ウサギの休日4 -my favorite things- |
作:きぁ |
“6がつ8にち(きん)
20000
うさぎさんは、かんがるーの、ようなふくろをおなかにつけて、いました。
わたしをみていいました。
あの、おじょうさん、これかってくださいませんか
わたしは、かえません、ごめんなさい、といいました”
ウサギは、しょぼしょぼとした目で、こちらを見ていた。
雨の日で、他に誰もいない公園のベンチで一羽、濡れるまま雨に打たれて、ぽつん、とベンチに座っていた。
私は当時6歳で、小学校に上がったばかり。日記をつけるように担任に言われ、毎日“にっきちょう”と黄緑のクレパスを持って歩いていたのを記憶している。何故鉛筆ではなくクレパスだったのかは覚えていない。恐らく、この色が好きだったんだろう。
ウサギに限らず、私は動物が大の苦手だった。
私の家族は父子家庭で、兄弟も含め4人だが、祖父母も同居していて合計6人。全員で父の社宅住まいで、窮屈極まりない生活を余儀なくされていた。
母が亡くなったのは、末娘の私が生まれた時だというので、それから6年、父は男手ひとつで兄ふたりと祖父母の面倒を一手に引き受けていた訳で、子供心にもしっかりと、「おとうさんはいそがしいのでわがままをいってはいけません」とインプリンティングされていたように思う。兄達も、その事にはとても気を遣っている様子だったから、ふたりで習っていたサッカーの試合にも、正選手になったとしても一度も父を誘ったりはせず、祖母が作ってくれたお握りだけを持って、せっせと朝から出かけていたように記憶している。
そんな状態でペットが飼えるはずもなく、動物園に連れて行けとはとても言えず、動物と触れ合う機会自体が極端に少なかった。
結果、私には、猫だろうが犬だろうが鶏だろうが鳩だろうが、ウサギだろうが、とにかくこの世界のどんな生き物であろうと、文字通り未知の生命体だった。
ウサギは、真っ赤な傘の下から恐る恐る自分を観察するガキンチョに、こう言ったのだ。
「あのぉぉ、お嬢さん、これ買って下さいませんかぁ?」
間違っている。
ランドセル背負った小学一年生に、片手に傘、もう片手に給食で食べ損ねた学校パンを握っている子供に向かって言う台詞ではない。
それなのにウサギは、そんな当たり前の事にまるで気付いていないのか、ぐっしょり濡れた毛の間、腹部のあたりをごそごそまさぐって、ひょい、と、小さな鏡を取り出した。
私はどきり、とした。
ウサギに話しかけられたという非日常にはもちろん驚かされたが、それ以上に、そのウサギの手に握られた手鏡に。
当時、私の通っていた小学校では、とある美少女アクションもののアニメーションが流行っていて、その中で、主人公のひとりである女の子が鏡を取り出し、変身するシーンがあった。
今思えば明らかにバッタもの、あるいは完璧な別物なのだが、私はコロッと引っかかった。と言っても、ウサギの方に、そのアニメーションを意識して売り付けようという悪意はなかったので、私が完璧に悪いわけだが。
「……」
何も言わずに立ち尽くし、じっと鏡を凝視する小娘に、どうやらウサギの方も脈アリと踏んだのだろう、ぷるぷるっと身体を揺すって毛皮に染み込んだ雨水を跳ね飛ばし、ひょい、とベンチから飛び降りた。
そして何と、鏡を手にしたまま、二足歩行で私の方へ歩いて来る。
何てことだ、ウサギは4本足のイキモノだと思っていたのに、実は足は2本で、あれは手だったんだ。飼育小屋のは、みんなで人間を騙しているんだ。私は硬直したまま思った。
「あのぉ、今でしたら大変お得なサービス期間中でして、こちらお買い上げ頂きますと、もれなくこのぉ――」
捲くし立てるようなマシンガン・トークでひょい、と四次元ポケット付きの腹から、何やら物騒なものを取り出してきた。プラスティックの箱に入った包丁だった。
「月の石で出来ました包丁を、サービスで付けさせて頂きます、ハイっ」
「月の……石……」
私はまたしても引っ掛かった。その変身アニメでは、主人公達はみんな、月から来た女神様の生まれ変わり、という設定だったのである。
