フォール・ハンター 1
作:アザゼル





 ファーストシーン「堕落を狩る者」

 月が夜の雲に隠れ、不穏な闇が世界を覆い尽くす時間。遠くでは微かに街の人工的な明かりが霞んでいるが、荒れ果てたスラムの裏路地までその光明が差し込むことは無い。凍て付くような闇の中で、その銀の閃光は闇よりも深く暗い何かを切り裂き踊っている。銀の閃光の正体は、一人の細身の――それでいて鍛え抜かれた、人間が持つ短刀の煌きだ。人間の姿は深淵の闇のせいか、それともあまりにも素早いその身のこなしのせいか、はっきりと捕らえることができない。だがそれは人間が相手にしているモノにも言えたことだった。
 その男か女かも分からない人間の持つ短刀が、闇よりも暗いモノのうちの一体の顔の部分に深々と突き立てられる。そいつは一瞬獣のような雄叫びを上げかけたが、それは短刀が引き抜かれるのと同時に空気が抜ける時のような間抜けな音を残して暗い路地の中に霧散した。それと同時に別の化け物が人間の背後から、不気味にめくれあがった口内の牙を鳴らして飛びかかって来ている。だが、人間の動きはさらに迅速だった。引き抜いた短刀を引き抜いた時の勢いのまま、背後から迫る化け物に向けてすさまじい膂力で投げつける。大気と短刀が宙で擦れ合う音が路地の中に一瞬とどろき、ほとんど確認もせずに投げつけたはずのそれは、正確に化け物の口内を抜けて頭部の後ろからどす黒い血を噴出させながら突き抜けた。人間の夜目にも分かる鮮やかな紅い唇の端が、それを確認して僅かに上に吊り上げられる。その笑みは気の弱い人間が目にしたら、ぞっとして腰を抜かすような冷厳な迫力を醸し出していた。
「さ、さすがだな。堕落を狩る者として名を馳せているだけのことはあるって訳かい……」
 その冷厳な雰囲気に押されたのか、別の人間が後ろからおずおずと声をかけた。その時今まで雲で覆われていた月が姿を現し、浮かび上がった返り血で白いジャケットを紅く染めた人物は声に対してゆっくりと振り返った。漆黒の闇と同じ色の髪と不気味なほど白い肌、凛としたまつげが豊かな瞳は声をかけた男を刺し貫くように居抜いている。その姿は、光に照らされた今でさえ、男か女か判断しかねる不思議な中性さを醸し出していた。だが、出てきた言葉は神秘的とすら言えるその容姿の期待を裏切る、普通の青年のどこか面倒臭そうな声だった。
「流石ってほどじゃねぇよ。こいつらネザースピリットは、《堕ちし者》の中でも低級魔属に属する奴らだし。ちょっとくらい腕が立てば、普通の人間でも相手に出来る」
「そんなもんかね。俺たちのような下級自由兵では、どんな奴でも相手にしかねるが……」
 青年のその面倒臭そうな物言いに、声をかけた男は幾分安心したように答えた。青年がそんな男にさらに何か言いかけようとして、それは突然の女性の悲鳴に掻き消される。
「ちっ! まだ残ってやがったか!!!」
 青年は軽く舌打ちすると、悲鳴がおこった路地のさらに奥に月明かりの元、白い閃光となって駆けて行く。青年の後をもう一人の男も慌てて追おうとするが、青年のあまりもの走る速度に付いていけず、すぐに青年の背中は男の視界から消え去ってしまった。
「大丈夫かっ!?」
 路地の奥にたどり着いた青年の目に、鈍く光沢を放つ皮膚と剥き出しになった牙を不気味に鳴らす下級魔属ネザースピリットに囲まれた、二人の人間が飛び込んでくる。一人は小さな金髪の少年で、もう一人はそれを守るように怯えながらも気丈に少年の前に立ち塞がる茶髪の女だった。おそらくは姉弟だろう。青年はその姉弟をちらっと一瞥すると、取り囲んでいるネザースピリットたちに向かって、いつの間にか腰の鞘から抜いていた短刀を手に走り寄る。ネザースピリットのうちの一体が駆け寄ってくる青年に気付き、牙を鳴らして立ち向かってきたが、それは青年がすさまじい勢いで横に薙いだ短刀に首から上をすっぽりと吹っ飛ばされ絶命した。ねばねばとしたゲル状の赤い血が、吹っ飛ばされた首の付け根から噴水のように吹き出し青年の顔に降りかかる。