ドラキュリア 第六幕
作:九夜鳥





第六幕 拒死


 1717年5月5日がやってきた。
 その日、ドラグは朝から村の市場で当面の食料を仕入れていた。夜更かし……ではなくて朝更かししがちなディティアも、今頃はベッドの中であろう。
 立場的にもドラグはディティアを働かせるわけにはいかないし、またそういうことを考えたこともなかった。ディティアが起きている時間であればこまごました手伝いを頼むことぐらいはあったけれど。
 だから、ドラグは毎日の家事に精を出しているというわけである。もっとも、あの広い館をたった一人で切り盛りするにはどうしたって人手が足りないし、ディティアのことを考えれば新たに誰かを雇うわけにはいかない。自室やロビー、キッチンなど身の回りの生活にどうしても必要と思われる場所以外は、未だ以って閉じられたままである。
(連れて来なくてよかったな)
 隊長が故郷に戻ると知って、ついて来たがった部下が何人かいた。彼らがいれば楽は楽であっただろうが、ディティアの秘密を知られたら困ったことになっていたところだ。
「あ、ドラグ坊ちゃん」
 声をかけられて振り向けば、市に露天を出している農婦であった。ドラグが男爵に拾われたばかりの頃しばらく、屋敷にメイドとして雇われていたマリーという女性である。
「坊ちゃんはやめてくれ」
 もうそんな歳ではない。女は笑った。
「私にしてみりゃあ、坊ちゃんは何時まで経っても坊ちゃんですもの……今夜は鶏でもいかが? さっき絞めたばかりだよ」
 鶏はディティアの好物だ。ドラグは格段料理の腕が良いわけではないのだが、それでも捌いて焼くくらいの事ならできる。
「そうだな……じゃあ一羽もらおうか」
「ありがたいねぇ。オマケに卵も付けたげるよ。お嬢様には精をつけてもらいたいからね」
 ドラグは曖昧な笑みを浮かべて礼を言った。ブランディアード領内では、ディティアが最近姿を見せないのは病気がちになって床に伏せっているからだという噂が流れている。ディティアに聞けば、魅了という能力で強制的に辞めさせた人間に、そういう噂をばら撒くように仕向けていたのだという。
「ところで坊ちゃ……ドラグ、さん。知ってるかい。隣村で起きた誘拐事件」
 この人にさん付けて呼ばれるのもなんだか不思議な気分だ。
「いや、知らないな」
 現在、領内の治安を維持する役目を負うべきブランディアードは半ば麻痺状態である。男爵不在時に機能するよう自治会という組織が代行しているはずだが。
「それがね、何日か前のことらしいんだけれど、村の若い女の子が浚われたってんだよ」
「嫌な話だな」
「まったくだよ。いまでも犯人の目星はたっていないっていうからね……この村に隠れていたりするんじゃないだろうかってみんなで噂しているんだよ」
「こんな小さな村によそ者が紛れ込んでいたら、否応なく判ると思うんだが」
 ドラグが知る限り、最近この村に紛れ込んだよそ者といえばドラグ自身である。
「そうよ、ねぇ。でもね、犯人は人間じゃないかもって言うからね」
「……どういうことだ」
 ドラグの心が凍りついた。
「いなくなったのは霧が濃い晩だったっていうし、少し前からあの村に大きな蝙蝠が飛び回っていたって聞くしね。ここだけの話、誰も信じちゃいなかったんだけどさ。その、浚われたって娘の父親ね、自分はブラド伯爵の子孫だってホラ吹いていたんだって。それで近くにいた吸血鬼さんが怒って浚っちまったんじゃ……ってね。あたしゃ信じていないけどね」
「……まさか」
 ドラグは笑った。無理矢理に。喉が一瞬でカラカラに干上がっていた。
「そうだよ、まさかだよねぇ。それじゃお嬢様にもよろしく言っておくれよ」
 足早に去っていったドラグを見送りながら、マリーはふと思い出した。
「そういえば、ここのところ村の周りで蝙蝠が飛んでいたって話、聞かないね」
 それ以上のことは何も考えず、マリーは自分の仕事に戻っていった。


 ディティアの言葉に、矛盾があったことをドラグは気がついていた。
 彼女は自らを『日を恐れぬ者<デイライト・ウォーカー>』と称した。事実、寝ぼけ眼で朝日が昇ったあとも歩き回っていたこともある。
 だが、それは噛まれることなく吸血鬼化した者であるはずではないのか。ディティアは、黒猫ディティスに噛まれて吸血鬼と化したのではなかったのか。
 それに、あの黒猫ディティスだ。ドラグに斬られて死んだ……のか? 本当に? 太陽の光さえ克服している吸血鬼が、ただの剣で?
