永遠の夢
作:砂時



※この作品は第24回企画短編「イラスト競作:その2」参加作品です※
以下のイラストを元に書かれました。

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(イラスト提供:玉蟲さん)




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「気の遠くなるような、本当に気の遠くなるような年月の中で……俺はこうして数え切れないくらい夜空を見上げてきたよ」
 やや雲がかった夜空を見上げながら、青年は寂しげな微笑を浮かべた。その微笑がとても儚いように思えて、そのまま夜の闇に溶け込んでしまいそうで、イーリーは思わず青年の手を握り締める。
「誰だって俺より先に死んでいく。過ぎ去って行く年月の中で、変わらないものなんて何一つとしてありはしない」
 そう語る青年の容貌はまだ若く、どう見ても20代前半といった感じであった。整った顔立ちに年月を示す皺はほとんどなく、透きとおるように白い肌も瑞々しい。だが、その砂色の瞳はまるで村に住んでいる古老のように不思議な光をたたえていた。
 暖かい指が、そっとイーリーの頭を撫でる。
「君と同じように愛を語ってくれた女性もいた。生涯の友として短い人生を共に過ごした親友もいた。だが、皆俺より早く老い、死んでいくんだ」
「カイン……」
「俺はちょっとばかり長居しすぎたのかもしれないな……」
 あまりにも重い真実の告白を前に、イーリーはどうしたらよいのかわからなかった。ただ、カインがどこかに行ってしまわないようにと握り締めた手に力を込める。
「……どこにも行かないでよ」
 喉の奥から言葉を振り絞りながら、イーリーはカインの胸に顔を埋める。
 眼の淵に溜まった涙が、カインの胸を濡らしていく。
「カインが不死人でも構わない。カインが一緒にいてくれれば、私は構わない」
「イーリー……そういうわけにはいかないんだよ」
「どうして?」
「俺は歳をとらないんだ。最初のうちはそれを疑う奴はいないだろう。だけど、そのうちに俺に疑問を抱く連中が出てくる。そのとき、そいつらが俺のことを悪魔や魔法使いだと教会にでも訴えたらどうなると思う?」
「そんなこと……」
 反論しかけるイーリーだったが、カインの悲しそうな表情を見て何も言えなくなってしまった。おそらく、カインの言葉は例え話などではなく現実に起こったことなのであろう。砂色の瞳に宿る悲痛さに耐え切れず、イーリーは思わず顔を背ける。
「だから、俺のことはもう忘れてくれ……そうしないと、君が不幸になるだけだ」
 カインの言うことは正しいのかもしれない。
 きっと、カインは私の想像している以上に長い時を生きてきたんだろう。
 私の知る誰よりも、色んなことを知っていた。
 異国の唄、首都で流行の音楽、大昔の英雄達の叙事詩。
 家畜の育て方からおいしいワインの造り方まで、カインはなんでも知っていた。
 だけどね、カイン。
 カインは色んなことを知っているけど、私の気持ちは知らなかったでしょう?
 私がずっとずっとカインのことを想っていたことを、知らなかったでしょう?
「やだ」
「おい、イーリー」
「私はカインと一緒にいるってずっとずっと前から決めてたの。魔女狩りが何よ。カインが悪魔だって不死人だって全然構わないんだから」
 泣きじゃくりながら、イーリーはカインの背中を強く抱き締める。
「もしも私を置いてどこかへ行ったりしたら……私、絶対に許さない。カインのことを絶対に許さないから。どこまでもどこまでも追いかけてやるんだから」
 砂色の瞳を困惑に揺らしながら、カインは小さく溜め息をつきつつ夜空を見上げた。
 いつだって、そうだった。
 俺と深く関われば幸せになることなんてできはしないのに。
 気がつけば、こうやって戻れないところまで関わってしまっている。
 一人であるべきだとわかっているのに。
 心が、たとえ一時であったとしてもかけがえのない誰かを求めてしまう……
「……わかったよ」
「えっ?」
「君が飽きるまでずっと側にいるさ。それでは不満かい?」
「ううん。そんなことはない」
 涙を拭いながら腕にもたれかかってくるイーリーの温もりを感じながら、カインは夜空を仰いだ。
 雲の合間から月が出ていた。淡い光を放つ半月。月も星も見上げるごとに居場所を変えてしまうけれども、その光が絶えてしまうことはない。
 この幸せが長く続きますように。
 永遠ならざる日々を。
 愛しい君と、一日でも多く共に生きていけますように。


