フォール・ハンター´ 5
作:アザゼル





シーン7「移送方陣」


 ティルスの朝は南に広がるアオン海からの潮風が吹き込み、比較的涼しい。それに夏でも、深い霧に包まれるのが特徴だった。ここに来る前にギルトで読んだガイドブックには、朝の間だけ北の方から吹き込む冷たい風が海面を舐めて、この霧を生み出しているらしい。  
 今も通りは霧に包まれ、あたしはぎりぎりに視界に入るフェステを追いかけながら歩いている。そしてあたしの横では、なぜかハリーも緊張した面持ちで歩いていた。
「そんな緊張しなくても、さすがにこんな街中じゃ《堕ちし者》は出てこないよ」
「……うん」
「怖いんなら、やっぱりホテルに戻る?」
「戻らない」
 そこだけいやにきっぱりとした口調で告げる彼に、あたしは大きく嘆息を洩らしのだった。


 時は僅かに遡る――
 あたしとフェステは領主の依頼――例の《堕ちし者》の発生ポイントを調査するという――のための用意を終え、早朝のホテルのバーで軽い朝食をとっていた。
 昨日の時点で出発しなかったのは、例の場所が遠すぎたせいである。夜になれば《堕ちし者》の動きも活発になり危険性も増すということで、珍しく慎重になったフェステが出発を今日に延ばしたのだ。
 朝日が昇る前という早い時間のせいで、バーに他の客の姿は見えない。宿泊しているのはあたしたちだけなのだが、意外にもこのバーの酒はいい物が揃っているので昼以降は街の人間で賑わうことも多いのだ。
 だが今は閑散としたバーの中で、あたしとフェステが食事をする音だけがかちゃかちゃと鳴っているだけである。
 そんな中、突然バーの扉がけたたましい音と共に開けられた。同時に少年の甲高い声が、部屋中に響き渡る。
「僕も行くからっ!」
 あたしは突然静寂を打ち破ったその声に思わず飲んでいたコーヒーを吹き出した。フェステの白いジャケットの所々に黒い斑点模様が散らばるが、もちろんそこら辺は完全無視である。何かフェステの非難の声があたしの耳朶を打ったが、あたしはそれも無視して声のした方にゆっくりと視線を向けた。
 小さな布袋を背負った金髪の少年――ハリーの姿が視界に飛び込んでくる。
 さっきまで間違いなく寝ていたはずの彼は、今はきちんと着替えてバーの入り口に立ち尽していた。
「ハリー?」
 あたしが声をかけると、彼はこちらを強い眼差しで見つめ返して近付いてくる。それからどっかりとフェステの隣に腰を下ろすと、まだ服の染みを気にしている男の皿から例のカチカチに固いパンを奪い取って食べ始めた。
 ガリガリという音が呆然としているあたしとフェステの耳朶に届く。
 しばらく呆然とそんなハリーをあたしは見守っていたが、ハッと我に返ってあたしは口を開いた。
「ハリー。僕も行くって……まさかついてくる気じゃないよね!?」
「そうだよ」
 あたしの問いかけにハリーはあっさりと頷きを返すと、あたしの方を見つめ返してくる。碧眼がいつものようにきらきらと輝いて、あたしの姿を映し出していた。
 あたしはハリーのその純粋な眼差しに僅かに気圧されながらも、きっぱりと言い放つ。
「だめ!」
「どうして?」
「どうしてって……あんたみたいな子供を連れて行けるわけ無いじゃない。遊びじゃないんだよ?」
「オリヴィアも子供だよ?」
 ハリーの言い返した言葉に、あたしはぐっと言葉を詰まらせた。だがすぐにぶんぶんと首を振ると、ビシッとハリーの鼻先に指を突きつけて声を荒げて言う。
「あたしは自由兵。あんたはパンピー。……しかも子供だし。ついてきたって足手まといなの!!」
「僕はもう一人前だって言ったの、オリヴィアだよ!」
「そ、それは……」
 今度こそ完璧に言葉を詰まらせるあたし。
 それに対して、ハリーはさらに言葉を続けた。
「それに、僕一人は嫌だよ……」
 あたしはハリーの絞り出すように放った言葉に、何も言い返すことが出来ない。なぜならそれは、あたしが村を襲われた時に、救助に来た自由兵に最初に洩らした言葉と同じだったからだ。
 世界中でたった独りぼっちになってしまったような感じ。ハリーにとってずっと一緒に暮らしてきたヘレナがいないというのは、そういうことなのだろう。そして事実、ヘレナとはもう二度と会うことは出来ない。