そろそろ、と、私はおっかなびっくり、公園の敷地内に足を踏み入れた。
ウサギの方が先に歩き出していたので、私達は公園の入り口にほど近い、砂場の近くで向き合うことになった。
「どうでしょう?お嬢さんっ。お嬢さんでしたらきっと、手鏡くらいお持ちの方が、その可愛らしいお顔を映すのにも宜しいと思いますよっ、えぇ!」
ウサギはしてやったりと思っていたんだろう。だんだんトークのスピードが上がっていた。私の日記にその事が書かれていないのは、当時の私にはその音速を超える話術を書き留める能力がなかったからなのだ。
「……いくら?」
値段を訊いてみるくらいいいだろう、私はそう思った。それが交渉成立への第一歩である事など、小学生に思いつくはずもない。
「えぇとですねぇ。……実はコレ、他のお客様にお譲りするお約束をしていたんですが、その方が残念ながらキャンセルということで、お断りのご連絡を頂きまして、宙に浮いてしまった物なんです。ですから、前のお客様がご入金頂いたキャンセル料がありまして、その分、お値引きさせて頂けるかと、ハイ!」
ウサギは正直者だった。この歳になると、それがセールスマンとしてかなり致命傷な発言であると分かる。普通、そこで元の値段で売って利益を上げるのが、商売人だろう。
無論、当時小学生の私に「キャンセル」「宙に浮く」「お値引き」というボキャブラリーは備わっていなかったので、訳が分からない。
「いくら?」
もう一度訊いた。
ウサギはそこでやや困ったような表情を浮かべ(もちろん、ウサギの表情を読み取る術が人間の私にあるはずもないので、そんな雰囲気というだけだが)、こう言った。
「えぇと、……2万円になりますぅ」
「にまんえん?」
紙のお金の存在を知らない小学生にとって、それがどのような金額なのか、理解出来ようはずもなく。
オウム返しに聞き返した私に、ウサギはやや落胆した様子で説明した。
「ハイ、あの、2のあとに0が4つほど……」
ここで、私は例の日記帳に「2」と「0」を四つ、書いている。実際に書いてみないと分からなかったのだ。
そして、書いてみて分かった。
つまり、大好きだった駄菓子ポンハゼが、両手に収まらないくらい買えてしまう金額だという事。下手をしたら駄菓子屋さんごと買えるんじゃないだろうか、とお馬鹿な錯覚するような金額だという事が。
「買えません」
はっきりと言った。
父親や祖父母の苦労も身に沁みている。兄達も、周囲では買い食いが流行っていたのに、それでも律儀におにぎりを背負って試合していた。そんな家庭に、駄菓子屋を買い取る金などあるはずがない。
ウサギはやっぱり、というように、かくんと項垂れ、ボソボソと呟いた。
「いえ、あの……ご無理にとは申しません。お嬢さんだって、未来のあるお方です。他にも欲しい物ですとか、ローンですとか、色々あるかとは思いますしぃ……」
ある訳ない。小学生に金を貸してくれる消費者金融が、世界のどこにあるというのだ。
「ローン」が分からなかったので、そのツッコミはなかったが、私はとにかく、自分の分を弁えた子供だったので、その手鏡(と包丁)が自分のものにはならないと、すぐに理解した。
「ごめんなさい」
謝ると、ウサギはふるふると首を振った。
「いえいえっ、こちらこそ、失礼を致しました!ささっ、どうぞ、お帰り下さい。このような雨の中、お引止めして申し訳ありませんでしたっ」
ひどく腰の低い、哀れみさえ感じる気の遣いようで、ウサギは私を公園の外まで案内し、90度近く頭を下げて、見送ってくれた。
私は何度も後ろ髪を引かれながら、結局空しい気持ちと学校パンだけを持って家路に就いた。
明日、あそこにウサギさんがいたら、他にも、もっと安いものを売っていないか訊いてみよう。
布団の中、大切にしている貯金箱を握り締め、私はドキドキと胸を躍らせてなかなか眠れなかった。
余談だが、日記帳は毎日担任が添削をし、返事を書いてくれていた。
この日の、担任からの返答。
