フォール・ハンター 3
作:アザゼル






 フォースシーン「式の行方」

 ティルスの街の東エリア。スラム地区の片隅にある、荒れ果てた空き地。数年前まではスラム地区を無くそうと時の領主が開発を推し進めていたが、今の領主に変わった後、開発は即座に取り止められこういった何も無い空き地がスラムには多く残った。建設予定であった名残であろうか、鉄柱や木材が無造作に置かれたままの空き地はどことなく荒涼として寂しい感じがする。時の流れの残滓は、今ではスラムの貧しい人間や、それを餌にしている《堕ちし者》の棲家と化していた。実際ここに辿り着くまでに、すでに何体かの《堕ちし者》をフェステは屠ってきている。だがその屠った《堕ちし者》以上に、殺された多くのスラムの人間がいたのも事実だった。
(酷い場所ね、ここは)
 私が素直な思いを言葉にするが、フェステはそれには何も答えない。空き地の中ですぐにでも抜刀出来るように腰の鞘に手をかけながら、対峙する警備兵たちを殺気を放った目で睨めつけているだけだ。警備兵の中にはタイモンやあの大柄な壮年の男――ゴーントの姿もある。警備兵たちの後ろには縄で縛られたエミリアの姿もあった。フェステをこの場所まで呼び出したのはもちろん、彼ら警備兵たちである。フェステの視線は他の警備兵やエミリアには向けられず、ただ真っ直ぐにゴーントに向けられていた。その表情はかつてないほどに、険しい。
「ゴーント……何であんたが、こんな所にいるんだ?」
 押し殺した静かなフェステの声が、ゴーントに向けられる。その声は静かではあったが、隠し切れない憤怒の色に塗れていた。この男とゴーントにどんな因果関係があったか私には分からないが、よほどの確執があったのは間違い無いようだ。
 ゴーントはフェステの問いかけには答えず、ゆっくりと腰の大剣に手を伸ばす。壮年の傷のあるその顔に、言いようのない哀しみの色が広がり、それは一瞬で掻き消えていった。壮年の顔に残ったのは、ただひたすらの無表情である。大剣がゆっくりと、鞘から引き抜かれた。
「お前など知らんな。我々警備隊に抗うつもりなら、ここでおとなしく死んでもらおう」 ゴーントの言葉を引き金に、フェステも短刀を鞘から引き抜く。だがその顔にはまだ、途惑いの色が見え隠れしていた。二人は睨み合ったまま、お互いぴくりとも動く気配を見せない。手にした短刀と大剣の先端が微かに動いているが、他の警備兵たちのような普通の人間にはその微かな動きなど見えるはずもないだろう。二人はお互いの間合いを、その剣の先端の微妙な動きで計っているのだ。実際、見えない宙で二人の剣は幾度か交わされている。
 その時、空き地の中に一陣の強烈な風が吹き荒んだ。
 ゴーントが、舞い上がった砂埃に軽く目を細める。と同時に、フェステの体は吹き荒んだ風よりも速く動いていた。全ての視界から消え失せたフェステが次に現れたのは、ゴーントの頭上だ。容赦無く振り下ろされたフェステの短刀と、それに向かって振り上げられたゴーントの大剣が火花を散らしてぶつかり合う。剣戟を繰り出したのはゴーントの方が遅かったが、膂力が桁違いだった。下からの剣圧で弾き飛ばされそうになる直前に、フェステは体を反転させるとゴーントの背を蹴って自ら間合を取る。
「ゴーントぉ! なんで……なんであんたまで地上世界に出てきてんだよ!?」
 着地した場所に降り下ろされたゴーントの大剣を僅かな動きでかわしながら、フェステが吠えた。大剣は地面に深々と突き刺さり、地が割れ爆風が起こる。普通の人間では考えられない力だ。おそらくゴーントという男も、アルカナの恩恵を受けた人間なのだろう。フェステの言葉に、ゴーントの動きが一瞬止まった。そのゴーントに向けて、フェステがさらに言葉を吐き続ける。
「あんたが出てきちまったら、いったい誰が天帝の野郎を止めるんだ!!」
