フォール・ハンター 2
作:アザゼル





 サードシーン「復讐者の凶剣」

 大陸を走る横断鉄道。蒸気機関で走る移動型列車は数十年前から計画されていたが、完成したのはつい最近だ。大陸全域に影響を持つヨシュア大帝国が、《堕ちし者》の出現に合わせて国家間の交易の安全を保つために計画を早めたのが大きな理由だろう。現在では大陸のほとんどの主要都市を結ぶ鉄道が、開通して敷かれている。それにより、国家間の移動は少し前よりはかなり安全になった。まぁ、全部の都市を結んでいるわけじゃないし、《堕ちし者》に襲撃されたら完璧に安全、という訳でもないのだが……
 路地を挟んで向こう側に見える巨大な駅と、《堕ちし者》から護るために武装された列車を眺めながら、この体の主フェステは大げさに溜息をついていた。横で棒に付いたキャンディーを舐めて佇むエミリアの方に目を向けた彼は、幾分疲れたように口を開く。
「…… お前、一体何をやらかしたんだ? 検問だらけで街を動くことすら出来ないじゃねえか」
「少女趣味の奴が多い街なんだね、ここは」
 フェステの言葉にエミリアは飴を舐めるという行為に没頭しながら、興味無さそうに答えた。狙われているというのにあまりにもお気楽な態度のエミリアに、フェステは頭を抱えながら、それでも周囲を徘徊する警備兵たちに注意を怠らない。そこらへんは流石なのだが…… そろそろ理由を聞いたらどうなんだろうか、この男は。私はフェステの胸元に飾られている銀のロザリオに目を遣る。それを見るたびに、この男はどうも女に騙されるために生きているような気がしてならない。
「おい! そこの者たちっ!!!」
 注意を向けていた方とは反対の方向から、男の声が飛んでくる。それに呼応して、フェステはエミリアの手を引くと声の方を振り返りもせずに駆け出した。エミリアが一緒のため、脚力強化のアルカナは使えない。普通の人間には身体にかかる負担が大きすぎるからだ。それでもフェステは疾風のように、路地から路地を閃光の如くノンストップで駆け抜けて行く。警備兵たちはいつの間にか大人数になって追いかけてくるが、フェステの足には追い付けないようだった。街を行き交う人間たちが、その追いかけっこを遠巻きに興味深そうに傍観している。だが、誰一人助けようとしてくれる者はいない。まぁ、警備兵に逆らうのは国に逆らうのも同義であるし、そもそもフェステたちを助ける理由が彼らには無いからなのであろうが。
「そこまでだな、小僧っ!!!」
 大通りに出たところで待ち構えていたのは数人の警備兵たちだった。その中には包帯姿が痛々しい、タイモン警備隊長の姿も見える。声の主は、すでに剣を構えてフェステを睨んでいる彼のものだった。その声が怒りと殺気に満ちているのは気のせいではないだろう。後ろからも大人数の警備兵が追いついてきていて、フェステとエミリアは挟まれる形となってしまった。
 そんな状況であるにもかかわらず、フェステはタイモンの方に目を向けると、皮肉な笑みを浮かべながら軽口を叩く。
「せっかく忙しい警備隊長殿に休暇を与えてやったのに、よっぽど仕事が好きらしいな?」「何ぃ!?」
 フェステのその浅い挑発に、タイモンの皺の多い顔が怒りのため赤く染まった。抜いた剣をフェステに向けてさらに構え直したタイモンは、だがこの前のことを学習しているのかすぐには向かってこない。この中年のだらしない男も、ちょっとは頭を使うようである。「お前たち、その男と小娘を捕えるんだっ! 男は殺してもかまわん!! だが小娘の方は殺すなよ――」
 タイモンが横に居並ぶ警備兵と、フェステたちの後ろに追いついてきた警備兵たちに向かって声を荒げて言った。警備隊長の言葉に従って、抜刀した警備兵たちがじりじりとフェステとエミリアに近付いてくる。フェステの腕なら何とかなる数ではあるが、ここでそうしてしまった場合、お尋ね者になるのは必死だろう。それだけは何としても避けたいところではある。
(あなたは、殺しちゃ駄目よ)
「分ってる」
 私の言葉にフェステは口の中だけで答えながら、鞘から短刀を引き抜いた。それと同時に警備兵の一人が、先走ってフェステに飛びかかって来る。だが警備兵はフェステの間合いに入る前に腹の辺りを飛来してきた鋭い何かで切り裂かれて、切り裂かれたことに気付かず、自分の臓物と血が飛び散る腹を不思議そうに見下ろした。一瞬遅れてその警備兵が身に起こったことに気付き悲鳴を上げようとするが、口から漏れたのは空気の抜ける情けない音だけだ。目の前で凄惨な死を遂げた警備兵を見て、他の警備兵たちが色めきたつ。(フェステっ!?)
