フォール・ハンター 4
作:アザゼル





シックスシーン「因縁はどこまでも」

 ティルスの街の地下には、網目状に下水道が無数に張り巡らされている。過去には街の生活排水を処理していたその下水道は、だが今では全て封鎖されただの地下空洞と成り果てていた。停滞した水は澱み、腐敗した大気は《堕ちし者》を呼ぶ。おかげで今では《堕ちし者》の格好の棲家となっていた。
 天井を覆い尽くす蜘蛛の巣と、じめじめとした湿った空気。部屋の隅では使われなくなった錆びついた下水道の管理機器が、所狭しとひしめいている。ティルスの街の地下にある下水管理室。そこに俺たちは、グリ−ルから逃れてやってきていた。とは言っても、その間俺は完全に意識を失っていた訳で、どういう経緯でここまで辿り着いたのかは分からないのだが。
「やっと意識が戻ったようね」
(……あぁ、すまない)
 アニマの言葉に俺は、まだはっきりとしない意識をまとめながら何とか答える。
「謝ってもらわなくてもいいわ。どうせあなたの無鉄砲は、今に始まったものでも無いんだし」
 膝を抱えながら管理室の扉の前に座っていたアニマが、いつもの如く抑揚の無い声で言った。体は満身創痍だというのに、辺りを見据える瞳だけは異様に鋭い輝きを放っている。そのアニマの放つ殺気に怯えてか、今のところ《堕ちし者》は姿を見せてはいない。相変わらず表情を表にしないせいか何を考えているか分らないが、こういう時は頼りになる奴だ。
(ハリーとあの子はどうしたんだ?)
「奥にいるわ。ハリーはヘレナの看病をしているみたいね」
 俺の疑問に、アニマは視線を管理室の中に移すと答えた。なるほど、だからここでアニマが番をしているって訳か。俺は納得すると、ふとアニマの胸元に目を落とした。そこにはいつも飾られているはずの、俺の銀のロザリオの姿が見えない。
(ア、アニマ! 俺のロザリオは!?)
 俺が焦ったように聞くと、アニマはふと考え込んで、それからゆっくりと首を横に振った。
「……逃げるので、精一杯だったわ」
 アニマの言葉に俺は一瞬、我も忘れて愕然とする。あのロザリオは、俺の地底国での婚約者に貰った大切な物だ。彼女には結果的に裏切られてしまったが、過去の思い出を唯一風化させることの無い代物として俺は肌身離さず身に付けていた。
(そうか……)
 俺が力無く答えると、アニマはジャケットの胸ポケットの辺りをごそごそと探し始める。それから何でも無いような仕草で、ポケットから鎖のちぎれたロザリオを取り出した。
(……!?)
「あら? こんな所に入ってたわ」
 アニマの白々しい言葉に、俺は虚を突かれた感じで呆然とする。それから彼女の手の中のロザリオを見て、ほっと安堵の溜息を吐いた。
「……未練がましい男ね」
(ほっとけ!)
 俺の突っ込みに、アニマは口の端に薄い笑みを浮かべる。前言撤回。嫌味な奴である。まぁ、未だに彼女を引きずっている俺も俺なのだが。
「お兄ちゃん……?」
 その時ヘレナを看病していたハリーが、管理室から出てきてアニマに声をかけた。どこかおどおどとした感じなのは、アニマの雰囲気が俺とは全く違うからだろう。
「どうしたの?」
 アニマが、出てきたハリーに顔も向けずに尋ねる。
「ごめんなさい、お兄ちゃん……僕のせいでそんなに怪我させちゃって……」
「いいわよ別に。どうせ、私を狙ってきてたんだしね」
 ハリーの言葉に、本当にどうでもいいといった感じでアニマは即答した。ハリーがアニマの返答を聞いて、不思議そうに首を傾げる。そりゃそうだろう。いきなり俺が女言葉で喋っているんだから。
「お兄ちゃん……!?」
 ハリーは小走りでアニマの前に回り込むと、彼女の顔をまじまじと眺めて口を開く。碧眼が旧下水道の暗闇の中でアニマの姿を、きらきらと見据えていた。
「あぁ、私の口調のことね――」
 ハリーの碧眼に目を遣りながら、アニマが思いついたように頷く。それに呼応するように、ハリーも大きく頷いた。アニマの表情に一瞬、苦い笑みが走る。
「……私はアニマよ。私は彼の中のもう一人の人格。この呪われた体が生んだ、呪われた意識。それが私よ――」
「?」
 もちろんそんなぞんざいな説明でハリーが理解できるはずもなく、彼はさらに首を傾げると腕を組んで旧下水道の天井を難しい顔で睨んだ。そのハリーの視線に怯えたのかどうかは分らないが、数匹の黒光りする虫がごそごそと天井を移動していく。
「まぁ……簡単に言えば、時々私はオカマになってしまうってことかしら」
 天井を移動していく虫を目で追い始めたハリーに、アニマがとんでもないことをさらっと言った。
(おいおい……それは違うだろ)
「あ、そうなんだ」
 俺の反論も虚しく、ハリーは妙に納得した顔でアニマの方を振り返る。そのハリーにアニマも軽く頷いて見せた。確かに分かり易く言えばそうかもしれないが……もう少し言いようがあるだろう。
「あ、ヘレナお姉ちゃん!」
 俺がアニマにそう言おうとしたその時、管理室から青い顔をした赤毛の少女――ヘレナが頼りない足取りで出てきた。駆け寄ってきたハリーを細い腕で抱きしめながら、ヘレナはアニマの満身創痍の体に目を遣る。それから僅かに顔をしかめると、ゆっくりと口を開いた。
「――ありがと。この間、酷いこと言ったのに助けてくれて」
「礼なら彼に言ってあげて。私だけなら、絶対あなたを助けたりなんかしなかったわ」
 頭を下げて礼を言うヘレナに、アニマは冷たい声で答えるとゆっくりと腰を上げる。だが、立ち上がった拍子に体中の傷が痛んだのか、アニマは軽く前によろめいた。倒れたかけたアニマを支えながら、へレナが怪訝な顔で彼女の顔を覗き込む。
「あなた――?」
「お兄ちゃんは、時々オカマさんになるんだって」
 ハリーが、アニマの代わりにヘレナの疑問に答えた。それを聞いたヘレナは、少し驚いた顔でもう一度アニマの顔をまじまじと見つめると、くすりと小さく笑みを洩らす。
「なるほどね。それで、縁の無い話だったって訳か。女の子には興味が無いんだ……」
 言いながら、もう一度邪気の無い声で笑った。
 次の瞬間――旧下水道の暗闇の先に、巨大な殺気が膨れ上がる。長い間戦いの中に身を置いていたせいか、俺は生物の発する殺気に一種のセンサーのような物を働かすことが出来た。
(アニマっ!!!!)