「――仕方ねえな」
 フェステが僅かに訪れた沈黙を破って口を開いた。
「どうせここにいろって言っても、ついてくる気だろ?」
 続けて言ったフェステの台詞に、こくんと頷くハリー。その目は決意に色に満ちている。おそらくはあたしたちが無理やり止めたところで、ついてくるつもりなのだろう。 
 あたしは何かを言いかけた口を閉ざして、そんなハリーを軽く一瞥すると、額に手を当てて大きく溜息を吐いたのだった……


 ――てなわけで、ハリーを連れてあたしたちは今、クレシダから渡された地図を元に例のポイントへと向かっている。
 ただ、さっきから辺りを漂う深い霧のせいで、実のところきちんと向かえているのか自信がない。一応通りに沿って歩いているから、間違ってはいないと思うのだが。
「それにしても……すごい霧ね……」
「ああ、やべえな――」
 あたしが何気なく洩らした呟きに、珍しくフェステが緊張した面持ちで答えた。同時に彼は立ち止まると、辺りを軽く見回す。
 フェステの白い肌に映える、深紅の唇が僅かに吊り上がった。
「オリヴィア。ハリーから離れるなよ!」
 言い捨てると、フェステは腰の鞘から短刀を抜き放ち深い霧の中に向けて投げつける。
 何も無いと思われた霧の中で、金属音が鳴り響いた。
「フェステ!?」
 あたしが事態に気付き声を上げた時には、すでに彼の姿は霞みのごとく消え失せている。おそらくは、《堕ちし者》に向かって行ったのだろう。
 あたしは慌てて大剣に被せられていた布袋を引き剥がすと、ハリーを背にして辺りに注意を注いだ。
 だが、潜んでいるはずの者の気配は一向に掴めない。
 辺りを包み込む霧はますます深まっていき、ほとんど一寸先も見えない状態に陥っていた。
 ハリーが震える手であたしのスカートの裾を掴んでくる。
「だ、大丈夫よ。あたしがついてる」
 そのハリーの手を握り返しながら、あたしはもう片方の手で大剣を何もない宙に漂わせ、見えない敵に神経を注いだ。
 それにしても――さっきから嫌な感触が纏わり付いて離れない。
「オリヴィア」
「何?」
 ハリーが震える声で発した言葉に、あたしは少し苛ついたように答える。
「……この霧、ネバネバするんだけど」
 次に放ったハリーの言葉に、あたしはハッとなって周りの霧に手をかざした。手の平に触れた霧は、確かに彼の言ったように粘着質を持っている。
 ――普通の霧ではない。
 あたしがそれに気付いた次の瞬間、そいつはさっきまで何も無かったはずのあたしの目の前から凄まじい勢いで現れた。
 大きな馬の背に乗って現れた、甲冑に身を包む首の無い騎士。……否、首はある。だが、それはそいつの小脇に抱えられていて、あるべき場所に無いだけだ。
 そいつは猛然とあたしに向けて、首を持つ手とは逆の手に持った巨大な大剣を振り下ろした。
「デュラハン!?」
 あたしはそいつの名前を叫びながら、振り下ろされた大剣を自分の大剣で受け止める。が……完全には受け止めきれず、とっさにあたしは一歩後ろに身を引いてその大剣を下に受け流した。
 同時に、さっきまであたしが立っていた辺りの地面が大きな爆裂音と共に陥没し、その余波を受けたあたしとハリーは一瞬で後方に吹き飛ばされる。
 地面をボールのように転げながら、あたしはそれでも何とか地面に爪を立てて踏み止まった。ハリーはあたしよりもさらに後ろの方まで吹き飛ばされていったようだが、すぐ立ち上がろうとしているところを見ると心配ないだろう。
 心配なのは、今もあたしの視界に届く範囲からゆっくりと近付いてくる、首無しの騎士――デュラハンの方だ。
「痛っ!」
 あたしは慌てて立ち上がりながら、突然走った激痛に呻き声を洩らした。
 激痛の元に手を当てると、赤い血が手の平にべったりと広がる。この前フレイムタングから受けた脇腹の傷が、今の衝撃で開いたようだ。
 だが、今はそんなことにかまってられる暇は無かった。
 もうすでに目の前まで差し迫ったデュラハンが、あたしに狙いをつけて大剣を再度振り下ろすモーションに入っている。