「……俺にも守る者がいる」
 フェステの言葉にゴーントは短くそう答えると、大剣をゆっくりと構え直した。切っ先をフェステに向けたゴーントは、間合の外から彼に狙いを定めて鋭い突きを放つ。大気がうねりを上げ、突きの余波で生じた真空が地を削りながらフェステを襲った。すさまじい突きである。
「俺との約束を忘れたのかっ!?」
 真空波はフェステの顔や腕、体の至る所を浅く切り裂いていくが、寸でのところでかわしているため致命傷には至らない。フェステはすさまじい形相でゴーントを睨つけ吠えると、連続で繰り出される突きの隙を縫ってゴーントに接近した。接近戦に持ち込めばリーチの短い短刀を操るフェステの方に分がある。
「あんただけだったのにっ! ハーミアに裏切られた俺が信じられる奴は!!」
 だがフェステが叫びながら繰り出す超接近戦での苛烈な剣技を、ゴーントは巨大な大剣を僅かに動かすだけで軽く捌いていた。見る者が惚れ惚れするような剣の技術だ。ゴーントは肩口を狙って縦に切り付けられたフェステの短刀を、大剣の鞘の部分で受け止めると、そのまま力任せにフェステを体ごと弾き飛ばした。
「ハーミアはお前を裏切ってなどおらんっ!!!!」
 弾き飛ばされ地面に片膝をついたフェステに、ゴーントの怒声が浴びせられる。さっきまで無表情だったゴーントの顔は、言い表せぬ憤怒の色で赤く染まっていた。ゴーントの突然の怒りに、フェステは一瞬呆けたような表情を作る。そのフェステに対して、ゴーントはさらに言葉を続けた。大剣の切っ先は、すでに地面を向いている。
「……ハーミアは、お前のことを逆に助けたのだ。だからお前は今でも死なずにすんでいる。あの子は式を盗んだお前の……」
「黙れっ!!!!」
 ゴーントの話を途中で遮って、フェステは地面を蹴ると超高速で彼に切りかかった。その速度は先程までのフェステのとは段違いの速さだ。短刀がゴーントの右の脇腹に向けてすさまじい速度で薙ぎつけられる。一瞬反応の遅れたゴーントだったが、大剣を即座に構え直すと短刀を辛うじて受け止めた。だがその次の瞬間には、ほぼ同時と言っていいほどの速度で反対から短刀が薙ぎつけられている。流石にそれを捌くことは出来ず、ゴーントの左の脇腹が切り裂かれ鮮血が迸った。
「……裏切ったんだよ、あいつは。婚約者であったこの俺をっ!!!!」
 吐き捨てるように言うフェステの顔は、激しく歪んでいた。怒りでも悲しみでもない――絶望を知った者の顔だ。
 その時、フェステは気付かないみたいだったが、私は縛られているエミリアがゴーントと同じようにフェステを憤怒の形相で睨み付けているのに気付く。それが何を意味しているのか私が思いを巡らせる前に、今度はゴーントが動いていた。脇腹の傷は決して浅くは無いはずなのに、その動きにはいささかの揺らぎも無い。大剣を手にしている筋肉隆々の腕が、さらにはちきれんばかりに膨れ上がった。どうやらこの壮年の男の持つアルカナも、フェステの脚力強化のアルカナと同じく肉体の一部を瞬間的に強化するものらしい。丸太のように膨れ上がった手に大剣を握り締め、ゴーントがフェステとの間合いを詰める。フェステに向けて振り下ろされる大剣が、大気と擦れ合い轟音を撒き散らした。
「あの子は今でもお前の代わりに苦しんでいるのに、お前はどこまで甘える気なのだっ!!」
 発した声と共に、振り下ろされた大剣がフェステの正面の地面に突き刺さり、信じられないことに大地を陥没させた。こんなものをまともにくらえば……フェステの体など粉々に粉砕されてしまうだろう。だがフェステは陥没した大地には目もくれず、呆気にとられた顔でゴーントを見つめ返している。隙だらけになったフェステに、ゴーントが今度こそ狙いを定めて大剣を振りかざした。フェステは呆然としたままで、振りかざされる大剣を虚ろな瞳で眺めている。
(フェステ!!!!)
