フォール・ハンター´ 6
作:アザゼル





シーン8「凶刃再び」


 あたしたちが領主であるクレシダに報告に戻れたのは、次の日の朝だった。
 深夜にはホテルに戻れたのだが、さすがにあの時間に行くのは失礼だろうということで――単に疲れていたという説もあるが――今日になったのだ。
 ちなみにハリーはホテルで留守番である。今回は彼もまるでごねる様子を見せなかったが、実のところ昨日の疲れがまだ取れないのが本当の理由に違いない。
 だってあたしたちが出ていく時もベッドから身動き一つしなかったからね。
「……分かったな?」
「え!?」
 領主の邸宅前、大きな鉄製の扉の前であたしはかけられた声に我に返った。
 ふと顔を上げると、目の前にはフェステの呆れ果てたような顔がある。
「頼むぜ。ちゃんと分かってんだろうな?」
「も、もちろん!」
 答えてから、あたしは一瞬何のことか考え込んだ。
 さっさと先を歩き始めるフェステの後ろ髪をしばらくぼんやりと見送りながら、あたしはそれが何かすぐに思い出す。
 そうそう。何だか分らないが、フェステが報告する時に口裏を合わせろってことだ。
「ちょ、ちょっと待ってよ!」
 思い出したあたしは、慌ててフェステの後を追って扉を通り抜けた。
 鉄製の巨大な扉は初めから開かれていて、その先には広い庭が広がっている。綺麗に刈り取られた植木や大理石でできた噴水。所々に設置された彫刻もなかなかにセンスがいい。
 あたしはそれらに目を遣りながら、フェステの後に続く。
 邸宅の扉の前であたしたちは立ち止まると、呼び鈴を鳴らした。透明な澄みきった音が鳴り、あたしたちの耳朶を静かに打つ。
 呼び鈴が鳴り終わり、あたしがもう一度押そうとしたその時――重厚そうな扉を開け一人の男が姿を見せた。
 黒いタキシードに身を包んだ、白髪の初老の男。おそらくはこの邸宅に仕える執事といったところだろう。
 彼は柔和な顔であたしたちを見回すと、小さく一礼して扉の中に進むように促す。
 あたしとフェステは一度顔を見合わせると、執事をその場に残して邸宅内へと進んでいったのだった。


 通された場所は、柔らかい絨毯の敷き詰められた応接室だった。
 成金の金持ちに多い動物の剥製とか、黄金の柱時計とかはなく、いたってシンプルな造りである。
 その中央にある小さな椅子に腰掛けていたクレシダは、入ってきたあたしたちに気付くとゆっくりと席を立った。それからあたしたちに向けて小さく会釈を送ると、自分の座っていた椅子の向かいにあるソファーにあたしたちを勧める。
 部屋の入り口で突っ立っていたあたしとフェステは、言われた通りソファーに腰を下ろした。
 同時にクレシダもやんわりとした仕草で、自分の椅子に腰を下ろし直す。
「――で、何か分かりましたか?」
「大した収穫はなかったな。変な神殿と魔方陣くらいで、後は何も」
 座った途端聞いてきたクレシダに、フェステが素っ気ない返事を返す。
 同時にクレシダの表情が暗く沈んだ。彼女の長い睫が金色の瞳に深い影を落とす。
「そうですか……」
 彼女から漏れた力無い声には、はっきりと落胆の色がうかがえて見えた。
 あたしが見かねて声をかけようとするが、それを横に座っていたフェステが目だけで押し止める。
 ――しばらく沈黙した空気が応接室に流れた。
 だがそれはほんの一瞬で、クレシダはすぐに何かを思い出したように口を開く。
「あの……道中彼に会いませんでしたか?」
「彼?」
 クレシダの質問に、フェステがわざとらしく聞き返す。
 もちろん、彼女が言う彼とはタイモンのことだろう。フェステもそれが分からないわけではない。何か理由があって、あえて言わないのだ。
 あたしは口裏を合わせろと言われていたから何も言わなかったが、確かに彼女の前ではそうした方がいいかもしれなかった。
 部下が《堕ちし者》だったと知ったら、彼女もショックだろうし。