「俺じゃねえ!!!」 
 フェステは私の言葉に今度は声を荒げて答えると、キッと警備兵たちの後ろに佇んでいるそいつを睨んだ。長い白髪と切れ長の細い目、黒縁の小さなサングラスを鼻にかけた黒いロングコートに身を包むその若い男は、警備兵たちの後ろで腕を組んでフェステの方をじっと見つめている。警備兵たちがフェステの視線に気付いて、白髪の男の方を振り返った。
「な、何者だ、貴様っ!?」
「……」
 警備兵たちが突然現れたそいつに囲むように詰め寄る。だがその白髪の男は警備兵たちの姿が視界に映らないのか、ただ真っ直ぐにフェステの方だけを見つめ続けていた。背中に悪寒が走るような、暗い感情が込められた眼差しだ。
「貴様っ!! そこを動くなよっ!!!」 
 警備兵たちが、白髪の男の自分たちのことなど眼中に無いといったその態度に、憤りを露にして襲いかかる。警備兵たちに囲まれた白髪の男の口元が、彼らが襲いかかってくるのと同時に禍々しく歪むのがフェステの目に映った。
「逃げろっ!!!!」
 フェステが叫ぶ。だが時すでに遅く、白髪の男を襲った警備兵たちの四肢は、まるで見えない刃に切り裂かれたみたいに細切れになって宙を舞った。大通りの補正された道が、警備兵たちの肉塊と血で一瞬にして埋め尽くされる。
「シャイロックぅ!!!!!!!」
 フェステが細切りにされた警備兵たちの向こうで、狂喜の笑みを浮かべる白髪の男に向かって叫んだ。白髪の男――シャイロックは、コートのポケットから折れ曲がった煙草を取り出すと口に咥えて火をつける。それからフェステの方に細い目を向けて、まるで旧友に声をかけるみたいに親しく話しかけてきた。
「久しぶりじゃねえか、フェステ。会いたかったぜぇ?」
「…… 俺は二度と会いたくなかったがな」
 警備兵たちの死骸を道端に転がる石のように踏みつけながら近付いてくるシャイロックに、フェステは憎々しげな声で答えた。引き抜いた短刀は、すでに警備兵たちではなく近付いてくるシャイロックに向けられている。シャイロックの顔には薄っすらと笑みが浮かべられていたが、放たれているすさまじい殺気が、それが決して友好的なものでないことを示していた。フェステの額から、ここ最近流したことのない冷たい汗が流れ落ちる。嫌な汗だ。
 生き残った警備兵たちとタイモンは、二人の間を包む異様な雰囲気にただ呆然と立ち尽くすことしか出来ない。
「ククク…… どうした、顔色が悪いぜぇ? せっかくこの俺が会いに来てやったっていうのによぉ!?」
 フェステの間合いの中にまで迫ったシャイロックが、そこでやっと立ち止まり、腰の鞘から微妙に刃が反った曲刀を抜きながら口を開いた。曲刀を手にしたシャイロックは、それを無造作にフェステの方に差し向ける。構えも何もないが、それはフェステが一歩も動けないほどの隙の無さを持っていた。
「痩せたな、フェステ。ホルモンバランスの影響かぁ?」
「……!!!」
 シャイロックの下卑た挑発に、フェステの身体が霞む。脚力強化のアルカナを用いてシャイロックの背後に一瞬で回り込んだフェステは、手にした短刀をシャイロックの首元めがけて正確に薙ぎ下ろした。
「甘ぇなぁ!!」
 だがそれは前を向いたままのシャイロックの曲刀で、がっちりと受け止められてしまう。フェステはそれでも強引に振り下ろそうとするが、シャイロックのすさまじい膂力の前に押し負ける形で弾き飛ばされてしまった。地面に方膝をついたフェステを恍惚とした表情で見下ろしながら、シャイロックは曲刀を持ってない方の手をフェステに向けてゆっくりとかざす。とっさに危険を感じたフェステは、身をよじって地面を転がった。一瞬遅れて、さっきまでフェステがいた場所の地面が不可視の何かでえぐられる。
(アルカナ!?)