 あたしは振り下ろされる大剣の軌道を読んで、痛む傷を無視しながら同じように下から大剣を振り上げた。
 鼓膜が破れるような激しい衝突音と共に、あたしの手に凄まじい衝撃が走る。
「くぅぅ!」
 体中の骨が悲鳴を上げるが、今度は先のように受け流すことが出来ない。受け流せば、あたしの後ろにいるハリーに被害が及ぶからだ。
 馬の上から振り下ろされた大剣の凄まじい荷重で、あたしの体はどんどん沈んでいく。
 額から流れ落ちた汗が、顎先からぽとりぽとりと雫を垂らした。
「フェステは何してんのよぉ!!」
 あたしがたまらず天に向かって叫び声を上げる。
 それと同時に、あたしのすぐ横の地面に何かが飛来して突き刺さった。
「バカナ……!?」
 デュラハンがどこから発しているか分からない声で、飛来してきたそれに対し動揺の声を上げる。
 あたしはデュラハンが言葉を発したことに驚きながらも、僅かに大剣にかかる力が弱まった隙をついて、一気に自分の大剣を押し戻した。
 デュラハンが馬の上でバランスを崩す。
「はぁっ!」
 あたしはそれを上目遣いに視野に入れながら、大剣を馬の首に向けて横薙ぎに振りきった。
 大剣が一瞬で馬の首を吹き飛ばし、デュラハンが地面の上に転がり落ちてくる。
 その時、霧の向こうからフェステの声が聞こえてきた。 
 ――そいつを使え! こっちからじゃ手が出せねえ!!――
「フェステ!?」
 あたしは困惑しながらも、言われた通り地面に突き刺さったそいつを取り上げる。それは、フェステが普段は使わない方の短刀だった。
 柄の部分に複雑な装飾が施され、漆黒の刃を持つ短刀――確かアンサラーとかいう名称で、自分の精神を代価に《堕ちし者》を滅ぼす武器だったはずだ。はずだというのは、あたし自身も一度フェステに聞いたことがあるだけで、使っているところを見たことが無いからである。
 これを使えってことは、このデュラハンがそれだけの力を持つ存在ってわけか。
 加えて、おそらくこれを渡したフェステからの支援は受けられない。あたしがどうにかするしかないってわけだ。 
 あたしはそれらを一瞬で理解すると、大剣を代わりに地面に突き立て、起き上がる寸前のデュラハンに向かって駆けた。
「……ナゼ、ワガ《マソウクウカン》ニ?」
 デュラハンは身を起こしながらも、まだ動揺の声を上げて首を傾げている。
 何にそれほど動揺しているのかあたしには理解できなかったが、その僅かに生まれた隙を逃すほどあたしはぬるい生き方をしてきた覚えはない。
 あたしはアンサラーを胸の前で構え直すと、デュラハンの目の前で身を屈めた。
 デュラハンは全身にシルバープレートを纏っていたが、刃の薄いアンサラーのような短刀の前では意味をなさない。
 プレートの繋ぎ目に向けて、あたしは正確にアンサラーを突き立てた。
「グオォォ!?」
 デュラハンが、くぐもった声で呻き声を上げる。
 同時にあたしの全身を、今まで感じたことも無いような衝撃が駆け抜けていった。体中の力が凄まじい勢いで抜けていく。
 これが、精神を代価にするアンサラーの副作用なのだろうか……
 ――アンサラーに身を任せろ!――
 再度フェステの声が、霧を破って耳朶に聞こえてきた。
「あぁぁああっ!!!!」
 だが今のあたしは言葉の意味を理解することも出来ず、ただ絶叫を上げることしか出来ない。なぜなら、アンサラーの柄が手にぴったりと張りつき、手を離すことすら叶わずあたしの精神を根こそぎ吸い上げていってるからだ。
「……ああああぁ……」
 あたしの体から力が抜け落ちていくごとに、デュラハンの体は小さな振動と共に灰と化していく。
 首の無いデュラハンの体はすっかり灰燼と帰し、脇に抱えられていた首だけが残った。その首も、しばらくして憎悪の眼差しを残したまま灰となり虚空に散っていく。
「…………終わったみたいね……」
 あたしが疲れ果てた声で呟きを洩らすと同時に、辺りの粘着質を持った霧が晴れていった。
 通常の霧があたしの周りに広がり始め、目の前に心配そうなフェステの飛び込んでくる。
「……ハリーは?」
「ここにいるぜ」
 あたしが力無く発した言葉に、フェステは隣に立つハリーの頭をくしゃくしゃさせながら答えた。