だが青年はそれに頓着した様子はなく、すぐに二体目の獲物に目をつけるとそいつの赤く輝く眼球に短刀を突き刺した。眼球から脳を貫かれたネザースピリットは、一瞬激しく痙攣した後、びくびくと四肢を震わせ力無くその場に崩れ去る。囲まれていた金髪の少年の方が、自分の近くに倒れてきたネザースピリットの無残な死骸に小さく悲鳴を上げた。その少年の背後から、さらに別のネザースピリットが襲いかかってきているのが青年の目に映る。青年は青くなって腰を抜かしている少年の肩をがっと掴んで引き寄せると、そのままの勢いで体を反転させてそのネザースピリットに強烈なカカト落としを食らわせた。それは正確にネザースピリットの顔面を捕えて、骨がひしゃげる音と共に陥没させる。それでもなお、鋭い牙を持った口で襲い掛かろうとしてくるそいつに、青年は短刀でとどめとばかりに喉を引き裂いた。
「ったく、ゴキブリみたいにしつこい奴らだな!」
 青年は喉から血を雨のように吹き散らして倒れこんでくるネザースピリットを片手で無造作に押しのけると、愚痴りながら血に濡れた短刀を鞘に戻した。それから胸元に飾られた銀のロザリオに血が付着しているのを丁寧に指で拭うと、腰を抜かしたまま座り込んでいる少年に向かって、笑顔で手を差し伸ばす。
「ほら、いつまでそうやってるつもりだ。男だろ? 姉ちゃんを守ってやらなきゃ」
 言いながら、青年は少年の手を掴んで上に優しく引っ張った。少年はまだ青い顔で、それでも自分を助けてくれたその青年に小さく礼を言うと、ゆっくりと青年の手に捕まって立ち上がろうとする。だが少年の手を掴んでいた青年の手は、横から現れた青白い手に半ば強引に引き離され、少年はそのせいで軽くよろめいた。
「ハリーに、血で濡れた手で触らないでっ!」
 横から手を出したのは、少年――ハリーと一緒にネザースピリットに囲まれていた茶髪の女だった。女はよろめいたハリーを抱きしめるように受けとめながら、青年の方を意志の強そうな碧眼に嫌悪の色を浮かべて睨む。だが、青年が何も言い返さないのを見ると、少しばつが悪そうに横を向いて今度はさっきよりも少し柔らかい口調で口を開いた。
「……ごめんなさい。一応、助けてもらったお礼は言っておくわ」
「構わない。どうせついでだったんだ」
 女の言葉に青年は気にしてないという風に両肩を軽く上げると、そう言った。その時、青年に引き離されて置いていかれた男が、青年たちの姿を見付けて駆け寄ってくる。額から流れ落ちる汗を見たところ、おそらく青年の姿を見失ってからずっと探し回っていたのだろう。男は青年と女を見比べながら、いまいち状況が掴めず困惑した表情を浮かべて言った。
「……こんなところでナンパか? 流石、1級自由兵ともなると余裕があるんだな」
 妙に感心した風に言う男に、青年は問答無用で蹴りを入れる。蹴りは男のみぞおちに鈍い音をたてて突き刺さり、男は低く呻いてよろめいた。それを見て、さっきから黙り込んでいたハリーが思わず吹き出す。
「ぐっ!? な、何もいきなり蹴りを入れなくてもいいだろう?」
 男が恨めしそうな顔で青年を睨むのを見て、ハリーは今度は声を立てて笑った。ハリーの笑いに釣られて、青年もおかしそうに笑みを浮かべる。青年のその笑顔は、血で紅く染まる服がどこか遠い非現実的なものと思わせるような、無垢な輝きを放っていた。一瞬、闇に沈む暗いスラムの路地が暖かくなったような錯覚が、辺りを包み込む。だがそれは茶髪の女の凍り付くような声で、一瞬にして消え去った。
「ハリー、そろそろ行くわよ。あなたたちも、いつまでもこんなところに居ても仕方ないでしょう。それとも、ここには違う目的で居るのかしら?」
 女はそう言うと、意味深な笑みを口の端に微かに浮かべる。女のその態度に青年と男は少しむっとしながらも、辺りを見回して言葉を詰まらせた。路地の所々に等間隔で立っている、生気の無い瞳を宙に漂わせる薄着の女たち。それらはまるで置物のように自分の持ち場に立ち尽していて、何人かは下卑た笑みを浮かべる男と話し込んでは静かに奥に消えて行く。さっきまで姿が見えなかったのは、おそらくネザースピリットから身を隠していたためだろう。青年と男はスラムの売春街に足を踏み入れていたのだ。