「忘れてたが…… あの野郎もアデプターだ」
 私の疑問に口の中だけで答えながら、フェステは急いで身を起こすとシャイロックから間合いをとって離れた。そのフェステにシャイロックは不要に間合いを詰めようとはせず、離れたところから先と同じように手のひらをフェステの方に向ける。シャイロックの吸っていた煙草の灰が地面に落ちるのと同時に、フェステに向かって不可視の刃が襲いかかってきた。フェステはそれを脚力強化のアルカナを駆使して、なんとか紙一重でかわす。不可視とはいえ、シャイロックの手から軌道をある程度予測できるためかわすことは可能だ。とは言え、不可視の攻撃を見切っても本体が残っている。案の定、かわしたところにはすでにシャイロックが詰め寄ってきていた。曲刀が動きの止まったフェステに振り下ろされる。フェステはそれを、何とか手に持った短刀で必死に受け止めた。
「弱くなったもんだなぁ? 昔のお前ならこれくらい軽く弾き返したもんだぜぇ!?」
 受けとめられた曲刀に力を込めながら、シャイロックが哀れむような目でフェステを見下ろして言う。鍔迫り合いは圧倒的にフェステに分が悪かった。じりじりと押されながら、フェステの足はそれでも何とか地面をえぐって持ち堪えている。フェステの力が弱いわけではない。シャイロックの膂力があまりにも圧倒的過ぎるのだ。
「シャイロック…… てめぇ、何をしに上の世界に出てきたんだ!? 俺への私怨だけって訳じゃないんだろう?」
「クク…… それはそうだが、俺にとってはそれが最優先なのは間違いねぇ!!」
 フェステの言葉に、狂喜の笑みを返して答えたシャイロックは曲刀に込めた力を一気に膨れ上がらせる。フェステはその力を逆に利用して、後方へと大きく飛び退いた。と同時に地面を蹴り、僅かに体勢を崩したシャイロックへと距離を詰めると、猛然と短刀を繰り出す。それらを悠然とした構えで一つ一つ受け流しながら、シャイロックは眼前のフェステに語りかける。
「残念だぜ、フェステ。俺が殺したかったお前はもういないみたいだな。男をやめたお前に、俺の相手はつとまらねーよ!」
「ぐっ!?」
 受けとめた短刀ごとフェステを弾き飛ばしたシャイロックは、言い放つと同時に吸っていた煙草を吐き捨て、地面に腰をついたフェステに向かって曲刀を振りかざした。空に輝く太陽の光を受けて、シャイロックのかざした曲刀が鈍く煌く。
「んきゃぁぁぁ!?」
 その時、エミリアのふざけてるとしか思えない奇妙な叫び声が大通りにこだました。その叫び声に、フェステだけでなくシャイロックも呆気にとられたような顔でそちらを振り返る。そこには警備兵たちに担がれて連れ去られるエミリアの姿が映っていた。抱えられた警備兵の肩の上で足をじたばたとさせて、エミリアがフェステの方を情けない顔で見つめている。その顔がやはりふざけているようにしか私には映らないのは気のせいだろうか?
