ドラキュリア 第四幕
作:九夜鳥





第四幕 吸血姫


 二人っきりの夕食は、とても淋しいものだった。かつては豪勢な料理と、側には何人もの侍従が控えていた。そして男爵と夫人もここにいたはずだったのに。
 パンと、炙ったハム。適当に切り分けられた野菜を牛乳といくらかの調味料でシチューにした。ドラグが作ったものである。野営地ではこの程度の料理、すぐに誰にだってできるようになるだろう。
 卓について向かい合っても、二人の間に会話がなかった。貴族の夕食とは思えないほどあまりにさみしい料理に文句を言われないのは幸いであったが。
 食事が終わって、皿を片付けてもいないその場でドラグはディティアに話しかけた。
「男爵様と奥方様が亡くなられたと、聞いたよ」
「そうだ」
「どうして知らせてくれなかったんだい」
「知らせてどうなる、というものではあるまい」
「しかし」
「ドラグよ、人はいずれ死んでしまうものなのだ。貴様は戦場で戦っていた。父が危ないという知らせは届いておったであろう。戻ってこなかった貴様が悪い」
 それは、そうだが。
「殺し殺される。殺さないと殺される。そういう場所に貴様はいたのであろう。生き延びて功績を挙げたからには貴様は殺した側だ。人に殺される前に人を殺した側であろう。貴様が殺した相手の身内に、父なり息子なり恋人なりがもうすぐ殺されますという知らせがあったわけではあるまい。つべこべ言うな」
 ドラグは言葉を呑んだ。それは、そのとおりだ。
「だが、男爵様の容態が急変したのは仕方が無いとは言え、なぜ奥方様まで」
「……」
 ディティアは答えない。
「それに、何で誰もいないんだ? マーガリッテに暇を出したって、どうして。まさか他のみんなもディティアが辞めさせたのか。だとしたら、どうして。みろ、この部屋だって、埃が積もっている。他の部屋だって。ディティア独りっきりでどうするつもりなんだよ」
 ディティアは答えない。その代わり、別のことを口にした。
「私が噛まれたときのことを覚えておるか、ドラグ」
 ドラグは眉を顰めた。……噛まれた?
「そういえば、その左目の傷は、あの時ついたものであったな。……あの猫はただの猫ではなかったのだ、ドラグよ」
 ディティアは襟を引っ張って肩口を覗かせた。そこには、くっきりと小さな噛み跡が、二つ並んでいる。
「あの時、噛まれた……」
「そのとおりだ。実は、あの猫は、吸血鬼が化けていたものであったとしたら、どうする」
「まさか」
「そのまさかだよ、ドラグ。そのまさかなのだ。私は、とっくにヒトではないのだ。ヒトの生き血を啜る、吸血鬼なのだ」
 ディティアは自分の唇を指で押し上げた。ヒトの物にしてはしては異様な長さの犬歯が上下に二本ずつ生えている。


  *


「昔話をしてやろう」
 そういって、手ずから淹れた紅茶を啜ってディティアはドラグに向って語り始めた。ちなみに食事の後を片付けたのはドラグである。
 なんだか滑稽な状況だな、とぼんやりとドラグは思った。ドラキュリア<女吸血鬼>だと自称する(ドラグはまだ認めていない)娘が、目の前で紅茶を淹れているのである。


 ……隣国ワラキアの、十五世紀ごろのお話だ。当時トルコとハンガリーの間で東に西に揺れていたワラキアの君主となった男がいる。名を、ヴラド・ツェペシュという。彼は中々に不遇の運命に翻弄された人物であった。時にはトルコに囚われ、やっと故郷のワラキアに戻ってきたかと思えば、今度はハンガリーに囚われたりしている。父や兄や弟と政治的な争いもあった。
 このヴラド・ツェペシュは世に串刺し公として広く知られているな。その由来は、こうだ。ヴラド公はその生涯のうち、何度かワラキアの君主になったことがある。政敵との政争によって蹴落とされては返り咲いていたのだ。為政者としての彼は、けして無能ではなかった。無能ではなかったが厳しすぎた。重い罪を犯した者や攻め込んでくるトルコ軍の捕虜は、殆どが串刺しによって処刑された。あまりに多くの人間を串刺しにした。だから『串刺し公』と呼ばれて敵味方に恐れられた。