 1

「……生きることの意味とは、何だ?」
 女たちに足を洗わせながら、カインの目の前に腰掛けた壮年の男は苦渋に顔を歪ませて握り締めた拳を見つめていた。コロシアムの勇者、数多い奴隷剣士たちの中でも並ぶものなき猛者として知られた男が垣間見せた意外な表情に、カインは驚きを隠すことができなかった。
 風通しもよく、十分に間取りのとられた屋敷は豪邸とは言えないまでも奴隷の住む住居としては破格のものであった。奴隷だとしても勇者には相応の敬意が払われるのである。
「カイン。お前にとって生きることの意味とは、何だ?」
「……難しい問いかけだな。スパルタクス」
 生きることの意味を最後に考えたのはいつの日のことだったか。
 いつだって、俺はその場その場に流されて生きてきた気がする。
 武芸を磨き、教養を身につけ、音楽や舞踏も学んできた。
 だが、それは長い時間を生きていくための気まぐれにすぎない。
 何もせずに生きていくというのは、あまりに退屈過ぎるものだから。
 奴隷としての生活に甘んじているのも、退屈しのぎには悪くないと思うからだ。
 だが、生きることの意味とは……何だ?
 女の差し出したワイングラスを受け取りながら、カインは肩をすくめる。どんなに考えても答えはすぐには見つかりそうになかった。
「わからないよ。いい女にうまい料理に上等な酒。それが生きていくことの意味と言う奴はいるかもしれないがな」
「……もしもそうだとしたら、生きることとはあまりにつまらないものだな」
「だが、一つの真実だろう?」
 カインもまた、奴隷剣士として多くの戦士たちをコロシアムで打ち倒してきた。
 彼らのほとんどは戦場で奴隷となった者たちであり、その武勇は並大抵のものではなかった。彼らは観客たちを楽しませるためではなく己が生きるために全力を尽くしていたが、彼らは皆生き残ることで勇者となり、勇者としての待遇を得ることを望んでいた。
 妖艶な美女。市民のものよりも上質な屋敷。芳醇な香りを漂わせる名酒。奴隷の身分からはとても望めないようなことが、勇者には得る権利があるのだから。
「お前の言うことに否定はしない。俺とて、それが生きていく意味だと信じていたのだからな」
「今は……どうなんだ?」
「わからない。だが、わからないこそ俺は考えてしまうんだ。俺が生きている意味とは何なのかを……」
 遠い目をしながら、スパルタクスは外の風景に目を向ける。
 石畳の道。街中を走る水路。大通りには荷車が耐えることなく、遠くに見える港には数多くの船が停泊している。その一方で、広場では今日も奴隷たちが競売にかけられ、コロシアムでは血の宴が繰り広げられることだろう。大通りの荷車を引く男もまた奴隷たちであり、美しい女奴隷は娼館で女としての価値がなくなるまで客をとらされる。奴隷たちの血と汗で建てられた都。繁栄の下で、名もなき奴隷たちはただ働き続けるしかない。
 無言のままスパルタクスは立ち上がった。その手が足を洗っていた女の肩に伸びると、女は妖艶な笑みを浮かべながら彼のたくましい腕に頬ずりした。
「また女を抱くのか?」
「ああ。生きているうちに一人でも多くの女に俺の子を産ませなくてはならんからな……お前もどうだ?」
「いや、遠慮しておく」
「そうか。ゆっくりしていってくれ」
 スパルタクスが女と共に姿を消すと、カインは溜め息をついてグラスの中身を飲み干した。ふと足元に視線を向ければ、カインの足を洗っていた女が珍しい動物を見るような目で彼を見つめている。
「どうかしたのか?」
「いえ……カイン様は女性は好きではないのかと思いまして」
「そういうわけではないんだがな」
 苦笑しつつ、カインは女に足を拭くように命じた。サンダルのような履物が主流なこの街では、足をよく洗う習慣があった。そして、美しい女に足をあらわせることは一つのステイタスでもある。 
「お前はどうなんだ。俺やスパルタクスが抱かせろと言ったら、喜んで抱かれるのか」
「もちろんですわ」
「ふむ?」
「カイン様やスパルタクス様のように強い男の子種を授かることができれば、きっと強い子を産むことができるでしょうから。それに、もしも男の子を生めれば妻や側室として取り立ててもらえますからね」
「ああ。そういう考え方もあるのか」
 生きることの意味、か。
 スパルタクスもこの女も、きっと自分たちなりにそれを探しているんだろう。
 老いからは逃れられず、死を避けることはできない運命の中で。
 きっと誰もが自分たちの生きることの意味を探している。
 だとしたら、運命から逃れているこの身には何ができる?
 戦友であるスパルタクスに、俺は何をしてやることができる?


 2

 傾いた日差しがコロシアムを包む中で、カインやスパルタクスたちは黙々と地面に穴を掘り続けていた。
 先日、都の正規軍は南方の蛮族を平定し、大勢の捕虜を都へと連れて凱旋した。この機会にコロシアムの主催者は血の祭典を開こうと考えたらしい。
 大勢の奴隷剣士と蛮族たちの戦いは凄惨を極め、血に飢えたかのような市民たちの歓声の中、奴隷剣士たちはかろうじて蛮族たちを討ち果たした。だが、激しい戦いの中でカインたちは大勢の仲間を失ってしまった。
「……俺たちが生きることの意味とは、なんだ?」
 仲間の遺体を薪の上に横たえながら、スパルタクスはぽつりと呟く。彼が抱きかかえていたのは彼が息子のように可愛がっていた少年だった。とめどなく流れる涙が、返り血に汚れた頬を伝い落ちていく。
「俺たちは奴隷だ……だが、俺たちは奴隷として死んでいくことしかできないのか。市民共を楽しませるために死んでいくことしかできないのか?」
 薪に火が放たれ、遺体を焼き尽くしていく。天に立ち上っていく黒煙。スパルタクスが可愛がっていた少年の姿も、炎の中に掻き消えていく。
「カイン。俺は俺たちを奴隷としている奴らを許せん」
 涙で腫れ上がった瞳は、熱い怒りをたたえてコロシアムを見つめていた。
「いつか必ず、俺はこの都を叩き潰してやる」
「おい、スパルタクス」
「俺は生きることの意味をずっと考えていた。今もそれはわからん。だが、ここで奴隷の身分に甘んじたままでは俺が生きる意味を失う。そんな気がするのだ……」
 戦場の勇者としての素顔を剥き出しにして語るスパルタクスを前に、カインはかつてない高揚感を感じていた。胸が高鳴り、頭の奥から何かが湧き上がってくるような感覚。
「スパルタクス。もしも君が行動を起こすなら、俺は喜んで君の力になろう」
「……世話をかけるな」
「いいさ。俺が選んだ道だからな」
 俺が選んだ道、か。
 そんなことを言うなんて、本当に何年ぶりだろう。
 その場に流されるまま長い年月を生きてきたこの俺が。
 スパルタクスのために全力を尽くそうとしている。
 だが、この高揚感と共に戦友たちとこの都を相手に戦うことができるのなら。
 それもまた、悪くはないだろう。
「この都には数十万の奴隷たちがいる。彼らを糾合し、一丸となればこの都を覆すことは不可能ではないはずだ」
「ああ……お前の意地を市民たちに見せてやれよ、スパルタクス」