「エミリアっ!!」
 地面に倒れたままのフェステが、エミリアを連れて去って行く警備兵たちに向かって叫ぶ。そのフェステにシャイロックが、無言のまま強烈な蹴りを叩き込んだ。身体が九の字に折れて、激しく咽込んだフェステは無様に地面を転がる。
「フェステ。貴様の処刑は次回に見送ってやる。俺にもやらなければならないことがあるんでな」
 まだ咳き込んでいるフェステを冷たい眼差しで見下ろしたシャイロックは、そう言い捨てると警備兵たちを追って大通りの向こうに消えていった。後には切り刻まれて原型を無くした警備兵たちの残骸と、地面に倒れたまま焦点の定まらない瞳で、警備兵たちとシャイロックが消えた大通りの向こうを睨むフェステだけが取り残される。
(完敗ね。どうするの、これから?)
「…… 警備兵の詰め所は街の中央だったな」
 私のかけた言葉に、フェステは立ち上がりながら静かに呟いた。声は冷静だが、表情は憤怒の色で満たされている。自分の目の前でエミリアを連れ去られたのと、シャイロックにまるで歯が立たなかったことへの怒りのせいだろう。相変わらず分りやすい男だ。
(まさか…… 真っ向から乗り込むつもりじゃないでしょうね?)
 私が半ば諦めにも似た思いでそれでも一応聞いてみるが、フェステは私の質問には答えず、ただ不敵な笑みを浮かべてティルスの街の中央に目を馳せるだけだ。どうやら、やる気満々のようである。このままこの男に任せていたら、本気でお尋ね者になりかねない。(少し頭を冷やしておきなさい――)
「なっ!?」
 私は熱くなってるフェステにそう言い放つと、強制的に自分の意識を覚醒させた。同時にフェステの意識を強制的に眠りにつかせる。
 体を支配する意識が入れ替わり――


(お、おい! アニマ!?)
「潜入するだけなら、私の方が上手くやれるわ。あなたは大人しくしておきなさい」
 俺は突然意識を体から追い出されて心の中でアニマに非難の声を上げるが、彼女は冷たく俺の言葉にそう返すと、ふらふらと歩き始めた。まだ覚醒しきっていないのか、アニマの足取りはどことなく危うい。それでもさっきの騒ぎと、警備兵たちのミンチになった死体が転がる中で立ち尽しているのはあまりにも目立ちすぎるため、彼女は早々と大通りから離れていく。実際、かなりの人数の見物人たちが大通りには集まり始めていた。騒がしくなってきた大通りを背に、アニマは裏路地まで離れてくると、崩れかけた壁にもたれかかり天を仰ぎながら軽く嘆息する。それから広がる青空と、さんさんと輝く太陽を無表情な彼女には珍しく疎ましそうに睨みながら、小さく呟いた。
「太陽の光はどうも苦手ね。まだ、頭がはっきりしないわ」
(お前は吸血鬼か……)
 俺が呟いたアニマに呆れたように突っ込むが、彼女はそれには反応を返さずに裏路地をゆっくりとまた歩き始めた。まぁ、アニマが俺の体の意識を支配するのはほとんどの場合が夜の間なので、そうなっても仕方がないのではあるが。
(おい。そっちは警備兵の詰め所がある位置とは反対の方だぞ!?)
 歩き始めたアニマが、明らかに街の中心から離れていくのを見て、俺は慌てて言った。アニマは俺の言葉に裏路地を歩きながら、いつもの抑揚のない声で答える。
「当たり前でしょ。昼間に忍び込んでどうするのよ」
(じゃ、じゃあ何で今、入れ替わる必要があるんだ?)