「……この街の警備兵隊長です。あなた方が出発された後、案内役としてすぐに後を追いかけたはずなのですが」
「そんな奴は知らねえな」
 クレシダの言葉に、フェステは冷たく突き放すように答える。
「……そうですか。まさか彼に何か……!?」 
 言いながら、クレシダは自分で言った言葉に顔を青くして俯いた。彼女の細い両肩が小刻みに震えている。
 あんな奴でも、彼女にとっては信頼できる部下だったというわけか。
 だが俯いてしまった彼女をまるで気にもせず、フェステは遠慮の無い口調で口を開いた。
「まあ、そんなことはどうでもいい。それよりな、実は一つだけ《堕ちし者》が多発する原因に目星が付いてんだ」
「目星……ですか?」
 無遠慮に放ったフェステの言葉に、クレシダがゆっくりと顔を上げる。金色の瞳が不思議そうにフェステの顔を捕えた。
 その彼女の視線を適当に受け流しながら、フェステは小さく頷いて見せる。
「一体、それは何なんです?」
「魔方陣。いや――移送方陣と言った方がいいか?」
 答えたフェステの言葉に、一瞬、クレシダの表情が一変した。何か得体の知れない感情のようなものが彼女の網膜に僅かに灯り、そして泡のように掻き消えていく。
 一瞬だったためどういう表情をしたのかは分からなかったが、あたしの首筋には一筋の汗が滴り落ちていた。
「……移送方陣とは?」
 聞き返した彼女の顔は、さっきまでの不安そうな顔のそれである。
「簡単に言うと魔族の移動手段だな。ただ、一応血の封印が施されていて、まだ完全には機能しきれてねえ。今はまだ下級魔族が出入りできるくらいだ……」
「――ということは、それが原因なんですね?」
「まあ、半分はな」
 フェステは答えながら、まるで値踏みでもするかのような視線でクレシダを見据えた。黒髪の隙間から覗く漆黒の瞳が彼女の姿を映し出す。
 フェステに見据えられたクレシダが、不思議そうな顔つきで首を傾げて見せた。
 それをどう捕えたのか……フェステは口の端に薄っすらと笑みを浮かべると、再度口を開く。
「……半分だが、原因となるならば何とかしねえとな。血の封印は、解き方も施し方も一応分かるかも知れねえし」
「本当ですか!?」
 クレシダがフェステの言葉に、突然驚愕の声を上げた。
 その声にビクッとなったあたしが彼女の方をまじまじと見つめると、彼女は慌てたように口を押さえて下を俯く。
 一体、今のフェステの言葉のどこに驚くようなことがあったのだろうか?
 だが彼女はすぐに顔を上げると、懇願するようにフェステの方を見て言った。
「あ、あの。私も一緒に連れて行ってくれませんか!?」
「別にかまわねえぜ」
 クレシダのお願いに、あらかじめ答えを用意していたかのようにフェステは即答する。それからあたしの方を振り向いて意味深な笑みを送ると、さらに言葉を続けた。
「オリヴィアは無理だよな?」
「え?」
 いきなり話を振られてあたしが戸惑っていると、フェステはしきりに目配せして何かを訴えてくる。
 あ、話を合わせろってことか。
「う、うん。あたしはギルトへの報告書をまとめなきゃならないから、今回はパスね」
 あたしがそう言うと、フェステは満足そうに頷きクレシダの方に向き直った。
「そういうわけで、俺と二人ってことになるがいいよな?」
「……警備兵を連れていくのも無理でしょうか?」
 申し訳なさそうに尋ねるクレシダに、フェステはゆっくりとかぶりを振って答える。
「ダメだな。あんただけでも足手まといなのに、これ以上ぞろぞろと連れていくわけにはいかねえ。それに、俺は男を守るつもりはねえし」
「……分かりました」
 フェステの冷たい言葉に、クレシダはうな垂れるように了承した。彼女の大きな眼は、不安のせいか僅かに揺らめいて見える。
 まあ、こんな素性も分からぬ男と二人きりになるのに、気が引けるのは仕方ないが。
「んじゃ、昼過ぎに俺らのホテルの前に来といてくれ。それまでにこっちも用意をしておくから」 
