フォール・ハンター´ 8
作:アザゼル





シーン10「堕落の支配する街」

 この街はもう手遅れだ――
 シャイロックのあの時言った台詞の意味を、あたしたちはすぐに知ることになる……


 闇は未だ明けず、あたしたち三人――あたしとフェステとハリー――は、明りのない漆黒の街を、領主邸目指して奔走していた。
 領主邸がある場所はホテルからさして遠くなく、何もなければ数分で辿り着けるところだ。大通りを直進すれば、そのまま領主邸に着くことができるので、明りがない状態でも道に迷うことはない。
 だが――
「あれ? 人がいるよ!?」
 初めにそれを見つけたのは、あたしの横を走っていたハリーだった。
 立ち止まった彼は、そう言うと、通りの向こう側を指差して見せる。
 あたしがつられてそちらの方に視線を向けると、確かに通りをふらふらと歩く人影が視界に映った。
「酔っ払い……かな?」
 揺れるその人影を見据えながら、あたしは前で同じように立ち止まったフェステに尋ねる。
「さあな。まあ、俺たちには関係ねえよ。急ごうぜ」
 だが、フェステはさして取り合わず、またさっさと走り始めてしまった。フェステの白いジャケット姿が、すぐに闇の中へと溶け込んでいく。
 ハリーとあたしは一瞬顔を見合わせると、慌ててその後に続いた。
「少しはあたしたちのこと考えて走って欲しいよね」
「お兄ちゃん、走るの早いから」
「……頭の回転は遅いくせにね」
「あははははっ!」
 ハリーと二人してそんなつまらないことを喋っている間にも、人影との距離はみるみる縮まっていく。
 前を走るフェステの白い影が、その人影と交差した。次の瞬間――
「やべえっ! 傀儡だ!!」
 フェステの上げた声が、漆黒の闇を引き裂く。
 同時に人影から長い影が伸び、それが一瞬でフェステの体をバラバラに切り裂いた。
「お兄ちゃんっ!!」
「フェステー!!」
 あたしたちの絶叫がそれぞれこだまする。
 が、続けて、その長い影はあたしたちにも伸びてきた。
 あたしは反射的にハリーを後ろに押しやると、伸びてきたそれに思いっきり大剣を叩きつける。硬い何かを殴った鈍重な衝撃が、大剣の柄を伝ってあたしの体に響き渡った。
「くぅ……!」
 全身に走る衝撃に耐えながら、あたしはそれでも目だけはしっかりとその影を追いかけている。
 影の正体は、予想通り硬質化した傀儡の腕だった。それはあたしの大剣によって一度地面をバウンドした後、するすると本体の方に戻っていく。
「気を付けろ。そいつだけじゃねえみたいだぜ?」
 突然後ろから声がかかった。
「フェステ!?」
 振り返ると、そこにはバラバラにされたはずのフェステが、傷一つなく立っているではないか。
 まあ、簡単にやられる奴ではないと思っていたが……。それにしても、あたしは一度彼がバラバラになる瞬間を見たんだぞ?