 裏路地から裏路地をなるべく日が当らないような日陰を選んで、どんどん進んでいくアニマに俺は再度疑問をぶつけた。彼女は俺の今度の質問にも歩く速度を全く緩めず、また抑揚のない声で、今度は僅かに面倒臭そうに答える。
「あなたが体を支配していたら、今からでも攻め込みに行くでしょ? 今私が出ているのは、あなたの無謀な行動を止めるためよ」
(……なるほど)
 全くの図星を指されて、俺は仕方なく口を閉ざした。その時、アニマの足が裏路地の一角でぴたりと止まる。目の前には古びた――と言うよりは壊れかけていて、およそ営業などしていないと見る者に思わせる酒場がひっそりと佇んでいた。木造のほぼ半壊している押し扉には、一応営業中の看板がぶら下がっている。それを見ればもしかしたら営業はしているのかもしれないが、壊れた窓ガラスから覗いた店の中は薄暗く、人がいるとはとても思えなかった。だがアニマは何の躊躇もなく、壊れかけの押し扉を開けるとその酒場の中へと足を踏み入れる。
(おいおい。こんなところで何をする気だ?)
「時間潰しよ」
 俺の心配をよそに、アニマはそう言うと薄暗い店の奥へとさっさと入っていく。店内は意外に整然としていたが、人があまり来ないせいかかび臭い匂いが部屋中に充満している。カウンターらしきものにアニマが腰を下ろすと、それと同時に奥からしわがれた老人の声が返ってきた。
「いらっしゃい……」
 声と共にカウンターの奥から姿を現したのは、白髪の頬のこけた老人である。深く刻まれた皺の多い顔は、疲れのためか蒼ざめて見えた。アニマは老人の顔を軽く一瞥すると、すぐに視線を酒瓶の置かれた棚に移して小さく口を開く。
「ワインをもらえるかしら。銘柄は何でもいいわ」
「かしこまりました……」
 老人は答えると棚から上等そうな赤ワインの瓶を取り出し、グラスに注いでアニマの前に静かに置く。葡萄の熟成されたいい香りが、一瞬カウンターの上にふんわりと広がった。だがアニマはその鼻腔をくすぐるワインの香りにはまるで頓着した様子もなく、出されたグラスの中のワインを一気に飲み干す。こいつには、情緒とかそういうものは無いのだろうか。
「おいしいわね――」
 アニマが思わずといった感じで、感嘆とした声を漏らした。アニマがそんな風に何かを誉めるのは珍しいことで、俺は少し驚く。余程おいしいワインなのだろうか。
「ありがとうございます」
 老人はアニマに軽く頭を下げると、彼女の空になったグラスにまたワインを静かに注いだ。その慣れた自然な仕草だけで、老人が長年この職に携わってきたことが覗える。アニマは今度は注がれたワインを一気に飲み干すようなことはせずに、少しだけ口をつけると、老人の方に顔を上げた。
「どうしてここは、これだけ寂れているのかしらね。ワインも店自体も悪くはないのに」 アニマは言いながら、老人の心を見透かすような薄い笑みを口元に浮かべる。無表情に笑みだけが貼り付いたような、見る者を不安にさせる笑顔だ。老人はアニマのその言葉に、一瞬表情を暗くすると、大きな溜息を吐いて答える。
「……《堕ちし者》のせいですよ。こういった裏路地やスラムに巣を作る《堕ちし者》を国が野放しにしているため、人が寄りつかなくなってしまったのです。この国の警備兵たちは本来の仕事を忘れて、一体何を考えているのか……」
 そこまで言って、老人は顔に苦い笑みを浮かべた。それから話している間に空になったアニマのグラスに、またワインをゆっくりと注ぎながら口を開く。
「と、お嬢さんにこんな愚痴をこぼしても仕方ありませんね。もうこの店も閉めようと思っております。お嬢さんのような綺麗な人に最後に飲まれて、このワインも幸せでしょう」「……残念ね」
 アニマが老人の言葉に、いつもの抑揚のない声で相槌をうった。だが老人に綺麗と言われた瞬間、彼女の頬に一瞬だけ赤みが差したのを俺は見逃さない。
(お前でも照れるんだな?)
 俺がすかさず突っ込むと、アニマは声に出さずに胸中だけで答える。
(馬鹿なことを言わないで。それにあなたは綺麗と言われて嬉しいの? この体はあなたのものなのよ?)