「はい」
 クレシダの返事に小さく頷きを返すと、フェステはソファーから立ち上がった。それからあたしを促して、さっさと応接室を後にする。
 最後に扉の前で何となくクレシダの方を振り返ると、彼女はあたしに向けて弱々しく微笑みかけたのだった……


 あたしは一人で領主の邸宅の前に来ていた。
 フェステはついさっきクレシダと一緒に例の神殿に向けて出発したので、今はいない。
 どうしてあたしが一人でここにいるかというと……実はそのフェステに言われたからなのだ。
 邸宅の高い柵を飛び越えながら、あたしはフェステの言葉を思い出す。


「――間違いなくあの領主は何か知ってやがる。だがそれが何かまでは、今は分からねえ。お前はだから、俺が領主を連れ出してる間にあの邸宅を調べておくんだ」


 なるべく音のしないように庭に降り立ったあたしは、辺りに人の気配がないのを確認すると素早く邸宅の裏手へと回った。
 裏も小さな庭になっていて、あたしは低く身を屈めながらどこか入れるところはないか慎重に探す。
 ――そして、それはすぐに見つかった。
「ったく。何であたしが、こんな泥棒みたいな真似しなきゃならないのよ」
 あたしはそうぼやくと、ちょうど開きっぱなしになっていたその窓の縁に手をかけ、ひらりと中に身を躍らせた。
 侵入した先はほとんど使われていないような倉庫で、運良く人の気配はない。
 あたしはそれでもなるべく足音をたてないよう注意を払いながら、その埃だらけの部屋を横切っていく。
「……にしても、豪勢な物置だね。一個くらい持ってっても分かんないかな?」
 そこら中に転がる様々な装飾品を物色して、あたしは思わず不謹慎なことを呟いていた。
 なにせ埃を被っているから初めは気付かなかったが、乱雑に転がっている物のほとんどは、銀製の豪華な装飾品なのである。
 銀の燭台に、銀の食器。縁を銀で飾った全身鏡などなど。まるで銀の見本市だ。
 その中には明らかに贈り物とおぼしき物も含まれていて、一度も使われた形跡もなくここに放り込まれている。
 よほど領主は銀製品が嫌いなのだろうか。
 あたしはそこまで考えて、ふと何か脳裏に閃きを感じた。だがそれが何かはどうしてもはっきりとしない。
 はっきりしないまま、あたしはその倉庫を後にした。


「ここもハズレ……」
 あたしは木製の引出しを閉めながら、すでに何度目かの言い飽きた台詞を呟いていた。
 室内はこの机とベッド、それに衣装ダンスだけという質素な造りである。これで領主の私室と言うのだから驚きだ。
 あたしの見てきた領主と言えば、大小あれど私欲に走る者が多かっただけに、あたしは何となくここの領主――クレシダに好意のようなものすら抱いてしまう。
 でも、フェステはクレシダを疑っているのだ。口にこそしないが、あの態度を見ていればそれは明らかである。
 あたしはしばらく腕を組んで考え込むような姿勢で、室内を眺めていた。
 その時、数人の人間の話し声が部屋の扉の向こうから聞こえてくる。
 あたしは慌ててベッドの下に身を隠した。
「――でもさ、大変よね。今日あなた東塔の見回りでしょ?」
「そうなんです。嫌なんですよね。臭いですし、カラスが飛び回っているし」
「大体あんな場所、誰も使ってないんだから見回りも必要ないような気がするのにね。ずっと錠がかかっていて、塔の扉が開かれるのなんか見たことないのに」
「でもあそこはクレシダ様が特に気を使う場所ですから。報告なんてどこの見回りも適当に聞き流すクレシダ様も、あそこだけはなぜか神経質ですからね」
「そうなのよねえ。ま、とりあえずここの掃除を済ませましょうか」
「はい――」
 入ってきた人間は二人みたいで、彼女たちはしばらく雑談を交わすと、部屋の中をごそごそと動き始めた。話の流れから言って掃除をしているのだろうが、このままでは見つかってしまう。
 だがそんなあたしの心配は杞憂に終わった。