 ハリーも不思議そうに、五体満足なフェステの方を見上げているし。
「残像だ。それが切り裂かれたのを、お前らは見てただけってわけだな」
 そんなあたしたちの疑問を見て取ったのか、フェステは親切に説明してくれた。同時に、注意深く辺りに視線を振りまくと、あたしにも見るように促す。
「そんなことより、どうやら囲まれちまってるみたいだぜ?」
「うそ……」
 促されるままに辺りを見回して、あたしはその光景に思わず呻き声を上げる。
 闇の中にぼんやりと浮かぶ無数のシルエット。様々な衣服に身を包んだ人影の数は、さっきの警備兵たちの数の比ではない。
「この街は手遅れって……。こういうことだったわけね」
 シャイロックが言っていた言葉を思い出す。
 そう。この街の人間たちはすでにほとんどが食われ、傀儡と化していたのだ。初めに街に入った時、寂れた印象を持ったのも、通りを歩く人々が一様に暗い顔をしていたのも、それで納得がいく。もはや最初から手遅れだったんだ……この街は。
「全部を相手にするのは骨が折れるな。オリヴィア、ハリーを連れて俺の後に続け。絶対に立ち止まるなよ――」
 言いながら、フェステは腰に差した短刀を二本とも抜いて両手に構えた。視線の先はすでに、通りの向こうに立ち塞がる傀儡たちに向けられている。
「OK」
 答えたあたしは、片手に大剣、もう片方の手でぎゅっとハリーの手を握り締めた。握り締めた瞬間、同時に小刻みな振動があたしの手に伝わってくる。
 ハリーの方を見ると、彼は案の定、がちがちと体を震わせていた。
「大丈夫。絶対に大丈夫だから」
 自分にも言い聞かせるようにあたしはそう言うと、さらに強くハリーの手を握る。
「行くぞっ!」
 フェステがそんなあたしたちに短く言葉を発した。同時に彼は前傾姿勢になると、地を蹴って駆け出す。
 あたしも覚悟を決めて、その疾走する白い影の後に続いた。
 ……どうにかなるさ。
 前を走る相棒の背を眺めながら、あたしはなぜかそんな呑気な考えを確信していたのだった――


「ホントにキリがねえなっ!」
 蛇のように執拗に群がる傀儡の腕を、両手に持った短刀で弾き返しながら、フェステが愚痴をこぼす。
 だがそれも無理はなかった。気合を入れて駆け抜けようとしたのに、結局あっさり囲まれて、さっきからずっと足止めを食らっているんだから。
 攻め込まれないようにフェステと背を合わせて対応しているのだが、数が圧倒的過ぎてどんどん囲む範囲が狭まってきている。
「はあ。こういう時こそ、シャイロックの力があったら便利なのに……」
 迫りくる腕を大剣で叩き落しながら、あたしはちょっと前にどこかへ行ってしまった白髪の男――シャイロックのことを思い出していた。
 彼のあの不可視の衝撃波があれば、この状況を何とか打破できたかもしれない。
 そんな考えが、頭を軽くかすめる。
「うっせえ。あんな奴がいなくても、俺一人で十分だ――」
 あたしの洩らした呟きに、明らかに不機嫌そうに答えたのはフェステだった。
 シャイロックの話をするとすぐに機嫌が悪くなる。
「まあ、無いものねだりしても仕方ないんだけどね。それより、本気でそろそろやばいんじゃないの?」
 あたしたちがこうして話している間にも、状況はさらに深刻化してきていた。
 周りを取り囲む傀儡たちが、手を伸ばせば届きそうな位置まで迫ってきている。
 落ち窪んだ目の奥の光が、無数に眼前でちかちかと輝くのを見るのは、果てしなく薄気味悪い。
「……オリヴィア」
「何?」
 その妖しげな光をぼんやりと見つめていたあたしに、フェステが背中越しに呼びかけた。
「お前、体重は軽い方か?」
「……はあ!?」
 続けて放ったフェステの言葉に、あたしは思わず呆気に取られた。
 そんなこと、乙女のあたしに聞くとは何て非常識な。……じゃなくて、この状況を打破するのに、あたしの体重が何の関係があるっていうんだ?
 だがあたしが何か言い返すよりも先に、フェステはさらに言葉を続ける。
「俺が合図したら、ハリーの手を絶対に離すな。いいな?」
「……分かった」
