フォール・ハンター´ 3 |
作:アザゼル |
シーン4「燃え盛る火炎の中で」
ホテルを飛び出すと、通りは逃げ惑う人々で溢れかえっていた。星明かりだけが頼りの通りで大勢の人間がひしめき合うため、あちこちで転倒する者やそれに対して罵声を飛ばす者の悲鳴や怒声が聞こえてくる。
あたしは逃げる人間の走っていく方向と、窓外から見た火の手の位置を頭の中で簡単に目測した。
「フェステ、東の方よっ!」
あたしは導き出した答えを口に出して、通りを駆け出す。もちろん、逃げ惑う人たちは反対側から走ってくるので、あたしは何度もぶつかりそうになりながら通りを奔走した。後ろからぴったりとフェステの軽快な足音が付いてくるので、彼はちゃんと付いて来ているのだろう。
大通りに出てさらに東に向かうと、視界の向こう側に赤い炎が柱となって夜空を昇るのが見えた。周りを見渡すと、燃えた家屋が炭になって折り重なっている。あたしの脳裏に、《堕ちし者》に破壊された自分の村の光景が蘇った。
「大丈夫か?」
ぼんやりと立ち尽くしてしまったあたしに、フェステが珍しく優しい声をかけてくる。
あたしはそれに黙って頷くと、すぐにまた駆け出した。このまま原因を放っておいたら、街中が火の海になるかもしれないからだ。そんなことだけは……絶対に避けたかった。
通りは段々と細くなっていき、いかがわしい風俗店や酒場が乱立するスラム街へと突入する。汚いゴミ溜めのような通りに、状況を把握できず放心状態で立ち尽くす子供たちの姿が目についた。おそらくは、親に捨てられた子供――ストリートチルドレンの類だろう。
「あんたたち、早く逃げなさい!」
あたしはその子供たちに向けて、声を限りに警告した。
だがその言葉に、子供たちは焦点の合わない視線を微かにあたしに向けるだけで、誰もその場から動こうとはしない。
「早く! 早く逃げなきゃ!!」
「無駄だな。どうせ腹が減って動く気力も無いんだろ。いちいち相手にしてても、仕方ねえぞ?」
あたしが必死に叫んでいる後ろから、フェステが冷たく言い放った。
彼の言った通り、子供たちはやはり動く気配を見せない。でも……
「俺らが早く原因を何とかすれば、こいつらは助かるんだぜ?」
続けて言ったフェステの言葉に、あたしはハッとなって彼の顔を振り返った。
フェステは相変わらずの飄々とした態度で、口元に小さな笑みを浮かべている。何だか心を見透かされた気がして、あたしは少しだけ恥かしくなった。
「さ、分かったら行くぞ」
「分かってるわよ!」
走り出したフェステの背に、あたしは声を荒げて言い返すと同じように走り出した。そう――今あたしたちがすることは、避難者の手伝いなんかじゃない。この騒ぎの原因を突き止めて、どうにかすることだ。
あたしは一度だけ立ち止まると、さっきの子供たちの方を振り返って親指をびっと立てた。それからすぐに背を向けて、また走り出す。
夜空には変わらず星々が瞬き、騒々しい下界から遠く離れた所で美しく煌いていたのだった――
目の前はまさに地獄絵図だった。
逃げ惑う人々と、それを追いたてる《堕ちし者》。《堕ちし者》は、燃え盛る火炎を口内から放出し、獰猛な肉食獣を思わせる鋭い牙と硬そうな鱗に覆われた巨大な体躯を兼ね備えていた。あたしはギルトの資料でしか見たことが無いが、確か中級魔属のフレイムタングとかいう奴だ。火の手が上がったのも、こいつらの発射した火炎のせいだろう。もちろん好物は人間で、今も目の前では捕獲された人間がその鋭い牙の餌食になっている。
あたしは慌ててその人間の側に駆け寄ろうとしたが、フェステに片手で制された。
「諦めろ。もう死んでる」
言いながら、フェステは別の方に顔を向けている。
あたしは食われている人間から目を逸らしたいこともあり、フェステが向いている方に同じように顔を向けた。
目を遣った場所には数人の男たちが、ただ何をするでもなくこの地獄絵図を傍観していた。全員が同じ鉄の鎧を身に纏っている。肩口にある鷹の紋章で、彼らがこの国の警備兵であることがすぐに分かった。
