エミリアのねがいごと
作:砂時





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 窓から差し込む朝日にエミリアが目を覚ましてみれば、隣に眠っていたはずのウェインはとっくに起き上がって朝食の準備をしていた。
 ぼぉっとしたまま目をこすっているうちに、エミリアはいつのまにか眠る前に抱いていたクマのぬいぐるみがいなくなってしまっていることに気がつき、驚いて辺りを見回す。
 だが、少し狭い部屋の中を探すまでもなく、それは見つかった。赤いリボンを首に巻いた、エミリアの背丈の半分以上もあるクマのぬいぐるみは彼女の枕元に寄りかかるように座っていた。
 どうやら、眠っている間にエミリアの腕から離れたものをウェインが拾っておいていてくれたようだ。クマをぎゅっと抱きしめて、エミリアはベッドから起き上がるとキッチンにいるウェインのところにぱたぱたと足音を立てて走っていく。
「おはよぉ、パーパ」
「おはよう、エミリア。今日はずいぶん眠そうだね」
 腰まで伸ばしている髪の毛をぼさぼさにして、眠そうに目をこすっている自分の娘を見て、ウェインはくすくすと笑う。
「顔を洗ってきなさい。すぐにご飯にするから」
「うん」
 うなずき、エミリアはクマを連れてドアを開けた。柔らかい朝の光がエミリアをそっと抱きしめ、その眩しさにエミリアは思わず目を手で隠すと、おそるおそる空を見上げる。
 そこにはよく晴れた青空が広がっていた。暖かい風がエミリアのスカートの裾をそっと揺らし、どこまでも続く緑の道を駆けていく。そっと耳を澄ませば、どこかで羊の鳴き声や馬のいななきがかすかに風に乗って聞こえてくる。
 いつもと変わらない朝。エミリアは桶に汲んであった水で顔を洗うと、すぐに家に戻った。お腹がへってもう我慢できないと訴えるように、慌しくドアを開ける。
 テーブルの上にはパンにサラダ、そしてミルクといったいつもと変わらない朝食が並んでいた。すぐにでも手を伸ばしたい誘惑にかられながら、エミリアは少し高めの自分の椅子に飛び乗ると、その小さな手を組み合わせて、簡単にお祈りを済ませる。
「パーパ。もう食べてもいい?」
「ああ。お腹いっぱい食べていいぞ」
「いっただっきま〜す」
 大きな声を上げて、エミリアは目の前のコップに手を伸ばすと中のミルクをごくごくと喉を鳴らして飲み干した。そのまま口元に引かれた白い線を気にすることなく、今度は籠の中のうず巻きパンに手を伸ばし、まるで兎のようにむしゃむしゃと食べる。
 口の中にパンを詰め込んだまま、エミリアはさらにフォークを手にとって、自分の分のサラダを口の中に一気に押し込んだ。そのまましばらく口をもごもごとさせていたが、まるで思い出したようにパンに手を伸ばすと、またむしゃむしゃと食べ始める。
「……エミリア。喉を詰まらせないようにね」
「うん。わかってるよぉ……うぎゅっ」
「だから言ったのに」
 ウェインは苦笑しながら、エミリアに自分の分の牛乳を飲ませてあげた。そして、エミリアが苦しそうにむせ込んでいる間、優しくその小さな背中を撫でてやる。
 その温かく大きな手撫でられていると、不思議なくらいに気分が楽になっていく。さっきまでの苦しさが、すぅっときれいに消えていく。
「ほら、落ち着いたかな?」
「うん……もぉだいじょぶ」
「焦らなくてもご飯は逃げたりしないんだから、今度からはもっとゆっくり食べようね」
「うん。わかったよ〜」
「よしよし」
 笑いながら、ウェインはエミリアの頭を優しく撫でてやった。エミリアはくすぐったそうにしながら、喉を詰まらせないようにパンを小さくちぎって自分の口の中に入れる。その様子を見て、ウェインはぽんと軽くエミリアの頭を叩くと自分の席に戻った。
 パーパは、優しいなぁ。
 怒らないし、温かいし、大きいし。
 それに、友達はみんなエミリアのパーパのことを羨ましいって言うし。
 にへ〜と笑いながら、エミリアはじっと食事中のウェインを見つめていた。
 エミリアにとって、ウェインは自慢の父親であった。他の家の父親のように酒に酔って怒鳴るようなこともなく、夜遊びに出かけることもない。友達がウェインのことを羨ましいと言うと、エミリアはいつも誇らしいようなくすぐったいような気持ちになった。
 だが、そんな優しい父親を持ちながら、エミリアはいつも心のどこかで寂しさを感じていた。
 エミリアとウェインが座っている卓上のテーブル。その周りには、二人が座っている椅子の他にもう一つ大人用の椅子が置かれている。
 今よりもずっと小さいころからエミリアは願っていた。いつか、自分のお母さんになってくれる人がその椅子に座ってくれることを。
 だけど、そんな人はずっと来てくれなくて、いくらエミリアがお祈りをしても、神様はその願いをいつも聞いてくれなくて、その席はいつも空白のまま。
 どうして、エミリアにはママがいないんだろう。
 友達はみんなパーパもママもいるのに。
 一緒にご飯を食べたり、眠ったりしてくれるママがいるのに。
 どうして、エミリアは……
「エミリア?」
 パンをちぎる手を休め、いつになく沈んでしまっているエミリアを心配して、ウェインはエミリアに声をかける。
 その時だった。
「ウェイン、エミリアちゃん。おっはよっ」