 あたしはまだ彼の意図が掴めなかったが、すぐにきっぱりと頷きを返して見せた。
 ここで信頼できないような相棒でないことは、よく分かっている。
 ――次の瞬間、あたしたちの間合いの中にまで差し迫った傀儡たちの腕が、一斉にあたしたちを捕えようと動きを見せた。槍の形に変形した腕が、次々にあたしたちに向かって襲いかかってくる。
 それがまさにあたしたちの体に到達しようとした、その時――
「今だっ!」
 ――フェステの声があたしの耳朶を強く打った。
 それを合図に、あたしはハリーの手を強く握り締める。その手をハリーが握り返してきたのを感じた瞬間、ふわっと体が宙に持ち上がった。
 一瞬の浮遊感。
 あたしはフェステに抱えられ、夜の空に高々と飛び上がっていた。
「ひゃあっ!」
「あはははは!」
 あたしの悲鳴と、ハリーのなぜか楽しそうな笑い声が虚空に響く。そして、それと同時に、鼓膜が軋むほどの絶叫が辺りにこだました。
『ぎゃああああああああ!!』
 眼下に目を遣ると、傀儡たちがお互いに伸ばした自分たちの腕で、体を貫き合っている姿が飛び込んでくる。
 ……地獄絵図。死が抱き合う阿鼻叫喚とはこういうものだろうと、思わず納得してしまうような光景だ。
 あたしが堪らず目を逸らそうとした瞬間、今度はさっきの浮遊感とは逆の衝撃があたしを襲う。
「……んきゃあああ!!」
「あははははは!!」
 フリーフォールしていく奇妙な感覚。
 あたしの絶叫と、またまた楽しそうなハリーの笑い声。
 ……だが、それも長くは続かなかった。
「舌噛むなよっ!」
 フェステの言葉が微かに耳に届いたのと同時、あたしたちは地面に叩き付けられる衝撃に一斉に言葉を失う。
 抱えられながらフェステの顔を見上げると、目尻に薄っすらと光るものが見えた。
 あたしの視線に気付いたフェステが、無理に笑みを浮かべて振り返る。
「……俺ひとりれ、ひゅうぶんらったらろ?」
 引きつった笑みのまま放った言葉は、明らかにろれつが回っていなかった。
 ……どうやら自分で注意しといて、舌を噛んだらしい。 
「はいはい。サンキュ。とりあえず、もう下ろして」
 あたしが呆れたようにそう言った途端、フェステは何も告げずにいきなり抱えていた手を離す。支えをなくしたあたしの体が、ドスンと地面に落ちた。
「いったー!」
 地面にしこたまお尻を打ったあたしが堪らず悲鳴を上げるのを、フェステは笑いながら見下ろす。ちなみにあたしの手を握っていたハリーは、うまく着地できたのか、その横で同じようにあたしを見下ろして笑っていた。
「意外に重かったぜ、オリヴィア」
「……っ!」
 笑いながら言うフェステの言葉は、もうきちんとろれつが回っている。
 あたしがその言葉に顔を赤くして反論しようとする前に、今度はハリーがすっと手を差し出して言った。
「おもしろかったね、オリヴィア」 
「……」
 その彼のあどけない顔に、すっかり気勢をそがれたあたしは、手を取るとゆっくりと立ち上がった。
 振り返ると、同士討ちをした傀儡たちが灰燼と帰していくのが目に映る。
 ……まあ、とにかく、いよいよ大詰めってわけだ。
 夜空に散っていく傀儡たちのなれの果てを見上げながら、あたしは小さく拳を握り締めたのだった――


 闇の中に浮かび上がる巨大なシルエット――
 何度か訪れ、見慣れたはずの領主邸。だが今は、妖しげな邪気すら漂っているように、あたしの目には映っていた。或いは……もはや邪気を隠す必要がなくなった、とか。
「どうする?」
 領主邸を見上げながら、あたしは横に立つフェステに何気なく尋ねる。
「どうするって……。正面から行くしかねえんじゃねえか?」
 それに同じように何気なく答えた彼は、そう言うと邸宅の大きな門に無造作に手をかけた。
 軋むような音が響き渡り、門は呆気なく左右に開かれていく。
 まずフェステが足を踏み入れ、続いてあたしとハリーも後に続いた。
「……えらく静かだね……」 
 庭に伸びる邸宅への道を歩きながら、あたしは素直な感想を洩らした。