初めは《堕ちし者》に警戒して動きをとらないのかとも思ったが、どうやら彼らは本当にただじっと見ているだけなのだ。あたしの中で怒りの感情が瞬間、爆発する。
「ちょっとちょっと、あんたたち! 何、ぼぉーと突っ立ってんのよ。《堕ちし者》にびびったの!? この国はあんたらの国なんでしょ!」
気が付けば、あたしは大声で喚き散らしながらその警備兵たちに詰め寄って行っていた。後ろでフェステの深い嘆息の声が聞こえるが、あたしの性なんだから仕方ない。
警備兵たちは、近付いて来たあたしの方を驚いて振り向いた。だが、隊長と思われる少々横に大柄な壮年の男だけは、あたしの方を見向きもしない。
「何で助けに行かないのよ、あんたたち!?」
「いや、それは……」
あたしの質問に口々に言葉を詰まらせる警備兵たち。
あたしはそれらを強引に手で振り払って、隊長と思わしき横長の男に詰め寄った。禿げ上がった頭に脂ぎった顔が特徴の普通の中年オヤジだが、眼光だけがやたらと鋭いのが気にかかる。
「あんた!! 何で助けに行かないのよ!!」
「……」
あたしは声を荒げて、さらに中年オヤジに詰め寄った。
そのあたしを中年オヤジは、まるで物でも見るかのような無機質な目で見下す。光を反射しないガラス玉のような目で見据えられて、あたしの背を悪寒が駆け巡った。
「そんな奴、放っておけ。まだ生きてる奴がいるんだぞ?」
凍りついてしまったあたしの背に、フェステのあまり緊迫感の無い声がかかる。あたしはそれでハッと我に返った。
「次会ったら、張り飛ばしてやるからね!」
あたしは捨て台詞を残すと、その場からフェステが駆けて行った方に向けて走り去る。正直、あれ以上中年オヤジの薄気味悪い目を見続けるのはごめんだった……
「熱っ!」
あたしはフェステの側まで来て、その凄まじい熱気に悲鳴を上げた。目の前ではフレイムタングが放ったと思われる炎が、勢いよく燃え盛っている。激しい温度差のため、周りの景色がゆらゆらと揺らめいて映っていた。
スラムは今や――そのほとんどが火の海に沈んでしまっている。
「本当に生きてる人間なんかいるの?」
あたしはこの熱さにもまったく汗一つかいた様子を見せないフェステを恨めしげに見つめながら、疑問を口にした。
だがフェステはあたしの質問に答えようとはせず、ただじっと炎の中を凝視している。手にはすでに鞘から引き抜かれた短刀が構えられていた。おそらくは、炎の中から漏れる僅かな人の気配を察知しているのだろう。
「きゃあぁぁぁ!」
その時、炎の渦の中から甲高い悲鳴が上がった。
同時にフェステの姿があたしの視界の中から一瞬で掻き消える。高速移動――フェステの怪しい能力の一つを発動させたのだろう。彼曰く、脚力の一時的な強化らしいのだが、その速度は普通の人間では目でも追いきれないほどに達する。
それはあたしとて例外ではなかったが、あたしは別段焦ることなく、フェステが向かったと思われる場所を憶測して後を追いかけた。
炎の柱がスラム中を覆い尽くしていて、疾走するあたしの肌をちりちりと焼く。前髪が数本、熱風を浴びてはらはらと舞い散った。が、そんなことにはまるで頓着せず、あたしはフェステの姿を探す。
そして、それはすぐに見つかった。
瓦礫と人の死体で埋まるスラムの一角。金髪の少年と赤髪の少女――と言っても少女の方はあたしよりはるかに年上だったが――が、十数体のフレイムタングに囲まれている。さっきの悲鳴は赤髪の少女のものだろう。
フェステはすでに戦闘体勢に入っており、目の前には二体のフレイムタングの死体が横たわっていた。あたしが追いつくまでの間に倒したのだから、その二体を葬り去るのに数刻とかかっていないだろう。早業――と言うよりも、もはや神業である。
「助けてくださいっ!」
赤髪の少女が、フェステに向かって瞳を潤ませ懇願した。その赤髪の少女の横では、金髪の少年が怯えたように彼女のスカートの裾を掴んでいる。……見た感じでは姉弟か。
「そこを動くな――」