「い、いや……俺たちは《堕ちし者》の討伐に来ただけで……な、なあ?」
「……」
 男が顔を赤らめながら、青年の方に助けを求めるように顔を向ける。ごつい顔の割にはそういうことにはあまり免疫がないらしい。だが青年はその男の助けには何も答えず、ただ端正なその顔にシニカルな笑みを浮かべて、静かに女を見つめるだけだった。その無言の重圧とも言えるものに気圧されたのか、女は虚勢を張った笑みを青年に向けて口を開く。
「図星を指されたのかい? いいよ、私は金さえ払ってくれれば……」
「俺には縁のない話だな」
 言いかけた台詞を青年の何の感情もこもらない冷えた声で遮られて、今度は女が言葉を詰まらせた。青年の瞳に、微かに悲しみと怒りが入り混じった複雑な色が灯る。だがそれはほんの一瞬のことで、女がそれに気付いて何か声をかけようとした時には、青年はすでに女から背を向けていた。
「じゃあな、俺たちの仕事は終わりだ。あんたの言う通り、ここにこれ以上俺たちが居る意味は無い」
 そう言って、青年はさっさとその場から立ち去ろうと歩き出す。男はすでに路地の向こう側に向かって去って行く青年と女をしばらく見比べた後、なぜか少し惜しそうな顔で女に頭を下げて青年の後を追った。残された女はなぜだか無性に青年のことが気になるといった顔つきで、だが去って行く二人の背をぼんやりと眺めてその場に立ち尽くすことしか出来ない。元の静けさを取り戻したスラムの路地に、冷たい夜の風が無情に吹き荒む。もう見えなくなってしまった青年の姿を路地の向こう側に見据えながら、女は隣に同じように立ち尽くす少年の金色の髪をそっと優しく指で撫でたのだった――


 セカンドシーン「来訪者は突然に」

 ――視界一面に広がる闇と、肌を焦がすような緊張感。男の額から流れ落ちる大量の汗が、目隠しのために巻かれた布に次々と吸い込まれていく。拘束具のせいで身動きすることすら出来ないその男は、冷たい台の上でその時が訪れるのをただじっと待っていた。
 男は罪人だった。地底帝国カナンの秘儀《空間歪曲の式》を盗み出した罪人。愛する者にさえ裏切られた男は、男として最も屈辱的な刑を執行される時をただひたすらに待たされている。それは男には永遠とすら感じられる苦痛の時間だった。
「っぐ!?」
 男の口に分厚い布が噛まされる。それは刑がいよいよ行われようとする、合図でもあった。男は見えない視界の中でさらに硬く目を瞑り、その時に備える。男が縛り付けられた台の上で、朗々とした若者の声が採決の声を振り下ろした。
「天帝に逆らった、己が身の愚を知るがいい――」
 声は男を支配する闇の世界で幾重にも反響し、そして……
「――――――――――!!!!!!」
 男の下半身を襲う圧倒的な激痛。男の上げた叫び声は、口に噛まされた布越しに部屋中に響き渡った。あまりにもの激痛で意識が途切れ、すぐにまた同じ激痛のせいで意識を引き戻される。このまま完全に意識を失えたら、男はどれだけ楽だっただろうか。だが、男の鍛え上げられた強靭な精神はそれを許さなかった。
 そして――その激痛の狭間、私は彼から生まれたのだ。どうして私が生まれたのかは分からない。或いは、彼がただ逃げたかっただけなのかもしれない。それでも私は自らの独立した自己を持って世界に生まれてきたのだ。彼の死が私の死を意味する限り、私は彼を守り続けるだろう。愛する者に裏切られ、地底国を追放された憐れな男を。


「っ!?」
 がばっと身を起こした細身の青年は、目にかかった乱れた長い黒髪をかき上げた。青年の名はフェステ。黒髪の間からのぞく大きな漆黒の瞳が充血して微かに濡れているのを見ると、またあの夢でも見たのだろう。フェステがうなされている時は、大概がそうだ。
(また、嫌な夢でも見たの?)