 耳が痛くなるほどの静寂が、領主邸を支配している。いや、今や、この街全体が静寂に包まれていると言った方がいいか……
 その時、あたしのすぐ前を歩いていたハリーが、突然苦しそうに地面にうずくまった。
「ど、どうしたのっ?」
 慌ててあたしが駆け寄る。
 だが彼は差し出そうとしたあたしの手をやんわりと拒むと、何事もなかったかのようにすっと立ち上がった。それから、脂汗を浮かべた青い顔で、にっこりと微笑んで見せる。
「……ごめん、大丈夫だから。ちょっとお腹が痛くなっただけ」
「本当に大丈夫なの?」
 あたしが心配して繰り返し尋ねるが、ハリーはこくこくと頷きを返すだけだ。
 ……ならいいんだが。
「大丈夫みてえなら、そろそろ行くぜ?」
 そんなあたしたちに、前を歩いていたフェステが振り返りながら言った。手は、玄関扉の蝶番にすでにかけられている。
「うん。大丈夫だよ、お兄ちゃん」
「そっか。なら行くぞ――」
 ハリーの言葉にフェステは一度頷いて見せると、ゆっくりと扉を開けた。
 重厚な音と共に開かれた扉の向こう。延々と広がる漆黒の空間が、あたしの視界に飛び込んでくる。同時に、闇から強烈な瘴気とも言える何かが、扉の外にまで溢れ出してきた。
 この奥に……ハリーの姉ヘレナや街の人々を傀儡とし、領主を食らった上級魔族がいる。
 そう考えた瞬間、あたしは自分が自然に拳を握り締めていることに気付いた。そっと握り締めていた拳を解くと、手の平には汗が滴りを作っている。
「ほら、行くぞ? いよいよラスボス退治だぜ!」
 扉の前でぼんやりと突っ立ってしまったあたしを気遣ってか、フェステは肩を軽く叩くと、そう言ってウインクして見せた。
 いや。本人はウインクをしたつもりなのだろう。だが不器用なのか、もう片方の目まで瞑ってしまい、それは単なる瞬きにしかなっていない。
 思わず張り詰めていた緊張が解け、あたしは小さく吹き出してしまう。
 一体何を恐れていたんだろう。あたしには、この間抜けな相棒がいるじゃないか。
「……よしっ。いっちょオリヴィアの力、見せてやるか!」
 あたしはわざと大声でそう言うと、逆にフェステの肩をばしっと叩いて、意気揚々と邸宅の中へと足を踏み入れていった。
 上級魔族。絶対の恐怖。死の象徴――
 ……まあ、なんとかなるって。
 そんな変わらずの楽天的な思いを胸にしながら。


 彼女はまるで人間のように、椅子に腰掛けながらあたしたちを出迎えた。手にはティーカップを持ち、静かにあたしたちを振り返った彼女の表情には、微かに驚きの色すら窺える。
 ティータイムの最中に突然訪れた侵入者たちに驚く、か弱い女性領主。今が昼下がりの午後とかなら、そのシチュエーションも納得できるだろうが、この状況では怪しさに歯車をかけているだけとしか思えない。
「――まあ、どうしたんですか? こんな夜も更けた時間に……」
 不思議そうに首を傾げた彼女は、いつもの透き通るような声であたしたちに尋ねた。
 金色の双眸が不安そうに揺らぐのが、あたしの目に映る。
 その真摯な表情を見ていると、彼女が人間を食らい傀儡を操っている張本人だという確信が、ぐらりと揺らぎそうになった。
「何かあったのですか、オリヴィアさん?」
「……いい加減しらばっくれんのはやめんだな、グリール」
 再度不安そうにあたしに尋ねる彼女に、答えたのはフェステだった。
 続けて、口の端を不敵に歪めた彼は、怯えたような表情で見つめ返す彼女にずかずかと近付いていく。近付きながら、腰の鞘から短刀を抜き放つのが見えた。
 彼女の前でぴたりと足を止めるフェステ。
 この状況でもまだ不安そうな顔を崩さない彼女。
 次の瞬間、フェステの手が霞んだ。
 ピッと小さな音が鳴り、彼女の頬が浅く切れる。艶やかな褐色の肌に、つうと深紅の血が浮かび上がった。
「……へえ。まだ、しらをきり通すつもりか?」
 短刀を彼女に突きつけながら、フェステが低い声で問う。
 だが彼女はフェステの言葉に、今度は何も答えない。ただ、今にも泣き出しそうな眼差しを返すだけだ。
 ……本当に、彼女が《堕ちし者》なのか?