 その数ヵ月後、スパルタクスは奴隷剣士を中核とした78人の仲間たちと共に都を脱走。反乱を鎮圧するために派遣された正規軍を逆に壊滅させ、奴隷たちの希望の星となる。
 その後は次々と奴隷たちを仲間に加えていき、数万の大軍に膨れ上がったスパルタクス軍は大規模な正規軍の軍勢を何度も打ち破った。スパルタクスの戦いは2年にも及んだが、寄せ集めの奴隷たちをよく統率し、戦利品は平等に分配し、都の住民に対しては乱暴を禁ずるなどその行動は敵味方を問わず賞賛された。
 だが、この反乱に危機感を抱いた都が地方で武勲を挙げた歴戦の司令官を招集し、スパルタクス軍に倍する軍勢を整えるとさすがのスパルタクスにもどうしようもなかった。スパルタクス軍は善戦したもののついに打ち破られ、敗走を余儀なくされてしまう。


「皆はもう行ったか?」
「ああ。あとはここに残っている俺たちだけさ」
 敗北が決定的になると、スパルタクスはまず女子供から先に戦場から撤退させ、続いてここまで自分に従ってきてくれた仲間たちの大半を解散した。あとに残ったのはスパルタクス自身とカイン。そして数百人の元奴隷たちだけだ。
 正規軍は大地を埋め尽くすかのようにスパルタクスたちへと迫ってきていた。あと数時間もすれば彼らはここまで押し寄せてくるだろう。十万以上もの正規軍を前にこの人数では勝負にもならない。だが、スパルタクスたちはここで時間を稼がねばならなかった。
 故郷に帰るにせよ奴隷に戻るにせよ、各々が自分たちの道を選ぶ時間を稼ぐために。
「すまぬな、カイン……お前のおかげでここまで来れたのに、終わってしまうとは」
「いいさ。君だって、悔いなどないだろう?」
「ああ。この2年間、俺はかつてないほどに生きることの実感を味わってきた。この戦いこそが、きっと俺の生きる意味だったのだ」
 絶望的な戦いを前にして、どの男たちの表情にも不安や恐怖はなかった。重い疲労は隠せなかったが、彼らの表情はどこか明るく、晴れ晴れとしていた。
 刻々と迫ってくる軍靴の音。スパルタクスは長剣を構え、天に向けて突き出す。
「さあ、最後の戦いだ。暴れてやろうぜ」
「おお!」
 雄たけびを上げながらスパルタクスたちは正規軍の群れへと駆け出していく。絶望的な戦況の中でカインは笑っていた。愛する仲間たちと共に自分たちのすべてを賭けて戦えるのだ。これに勝る喜びがあるだろうか。
 一人倒れ、二人倒れ、いつしかカインの周囲には一人として仲間の姿は見えなくなっていた。
 無数の槍が、カインただ一人に向かって突き出される。
 身体中を貫かれながら、カインは友の名を呼ぼうとした。だが、その名前は喉に溢れかえった血のためについに声に出すことができなかった。


 むせかえるような血の臭いの中で、カインは目を覚ました。
 着ていた甲冑は剥ぎ取られ、下着一枚という姿であったが、槍で貫かれたはずのその身体には傷一つ見られなかった。不死人であるカインはこの程度では死なない。一度は首を刎ねられたことさえあるが、気がつけばどういうわけか元の身体に戻っているのだ。
 スパルタクスの遺体を捜そうとして、カインはかぶりを振った。かつての友や仲間たちが鳥や獣についつばまれている姿を見ることは耐えられなかった。一緒に死ねなかった後ろめたさに責められながら、うつむきがちにカインは歩き出す。
 生きることの意味とは、何だ?
 スパルタクスと戦っていた頃の俺は確かにそれを知っていたはずなのに。
 今の俺はそれを忘れかけてしまっている。
 なあ、君は自分自身の生きている意味に満足することができたのかい?
 俺はどうすれば、自分自身の生きていることの意味に満足することができるのだろう?