 私は、ぼんやりとしたまま立ち尽くすフェステに向かって叫んだ。
「きゃぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!」
 その時、エミリアの天を裂くような悲鳴が空き地の中に木霊する。それはこの間のふざけたような叫び声ではなかった。
 ゴーントが、なぜかその悲鳴に過剰に反応を示す。悲鳴の上がったところには、鋭利な何かで切り裂かれた警備兵たちの無惨な死体と、そこに立ち尽くす白髪の男シャイロックの姿があった。彼は煙草を口に咥えたまま、エミリアを物のように肩に担ぎ上げて、フェステとゴーントの方に下卑た笑みを向けている。他の生き残っている警備兵たちは、突然現れて仲間を惨殺したシャイロックから後ずさるように身を離していた。
「エミリア!!」
「ゴーント伯父ちゃん!!」
 ゴーントの叫び声に、シャイロックの肩に担がれたエミリアが泣きそうな声で答える。どうやら、エミリアとゴーントは顔見知りらしい。ということは、今回フェステを警備兵たちが呼び出したのはやはり仕組まれていてことだったのだろうか。まぁ、今はそれどころではないのだが。
「シャイロック、貴様……何のつもりだ!?」
 ゴーントが悠然と佇むシャイロックに、声を荒げて叫ぶ。フェステに向けられていた大剣は、すでにその切っ先をシャイロックに変えて構え直されていた。
「ククク……《空間歪曲の式》を手に入れて来いという、天帝の密命でね。こればっかりは、上官であるあんたの命令でも聞けねえなぁ!?」
 向けられた大剣を、細い目を三日月の形に歪めて見据えながらシャイロックが答える。それから肩に担いだエミリアの方に顔を向けると、下卑た笑みをよりいっそう深めてさらに言葉を続けた。エミリアは必死で顔を背けようとするが、頭のところを押さえられていてそれすらも出来ない。
「こんな小娘に式が隠されてたとは……ハーミアの奴、やってくれるぜぇ」
「シャイロックっ!!!!」
 大剣を構えたゴーントが、シャイロックに向かって駆けた。巨大な体躯は意外なほどの俊足で、空き地の中をシャイロックめがけて疾走する。
「クク……あんたと、ここで戦うつもりはねぇよ!!」
 咥えた煙草を吐き捨てながらそう言うと、シャイロックは駆けてくるゴーントに余裕の笑みを浮かべたまま手のひらを差し向けた。向けられた手のひらから発生した、例の不可視の攻撃波がゴーントを襲う。だがその攻撃を予測していたのか、ゴーントは軽く身を捻っただけでその不可視の攻撃をかわした。不可視の攻撃波はゴーントの横をすり抜け、さっきから呆然と突っ立ったままのフェステを今度は襲う。
(何をしてるの、フェステ!!!!)
 私の荒げた声に、フェステの瞳にやっと光が戻った。だが……もう遅い。不可視の刃は深々とフェステの左肩を切り裂いていく。吹き出した鮮血が、フェステの頬をべっとりと濡らした。
「くぅっ!」
「フェステ!!!!」
 ゴーントが、肩を切り裂かれて倒れたフェステの方を振り返る。その隙にシャイロックは、来た時と同じように何人かの警備兵を惨殺しながら空き地から掻き消えた。
「追え!! あいつを逃がすなっ!!!!」
 ゴーントがシャイロックの消えた方を指差して、生き残っている警備兵たちに命令する。警備兵たちは怯えながらも、それでも上官の命令とあってすぐにシャイロックを追いかけ始めた。
 寂れた空き地に肩を押さえてうずくまるフェステと、ゴーントだけが取り残される。ゴーントは倒れ伏したままのフェステをちらっと一瞥すると、ゆっくりと口を開いて言った。「……ハーミアは、お前を裏切ってなどいない。それだけは真実だ……」