フェステはそれに答えるように小さく口を開くと、またもその場から掻き消えた。次に視界にフェステの姿が現れた時には、彼は姉弟を背にした位置でフレイムタングと対峙している。
一瞬遅れて、フェステの進行方向上にいたフレイムタングが声も無く地面に崩れ去った。
「一気に片付けるぞ、オリヴィア」
フェステの言葉に、あたしは大剣の布袋を外して答える。
同時にあたしの前方にいたフレイムタングが、口内から火炎を発射してきた。火炎は高温の塊となってあたしを襲う。
あたしはそれを前に走りながら、僅かに上体を横にずらしてかわした。あたしの体のすぐ横を凄まじい熱風が撫でていくが、あたし自身には届かない。あたしは走る勢いを殺さずに、そのままそのフレイムタングの脳天へと大剣を振りかざした。
だが、フレイムタングは予想以上の反応であたしの攻撃をかわすと、すぐさま鋭い牙を剥き出しにしてあたしに反撃してくる。食い殺した人間の血で汚れた牙が、あたしの眼前に迫った。
「ちぃっ!」
あたしは軽く舌打ちすると、僅かに身を引き、振り下ろした大剣を構え直してフレイムタングの進行方向上に突き出した。それは正確に、向かってきたフレイムタングの口内へと突き刺さる。向かってくる勢いを利用して突き立てた大剣は、フレイムタングの口内を深々と貫き、後頭部から血と脳の欠片をばら撒いて突出した。
「まず一匹目!」
あたしが吼えた時、フェステの方に目を遣ると、彼の側には先のと合わせてすでに五体ものフレイムタングの死屍が折り重なっていた。……あたしの名誉のために言っておくが、こいつらは決してザコではない。中級魔属に属する奴らのほとんどは、普通の人間にとってはもちろん脅威だし、自由兵でも上位クラスで無いと相手にならない存在なのだ。それをこうも易々と倒してしまうフェステは、はっきり言って《堕ちし者》以上の化物なのかもしれない。
――などとあたしが考えている間に、あたしの右手からはいつの間にかフレイムタングが間合いの中に差し迫って来ていた。
あたしは慌てて先のフレイムタングに突き立てたままの大剣を引き抜くと、向かってきたそいつのいる辺りに適当に振り下ろす。もちろんそんな適当に振り下ろした剣が当たるはずも無く、それは虚しく宙を空ぶった。同時に脇腹に、鈍い焦熱感が生まれる。
「ぐぅっ!」
脇腹に生じた焦熱感の正体は、フレイムタングの放った火炎球だった。
あたしは脇腹に手を当てながら、その場を大きく飛び退く。だが、いつまで待っても次の攻撃の手は訪れなかった。目を遣ると、あたしに火炎球を放ったフレイムタングはすでに事切れて地面に倒れ伏している。
「戦いの最中によそ見するんじゃねえ!」
飛んできたフェステの叱咤の声に、あたしは脂汗を浮かべながら舌を出した。ちらりと脇腹に目を遣ると、服が焦げて露出した肌からは薄っすらと血が浮かんできている。浅い傷ではないが、動けなくなるほどじゃない。あたしの目の前ではフレイムタングが、フェステに投げ付けられた短刀を眉間に埋めたまま、ぴくぴくと痙攣していた。
「ごめん、フェステ――」
あたしはフレイムタングの眉間に突き刺さった短刀を引き抜くと、フェステに投げ返しながら謝る。
フェステがそれを受け取る時には、姉弟を囲んでいたフレイムタングは全て地面に転がされていた。……結局、あたしが倒したのは一匹だけである。
「ありがとうございます……」
赤髪の少女がフェステの手を取りながら、深く頭を下げた。彼女の憂いの瞳には明らかな媚びの色が見え隠れして、あたしを少しむっとさせる。否――別にあたしにはどうでもいいことだ。
「構わねえよ。それより怪我はねえか?」
フェステがいつもの面倒臭そうな声で……しかし優しく尋ねた。
赤髪の少女はフェステの言葉に微かに顔を赤らめると、小さく頷く。頷いてから、今度は困ったように顔をしかめて口を開いた。
「……怪我は無いんですが、私たちの住むところが……」
言いながら、視線をフレイムタングに燃やされてしまったであろう廃屋へと向けた。ほとんどが燃えて炭になってしまっているので区別がつかないが、視線を向けた辺りに彼女たちの住むところがあったのだろう。