“20000”に赤線が引っ張られており、横にでかでかと、“?”。
“6がつ9にち(ど)
うさぎさんは、おとこのこにいました
わたしは、いいました。うさぎさんをかえして。
うさぎさんは、べたべたでした。
おとこのこがうさぎさんをぶったのが、いけないとおもいました。
おばさんがたすけて、くれたのでうさぎさんは、うちにきました”
翌日は土曜日で、学校の授業は半日で終わる。
私は、昨日出会った謎のウサギの事を思い出して、授業中ずっとソワソワしていた。
通学路が決まっている頃だったし、きちんとそれを守る年齢だったので、朝公園を覗けばウサギはいたかも知れないのだが、6歳の私は学校に行く時に寄り道をしてはいけない、という不文律をしっかりと守っていた。また、「学校帰り」という時間設定があるものだと勝手に思い込んでもいた。
掃除を終えて、半ば駆け足で公園まで行った。
その日は薄曇で雨が降っておらず、公園はぬかるんでいた。私は祖母が長靴を履いていくようにと言ったので、お気に入りのピンクの長靴を履いて、降るといけないからと持たされた雨合羽の入った手提げ袋を持ち、ランドセルをガチャガチャ言わせながら、ベンチまで急いだ。
ベンチにウサギはいなかった。
おかしい。何故いないのだろう。いや、きっとまだ近くにいるに違いない。私はそう思って、周囲を探し始めた。
もちろん、おかしいのは私だ。ウサギだって修行僧でもあるまいに、何も一晩中濡れるベンチで雨に打たれていなくたっていいのだ。
が、私の身勝手な予想は、その時に限り当っていた。
視界に、見慣れたランドセルを背負った一団が入った。同じ学校の3年生の男子生徒達だった。ベンチからほど近いカゴブランコで、3人で何かを囲んで笑っている。
男の子達が突き回しているものを見て、私はびっくりした。
あのウサギだった。びしょ濡れの毛が泥まみれになり、汚い灰色になっていた。血こそ流れていないが、死んでいるようにぐったりして、男の子のひとりに耳を掴まれ、乱暴に振り回されているではないか。
私は走っていくと、カゴブランコの前に立った。
気付いた男の子達がこっちを見る。
私は弱虫で泣き虫で、すぐにビビッて何も出来ない意気地なしの小さな娘で、普段だったら年上の男子生徒に刃向かったりなど決してしないのだったが、この時だけは、何故か絶対にウサギを助けなければいけない、と思った。
「ウサギさん、返して!」
私は腹の底から叫んだ。
「何だよ、俺達が拾ったんだぞ」
「返して欲しければ、取ってみろよー」
男の子達はニヤニヤしながら、私のランドセルをつついたり、手提げを引っ張ったりしてからかった。
私はボロボロと涙を流しながら、それでも食い下がった。
「返して!返して!返してウサギさん!返してー!」
大声で泣いた。わめきながら、ぽかぽかとウサギを掴んだ男子生徒をグーで小突き、縋りついた。
「ウサギさん返してぇー!」
根性なしの私は、すぐに本泣きになった。
男の子の服を引っ張ったまま、私はわんわん泣いた。
そうしていると、近所の子供達が集まってきた。幼稚園のお迎えらしい母親達も寄ってきた。おばさんのひとりが、呆気に取られて立ち尽くしていた他の男の子に理由を訊ね、私が捕まえた子にウサギを渡してあげなさい、と言ってくれた。
男の子は渋々、私の手にウサギを放り投げた。
私は慌ててそれを拾って、ウサギの顔を見た。目を閉じてしまっていて、息をしているのかも分からなかった。全身がぐにゃりとしていて、まるで汚れた縫いぐるみみたいだった。
それを見た瞬間、それまで生き物に触った事すらなかった私を、当然の恐怖が襲った。
「どうしよう、ウサギさん死んじゃう!」
今度は私は、ウサギの処置について混乱し、また泣き出した。
親切なおばさんが私の頭をポンポンと撫で、ウサギをそっと受け取ると、待たせている息子らしい幼稚園児の黄色いバックの中からタオルを取り出して、ベタベタに汚れたウサギを拭いてくれた。
それから、家にいらっしゃい、ウサギさんの手当をしてあげましょう、と言ってくれた。