 言い終えると、ゴーントは用は済んだとばかりに警備兵たちの後を追って空き地を出ていく。
 一人残されたフェステは、胸中で何を思うのか、ただ黙ってゴーントの消えた方を眺めていた。空き地に、虚しく乾いた風が吹き荒れる。フェステはその風に僅かに目を細めると、傷付いた肩を握り締める手に力をこめた。止まりかけていた血が吹き出し、傷口を押さえていたフェステの指の隙間から滴り落ちる。
(…………)
 私はフェステにかける言葉も思いつかず、ただ黙っていることにした。時だけがゆったりと流れ過ぎ、日が暮れかけるまでフェステはその場所に、ただ静かに佇んでいたのだった……


 フィフスシーン「堕落の支配する街」

 宿屋に戻ったフェステは、バーのカウンターで傷付いた肩をダンカンに治療してもらっていた。ダンカンに傷の手当てを受けているフェステの顔が暗く沈んでいるのは、傷の痛みのせいだけでは無いだろう。
「ほら、こんなもんだろ。しばらくはまともに動かんかもしれんが、問題は無い」
 ダンカンがそのフェステを気遣ってか、肩に包帯を巻き終えると明るい声で言った。フェステは豪気な笑みを浮かべるダンカンに、無理に笑みを作ると小さく頭を下げ席を立つ。「あの子はどうした?」
 さっさとバーを出ていこうとするフェステの背に、ダンカンが何気なく言葉を放つ。それは今、フェステが一番触れられたくないところだろう。バーの入り口の扉に手をかけながら、フェステはダンカンの方を振り返らずに言葉だけを返した。
「……守れなかった」
 後悔と苦渋が入り混じった短い言葉を吐き捨て、フェステはそのままダンカンの言葉も待たずにバーを出ていく。何か言葉を返されるのが、怖かったのかもしれない。バーを出たフェステは自分の部屋に戻ると、簡易ソファーに腰を下ろして深い溜息を吐いた。
(これからどうするの?)
「さあな――」
 私のかけた言葉にフェステはぞんざいに答えると、テーブルの上に置かれたグラスに、冷えてないガラス瓶の中の水を注ぐ。水の並々と注がれたグラスに僅かに口をつけると、フェステはもう一度溜息を吐いた。
「なぁ? 俺は弱くなったのか?」
 誰に言うでもなく――もちろん私に言っているのであろうが、フェステが呟く。この男にしては珍しい弱音に、私は思わず押し黙ってしまった。フェステが弱いかと聞かれれば、間違いなくこの男は強い。ただ、それは普通の人間を相手にしている場合に限りだ。シャイロックやゴーントのようなアルカナの力を使うアデプターを相手にすれば、ほんの僅かな力の差が勝敗を分ける。そしてそれは、男としての力を無くしたフェステには厳しい現実だった。
(そんなことはない。とか言って慰めて欲しいわけ?)
 私の口から出たのは、嫌味としか聞こえない台詞だった。それに対してフェステは力無く笑うと、首を横に振る。それからグラスに残った水を半分ほど喉に流し込んだ後、静かに口を開いた。
「いや……悪かった。何でもねーよ」
 言いながらフェステは立ち上がると、大きく伸びをする。華奢な体を折れそうなほど曲げて深呼吸した彼は、顔に不敵な笑みを浮かべた。いつもの彼の表情に、私は思わずほっと胸を撫で下ろす。どうしてだかは分からない。或いは彼と体を共有しているがために、フェステの不安が直接私にも響くせいなのかもしれない。
 フェステは部屋の隅に投げ捨てた白いジャケットを羽織ると、鞘から短刀を僅かに覗かせてその煌きに軽く頷いた。
(どこに行く気?)