 二人は大して掃除をした様子も見せずに、さっさと部屋を出ていってしまう。
「……ふう」
 あたしは足音が遠ざかったのを確認してから、ベッドの下から出てきた。よほど掃除されていないのか、おかげであたしの体は埃だらけである。
 だが、一つだけ収穫があった。
 次に探す場所は……東塔に決定である。


 広大な敷地の中――領主邸から離れた所にそれは存在していた。
 あたしは正面からしか見たことなかったから気付かなかったけど、それも無理はない。塔は巨大な邸宅に隠れるように、ちょうど邸宅の影の部分に位置していたからだ。
 塔と呼ぶには低いその建物だが、醸し出している雰囲気は一種異様である。
 ひび割れたレンガ造りの建物と、それに蛇のようにしっかりと巻き付いた緑のツタ。上空には、さっきの彼女たちが喋っていたように、漆黒のカラスがギャアギャアと不気味な鳴き声を上げて旋回している。
「……また、お化け屋敷?」
 あたしはその塔を見上げながら、ぽつりと呟きを洩らした。
 呟きを洩らしながら、お化け屋敷と言うよりは悪い魔法使いに捕まったお姫様のいる邪悪な塔と言った方が適切だなあ、とかどうでもいいことを考える。
 正直、ちょっと躊躇しながら、あたしは塔へと近付いていった。
 聞いた話では、扉にはいつも鍵がかかっているそうだが……
 すっかり錆付いていた重厚なその鉄製の扉は、まるであたしが来るのを待っていたかのようにあっさりと開く。
 瞬間、蒸せ返るような腐臭があたしの鼻腔をついた。
 卵が腐り、血と混ざり合ったような凄まじい臭気。生物が死して、程よくすると発する死の香りだ。
 そしてその臭いは、入ってすぐにある地下への階段から漂ってきていた。
 あたしは今度は躊躇せずに、その階段を静かに下りていく。明りが一切なく足元がおぼつかない上、急な角度の階段だったので、さして長くもないのに下に降りきるのにはかなりの時間がかかってしまった。
 地下は狭い回廊となっていて、やはり明りの元となる物は何もない。臭気はさらに酷くなり、息をするたびに吐き気がこみ上げるほどのものとなって辺りに充満していた。
 そんな中を、あたしはゆっくりと手探り状態で進んでいく。
 この時点で領主が何かを隠していることは決定的なような気もするが、何か証拠となるような物がないと話にならない。それを見つけるために、フェステもあたしにここを調べるように言ったんだろうし。
「……!?」
 その時、壁伝いに這わせていた自分の手に、壁以外の何かが触れた。
 それが扉の蝶番であることに気付いたあたしは、薄暗い中それをゆっくりと回してみる。
 思ったよりもあっさりとそれは開き、あたしは現れた空間を覗きこんだ。中にはやはり光源はなく、視界には回廊よりもなお暗い闇が広がっている。
 ――何かいる。
 視界などほとんど効かない……はずなのに、あたしは瞬時にそう悟った。
 何かが蠢く気配が、闇の中からはっきりと伝わってくる。体中を蝕んでいくような不気味な感触。
 徐々に闇に目が慣れてくるあたしの視界に、それは飛び込んできた。
「うぅっ……」
 飛び込んできたと同時に、あたしは思わずこみ上げてきた酸っぱい胃液に呻き声を上げる。
 数多くの人間の腐蝕した骸。
 その骸を這いずり回る無数の小さな蟲。
 蟲は黒く光沢を放ち、破れて腐った皮膚の間を忙しそうに動いている。
「……気持ち悪い」
 自然と吐き捨てるような呟きが、自分の口から漏れる。
 あたしは本能的な嫌悪感に背けそうになる目を何とか踏み止まらせて、もう一度じっくりとそれらを観察した。
 そして――今度は驚きのため声を上げそうになる。
 初めあたしは蟲が死骸を食べているのかと思っていた。だが違う。蟲たちは食べているんじゃない。蟲たちは腐蝕した骸を、口から吐き出す糸のようなもので再生させているのだ。
 もしかしてこれが……