 元気としか形容のしようもない叫び声とともに、開きっぱなしだった窓から金色の髪を腰まで伸ばした女性が部屋の中に飛び込んできた。驚く二人の目の前を土足のまま横切り、遠慮のかけらもない動作で空いていた椅子に座ると、ウェインの手元のミルクが注がれたカップを一息に飲み干す。
 よく日に焼けた肌。澄んだ青い瞳の輝き。二十歳前後いった年齢だが、その服装は男性用の乗馬服であり、明らかにこの時代の女性にふさわしいものではない。だが、活発そうな雰囲気を全身に纏った彼女にとって、その服装は不思議なくらいによく似合っていた。
「ウェイン、お代わり」
「バーネット……せめて靴くらい脱いでくれ」
「大丈夫大丈夫。この靴は今日おろしたばかりだから」
「……そういう問題なのか?」
 頭を抱えながら、ウェインはバーネットの差し出したカップにミルクを注いで渡す。それを奪うように手にとると、バーネットは見事な一気飲みで瞬く間にカップを空にする。その仕草もまた、女性らしいというにはほど遠い。少なくとも、淑女と呼ぶには果てしなく遠い。
 これで村一番の地主の一人娘であるとは、いったい誰が信じるのだろう。
「おはよ、エミリアちゃん。元気?」
「う、うん。元気だよっ、バーネットちゃん」
「口元にミルクとパンくずが付いてるよ。綺麗にしてあげるから、こっち向いて」
 エミリアの返事も待たずに、バーネットはエミリアの頬にそっと手を添えると、ナプキンで丁寧に口元を拭ってあげた。そして、エミリアの頬にかかった髪を手ぐしでそっと整えてやると、くすくすと笑いながらエミリアの柔らかい頬をつつく。
「あはは。マシュマロみたい」
「バーネット。エミリアは食事中……」
「いいじゃない。減るものじゃないし」
「エミリアが困っているだろう。そんな大人気ないことをするな」
「困ってないもん、ね?」
 にこやかにバーネットに笑いかけられ、実際に口の中のものを咀嚼できずにいたエミリアは困った顔をしながら口の中のものをごくんと飲み込んだ。
 その様子を見て、ウェインはいきなり後ろからバーネットの頭に拳を打ち付けた。ごんっと快音が響き、バーネットは頭を押さえてその場にうずくまる。
「あいったぁ。いくらなんでも殴ることはないじゃない」
「お前がエミリアに迷惑をかけるからだ。まったく、これで何回目だと思っているんだ?」
「何よ。あんたってエミリアちゃんに過保護すぎるんじゃない?」
「ふっ。その歳で母親になれないお前には、この気持ちはわからないだろうけどな」
「何ですって!」
 鼻で笑って横をむくウェインに、バーネットは頬を引きつらせながら拳を握り締める。険悪になりかかった雰囲気にエミリアは少し戸惑いながら、口を閉ざしてじっとしているしかなかった。
「ねえ、何が言いたいのかな、ウェイン。ひょっとして、あたしが未だに彼氏もできないようなじゃじゃ馬でがさつな女だって言いたいわけ?」
「そんなこと一言も言っていないだろう。というか、お前が自分のことをそんな風に思っていたなんて、意外だな」
「ぐっ……あんた、あたしのことを馬鹿にして言っているでしょ」
「だから言ってないってば。お前って少し被害妄想気味なんじゃないのか?」
「……」
 意味深な笑みを浮かべて口元に手など当てているウェインを据わった眼でにらみつけ、バーネットはものも言わずに彼に向かって一歩足を踏み出す。
 だが、エミリアがいることを思い出したのだろう。バーネットはゆっくりと深呼吸し、むくれながらも椅子に座りなおした。ウェインも何もなかったかのように食事を再開し、エミリアはそんな二人をちらちらと見ながらやはり食事を続ける。
 エミリアにとって、バーネットは父親以外に最も親しい人の一人であった。
 ウェインはバーネットの父親が経営する牧場の牧童頭であり、暇なときはエミリアと一緒にいるが、忙しいときにはよくエミリアをバーネットやその母親の元へ預けていたので、一緒にいる機会は非常に多かった。ウェインが泊まりで出かけているときには、一緒に寝てもらったこともある。
 夕食などにもよく招かれ、そのままバーネットの屋敷に泊まったりしているので、エミリアにとってバーネットとその家族はすっかり親戚の人のようになってしまっていた。
「そうそう、ウェイン。今日の昼にうちの父さんが街まで買い物しに行くから、同行してくれだってさ。知ってた?」
「……初耳だぞ、それ」
 二人の口調は、先ほどまで口喧嘩をしていたとは思えないほどに軽いものだった。
 二人にとってこういったやりとりはいつものことで、どんなに激しく言い争い、時には腕力を持ち出すことがあっても、すぐに綺麗さっぱり忘れてしまう。だからエミリアも二人が喧嘩をしてもたいして心配することはなかった。どうせ、一時間もしないうちに二人はいつも元通りになるのだから。
「それにしても突然だな。おじさんも、皆に相談くらいしてくれてもいいのにな」
 眉をひそめるウェインに、バーネットは軽く両手を上げ、
「きっと、急にあんたと酒が飲みたくなったんじゃないかな。一泊するついでに飲み明かすんなら、母さんにもあんまり文句は言われないだろうから」
「……なんとまあ自分勝手な」
「まあ、いつものことだけどね」
「え〜っ、パーパがどこかに行っちゃうの?」
 驚きのあまりエミリアは椅子から飛び降り、ウェインの側まで歩いていくとその服の袖を強く引っ張った。
「ねえ、お泊りでどこかに行っちゃうの?」
「ああ。多分街に一泊して帰ることになると思う。悪いけど、一日だけバーネットと一緒にいてくれないか?」