 そんなある日、彼のもとに教会からある知らせが届く。それは、教会破門の知らせだった。あまりに残虐な刑罰がその理由だ。ヴラドは生きたまま人を串刺しにし、その一部始終を見届けることを好んでいた。そのことが教会の逆鱗に触れたのだろうな。彼は完全にそのことは秘密にしていたのだが……。
 知っているか? 吸血鬼になる方法の一つは、教会の洗礼を受けていないか破門された者がその状態で死んでしまうことだ。死しても神の御許に行くことを許されない。通常であれば死者の罪は教会が赦してくれる。だが、破門された者は誰によっても罪を赦されないままだ。この世の罪をこの世で贖わず、この世の罪をこの世で許されない者は死ぬことを認められない、というわけだ。こうして戦の中で死んだヴラドは、そのまま吸血鬼ドラキュラとなって今もこの世を彷徨っているはずだ。打ち倒されていなければな。
 それがどうした、という顔をするなドラグよ。ここからが本題なのだからな。
 実は、教会から破門されたのはヴラド公だけではなかった。歴史書にも殆ど載っていないせいで今では誰も知らないことなのだがな。ヴラドには一人の妹がいたのだ。
 彼女ヴラド・ディティスは、ごく普通の貴族の娘だった。だが、数少ないヴラドに味方した家族として、教会に誤解されていたらしい。ヴラドの残虐趣味を理解するものとして一緒に破門されていたのだ。
 ところが、ヴラド・ディティスはそんなこと知らない、知らされていない。兄の残虐な行為を諫め、毎日朝晩礼拝所で神に祈っていたというのにいつの間にか破門だよ。しかして戦争に巻き込まれて死んだはずのディティスは、どういうわけだか死ねなかった。死ねなかったどころか、空を飛んだりネズミや狼に化けたり使役したり霧になったり……人の血が飲みたくなったりする、吸血鬼になっていた。全ての事態を把握するのは十数年経ってからのことだ。たまたまヴラド破門に関わった聖職者の血を吸うことがあってな。記憶を読んだのだ。便利な能力だな。
 まったく、迷惑な話だ。ヴラド・ディティスにしてみればとばっちりもいいところだ。若い身空で死にたくはなかったが、それでもせめて人間でいたかった。『不死者の王』と呼ばれるだけあって、生きているとは言い難いがそれでも死んではいない。死んでないかぎりは死にたくもない。ディティスは死なないことを選んだよ。
 まぁ、それから三百年ばかりが経過した。殺されない限りは不死であるはずのディティスは、ある日住処としていた古い館を追われた。愚かな人間の中には、吸血鬼を狩る生業のものがいるのだと初めて知った。悪魔祓いとでも言うべきかな。できる限り慎ましく暮していたつもりだったが、結局彼女は見つかって、住処を追われる事になった。
 それが、あの黒猫の正体だった。吸血鬼は猫にも化ける。
 私は噛まれて吸血鬼になった。つまりそういうことだな。


 唐突に話は終わった。
「……最後の方、すごく端折ったろ」
 ジト目で睨むと、ディティアは目を逸らした。
「喉が渇いたからの。なんだ、信じられないという顔だな」
「当たり前だ。だって証拠が何も無い。……なぁ、俺あっちの方で良い医者と知り合ったんだ。診てもらおう」
「失礼な。ま、信じられぬのも無理なからぬことだ」
 言うが早いか、ディティアの姿がぼやけた。ドラグが目を疑ううちに、それは薄く薄く、宙に溶ける様にして、やがてディティアは完全に消えた。
 ごくり、と自分の喉を鳴らす音が思いのほか、大きく響いた。
「まさか」
『これが霧になる、という能力だ』
 どこからともなく消えたはずのディティアの声がする。立ち上がって辺りを見回しても、姿は見えない。
 途端に、がたがたと窓が揺れた。室内だというのに風が吹いて、部屋中の燭台の火を吹き消した。漆黒の闇の中、獣の唸り声がする。これは、犬?