 俺が声を荒げる前に、アニマは支えてもらっていたヘレナを横に押し倒していた。同時に、ハリーを足でヘレナとは反対の方に蹴り飛ばしている。突然地面に押し倒された二人が、アニマに文句を言おうとしたのと同時に、二人の上空を巨大な不可視の何かがうねりを上げて通り過ぎた。それは下水管理室の鉄製の扉を、まるで紙切れのように切り裂いていく。
(この力は……!?)
「くくく。まさか、向こうがダミーだったとはなぁ? まんまと騙されたぜ!」
 下卑た笑みと共に暗闇から姿を現したのは、白髪の男――シャイロックだった。シャイロックはすでに抜き放った曲刀を目の前のアニマに突きつけると、反対の手で口に咥えていた煙草に紙マッチで火をつける。暗闇の中に一瞬小さな明かりが灯り、シャイロックの狂喜に彩られた笑みが映し出された。
「……何のことを言っているのか、分からないわね」
 突きつけられた曲刀には目も遣らず、アニマはシャイロックの顔だけを冷たく見据えて口を開く。相変わらずの起伏の無いアニマのその口調に、シャイロックの表情が僅かに動いた。
「!? お前……フェステだよなぁ?」
 煙草を吐き捨てながら、シャイロックが訝しげな視線をアニマの方に向ける。
「――お喋りは好きじゃないわ」
 だがアニマはそれには答えず、短刀を抜き放つと一瞬でシャイロックとの距離を詰めて斬りかかった。刃の先端が避け損なったシャイロックの頬を浅く裂いていくが、短刀を持ったアニマの腕はがっしりと奴に捕らえられてしまう。
 アニマの腕を捕らえたシャイロックは、強引に自分の方に引き寄せると、お互いの顔がぶつかりそうなほどの至近距離で彼女の顔を凝視した。それから切り裂かれた頬から垂れる血を舌で舐めると、口の端を大きく歪める。
「くく。アレが無くなったからって、さっそくオカマに転職か? ハーミアが今のお前を見たら、何て言うだろうなぁ!?」
 シャイロックのその挑発に、しかしアニマはもちろん頓着した様子もなく、掴まれていた腕を強引に振り解くともう一度斬りかかった。正確無比に振り下ろされた短刀が、シャイロックの喉元を狙ってすさまじい速度で襲いかかる。
「ちっ!」
 とっさに首をひねってその攻撃から逃れたシャイロックの白髪が数本、アニマの短刀によって切り落とされる。はらはらと宙を舞うシャイロックの白髪が、日の光を浴びて銀色に輝いた。だがそれが地面に落ちるのを待たずに、すでにアニマは次の動きに移っている。振り下ろした短刀を引き戻す勢いで、シャイロックの今度は首の後ろに向けて短刀を薙いだ。流石にその連続攻撃はかわしきれず、シャイロックの首の皮が浅く抉れる。
「クソがぁっ!!!!」
 首筋から鮮血を吹き散らしながらも、シャイロックは一瞬で腰の曲刀を抜き放つと、そのアニマに向けて猛烈な勢いで曲刀を薙ぎ下ろし反撃に出た。灰色の瞳にさっきまでの余裕の色は無い。そもそもアニマに余裕を見せること自体が、間違いであることに気付いたのだろう。
 だがシャイロックが曲刀を振り下ろした位置には、すでにアニマの姿は無かった。振り下ろされた曲刀が地面に衝突し、乾いた音を虚しく響かせる。
「!?」
「遅いわね――」
 冷え切ったような凍えた声が、シャイロックの背後から漏れた。と同時に、短刀が繰り出される。アニマの大気をうねるような迅速な突きが、シャイロックの急所だけを正確に狙って襲った。
「ちぃぃぃっ!!!!」
 慌てて振り向いたシャイロックは、左胸に向けて突き出されたアニマの短刀を間一髪でかわす。直後に、身を反転させてかわしたシャイロックは、そのまま曲刀を持っていない方の手をアニマに向けてかざした。
(アニマ、来るぞっ!)