 それを聞いた途端――あたしの意識はすうっと遠のいていったのだった。


 誰かに背負われている。
 その背は広く、温かい。
 太陽の匂いが沁み込んだ、父の背中だ。
 小さい頃やんちゃだったあたしはよく村の近くの森に探検に行き、そのたびに迷っては父の背中の世話になっていた。
 そう、小さい頃……


「気が付いたみてえだな」
「……父さん?」
 あたしはぼんやりと広がる視界に飛び込んできた背中に向けて、寝惚けた声を返す。
 視界に映る背中は父よりも狭いが、同じような温もりがあってあたしを安心させた。だからもう一度目を閉じようとしたのだが、次にかけられた声であたしは一気に目を覚ます。
「何言ってんだ? 寝惚けてんじゃねえぞ、オリヴィア」
「えぇ!?」
 どうやらあたしが乗っかっていたのは、フェステの背中のようだ。
 デュラハンを倒した後、アンサラーに精気を吸い尽くされ気絶したあたしを彼が背負ってくれていたらしい。
「ご、ごめん。もういいよ、下ろして」
「もう少し乗ってな。どうせしばらくは立てねえよ」
 あたしの言葉に、フェステが面倒臭そうに答える。それから思い出したように一言付け加えて言った。
「――ま、よくやったぜ。オリヴィアにはきつい相手だと思ったんだがな」
 言ってから、フェステは軽く咳払いをしてあたしを背負い直す。
 もしかして、誉めているつもりなのだろうか?
「それにしても、どうしてあの時あたしを助けに来てくれなかったの?」
 あたしはフェステの背に揺られながら、デュラハンとの戦いで不思議に思っていたことを口にした。
「ああ、あれな……あれは俺がデュラハンの作り出した《魔層空間》の外にいたからだ」
「魔層空間?」
「そう。中級魔族の上位種や上級魔族が作り出す、奴らだけの空間。絶対不可侵の領域だ。さすがの俺でも、あれは破れねえからな――」
「へえ。初めて知ったよ」
 あたしはフェステの説明に、心底感心したように頷く。
 そんなことはギルトの情報にも記載されていないことだ。おそらくは魔層空間に閉じ込められ、生きて出てきた者がいないということなのだろう。
 あたしだって、フェステのアンサラーが無ければどうなっていたか分からない。
「それにしても、この霧いつになったら晴れるんだ?」
 フェステがうっとうしそうに、目の前の霧をぶんぶん手で払いながらぼやいた。
 ……霧は払って払えるものでもないだろう。
 あたしがすかさず突っ込もうとする前に、さっきまで黙っていたハリーが口を開く。もしかして、会話に入る機会をずっと待っていたのかもしれない。
「ここの霧はね、お昼頃になるまで晴れないよ。でも僕、霧って好きなんだけどな」
「……そうか」
 ハリーの楽しそうな声に、フェステは逆に疲れたように言葉を返した。
 まだまだ時間は昼には遠い。これから先もしばらくは続くこの霧に、フェステも辟易としているんだろう。
「ま、情緒があっていいんじゃない? ね、ハリー?」
「だね、オリヴィア!」
 あたしがフェステの背中越しに言った言葉に、ハリーはにっこり笑いながら答える。それから、悪戯っぽく舌を出して付け加えた。
「首無しお化けが出るのは、やだけどね」
 と。


 ティルスの東エリア。スラム地区よりもさらに東。
 荒涼とした広大な土地に、すでに瓦礫と化し数年が経たであろう風化した建造物の跡が点々と残されている。
 乾いた風が時折吹き荒んで、同じように乾いた大地から砂を巻き上げていた。
 クレシダからもらった地図によると、この辺一帯が例のポイントらしい。
 日はすでに西の空に沈み始め、大地には黒い影がその勢力を増し初めていっている。時は間違いなく夜へと刻まれつつあった。
「…………」
 あたしはどこまでも広がるその寂寥の大地を見据えて、思わず天を仰いで嘆息する。
 クレシダの地図では、この中のどこかがそのポイントらしいのだが……
「これじゃあ、探しようがねえじゃねえか」
 フェステが同じように、深い嘆息を洩らしながら呟いた。その背にはあたしではなく、歩き疲れて眠ってしまったハリーが背負われている。
 その時、比較的風化を免れた建造物跡から人影が姿を現した。