 冷静なアニマの逆突っ込みに、俺もそれはそうだなと妙に納得した。どうも俺の体や顔つきは、あの時を境に女性に近付いていっているようだ。シャイロックの言っていたように、ホルモンバランスの影響かもしれない。
 結局その後アニマが口を開くことはなく、やんわりとした静寂の中で彼女は老人が空になる度に注いでくれるワインを静かに飲み続けたのだった。俺が下戸なのにどうしてアニマはこんなにも酒が強いのだろうか。人格が入れ替わるだけで酒に強くなるとは、まさに生命の神秘である。そんなどうでもいいことを俺が考えているうちに、店の壊れた窓から差し込む日の光は、だんだんと暗くなっていったのだった……  


 ティルスの街のほぼ中央に位置する、領主の邸宅。巨大な敷地に大きく構えられたその邸宅は、高い壁に囲まれていて警備兵たちが定期的に巡回している。その警備兵たちが待機している邸宅の隣の小さな建物が、俺たちの目指す警備兵たちの詰め所だ。
 アニマは月の無い夜の裏路地を自在に駆け抜けながら、詰め所の見える路地の片隅で立ち止まった。そこから詰め所の様子をじっと見つめている。まるで凍り付いてしまったかのように、アニマの体は一切の動きを見せない。
(結構厳重だな。大丈夫か?)
「問題ないわ」
 俺の危惧に彼女は答えると、凍り付いていた体を霞ませた。アニマの体は白い残像となって、巡回の途切れたほんの一瞬の間に吸い込まれるように詰め所の敷地内に進入する。相変わらずアニマの脚力強化のアルカナは精度が高い。彼女は敷地内にある庭の草影に身を潜ませると、息を殺して手近にある詰め所の窓から中の様子を覗った。微かに窓から漏れた光のおかげで、部屋の中の様子がぼんやりと認識できる。うまいこと、その部屋には誰もいないようだった。それを確認した彼女は、軽く辺りを見回してから行動に移る。
(どうするんだ?)
 俺がアニマにそう尋ねた時には、彼女はすでに手にした短刀の柄で窓ガラスの一部を砕いていた。柄の部分が皮製のおかげで大して音は響かずに、窓ガラスに小さな穴をあける。アニマはそこから手を入れて窓の鍵を外すと、部屋の中にひらりと進入した。
 室内は警備兵たちの宿泊用なのか、やけに殺風景で装飾品の類は一切置かれていない。部屋の隅に置かれた2段ベッド以外に目につく物と言えば、使い古された小さなテーブルくらいだ。彼女は誰もいないその部屋を足音を殺して通り過ぎると、部屋の扉の前で立ち止まる。それからぴたりと扉に耳をつけて、外の様子を探った。物音は聞こえないし、人の気配も無い。アニマは扉をゆっくりと開けると、半開きの状態でもう一度外の様子を確認した。
(運がいいな。誰もいないみたいだぜ?)
 俺の言葉にアニマは軽く頷くと、部屋を出て通路に踊り出る。通路は閑散としていて、今のところ人の気配は見受けられなかった。おそらく領主の邸宅の巡回に、ほとんどの警備兵たちは出ているのだろう。アニマは人通りの無いその通路を、ゆっくりと歩き始めた。(おい、当てでもあるのか?)
