 黒猫は、ディティアに噛み付いた直後ドラグの剣によって胴を断たれて絶命した。噛まれたディティアはしばらく放心状態であったが、ドラグに連れられて無事に館に戻った後、しばらく部屋に閉じこもって顔を見せようとしなかった。結局ドラグと男爵は、ディティアに出征のことを直接告げることなく館を後にしたのである。
 それから四年が過ぎ、ドラグはたった一人で再び館へと戻ってきた。カール六世のスカウトから、何だかんだで三ヶ月近くかかってしまった。
 帰路の途中、ずっと見ていなかった懐かしい風景を眺めながら、ドラグは心逸るのに苦笑しながら馬を歩ませる。懐には、都で買った金細工の髪飾りを忍ばせている。美しく成長しているであろうディティアへのお土産だ。きっと黄金色はあの黒髪に栄えるから。
 あの、ドラグが男爵に拾われた村に差し掛かったとき、ドラグはふと違和感を覚える。なんだか村全体がさびれてしまったような気がしたのだ。畑に出ている村人たちの顔にもうっすら疲れの色が滲んで見える。
「どうしたのだ、いったい」
 見れば小麦の苗が青々と育っている。このまま行けば大豊作間違いなし、とまで言えずとも、さりとて冬を越せないほどでもないだろう。東のほうの戦争も、ここまで影響は及んではいないようであった。だが、なんなのだ。村人たちの疲れた顔は。
 疲れ? いや、どちらかといえば、これは……不安。
ドラグは近くにいた男に話しかけた。何かあったのか、と。男はそれが数年前まで館にいたドラグだと知って、飛び上がって喜んだ。
「これで、ディティア様も安心だ」
「……どういうことだ」
 嫌な予感がした。


 男爵様と奥方様が相次いで亡くなられたんだ。もう二ヶ月ほど前のことになる。一人娘のディティア様は悲嘆にくれて、滅多に館の外には出てこられない。……ここだけの話、実は四年位前から村の近くに化け物が出るようになったんだ。月夜の晩に大きな蝙蝠や黒猫が墓地をうろつき回っているって。この間、村の娘が干からびて死んでいるのが見つかったんだ。もしかしたら吸血鬼の仕業なのではないかって。ディティアさまも心を痛めておられる。


 ――黒猫。……吸血鬼。
 それは、まさか。まさか。
 脳裏に蘇る、ドラグとディティアの、最後の思い出。


 馬に飛び乗るとドラグは全力で馬を走らせた。
 村を駆け抜け、坂を越えて、すぐにあの懐かしい館が目に入ってきた。だが。
「なん……だ、これは」
 びっしりと、館には蔦が這っていた。庭師によって整えられていた花壇は雑草が生い茂っていた。そこかしこの窓は割られたままで、まるでこれでは廃墟のようではないか。
 軋む門を開いて、馬を下りると真っ直ぐドラグは館の正面扉へと歩を進めた。背後で門に繋がれた馬が怯えるように嘶いた。
 扉をくぐったそこは、ドラグが知っている館の残骸だった。建物が崩れ落ちているのではない。だが、誰も住んでいない場所特有の空虚さが漂う。昔日の、人々の生活の音が聞えない。だからここは今、残骸なのだ。窓から入ってくる陽光がロビーに舞う埃をキラキラと輝かせている。
「ドラグ・リインマイトただいま帰りました。誰か、誰か居りませぬか」
 声は余韻を引いて響いて消えた。ガルデ。ルーヴィヒ。リングレア。ワンバル。バチッド。続けざまに思いつく限り、執事や侍従の名を呼んでみる。やはり答えはなかった。
「……誰も居ない、のか?」
 農夫は、男爵と婦人は亡くなられたと言った。だが、ディティアは? 彼女はいるのではなかったのか?
 それとも……。
 不吉な想像が脳裏に湧いて、必死にドラグは打ち払った。
「ディティア、ディティアはいないのか」
 叫びは木霊して、やがて消えた。まさか、まさかまさかまさか。
 そのとき。
「……叫ばずとも聞えておる」
 正面の廊下、扉を開いて、漆黒の女が現れた。
「ディティア……?」
 それは間違いなく、ドラグを兄と呼んだ少女である。ディティアは美しく成長していた。腰まで伸びた漆黒の髪が揺れて、陶磁のような白い肌とのコントラストが印象的だ。整った顔の中で氷青の瞳が笑う。
 だがそれはあの陽光のような笑みではなくて、三日月のような儚くそして淋しい笑みだった。
 ヒマワリのように育つだろう。勝手な想像は、月光の夜を待ち今まさに花開かんとする白百合の美しさに砕かれた。あまりの想像の外に、ドラグは呑まれた。呑まれて、その衝撃は心の底に残った。
「遅かったな、ドラグ。もう二日も早く帰っておれば、マーガリッテにも会えたであろうに」
「……マーガリッテが、何か」
「暇を出した。今頃は故郷の村に帰り着いている頃だろう。彼女が最後であった。今はもう、この館には私しか居らぬ。……いや」
 何を言っているのだろうか。侍従が、誰もいない? そんなバカな。
「今日からは私と、貴様の二人きりだな。ドラグ」
 かつてディティアという名であった、ブランディアード家当主ディティア・ブランディアードは再び淋しそうな顔で笑った。今度はどこか、困ったような笑みであった。