 3

「今のカインは、生きていることの意味に満足しているの?」
「君が側にいてくれればね」
「……もう」
 真っ赤になった頬をクッションに押し付けて隠すイーリーに微笑しながら、カインは戦友の笑顔を思い浮かべる。自らの生きている意味を知るために懸命に戦ってきた戦友の姿を、カインは今でも鮮やかに思い出すことができた。
「なあ……イーリーは、生きていることの意味に満足しているかい?」
「えっ、私?」
 その問いかけに、イーリーは思わず言葉を詰まらせた。
 カインと一緒にいる暮らしに、私は十分満足している。
 この幸せが生きていることの意味だとしたら、きっとそうなんだろうと思う。
 でも、それは本当に生きていることの意味なんだろうか?
 間違ってはいないんだけど、なんだか微妙に違う気がする……


 4

「生きているって、つまらないよね」
 宵闇の中、白いその裸体を惜しげもなく星たちにさらしながら少女は溜め息混じりに呟いた。その言葉を聞いたカインはわずかに頬を引きつらせながら、木の枝にかけられた修道衣を少女へ放り投げる。
「サラ……お前、人にあれほど楽しませてもらっておいてそういうことを言うか普通?」
「あは……そういう意味じゃないんだけどね」
 悪戯っぽく笑いながら、サラは修道衣を羽織った。その拍子に金色の長い髪がふわりと広がる。その背後に広がるのは一面の小麦畑。川の周囲には小屋のように小さな家が点在し、窓から淡い光を漏らしている。どこにでもあるような小さな村。その中で、村の規模には明らかにそぐわない大きさを誇る教会が妙に印象的だった。
「まったく……神に仕える修道女がこんなところで男と密会したことがばれたらどうなるかわかってるのか?」
 木の根元に置いておいた葡萄酒の瓶に口を付けながら皮肉げに問いかけるカインに、サラはさもおかしそうに笑った。
「悪魔との密会だからね。きっと火あぶりかなぁ」
「気楽に言うな。あと、俺は悪魔じゃないと何度言わせるんだ」
「じゃあ、魔法使いにする?」
「いや。もうどっちでもいいけどさ……」
 カインがサラと出会ったのは、この村の教会の墓地であった。
 多くの人々が信仰する神が生まれる前から不死人であったカインにとって、神というものは無意味な存在でしかなかった。かつては己の不死性が神の思し召しのためではないかと疑った時期もあったが、神を信じる者たちが神の名の下に恥じることを知らずに行った数々の蛮行を目にして、そんな彼らを罰することのない神に対して最後の信仰心を失ったのはいつの日のことだったろうか。
 そんなカインにとって、魔女狩りなどは最も唾棄する行為の一つであった。すべての不幸を一個人に押し付ける理不尽さ。そしてそれを存在するはずもない悪魔のためだと主張し、蛮行を止めるどころか喜んでそれに参加する聖職者たち。魔女裁判の現場に出くわしたカインはかろうじて火あぶりにされかけていた女性たちを逃がすことに成功したが、カインも無傷ではいられず片腕を切断され、かろうじてその場から逃れた。
 とはいえ、不死人であるカインにとって片腕程度はたいした負傷でもない。放っておけば一晩で新しい腕が生えてくるのだから。腕が元に戻るまでとカインは闇に紛れて村はずれの墓地に身を隠していたが、その時に偶然出会ったのがサラであった。
 サラは新しい腕が生えてくるような存在は悪魔か魔法使いに違いないと言い、村人に突き出されたくなければ自分に従うようにと迫った。修道女のくせに悪魔と取引をしようとしているサラに最初は戸惑いを覚えたものの、彼女に興味を抱いたカインはこれを受諾。その日からサラは毎夜のように彼の元を訪れ、こうして逢瀬を重ねている。
「ねえ。カインはさ、神様っていると思う?」
「悪魔に聞く台詞ではありませんな、神に仕える修道女様」
「茶化さないでよ。本気で聞いているんだから」
 もう少しからかってやろうとしていたカインであったが、サラの眼差しが思っていたよりずっと真剣だったことに気づいて、軽口を叩くのをやめた。
「まあ、少なくとも俺は神を信じちゃいない。会ったことがないからな」
「そっか……」
「サラは、どうなんだい?」
「あは……悪魔と付き合うような女が、神様を信じているわけないじゃない」
 サラは声を上げて笑って見せたが、その笑顔には力がなかった。
「それに、本当に神様がいるんだったらこの世界に不幸なんてないと思うの。そうだと思わない?」
「ああ。そうかもな……」
 長い長い間、世界中を旅して回ってきた。
 俺と同じ不死人に。神という至高の存在に巡り合うために。
 だが、この世界のどこを歩いてもそんな存在は見つからなかった。
 人は神の名の元に戦い、奪い、恥ずべき行いをも神の望みだとして正当化する。
 神というものが実在するならば、奴らを許しているはずがない。
 だから、神はこの世に存在しない。
「葡萄酒、ちょっとちょうだい」
 カインの返事を待たずにサラは葡萄酒を奪い取った。
 瓶から直接、紅色の液体を口に含む。2口ほど飲んだところでサラはむせながら瓶から口を離したが、その咳がカインの耳に不吉な響きを伝えた。やけに乾いた咳の音。これは……。
「サラ。君は胸を病んでいるのか」
「ちょっとね……まあ、この辺りじゃ珍しいことじゃないよ」
「そうか……」
 疫病。貧困。虐殺。不幸など見渡せばそこら中に転がっている。
 かつて、それら全てを正してやろうと思った時期があった。
 不幸という言葉自体が存在しなくなる、そんな世界を造りたいと願った時期があった。
 だが、その試みは結局失敗に終わった。
 自分自身の力など些細なものでしかないことを、嫌というほどに思い知らされた。
 俺は神など信じてはいない。
 だが、本当に神という存在が実在していればいいと……思っては、いるんだ。