「うるせぇ!」
 私の気を遣って言った言葉に、フェステは声を荒げるとベッドの隣に無造作に置かれた白いジャケットを掴んだ。所々に黒い血の跡が飛ぶそのジャケットを上から羽織ると、フェステは激しく音をたてて部屋の木造の扉を開けて出ていく。せっかく人が気を遣ってあげてるというのに、酷い言い草の男だ。フェステはそのまま部屋を出ると、下の階のバーに向かった。宿屋のバーは、大概が昼には食堂に変わる。少し遅い目の昼食でもとろうという魂胆だろう。
「遅いお目覚めだな。いつものでいいか?」
「あぁ」
 少し薄暗いバーのカウンターにフェステが腰を掛けた瞬間、奥からごつい声と共に宿屋の主人である初老の屈強な男、ダンカンが現れた。フェステはダンカンに適当に相槌をうつと、出されたお絞りで顔を拭く。お絞りの熱のせいで、フェステの白い顔が薄っすらと赤く変色した。普通にしていれば誰もが目をひく美形な顔立ちなのに、こういうオヤジ臭いところでポイントを下げているのがこの男には分からないのだろうか。まぁ、私には関係無いが。
「昨夜も活躍したらしいじゃないか。ギルトの奴らが来て噂していたぞ。何でも一人で《堕ちし者》を壊滅させたってな」
 ダンカンが言いながら、フェステの前にコーヒーの入ったカップを置く。フェステはそれに角砂糖を5、6個落としながら、ダンカンに向かって苦笑いを浮かべて言った。どうでもいいけど、そんなに砂糖を入れてコーヒーの味がするものなのだろうか。
「大したことないって。あれくらいの奴らなら、俺じゃなくても倒すことは出来る。それに本当に強い《堕ちし者》は、滅多に人の前には姿を現さねぇしな」
「そういうものなのか?」
 奥からダンカンが声だけを返す。それに対してフェステは、砂糖で甘くなり過ぎたであろうコーヒーを口にするだけで何も答えない。ちなみにさっきダンカンが言ったギルトというのは、フェステたち自由兵が所属する組織の俗称だ。自由予備兵ギルト―― 大陸に古くから存在する巨大組織で、元来は戦争が始まればどこにでも自由兵を派遣する戦争屋だったが、現在では異形の怪物《堕ちし者》の駆逐も兼ねるフリーランサーのみの組織だ。フリーランサーだが実力と功績により階級分けされていて、フェステはその中でも最上級クラス0級の次に位置する1級の称号を持っている。まぁ、フェステの実力からすれば当然なのだが。
「ま、あんたみたいな自由兵が居るおかげで、このティルスはぎりぎり《堕ちし者》に蹂躙されずに済んでいるって訳だ。ここの警備兵はクソの役にも立たないからな」
 カウンターの奥から戻ってきたダンカンは、少し顔をしかめて憎々しげにそう言うと、トーストとサラダの乗ったトレイをフェステの前に置いた。フェステはダンカンのその言葉に頬を僅かにぴくりと動かしたが、やはり何も答えずに運ばれてきたサラダにフォークを突き刺すと口に運びだす。ダンカンはだがフェステが何も答えないことに気を悪くした様子はなく、黙々とサラダを口に運ぶフェステを柔和な顔で一瞥すると、また奥に戻ろうとした。
 その時、宿屋の扉がけたたましい音と共に開かれ、同時に何人かの男の声と少女の甲高い声が入り混じって宿屋の中に侵入してきた。
「待てっ! このクソガキッ!!」
「待てと言われて待つ奴なんて居ないねっ!」
 声の持ち主たちはロビーの辺りをしばらく走り回った後、バーの中に雪崩れ込んでくる。先に入ってきたのは赤い髪を二つに括った活発そうな少女で、彼女はフェステを見ると駆け寄ってきて、素早い身のこなしでフェステの後ろに隠れた。フェステがそれに対して何か言おうとするよりも先に、続いて屈強な男たちが何人かバーの中に侵入してくる。揃いの軍服にアシェル王国の鷹の紋章。その格好から見て、男たちがこの国の警備兵たちであるのは明白だ。それまで奥に向かう格好のまま呆然としていたダンカンが、男たちを見て露骨に顔をしかめる。警備兵の中のやや太り気味の金髪の男が、フェステとフェステの後ろに隠れた少女に向かって口を開いた。他の警備兵の態度から見て、この男が隊長なのだろう。その口の端に浮かぶ下卑た笑みを見れば、あまり人に敬われるタイプの人間とは思えないが。