「取り敢えず、警備兵の詰め所に行く。ゴーントに話をしになっ!」
 私の言葉に、鞘から出した短刀を収めながらフェステが答える。その顔に浮かんだ不敵な笑みに、私は今度は不安を覚えた。この男が大人しく話をしにいくとは思えない。厄介なことにならなければいいが。
 そんな私の不安などお構いなしに、フェステはさっさと部屋を出ようと扉に手をかける。その時、扉が外側から強く開けられた。おかげでフェステは扉に鼻をぶつけて、低く呻き声をあげる。
「お兄ちゃんっ!!!!」
 現れたのはこの間スラム街で《堕ちし者》に襲われていた、姉弟の弟の方だった。確か名前は……ハリーとか呼ばれていたような気がする。ハリーは頬のこけた血色の悪い顔をさらに青くして、入ってくるなりフェステに抱きついた。ハリーの金色の髪が、ちょうどその位置にあったフェステの顎をふわりと撫でる。
「どうしたんだっ!?」
 だがそんなことにはまるで頓着せず、フェステはハリーの両肩を掴むと優しく引き離して尋ねた。……何か、そんなフェステの様子を見ていると厄介事が雪だるま式に増えるのも不思議で無くなってくるのは、私だけだろうか。
 ハリーは心配そうに見つめるフェステの顔を見上げると、何か言おうと口を開きかけた。だがすぐに口を閉ざすと、小さな体を微かに震わせ押し黙ってしまう。何か言いたいことがあるが、言うことは出来ない――そんな感じだ。
「俺に用があるんだろ?」
 フェステがもう一度優しく尋ねると、ハリーは何かを決心したようにゆっくりと口を開く。まだ声変わりをしていない甲高い声で、彼は哀願するように言葉を紡いだ。
「お兄ちゃんに……話があるんだって……だから、来て欲しいんだ……」
「話? 誰が?」
 ハリーの言葉にフェステは首を傾げると、不思議そうに聞き返す。
「お姉ちゃん……」
 それだけ答えると、ハリーは下を俯いてまた押し黙ってしまった。私は直感的にハリーが何か大切なことを隠しているのに気が付いたが、私が何かを言う前にフェステは大きく彼に向かって頷いている。だから、私は何か言うのを止めた。どうせ言ってもこの男がハリーの頼みを断るとは思えなかったからだ。
「で、どこにお前の姉さんはいるんだ!?」
「……本当に来てくれるの!?」
 フェステの言葉にハリーは顔を上げると、驚いたようにフェステの顔をまじまじと見つめて言った。碧眼が驚きと喜びのためにキラキラと輝いている。まぁ、一度しか会ったことの無い人間の限りなく怪しい頼みをにべもなく了承されたのだから、そういう反応が普通なのだが。当の本人は、そんなハリーの様子に逆に不思議そうに聞き返した。
「当たり前じゃねえか? さ、姉さんのいる場所を教えてくれ」
「……僕に付いて来て……」
 ハリーはフェステの当然というような顔から、逃げるように顔を背けると彼の言葉も待たずに走り出す。
 走っていくハリーをフェステはしばらく呆然と見送った後、何か釈然としない面持ちで、それでも彼の後を追いかけ始めた。もちろん彼の走る速度は常人の比ではないので、すぐにハリーに追いつく。だがハリーが俯いたままなので、フェステは声をかけることも出来ずに彼の横を走り続けるしかなかった。宿屋を出た二人はそうして無言のまま、街を奔走する羽目になる。
 走る二人を見据えながら、私は不安が確かなものになる手応えだけを確実に感じ取っていたのだった……


 ハリーが連れてきた場所はスラムのさらに奥深く、まだ日も落ちていないのに薄暗い、路地の奥の少し開けた場所だった。開けていると言っても、この間の空地みたいにきちんと空間があるわけではない。ただスラムの入り乱れた路地が、そこで僅かに途切れているに過ぎない場所。停滞し澱んだ空気と、陰惨とした暗い雰囲気が充満したこういう場所は、《堕ちし者》が好む場所だ。
 案の定フェステたちは今、囲まれていた。フェステとハリーの上空を取り囲むように旋回する、黒い影。黒い影はずんぐりとした体に、蝙蝠の翼を生やしていた。《堕ちし者》の中級魔属、インプだ。別名悪臭のインプと呼ばれているこいつらは、名の通り口から体の中で生成した特殊な腐敗臭を放ち生物の動きを緩慢にするという特性を持つ。緩慢にされた後はもちろん……彼らの餌になるという笑えない結末が待っている。ずんぐりした体型からは想像しにくいが意外に俊敏で、なかなかの強敵だ。