「んじゃ、今日は俺らの取ってるホテルに泊まれよ」
「は!?」
フェステの突然の提案に、あたしは思わず間抜けな声を上げた。それからすぐさま、ホテルの部屋代を頭の中で計算する。あたしたちが取っているのはシングルルームだから、さすがに二人を泊めることは出来ない。なら、新しい部屋を取るしか無いではないか。この男、あたしたちの経済状況が分かっているのだろうか。
あたしがフェステに小声で文句を言おうとしたその時、さっきから黙ったままだっだ金髪の少年と目が合った。少年はあたしと目が合うと一瞬恥かしそうに顔を逸らしたが、すぐに向き直り小さく頭を下げる。そばかすの多い頬の上の青い碧眼が、くりくりとあたしを映していた。
「そ……だね。家が無くなったんじゃしょうがないか」
あたしは諦めたようにそう呟くと、少年に向けて微笑みかけた。
少年も顔を赤くして、あたしに微笑み返す。
――次の瞬間、あたしの視界に姉弟の背後から迫る数体のフレイムタングの姿が映った。フレイムタングは格好の餌を見つけたとばかりに、牙を打ち鳴らしながら二人に襲いかかる。
てっきり全部倒したと思い込んでいたせいで、あたしも……フェステでさえ反応が出遅れた。
「きゃあぁぁぁ!」
後ろを振り返った赤髪の少女が、飛びかかって来るフレイムタングに悲鳴を上げる。
あたしは次に起こる惨劇を予想して、顔を横に逸らした。今からでは、とても間に合わない――
だが、いつまで待ってもそれ以上の動きは起こらなかった。フレイムタングが人間を貪り食う嫌な音も、姉弟の悲鳴も聞こえてこない。
あたしが恐る恐る顔をそちらの方に向け直すと……そこには信じられない光景が広がっていた。
累々と積み重なる細切れにされたフレイムタングの死骸。おそらくは何が起こったのか分からないまま殺されたのだろう。フレイムタングたちの顔は生きていた頃と何一つ変わらない獰猛な様相を、あたしたちに向けている。
姉弟も何が起こったのか理解できず、ただ呆然とその死骸の山を前に立ち尽していた。
「久しぶりじゃねえか、フェステ――」
声はフレイムタングの骸の向こうから聞こえてきた。
同時に一人の青年が死骸を踏み付けて現れる。このクソ暑いのに黒いロングコートに身を包み、長い白髪を風になびかせたそいつは、サングラスから覗く鋭い双眸でフェステだけをじっと見つめていた。どうやらフレイムタングを細切れにしたのは、この男らしい。
「……シャイロック……か?」
声をかけられたフェステは、露骨に嫌な顔で言葉を返した。
フェステの言葉にシャイロックと呼ばれた男は下卑た笑みだけを浮かべると、コートの胸ポケットから煙草を取り出して口に咥える。
「何なのよ、このイカれた男は。知り合い?」
あたしはシャイロックの黒いコートとそのベルトに装着されている刀身のやたら反った剣に目を馳せながら、フェステに尋ねた。
あたしの言葉にフェステは苦い笑みを浮かべると、小さく答える。
「……じゃなきゃ、良かったんだけどな」
「ツレねえなぁ。昔はあんなに仲が良かったじゃねえか!?」
小声で言ったフェステの言葉を敏感に聞きとがめると、シャイロックは大仰に溜息を吐いて見せた。仕草が芝居がかっていて、とてつもなく嘘臭い。
「ほら良く言うじゃねえか。喧嘩するほど仲がいいっ、てよ」
「あれは殺し合いだろ?」
続けて言ったシャイロックの台詞に、フェステは呆れたように言葉を返す。……この二人、一体どういう関係なんだろうか。
姉弟はさっきからずっと、呆気に取られた風に二人の様子を傍観していた。まあ、立て続けに命の危機が迫った後、こんな三流コントを見せられてはそれも仕方ないか。
「喧嘩するのは勝手だけど、あたしは手伝わないからね」
「……構わねえよ。どうせ、あいつ相手じゃ邪魔なだけだからな」
あたしの皮肉を効かせた言葉に、フェステはシャイロックの方をしっかり見据えたまま面倒臭そうに答える。最後の方の言葉にあたしは少しむっとしたが、その意味はすぐ知ることになった。
「んじゃ……久しぶりに喧嘩といくかぁ?」