「少しは黙ってなさい」
 迷いなく詰め所の中の通路を歩いていくアニマに俺が疑問を投げかけるが、彼女はそれに対してぴしゃりと言い放つだけで何も理由を言ってくれない。ただ黙々と歩き続けるだけだ。もしかしたら、ただ闇雲に歩いているだけなんじゃないのか。通路の左右への別れ道を、何のためらいもなく右に突き進んでいくアニマに俺がそんな危惧を持ち始めた時、数人の話し声が微かに俺たちの耳に届いてきた。話し声が漏れてきているのは、今いる通路から約5メートルほど先にある右側の大きな扉からである。彼女は今までほとんど響かせなかった足音にさらに注意を払って、その扉へと慎重に近付いていった。扉の前に立ったアニマが先ほどと同じように耳をぴたりと扉に付けてみる。だが鉄製の厚い扉のせいか、微かに漏れる声が何を言っているのかは、不明瞭でほとんど聞き取ることが出来ないようだった。
 彼女はしばらく扉の前で黙り込むと、おもむろに天井に目を馳せる。そこには通風孔の小さな入口が見えた。正方形の入口は鉄製の格子で覆われていたが、アニマ一人なら何とか侵入できる大きさだ。
(まさか……)
 俺が何か言いかけた時には、彼女はその場で高く跳躍していた。天井まではかなりの高さがあったが、脚力強化のアルカナを駆使したアニマにとっては造作もない高さである。鉄製の格子を掴んだ彼女は、ぶら下がったままその格子の隙間に手を入れて、裏側からゆっくりとそれを外す。そのまま通風孔の中にかけた方の手に力を込めると、ふわりと中に身を躍らせた。中は暗闇の上狭かったが、アニマは身を屈めるとするすると奥に向かって進み始める。まったく、東方のアサシン集団――忍者のように身軽な奴だ。
(あっちから、光が漏れてるな……)
 俺の言葉に応えたわけではないだろうが、彼女は通風孔の中に差し込む僅かな光の光源へと近付いていく。そこは先と同じ通風口の入口になっていて、格子の隙間から下の様子が覗えた。大きな長テーブルを挟んで、警備兵たちが何か話している。その警備兵たちの中には、あのタイモンの姿もあった。相変わらず偉そうにふんぞり返っているかと思いきや、彼は隣の大柄な人間の横で小さく身を縮めている。
(そんな!?)
 俺はその大柄な人間の顔を目にして、思わず心の中で驚嘆の声を上げた。鍛えられた巨大な体躯を鈍く輝く鋼鉄の甲冑で包み、腰には体に合わせたような巨大な大剣が差されている。白髪交じりの髪をオールバックで流した壮年の険しい顔には、額から右頬にかけて大きな傷跡がついていた。見忘れるはずが無い。俺の地底国での上官であり、剣の師でもあった将軍ゴーントだ。
 彼と他の警備兵たちの会話が俺たちの耳に入ってくる。
「総督、少女は言われた通り例の場所に監禁しておきました」
「御苦労。丁重に扱えよ、まだ年端もいかぬ少女だ」
「それは分かっておりますが…… あんな少女を捕らえて一体何をなさるつもりなのですか? 我々警備兵に対しての世間の目も、日増しに厳しくなっておりますのに」
「上からの命令だ。仕方あるまい」
「《堕ちし者》の討伐もせずに……ですか?」
「我々に課せられた任務は、それを成している自由兵の討伐だ。今は仕方あるまい」
 警備兵の言葉に答えたゴーントの顔に、苦渋の色が混じるのが格子越しに見えた。ゴーントはその警備兵の肩に大きな手を一度乗せると、部屋を後にしようとする。それから何かを思いついたように扉の前で立ち止まると、自然に顔を上に上げた。アニマの視線とゴーントの視線が瞬間、交差する。
(ゴーント……)
 ゴーントの壮年の顔に、喜びと悲しみが入り混じった複雑な笑みが浮かんだ。だがそれはほんの一瞬のことで、ゴーントはすぐに視線を元に戻すと扉を開いて部屋を出ていく。その後に続いて、他の警備兵たちもぞろぞろと部屋を出て行き始めた。部屋に誰もいなくなったのを確認して、アニマがゆっくりと口を開く。
「どうやら、気付かれていたようね」
(そうだな……)
 アニマの洩らした言葉に、俺は気の無い返事を返した。彼女は俺に気を使ったのかそれ以上は口を開かず、ただ黙りこくって人のいなくなった部屋を格子越しに眺めている。通風孔の中を通り過ぎる風のうねりが、やけに俺とアニマの耳朶を打っていた……















あとがき

 う〜む。なんだかな〜な「フォール・ハンター」第2弾です。
 伏線まとめるのがダルそうな予感です(爆)
 ま、とりあえず読んでくれれば嬉しいです〜♪
 感想まで頂けると、飛び跳ねます(笑)