 何かを隠しているディティア。なにを隠しているのか分からなかったが、ずっと感じている嫌な予感が大きくなっていくのを感じる。左目の傷が疼いた。
 館に戻ると、ディティアが寝ているはずの地下室へと向った。だが、ドアはがっちりと閉じられていてびくともしない。何かの魔力だろうか。
 他に出入り口はない。ディティアが出てくるまで待つしかない。
 ドラグは舌打ちをして、ドアから離れた。自室に向ったドラグは、壁に立てかけてあった長剣を手にする。男爵より譲り受けた剣だ。この剣の存在をディティアには明かしていなかった。
 実をいえば、ドラグはこの剣を使ったことは一度としてなかった。この剣はいわばお守りのようなものであり、戦争で人を切ったりしてその聖性を損ねたくなかったのだ。男爵もそうだったらしいから、手入れは行き届いていても、未だ無垢なままの剣である。
 嫌な予感がする。
 だが、その正体を教えてくれるものなどいるはずも無い。抜き身の刀身が無言で青く輝いた。


  *


 日が沈み、今日もまた夜の世界になった。夜といってもまだ早い時間だったが、ドラグの心配を他所に、ディティアは漆黒のドレスに身を包んで食堂へとやってきた。来ないかと思っていたドラグにしてみれば杞憂であったが、ある意味でいっそのことそのまま来ないでいてくれたほうが良かったのかもしれない。
「……どうした、ドラグよ。私の顔に何かついているか?」
 自分の席に座りながら、ドラグの作った料理を頬張る。ちなみに本日のメニューはやっぱり鶏肉のソテーである。
「……眼と鼻と口と眉毛とまつ毛がついているな」
 皿の鶏肉を切り分けながら、ドラクは言った。
 もう、ドラグは食事の前に神に感謝の言葉と祈りを捧げないようになっていた。人殺しの自分が神に愛されようなどと思う資格さえ無い気がするからだ。ディティアに至ってはもっと深刻な理由でそれをしない。神に祈る言葉はどんな形であれ聖性を有する。ディティアにとっては有害なのである。
「面白くない」
「そうか? ……ところで、村人が噂していたぞ」
「ふむ?」
 ディティアが言葉を促した。
「最近見ないディティア様、どうやら吸血鬼になったらしいって」
 嘘だった。
 ディティアは食事の手を休めて、僅かに思案したが何事もなかったように食事を再開する。
「どこから漏れたのかは知らぬが、事実だから仕方が無いの」
「どうするんだ、ディティア」
「大したことあるまい。噂などすぐに消えるだろう。なんだったら明日にでも昼間村を散歩でもすれば、そんな噂あっという間に無くなるに違いない」
 言ってディティアはそれが良案ではないかと思った。ここのところ姿を見せないせいで、村人たちが不安がっているのだと思ったからだ。騙すということは気がひけなくも無いが、嘘も方便。悪いことでもないだろう。明日の寝不足を我慢すればそれでいいだけだ。
「噂はそれでいいとして、もっと先のことはどうする。お前、今のうちはいいだろうけど、このまま二十年も騙せるわけじゃないぞ。せいぜい保って数年だろうな」
「分かっておる。言われるまでもなくな」
 少しむっとして、ディティアは反論した。どうして今夜に限ってドラグが噛み付いてくるのかが不思議だった。
 もっとも、ドラグの言葉は確かに真実であった。今のうちはいい。だが、十年二十年と、まったく歳を取った風でもない女が領主だと、領民が騒ぎ出すのは火を見るよりも明らかだった。それに、領主として執り行わなければならない様々な役目もある。今はまだ、ディティア自身が若い女性であり、両親の死という不幸に臥せっていると同情されているし、それほどたいした時間が経っているわけでもないから問題が浮き上がってこないだけだ。
「ドラグが帰って来なければ、私も数年のうちに死んでしまったことにでもしてどこかに消えるつもりであったが。お主がいれば、私と結婚し婿としてドラグをブランディアードに迎え入れた上で消えればよい。領民もこれで安泰だ」