「わしはこの国の警備兵隊長、タイモンである。小僧、その小娘をこっちにおとなしく渡すんだ。」
 警備兵隊長と自ら名乗ったその男――タイモンは見てるだけで人の苛立ちを誘うような高圧的な態度で、口から汚そうな唾を飛ばしながらそう言うと、のっそりと革靴の底を鳴らしてフェステと少女に近付いた。フェステはだが大して気にした様子もなく、サラダを口に運び続けている。タイモンはフェステのその悠然とした態度にカチンときたのか、フェステの白いジャケットの襟首を掴むと力まかせに持ち上げようとした。フェステの華奢な体はだが、ぴくりとも動く気配を見せない。タイモンはそれでもむきになって必死に絞め付けようとしたが、フェステはそのタイモンの手の甲に、持っていたフォークを無情にも突き立てた。
「ぐあっ!?」
 タイモンが情けない悲鳴を上げて、フェステから手を離す。フェステはタイモンに突き立てたフォークを引き抜くとサラダの盛られていた皿に置いて、逆にタイモンを睨めつけ、からかうように口を開いた。
「《堕しち者》からは逃げ出して、少女と追いかけっこか? 警備兵ってのはロリコンの集まりだったとはなっ」
「何っ!?」
 フェステの揶揄したような言葉に、隊長のタイモンだけでなく、他の警備兵たちも憤りを露にする。バーの中が一瞬にして険悪な雰囲気に包まれた。その中で、フェステの後ろに回った少女だけが、なぜかその状況を楽しそうに眺めている。私はそれが少し気になったが、フェステの視線はすでに、腰に差した剣の鞘に手を伸ばしているタイモンに向けられていた。
「それを抜く意味を知っているんだな?」
 フェステが口の端からレタスの切れ端を覗かせながら、殺気を込めた視線をタイモンに向けて最後の忠告をする。その凍りつくような視線を受けて、タイモンが僅かに怯んだ。それにしても、せめてこんな風に決める場所では口の端からレタスなんかは覗かせないで欲しいものである。
「くっ! そう言えばお前、自由兵らしいな? お前らのようなゴミを始末するのも我々の任務なんだ。お前らも……分かってるな?」
 タイモンの言葉に、他の警備兵たちも腰の鞘に一斉に手をかけた。タイモンは一瞬はフェステの殺気に怯んだものの、数の利を確信したのか、皺の多いその顔に先ほどまでの下卑た笑みを取り戻す。タイモンが余裕の笑みを浮かべたまま鞘から剣を抜き放つのを見て、フェステの漆黒の瞳に剣呑な輝きが灯った。と、同時にフェステの体はタイモンたち警備兵の視界から掻き消えている。白い閃光と化したフェステは、いつの間にか抜いた鈍く輝く短刀を右手に構えたまま、タイモンのすぐ後ろにいた警備兵の一人の顎に逆の手で強烈な掌手を喰らわした。骨が砕ける音と共に、曇もった悲鳴が警備兵の口から漏れる。突然視界に現れ仲間を打ち倒したフェステに気付いた別の警備兵が、抜いた剣をフェステのいた場所に縦に薙ぐが、その時にはすでにフェステの姿はそこには無い。警備兵の剣がフェステのさっきまでいた場所にあった、バーの中のテーブルを粉砕する音が虚しく響き渡った。
 異常なまでの脚力とそこから生まれるスピード。地底国の人間のみに宿る生まれついての超常能力《アルカナ》 フェステはそれの数少ない使い手である《アデプター》である。様々な力の形があるが、フェステのそれは単純な肉体の局部強化だ。しかし、力が発動すれば並の人間には目で追うことすら難しくなる。体術、剣術に長けたフェステには、それだけで充分だろう。
 次に現れた時、フェステの短刀の柄は、深々とタイモンのみぞおちにめり込んでいた。タイモンの口から空気が抜けるような呻き声が漏れて、がっくりと彼はバーの木造の床に崩れ落ちる。だらしなく開いた口からは白い泡が吹き出していた。おそらくあばらの2、3本も折れているのだろう。相変わらずの容赦の無さだが、私なら息の根も止めているところだ。
「タイモン隊長!?」