「まさか……こいつらじゃねえよな、お前の姉さん?」
 フェステがそのインプの群れを見上げながら、ハリーに向かって軽口を叩く。いや、それは本気で笑えないだろ……
 そのフェステの余裕綽々の態度が気に食わなかったのかどうかは分らないが、インプたちは猛然とフェステ達に向けて急降下してきた。ずんぐりした体型には不似合いな、奇妙に細い腕の先の鋭い爪が二人を狙って妖しく輝く。フェステたちの眼前まで迫ったそいつらは、しかしそこで急に動きを停止させた。巨大な、それでいてのっぺりとしたそいつらの顔が一斉に大きく膨張する。
「ハリー、伏せろっ!!!!」
 叫びながらフェステはハリーの頭を押さえ付け、同じように自分も地面に身を伏せた。ほぼ同時に、二人の頭上をすさまじい臭気が通り過ぎていく。フェステの長い黒髪が微かに臭気に触れ、ぱさぱさと先端の毛を焼き落としていった。だが焼け落ちた髪が地面に到達する前に、フェステはすでにその身を動かし始めている。まず狙いをつけたのが、ハリーに向けて細い腕をしならせ接近するインプだ。左手が動かないため右手だけで構えた短刀を、そのインプの顔面めがけて突き上げる。短刀はのっぺりとしたインプの顔面を捉え、右目から深々と脳内を刺し貫いていった。どろりとしたインプの脳漿と血液が、シャワーのように振りかかり下にいたフェステの体を濡らす。もちろんそんなことでは頓着せず、フェステは死角から近付いてきていたもう一体のインプを視界の端に捕えると、体を反転させてそいつに強烈なソバットを食らわした。吹っ飛んだインプに一瞬で詰め寄ると、容赦無い短刀の一撃で止めを刺す。インプの最後を確認して、フェステの口の端が微妙に吊り上がった。……どうやら、落ち込んでいたことはすっかり忘れたらしい。単純な男である。
「もう終わりかっ!?」
 フェステが空に舞い戻ったインプたちを睨み付けながら叫ぶ。仲間を一瞬で二体も葬り去られたインプたちは、流石に牽制したように上空に戻ってこちらの様子を覗っていた。多少の知恵があるところは、流石に中級魔属という訳か。
「――流石ね。堕落を狩る者と呼ばれるだけはあるわ」
 その時、フェステの後ろから透き通るような女性の声が響いてきた。さっきまで、そこに人間がいた気配は無い。
 突然の声にフェステは、牽制していたインプたちのことも忘れて後ろを振り返った。清楚な白い絹の衣服に身を包んだ、熟女というには若い女性がそこにただ静かに佇んでいる。褐色の肌と銀髪のその女性は、誰もが息を飲むほどの美しい顔立ちをしていた。だがその美しさは、見る者を凍らせるような凛とした緊張感も同時に放っている。
(フェステ……この女……)
「分ってる。《堕ちし者》なんだろ?」
 すでに上空で旋回するインプたちには目もくれず、フェステは眼前の女に短刀を構えたまま私の言葉に答えた。その通り、この女は《堕ちし者》だ。その証拠に女の体からは、《堕ちし者》特有の嫌な瘴気が肌に感じれるほど放たれている。ちりちりと肌を焼くような瘴気が、女が恐ろしいほどの力を持った《堕ちし者》の、しかも上級魔属であることを示していた。
「おねぇちゃん!!!!」
 ハリーがその女に向かって叫ぶ。いや、正確には女の後ろで倒れている一人の赤毛の少女に向かってだろう。地面に倒れ伏している赤毛の少女は、だがハリーの呼びかけにもぴくりとも体を動かさない。微かに吐息の漏れる音が聞こえてくるため、死んでいる訳ではないようだが。
「お前……その子に何をしたんだっ!?」
 フェステが構えた短刀を突き付けて、女に向かって吼える。
「レディーに向かって失礼な口の聞き方ね。見かけと違って粗野な男……」
 だが女は向けられた殺気を軽くいなし、その細い四肢をくねらせると微笑みながら言い返した。そこには明らかな嘲りの色が見て取れる。女は深紅の唇に微笑みを浮かべたまま、さらに言葉を続けた。
「私の名はグリール。この街では、領主クレシダで通っているわ。この子には何もしてないわよ? 殺してしまったら、あなたを誘き寄せる餌にならないものね」
「てめぇ!!!!」