「私ってさぁ、実は旅芸人の娘なんだ」
 川辺に腰掛け、穏やかに流れる水面を見つめながらサラは銀色のハープを手に取る。
 細やかな装飾。しなやかさと強さを併せ持った弦。芸術品や宝石の目利きをしたこともあるカインには、そのハープの価値に大体の予想をつけることができた。
「旅芸人が持つにしては、ずいぶんとこのハープは価値があるようだがな」
「うん。それは私のお父さんがどこかの王様の前で一曲を披露したときに褒美として頂いたものなんだって」
 細い指が愛おしげにハープを撫でる。調子外れだがよく通る音色が、夜空に響いた。
「君の両親は、やっぱり……?」
「この村で演奏していたときに、病気にかかっちゃってね……で、残された私は娼婦になるか金持ちに売り飛ばされるか修道女になるかを選ばされたのよ。ひどくない?」
「嬉しくない三者一択だな」
「修道女も教会の奴隷のようなものだから……お父さんが持っていた楽器や家財、馬車も全部教会への寄付だとか言われて持って行かれちゃったからね。でも、このハープだけはお父さんのお墓に隠しておいたから持って行かれずに済んだの」
「……ちょっと貸してくれ」
 ハープの弦を慣れた手つきでわずかに直し、カインはゆっくりと弦に指を走らせた。
 諸国を旅する吟遊詩人は、ハープ一つを手に世界中を旅していたものだった。彼らは諸国の伝聞や自らの体験談をハープの音色と共に聴衆に語りかけ、その報酬として次の街まで旅をする資金を得る。
 カインの演奏はやや古めかしいものであったが、かつては一生分ほど吟遊詩人の真似事をしていただけあってその腕前は大したものだった。素直に拍手をするサラに、カインは照れ笑いをしながらハープを返す。
「すごい……綺麗な音色ね」
「サラも弾いてみろよ。2年も練習すれば、俺以上の名手になれるかもしれないぞ」
「2年かぁ……私にそれだけの時間があればなぁ……」
 口元を手で隠し、サラは乾いた咳をする。
 庶民にとって薬はあまりに高価であり、医者はほとんど王家や領主の専属であった。地方に伝わる薬草や治療法などにはそれなりの効き目がないわけではなかったが、その多くは魔法という迷信を押し付けられ、禁じられてしまっている。
「病を治す金なら、そこにあるさ」
「えっ?」
「俺の目利きが確かなら、そのハープには君を医者に診せてなお余るくらいの価値がある。今まで世話をしてくれた礼に、君を信用できる医者に紹介してあげよう」
「でも……これはお父さんの形見なのよ」
「君のお父さんだって、そいつを形見として最後まで大切にしてもらうよりは君の病気を治すことを望むだろうよ。問題は俺が裏切らないかどうかだろうけど、信じてくれ。悪魔は契約に対して嘘をつかない」
「カイン……」
 大事そうにハープを抱きしめるサラを見つめながら、カインは彼女の答えを待ち続けた。かすかな川のせせらぎに紛れて、サラの押し殺した泣き声が聞こえてくる。その表情を見ていられず、カインは顔をそむけた。
 湿った土を踏みしめる音が聞こえた。一人のものではない。二人や三人などではない。
 四方から注がれる無数の視線。
 周囲への警戒を怠っていた事実に、カインは自身を罵倒した。ひしひしと迫ってくる悪意。鋭い口笛の音が、闇を切り裂く。
「逃げろ、サラっ」 
 カインが叫んだときにはもう遅かった。数十人の村人たちが一斉に周囲の草陰から飛び出し、カインとサラに迫ってくる。斧を振りかざした大柄な男を殴り倒し、松明を押し付けようとした老人を川へと投げ飛ばしながらカインはサラの元へと向かおうとしたが、既にサラは村人に刃物を突きつけられて身動きがとれなくなってしまっていた。
 ハープを奪われ、首筋に刃物を突きつけられたサラは恐怖に震えながらカインを見つめていた。自分一人ならば逃げ切る自信がカインにはあった。だが、サラを見捨てて逃げるような真似はカインにはとてもできなかった。
 奪い取った斧を地面に叩きつけ、カインは遠巻きに自分を囲む村人たちを睨み据える。
「人質を取られてはどうしようもならないな……大人しく縛につこう。だが、その女に手を出したらこの村を永遠に呪ってやる。貴様ら全員が死ぬまで解けないような呪いをかけてやるぞ」
 カインの脅しに、サラに刃物を突きつけていた男は慌てて彼女の喉元から刃物を放す。
 悪魔は当然ながら処刑。魔女もまた火炙りは免れない。サラと共に教会へと連行されながら、カインは己の愚かさ加減を責め続けるしかなかった。