「バカなこと言うな」
「私は本気だぞ」
「バカなことだよ。……大体、領主の結婚ともなればどうしたってそれなりのでかい教会で執り行うことになるだろうからな」
「あ」
「わざわざ神の家に出向く吸血鬼が何処にいるんだよ。それこそ死んでしまうだろ」
「……それもなんとかなる、かな」
 ディティアは想像した。教会の聖性に焼かれつつ真っ白な花嫁衣裳に身を包み、ヴァージンロードを歩きながら体中から得体の知れない蒸気を吹き上げる自分の姿。どれだけ耐えたって怪しさを隠せそうにない。
「やっぱり無理、かも知れぬ」
「ほら見ろ。それに浚ってきた女もどうすんだよ」
「それは」
 あまりに普通に問われて何気なく答えそうになったディティアは、言葉を呑んだ。
「……それは何のことか、わから」
「どうしてそんなこと知っているのかって顔に出てるぞ」
 誤魔化そうとしたら強い言葉で返されて、ディティアは何も言えなくなった。断定口調で言われれば、もう逃げ道は無い。言い訳は肯定で、沈黙も肯定だ。
「ヴラド公と同じ血を引いているらしいな。ディティスと同じで。そんな娘が浚われたッてんなら、偶然とは思えない。ディティア、まだ、何か隠しているだろう」
「答える必要は無い」
 すう、とディティアの姿が薄くなる。霧化の能力だ。
「いやでも答えてもらう」
 ドラグは隠し持っていた討魔剣を取り出すや否や、鞘を払ってその刀身でディティアを映し出した。霞がかったようなディティアの姿が、見る見るうちに元の状態に戻ってしまう。
「……な、何?」
「ディティアは『真祖』って奴だと、言っていたな。日の光を恐れぬ者だと。おかしいよな。ディティアはあの黒猫に噛まれて吸血鬼化したってのに。俺の目の前にいる、ディティアは俺の知っているディティアが吸血鬼になった存在なのか? それとも、あの黒猫ディティスが化けてるのか?」
「私は私だ。それ以上でもなく、それ以下でもないぞ、ドラグよ」
 言うが早いか、ディティアの青い瞳が輝いた。強烈な魔力が迸って、霊剣の戒めを打ち破る。いくつかの燭台の炎が、まとめて掻き消えた。
(しまった)
 思った次の瞬間ドラグは駆け出した。そのときにはディティアは既に霧となって姿を消している。だが、どこに行くのかなどと迷うはずが無かった。今、ドラグが館の中で唯一立ち入ることの出来ない場所は、地下室だけなのだから。
 ディティアはそこに向ったに違いない。ならば浚われた娘も地下室にいるはずだ。廊下を突っ切り階段を駆け抜け、果たして地下室に辿りついたのはドラグが先であった。
「鍵が……!」
 仕方が無い。木製のドアは、閃いた剣によって瞬く間に切り裂かれて木片となった。剣としても凄まじい切れ味。真っ暗な空間に眼を凝らせば、並んで置かれた棺桶が見える。片方は開いていて空だ。ディティアが普段使っているものだろう。
「こっちか」
 閉じた棺桶は意外にもすんなりと開いた。中には予想通り、ディティアと同じ年頃の少女が死んだように横たわっていた。いや、ディティアの能力で眠らされているだけだ。息をしていることを確認し、担ぎ上げると、扉の向こうにディティアがいた。
「ドラグ……何なのだ、その剣は」
 ドラグの腰に吊り下げられた、剣。ドラグがこんな剣を持っているなど、知らなかった。
「男爵様から頂いた、討魔の剣だ。お守りのようなものだといっていたけどな、教会で清められているから吸血鬼だって切り裂ける」
 ディティアは内心舌打ちした。それで、さっき剣が発した霊力で縛られたのか。ホンモノの聖剣。正直厄介だ。
「……あの黒猫、すなわち吸血鬼ディティスだがな。実はあの時点で相当弱っていた」
 ディティアが、眼でドラグを促した。歩き出したディティアのあとをドラグは無言でついていく。勿論意識を失ったままの少女を担いで。