「やだぁ。エミリアも一緒に行くっ」
「だめだよ、エミリア。これはお仕事なんだから」
 さらに強く袖を引っ張られ、ウェインは苦笑しながらエミリアの頭を優しく撫でてやった。
「街に行ったら、エミリアのためにおいしいお菓子を買ってきてあげるよ。だから、今回はバーネットと一緒に大人しく待っていてくれないかな?」
「……ぶぅ」
「な、エミリア。お願いだから」
「……わかったよぅ」
 頬を膨らませながら、エミリアはしぶしぶといった感じでウェインの袖を離す。
「その代わり、おいしいお菓子を買ってきてね」
「ああ。約束する」
「エミリアはね、赤いリボンを結んだ箱のクッキーがいいな」
「わかった。必ず買ってくるよ」
「エミリアちゃん、もっとウェインにおねだりしなよ。どうせ、街に行ったらどこかの酒楼で綺麗どころを侍らせて、一晩中お酒を飲んでいるんだろうから」
「おいおい。人聞きの悪いことを言うな」
「何さ。本当のことじゃないの?」
「……それはまあ置いといて。バーネット、エミリアのことを頼んだぞ」
「あ、ごまかしてる」
「ごまかしてる〜」 
 明るい笑い声が小さなウェインの家に響き、それは風に乗って村のあちこちにまで伝わっていく。
 それはいつもと変わらない、穏やかな朝の出来事であった。


 1

「う〜ん。苦しいよぉ」
「エミリアちゃん、そんなにお腹一杯食べるから……」
「だって〜、おいしかったんだもん」
 苦しそうにお腹をさすりながら、それでも幸せそうにエミリアはバーネットの膝に頭をちょこんと乗せて草の上に寝転がっていた。
 街へ向かったウェインを送ったあと、エミリアはバーネットの母親の歓迎を受け、とても昼食だとは思えないほどの豪勢な食事をごちそうしてもらっていた。そのおいしさに食欲をかき立てられ、バーネットが呆れるほどの量を詰め込んだエミリアのお腹はぱんぱんに膨れて、まるで風船のようになってしまっている。
 厨房から肉の焼けるいい匂いが漂ってくる。昼食が終わった直後から支度をしているところを見ると、夕食は昼食よりもさらに豪勢なものになるだろう。その匂いに、エミリアは頬を緩ませて、
「夕食もごちそうだね〜」
「……寝る子と食べる子は育つっていうけど」
 バーネットは苦笑しながら膝の上に置かれたエミリアの頭を撫で、遠くに続いているなだらかな丘陵に目を向ける。
 ウェインたちはもうずいぶんと先へ進んでしまったらしく、バーネットがどんなに目を凝らしてもその姿を見つけることはできなかった。諦めて目を閉じてみれば、どこまでも駆けていく風の気配が伝わってくる。その暖かい風は、夏の訪れが近いということを教えていた。
「まったく……もう夏になっちゃうのか」
「バーネットちゃんは夏が嫌いなの?」
「ううん、そういうわけじゃないよ」
 少し寂しそうにバーネットはその長い金髪をかき上げ、白い雲のかかった空を見上げる。
「ただ、時間が流れるのって早いな、って思ってさ。エミリアちゃんも、昔はあんなに小さかったのにもう四歳だもんね」
「うん。次の誕生日で五歳だよ」
「あ〜あ。あたしももうおばさんになっちゃうのかなぁ」
 なにげなくバーネットが漏らした一言に、エミリアは可愛らしく首をかしげ、
「バーネット……おばちゃん?」
 それは少し感傷的になっていたバーネットの胸を容赦なくえぐり、彼女にとってかなり大切なものを粉々に打ち砕いた。かすかに頬を引きつらせながら、バーネットはエミリアの頭を軽く叩く。
「エミリアちゃん……おばちゃんっていうのは、やめてくれないかな」
「バーネットおばちゃん」
「……いつものようにバーネットちゃんって呼んでくれると嬉しいんだけど」
「バーネットおばちゃんの方が呼びやすいよ〜」
「じゃあ、せめてバーネットお姉ちゃんって呼んでくれないかな」
「何か呼びにくいよ〜」
「お願いだから、ね」
 にこやかに笑いながら、バーネットはエミリアの頭をそっと撫でた。しかし、その目はまったく笑っておらず、エミリアはいつもならウェインに向けられるはずの眼差しが自分に向けられている事実にぶるっと身体を震わせた。
「じゃあ……ねねって呼んでいい?」
「うん。そう呼んでくれると嬉しいな」
「うん。そうする〜」
「約束だよ。もしウェインの前でそんなこと言ったら、オークの森の子取り鬼達に言いつけて、エミリアちゃんのことをさらわせちゃうからね」
「オークの森の……子取り鬼?」
「あれ。ウェインは教えてくれなかったんだ?」 
 首をかしげながら、バーネットは村からかなり離れた場所に広がっているオーク杉の森を指差した。
「あたしたちの村のお伽話なんだけどね。あそこに見えるオークの森があるでしょ?」
「うん」
「あそこには子取り鬼たちが住んでいてね。エミリアちゃんの背の半分くらいしかない小さな鬼なんだけど、悪い子がいたら、夜のうちにその子をあの森の中に連れて行っちゃうんだよ。連れて行かれちゃった子は、もう二度と家に帰ることができずに、ずっとあの森の中に閉じ込められちゃうんだって」
「エミリアも……連れて行かれちゃうの?」
 今にも泣き出しそうな顔をするエミリアの頭を撫でてやりながら、バーネットは慌てて言葉を付け足す。
「大丈夫だよ。悪いことをしたり、約束を破ったりしなければ子取り鬼たちはやってこないんだから、心配しないで」
「でもぉ」
「それに、子取り鬼たちだって悪い奴等ってわけじゃないんだよ。特別に勇敢な子供には、その子の願いごとを叶えてくれるっていうしね」