 5

 まことに準備のいいことに、教会の庭には薪の山が用意され、その中央には丸太造りの牢屋までもが建てられていた。手足を縛られたまま牢屋に放り込まれ、カインは同じく手足を縛られたサラに心の底から詫びた。
「すまん……俺の不注意でこんなことに」
「ううん、いいの。カインと出会ってから、こうなることは覚悟していたから」
 地面に頭を叩きつけて詫びるカインを抱きしめ、その頬にキスをする。その姿は、カインにとってまるで聖母のように見えた。
 牢屋の前に太った聖職者が姿を現した。悪魔は殺すべし、悪魔に魂を売り渡した女も火炙りにすべし。聖職者の宣言に村人たちは歓声を上げ、興奮のあまり目を血走らせながら一斉に聖歌の合唱を始める。
「待ってろ。すぐにここから出してやる」
「えっ?」
「無駄に長生きはしちゃいないんでね」
 不敵な笑みを浮かべつつ、カインは手首を捻って彼の手を封じていた縄を解いた。続いて靴を脱ぐと靴底に隠してあったナイフで足を自由にし、サラを手足を縛っていた縄も両断する。村人たちの上げる意味不明な叫び声。いつしか聖歌の合唱は止んでいた。
 村人たちの誰かが呪詛を唱えながらカインに向かって石を投げつける。牢屋の合間を上手に通り抜けたその石をカインは無造作に受け止め、正確に投げた相手に復讐する。
 恐慌に陥り、口々に神への救いと悪魔へと天罰を訴える村人たちに侮蔑の視線を投げかけながら、カインは格子に手をかける。
「俺を怒らせたらどうなるか、思い知らせてやるぜ」
「カイン。そんなことしないで」
「……村の皆に遠慮しているのか?」
「違うの。そうじゃないの……」
 カインの袖を握り締めながら、サラは激しくむせこんだ。口を塞いだ指の間から溢れてくる鮮血。呆然とするカインに、サラは弱々しい笑みを浮かべる。
「実はね、カインに出会う前に教会に立ち寄ったお医者様に病気を診てもらったの。そうしたら、もう手遅れだって。どんなにいい薬を使っても、もう治せないって」
「おい……冗談だろ?」
「私ね、生まれてきてからいいことなんて全然なかった。気がつけばお父さんは死んじゃったし、教会では朝から晩まで働かされるし、こんな病気にかかちゃうし。どうせなら早く死にたいって、ずっと思ってたんだ」
 誰かが火をかけたらしい。狂気を帯びた叫び声と共に炎によって周囲が明るくなる。薪に油でも染み込ませていたのか火の回りはずいぶんと早く、気がつけば牢屋を包みかけていた。
「だから、カインと出会ったとき悪魔にこの身を捧げてやろうと思ったの。私を助けてくれない神様に頼るより、ずっとマシだと思えたから。だけど、カインは悪魔なんかじゃなかったね」
「そんなことはどうでもいいんだ。早く逃げないと……」
「ううん。逃げなくていいんだ」
 咳き込みながら、サラはカインの背中をぎゅっと抱き締める。
「もう私は長くないから。それだったら、私はカインと一緒に死にたい」
「おいおい」
「一人で死ぬのは嫌。だから、ねえ……お願い」
 煙がカインたちの周囲にまで回ってきた。調子外れの聖歌が、悪魔の滅びを前に音調を上げていく。激しく咳き込むサラを地面に伏せさせながらカインは覚悟を決めるしかなかった。周囲は炎で囲まれ、もはや逃れる術はない。
「俺は不死人だぜ。一緒に焼かれることはできるだろうけど、一緒に死ねるかどうかは保障しきれない」
「灰になっても死なないの?」
「……首を切られても元に戻った記憶ならあるが、全部を焼かれたことは確かないな」
「それなら、一緒に死ねるかもしれないね」
 心底嬉しそうに言うサラに、カインは苦笑するしかなかった。
 まあ、俺もいい加減長く生きてきたし、ここで死ぬのもいいかもしれない。
 綺麗な女の子と一緒に死ぬというのも、悪くない死に方だろう。
 それにしても、成り行きとはいえ無理心中とはね。
 あの世とやらがあったら、死後に皮肉の一つでも言ってやろう。
 だが、その前に……
「サラ。死ぬ前にキスさせてくれ」
「ああ。カイン……」
 目を閉じて寄り添うサラの頭を撫でながら、カインは懐から取り出した小瓶から透明な液体を口に含むと、そのままサラに口付けした。濃厚なキスにサラはうっとりとした表情をしていたが、やがて虚ろな視線を宙にさまよわせ、そのままぐったりと首を垂れる。
「女の子の苦しむ姿を見るのは、耐えられないからな……」
 炎の熱さに顔をしかめながら、カインはサラを強く抱き締めた。牢屋が崩れ落ち、炎の向こうで村人たちが喜びの声を上げているのが遠く聞こえる。
 この炎で、俺は死ぬことができるだろうか。
 もしも死ぬことができたら、俺はかつての仲間たちに再会することができるだろうか。
 そして。
 サラの笑顔を、もう一度見ることができるだろうか……