 俺が言った時には、すでにアニマの体はシャイロックの間合いの外に跳んでいる。さっきまでアニマがいた辺りを、不可視の衝撃波が地を削り通り過ぎていった。
「……お前……フェステじゃねぇな!? あいつの闘い方とはまるで違う――」
「だったらどうだというのかしら?」
 シャイロックの疑念を放った言葉に、アニマが間合いの外で冷たく答える。確かに……俺とアニマでは闘い方が大きく異なる。俺が一気に敵を屠る闘い方なのに対して、アニマのそれは言うなれば冷静な狩人のように少しずつ敵を追い詰めていく戦法だ。どちらかと言うと俺の闘い方に似ているシャイロックには、アニマの攻撃は戦い辛いものがあるのだろう。それはシャイロックの体についた、浅い傷の数々を見れば分かる。
「どうもしねぇよ……結局、死ぬのはてめぇなんだからなぁ!?」
 目を血走らせながらそう吠えると、シャイロックは曲刀を振りかざしてアニマとの間合を一気に詰めるため駆けた。長い白髪が宙をなびく。
「うるさい男ね――」
 振りかざした曲刀の軌跡を視界に捕らえたまま、アニマは呆れたように呟いた。それから緩慢とも言える動作で、ゆっくりと身を動かす。目の前まで差し迫ったシャイロックの曲刀は、今度もアニマを捕らえることは叶わず、虚しく宙を空振った。
「刻まれろぉ!!!!」
 振り下ろし地面に突き立った曲刀をそのままに、シャイロックが吠える。かざした左手から発生する不可視の衝撃波が、曲刀をかわし僅かに動きを止めたアニマを襲った。だが、それすらも読んでいたのか、アニマは地面を蹴ると華麗に宙を舞いそれをかわす。必殺のタイミングで放ったアルカナをかわされ、シャイロックが呆然とした表情でアニマを見つめた。
「……もう、終わりかしら?」
 呆然とした表情のシャイロックに、地面に着地したアニマが抑揚の無いいつもの口調で語りかける。余裕の色すら伺えるアニマのその態度に、シャイロックは砕けるほど歯を噛み締めた。だが、流石にすぐに飛び掛かっていくような真似はしない。
 二人の間を、張り詰めるような緊張感が包み込んだ。静寂を取り戻した旧下水道を、時の流れが止まったかと錯覚させるような無音が支配する。ハリーとヘレナは二人の人間業でない闘いから身を隠すように、切り裂かれた管理室の扉の後ろで身を寄せ合って二人の動きを見守っていた。
 先に動いたのは、アニマだった。だがその動きがあまりにも自然な動きだったため、そこにいた誰の目にも、次の瞬間に放ったシャイロックの不可視の衝撃波をアニマがかわしたようにしか映らなかった。またもや自分の放ったアルカナを易々とかわされて、シャイロックが愕然となる。否――愕然となっている暇は無かった。
「があぁぁ!?」
 シャイロックが脇腹を襲った突然の灼熱感に、呻き声をあげる。視線を落とすと、そこには短刀を自分の脇腹に深く突き立てるアニマの姿があった。その彼女のあまりにもの無表情に、シャイロックの背に一瞬、悪寒のようなものが走る。反射的に、シャイロックは手にした曲刀をアニマに向けて振り下ろしていた。だが、やはり振り下ろした先にはすでにアニマの姿は無い。まるで初めからそこに攻撃がくるものと予測していたかのように、アニマはすでにその身をシャイロックの間合いの外に動かしていた。いや……実際にアニマは攻撃を予測していたのだろう。すっかり忘れていたが、彼女の持つもう一つのアルカナ――精神波攻撃は、人の考えを読む力も備えていたはずだ。
「動きが鈍くなってるわよ?」
 アニマの言葉に、シャイロックは血の滲む脇腹を押さえながら目だけをぎらつかせた。初めに見せていた余裕の色はすっかり失せ、今その灰色の瞳は憎悪の色で薄っすらと赤く充血すらしている。
「……ぶっ殺してやる」
「シャイロックぅ!!!!」
 シャイロックが呟いたのと、旧下水道の中に太い男の声が響き渡ったのは同時だった。そこにいた全員の視線が、声のした方に向けられる。そこに佇んでいたのは――壮年の大男、ゴーントだった。傷のある顔を憤怒の色で赤くしたゴーントは、手に構えた大剣をシャイロックの方にすっと向けると、ゆっくりと口を開く。
「貴様……エミリアをどこにやった!?」
 重量のある大剣をぴくりとも動かさずシャイロックに向けたまま、脅すような口調でゴーントが問いかけた。それを聞いて、シャイロックの口の端が下卑た風に大きく歪む。
「くくく、さぁな。一応……生きてはいるぜぇ!?」
「貴様ぁ!!!!」
 その下卑た笑みを見て不吉な何かを感じ取ったのか、ゴーントは大きく吼えるとシャイロックに向けて躊躇無く大剣を振りかざした。大気の擦れる音がはっきりと聞き取れるほどの剛剣が、シャイロックを襲う。
「相変わらず気が短けぇな!?」
 言いながら身をかわしたシャイロックの、さっきまで立っていた辺りの地面が、ゴーントの大剣を受けて激しい爆音と共に陥没した。相変わらず……人間離れした膂力である。「後ろががら空きだぜ……将軍さんよぉ!」
「ふんっ!」
 一太刀目をかわしたシャイロックがゴーントの後ろから曲刀で斬りかかるが、それはあっさりと大剣の柄の部分で受け止められた。曲刀を受け止めたゴーントは、そのまま力任せにシャイロックを体ごと宙に弾き飛ばす。
「ひゃははは! 流石……」
 宙で身をひねってバランスをとったシャイロックは、口の端を大きく歪めたまま華麗に地面に着地した。地面に着地したシャイロックに、間断なくゴーントの第二太刀が浴びせられる。それを今度はがっしりと、曲刀の刃でシャイロックが受け止めた。
 ――しばらく、二人の緊迫した鍔迫り合いが続く。
「逃げるなら……今ね」
 その時、二人の戦闘を無機質な眼差しで見つめていたアニマが、ぼそりと呟くように言った。
(逃げるのか?)