 床に倒れ伏したままぴくりとも動かなくなったタイモンに、他の警備兵たちが駆け寄ってくる。その慌てふためく警備兵たちに、フェステは短刀を突き付けて歩み寄った。警備兵たちがフェステの放つ殺気に押されて、じりじりと後ずさる。
「その男を連れてさっさと出ていくんだな。次は間違いなく……殺すぞ」
 透き通るようなフェステの声は冷気すら纏って、警備兵たちを怯ませた。フェステが手にした短刀を、その警備兵たちの眼前の床に投げつけると、警備兵たちは慌ててタイモンと顎を砕かれた警備兵を担いで捨て台詞も残さずに宿屋から逃げ去る。フェステは警備兵たちが全部出て行くのを確認すると、床に突きたてた短刀を引き抜いて腰の鞘に戻した。それからカウンターにいるダンカンの方を振り返って、申し訳無さそうに口を開く。
「悪かったな、ダンカン。壊した物は弁償するよ」
 言いながら目を移したフェステの視線の先には、さっきの戦闘で警備兵がフェステを狙って剣を薙いだせいで真っ二つに破壊されたテーブルが映っていた。だがダンカンは豪快に声を立てて笑うと、カウンター越しにフェステの肩を強く叩いて言う。さっきはタイモンに襟首を掴まれてもぴくりとも動かなかったフェステの華奢な体は、ダンカンの丸太のような腕に叩かれて軽くよろめいた。
「何を言ってるんだ。俺はこんなに気分がいいのは久しぶりなんだぜ? おんぼろテーブルの一つや二つかまやしねぇ! ま、それよりもその女の子のことを心配してやんな」
 言って、ダンカンは機嫌よく鼻歌交じりにフェステの空になった皿を手に取ると、カウンターの奥に消えて行く。それを見送りながら、フェステは顔に微かな苦笑を浮かべて、それから思い出したように少女の方を振り返った。赤毛を二つに括った少女はさっきからそうしていたのか、フェステの方を不安そうな顔で見上げている。フェステはその少女に視線を合わせるために身を屈めると、赤毛の髪を優しく撫でて言った。どこまでも女子供には甘い男だ。
「もう大丈夫だぞ? あいつらはいなくなったからな」
 フェステがそう言うと、少女はパッと顔を上げて、悪戯っぽい笑みをフェステに向けた。フェステの顔を見上げた少女の顔に一瞬、暗い影が走る。私はそれを見逃さなかったが、フェステは怯えていたとばかり思っていた少女が結構平気な顔をしていたことに動揺しているらしく、気が付かないようだった。
「ありがと、美形のお兄ちゃんっ! 危うくエミリアの貞操が奪われるところだったよ」
 少女――エミリアは言って、かわいい舌をぺろりと覗かせる。その仕草はどこか小悪魔的な感じで、フェステはなぜか顔を赤らめて横を向いた。あんたもロリコンかい――
「そ、それよりエミリアはどうしてあいつらに狙われてたんだ? 盗みでも働いたのか?」
「ひ・み・つ! そんなことより、お兄ちゃんの腕を見込んでお願いがあるんだけど……」
 フェステの失礼な質問を軽くあしらって、エミリアは真剣な表情になるとフェステの顔を懇願するような眼差しで凝視した。エミリアの真摯な顔に押されて、重大な質問をかわされたことにフェステは気付いていない。本当に……どうしようもない甘い男だ。
「お願い?」
 フェステが流石に胡乱げな顔でエミリアに聞き返すと、彼女は誰もいないバーの中を見回した後、そっとフェステに体を近付けて片目をぱちりと瞑って言う。その仕草もどこか熟達した女を思わせて、フェステをぎくりとさせた。
「そう、お願い。お兄ちゃん自由兵なんでしょ? 私の護衛をやってくれない?」
「護衛って……」
 仕事の話になってようやくフェステの顔にも真剣な輝きが灯る。エミリアは聞き返してきたフェステにさらに身を寄せて、小さなピンクの唇から言葉を続けた。
「エミリアは訳あって警備兵たちに狙われているの。だから、お兄ちゃんには隣のナフタリ帝国までエミリアを護衛してもらいたいって訳。もちろん報酬は払うよ。なんだったらエミリアの身体で払っても……」
「あー、分かった分かった。報酬は金で頼むよ」