 あたしとフェステが瞬時に身構える。さっきまで明らかにそこに人の気配は無かった。
「――クレシダ様の命で来ました」
 ゆらりと姿を現したのは、ピッタリとした全身鎧に身を固めた警備兵隊長タイモンだ。彼は相変わらず揺らぎのない眼差しであたしたちを見据えると、それだけ告げさっさと歩き出す。
「ちょ、ちょっと待ってよ!」
 あたしが慌ててその背に声をかけるが、タイモンはそれにぴくりとも反応することなく歩みを止める素振りを見せない。
 フェステの方を振り返ると、彼は不遜な笑みを浮かべながら小さく肩を動かして見せた。
 ……ついて行くしかないってことか。
 闇雲に探しまわっても意味が無い。ここは心外だがこの中年オヤジについて行くしかないだろう。
 あたしとフェステ、それに背中に背負われたハリーは、結局無言で歩き続けるタイモンの後を追いかけるしかなかったのだった。


 おそらくそこは、遥か遠い日には神殿か何かだったのだろう。
 巨大な柱はそのほとんどが原型を留めていなかったが、複雑に彫刻された女神や天使の画はひび割れて残されている。
 荒涼とした大地で来る者もなくそびえるその様は、どこか荘厳とした雰囲気を醸し出していた。
 あたしはしばらくの間、その廃墟の神殿をぼんやりと眺めて立ち尽してしまう。
 何て言うか……人の気配などまるでないのに、神殿の立つ大地からこみ上げてくるような得体の知れない波動を感じる。
「ここです」
 タイモンは短くそう言うと、何の躊躇もなくその神殿の中に足を踏み入れた。
 あたしとフェステもそれに続く。
 一体ここに何があるというのだろうか……?
「陰気くせえとこだな」
 ハリーを背負ったままのフェステが、神殿に入るなり愚痴をこぼした。同時に足元に落ちていた瓦礫の破片を軽く足で蹴飛ばす。
 破片はあらぬ方向に飛んでいき、薄暗い神殿内のどこかにぶつかると、鈍い音を辺りに響かせた。
「ま、《堕ちし者》は好みそうだけどね」
 破片が反響する不気味な音を聞きながら、あたしは皮肉な言葉を返して無理に笑みを作ってみる。だが、うまくいかない。
 前も言ったように、こういう出そうな場所は正直苦手である。
 《堕ちし者》はあっさりと殺せるのに、お化けが怖いというのが他人から言わせれば意外らしいのだが、怖いもんは怖いのだ。
 あたしはフェステの背に隠れるように、のっそりのっそりと後をついて行く。
 ――どれくらい歩いただろう。
 外から見た時も広く感じたが、中は想像以上に広くて複雑だった。
 まるで外敵から身を守るために作った出口のない迷宮のように、同じような通路が続いたり、通路同士が何度も交差を繰り返したりしている。
 明りはなく、あたしたちはともすれば闇に溶け込んでいきそうなタイモンの後姿を必死に追いかけていた。
 いや、必死に追いかけていたのはあたしだけで、フェステは余裕綽々だったのだが。
 そして……やっとタイモンは歩みを止めた。
 一体どれくらい歩き続けたのか、もはや時間の感覚はほとんどない。
「この奥が……」
「その発生ポイントやらってわけか?」
 タイモンが言いかけた台詞を途中で奪って、フェステが口を開いた。
 にやりと不敵に笑って見せたフェステに、しかしタイモンはまるで頓着した様子も見せず頷きを返す。
 タイモンの目の前に大きな鉄製の扉がひっそりと佇んでいて、彼はそれにゆっくりと手をかけた。
 錆びついた扉が、軋み音を上げながら開かれる。
「あ……」
 あたしは開かれた扉の先に広がる光景に、思わず声を洩らした。
 そこは広い空間で、信じられないことに明りが灯っていたのだ。明りの元は、部屋の壁に等間隔で備え付けられた松明である。
 一体こんな誰も来ないような場所に、誰が何のために松明などを灯したのだろうか。
 横を振り返ると、いつもは動揺を顔に見せないフェステも驚いたように口をつぐんでいた。……ただ、彼の驚きの原因はあたしとは違うかった。
 彼の視線は、その広い部屋の床に向けられていたのだ。
 あたしもつられて視線を床の方に落とす。
「何これ?」
「――移送方陣だ」
 あたしの呟きに、フェステは呻くように答えた。