「願いごとを叶えてくれるの?」
 その言葉を聞いたとたん、エミリアはその表情をぱぁっと輝かせて小さな手を握り締めた。バーネットはそんなエミリアの様子に気づかず、さらにお伽話を続ける。
「あの森のずっとずっと奥には子取り鬼たちの村があるんだって。それで、暗い森を抜けてそこまで辿りつければ、子取り鬼たちはその勇敢さを称えて何でもその子の願いごとを叶えてくれるんだってさ。この村の人ならみんな知っていると思うよ」
「ねねは行ってみたの?」
「あたしも行ってみたんだけど、子取り鬼たちの村は見つからなかったよ。きっと、たくさんの友達と一緒だったから、勇敢だって認められなかったんだろうね」
 バーネットの言葉を聞きながら、エミリアはじっと子取り鬼の棲むという森を見つめていた。
 オーク杉が鬱蒼と茂った森は、まだ昼間だというのに吸い込まれそうなほどに暗かった。その暗がりの中から今にも子取り鬼たちがやって来そうで、エミリアは小さく震えた。
 でも、本当に願いを叶えてくれるんなら、行ってみたいな。
 あの森が一番怖くなるときに、一人で行かなくちゃダメなんだってねねは言った。
 とっても怖いけど、本当にお願いが叶うんなら。
 子取り鬼たちが、本当にお願いを叶えてくれるんなら。
 エミリアは、行ってみたい。
 バーネットの膝枕に頭を預けたまま、エミリアは子取り鬼の棲んでいるという森を見つめる。
 その眼差しがいつになく思い詰めたものであったことに、エミリアの頭を撫でるバーネットは気が付かなかった。


 2

 赤ワインの芳醇な香りが、疲れていた身体を癒していく。
 それは決して高価なものではなかった。この街で作られた銘柄もないワインであり、ボルドー産の赤ワインなどといったブランドには味も香りも遠く及ばないものではあったが、ウェインはどういうわけかこのワインを気に入り、この街を訪れれば必ず一口飲むことが習慣になっていた。
 旅行者達が好んで利用する質素な宿屋の食堂。頼りなげな燭台に照らし出される姿はウェインの他には数えるほどしかなく、彼の仲間の姿もまた、どこにも見当たらなかった。時折グラス同士の触れる音だけが聞こえてくる静かな店内で、ウェインはただもくもくとワインを口に運ぶ。
「ウェイン君。何を一人で寂しく飲んでいるのかな?」
 ウェインの目の前に新しいワインのボトルとグラスを置きながら、バーネットの父親は彼の隣の席に腰を下ろした。相当飲んでいるらしく、その顔は真っ赤になっていたが、村でも一、二を争う酒豪の口調ははっきりとしており、動作の中に酔っているような様子は見られなかった。
「若い連中は皆、色街やら酒場やらに出かけているぞ。ウェイン君もこんなところにいないで、少し遊びに行けばいい」
「俺は……一人でゆっくり飲むのが好きなんですよ」
 街への買出しとはいうものの、実際のところは村の男達が街で遊ぶ口実という意味合いが強かった。
 村での穏やかだがどこか退屈な暮らしを過ごしている人々にとって、華やかな街でのひとときはたまらない刺激であった。街に溢れるランプの明かり。遠く続いていく石畳の道を歩いていく、途切れることのない人の群れ。村にはない美酒。流行の衣服を纏った美しい女性。
 これはもちろん男達だけの秘密である。ウェインもまた、バーネットの前では極力この秘密を隠していた。もしもバレれば、それこそ村の女達からどのような報復があるのかは想像することもできない。
「それにしても、わしも老いた。たかだかジョッキ三十杯くらいで、もういい気持ちになっておる」
「……何かしてきたんですか?」 
「なに、街の若い者とちょっと飲み比べをな」
「で、今回は何人抜きです?」
「五人だけじゃ。わしがあと十も若ければ、その倍はいけたかもしれなかったのだが……」
「おじさんは十分若いですよ」
 苦笑しながら、ウェインはバーネットの父親の持ってきたワインの栓を抜き、彼のグラスに注いでやった。
「どうせ、そのジョッキだって特注の巨大なやつでしょう。むしろ、おじさん相手に五人で踏みとどまった彼らの健闘を誉めてやるべきですね」
「そうしておくことにしよう。だが、やはりわしも歳をとった。そうなると、気になるのは若いものの行く末でな」
「……またですか」
 露骨に眉をしかめるウェインににやりと好色オヤジの典型のような笑みを返し、バーネットの父親は懐から何枚もの紙を出して彼の目の前に並べた。
 それはウェインの予想通り、彼の後妻の立候補者の履歴書のようなものであった。並べられたそれに目を通すこともなく、ウェインは紙を乱暴にまとめるとバーネットの父親につき返した。
「せっかくですけど、俺には新しい妻など必要ありません」
「そう言うこともないだろう。お前を夫にと、求める女は少なくないのだぞ」
「冴えないシングルファザーのどこかいいんでしょうかね」
「まあ、一通り見ておくのも悪くはないだろうが。この娘などどうかな? わしの見たところ器量もいいし、仕事振りもしっかりしておる」
 目の前に一枚の紙を突き出され、仕方なくウェインはそれに目を通す。だが、数行に目を通したときにはすでに彼の頬は引きつっていた。
「……この子って、まだ成人している歳じゃないんですけど」
「女はすぐに大人になる」
「というか、むしろ俺よりエミリアの方がこの子と歳が近いじゃないですか」 
