ドラキュリア 第五幕
作:九夜鳥





第五幕 困惑


「吸血鬼は、別に人間の血を食料にしているわけではないのだ」
「……?」
「吸血行為はただの手段であって、本当に必要としているのは人血そのものではない。腹が減っていると突然衝動的に吸いたくなることもあるのだがな」
 突然始まった吸血鬼の食に関する考察を聞いて、ドラグが怪訝な顔をした。
「つまり?」
「私たち吸血鬼は、いわゆる生体エネルギーとでも言えばいいかな。それを糧としているのだ。血を吸うのは、それがもっとも効率のいい方法だからに過ぎない。人によっては好みもあるのだろうが、人間と同じように食事もするぞ。私もさっき食べていたではないか」
 そういえば、と今更ドラグは思い当たった。シチューはすっかり平らげられていた。嫌いだった人参も入っていたのに。もしかしたらエネルギー吸収とやらでそれで食べられるようになったのだろうか。そんな埒も無いことが頭をよぎる。
「普通に消化もしているのだろうが、通常の食事の場合は肉や野菜に含まれているエネルギーも取り込んでいるということになるな」
 そこで、一端ディティアは言葉を切った。手のひらを翻すと、一体何処から取り出したのかそこには一輪のバラの花があった。その赤いバラが――見る見るうちに萎れ枯れて、やがて黒く縮れてしまった。ドラグは思わず眼を見張る。
「そして、エネルギーの吸収は、なにも経口でなくても構わない」
 バラの抜け殻を放り捨てて、ディティアが自虐的に笑う。リンゴの木ならリンゴの風味がするのだぞ、面白いだろう。
「私自身、気がつかなかった。エネルギー吸収は、こうやって直接触れている場合だけだと思っていたのに」
「どういうことだよ」
「私の体は、そこに存在しているだけで、常に周囲からエネルギーを取り込んでいるらしいのだ。微々たるものだがな。普通なら、少し疲れたなと感じる程度……のはずだった。このエネルギー吸収、精神的肉体的に弱っている存在には、てきめんに効くらしい」
「まさか」
 ドラグから眼を逸らして、何処を見るでもなくディティアは続ける。薄暗い食堂が、もっと暗く感じられる。今は、その薄闇の向こう側こそディティアの生きる世界なのだ。もとより、日の当たる世界に生きる父と母と一緒にいてはどこかに歪みが生じるのも当然だったのだ。
「吸血鬼になったとて、人の情が消えてなくなったわけではないのだ。ディティア・ブランディアードは一生懸命父の看病をして、あまりに近くに居過ぎたせいで、父を弱らせていったのだ。これでは処方された薬に少量毒を混ぜているのと変わらん」
 よりにもよって歪みはもっとも大事にしている存在に襲い掛かった。
「父を亡くしたことと看病疲れで母も倒れた。私は何も考えず、看病をした。一向に回復しない母を見て、ようやっと気がついたときには手遅れだった」
「そんな」
「今際の言葉が、独り残される私の身を案じるものであった。私はもう、何て答えればいいのかわからなかったよ」
 ディティアのまなじりに涙が浮かんだ。それは見る見るうちに膨らみあがって零れ落ちた。蝋燭のはかない炎に照らされた白い頬に一筋の跡が残る。
「ディティア」
「せめて、もう誰も亡くしたくない。だからみんなに暇を出してやっと独りきりになれたというのに、よりによって貴様が今頃のこのこ帰ってきよる。私はどうしたらいいのだ、ドラグよ」
 ドラグは言葉に詰まった。沈黙が場を支配する。
 互いに身動きさえ躊躇われるような静寂が満ちて、耐えられなくなったかやがてディティアは散歩に出る、といって姿を消した。言葉どおり、霧になって消えたのだ。
 一人残されたドラグは、揺れる燭台を見詰めながら、いつまでもイスに腰掛けたまま動けずにいた。