 あたしは思いついたことをふと口にしようとして、それからあまりにもの腐臭に耐えられずにその部屋の扉を閉めた。
 回廊に戻り、小さく深呼吸をする。
 こちらも臭気が充満していたが、部屋の中に比べればマシだ。
 幾分呼吸が落ち着いてきた、その時――あたしの耳朶に小さな物音が届いた。
「誰!?」
 物音がした……ような気がする回廊のずっと先を振り返り、あたしは思わず闇に向けて声をかける。
 もちろん返事はない。
 気のせいかな……
 そう思い直した瞬間、今度はさっきよりも大きい物音が耳朶を打った。
 同時にあたしは物音がした方に向けて走り出している。回廊は相変わらず薄暗かったが、目が慣れてきたおかげかさっきのように壁に手を当てて進む必要はなくなっていた。
 走っていたのは、ほんの2、3分。
 回廊はすぐに行き止まりになっていた。
 行き止まりには、さっき見たのと同じような扉がある。物音の大きさと方角から、この奥の空間が怪しい。
 が、あたしは蝶番に手をかけたところで僅かに躊躇した。それからずっと背負っていた背中の大剣を手にすると、包んである布袋を剥ぎ取る。
 物音の正体が《堕ちし者》である可能性もあるのだ。
 大剣を手にしたあたしは、反対の手で慎重に蝶番を回すとゆっくりと扉を開けた。同時に光が部屋の中から回廊に向けて溢れ出してくる。
「んっ……!」 
 闇に目が慣れていたあたしは、その光に思わず呻き声を洩らして目を閉じた。瞼の奥にまで光が突き刺さり痛い。
 それでもなんとかあたしは片目だけを開けて、素早く部屋の中の様子を探る。
 光源となっていたのは、どうやら部屋の天井から吊るされた電球のようで、照らし出された部屋は意外に広いようだった。ぼんやりとしか見えないが、部屋のあちこちには乱雑に置かれた調度品の類が見える。
 おそらくは、倉庫のようなものなのだろう。
 そう考えたあたしは、視界がはっきりしてくるのを待ち、中に足を踏み入れた。
 部屋の中は置かれた調度品のせいで、広いくせにあまり足場がない。その中を縫うように進んでいくのだが、調度品にぶつかるたびにもうもうと埃が舞い散り、そのたびにあたしは激しく咳き込んだ。
 ホント、掃除くらいして欲しいものだ。
 あたしの脳裏をそんな場違いなことがよぎる。
 その時、また例の物音が聞こえてきた。しかも今度は驚くほど近くから。
 音がした方に顔を向けたあたしは、手の中の大剣の柄を握り直す。それからなるべく足音をたてないように、ゆっくりとそちらに歩いていった。
「こ……れは!?」
 古ぼけたタンスの陰に隠れていた物を見つけて、あたしは小さな呟きを洩らす。
 それは部屋の片隅で、他の調度品と同じように埃を被っていた。
 ――白骨化した女性の死体。それがすぐに女性のものだと分かったのは、頭の上にまばらに残った長い髪の毛と、首や手にはめられた装飾品からである。
 あたしが真っ先に疑問に感じたのは、どうしてこれが白骨化しているかであった。さっき見た蟲がしていたことを考えると、あたしの予想と辻褄が合わない。
 あたしは躊躇なくその白骨死体に近付くと、目についた首飾りに手を触れた。中央に大きなエメラルドがあり、その周りを小さな他の宝石が彩っている、誰の目にも高価な代物である。
 何気なくそれを裏返してみると、何か文字が彫られているのがあたしの目に映った。
 ――J・D・クレシダ――
「…………」
 あたしは思わず言葉を失って、その首飾りに彫られた文字を見つめる。
 えっと……これは……
「あんたの考えてる通りだぜぇ。チンクシャちゃん」
 あたしが混乱する頭で考え込んでいた時、声は突然頭上から降ってきた。どこかで聞いたことのある陰湿で粘着質な声。
 慌ててあたしが顔を上げると、タンスの上に佇む黒い影が視界に飛び込んできた。
 黒いロングコートに映える長い銀髪。鋭い眼光を隠すように鼻の頭に乗せられた、小さな黒いサングラス。名は確か―― 
「シャイロック!?」