「弱っていたのは、悪魔祓いによって追われていたからだ。なんとか撒くことに成功はしたものの、今まで住処としていた場所に戻るわけにもいかない。吸血鬼は自らの住んでいた土地に支えられて生きているから、例えば人間が常に眠らずに活動しているようなものだ。そうしてトランシルヴァニアまで流れてきた彼女は、ディティアという名前の少女を見つける」
「……それで」
「ディティア、という私の名前の由来は知っているか?」
 何時だったか、男爵夫人に聞いたことかあった。美しい女性であるようにと、ギリシアにおける美の女神アフロディテからもじったのであると。
 ドラグがそう答えると、ディティアは頷いた。
「そしてディティスの名前の由来も同じだ。名前というのは根源を縛る。ドラグという名前がドラゴンの霊性をお主に与えてくれるように」
 ロビーを突っ切って、ディティアは庭に出た。月明かりが眩しい。
「わかるか。ディティアとディティスは、根源の部分で似通った存在なのだ」
 ドラグは答えない。ディティアの横をすり抜けて、庭の端にある栗の木に担いでいた娘を降ろすと、月明かりの中に踏み出したディティアの方へと向き直った。
「弱っていたディティスは、一計を案じる。霊的に近い存在であるなら、乗り移り身体を乗っ取ることも可能なのではないかと。……結果から言えば、成功だったのだがな」
「つまりお前は、ディティアではなくて、ディティアの皮を被ったディティスか」
 ドラグが真っ直ぐに、ディティアに向って言った。
「結論を焦るな。まだ話は終わっておらぬ。……ディティスには誤算があった。撒いたと思っていたはずの悪魔祓いが、本当にすぐ側まで来ていたこと。見つかるのは時間の問題だった。しっかり準備をすることができなかったのだ」
 ドラグは無言だった。対峙する少女は、ドラグか知っている少女とは既に別の存在だった。愛しい愛しい、妹のようなあのディティアはもういない。いま、そこにいるのは、ドラグの知らない夜に生きる、美しい何者かだった。
「結果、身体を乗っ取るまでには至らなかった。そうだな、例えば、水が一杯に入ったグラスに、別のグラスから赤いワインを注いだようなものだ。水はグラスから溢れる。ワインも溢れる。だが、グラスに残ったのは水とワインが混ざったものだ」
 そこでディティアは言葉を切って、ドラグの顔を眺めた。灰銀の髪が、月光を反射させて闇の中に浮かんでいるような幻想に囚われた。
「ちょうど私の中に在るのは、水とワインが半々くらいだ。私はディティアであって、ディティスでもある存在だ。もともと持っていた魂の強さで肉体は吸血鬼化したがな。やっぱり私はディティスでもあるが、ディティアだよ」
「ディティア」
「ドラグ……。まだ、私をディティアと呼んでくれるのだな」
「この娘を、逃がしてやるわけにはいけないのか」
「済まぬが、それは、できない相談だな。……私には、時間がないのだ。やはりあの時行き当たりばったりで手順の殆どをすっ飛ばしてしまったせいであろうな。人でなくなった我が魂の膨張に耐え切れず、肉体に崩壊の兆しが現れ始めておる」
 眼前に掲げられたディティアの右腕。そこにはまるで石膏像かなにかのように、亀裂が入っていた。大きな衝撃を与えればそこから折れてしまうだろう。服の上からは見えないが、同様のものが左脇腹にも走っている。
 ヴラドの血を求めたのは、そのせいだった。ディティアとディティスの魂が融和し安定するにつれて、内包する魔力に相応しいようにと魂が膨らみ始めている。ヴラド・ディティスの魂に引き摺られて破裂しかかっている肉体にヴラドの血を取り込むことで、肉体にディティスの魂の受容体を造ることができるのだ。どうしたって、娘を逃がすわけにはいかない。
 逃がせば、いずれ肉体が崩れてしまうであろう。それはディティスの、二度目の死の拒否であった。


 そして二人は、ぶつかり合った。殺気を撒き散らして。剣を構える青年は、どうして目の前の少女を斬らねばならないのか答えを見出せないまま。人ではなくなった少女は、どうして親しい人間を切り伏せ独りになってまで生きていかなければわからないまま。