「いや、エミリアちゃんと仲良くしてくれるかと思って」
「そりゃ、仲良くはなるかもしれませんけど……とにかく、お断りします」
「むう。有力候補の一翼が一蹴されるとは……まあ、わしとしてはディックとミューゼルのやつから狙っていたワインが手に入ることだし、痛み分けとしておくかの」
「……俺で賭けでもしていたんですか」
 その口調はどこか呆れているようなものであったが、明らかに隠し切れない怒りが込められていた。バーネットの父親はとっさにこれ以上無理強いすることの無謀さを悟り、慌ててテーブルの上に並べられていた紙を回収する。
「もったいないのう。わしがあと二十も若ければ、喜んで飛びつくような話なのだが」
「別に妻など必要ありませんよ。俺にはエミリアがいれば十分ですし、エミリアの世話は俺一人でやってみせます」
「お前一人で、か?」
 突然口調を変えたバーネットの父親に見据えられ、ウェインは鋭い剣を胸元に突きつけられたかのような錯覚を覚えた。
 彼の顔は酒のせいで真っ赤になっていた。だが、その青い瞳はいささかも濁ってはいない。いつになく重い彼の雰囲気に、ウェインは年長者としての底知れない深みを感じていた。
「確かにお前はよくエミリアちゃんの面倒を見てきた。だが、子供を育てるというのは夫婦二人でするものだ。お前だって、それはよくわかっているのではないのか?」
「……俺には、ムーアがいます」
 気圧されている自分を意識しながら、絞り出すような声でウェインはうめいた。
「ムーアは俺の妻です。俺は、ムーア以外に妻を娶ることはできません」
「だが、ムーアはもう死んでしまっている。お前が後妻を迎えることは何の後ろめたいことはない」
「ですが……」
「それに、子供にとって母親という存在はなくてはならないものなのだぞ」
 グラスの中のワインを一息に飲み干し、バーネットの父親は断じた。
「確かに、お前はエミリアちゃんを大切にしているよ。だが、母親はときに父親では果たすことのできない役割を担うものだ。どんなにお前がエミリアちゃんを愛していても、エミリアちゃんはどこか満たされないものを感じているであろうよ」
「……そうかもしれませんね」
 彼の言葉を聞き、ウェインは記憶の中のエミリアのそぶりにうなずけるようなことがあったことを認めていた。
 そういえば、ときどきエミリアがとても寂しそうな顔をしていたことがあったな。
 俺が何をしてもエミリアは寂しそうなままで、結局どうすることもできなかった。
 あれは、母親がほしいという俺へのメッセージだったのだろうか。
 エミリアは、本当に母親を求めているのだろうか。
 ならば俺は、それに応えてやるべきなのだろうか。
 ムーア。俺は、どうするべきなんだろうな。
「だけど……エミリアは俺にそんなことは何も言いませんでした」
「それはウェイン君がまだ若いからだよ」
 ようやくいつもの人のよさそうな顔で、バーネットの父親は苦笑した。
「ウェイン君はまだ四年くらいしか父親を経験していないが、わしはその五倍以上も父親をやっているからな。自然と娘の言いたいことなどがわかってくるものなんだ」
「バーネットの場合、娘というよりは息子って感じがしますけどね」
 ウェインもまた威圧感から解放され、小さく息をついてグラスを空にする。
「そういえば、あいつの嫁入り先って決まっているんですか? もうそろそろ、あいつだって結婚しないわけにはいかないでしょう」
「いいや、全然」
 心底困ったといった感じで、バーネットの父親は首を振る。
「ウェイン君と同じだよ。どんなにいい話を持って行っても、全部断られる。いっそのこと、ウェイン君が娘を貰ってくれないか?」
「申し訳ないですけど、俺の返事はいつも同じですよ」
「やっぱり駄目なのか」
「俺は、バーネットを一度裏切っていますから」
 正確には、裏切ったというわけじゃない。
 でも、俺はあいつの気持ちを知っていながらムーアを選んだ。
 バーネットが嫌いだったわけじゃない。むしろ、あいつの性格は好きになれる。
 だけど、俺はムーアを愛して、あいつの気持ちを跳ねつけた。
 ムーアがいなくなってしまったからといって、そう簡単にバーネットを選ぶことなどできはしない。
 だからといって、他の女を選ぶ気にもなれない。
 でも、エミリアが本当に母親がほしいというのなら。
 エミリアを心から愛してくれる。そんな人がいるというのなら。
「やれやれ。若い者の気持ちはわしにはわからんよ」
「すみません。とりあえず、この話はなかったことにしてください」
「やれやれ。仕方がないな」
 慌しい馬の足音が耳に響いてくる。
 ふと窓の外に目をやれば、狂ったように馬を駆けさせている男は、彼と同じ村の者であった。
 男は宿の前に馬を止めると、すべての力を使い果たしたかのように馬から崩れ落ち、慌てて駆けつけたウェインたちに息も絶え絶えにこう伝えた。
「エミリアちゃんが……消えてしまいました」


 3

 ここはいったいどこだろう。
 どっちに行けば、子取り鬼たちの村があるんだろう。
 普段なら決して立ち入ることのないであろう、夜の闇に包まれた森の中を、エミリアはランプを片手に歩いていた。
 どこからか、不気味な動物の鳴き声が聞こえてくる。恐怖に身を硬くし、涙を流しながらエミリアはなけなしの勇気を振り絞ってさらに森の奥へ奥へと進んでいく。