 女――グリールの挑発に、フェステは体全体から殺気を惜しみもなく放ちながら叫ぶ。それにしても……《堕ちし者》が領主として治める街とは、ぞっとしない話だ。この女の姿をした《堕ちし者》が偽装して領主となっているのならば、警備兵たちが《堕ちし者》を黙視し逆に自由兵を駆逐するという愚行に出ていることにも納得がいく。つまりはこの女が何もかもを後ろから操って、《堕ちし者》が住み易い土地を作ってきたって訳だ。
「あなたが来たら、この子はもう用済みね――」
 グリールはフェステに一瞬笑みを向けると、倒れている赤毛の少女の頭を掴んで軽く持ち上げる。それから物を投げ捨てるみたいに、フェステに向けて少女を放り投げた。
「!?」
 ハリーが声にならない声を上げる。
 投げ捨てられた少女は宙を舞って、フェステの両腕の中でしっかりと受け止められた。
「……殺してやる」
「え? お兄ちゃん……!?」
 受け止めた少女を優しくハリーに渡しながら呟いたフェステの言葉に、ハリーがどきっとしたように彼の顔を見上げた。その顔に浮かぶ、殺意で塗り固められた表情を見てハリーは今度はぞっとする。
 フェステは短刀を腰の鞘に戻すと、もう一つぶら下げていた普段は使わない方の短刀を抜き放った。何を材質にしているか分らない黒い刀身が不気味な輝きを放つその短刀は、アンサラーと呼ばれるフェステの切り札の一つだ。地底国で誰かから譲り受けたと聞くそのアンサラーは、別名応酬の剣とも呼ばれ、自らの命を代価にし爆発的な威力を発揮することにより《堕ちし者》の上級魔族にもダメージを与えることが可能な代物らしい。らしいというのは、私もフェステがそれを使っているところを未だ見たことが無いからだった。
 アンサラーを抜き放ったフェステは、グリールとの間合いを詰めようとじりじりと慎重に動き始める。その時、駆け出そうとするフェステのジャケットの裾をハリーが掴んだ。振り返ると、ハリーは申し訳なさそうな顔でフェステの顔を見上げている。
「ごめんなさい、お兄ちゃん……話があるってのは嘘だったの。お兄ちゃんを連れていかないと、へレナお姉ちゃんを殺すって言われたから……だから……」
「……気にするな。どうせ、こいつは俺に用があったんだ」
 フェステはグリールを見据えたまま答えると、頭を下げて謝るハリーの金色の髪を優しく撫でてあげた。まぁ、実際その通りなのだが……どうやらこの男、本気で上級魔属を葬るつもりらしい。《堕ちし者》の中でも上級に位置する者たちの強さを知らない訳では無いはずなのだが。いつかもフェステ自身が言っていたように、上級魔属は滅多に人の前には姿を現さない。なぜなら、出会ったが最後……それは直接死を意味するからだ。
(フェステ……逃げないの?)
 私はすでに戦闘態勢に入っているフェステに、無駄と分りながらも一応聞いてみる。
「逃げる? ふざけるなよアニマ。こいつらが人間にとっての死の象徴なら、俺はそれに死を運ぶ死神だぜ? せっかく招待していただいたんだ。俺がここでこいつを殺さなきゃ、俺が地上世界にいる意味がねえ!」
 案の定フェステは私の言葉に声を荒げて答えると、アンサラーを構え直してグリールを睨みつけた。
 対峙するグリールは、綺麗な顔に相変わらずの余裕の笑みをたたえたまま、睨みつけてくるフェステをただ見つめている。フェステがどう動いても、自分には傷付けることすら叶わないと確信しているのだろう。見た目には隙だらけだ。
「どうしたのかしら? じっとしているだけでは、私は殺せないわよ?」
 グリールが嘲るように言った。それを皮切りにフェステの体が白む。一瞬でグリールとの間合いを詰めたフェステは、そのまま有無を言わせずに左胸をアンサラーで貫いた。と同時に、フェステが吼える。
「うおぉぉぉぉぉぉぉ!!!!」
 フェステの体が燃えるように熱くなっていく。それに呼応するように、アンサラーの黒い刀身が眩い光を放ち始めた。
「ぐうぁぁぁぁ!?」
 グリールが断末魔の叫び声をあげる。それでもフェステはアンサラーを抜き放とうとはしない。さらに深くアンサラーをグリールの体の中に押し込み、力を解放させた。黒い光がフェステとグリールの体を柱状に包み込み……光が収まった後には、地面に倒れ伏すグリールとそれを見下ろし立ち尽くすフェステが現れる。
(やった……の?)