私は相変わらず半ベソをかいたまま、片手に息子さんと握手して、もう片手に私の手を取ってくれるおばさんについて行った。
親切なおばさんは、公園のすぐ近くに住んでいた。息子さんと旦那様と3人暮らしで、庭付き一戸建てという立派な家。狭く古い社宅の一室に押し込まれるように暮らしている私には、そこは巨大なお城のようだった。
今でも時々、遊びに行く。おばさんはとても気さくで優しく、穏やかな人だ。
ウサギを洗うとショックで死んでしまう事があるらしい、と、おばさんに言われたので、私はウサギを濡らしたタオルで丁寧に拭いてあげた。
毛の色はやや綺麗になったが、ウサギはぐったりしたままだった。
心細くなっておばさんに訊くと、おばさんは見てご覧、お腹が動いてるよ、と教えてくれた。よく見ると、確かに腹の辺りが膨れたり引っ込んだりしていたし、時々、隙間風のようなヒュー、という音が鼻の辺りから聞こえているので、死んではおらず、ただ眠っているだけだろうという判断に落ち着いた。
「貴方のウサちゃん?」
おばさんに訊かれ、私は首を振った。
その頃にはようやく泣き止んで、ずるずると鼻をすすってはいたが、返事は出来たので答える。
「昨日、帰り道で会ったの」
「そう、優しいのね」
おばさんは微笑んで私を撫で、私の名札を見て自宅に電話をしてくれ、お昼までご馳走してくれた。
その間、ウサギはベビーベッド(昔、息子さんが使っていたらしい)に寝かされて、フカフカのお布団に包まれていた。
私はとても美味しいチャーハンを頂き、おまけにお菓子まで貰って、事情を知った祖母が大慌てで飛んでくるまで、ちゃっかり居座った。
祖母が迎えに来た時、私は危うく本来の目的を忘れて、そのまま上機嫌で帰るところだった。
「あら、ウサちゃんは?」
おばさんが慌ててウサギを持ってきた。冗談じゃなく、タオルでグルグルと巻いた状態で、私の持っていた手提げに、まるで手土産でも渡すように入れてくれた。
入れてもらってから、私はウサギの事を思い出した。
祖母は目を丸くし、おばさんから事情を聞くと、はぁ、と曖昧な相槌を打った。
「そのウサギっ子、どうすっの?」
祖母に訊かれて、私は返答に困った。私も、自宅に持って帰る予定ではなかった。ただ、手鏡以外の何か(安いもの)をウサギから買って、ちょっとした宝物にしたかっただけだった。
困り果てて答えに詰まっていると、優しいおばさんが言った。
「飼ってくれる人が見つかるまで、預かりましょうか?」
聞くと、おばさんが私くらいの年齢だった頃、やっぱりウサギを飼っていたのだそうだ。私を見ていたら、それがとても懐かしく思い出されたらしい。
私はその厚意に甘えるべきかどうかで迷った。このウサギは、喋るし二本足で歩くしお腹にポケットもついている。図鑑を見てみたが、そんなウサギはいない。
とすれば、ウサギの正体は実はウサギではないもので、ウサギはウサギ以外には内緒にしていて、ウサギだけの秘密だったんじゃないだろうか。
ぐるぐるぐるぐる、ウサギウサギ、と考えた。
そうしてずっと黙っていると、祖母が私の頭を撫でた。
「菜っ葉くらいすかねぇけど、ウサギだがら十分だべ?」
そうしてウサギは家にやって来た。
そして、その日のうちに出て行った。
その日の担任の添削。
“いきものはたいせつにしましょうね”。
“6がつ10にち(にち)”
日記帳は真っ白だった。
そのくらい、当時の私はショックだったのだろうと思う。
ウサギはその後、祖母が帰りにスーパーで貰ってくれたダンボール箱に入れられて、私と兄達の部屋に連れ込まれた。
兄達は、祖母と同じように目を丸くして、それからちょっと突いたり触ったりして、それでも目を醒まさない事を知ると、すぐに飽きてしまい、各々宿題とかテレビとか自分の生活に戻っていった。
私は机の下にダンボールを置いた。そして、祖母がやっぱりスーパーで貰ってくれたキャベツの一番外側の部分を、何となく小さく千切って入れておいた。大きすぎると食べにくいかな、と思った。