 エミリアが小さな身体をくねらせて胸に指をなぞらせるのを、フェステは邪険に払いながら面倒臭そうに答えた。それからそっぽを向いて部屋に戻るためにバーを出ていくフェステを、エミリアが口元に笑みを浮かべたまま見送る。その笑みにやはり暗い影が落ちているのを見て、私は静かに不安が暗雲のようにたち込めていくのを感じていたのだった。


 約2年前――大陸の南側で最強の軍事国家であったエドム王国が一夜にして滅ぼされた。滅ぼしたのは地底帝国カナン。今まで地上世界の表舞台に出てくることの無かったその国の存在と、最強の軍事国家を一夜で滅ぼした圧倒的な軍事力に大陸に住む人間たちは震撼した。だが惨劇はそれだけでは済まなかった。時を同時にして大陸に地底国と同じように突如出現した深淵の眷属《堕ちし者》 彼らは人間を遥かに凌ぐ個々の戦闘能力と、人間にとって永遠ともいえる寿命を持って大陸中に広がっていった。人間を喰らうことで精気を養う《堕ちし者》は人間にとって最大の脅威となり、街と街を結ぶ街道は《堕ちし者》と大陸の混乱に便乗した盗賊たちが無法に巣くう巣窟と化してしまう。大陸中に下部組織を持つ自由予備兵ギルトは、人間に著しく害を成した《堕ちし者》に懸賞金をかけ、自由兵たちに駆逐を促したが成果は思ったほど上がっていないのが現状だった。一方エドム王国を滅ぼした地底帝国カナンは、その後また表舞台から忽然と姿を消してしまう。彼らがどういう思惑で地上世界に現れ、これから何を成そうとしているのか。俺にすらそれはよく分かっていない。そう、元カナンの軍人であった俺にさえ……


 夜は彼女の時間だった。俺の意識は追い出され、彼女が俺の身体を支配する。彼女―― 自分のことを彼女はアニマと呼んでいる、と俺はもうかれこれ2年ほどの付き合いだ。どうして男の俺から女の意識が生まれたのかは定かではないが、特殊な状況で生まれたせいだと今では納得している。無表情で何を考えているのか分からない奴だが、色々助けてもらっているし、悪い奴ではない……はずだ。
 アニマは宿屋の部屋に備え付けられている簡易ソファーの上で、むっくりと目を覚ました。それから、まだ目覚めきっていない漆黒の瞳をゆっくりと部屋の中に漂わせる。月明かりが開けっ放しになった窓から差し込み、室内を微かな光で照らしていた。アニマは、しばらくそうやってぼんやりと瞳を漂わせる。彼女が言うには、完全に覚醒するまでには僅かに時間がかかるものらしい。ソファーの上でそうやって少しの間ぼんやりし続けていた彼女は、突然何かを思い立つと、ベッドで横たわり気持ち良さそうに寝息を立てているエミリアの方に近付いた。その寝顔を上から見下ろし何か難しい顔で思案に耽る。
「……お、姉ちゃ……ん」
 その時、エミリアが顔をしかめて、小さなピンクの唇からうわ言を呟いた。何の夢を見ているのか……少なくとも、楽しい夢ではないのはエミリアの表情を見ていれば明白だ。アニマはまるで能面のような無表情で、エミリアの寝顔を観察している。その人形のような無表情に、俺はいつものことながらぞくりとさせられた。人間が行動する時には何らかの表情の変化があるものだが、アニマにはそれがない。彼女が何を考えて何をするのかは、彼女のみが知るって訳だ。俺はエミリアをただ見続けるアニマに耐えられなくなって、頭の中に語りかける。
(どうしたんだ? この子が何か気になるのか?)
「……さぁね」
 だがアニマはそっけない返事を返しただけで、もう興味を無くしたのか、エミリアから視線を外した。それからゆっくりと部屋に備え付けの冷蔵庫に向かうと、中からワインを取り出してグラスに注ぐ。深紅の濃い色の液体が並々と注がれたグラスを、彼女は一気に飲み干した。本当に、何を考えているか分らない奴だ。
 アニマが飲み干して空になったグラスをテーブルの上に置く。と同時に、見計らったように――そんな訳は無いのだが、テラスのガラスが割れる音が部屋中に響き渡った。割れたテラスから黒い影が部屋の中に次々と進入してくる。アニマの無表情な顔に僅かに緊張の色が走った。
(代わってやろうか?)