「覚えてくれてたとは、嬉しいねえ。チンクシャちゃん」
 あたしの言葉にシャイロックは大袈裟に手を広げて見せると、にやりと下卑た笑みを浮かべた。
「チンクシャって名前じゃないんだけどね。あたしにはオリヴィアって名前があるんだ」
「ひゃははは。そいつはすまねえなぁ、チンクシャちゃん」
「…………まあいいや。それより、こんなところで何してんの? それと、あたしの考えてる通りってどういう意味?」
 なぜかむやみに陽気なシャイロックに、あたしはとりあえず不毛な論争は避け、要点を絞って質問する。
 と同時に、首飾りは素早く懐のポケットへと忍び込ませた。
 大事な証拠品になるかもしれないからね。
「あんたを待ってたんだよ。どうも最近退屈でねぇ」
 そんなあたしを見下ろしながら、シャイロックは大仰に溜息を吐いて本当に退屈そうに答える。
 それがまた芝居がかっていて嘘臭い。
 が、あえてあたしは言及せずに質問を続けた。
「入り口の鍵を開けたのもあんたね?」
「ごめいとー」
 シャイロックが小さな拍手を送る。
「もう一つの質問の方、答えてもらってないんだけど」 
「言葉通りだぜぇ?」
「やっぱり……クレシダは傀儡ってこと?」
 あたしは誰に聞かれるでもないのに声を潜めると、自信なさげに聞いた。
 実はこのことに関してはあまり自信がない。あの気持ち悪い蟲のしていたことを考えると、どうしても辻褄が合わない気がするからだ。
 そんなあたしの胸中の思いを知ってか知らずか、シャイロックは意味深な笑みを浮かべると、いつの間にか手にしていた煙草を口に咥え火をつけた。
 ゆっくりとふかし込み煙を吐き出してから、もったいつけたように口を開く。
「そいつは半分正解ってところだなぁ。ま、いい線いってるぜぇ」
 その口調は明らかに答えを知っている感じがした。だから、あたしは思いきってもう一つの結論の方を口にする。
「……クレシダは《堕ちし者》……」
「……へぇ」
 あたしがぼそりと呟いた言葉に、シャイロックは感心したように頷いた。
 なるほど、どうやらビンゴってわけらしい。
「その通り。奴は《堕ちし者》だ。やるじゃねえか、チンクシャちゃん。ここまでたどり着いたのは、あんたが初めてだぜぇ」
 シャイロックが手放しで誉めるのを聞いて、あたしはふと違和感を感じた。
 あたしが初めてってことは、その前がいたってことだ。それはおそらく、あたしたちの前に来た自由兵たちのことを指しているのだろう。
 だとすれば……こいつがどうしてあたしにここまで教えるのか――あたしをここで始末するため、教えても支障がないと考えてるからじゃないのか。
「……そこまで教えていいの? あんた、あいつ側の人間なんでしょ。あたしをここで始末するつもり?」
 大剣の柄を握り直しながら、あたしは探るようにシャイロックを睨みつけると、思ったことを口にする。
 そう。今思い出したが、こいつはあのタイモンとそういう会話をしていはずだ。
 だがそれに対し、シャイロックは体を折り曲げて大声で笑った。
「ひゃはははは! まあなぁ、一応そうなんだが。俺は別に奴の手下じゃねえよ。だから、ここであんたを殺すつもりはねえ。殺すつもりならわざわざ鍵を開けたりしねえで、その前に殺してる」
「そりゃそうだ……」
 シャイロックの言葉に、あたしは大剣を持つ力を弱めた。
 まだ安心は出来ないが、とりあえず今すぐに殺すつもりは無いようだ。
「まぁ、お望みとあれば相手してもいいぜぇ」
「遠慮しとく。勝てない相手とはなるべくやらない主義でね」
 愉快そうな口振りのシャイロックに、あたしは冷たく言葉を返す。
 それを聞いて、なぜか彼は妙に納得したような顔で頷いた。同時にほとんど灰だけになってしまった煙草を揉み消すと、すっとタンスの上から飛び降りる。
 華麗に地面に着地した彼は、あたしの目の前に立つと、あたしを上から下まで舐めるように見つめた。