咥え煙草のままシャイロックは嬉しそうにそう言い放つと、ベルトに装着されていた曲刀――シミターを構えた。型も何も無い適当な構えだが、まるで隙というものが見つからない。さっきまでへらへらしていたのが嘘みたいに、シャイロックを包む空気が殺気に覆われた。
同時に、フェステからも肌を焦がすような殺気が放たれる。
――先に動いたのはフェステだった。例の超高速移動で瞬間的にその姿は全ての視界から消え失せている。次にあたしの目に映ったフェステは、シャイロックの背後に立っていた。ゼロ距離からの短刀の突きが、シャイロックを襲う。……とてもじゃないが、かわせる間合いではない。
だが、背後から首筋に向けて放たれたフェステの短刀を、シャイロックは煙草を咥えたまま易々とシミターで防いだ。あたしはシャイロックがあまりにもあっさりとフェステの攻撃を防いだことに、思わず目を見張る。信じられないことだが、彼には今のフェステの動きが見えていたらしい。
「甘いぜ、フェステぇ!」
シミターを上に持ち上げ、短刀ごとフェステの腕を弾いたシャイロックは、そのまますかさずフェステのみぞおち目掛けて強烈な蹴りを放った。
バランスを崩したフェステのみぞおちに、シャイロックの強烈な蹴りが叩き込まれる……寸前、フェステは無理な姿勢から宙に舞い上がってその攻撃をかわした。同時に、シャイロックの頭上で一回転してバランスを立て直すと、頭頂へ向けて一気に短刀を振り下ろす。
が、その流れるような動きもシャイロックは正確に読んでいた。シミターの柄の部分で、振り下ろされたフェステの短刀をがっちりと受け止める。
「いい感じに、喧嘩も盛り上がってきたなぁ?」
「だから、殺し合いだって……」
シャイロックの嬉しそうに言った台詞に、フェステは再度呆れたように言葉を返した。それと同時に、受け止められた短刀に力を込めて自分の体をシャイロックの間合いの外に飛ばす。
フェステが間合いの外に飛んだのを見て、シャイロックの口の端が大きく吊り上がった。飛び去るフェステに向けて大仰な仕草で、シミターを構えた手と反対の手を差し向ける。手の平が間合いの外に退いたフェステの体をロックオンした。
「切り刻まれろぉ!!」
シャイロックが吼えるのと同時に、空を切り裂きうねる何かの音があたしの耳朶に届く。目に映らないせいでその正体が何かは分からなかったが、それは確実にフェステへと飛来していった。
フェステもそれに気付いたのか、地面に着地したと同時に体を大きく横にそらす。次の瞬間――フェステの白いジャケットの右肩を、目に見えない何かが浅く裂いていった。裂けたジャケットの隙間から、赤い血が微かに吹き出る。
「……そう言えば、そういうことも出来たよな」
フェステは吹き出た血を親指で拭い去ると、それを舌でちろりと舐めながら呟きを洩らした。漆黒の髪から覗く漆黒の瞳には、なぜか剣呑な輝きと共に喜びの色が見え隠れしている。
「ククク。忘れられてたとは悲しいぜ。俺様のアルカナ――凶刃をよぉ」
「悪かったな。あまり記憶に残るようなシロモンでもなかったんでな」
シャイロックの放った言葉に、フェステは挑発しているとしか思えない物言いで言い返す。ちなみに、シャイロックの言ったアルカナとはおそらくあの不可視の攻撃のことだろう。それが総称なのか、固有のものなのかは分からなかったが。
「言ってくれるぜぇ」
シャイロックはフェステのあからさまな挑発に、なぜか嬉しそうに言葉を返すと、ゆっくりとシミターを構え直した。
フェステもそれを受けて、短刀の柄を持つ手に力を込め直す。
二人を包む空気が、あたしにも届くくらいぴりぴりと張り詰めていった。手に汗握る瞬間とは、まさにこのことだろう。
「そこまでです、シャイロック!」
だがその張り詰めた空気は、廃墟と化したスラムを震わせるほどの大声で一瞬で途切れさせられた。
鼓膜をぶち破るほどの不快な大声の正体を探して、あたしは視線を漂わせる。そして……それはすぐに見つかった。