 そんな疑問が、二人の様子を見ていて、あたしの中でまた膨らみ始める。
「おい、オリヴィア。例の物を出せよ」
 そんな湧き上がる疑問と葛藤していたあたしに、突然フェステが声をかけた。
「……え? あ、ああ。ちょっと待って……」
 突然声をかけられて慌てたあたしは、焦りながらもポケットに忍ばせておいた例の物を取り出す。例の物とはもちろん、「クレシダ」と裏に銘打たれた、あの首飾りのことだ。
 そう。彼女の真摯な態度に危うく騙されそうになったが、こっちには証拠品があるんだ。
 取り出した首飾りの裏に刻印されている文字を、念のため確認する。
 ――J・D・クレシダ――
 よし。間違いない。
 あたしはさっきまでの疑問を吹き飛ばし、それをしっかりと握り締めると、彼女に近付いていった。そして彼女の目の前で、それを無造作に放り投げる。
「……?」
 首飾りは放物線を描き、彼女が思わず差し出した手の中にすとんと落ちた。
 手の中のそれとあたしを交互に見比べながら、彼女が不思議そうに首を傾げる。
「それね。見つけたの。東塔の地下で、白骨化したクレシダ本人から、ね」
 そんな彼女に、あたしはゆっくりと言葉を句切ながら説明した。
 ――瞬間。彼女の表情に今まであった不安とか怯えとかが掻き消え、初めて動揺の色が浮かび上がる。
「い、一体これは、何の冗談ですか? 私には……」
「いい加減、認めてよねっ!!」
 震える声でなおも演技を続けようとする彼女の言葉を途中で遮って、あたしは怒号した。同時に背中に背負っていた大剣を抜き放ち、彼女の横のテーブルに力任せに振り下ろす。
 鈍い手応えと共に、木製のそれはあっさりと砕け散った。
 続けて飛び散ったテーブルの破片が、次々と彼女に降り注いでいく。
「…………ふっ」
 降り注がれる破片の向こう。彼女の紅い唇から、小さな笑みが漏れる。
 刹那――
「くぅっ!?」
 凄まじい、衝撃波のような殺気が彼女から放たれた。
 背筋がぞっとする、なんてレベルではない。晒されているだけで身動きすらできなくなるような、桁違いの殺気。
 あたしは肌がチリチリと焦げるようなその殺気を全身に受けながら、それでも必死に踏ん張って彼女の方を睨み続ける。
 宙を舞っていた破片の幾つかが、彼女の体に触れる前に、ジュッと音をたてて灰と化していくのが目に映った。
「ふん。やっと正体を見せやがったか……」
 横にいたフェステが呟きを洩らす。
 ちらりと彼の方を盗み見ると、信じられないことにこの殺気を前にしても、彼は不敵な笑みを浮かべたままだった。
 上級魔族ならこれくらいは当然、ということか……
「――甘いわねえ。今の攻撃を私に向ければ、もしかしたら少しはダメージを与えられたかもしれないのに」
 放たれた声はさっきまでと同じ、透き通るような音色の声だった。
 あたしは視線を彼女――いや、グリールと呼んだ方がいいか――に戻し、その顔に思わず小さく呻き声をあげる。
 艶やかな褐色の肌と、煌くような銀色の髪は何一つ損なわれていない。
 だが金色の双眸。それがあった場所は、先の傀儡たちとまったく同じように大きく落ち窪んでいた。
「素直に傀儡たちに殺されていれば良かったのにねえ。仕方ない。あなたたちには、私が直々に地獄を見せてあげましょう……」
 窪んだ目の奥の赤い光りを瞬かせて、彼女はそう宣告するとゆっくりと椅子から立ち上がった。同時に、ゆらりとあたしに向けて細い腕を伸ばす。
 ――攻撃が来る!
 そう頭では理解しているのに、あたしの体はまるで金縛りにあったかのようにぴくりとも動かない。
 耳元で、小さな羽音のような音が鳴った。
 次の瞬間、あたしの体は抱えられ宙を飛んでいる。
 同時に起こる、何かが粉砕した爆撃音。
 あたしがそちらに目を遣ると、部屋の壁がまるで大砲でも食らったかのように破壊されていた。
 ……あんなのまともに食らったら、はっきり言ってあたしの体なんか塵一つ残らないぞ。
「へえ。私の殺気の中、動けるとはねえ。さすがはここまで辿り着いた者だけはあるってわけかしら?」
 攻撃をかわされたのにまったく動揺した様子を見せず、逆に感心したようにグリールが口を開いた。