  *


 平穏に、数日が過ぎた。
 その生態上、ディティアが夜行性となってしまったせいで二人は昼夜すれ違いの生活を送るようになってしまったが、ディティアは彼が用意する朝食(つまり、ドラグにとっては夕食)をいつも文句も言わず、残さず食べていた。
 昼夜が逆転していること以外を除けば、ディティアは至って普通の人間と変わらないような気がして、ドラグはかえって不安を覚えてしまう。動き回ればお腹がすく。体温が低くなっているそうだが、新陳代謝はしているので髪や爪も伸びるそうだ。
 毎朝ドラグが起きてくる時間、ディティアは既に眠っているのだが、使われた食器の後片付けがきちっとなされているのでドラグとしてはどう反応してよいのかわからない。
 吸血鬼以前に、貴族らしくない生活だ。
 昔はもっと狭かった気がするんだがな……。今では自分と地下で眠るディティアのみになってしまった館の廊下で、ドラグは立ちすくんだ。あの頃は、多くの侍従やメイドたちが歩き回って仕事をしていて。お喋りがうるさかったというわけではなくて、こう……生活の音があった。だが、がらんとした空間には何も満ちてはいない。空っぽだ。
 寂れ始めて間もないせいで、館は吸血鬼の住処としては似つかわしくないように思えた。今が朝で、陽光が窓から入ってきているからだろう。舞い上がる埃がきらきらと煌いた。
「吸血鬼なのに、らしくないなぁ」
 いろいろなところが。
 そう思うたびに、吸血鬼らしくないことがこの際良いことなのかどうなのかわからず首を傾げてしまう始末だ。
 いつも何をしているのかと聞けば、ドラクが寝入ってしまったあとは一人でそこらを散歩しているのだという。夜中に出歩いていると村人に見つかることもあるので、殆どは猫なり狼なりに化けているということであったが。
「それか」
 あの時村人が語った墓地をうろつく猫というのは。そして嫌な連想に思い当たった。
『干からびて、村の娘が死んでいた』
 かつて自室として男爵に与えられた部屋で、ドラグは窓から差し込む夕日の光に手をかざしてみた。
 これまで、昼の世界であった。その世界は世界の半面だった。人が生きて、働く時間。だ。
 そしてこれから間もなく、夜が始まる。世界の半分。人間が寝ている時間。人外が目を覚ます時間。
 一日は夜と昼とが交互にやってくることで形作られる。同じコインの表裏。同一対。
 それらは、交わらない方がいい。
 歪みが生まれることは既に証明されているのだから。
 養父が自らに与えてくれた長剣を手にする。鞘を払って、抜き身を覗き込んだ。柄にも鞘にもあまり過剰な装飾がないせいでそれはぱっと見ではただの剣だ。
 だが、刀身部分は違った。清流を押し固めたように冷たく青く、滑らかな光を放つその刀身は、真ん中の血受けの部分に聖句が彫ってある。とある大聖堂の一角に設けられた鍛冶場で、聖銀を軸に埋め込み、聖水と聖油によって鍛え上げられた討魔の剣。その持ち主を悪魔から守護し破邪の力を授けてくれる聖剣なのだ。
 今でこそドラグが授かったものである。だが、元はこのブランディアードを守護するための剣であり、ドラグ自身ブランディアードの守護騎士である。だからこそ男爵は女のディティアにではなく、ドラグに剣を授けたのだろうが。
 では護るべき対象が『夜側』であった場合、どうすればいいのだろう。
 ドラグは途方に暮れるしかなかった。


 今、ディティアの寝室はかつて使用していた場所ではなかった。ワインの貯蔵に使用していた地下室である。棺桶に庭の土を運んで均し、それがいまの彼女のベッドだった。なんだか早起きしてしまって、眼が冴えている。
「どうしたものか」
 途方に暮れているのはディティアも一緒だった。
 ドラグが、帰ってきてくれた。自分の下に帰ってきてくれた。
 父と母が死んでしまい、夜の中で生きていくために慣れ親しんだ侍従たち全てを追い払ってまで夜の世界に逃げ込もうとしたのに。昼の側から、思わぬ来訪者がやってきたものだった。
「嬉しくない……わけがない」
 これから誰かに滅ぼされるまで、ディティアは生きていかなければならない。ヴラド・ディティスがそうであったように、もしかしたら孤独に数百年も。生きている限りは生きることを諦めたくない。
 だが、ドラグはやってきてしまった。どうやったってドラグが先に寿命を迎えるだろうに。やがて孤独が戻ってくるのに。
 でも、嬉しくないわけが無いのだ。
 淋しかったから。
 親を亡くし、親しかった者を遠ざけて。淋しかったのだ。
 一方で、時間もない。そのこともまた事実である。
 ディティアは、吸血鬼として特殊であった。まだドラグはそのことを知らない。彼女の脇腹には、醜い罅が入っていた。乾いた粘土が割れたような罅だ。他にも、体のあちこちに罅が入りかけている。肉体の崩壊が始まっている。
「予想より早かった、かな」
 黒猫ディティスは無理をしすぎた。適応者を見つけて、追われていて、昼間だというのに行き当たりばったりで噛み付いてしまった。結果は成功と言っていいのだが、それにしたってもうちょっとやりようがあったのではないかと思う。
「いまさらそんなことを後悔しても遅すぎるのだけれど」
 真っ暗な棺桶の中で独白する。ディティアの眼には闇は視覚の妨げとはならないのだけれど、傍から見れば閉じた棺桶の中から独り言が聞える、という場面は非常にイタい。
 ディティアもまた、途方に暮れた。
 彼女の入っている棺桶の傍らにはもうひとつ棺桶があり、そこにはひとりの村娘が入っている。つい前日、あたりの村々を巡って探し当てた彼女の贄である。何代の血を隔てたのか知らないが、娘の身体には確かにヴラドの血が眠っている。ブランディアードの身体にヴラドの魂を割り込ませたため、肉体の拒否反応が起こりつつあるのだ。
 両者の融和媒介に、ヴラドの血を取り込む必要がある。その儀式は明日、五月五日の晩に執り行うはずだった。それははるかむかし、聖ゲオルグが竜を退治した夜である。竜の流した血が大地に染み渡り、夜に生きるものに力を分け与えてくれる。吸血鬼にとっての聖なる時間なのである。
 儀式には万全を期したい。だが、ドラグの存在があった。来年まで待つか? だが、肉体が持つとも限らない。娘が死なないとも限らない。
 ディティアもまた、途方に暮れているのであった。