 6

「それで、カインはどうなったの?」
「いや……この通りこうしてるんだから、やっぱり死ねなかったってことさ」
 瀟洒な造りのダブルベッドの上。昔の女について色々と追及され、やむなく過去の出来事を語らざるをえなくなってしまったのだが、寝物語にしてはスパイスが効きすぎていたらしい。
「そのサラって女はどうしたの?」
「俺が元に戻ったとき、抱き締めていたはずの彼女の姿はなかった。仕方がないから、その辺の灰を集めて、教会からハープを奪い返してから、あいつの親父さんの墓に一緒に入れてやったよ」
「カインはその女に殺されかけたのに、恨まなかったの?」
「まあ……恨めるものじゃないさ」
 納得のいかない表情をしているイーリーの髪を軽く撫でながら、カインは苦笑する。
「でもさ。カインって実は女たらしだよね」
「そう言うなって。何百人分もの人生を生きているようなものなんだから」
「ふ〜ん。実は隠し子がいっぱいいたりして」
「あは……隠し子がいたらいいなとは思うよ」
 そう言いながら、カインはイーリーの腹部に目をやった。二人が祝言を挙げてからもう数年が過ぎているのに、彼女に懐妊の兆しはまったくない。少しだけ寂しそうな表情を浮かべ、イーリーは自分の腹に手を当てた。
「やっぱり、カインの子供は産めないんだね」
「すまないな……」
「ううん。わかっていたから、それはいいの……」
 カインはいったいどれだけ多くの女の人と恋をしたんだろう?
 何百人分の人生を生きているようなものだって、カインは言った。
 今の人生でカインは私だけを愛してくれている。
 だけど、カイン次の人生では私は過去の女としてしかカインの中に残れないんだろう。
 それはそれで仕方ないことなのかもしれない、だけど。
 私は、カインにとってずっと特別な女でいたい。
 どうすれば、私はカインにとって特別になれるんだろう?
 カインの子供を産めれば一番いいのだけど……無理っぽいし。
 いったいどうすれば。
 私は、カインにとって特別になれるんだろう?


 7

 カインにとって、その少女は教え子の一人でしかなかったはずだった。
 その国の首都から遠い辺境を治める領主の娘。ふとしたことから領主に気に入られ、屋敷に住むこととなったカインは自分の知る様々なことを少女に教えていった。
 文学。地理。歴史。楽器の演奏や礼儀作法に、護身術や馬術。
 永遠を生きるカインにとって、自らが習得した知識や技術を他人に教えることはやりがいのある仕事であった。少女はカインの教えを次々と習得していき、その成長振りは彼を喜ばせた。
 いつしか季節は過ぎ去り、少女は子供から大人へと変貌していった。
 その変化をカインはあまり実感していなかった。彼自身にとって時の流れが変化を与えるものではなかったため、少女がいつまでも子供であると思い込んでしまっていたのかもしれない。
 領主の一族の結婚式。カインは少女の付き添いとしてこれに参加していた。花嫁が身に纏ったドレスに少女は目を輝かせ、彼女が放り投げたブーケを掴み取って満面の笑みを浮かべる。
 その帰り道、ブーケを抱きしめながら少女は彼に告白した。家庭教師としてではなく、もっと身近な存在として一緒にいてほしいと。
 真っすぐな眼差し。少女がもう子供ではなかったことを痛感させられながら、カインは真実を告げることにした。
「かつて、不死人という存在について話したことがあるね。首を刎ねられようが火炙りにされようが死ぬことなく、この世界中を彷徨っている存在があると……」
 相手が自分を求め、かつとうてい信じられないような真実を受け止めることのできる許容能力を持っているとき、カインは自らの真実を告げる。それが相手の誠意に応えるための礼儀であると、カインは信じていた。
「俺こそが、その不死人なのさ」
 その時のカインの表情を、少女は今でも覚えている。口元には笑みを浮かべ、明るささえ感じさせる口調で話しながらも、その砂色の瞳はどこか深い悲しみを帯びて、彼女の胸を締め付ける。
 少女の名前を、イーリーといった。