 それに対し、あたしを抱えたままのフェステがにやりと口を歪めて挑発を返す。
「そんなとろい攻撃、俺には当たらねえな。しかも傀儡と同じ攻撃とは、あまりにも芸がねえんじゃねえか?」
 言いながらあたしを床に下ろしたフェステは、あたしにだけ聞こえるくらいの大きさで呟いた。
「……俺が引きつけてやる。お前はその隙に、こいつをあれにぶち込んでやれ」
 そう言って、もう一つの短刀――アンサラーを、さり気なくあたしに手渡す。
 あたしがそれを受け取ると、彼は何食わぬ顔でグリールに向き直り、さらに挑発を続けた。
「本気で来いよ。グリール――」
「おもしろい」
 その挑発に乗ったのかどうか、グリールはフェステだけを視界に捉えると、禍々しい笑みを浮かべる。と同時に、グリールの背中から、羽が生えるのと同じように鋭い触手が無数に出現した。
 その触手が、四方八方からフェステを狙って飛びかかる。
 だがもちろんその頃には、フェステの姿はその場所にはない。超高速によって掻き消えた彼の後を、標的を見失った触手が次々と通り過ぎ、地面に突き刺さっていく。
 消えたフェステが次に現れたのはグリールの眼前。詰め寄った彼は短刀をグリールの喉元に向けて、鋭く薙ぎ払った。
 だが、その攻撃はあっさりと、本体に戻ってきた触手によって弾き返される。
 不安定な体勢で弾き飛ばされたフェステに、繰り返し雨のような触手の攻撃が降り注いだ――
 そんな彼らの激しい攻防を見据えながら、あたしは慎重に一歩一歩グリールの間合いへと近付いていく。なるべく勘付かれないように気配を消して近付くが、それだけの行為があたしの精神を凄まじい勢いですり減らしていった。
 今やフェステにほとんど向けられているグリールの殺気。それの余波が、あたしの精神を削っている原因だ。
 並の人間ならその殺気に当てられた瞬間、気を失っても不思議じゃない。ハリーを部屋の外に置いてきたのは、正しい選択だった。
 あたしが一瞬、そうやってぼんやりとハリーのことを思い出した瞬間――
「ぎゃああああぁ!!」
 獣の咆哮のような絶叫が、部屋中に響き渡った。
 慌てて視線をグリールの方に向けると、彼女が片目を押さえて仰け反っているのが目に映る。
 ……これが、フェステの作ってくれた隙ってわけだ。
 あたしは瞬時にそう理解すると、全速力でグリールの背後に回った。同時に、フェステから受け取っていたアンサラーを、渾身の力を込めて彼女の背中に突き立てる。
 ずぶりと嫌な感触がして、それは彼女の見かけ細い体を易々と貫いた。
 手応え――あり。
 続けてアンサラーから黒い波動が迸り、あたしとグリールの体を柱状に包み込んでいく。
 これで、全部終わりだ……
 あたしがそう思って力を抜いた瞬間、急激にあたしの体が何かの力で、一気に天井近くまで持ち上げられた。同時に黒い波動が、燃え尽きた蝋燭の炎のようにしぼんでいく。
「オリヴィア!」
 途切れた視界の向こうで、フェステの叫び声が、あたしの真下辺りから聞こえた。
「それ以上近付くなっ!」
 同じようにグリールの怒声が、下の方からあたしの耳に届く。
「……まったく……やってくれるわ、下等生物が。この小娘、どう料理してやろうかしら?」
 続けて放ったグリールの物騒な台詞に、あたしはまだぼんやりと焦点の定まらない目をかっと見開いた。
 え!? なになに? あたしって捕らえられてしまったの?
 そう思って自分の体を見下ろすと、両腕と腰、両足の部分にそれぞれグリールの触手がぴったりと巻き付いていた。
 つまり今のあたしはグリールの触手にがんじがらめにされて、宙に持ち上げられてる状態ってわけである。まだ無事なのは、フェステへの牽制――人質としての役割があるからだろう。
「フェ、フェステ……」
 宙に吊るされたまま、あたしは震える声で彼の名を呼ぶ。
 だが彼はあたしの方をちらりとも見ず、グリールを凍るような目で睨みながら言った。
「やってみろよ? だが、その後、俺はお前を絶対に殺すからな――」
 言ったフェステの台詞に、あたしはこんな状況にもかかわらず、思わず胸をキュンとさせる。
 かっこいいじゃん!