 床に広がるのは複雑な幾何学模様で彩られた、見たこともない魔方陣である。そしてさらに不思議なことに、その魔方陣の幾何学模様は不気味に赤く光を放っていた。
「こいつを見せるために、俺らをわざわざ案内したってわけか?」
 その魔方陣に目を向けたまま、フェステが吐き捨てるように口を開く。
 あたしはそれを一体誰に言っているのか一瞬理解できず、首を傾げてフェステの方を振り返った。
 だが彼の視線の先は相変わらず床下の魔方陣である。
「……いつから気付いてました?」
「!?」
 あたしは唐突に背後からかけられた低い声に、慌てて後ろを振り返った。
 そこにはさっきまであたしたちの前を歩いていたはずのタイモンの姿がある。……一体いつの間に移動したのだろうか。
「初めっからに決まってんだろ。てめえが傀儡の術にかかった《堕ちし者》なんてのは、匂いで分かってたんだよ」
「ふむ――」
 タイモンは顎に手を持っていく素振りを見せると、フェステの言葉に小さく頷いて見せた。それからゆっくりと言葉を続ける。
「なるほど。あなたは今までの能無し自由兵とは一味違うようですね。……まあ、結果は変わりませんが」
「俺もそいつらと一緒にってわけか」
 言葉を返しながら、フェステは剣呑な眼差しを部屋の奥に向けた。
 あたしも同じようにそちらに目を遣ると、そこには白骨化した死体が累々と積み重なっているのが見える。
 まだ腐肉がこびり付いているものもあり、死体には最近死んだ者も含まれているようだ。
「……一体どういうこと?」
 状況を把握できないあたしが、フェステに尋ねた瞬間――
 彼はあたしを思いっきり突き飛ばすと、そのまま自分も横に飛んだ。
 さっきまであたしたちがいた辺りに何かが飛来して、それが一瞬で床を砕く。
「俺らは罠に嵌められたんだよ!」
 言いながら、フェステは背負っていたハリーを床にどすんと落とした。
 衝撃でハリーが目を覚ます。
「……もう、朝?」
「寝惚けてんじゃねえ! とにかくオリヴィアから離れんな!!」
 まだ眠そうに目をこするハリーにフェステは声を荒げてそう言うと、鞘から短刀を抜き放った。
 ほぼ同時に、フェステの目の前までタイモンが詰め寄ってきている。あのずんぐりとした体型で、信じられない身軽さだ。
 タイモンの両腕が、フェステを捕えようと彼に向けて伸びる。
 だがフェステはそれをぎりぎりまで引きつけて、体を旋回させると軽くかわした。
「なっ!?」
 次の瞬間――
 驚愕の声を洩らしたのはフェステだった。
 かわしたはずのタイモンの腕がめきめきと音をたてて変形すると、それはまるで鋭い槍のように鋭利な刃となり、すぐさま軌道を変えてフェステに襲いかかる。
 あれがあたしや並の人間なら、間違いなくかわしきれなかっただろう。
 だが、フェステは並ではない。
 いきなり軌道を変えて襲いかかってきたタイモンの腕を、今度も直前で身を捻るとあっさりとかわした。
「ちょっとは楽しめそうじゃねえか!」
 床に身を屈めながら、フェステは口の端を大きく吊り上げると不謹慎なことを口走る。同時に、フェステの姿が霞みの如く消え失せた。
 もちろんあたしの動態視力では彼の姿を追いきれない。
 次に姿を見せたのは、タイモンの真後ろだった。
 フェステの手にした短刀が、横薙ぎにタイモンの首に振り下ろされる。
「終わりだ――」
 勝利を確信した声が小さく呟かれた。
 だがフェステの短刀はタイモンの首に当たった瞬間、鈍い音を放って真っ二つに弾け飛ぶ。まるで鋼鉄でも斬ったかのような音が部屋中に響き渡った。
 一瞬、ほんの刹那――フェステが動揺のため動きを止める。
 その僅かの隙に、タイモンの丸太のように膨れ上がった腕がフェステの華奢な体を吹き飛ばした。
「フェステ――!!!!」
「お兄ちゃん!」
 あたしとハリーの絶叫がこだまする。
 だが叫びも虚しく、フェステの体はきりもみしながら部屋の壁に激突した。
 地面にずれ落ちたフェステの顔が苦悶の表情に歪む。おそらく、肋骨にヒビくらいは入ったのだろう。
 そのフェステ目掛けて、再度タイモンの槍と化した腕が襲いかかった。