 俺はアニマのその言葉に、少し驚いたように聞き返す。今がシャイロックを倒す絶好の機会に思えるのだが。
「タイムリミット――これ以上は私の意識がもたないわ。アルカナ無しで勝てるような相手ではないし、あなたも覚醒するにはまだ回復が十分じゃない。それに……」
 俺の問いに答えながら、アニマは視線を扉の影に身を隠すハリーとヘレナに向けて言葉を続けた。
「それに……あの子たちを助けるのが優先なんでしょ?」
(だな……)
 俺が答えるのと、アニマが動き出すのは同時だった。彼女は扉の影で身を寄せ合って固まったままのハリーとヘレナの所まで一瞬で移動すると、二人の手を引いて有無を言わさずシャイロックたちとは反対の方に向けて駆け出そうとする。
「待て!」
 そのアニマの背に声をかけたのは――シャイロックと交戦中のゴーントだった。ゴーントの野太い声に、アニマの動きが止まる。
「……わしも今の天帝――地底国が正しいとは思っておらん。だが……家族を人質にとられた臆病な男には何もできんのだ。許せ、フェステ――」
 もちろんアニマにとっては意味を成さない言葉だったが、彼女は僅かに顔だけゴーントの方に向けると、こちらもゴーントにとっては意味不明な言葉で返した。
「……彼に、伝えておくわ」
 言って、アニマはすぐさま顔を元の方に向けると、今度は一切振り返らずに旧下水道を疾走し始める。ハリーとヘレナがアニマの走る速度に付いていけず、宙ぶらりんの状態で引きずられているのを見つめながら、俺はゴーントの言葉を思い返していたのだった…… 
 

 セブンスシーン「裏切られた男」

 俺たちが旧下水道を出た所は、ちょうどスラムの中心辺りだった。
「ひ、酷い……」
 アニマに手を引かれて旧下水道の出入り口から出てきたヘレナは、そこに広がっている光景を見つめて、呆然とした表情で呟く。――だが、それも無理はなかった。
 軒を連ねていたスラムの建物はそのほとんどが無惨にも瓦礫と化し、廃屋となった建物の上では、生き残った人間を追いかけ食らう《堕ちし者》が徘徊している。そこは言うなれば――地獄。これがグリールの言っていた、捕食地としてのスラムの有り様なのだろう。「……お姉ちゃん」
 続いて出入り口から出てきたハリーがその惨状に目を見開き、寄り掛かるようにヘレナに身を寄せて呟いた。目の前では下級の《堕ちし者》が、ばりばりと人間の死体を食らうことに専念している。
 ヘレナはその光景に嘔吐感を覚えながらも、ハリーに見せまいとして震える彼の頭を胸に抱え込むように抱きしめた。
「……?」
 その時、相変わらずの無表情で向こう側を見つめていたアニマの視線の先に、一人の小さな人影が近付いてくるのが見えた。その人影は自分の隣で人間が貪り食われていることにも何ら頓着することなく、ふらふらとした足取りで瓦礫の中をアニマの方に向かってゆっくりと近付いてくる。人影の正体は――所々破かれた衣服に身を包む、あの生意気な少女エミリアのものだった。
 ふらふらと近付いてくるエミリアに、側で死体をあさっていた何体かの《堕ちし者》が突如襲いかかる。おそらく生きている人間の匂いに反応したのだろう。腐食した体に蛆を這わせた、下級魔属の中でも最も人に忌み嫌われている存在――蛆たかりだ。蛆たかりたちは一斉にエミリアの周りを取り囲むと次々に彼女めがけて、その腐食した腕を伸ばし始めた。
「ぎぎゃっ!」
 だがその腕がエミリアを捕えることは叶わない。一瞬でアルカナの力で駆け寄ったアニマに、その腐食した腕は次々と斬り落とされた。体を這っていた蛆と、どろりとした黒い血が廃墟と化した瓦礫の上に飛び散る。
「無事だったのね」
 アニマが鋭い視線で蛆たかりたちを威嚇しながら、エミリアの方を向いて抑揚の無い声で言った。その言葉にエミリアは虚ろな眼差しでアニマを見上げると、自嘲気味な笑みを口の端に浮かべる。それは、おおよそ年端のいかない少女のものとは思えない、焦燥しきった笑いだった。エミリアが疲れ果てたように、ゆっくりと形のいい口を開く。
「……たく、皮肉なもんだわ。結果的にエミリアも、お姉ちゃんと同じようにあなたの犠牲になったんだから……」
(!?)