 最初のうちは多少なりとも踏み固められた地面を歩いていたというのに、いつしか足元はびっしりと草に覆われ、歩くたびにかさかさと頼りない音を立てる。どうやってここまで来たのか、もはやエミリアにはわからなかった。どこを向いても同じ景色のようで、どこまで歩いても同じ景色が広がっているばかりだ。大声で泣き出してしまいそうな気持ちを抑え、震える身体をランプを持っていないほうの手で抱きしめながらエミリアはさらに歩き続ける。
 怖い。怖いよぉ。
 いつになったら、子取り鬼たちの村が見つかるんだろう。
 帰りたい。帰りたいよ。
 だけど、ここで逃げちゃったらお願いを叶えてもらえない。
 だから歩かなくちゃ。歩かなくちゃ。
 くじけそうになる気持ちを励ましながら、エミリアは彼女の膝まで伸びた草を踏みしめ、涙を腕で拭って歩いていく。
 木の根に足を取られ、エミリアは前のめりに草の上に倒れた。
 すぐに立ち上がろうとしたが、小刻みに震える足は言うことを聞かない。
 体力が極限に達してしまったのだ。小さな子供の足では、道の開かれていない森を長時間歩くことは難しかった。願いを叶えてもらうために奮い起こした気力も、ほとんど尽きかけている。
 がさがさと、風が森の中を吹き抜けていく音が聞こえてくる。急に心細くなり、エミリアは膝を抱えてそこに座り込んでしまった。
 あの森には、子取り鬼たちが棲んでいるんだよ。
 悪い子がいたら、夜のうちにその子をさらっていってしまうんだよ。
 さらわれた子は、二度と家に帰れないんだよ。
 さらわれた子は、ずっと森の中に閉じ込められちゃうんだよ。
 ずっと閉じ込められちゃうんだよ。
 ランプの頼りない炎が浮かび上がらせる空間の外は果てのない闇。
 闇の中で、いくつもの小さな明かりが浮かび上がる。それは勇気のない子供たちをさらう、子取り鬼たちの眼。その獰猛な光にエミリアは悲鳴を上げ、その声につられるかのように子取り鬼たちはその数を増やしていく。
 エミリアは必死に近くに転がっていた石を投げるが、相手に動じた様子はまったく見られない。むしろ、エミリアの抵抗を楽しむかのように笑い声を上げるばかりだ。
 じわじわと、彼らはランプの明かりに照らし出される範囲へと近づいてくる。闇に浮かび上がるように、ぼろぼろの衣服を纏い刃物を構えた小人たちの姿がぞろぞろと現れたとき、エミリアはついに糸が切れるように泣き叫んでいた。
「パーパ!」
 大声で助けを求めながら、エミリアはランプを手に全力で子取り鬼たちの眼が光っていない方へと駆け出した。
 後ろからは子取り鬼たちがその小さな身体からは考えられないほどの速さで迫ってくる。恐怖のあまり歯を鳴らし、泣きじゃくりながらエミリアは森の中を走る。
「パーパ!」
 子取り鬼たちはもうすぐそこにまで近づいていた。エミリアが立ち止まったり転んだりすれば、すぐにでも追いつかれてしまうような距離だ。背筋を凍らせるような不気味な笑い声がすぐ後ろから聞こえてくる。必死になって走りながらも、エミリアの息は切れる寸前で、いつ追いつかれてもおかしくなかった。
 助けて、パーパ。
 エミリアは子取り鬼たちなんかにさらわれたくないよ。
 お家に帰りたい。
 森なんかに閉じ込められたくないよ。
「助けて、パーパ!」
「落ち着いて、エミリア」
 ふわっと、ほとんど前のめりになって走っていたエミリアの身体が優しく抱きとめられる。
 その温かさに驚いて顔を上げてみれば、そこには心配そうにエミリアを見つめる明るい茶色の髪の少女の顔があった。突然の少女の登場に呆然としているのか、子取り鬼たちから逃げることも忘れて抱きしめられたままでいるエミリアの額に、少女はそっとキスをした。
「大丈夫よ、エミリア。怖いものなんて何もないわ」
「えっと……でも、子取り鬼たちが追いかけてくるの。エミリアをさらって行っちゃうの」
「後ろを見てごらんなさい。子取り鬼たちなんてどこにもいないから」
 おそるおそるエミリアが後ろを振り返ってみれば、そこにはエミリアを恐怖させた小人たちの姿はどこにもなかった。闇の中にランプをかざしてみても夜の森の景色が浮かび上がるだけで、あの獰猛な眼の光さえ感じることはなかった。
「ほら、何もいないでしょう」
「エミリア、助かったんだ……」
 へたりとエミリアは草の上にしゃがみこみ、そのまま大粒の涙を流しながら大声を上げて泣き出した。少女はそんなエミリアは優しく見つめながら、もう一度その細い腕で強く抱きしめる。安らかな温もりに包まれて、エミリアはずっとずっと泣き続けた。
「ねぇ。お姉ちゃんは、誰なの?」
 泣けるだけ泣き、ようやく恐怖から解放されたエミリアは、優しく自分を抱いていてくれた少女に首をかしげながら尋ねた。
 少女は一瞬言葉に詰まったようだったが、少し考えるように木々の合間に見える夜空を見上げたあとでこう言った。
「私は……この森の女神です」
「えっ。お姉ちゃん、女神様だったの?」
 よく少女を見てみれば、彼女が身に纏っているのは夜の闇に燐光を放っているかのような純白のドレスであった。燦然たる輝きを放つ宝石があまり目立たない程度に、しかしその美しさを誇って少女を飾っており、まっすぐに流された茶色の髪には細かな彫刻の施された銀の髪飾りはエミリアでさえ見とれるようなものであった。
 付き従う騎士や妖精さえいないものの、エミリアは目の前の女性がこの森の女神であることを心から認めた。
「えっと……女神、様」
「お姉ちゃん、でいいですよ」