「……なるほど。ただ傀儡にされただけってわけじゃねえな」
 口の端から流れ落ちる血を舐めながら、フェステはこんな状況でもまるで焦った様子を見せず呟く。それから緩慢とも思える動作で、僅かに体を横にずらした。
 ほぼ同時に、タイモンの腕がさっきまでフェステがいた後ろの壁を破壊する。
 壁が瓦礫と化し、粉塵が辺りに舞い散らばった。
 そしてその粉塵が全て舞い落ちた後――そこにフェステの姿は無い。
 タイモンが先のフェステの行動を読んで後ろを素早く振り返るが、そこにもフェステの姿は見えなかった。
「おせえな――」
 声と同時に姿を現したのは、タイモンのちょうど真上だ。
 上空に身を浮かせたフェステの手には、黒く煌くアンサラーが握られている。そしてそれは煌くと同時に、寸分の狂いもなくタイモンの頭頂へと振りかざされた。
 吸い込まれるようにタイモンの頭頂にアンサラーが突き刺さる。
 が、今度も鈍い金属音と共にフェステの攻撃は弾かれてしまった。
「ちぃっ!」
 とっさにフェステはタイモンの全身鎧を蹴ると、その反動で身を離し間合いを取る。手にしたアンサラーは、先の短刀とは違いヒビ一つ入っていない。
 それにしてもこの中年オヤジ……伸びてくる槍のような腕と、どういう理屈かは分からないが刃を通さない体。まるで隙が見えてこない。
 あたしも何とかフェステに加勢したいのだが、動きが速すぎて逆に足手まといになるが目に見えている。
 結局……傍観しているしかないってわけだ。
「逃げてばかりでは、私は倒せませんよ?」
 間合いを取ってから動かないフェステに、タイモンが抑揚のない声で挑発する。もちろんガラス玉の瞳は微塵も動きを見せないので、挑発しているのかどうかも疑わしいのだが。
 だが、フェステにはそれで充分だったようだ。
 彼の剣呑な眼差しに、さらに獰猛な色が灯る。
「そりゃそうだ……なっ!」
 言って三度、フェステの姿が霞んだ。
 確かにスピードではフェステの方に圧倒的に分があるのは分るが、タイモンのあの鋼鉄のような体をどうするつもりなんだろうか。
「無駄なことを」
 タイモンが呟きを洩らす。同時に彼の全身鎧に覆われていない部分の肌が、灰色に変色していくのがあたしの目に映った。
 あれが刃を通さない体の原因だろうか?
 あたしがとっさにそう考えた瞬間、フェステの姿がタイモンの眼前に現れる。だが彼は今度はすぐに攻撃に移ろうとはしなかった。
 一瞬タイモンの前で身構えると、フェステは挑発するように口の端を大きく歪めて見せる。
 傀儡と化したタイモンにそんな安い挑発が効くのかどうかは甚だ疑問だが、彼がその好機を見逃す理由もなかった。
「来いよ――」
 フェステの声を引き金にして、タイモンの硬質化した両腕が伸びる。
 伸縮するその腕にフェステは……なんと、避けるどころか全速力で向かっていった。
 これにはさすがに動揺したようで、タイモンは顔をしかめると必死になってフェステを捕えるために両腕を器用にくねらせる。
 それらを見る者がハラハラするようなぎりぎりの距離でかわしながら、フェステは遂にタイモンを間合いの内に捕えた。と同時に間髪入れずに、アンサラーを全身鎧の繋ぎ目に滑り込ませる。
 何度やっても効かなかった攻撃だ。
 だが――
「ぐぎゃぁああああ!!!!」
 絶叫がタイモンの口から溢れ出す。
 そのタイモンに、フェステはさらに追い討ちをかけるようにアンサラーの能力を発動させた。
「――くたばれ!」
「がぁあああ!!!!」
 アンサラーから黒い波動が螺旋状に迸る。それは二人の体を大きく包み込んでいき、最大まで広がった闇はエクスプローションの如く爆発した。
 あたしが使った時にも、あんな風になったのだろうか。
 あたしがふとそんな呑気なことを考えた瞬間、闇が晴れ渡り――中から一人の人影が姿を見せる。
 漆黒の長い髪を汗で顔に張り付かせたフェステだ。
 彼はゆっくりと髪をかき上げると、長い睫を瞬かせてあたしたちの方を見据える。それから、にっと口の端を上に上げて笑った。
「フェステ……」
「ま、大したことなかったな」
 近寄ったあたしとハリーの頭をくしゃくしゃと掻き回しながら、フェステは軽口を叩く。