 エミリアの言っている言葉の意味が掴めず、俺は意識の中で首を傾げる。俺がエミリアの姉に何かしたんだろうか。そもそもエミリアとは、この間初めて会ったはずなのだが……
「あんな……あんなロリコン野郎に……」
 続けて吐き出すように呟いたエミリアは、そう言うと何かを思い出したのか青い顔をして自分の体をぎゅっと抱きしめた。
(まさか……シャイロックの奴……)
「とにかく、そろそろ安全な場所まで逃げないとダメね。私の意識がもたないわ」
 俺の洩らした嫌な予感に被せるように、アニマが呟く。そのアニマの視線の先には、数十体の蛆たかりがこちらを取り囲むようにじわりじわりと距離を縮めてきていた。いつもなら問題ない数だが、タイムリミットの近いアニマには多過ぎる数だ。
「あなたたちは、私の後ろを付いて来なさい――」
 ハリーとヘレナに言い放つと、アニマはまだ青い顔で震えているエミリアの手を引いて駆け出す。そのアニマの進行方向を遮るように、蛆たかりたちが緩慢な動きで襲いかかってきた。
「はっ!」
 アニマは息を吐き出すと同時に、自分の視界に現れた蛆たかりの一体の眉間に正確に短刀を突き出す。眉間を貫かれた蛆たかりは、ずぶりと嫌な手応えと共に後ろ向きにゆっくりと崩れ落ちた。仲間が一瞬で葬られたのを見て、他の蛆たかりたちの動きが僅かに鈍くなる。その隙に、アニマはさらに加速して廃墟の中を駆け抜けて行った。アニマの後ろを大量の蛆たかりが、相変わらずの緩慢な動きでついてくる。
(ハリーとヘレナが遅れてる!)
 俺の言葉に、アニマは後ろを振り返らずに手にしていた短刀を背後に投げつけた。今まさにハリーに襲いかかろうとしていた蛆たかりが、アニマの投げた短刀に胸を貫かれておぞましい悲鳴を上げて倒れる。その蛆たかりから投げた短刀を引き抜きながら、アニマはハリーとヘレナに先に行くように促した。目の前の蛆たかりの凄惨な死体に、青い顔で震えて立ち尽くすハリーを、ヘレナが強引に手を引っ張って走り出す。
「――本当、厄介なことになったわね」
 走り去っていくハリーとへレナに目を遣りながら、全然困った風には聞こえない無機質な声でアニマは呟いた。呟いたのと同時に、引き抜いた短刀を無造作に横に薙ぐ。それはやはり正確に、目の前まで差し迫っていた蛆たかりの首を綺麗に吹き飛ばした。それからエミリアの手を引くと、ハリーとヘレナを追ってまた走り出す。
(どこか、身を隠せる場所はないのか!?)
 壊滅状態のスラムの裏路地を駆け抜けて行くアニマに、俺が言った。後ろからは、何体もの蛆たかりがしつこく追いかけてきている。アニマ一人なら余裕で振りきれる速度だが、ハリーやエミリアを連れているとなるとやはり厳しいものがあった。
「ヘレナ――ハリーを連れてそこの酒場の中に入りなさい!」
 その時、アニマが突然声を荒げた。と同時に、前を走るハリーとヘレナの視界に、俺の見覚えのある酒場が飛び込んでくる。年季の入った――ぼろぼろの風貌で佇むその酒場は、アニマが時間潰しにと入ったあの老人の酒場だった。
 アニマの切迫した声に、反射的にハリーとヘレナはその酒場の扉を開けて中に飛び込む。それを確認したアニマは、開いた扉に向けて掴んでいたエミリアを放り投げた。宙を舞うエミリアを、ハリーとヘレナが慌てたように二人でキャッチする。
「さてと、後はこいつらをまくだけね――」
 呟いたアニマは、突如向きを変えると反対の方に走り始めた。さっきまで逃げていたアニマが突然自分たちの方に向かってきたのを見て、蛆たかりたちに一瞬動揺が走る。その蛆たかりたちの間を、疾風となったアニマが駆け抜けていった。
『ぎぎゃぎゃ!!!!』
 その後を、慌てて蛆たかりたちが追いかけていく。だが、すでにアニマの姿は蛆たかりたちの視界の遥か彼方に霞んでいたのだった――
 

「やっとまいたようね……」
(……だな)
 酒場の扉を開けながら、流石に疲れたように洩らしたアニマの呟きに俺が答える。空はすでに日が落ち、薄っすらと闇が辺りを支配し始めていた。
「無事だったのね」
 酒場の中に入ったと同時に、暗い顔をしたヘレナがアニマに声をかけてくる。酒場の中は前に来たよりも荒れていて、テーブルや椅子はほとんど半壊して使い物になりそうもなかった。この店の中も《堕ちし者》に荒らされたのだろうか。
「お姉ちゃん。どこに運べばいいの?」
 俺がそんなことを考えていると、店の奥からハリーの声が聞こえてきた。アニマがハリーの声に、そちらの方に顔を向ける。瞬間――アニマのいつもの無表情な顔が、見たこともないくらい大きく歪んだ。だがそれはほんの一瞬のことで、すぐにアニマは元のいつも通りの無表情を取り戻すと、ハリーに向かって口を開く。
「……死んでいるの?」
 アニマの視線の先にあったのは、ハリーに引きずられたこの店の主――あの老人だった。老人の顔は土色で、一目でそれがすでに生ける者では無いのが分かる。状態も酷いもので、両腕の先は食い千切られたように途中から無くなっていたし、体中食い漁られた跡が痛々しく残っていた。
「私が運ぶわ」
 アニマは抑揚の無いいつもの口調でそう言うと、ハリーに引きずられていた老人を軽々と肩に担ぎ上げた。その様子を見たハリーが、慌てたようにアニマを見上げて口を開く。「そ、そんな風にしたら服が汚れるよ!?」
「……もう、十分汚れてるわ」
 ハリーの言葉にアニマは答えると、自分の血と返り血で黒く薄汚れたジャケットの端を軽く摘んで見せた。その仕草と表情に無言の重圧のようなものを感じ取ったのか、ハリーは黙って頷くとアニマに道をあける。
(そろそろ……替わらなくていいのか?)