「な、何よ!?」
「まあまあだな。タッパはねえが、筋肉の付き方は悪くねえ。てっきりフェステの野郎が趣味で連れ歩いてんだと思ってたが……相手の力量をすぐに見極めるところといい、洞察力といい。確かに、悪くねえ――」
「何を偉そうに!」
 言い返しながら、あたしはふとあることが気になった。
 実はシャイロックが現れた時からなんとなく気になっていたのだが、ずっと漠然としていて思い出せずにいたのだ。だが今のシャイロックの台詞で、あたしは聞こうと思っていたことが何か、思い出した。
 そうなると断然、そのことが領主のことなんかより気になってくる。
「……そう言えばさ、あんたとフェステってどういう関係なの?」 
 あたしが何気なくそう尋ねると、シャイロックはそこで初めて真顔になった。だがそれは一瞬で、すぐに元の飄々とした顔つきに戻ると、彼は軽い口調で答える。
「俺とフェステは、カナンの軍人だ。……まあ、フェステはとっくに辞めちまってるがな」
「えぇ!?」
 シャイロックのさらりと放ったその言葉に、あたしは文字通り目を点にして間抜けな声を上げた。
 だって……確かにフェステはあたしと出会う前のことを一切語らないけど。でも、カナンといえば前も言った通り、ギルトの超S級危険指定である。そんな大切なことを今まで相棒であるあたしに黙ってたって……
 あたしは混乱して、目の前にシャイロックがいるのも忘れ、一人で赤くなったり首を大きく傾げたりして唸った。
 そんなあたしの様子を、目の前のシャイロックはしばらく不思議そうに眺めている。サングラスの奥の鋭い目が何かを考える風に静かに揺らぎ、それからすっと細く三日月の形に歪むと、彼は気の毒そうに口を開いた。
「どうやら、聞かされてなかったみてえだなぁ……」
 言いながら彼はまた煙草を取り出すと、地面にどっかりと腰を下ろした。
「まだ時間……あんだろ?」
「……え?」
 いきなり問われて、あたしは思わず聞き返す。だがすぐに言われたことを理解すると、あたしは小さく頷いて見せた。
「教えてやるよ。あいつの今までを――」
 それを見て満足そうに頷きを返しながら、彼は喋り始めた。
 フェステの、あたしの知らない過去を――


「――あの野郎はな、カナンから逃げ出した罪人なんだ。それまでは、カナンでも最も優秀と言われたゲートの管理人だったんだが……」
 煙草を咥えながら、シャイロックが話し始める。
「まあ、まずはカナンがどんな国なのかを説明しねえとな。カナンってのは簡単に説明すると、ずっと昔から地底にあって、《堕ちし者》を地上に出さないために門番としてゲートを封印してきた国なんだ。が、あんたも知っての通り、《堕ちし者》は2年前カナンが地上世界に侵略行為を働いた時から地上に出てきちまってる。……なぜだと思う?」
 そこで言葉を切って、シャイロックは対面に腰を下ろすあたしに聞いた。
「分かるわけないじゃん」
「ひゃはは。そりゃそうだなぁ。まあ《堕ちし者》を地上に出したカナンの意図は単純だ。地上を混乱させて、自分たちが支配しやすいようにする。それが上の連中の考えたことだった。んで、それに反発しやがったのがフェステってわけだ。なにせ奴はゲートを必死で守ってきた張本人。何人もの奴の知り合いが、ゲートから出てくる《堕ちし者》を相手に戦死していったりした。なのに、あっさりとそのゲートを開放されたりしたら、奴にとってはたまらねえわなぁ」
「ゲートって何なのよ?」
 あたしが口を挟む。
「ああ、ゲートってのは《堕ちし者》を封じ込めるための巨大な門のことだ。と言っても、完全じゃないから、たまにそこから《堕ちし者》が出てきやがる。その抜け出してきた奴らを討伐してたのが、フェステたちのような門の管理人ってわけだ。フェステはその門の管理人の中でもトップクラスのアルカナ使いで、国の英雄的存在だった。……と、もしかしてアルカナの説明もしなきゃならねえかぁ?」