 8

 カインのために、何をしてあげられるのか。
 彼の不死性を実感してから、イーリーはそのことばかりをずっと考えてきた。
 不死人であるカインと永遠に一緒にいることはできない。せめて生きている間に何かしてあげたいと願っても、それではカインが今まで人生の一瞬を過ごしてきた女たちと同格になってしまう。
 自分自身が死んだ後もカインにとって特別な存在でありたい。
 とはいえ、どうすれば彼にとって特別な存在になれるのかどうかイーリーには見当がつかなかった。
 領主の娘婿となってから、カインはイーリーの父親と共に領内の視察に出ることが多くなっていた。家庭教師であった頃よりも彼と一緒の時間が少なくなってしまったことにイーリーは寂しさを覚えることもあったが、彼のために何をしてあげられるのかを考えるにはこういった時間は大切であるようにイーリーは思えた。
 屋敷の正門の前に立ち、深呼吸を一つする。ここは彼女とカインが初めて出会った場所であった。
 正門の近くの花畑。髪飾りを作るために綺麗な花を選んでいたイーリーは、門番の案内を受けて屋敷へ向かおうとする青年にたどたどしくおじぎをした。それを見た青年は微笑むと、イーリーの側に近寄り、戸惑う彼女から花を受け取ると素早く髪飾りを作り上げ、金色の髪に差し込む。
 懐かしい思い出。イーリーにとって悔やまれたのは、しばらくはとっておいた花の髪飾りを朽ちてしまった途端に捨ててしまったことであった。今から思えば、あの髪飾りを出会った記念として押し花にでもすればよかったのに。
 そうだ。
 一目見ただけで私のことを思い出せるようなものをカインにあげればいいんだ。
 そうすれば、カインはずっとずっと私のことを覚えていてくれるはず。
 だけど、カインは死なないから、できるなら永遠に壊れないものをあげたい。
 長い長い時間をカインと共にいられるようなものをあげたい。
 だけど、それはいったい何なんだろう?
 深刻な疑問。正門の周囲をうろうろと歩き回り、顎に軽く手を当てながらぶつぶつと何やら呟いているその姿はかなり怪しいものであったが、本人にとっては真剣そのものであった。
 イーリーが真っ先に思いついたのは指輪などの装飾品であった。だが、かつてカインから聞いた話ではこの手の装飾品を形見とばかりにカインに渡した女性の数は相当なものであり、そのほとんどはある隠し場所に大切に保管してあるらしい。
 彼女たちの想いを知っていても、今の人生にまでそれを持ち込むことはできない。カインの言葉はイーリーを喜ばせたが、逆に考えればどんな装飾品もカインの次の人生に影響を与えることはできないのだ。
 溜め息をつきながら、イーリーは屋敷の中へと戻る。
 屋敷の大広間には、かつて先祖がこの地を得たときの戦いを描いた絵が堂々と飾られていた。その隣には、国王から拝領したという伝家の壷が置いてある。
 自分とカインを描いた絵を贈る。それは何度も考えており、腕のいい絵描きがこの地に逗留することがあればぜひとも依頼しようと考えてはいたのだが、絵を常に身近に置いておくのは難しい上に、時間の経過による劣化が激しい。
 壷など壊れにくいものを造ろうとも思ったが、イーリー自身はあまり手先が器用な方ではなかったし、こういったものは持ち運びには向かない。おそらく、装飾品と同じように隠し場所に保管されてしまうだろう。
 永遠に残るものって、難しい。
 私以外の女も、こんな風に悩んだんだろうか。
 自分が死んだ後のことを考えて、こんなに切なくなったんだろうか。
 せめて私が死んだ後もカインを縛りつけることができたらなと思う。
 縛られることをカインは嫌うかもしれないけど。
 最愛の人がまた他の人と新しい人生を送ることを考えると、そうせずにいられない。
 まとまらない思考に少し苛立ちながら、イーリーは使用人がいないことをいいことに乱暴にソファーへと腰を下ろした。ソファーの手すりに腕を置こうとして、何かを床へと落とした。目を向けてみると、それは一冊の古そうな本だった。彼女の父親か、カインが読んだままにしておいたのだろう。
 古ぼけた本ではあったが、これは写本であり実物はもっと古いらしい。軽くページをめくってみたが、紙はところどころ痛み、インクもまた一部分が薄くなっていた。写本でこれなら本物はどんなにひどくなっているのかと、イーリーは苦笑を浮かべる。
 古くなった本。写本でも、読みにくくても、その内容自身が変わることはない。
 イーリーは思わず立ち上がっていた。彼女は突破口を見つけたのだ。カインに永遠に記憶されるための、突破口を。


 9

「カイン。私に本の書き方を教えて」
「……はぁ?」
「できれば物語がいいけど、詩でもいいな。演劇の台本とかも面白そうだけど、こっちは難しいかも……」
「落ち着いてくれよ。いきなりどうしたんだい?」
 紙の束を抱きかかえながら迫ってくるイーリーにカインは戸惑いを隠せなかったが、少し落ち着いたイーリーから話を聞いて、感嘆の声を上げた。
「なるほど。確かに、その筆者が死んだずっと後でも作品自身が評価されることは多い。最近は印刷術が進歩しているようだし、うまくいけば何百年も何千年も作品をこの世に残せるかもしれないな」
「でしょ。いいアイディアだと思わない?」
「だけど、何千年も残る作品を作るのは並大抵のことじゃないぞ。神が生まれる前から詩や文章を書いていた連中はいたが、奴らの作品はほとんどが残っていない」
「かもしれない……だけど、やってみなくちゃわからないじゃない。それに、私にはカインっていう家庭教師もいるんだし」
「やってみなくちゃわからない、か……」
 苦笑しながら、カインはイーリーを机に座らせた。かつて彼が子供だったイーリーに色々なことを教えていた机。その隣に椅子を運び、羽根ペンを握り締める。
「こうしていると、子供だった頃を思い出すね」
「ああ。あの頃は可愛かったよな」
「ちょっと……」
「冗談さ。あの頃よりずっと、君は綺麗になったよ」
「もう……」
 軽口を叩きながら、カインはイーリーに羽根ペンを握らせる。カインは大学などで文章を学んではいたものの、作家としての人生を送ったことはなかった。文献や物語を読み通した数は比類ないが、それがいい作品を作ることに繋がるかどうかはわからない。
 まあ、やってみなくちゃわからないよな。
 二人で頑張れば、歴史に残る作品を作れるかもしれない。
 それに何より、好きな人と何かを作るというのは楽しいものだ。
 こめかみを押さえながら紙と格闘するイーリーの横顔を見つめながら、カインは窓の外の青空を見上げる。
 この幸せが長く続きますように。
 永遠ならざる日々を。
 愛しい君と、一日でも多く共に生きていけますように。















   〜あとがき〜

 大学が忙しくて久しぶりの投稿です。国家試験は3月なのですが、7月の試験に受からないとまずは受験資格を大学から貰えないので……必死です。
 文章から遠ざかってると、無性に物語を書きたくなってきます。なんで文学部などに行かなかったのか不思議に思えますが、ずっと書いているとまた遠ざかりたくなるのがお約束ですし……仕方ないのかも。
 最後まで読んでいただき、ありがとうございました。執筆に勉強に、頑張ります。