「必要ないわ――」
 俺の言葉に抑揚のない声できっぱりと答えながら、彼女はソファの横に置いていた短刀の鞘に手を伸ばす。黒い影の正体は《堕しち者》の下級魔属、ネザースピリットだった。その数5体。その内の1体が鋭い牙を覗かせながら、アニマに襲いかかる。アニマは残りのネザースピリットがベッドに眠るエミリアの方に向かうのを視界の端に捕えながら、目の前まで差し迫ったネザースピリットの首筋に正確に短刀を薙いだ。鮮血が飛沫となって飛び散り、アニマの体に噴きかかる。アニマは崩れ落ちてくるそのネザースピリットをひらりとかわして、エミリアの方に向かったネザースピリットよりも早く、ベッドの前に駆け寄った。彼女の脚力強化のアルカナは、俺が使用するそれよりも洗練されていてずっと速い。ネザースピリットたちには、突然目の前に彼女が現れたようにしか映らなかっただろう。突然現れたアニマに一瞬動きを止めたネザースピリットたちが次に動き始めるまでに、彼女の手にした短刀は4体の内2体の喉を、これも正確無比に刺し貫いていた。この状況ですら、彼女の無表情は微塵も揺らいでいない。服や体をネザースピリットの返り血で濡らしながら、アニマは残りの2体に今度は逆に襲いかかる。残った2体は仲間を次々にやられたというのにまるで怯んだ様子もなく、向かってきたアニマに鋭い牙で噛みかかってきた。アニマが1体の牙を剥き出しにした口に向かって、短刀を繰り出す。それはネザースピリットの口内に進入して、だが鋭い牙でがちりと咥えられた。アニマの動きが初めて止まる。もう1体が動きの止まったアニマの左腕に噛みついた。鋭い牙が腕に食い込み、鮮血が吹き出すが、やはりアニマの表情は変わらない。噛みついてきたネザースピリットを睨みつけるアニマの目が、漆黒の色から金色へと変化する。瞬間、金色の目で睨み付けられたネザースピリットの頭が、まるで大砲でも撃ち込まれたかのように粉々に粉砕した。ネザースピリットの脳漿や血液が部屋の床に霧散する。彼女のもう一つのアルカナ、精神波攻撃だ。その名の通り、相手の精神に直接衝撃を与える技らしい。詳しい説明などされたことが無いから、よくは分らないが。
「カナン……?」
 アニマが頭を粉々に砕かれたネザースピリットに目を向けながら、相変わらずの抑揚のない声で呟く。無表情に僅かに疑問の色を浮かべて、アニマの動きがまた止まった。そのアニマに今が好機と見たのか、短刀を咥えていたネザースピリットが赤い目をぎらりと光らせ、牙と同じく鋭い爪で彼女の喉元を薙ぐ。だがそれをほんの数ミリの動きで寸前でかわして、アニマは短刀をネザースピリットの額に深々と突き立てた。
(どうしたんだ? 戦いの最中に動きを止めるなんて珍しいじゃねえか)
 絶命したネザースピリットから短刀を引き抜くアニマに、俺は軽い調子で声をかけた。だが彼女は俺の質問には答えず、部屋中に転がるネザースピリットの死骸を眺めながら一人思案に耽る。その無表情からは、やはりアニマが何を考えているのか読むことは出来ない。
(それにしても……こいつらは一体、何の目的で?)
 俺が転がるネザースピリットの残骸に、アニマからの返答を期待せずに疑問を洩らす。俺の洩らした言葉にアニマは、やはりすぐには答えを返さず、血に濡れたテーブルの上のワイン瓶を手にするとグラスに注いでまた一息に飲み干した。それからソファに腰を下ろし、あの騒ぎでもまだ眠り続けているエミリアの方を一瞥すると、口の中だけで独り言のように呟きを洩らす。
「この子を狙ってきたのだとしたら……面倒なことになりそうね」
 呟いた彼女は、その紅い唇の端に凍えるような微笑みを浮かべた。テラスの向こう側に輝いていた月が、これからの行く末を暗示するように徐々に雲に覆われていく。それを見つめながら、俺は心の中だけで大きく溜息を吐いたのだった。















 あとがき

 取り敢えず、見きり発車気味にスタートしました。一応の予定ではこの話は全10話程度を予定しております。つたない話ですが、読んで感想までくれると嬉しかったりします。
完結はさせる方向で行くんで、皆様よろしく!