 ふらふらとした頼りない足取りで店の裏口に向かって歩き始めたアニマに、俺が聞いた。「この人を埋葬させるまで……待って」
 だが俺の心配に、アニマは肩で息をしながらそう答える。
(……美人って言ってもらったからか?)
 そのアニマに、少しからかうように俺が尋ねた。だが、アニマはその言葉には今度は何も答えない。
 裏口を開けると、そこは小さな空地のような場所になっていた。アニマは老人の死体をその空地の地面の上にそっと横たわせる。それから抜き放った短刀で、横たわる老人のすぐ隣の地面を掘り始めた。地面が柔らかい土でできていたため、掘り始めて数分もすると人間一人が楽に入るような穴が完成する。アニマはそこに静かに老人を押し入れると、すっと立ち上がってゆっくりと口を開いた。
「おいしいワイン――飲ませてくれたのよ」
 立ち上がったアニマは、夜空を仰ぎながらそう呟いた。闇の中でアニマの漆黒の瞳が、きらきらと空に浮かぶ星々を映して輝いている。
「これで、私にも理由ができたわね。グリールと《堕ちし者》を滅ぼすための理由が」
 言葉を続けたアニマの瞳が、さらに輝きを増す。そこに薄っすらと滲むものが見えたが、俺は何も言わなかった。
 次の瞬間――アニマの体が大きくバランスを崩して、ゆっくりと地面に倒れ込んでいく。おそらく、今度こそ本当にタイムリミットなのだろう。
(後は……任せたわよ)
 アニマの心の中の呟きを聞きながら、俺は自分の意識をゆっくりと覚醒させていった。


「ああ。任せとけ――」
 フェステは不敵な笑みを浮かべて言うと、倒れていた体をむっくりと起こした。それから拳をつくると何度か握ったり開いたりを繰り返す。多分、自分の意識が体に馴染むのを確認しているのだろう。
「何してるの、お兄ちゃん?」
 次に屈伸運動を始めたフェステの前に、裏口の扉を開けて出てきたハリーが不思議そうな顔で尋ねる。
「ん? 運動だよ、運動。体がなまっちまうといけないからな」
「昼間、あんなに激しく動いてたのに?」
 フェステの言葉に、ハリーは首を傾げるとさらに不思議そうな顔で聞き返した。まぁ、動いていたのは私であって彼ではないのだが。そんなことをハリーが分かる訳がない。だから、その疑問も的を得てはいた。
「そう言えば、オカマさん遊びはもう終わったの?」
 首をポキポキ鳴らすフェステにハリーがさらに疑問を投げかける。瞬間、フェステの顔が大きく引きつった。と同時に、首がぼきりと鈍い音を鳴らす。
「いつつつ!」
「大丈夫、お兄ちゃん?」
 顔をしかめて呻くフェステに、ハリーが心配そうな声で言う。
「大丈夫だ……それより、お姉さんとエミリアはどうしたんだ?」
 そのハリーに、無理に笑みを作りながら今度はフェステが尋ねた。尋ねながらも、さっきので首が痛むのかしきりに手で自分の首をさすっている。相も変わらず馬鹿な男だ。
「ヘレナお姉ちゃんは奥で店に残ってた物を使って料理を作っているよ。そうだ、料理ができたからお兄ちゃんを呼びにきたんだった!」
 話している途中で思い出したようにハリーは声を大きくした。静寂した夜の世界に、ハリーの元気な声が響き渡る。
「そっか。そう言えば腹が減ったな……よし、飯にしようハリー!」
「うん!」
 ハリーの言葉に、お腹を押さえながらフェステも大きく頷いた。ハリーと同じように大声を出す必要はないと思うのだが。腹が減っては何とやら……確かにあれだけの戦闘を繰り広げて、今日はほとんど朝から何も口をしていないのだから、フェステが食事を喜ぶのも無理は無かった。


「おいしい?」
 唯一破壊を免れたカウンターの上には、ヘレナが作った料理が所狭しと並んでいた。ヘレナは並べた料理と、みんなの顔を見回しながら自慢気に尋ねる。
「…………」
「…………」
 だが、それに答えてくれる者は誰もいない。ハリーもフェステも目の前の御馳走を飢えた犬が如く平らげていくのに夢中だ。その様子を見て、ヘレナの顔に笑みが浮かぶ。初めに夜のスラム街で見た時の彼女からは考えられない、優しい笑みだ。
「そう言えば……あの子はどうしたの?」
 二人の食事風景をしばらくそうやって微笑みながら眺めていたヘレナは、そこにエミリアの姿が無いのに気が付いてフェステに尋ねた。
「ん!? そう言えばいねえな。何してんだ、あいつ……」
 口の端からベーコンを垂らしながら、フェステが答える。……行儀の悪い奴だ。
「私……探してこようか?」
「いいわよ、探してくれなくて。それよりエミリアの料理を用意して! お腹ペコペコなのっ!!」
 ヘレナが探しに行こうと腰を上げかけた時、奥の扉が開いて目を赤く腫らしたエミリアが現れた。現れたと同時にヘレナに向かって偉そうに口を開くと、すたすたとカウンターに近付きフェステの隣にどかっと腰を下ろす。目を赤く腫らしたエミリアの登場に、一瞬部屋が凍りついた。