ずんぐりとした横長の体に、まるであつらえたようにぴっちりと着込んだ鉄の鎧。肩口に彩られた鷹の紋章で、男がこの国の警備兵であることが分かる。……先に会った警備兵隊長――例の剥げた中年オヤジだ。中年オヤジは、相変わらずのガラス玉のような無機質な目でシャイロックの方を睨んでいた。
「見て分かんねぇか、タイモン。今お楽しみの最中だ」
シャイロックが、今度はあからさまな嫌悪の声で中年オヤジ――タイモンというらしい――に吐き捨てるように言った。
「あなたには他にやらねばならないことがあります。それに、相手はすでに決まっている」
だがタイモンはまるで気にした様子もなく、シャイロックに対して意味不明な言葉を投げ返すだけだ。地声が大きいのか、普通に喋っているだけでタイモンの声は辺りの空気を震わせた。
あたしは聞くだけで不快なその大声に耳を閉じながら、二人の会話に傍観を決め込む。
「誰に命令してんだぁ? 俺様は自分のやりたいようにやるんだ。てめえにゴタゴタ言われる筋合いはねぇよ!」
「グリール様の命令です」
明らかな喧嘩腰のシャイロックに、タイモンはまるで棒読みのように言葉を返した。もちろん声は相変わらず大きかったが、そこには感情などが一切込められていない。それがこのただの中年オヤジを、得体の知れない不気味な存在に感じさせる。
「勘違いすんなよ、てめえ! 俺様が従ってやってんのは――!」
「……心得ております」
「ちっ!」
そんな僅かな会話の後、シャイロックは大きく舌打ちするとそのままスラムの向こう側にすたすたと消えていった。去り際にフェステの側に近付き、二言三言言葉を交わすのがあたしの目に映るが、もちろん何を言っているのかは聞こえない。おそらくは再戦の約束……といったところか。
残された形になったタイモンも、あたしに軽く頭を下げるとそのまま他の警備兵たちを促して、どこかへ消えていってしまった。
「何だったんだ、ありゃ……」
「さあね」
いつの間に移動したのか、あたしの隣にはフェステが腕を組んで立っていた。
その彼が洩らした何気ない呟きに、あたしは冷たく答えると大剣を布袋にしまってさっさと歩き始める。……今頃になって、フレイムタングにやられた脇腹の傷がズキズキと痛み出してきていた。これでは、しばらくは剣を振るうのも苦労するだろう。
フェステはあたしのそんな態度に僅かに首を傾げたが、さして頓着した様子も見せず、姉弟を促すとあたしの後ろを同じように歩き始めた。
星明かりを頼りに歩きながら、あたしは重い気持ちでスラムの光景を見渡す。
火の手はスラムのほとんどの家屋を燃やし尽くしてしまって、今は僅かな残滓がくすぶっているだけだ。フレイムタングもあたしたちが倒した奴ら以外いたのかもしれないが、今はどこにもその姿を見せない。ほとんど一夜にして灰と化したスラムは、今は不気味な静寂を保っていた。
あたしの脳裏に《堕ちし者》に蹂躙された自分の村と、食い散らかされた両親の死骸が交互によぎっていく。あたしは鮮明に蘇ったその光景を頭から追い出すため、軽く頭を左右に振った。
「何してんだ。置いてくぞ?」
……いつの間にかあたしは立ち止まっていたらしい。目の前に心配そうなフェステの顔が飛び込んでくる。
「な、何でもないよ!」
あたしは自分を見つめるフェステの深い漆黒の瞳にどぎまぎしながら、自分でも分かるくらい顔を赤くするとそっぽを向いて答えた。たまに優しくなったりするんだから……迷惑な男である。
フェステはそんなあたしにまたも首を傾げたが、前を歩く赤髪の少女に呼ばれてそちらの方に駆けて行ってしまった。
あたしは駆け出したフェステの背に思わず手を伸ばしかけて、その手をぎゅっと握り締める。それから小さな笑みを浮かべて、口の中だけで呟きを洩らした。
「あたしは相棒――だろ?」
て。
あとがき
ダッシュ3話です。ダッシュと言うと四駆郎と続けなくてはならない気がするんですが、どうでしょうか?(どうでもいい)
さてさて物語の方は序盤から中盤といったところなのに、ほとんど進展が見えません。このままでは危険な香りがプンプンですが、それでも最後までお付き合いくださると嬉しいです。では――