『犬ではないぞ。れっきとした狼だ』
 どことなく楽しそうにディティアが笑う。そんな、まさか。バカな。慌てて火を点けなおしたテーブルの燭台を翳してドラグは絶句した。闇の中から一頭、また一頭と白銀の毛を持つ狼が現れる。狼の群れの向こうに、いつの間にかディティアが姿を現していた。
 蝋燭のか細い炎に照らされて、十数対の瞳が怪しく輝く。一際強い輝きは、ディティアのものであった。そんな、まさか。ディティアの瞳は、母親譲りの真っ黒だったはずだ。それが、いまや鮮やかな氷青色。闇に浮かんで瞬く、氷の色。
 いや。
 見たことが、あるぞ。俺はあれと同じ色の瞳を見たことが……同じ色の瞳に見られたことがあるぞ。
 探り当てた記憶は、あの日のものだった。漆黒の毛並みの、一抱えもあろうかという黒猫の瞳――!
「これで、信じてもらえたか」
「そ……そんな、バカな。ディティアは、昼間だっていうのに活動していた! あの黒猫だってそうだ」
 死者が跋扈するのは決まって夜だ。当然、吸血鬼だって例外ではない。
「ふふ……噛まれることなく吸血鬼となった者は強い力を持つ。『真祖<マスター>』とも、『日を恐れぬ者<デイライト・ウォーカー>』とも呼ばれるな。私にとって、日の当たる時間に起きるのは、人間が夜更かししているようなものに過ぎぬのだ」
 食事もして胃が膨れたせいもあって、お陰で今眠くてたまらん。どこかしら抜けた声で言うディティアは大きく伸びをして、欠伸を噛み殺した。
「ずっと人間のふりをしておったからな。……まったく、自分で言うのもなんだが、昼遅くに起きて夜中過ぎに床につく吸血鬼なんて他には居らぬぞ? 人間的にも吸血鬼的にも不健康極まりない生活だ」
 ドラグはなんて言ったらいいのかわからずに、頬を掻いた。ちょっと事態を整理してみようか。
「つまり、なんだ。ディティアは実は吸血鬼で、ここ数年間人間のフリをしていたんだな」
「そうだ」
「んで、そろそろ吸血鬼らしい生活がしたいから、みんなを辞めさせていった?」
 従業員が昼に活動して、仕えるべき主が夜型であれば、そりゃあ不都合だらけであろう。お互いに。
「それだけというわけでもないんだが、まぁそうだ」
 ディティアが右手を開くとバサリと音がした。何も無い空間のはずなのに何か布のようなものが捲れた音だ。
「ホレ、お帰り。急に呼んで悪かったなお前たち」
 その、何も無い捲った場所を通って狼は闇の向こうに消えていってしまった。
 なんというか。ドラグは困ってしまった。
 やっと帰ってきてみれば、みんなは居らず館は荒れ放題だ。美しく成長していた少女は、どうやらホンモノの吸血鬼らしい。
 だが、内心でドラグは首を傾げた。俺は今、人の生き血を啜るという吸血鬼と相対しているわけなのだが。どうしてか、こう……緊張感が今ひとつ欠けている。相手がディティアだからだろうか。
 消えた燭台に指をかざしてディティアが念じると、それだけで火が点った。いそいそと部屋中の燭台に火を点けて回るディティアの姿は、ドラグがイメージする吸血鬼のそれとかけ離れている。魔物の貴族というか、間違っても自分では部屋の蝋燭に火を灯して回るというような雑事は似合わない。
「なぁ」
「うむ? なんだ」
 とりあえずイスに腰を下ろしたドラグが、ディティアに問うた。
「なんでそういう雑用を、自分でするんだ? 吸血鬼ってアレだろ。魔力で人間を思い通りに従えることができるんじゃないのか」
「そういう能力もあるな」
 向かいのイスについて、ディティアが言った。ティーポットにお湯を注いで、二人分のお茶を淹れ直してくれようとしている。ありがたいのだが、やっぱり吸血鬼らしくない。
「だったら操って何も考えないようにして働かせればいい。じゃなきゃ、血を吸って仲間にするとか。別に皆を辞めさせる理由なんて、無いんじゃないのか?」
 ディティアの動きが一瞬固まった。ドラグは眉を顰める。