「早くしてよ。エミリア何も食べてないんだよ!?」
「あ……わ、分かったわ。ちょっと待ってね」
 エミリアの言葉に、慌ててヘレナは奥の部屋に料理を取りに戻っていく。その様子を見ていたフェステが、エミリアに向かって口を開いた。
「おい、そんな言い方はねえだろ。一応目上の人なんだから……」
「……オカマにあれこれ言われたくないね」
「なっ!」
 オカマと言われて、フェステの顔がみるみる赤くなっていく。子供の戯言にここまで本気で怒れるというのも、ある意味すごいものだ……などと私が感心している間にも二人の言い争いは続いていた。ハリーはそれを完全に無視して、一人黙々と食事を続けている。
「俺はオカマじゃねえ! あれは俺であって俺じゃねえんだ!!」
「美形のお兄ちゃんが実はオカマだった……現実とは過酷なものなのね」
 フェステの言葉に、なぜか達観したようにエミリアが呟きを洩らす。その呟きに、フェステの顔がさらに紅潮したのは言うまでもない。私は今度はエミリアに向かって罵詈雑言を吐き始めたフェステに、呆れたように言葉を投げかけた。
(一生やってなさい――)
 料理を持って部屋に戻ってきたヘレナが、子供をなだめるような感じで――実際エミリアは子供なのだが、二人の喧嘩を止めに入る。それを横目に、やはりハリーだけは一人黙々と目の前の料理を平らげることだけに集中し続けるのだった……本当、この光景だけを見れば平和なものなのだが……


(少しでも寝ないと、体力が回復しないわよ)
 深夜。ハリーやヘレナ、エミリアはすでに他の部屋で眠りについているのだろう。だが、フェステは眠れないのか、カウンターに腰を下ろして古ぼけた天井をぼんやりと見上げていた。
「まあな。そうなんだが……」
 私の言葉に気のない返事を返しながら、フェステはグラスに注いだワインをちびちびと舐めるように口に入れる。
(オカマって言われたの、まだ気にしてるの?)
「違う!」
 私の思いつきに、即答するとフェステは残っていたグラスの中のワインを一気に飲み干した。やはり……気にしていたみたいだ。それにしても、酒が大して強くもないのにそんなに一気に飲んでしまって大丈夫なのだろうか。案の定、フェステの顔は一瞬で真っ赤に染まっていく。
「アニマ……お前にだけは話しておかないとな」
 顔を赤くしたフェステは、深く考え込むような顔でぽつりと呟いた。それから、空になったグラスに瓶からワインを注ぐ。並々と注がれたグラスの半分くらいを飲み干して、フェステは独り言のように喋り始めた。それは――私も知らないフェステの過去の話ようだった。
「俺が元地底国の軍人だというのは知ってるよな?」
(ええ)
「地底国カナンは、地底空間の中にボール状の球体フィールドを張って存在する移動要塞国家なんだ。数世紀も前からこの星に存在し、今までは地上世界をただ見ているだけだった。地上世界の調停者――それが本来のカナンの役割だったんだ」
(……それはおかしいわね。2年前のエドム王国を滅ぼしたのは、カナンじゃなかったかしら?) 
 私はフェステの言葉に、ふと浮かんだ疑問を投げかける。カナンが調停者としてただ見ているだけの存在なら、地上世界のエドム王国を滅ぼしたりはしないはずだ。
「その通り。あれは本来のカナンにはあるまじき事象なんだよ」
 答えながら、フェステは半分ほど残ったグラスの中のワインをまた一気に飲み干す。それから苦い顔をして、言葉を続けた。
「だから……俺は奪ってやったんだ。地底国としてあるまじき愚行に出た天帝の頭を冷やしてやるためになっ!」
 フェステのワイングラスを持つ手に力が入る。と同時に、グラスは音を立てて一瞬で砕け散った。フェステの細い指の隙間から、血が滴り落ちる。
(奪ったって……何を奪ったのよ?)
「《空間歪曲の式》だ。さっき言ったよな。地底国は移動要塞国家だって」
(ええ……)
「空間歪曲の式っていうのは、言わばカナンの動力源みたいなもんなんだ。球状フィールド内に存在するカナンは、その式を使って地底空間を自在に移動している。てことはつまり……そいつを奪ってしまえばカナンは足をもがれた鳥も同然って訳なんだよ」
 手に刺さった割れたグラスの破片を一つ一つ抜きながら、フェステは少し得意そうにそう言う。だが……次の瞬間には顔を苦渋の色で一杯にして、吐き出すように口を開いた。
「俺は……奪ってやったんだ。式さえなければ地底国も簡単には地上世界には干渉できなくなる。あいつさえ俺を裏切らなければ……天帝との交渉次第で《ゲート》を再封印し、地上世界への干渉もやめさし、元の調停者としてのカナンを取り戻すことが出来たはずだったんだ!」
(裏切った? それに、ゲートって何よ?)