夜中、ぼりんぼりん、という音がして、私は目が覚めた。
3段ベッドの一番下が私の寝床で、机がすぐ側にあり、音が聞こえたのだ。
時計を見ると、深夜2時を少し回ったところだった。
そっと起き出して、机の下を覗いてみた。
ウサギが目を覚ましていた。やっぱり二本足で立ち上がり、布団代わりのタオルを、自分より数倍の大きさがあるにも関わらず丁寧に畳み直し、そこに腰掛けて、乾涸びかけたキャベツの芯を食べていた。あまり美味しくなさそうな、飲み込み辛そうな渋い顔をしていたが、ウサギだけに本当にそうなのかは分からない。
「あ、これはどうもっ、お嬢さん!」
気付いたウサギがキャベツを置いて立ち上がり、箱の中で直角90度、頭を下げた。
「いやぁ、スミマセン。何だか助けて頂いたようで……、あ、キャベツもご馳走様です」
「おいしい?」
「……いや、これはこれで……、野生の醍醐味が何とも言えません」
微妙な間が気になったが、ウサギはニンジンの方が好きなんだっけ、程度にしか思わなかった。ひょっとしたら、高級無農薬野菜なんかが口に合うウサギだったのかも知れない。
ウサギはキャベツを一枚、例の腹にあるポケットにしまうと、私に言った。
「本当に、お嬢さんには大変お世話になりましたっ。……それで、あのぉ、お世話になりっぱなしで大変申し訳ないのですが、私……、そろそろ失礼しようかと思いまして」
「しつれい?」
「あ、ハイ。一度、社の方に戻ろうかと」
「どこか行っちゃうの?」
私が聞くと、ウサギはポリポリと頭をかきながら、困ったように答えた。きっと、私が涙目でウサギを睨んでいたからだろう。
「えぇ……、私にも仕事や家族などありまして、しばらく戻っていないものですから」
家族。
私はその言葉にどきりとした。心臓に冷たい氷が転がり込んだような感じだった。
ウサギにも家族がいる。
私にも、兄達や父親や祖母がいる。狭い家だし、好き勝手になるお金だってないし、動物園には行けないしペットも飼えない。でも、不自由も多いけれど、私は特に不満なく、楽しく暮らしている。このままウサギを飼って家族が増えたら、私はもっと楽しいかも知れない。
それでも――私は時々、私を産んで死んでしまった母親に会ってみたいと思う。そうすると、風船がしぼんでゆくように、楽しい気持ちがシワシワになって心の中で潰れてしまう。ウサギも、一緒にいれば楽しいかも知れないけど、奥さんや子供に会いたいだろう。会えなかったら、私のように心が小さくなってしまうかも知れない。それはとても、悲しい。
6歳の私は弱虫で意気地なしで泣き虫で、どうしようもない子供だった。
でも、ウサギがここにいても楽しくなれないという事は分かった。ウサギを飼いたいと思ったら、それはワガママなんだと、分かった。
「……また、遊びに来てくれる?」
ぐじぐじと鼻をすすって、ぽろぽろこぼれる涙をパジャマの袖で拭いながら、私は訊いた。
ウサギは、こっくりと頷いた。
「ハイ、もちろんですっ!次回は是非、ご用命下さい!すぐに参りますっ」
最後まで営業トークだったが、生憎私には「ご用命」が分からなかった。
ウサギに頼まれて、私は窓を開け、手摺りのついた狭い窓縁にウサギを乗せてあげた。
三日月の綺麗な夜だった。いつの間にか、昼間の雲は晴れ、夜空は透き通り、宝石箱のように星が無数に瞬いている。
「それでは、失礼致します」
カラカラ……。建てつけのあまり良くない窓を引きながら、ウサギはぺこりと頭を下げた。
何故窓を閉めるのか分からなかったが、そういえばお客さんが来る時、そんな風に言いながらドアを閉めていたなぁ、と思ったので、特に疑問はなかった。
ひょい、と、月明かりに透かして磨りガラスに映るウサギの形をした黒い影が、飛び上がった。それはウサギとは思えない跳躍力で、私の視界からあっという間に影が消えた。
私が窓を開けると、ウサギはもういなかった。飛び降りたのかと思って階下を見下ろしたが、3階からではウサギは見えなかった。
「……行っちゃった……」