「一体どうやったの? あれだけ攻撃が通じなかったのに」
 頭を掻きまわすフェステの手を払いながら、あたしが尋ねた。
 そう、それが不思議だったのだ。あれだけ攻撃を受け付けなかった体に、一体どうやって刃を通したのか。
「ああ、ありゃあ奴が不完全だったからだ。理屈は簡単。奴は腕を刃にしている間は、本体を硬質化できねえんだな。だから俺の姿をわざと見せて、奴が腕に硬質化を集中している間に叩いたってわけだ」
「すごいや、お兄ちゃん!」
 あたしの問いかけに面倒臭そうに答えるフェステを、ハリーが賛辞する。
 まあ、確かにその戦法はフェステのような常人離れしたスピードをもってしなければ不可能に近いし、それをあの僅かの戦闘で思いついた彼のセンスはすごいとしか言いようがない。が……
「まあそれはいいけどさ。あんたずっとタイモンが《堕ちし者》だって気付いてたんでしょ? どうしてあたしに言わなかったのよ?」
「おもしろいから」
 ハリーと戯れていたフェステは、あたしの投げかけた疑問に今度は即答した。
 あたしはその答えに思わず言葉を失う。この男はおもしろいって理由だけで、わざわざ敵の罠にはまったと言うのか。
 そのあたしの様子を楽しそうに眺めていたフェステは、すっと僅かに真剣な表情を作ると、付け加えるように言葉を続けた。
「……てのは冗談。まあ言わなかったのは悪いが、ちょっと気になってな。他の警備兵や領主から《堕ちし者》の匂いが感じれなかったから、奴が黒幕の魔族だと睨んでたんだが……」
「違うの?」
「それを見てみろ」
 言いながらフェステは視線を床下に向けると、あたしにも見るように促す。
 そこには例の魔方陣が、まだ不気味に赤く輝いていた。
「そう言えば、これって結局何なの?」
「移送方陣。人間の歴史よりも前、《堕ちし者》が地上で暮らしていた頃に使われていた転送装置だ。幸いほとんど封印は解かれてねえみたいだから、これを使って転送できるのは下級魔族ぐらいだがな」
「封印って……誰が封印したの?」
 あたしがさらに聞き返すと、フェステは少し言葉を詰まらせた後、静かに口を開き直した。その表情は、僅かに暗い。
「……地底国カナンの人間が施した血の封印だ。あのタイモンとかいう野郎も、こいつの封印を解くためにここに人間を誘き寄せて血を集めるのを命じられていただけだろう。結局奴も、傀儡の一人にしか過ぎなかったってわけだな」
「カナン!?」
 意外な言葉が出てきてあたしはまた聞き返すが、今度はフェステは答えてくれなかった。
 カナンと言えば2年前の事件以来ほとんど姿を見せない謎の国家だが、軍事大国エドム王国を滅ぼした国としてギルトでも超S級危険指定を受けている存在だ。ただ未だに国力はおろか、その所在位置すら掴めていないのが現状なのだが……
「ま、そんな話はどうでもいい。それよりこれからどうする?」
 明らかにこれ以上その話題に触れたくないといった感じで、フェステが口を開く。
 あたしはもう少し突っ込んで聞きたかったが、本人が嫌がっている以上それもできない。それに、確かにこれからどうするかの方が今は重要だし。
「とりあえず、クレシダに報告した方がいいんじゃない?」
「……だな。それに、もしかしたらクレシダが何か知っているかもしんねえし」
 あたしの言葉にフェステは納得したように頷くと、僅かに口の端を歪め意味ありげな笑みを浮かべた。
 また、良からぬことでも考えているのだろう。
「んじゃ戻るか!」
「また迷路だね!!」
 フェステの勢いよく放った言葉に、楽しそうにハリーが口を開く。
 それを聞いた瞬間、あたしとフェステは顔を見合わせ大きく溜息を吐いたのだった……
 またあの複雑な迷宮を案内も無しに戻るのか、と――















あとがき

 ダッシュ5話目です。
 何となく進展らしい進展が見えたような、見えないような(どっちやねん)
 おそらく予定通りに行けば、後2話で完結の予定ですが……そこは私のこと。予定が未定となるような気もしないではないです(笑)
 ま、気長に終わらせる予定なんで、それまでもうしばらくお付き合いいただけたら幸いです。ではでは!