「うん。お姉ちゃん、あのね、エミリアは家に帰りたいの。でも、道がわからなくて」
「心配ありませんよ。私が森の出口まで送ってあげますから」
「えっ。お姉ちゃん、道がわかるの?」
「もちろん。私はこの森の女神ですから」
 微笑みながら少女はエミリアの手からランプを受け取り、エミリアの手を優しく握った。
 握られた手は不思議なくらいに温かく、優しいものだった。エミリアはこの森に入ったときのような恐怖に襲われることなく、むしろ安らぎさえ感じながら少女に手を引かれて夜の森を歩いていく。
「そういえば。どうしてエミリアはこんな夜の森の中に入ったりしたの?」
 少女に尋ねられ、エミリアはこの森に入った目的を思い出したのか悲しげにうなだれた。
「あのね、お姉ちゃん。エミリアは、お母さんがほしかったんだ。だから、子取り鬼たちに会って、エミリアにお母さんができるようにしてほしかったの」
「……エミリアにはお母さんがいないの?」
「うん。小さい頃病気で死んじゃったって、パーパが言ってた」
 うなだれたままエミリアがそう言うと、少女は優しくエミリアの頭を撫でてくれた。
「一つ聞きたいのですけど、エミリアはどうして新しいお母さんがほしいのですか? あなたのお父さんはエミリアに優しくしてくれているのでしょう?」
「うん。パーパは優しいよ。だけど、エミリアはやっぱりママがほしいの。ほかのお友達みたいに、優しくしてくれるママがほしいの。パーパは新しいママなんていらないっていうけど、エミリアはやっぱり新しいママがほしいの」
「そうですか……」
 どこか寂しそうに呟き、少女は立ち止まった。
 そして、一緒に立ち止まったエミリアをそっと抱きしめる。
 突然抱きしめられ、エミリアは少しだけ戸惑いを覚えた。しかし、少女の肌から伝わる温もり、そのどこか懐かしい匂いに心奪われ、エミリアはおずおずと少女を抱き返していた。
 どうして、お姉ちゃんからはこんなにいい匂いがするんだろう。
 懐かしいような、ふんわりするような。
 とっても温かくて、優しい。
 でも、どうして涙が出てくるんだろう。
 怖いわけでもないし、悲しいわけでもないのに。
 どうしてなんだろう。
「エミリア。森の女神が、子取り鬼たちに代わってあなたの願いを叶えてあげます」
 エミリアを抱きしめたまま、少女はエミリアの耳元で囁いた。
「あなたが一番好きな女の人に、私のお父さんと結婚してってお願いしなさい。そうすれば、その人はきっとあなたの新しいママになってくれるから」
「……本当?」
「ええ、本当よ。森の女神が約束するわ」
 優しくエミリアの頬にキスをすると、少女はそっとエミリアから身体を離した。
「私がエミリアと一緒に行けるのはここまでです」
「えっ。エミリアは道がわかんないよぉ」
「大丈夫。もうすぐ、あなたの大切な人が来てくれるから」
「パーパが?」
 少女は優しく微笑むと、もう一度エミリアの頬にキスをして唄うようにエミリアにこう告げた。
「さようならエミリア。私はいつでもあなたのことを見守っているわ……ウェインにも、よろしく伝えておいてくださいね」
「あれ。お姉ちゃんはパーパのことを知っているの?」
 そうエミリアが尋ねようとしたときには、少女の姿はどこにも見られなかった。少女の立っていた場所にはエミリアの持っていたランプが置かれているだけで、あの美しい衣装を纏った女神の姿はその影さえも見つけることはできなかった。
「お姉ちゃん……どこ?」
「エミリアちゃん!」 
 自分の名前を呼ぶ声に、呆然としていたエミリアは思わず振り返る。そこには、長い金色の髪をぼさぼさにしたバーネットが肩で息をしながら立っていた。
「ねねっ」
「エミリアちゃん……よかった、無事だったんだ」
 バーネットは駆け寄るエミリアを抱きしめ、そのまま声を出さずに涙を流した。いつもは常に強気なバーネットが涙を流したことに、エミリアは自分が家を抜け出したことがどれだけバーネットを心配させたかを強く感じずにいられなかった。
「ねね、ごめんなさい」
「ううん、あたしが悪かったのよ。エミリアちゃんに、この森に行かせるような話をしたから……」
 ちょっと乱暴に涙を腕で拭きながら、バーネットはひょいっとエミリアを抱え上げ、そのまま背中に背負って歩き出した。エミリアは自分の足で歩きたかったが、緊張の糸が切れてしまったのかもう一歩も歩くことができそうになく、目をつむってバーネットの首に腕を回した。
「ねえ、エミリアちゃん。子取り鬼たちには会えたの?」
「う〜ん。わからない」
 エミリアは子取り鬼たちに追いかけられていたときのことを思い出そうとしたが、なぜかそのときのことをよく思い出せなかった。
 あれだけ怖かったのに、まるで夢のことのように記憶が曖昧で、よく説明できない。
 だから、エミリアは答えをはぐらかすしかなかった。
「でも、女神様には会えたんだよ」
「女神様だって?」
「うん。茶色の髪の、すごく綺麗なお姉ちゃん」
「ふうん……それで、お願いは叶えてもらったの?」
「う〜ん。秘密」
「あっ、ずるいんだ」
 頬を膨らませてみせるバーネットの顔を見て、エミリアは声を上げて笑った。バーネットもまた、エミリアに劣らず大きな声で笑う。
「でも、エミリアちゃんが見つかってよかったよ。ウェインももうすぐ来てくれるってさ」
「あれ。パーパはお仕事で街に出かけたんじゃないの?」