 私は青い顔で立ち尽くすフェステに、期待を込めて尋ねた。フェステはだが粗い息を吐いて、地面に倒れ伏したグリールを黙って見つめるだけで何も答えない。顔色が悪いのは、アンサラーに力の代価として精神を削られたせいだろう。
「……なかなか……ね。流石は応酬の剣……かなり効いたわ……」
「馬鹿なっ!?」
 ゆらりと身を起こし呟くグリールに、フェステが驚嘆の声を上げた。身を起こしたグリールは纏っていた白い衣服が僅かに汚れているだけで、さしてダメージがあるようには見えない。効いていないとでもいうのだろうか……
「でも所詮は効いただけ。私を滅ぼすまでとはいかないようね。さてと……」
 衣服に付いた汚れを払い落としながら、グリールはフェステに先程までとは違う凍るような笑みを差し向けた。紅い唇が、美しい顔を裂くように三日月の形に歪む。見る者の心まで凍りつかせてしまうような笑みに、フェステの体が僅かに硬直した。
「そろそろ、食事の時間だわ――」
 呟くと同時にグリールの体全体が波打ち始め、銀色の突起物が細い四肢から幾本も出現する。元が絶世の美女なだけに、それはすさまじく不気味な光景だ。銀の突起物はまるでそれ自身に意思を持っているかのように、グリールの体の周囲を不規則に蠢いている。その内の一本の突起物が、フェステの方に向けられると同時に襲ってきた。銀の突起物にどれほどの威力があるかは分からないが、食らって試そうとは思えない。
「ちっ!!」
 フェステは軽く舌打ちすると、身をひねって銀の突起物の攻撃をかわした。だがすぐさま第2第3の突起物が、身をひねって不安定になった状態のフェステに襲いかかってくる。……今度はかわしている暇は無い。一本の突起物が、すさまじい勢いでフェステの左腕を貫いていった。腕を貫いた銀の突起物はそのまま勢いを殺すことなく、フェステの後ろにあった壁にめり込んでいく。
「ぐぅ……」
 壁に磔にされる形となったフェステは、低く呻くとグリールを憎悪の眼差しで睨み付けた。それから苦い笑みを浮かべると、左腕を貫いている突起物を反対の手で強引に抜き放つ。貫かれていた個所から鮮血が溢れ出し、一瞬でフェステの腕を真っ赤に染めた。
(逃げるのよっ!!!!)
 私がもう一度警告するが、腕を真っ赤に染めたフェステはすでに聞く耳を持っていない。ただグリールだけを見据えると、アルカナの力を使ってその場から姿を掻き消した。一直線にグリールに向けて間合いを詰めるフェステに、グリールの笑みがさらに深まる。
「がぁぁぁぁ!!!!」
 次に姿を現したフェステの体中には、グリールの銀の突起物が幾本も突き刺さっていた。フェステの絶叫が、辺りに木霊する。まさか……あの速度のフェステに攻撃を容易に当てるとは。やはり上級魔族を相手にするのは危険過ぎたか。
「ふふふ。いいわぁ、貴方の苦痛に歪む顔と叫びが、私にとっての最高のごちそうよ?」
 銀の突起物に貫かれ宙に持ち上げられたフェステに、グリールが恍惚とした笑みを向けて言った。
 フェステの胸元に飾られていた銀のロザリオが、先の突起物の攻撃で鎖をちぎられたせいで地面に落ちる。と同時に、フェステは白目を向くと気を失ってしまった。おそらく出血が多過ぎたせいだろう。フェステの体を貫いている銀の突起物を伝って、赤い血が地面に小さな溜池を作っていた。フェステの意識が確かなら、この状況はむしろ好都合なのだが……今はそんなことも言ってられない。
(代わるわよ――)
 私は一方的に言い放つと、自分の意識を表に覚醒させた。意識を失ったフェステの人格が眠りにつき、私の人格がフェステの体を支配していく。徐々にはっきりとしてくる感覚が体全体を包み込んでいくのを感じながら、私はゆっくりと瞳を見開いたのだった――















 あとがき

 やっと出来ました〜♪ 「フォール・ハンター」3作目です。何だかキャラが出てき過ぎて、アザゼル伏線まとめれるのかよ〜てな感じですが、おそらく計画通りなハズです(爆)
 ここまででようやく折り返し地点一歩手前です。読んでくれると、いと嬉です。ではでは……