 だが、そんな呑気なことを思えたのは一瞬だけ。結局やられてしまうことには変わりがない。
 脳裏を、グリールの触手でバラバラにされるあたしの未来像が、リアルによぎる。
 冗談ではない――
 心底笑えないその未来像を、すぐさま頭から振り払ったあたしは、右手にまだアンサラーを握っている事実に気付いた。同時にあることを思い付いたあたしは、下方にいるフェステの方へと視線を向ける。
 いや、向けようとしたんだけど、体が縛られているためかこれがなかなか難しい。 
 上であたしがそんなことをしている間にも、下ではあたしの生死を分ける言い合いが続いていた。
「威勢がいいのは結構だけど、とりあえず武器を捨ててもらいましょうか?」
「ふん。武器を捨てても捨てなくても、どうせ殺すつもりだろうが」
「……あら、よく分かってるじゃない? でも、あなたにこの小娘を見捨てることができるのかしら?」
「賭けるか? 俺がお前の喉元にこいつをぶっ立てるのと、お前がオリヴィアを引き裂くの。どっちが早いかよ?」
 ……前言撤回。
 あたしの命を軽々しく賭けの対象に使わないで欲しい。
 あたしが二人の言い合いを聞きながら、さっきかっこいいとか思ったことを後悔していると、瞬間ばっちりフェステと目が合った。
 慌ててあたしはフェステに右手を必死にアピールして見せる。
 その先端に持つ物にすぐさま気付いたフェステは、ほんの微かに目で合図を送ると、またグリールの方に向き直った。
「……あなた、本気で言ってるの? あなたが一撃で私を倒せる保証は無いけど、私は間違いなく、小娘を一瞬で八つ裂きにできるのよ?」
「御託はいい。試してみろよ」
 さっきのフェステの言葉に、呆れたように口を開いたグリールを、彼は冷たく一蹴する。
「恨むなら、冷たい相棒を恨むのね――」
 あたしの耳朶に、グリールの囁くような声が届いた。
 同時にあたしを縛りつけていた触手が、一気に力を増してあたしを締め上げ始める。凄まじい荷重が、あたしの全身を砕こうと次々と襲いかかった。
「っがぁああっ!!」
 予想以上の触手の力に、あたしの喉から絶叫が迸る。
 ……こ、このままじゃ……。本気でバラバラにされちゃうぞ……
 さっきのバラバラ未来像が、また頭をかすめた。と、次の瞬間――右手を拘束していた触手が、突如力をなくして地面に落下していく。
 フェステの攻撃だ―― 
 だが、あたしはそれを理解するよりも早く、動き始めている。
 まず自由になった右手でアンサラーを握り直すと、腰と両足に絡みつく触手を順々に斬り落とす。同時に背中の大剣を、真下にいるグリール目掛けて、思いっきり投げつけた。
 空を引き裂く音がして、それが正確にグリールの腹部へと直進していく。
「こしゃくなっ!」
 だが、大剣はグリールの背から生える無数の触手によって、あっさりと弾き返された。
 弾かれた大剣が、部屋のあらぬ方向へと飛んでいくのを見送りながら、あたしは口元に小さな笑みを浮かべる。 
 あたしの狙いは、そっちじゃない!
 心の中で吼えると、あたしは体を繋いでいた最後の左手の触手を斬り落とした。当然、支えを失ったあたしの体は、先の大剣と同じくグリール目掛けて落下していく。
 慌ててグリールが自由落下してくるあたしに触手を伸ばそうとするが、今度はフェステがそれを邪魔した。
 あたしの視界いっぱいに、無防備なグリールが迫ってきて――
 同時に、あたしは彼女の両肩を勢いよく蹴り飛ばしながら、彼女の上に着地していた。
 覆い被さるような格好で、グリールが床に押さえ付けられる。
 彼女の顔が、一瞬あたしを懇願するように見つめ返した。
「…………ヤメテ……」
 赤い唇から掠れるように漏れたグリールの言葉。
 それを引き金に、あたしは容赦なくアンサラーを彼女の眉間に突き立てた。
「ぐぁあああああああああああああ!!!!!」
 黒い力が今度こそ彼女を仕留めるために燃え上がり、同時に断末魔の咆哮が部屋中に轟き渡る。
 あたしの体からは、アンサラーの代価として、凄まじい勢いで力が抜けていった。
 周りを包み込む黒い波動と、視界がフェードアウトしていくのが重なる。
 遠くの方でフェステが何か言ってるのを聞きながら、あたしはそのままゆっくりと意識を失っていったのだった……















あとがき

 「後一話で完結します〜♪」
 そんなこと、誰か言ってませんでしたか?(お前だ)
 いやいや、ホント。一応最後まで完結したバージョンもあったんです。でも、あまりにもの陳腐さに見送りました。
 だから「今度こそ」次で最後です(信用無し)
 見捨てないで、最後までお付き合いして下さいませ〜♪