 また言葉を切って、シャイロックはあたしの顔を覗き込んだ。
「フェステが使う、あの怪しい能力のことでしょ?」
 あたしが答えると、彼は小さく頷いて見せる。
 まあそれも確かに気にはなるが、そういうものもありだと思えば大した問題じゃない。
「そうそう、あの怪しい能力だ。んで、話を戻すが、とにかく奴はあの国に面と向かって反発した。まあ言葉を変えれば謀反を起こしたってことだな。あの野郎はゲートを再封印しようと何人かの仲間を集めて計画した。だが、いくらあいつが優秀なアルカナ使いであっても、ゲートを封印するには莫大なエネルギーが必要だ。そこで目をつけたのが、カナンの動力源だった」
「動力源?」
「カナンってのは根を張ってその上に存在する地上の世界とは違う。地底空間を自在に移動する球体フィールドに包まれた、言わば巨大な乗り物みてえなもんだ。そしてそれを動かすのは、一つの動力源。どういう仕組みかは知らねえが、それが莫大なエネルギーを抱えているのは容易に想像がつくだろ? 奴はそれを盗み出した。おかげで今も、カナンは同じ場所で動きを止めたままってわけだ」
「……じゃあ、地底国カナンがあの事件以来なかなか姿を見せないのは、フェステに動力源を盗まれたからなの?」
 あたしが言うあの事件とは、2年前のエドム王国がカナンに滅ぼされた時のことだ。
 それに対して、シャイロックはまた小さく頷いて見せた。それから僅かに声のトーンを落として、続きを話し始める。
「まあそこまでは、フェステの野郎の計画通りだった。……が、奴はすぐに捕まってしまう。仲間に裏切り者がいたんだ。牢に閉じ込められた奴に下った裁決は、だが、死刑にはならなかった。なぜなら肝心の動力源が見つからなかったからな。それから朝から晩まで、奴に対し休む暇もないほどの拷問が続いた。が、結局あいつは口を割らず、隙を見て看守を殺すとあいつは地上世界に脱出してしまう……とまあ、俺が知ってんのはこれくらいだな」
 最後はまた軽薄な口調に戻ると、彼は吸い終えた煙草を埃だらけの床に押しつけた。火種がジュッと音をたてて消える。
「……どうしてフェステ、自由兵やってんだろ?」
 その消えていく火種に視線を落としながら、あたしは誰に聞くともなしに呟きを洩らした。
「さあな。だがあの野郎が《堕ちし者》を狩るのは、おそらくは責任感からだろうぜ。なにせ、今でもゲートを開放することを止められなかったのは、自分のせいだと思ってんだからなぁ」
 誰にともなしに言った言葉に、シャイロックが答える。そこには、どこか嘲りのようなものが含まれていた。
 だがシャイロックが嘲るのも分かる気がする。フェステはバカだ……
「さてと、俺は行くぜ。じゃあな、オリヴィアちゃん」
 続けて彼はそう言うと、立ち上がりさっさと部屋を出ていこうとした。
 その背にあたしは、地面に座ったまま声をかける。
「どうして、あたしに教えてくれたの?」
「……ひゃははは。どうしてだろうねぇ?」 
 あたしの問いかけに、彼は僅かに振り返ると、いつもの陰湿な笑い声を上げた。それから背を向けて、今度こそ部屋から出ていってしまう。
「フェステに、俺が殺しに行くって伝えといてくれ!」
 そんな物騒なことを陽気に言い残しながら。
 一人部屋に残されたあたしは、そう言えば最後はチンクシャじゃなくてオリヴィアって名前でちゃんと呼んでくれたな、とかどうでもいいことをぼんやりと考えていたのだった……  















あとがき

 うりゃ〜と完成。ダッシュ6話です。
 今回は例のキャラが再び登場。決して存在を忘れていたわけではありません(汗)
 さてさて、前回後2話で完結とかどっかの誰かがほざいていましたが、予定が狂いさらに1、2話ほど増えそうな予感がしてきました。もうしばらくお付き合いいただければ、非常に嬉しいです。
 では次回「これがアザゼルの一日。暴かれる彼の生態!」お楽しみに!(大嘘)