「娘が行方不明になってるっていうのに、仕事なんかしていられるわけがないじゃない。きっと、今頃は村に帰ってきているよ」
「……パーパに迷惑かけちゃった」
「ちゃんと謝りなよ。あたしも一緒に頭下げてあげるからさ」
「うん」
 バーネットの背中に揺られながら、エミリアは女神と名乗った少女のことを考えていた。子取り鬼たちのことについては曖昧なのに、あの少女のことはエミリアはよく覚えていた。当然、あの約束のことも。
 お姉ちゃんは、お願いを叶えてくれるって言った。
 エミリアの好きな人に、パーパと結婚してくださいって言えばいいって。
 ねねに頼んだら、ねねはパーパと結婚してくれるのかな。
 ねねお母さんっていうより、どっちかっていうとお姉さんっていうような気がするけど。
 エミリアはねねのことが大好きだから。
「あのね、ねね。えっと……」
「お〜い。バーネット、エミリア、大丈夫か」
 ウェインの声が少しずつ近づいてくる。他にも足音が聞こえているから、一人ではないのだろう。エミリアは仕方なくバーネットへのお願いを先に延ばすことにした。他の人がいる前で頼むのは、ちょっと恥ずかしかったのだ。
 ランプを持ったウェインの姿がもうすぐ側にまで見えた。バーネットの背中の上で、エミリアは自分の家で三人が一緒に暮らす風景を想像しながら、父親の名前を呼んだ。




「どうやら、うまくいったみたいですね」
 エミリアの無事を喜ぶウェインたちの姿を見つめながら、教会の壁画から抜け出してきたかのように端麗な容姿の天使は満足そうな笑みを浮かべた。
「天使様、エミリアを助けていただいてありがとうございます」
「あの子を助けたのは、ムーア、貴女ですよ。私は貴女に少し手を貸しただけです。お礼などを言われても困ってしまいますよ」
「でも、ありがとうございます」
 深く頭を下げるムーアに苦笑しながら、天使はもう一度エミリアたちの方を見つめる。
 ウェインの腕の中で疲れた身体を休ませながら、エミリアはバーネットと一緒に何度もウェインに謝っていた。ウェインは少し怒ったような顔をしていたが、それでもエミリアを抱いた腕は優しく、バーネットに向けられた眼差しは笑っていた。
「……あの三人はやはり仲がいいですね」
「ええ。そうですね」
 天使のどこか意味ありげな言葉に、ムーアはただそっとうなずく。
 だが、その瞳の中には複雑な色が浮かんでいた。エミリアたちを見つめる瞳は優しげでありながら隠し切れない寂しさを含み、バーネットに向けられた眼差しにはかすかな嫉妬の感情が宿っていた。
「天使様。私は悪い女ですね」
 彼らから目をそむけながら、ムーアは小さく呟いた。
「私は、ウェインの隣にいてエミリアと笑っているバーネットさんがとても羨ましい」
「ムーア……」
「ときどき、私は夢を見るのです。二人と一緒に普通の日々を送る夢を。ウェインの腕に抱かれて、エミリアと一緒に遊んで、一緒のテーブルでご飯を食べて……夢の中で、私は幸せでした」
 でも、その幸せは私のものじゃない。
 ウェインの腕に抱かれるのも。
 エミリアと一緒に遊ぶのも。
 あのテーブルでみんなでご飯を食べるのも。
 その幸せは、きっとバーネットさんのもの。
 生きていてさえすれば手に入れられたはずの幸せ。それを私はただ見ているだけ。
 バーネットさんの幸せを、私はただ見ているだけ。
「……そろそろ、天に召されませんか?」
 穏やかな声が彼女の耳に響き、ムーアは顔を上げた。
「彼らにもはや心配はいらないでしょう。エミリアはバーネットに心を開き、バーネットもまたエミリアを愛している。ウェインとバーネットが結ばれるのも時間の問題でしょう。彼らは彼らの人生を歩んでいく。貴女もまた、貴女が歩むべき道を歩きましょう」
「……」
「これからも彼らを見守り続けていくことは、貴女にとって辛いことになりますよ」
 うつむいたムーアに、天使はさらに言葉を続ける。
「彼らとの再会は約束されています。彼らの人生だっていつかは終わるのですから……」
「もう少しだけ、待ってください」
「ムーア」
「もう少しだけ。本当にウェインとエミリアが幸せになるそのときまで待ってください。その日はきっとそう遠くはないでしょうから」
 そう。きっとその日は遠くない。
 いつか、私が祈る必要さえないほど、皆が幸せになる日は。
 その日を見てから私は逝こう。
 苦しいかもしれない。悲しいかもしれない。妬むかもしれない。
 だけど、それを覚悟して私は天使様に現世に留まることをお願いしたのだから。
 私は祈り続ける。
 私の家族が、本当に幸せになるその日まで。
 胸のロザリオを握り締め、ムーアは家に戻っていくエミリアたちの背中を見送った。
 彼女の家族の幸せ、それだけを祈り続けて。















   〜あとがき〜

 本当に久しぶりの作品を仕上げた砂時です。第二章から下は五日で仕上げたという私にとってはいつになく早書きの作品ですが……いかがでしょうか?
 前作の主人公がウェインでヒロインがバーネットだったのに対して、今作の主人公はエミリアでヒロインは森の女神様ことムーアになっています。エミリアの母親を求める寂しい気持ちと、ムーアのあくまで家族を想う気持ちが伝われば、嬉しいです。
 そういうことで、また感想をよろしくお願いします。これからしばらく浪人っぽい生活が続くので、またぺースダウンしそうですが……できる限り頑張っていきますよ