私は窓を開けたまま床にへたりこみ、ボロボロと流れ落ちる涙を拭きもせず、ついでに鼻水も垂らしながら、唇を噛み締め、声を上げずに泣いた。兄達は今日試合があるはずで、夜中に起こしてはいけない、と思った。
翌朝、目が覚めるともう昼近い時間だった。
いつの間にか布団に戻ったらしく、ちゃんと肌掛けをかけて寝ていた。
一瞬、夢だったのではないかと思った。
机の下で、ウサギはまた不満そうな顔でキャベツをかじっているんじゃないだろうか。
期待に僅かに胸をときめかせながら、私は机の下を覗きこんだ。
ダンボールは、もぬけの殻だった。
ウサギがまた来るんじゃないかと思って、私はダンボールをそのままにしておいた。遊びに来ると言っていたからだ。
今日かな、今日かな、と毎日思いながら暮らした。
学校から寄り道もせず一直線で帰ってきて、まずはダンボールを見る。そして、ウサギがいない事に落胆し、黄色い学校指定帽を脱ぎ、ランドセルを下ろす。
数日間、そんな毎日を送っていた。
1週間ほどした頃、祖母がそろそろ諦めなさい、と言い、私は段ボール箱を片付けることにした。
中に残っていたキャベツはカリカリに乾燥して、手でつまんだら、落ち葉のようにくしゃくしゃと砕けてしまった。
タオルは洗濯するから出しなさい。
祖母の声が聞こえ、私は丁寧に折畳まれたタオルを持ち上げて――驚きに目を見開いた。
ことん、と、段ボール箱の中にそれは転げ落ちた。タオルの中にこっそりと隠してあったらしい。
私はそれを拾い上げ、ぎゅっと抱き締めた。
小さな子供の掌にすっぽり収まってしまうような手鏡に、あのウサギの瞳と同じ金色のリボンがかけられ、取っ手の部分に蝶結びされていた。
それから、小さな本が一緒に出てきた。マッチ箱よりちょっと大きい位のサイズで、中には小さな文字がびっしり書かれており、時々写真が貼ってあった。表紙に、辛うじて読めるサイズの文字で「夏の特選カタログ」と書かれていた。
“6がつ16にち(ど)
うさぎさんが、ごほんとかがみをくれました。
わたしはありがとうと、おもいました。”
その日の、担任の添削。
“うさぎさんにおれいをいいましょうね”
今更だが、多分担任には、私の書いている事がほとんど理解出来ていなかったと思う。
恐らく、父親か祖父母が贈り物を用意して、サンタクロースのように、落ち込む私にウサギからだと言ったんだろう、という推測をしたに違いなかった。
「おいこら、早く片付けろよー」
不意に声が降って来て、一緒に平手も落ちてきた。
「いったぁー……」
「引っ越し屋のトラック、来ちまうだろうが。さっさと片付けろ」
長兄だった。床に座り込んで、小学校の日記帳を眺めて感傷に耽っている私に、現実という制裁を加えに来たのだ。
「はぁいはいはい、ごめんなさいねー」
ふてくされつつ、私は荷造りを再開する。
日記帳を箱に詰め、ふと、思い出した。
立ち上がり、机の引き出しを引っかき回す。突然高速で動き始めた妹に、兄は怪訝そうな顔をしながら、自分も荷造りに戻っていった。
小さい頃、宝物を入れていたキャンディの缶に、果たしてそれは、そのまま入っていた。
古ぼけた手鏡。真鍮製の本体には緑色の錆がいくつも浮き、鏡の裏面に貼ってあるフィルムが剥がれたのか、鏡面の一部も黒ずんで写らなくなっている。
金色のリボンも一緒に入っていた。こちらは祖母に結びなおしてもらっていて、綺麗な形を保っている。
一緒に貰った冊子は、しばらく虫眼鏡で眺めていた。でも、ある日気付くとなくなっていた。多分、掃除をした際に祖母か私自身が捨ててしまったのだろう。今思うととても残念だ。
私はキャンディの缶に手鏡を戻し、それを引っ越しの荷物の中に入れた。
あれ以来、ウサギには会っていない。
でもいつか、ひょっこりとやって来るような、そんな予感がするのだ。
だって私は、ウサギにこの手鏡代2万円を支払っていないのだから。
あとがき。
またウサギです。
それしかネタがないのか、と言われそうです。
はい、ないんです……(コラ)。
「今はこれが、精一杯」((c)「カリオストロの城」(笑))。