「なんか……なんか変だな。まだ何か隠しているだろ。ディティア」
「何も隠してなんか」
「ディティア。言ってくれよ」
 ディティアの目に僅かな怒りが宿った。凶眼、鬼の瞳である。それだけで圧力を伴う、本気で睨めば人をも殺しかねない魔の瞳。だが、ドラグはそれをサラリと受け流した。
「聞いておれば、ドラグよ。操ればいいだの、血を吸えばいいだの、貴様も大概ひどいことを言うの。戦に出て変わったか」
「そりゃあ、な」
 ドラグの瞳も、すっと細められた。ディティアもまた、内心で動揺する。兄と慕っていた男の、こんな目は見たことが無い。表情が殺された、というよりも掻き消えた瞳。ドラグの中で眠っている、戦場を疾駆する白竜の瞳。
「ちょっとの油断が死と生を別ける。殺さなきゃ殺されるって言ったのは、ディティアじゃないか。……殺したよ。いっぱい。両手じゃ足りないくらいにな。泣き叫んで命乞いする奴も殺した。見逃してやろうと思って後ろを向いたら襲いかかられた。だから殺した。殺して殺して殺しまくった。いつだったか俺が指揮する隊の中から裏切り者が出たことがある。銀貨三十枚で買収されたのかも知らんが、そいつは隊の規律のためにも見せしめとして俺が処刑した。地面に括りつけて動けないようにして両目を潰して、後は順番に両手足に剣を刺していって。腹も適当にプスプス刺していって。命乞いの声が『もう殺せ』に変わったら、殺してやったよ」
 ディティアは、元から低い自分の死人の体温がさらに低くなるのを感じた。人間の中にもとんでもない鬼がいたものだ。それも、よりによって。
「残酷じゃな」
「残酷にもなるさ」
 ドラグが自虐的な笑みを浮かべる。
「俺が死にたくないという無理を通すため、相手の生きていたいという道理を叩き壊すんだよ」
 ドラグは微笑んだ。何気ない笑みだったが、深く、凄絶だ。
「そう。俺は死にたくは無い。だから殺される前に殺す。裏切り者がいれば、戦に負けるかもしれない。だから見せしめに殺す。戦に負ければ次はトランシルヴァニアが戦火に晒される。この村だって例外じゃない。だから殺す。戦に勝つために殺す。戦に負けないために殺す。忘れたのか? 俺はドラグ・リインマイトだぞ。ブランディアードを護る者。護るべきを護るためにも殺す。必要なら、躊躇いなく。……お前が吸血鬼に変わったのであれば、俺は殺人鬼に変わったのさ」
 ディティアは何も言えなかった。これが、あの優しかったドラグなのか。私を黒猫から護ってくれようとした、あのドラグなのか? 転んだとき手を差し伸べてくれたドラグは何処に行ったのだろう。小さな足でいつもあとをついて回って、遅れそうになる私を振り返っては待っていてくれたドラグは何処に行ったのだろう。
「オーストリアすなわち神聖ローマ帝国。カトリックの守護者にしてその戦いは神に認められた聖戦だなんて言っていたけどな。そんなのは言い訳にもならない奇麗事だよ。異教徒を何百人殺したって俺は神の国にいけるだなんて気がしたことは無いな。それでも戦って殺して殺して殺し続けたのは、俺が殺せばここを護ることに繋がるからだ。ところが、本当に最後の最後まで護りたかった女の子は、いつの間にか吸血鬼になっていた。まったくどうしたものか」
 ふう、とため息をついて、今度はドラグが紅茶を啜った。出がらしの紅茶は、妙な苦味が強くてまずい。
「ディティア……やっぱり隠してるだろ。皆を辞めさせたホントの理由。人外になった自分の側に、大好きなみんなを置いていたくなかったか」
 ディティアの頬が、僅かに引き攣れた。それを見てドラグは確信した。大当たりだ。
 ディティアは、淋しそうに微苦笑を浮かべる。
「いつまで経っても私はドラグに隠し事もできないままだな。……みんなを辞めさせたのは、そのとおりだ。側に置いていたくなかった。取り殺したくはなかったから。父さまと母さまのように、な」
 次はドラグが頬を引き攣らせる番だった。