 憤るフェステに、私はさらに疑問を投げかけた。どうも、この男の言うことは間が抜けていて理解し難い。
「ゲートってのは、《堕ちし者》を封印していた扉のことだよ。何を考えたんだか知らねえが、今まで必死に守ってきたそいつを天帝の野郎が開いちまいやがった」
(じゃあ、2年前から突然地上世界に出現した《堕ちし者》はカナン帝国のせいなの?)
 面白く無さそうに言うフェステに、私は言葉を返した。まさか、氾濫する《堕ちし者》が地底国カナンのせいだったとは。
「ま、とにかく……俺の婚約者であったハーミアが俺のことを裏切りさえしなかったら、何もかも上手くいっていたんだ」
 言いながら、フェステは取り出したグラスの破片をカウンターの中の屑入れに投げ放った。破片は宙を舞い、全て正確に屑入れの中に吸い込まれていく。それを見届けてから、フェステは胸元の銀のロザリオに視線を落とした。ロザリオは薄暗い部屋の中で鈍い輝きを放っている。
(何があったかは分からないし言いたくないなら聞かないけど、あのゴーントって人が言ってたじゃない。ハーミアは裏切ってなんかいないって?)
「裏切ったんだよ! ……それだけは、絶対だ……」
 私の言葉にフェステはロザリオを握り締めると、絞り出すように言った。その表情は薄暗い部屋のせいで良く見えないが、悲しみと怒り――そしてどうしようもない絶望の色が見て取れる。私はそれ以上かける言葉を見つけることが出来ず、フェステも黙りこくってしまった。
 その時――奥の扉が開いて、下着姿の眠そうなヘレナがカウンターに近付いて来た。下着越しにヘレナの細い四肢が、薄っすらと浮かぶ。
「わ、悪ぃ! 起こしちまったか?」
 フェステは近付いてくるヘレナから赤い顔をさらに赤くすると、視線を逸らして言った。これしきで顔を赤くするとは、青い奴である。
「ううん。ただ、私も眠れなくてね――」
 ヘレナはフェステの言葉に首を振りながら答えると、ゆっくりとカウンターの隣の席に腰を下ろした。それからフェステの手を見つめると、心配そうに口を開く。
「血が……出てるわ」
 呟きながら、ヘレナは自分の下着の裾の部分をちぎるとフェステの血の出ている手に素早く巻きつけた。巻きつけられた布が、フェステの血を吸って赤く滲む。
「あ、ありがとう……」
 それをぼんやりと眺めながら、フェステは照れたように礼を言った。フェステの漆黒の瞳に見据えられて、へレナも顔を赤くする。端から見れば、初々しい恋人同士のようにも見えた。今はそんな時ではない……と言いたいところだが、休息もたまには必要だろう。
「ねえ、あなたはこの街を出たらどこへ行くの?」
 不意にヘレナがフェステの方を見つめながら尋ねた。
「そうだな……取り敢えずエミリアを隣のナフタリ帝国まで送らなくちゃならねえしな。その後は……まあ適当に旅を続けるってとこかな」
 ヘレナの質問に、フェステは天井を睨みながら答える。そのフェステに、突然ヘレナは体をぴたりと寄り添わせて耳元で口を開いた。ヘレナの呼吸がフェステの耳朶をやんわりと打つ。
「ねえ、私も連れて行って。もうこの街に私の住むところは無いの。だから……」
「ヘ、へレナ?」
 体をしならせて言うヘレナに、フェステが焦ったように密着する体を離す。だがヘレナは身を離したフェステの腕をさっと掴むと、強引に自分の胸に押し付けて言葉を続けた。
「私は何の役にも立たないかもしれないけど……あなたをこうやって慰めることくらいは出来るわ。だから……」
「やめろっ!!!!」
 胸に押し付けられた腕を強引に振り解いて、フェステが声を荒げる。その声と剣幕に驚いたヘレナは、呆然とした表情でフェステの顔を見上げた。
「……ごめんなさい……」
 それから消え入りそうな声で謝る。そのヘレナの様子に、フェステは今度は慌てたように口を開いて言った。
「いや……ただ、そんなことをしなくても、ヘレナが付いて来たいなら別に俺は構わないから。危険であても無い旅だけど……」
(フェステ!?)
 私はフェステの言葉にたまらず声を上げる。冗談じゃない。ただでさえ金欠――フェステは今回みたいに無償で依頼を受けることが多いせいか、割と需要のある1級自由兵の癖に万年金欠なのだ――のくせに、戦力にもならない女子供を一緒に連れて旅を続けようというのか。
「本当!?」
「あぁ。別に問題はねえよ」
 私はさらに文句を続けようとしたが、すでにいい雰囲気を作り出している二人に私の言葉など届くはずも無く……夜はゆっくりと深まっていくのだった…… 















あとがき

 やっと完成しました。フォールハンター(この題名は実はまだ仮題。誰かいいタイトル考えてくれないかな〜)4です。やっとこさ内容が見えてきて、話もこれから終盤って感じです♪ みなさま……ハチャメチャな話ですが、どうぞ最後まで付き合ってやってください(ぺこり)