花を
作:桜梛 愛煌





 今日は少し風が吹いていた。その所為か、衣替えした夏の制服では、少し肌寒い。膝上ほどの白のスカートが風に揺れる。
 葉月は目を細めて歩いていた。砂埃が目にはいるからだ。ぼやけた人々を見ていると、少し泣きたくなってくる。
 生まれつきの茶色の髪は、つい最近、ばっさり肩まで切った。背中の中程まであった髪を、惜しげもなく切ったのは、ただウザかっただけ。
 美容院の床に散らばった、茶色の髪を見たときも、大してなにも感じなかった。ああ、この髪にも色々苦労したな。先生に怒られて、泣きながら地毛です、と言って――それぐらいだ。
 人々が行き交う大通りで、葉月のような子はあまり目立たない。
 葉月は唐突に足を止めた。知らない花屋が目の前にあった。色とりどりの花が、精一杯に自分を主張している。鮮やかで、美しい。

 でも、花は嫌い。

 だが葉月はバッグから財布を取りだし、名も知らぬ小さい薄桃色の花を買った。
 あの人は、花が好きだから。
 少し目頭が熱くなった。
 緩んだ涙腺は、砂埃の所為だけだと、必死で思いこんだ。

――花は嫌い。
 昔、一度だけそのことを口にした。
 
「こんにちは」
 葉月は挨拶と共にドアを開けた。真っ白な小さい病室。
 部屋に一つしかない白いベッドで、本を読んでいた少年――崇明(たかあき)が優しく微笑んで手を振った。葉月も笑顔で振り返す。
 彼は穏やかで優しい顔をしていたが、どこか顔に影が落ちていた。
「葉月ちゃん……!」
 
「どうしたんですか? おばさま」
 葉月は笑顔で、椅子に座っていた優しそうな女性――崇明の母親の芙美子(ふみこ)に問いかけた。
「お花……買ってきてくれたの?」
「ええ、綺麗でしょう?」
 彼女は、少し困ったような顔をして頷いた。
「そうね……崇明。ほら、綺麗なお花」
 彼女の言葉に口元をほころばせ、葉月に輝いた顔で礼を言う彼は、どうしても病人には見えなかった。

 ――昔、あたしのお兄ちゃんが、よく花をくれたの。
 ――あたしの為に、あたしの為だけに、花を持ってきてくれた。あたしは、お兄ちゃんが大好きだった。
 ――でもね、死んじゃったの。
 ――花を取ろうとしたの。あたしの喜ぶ顔が見たくて。遠足の時、先生の目を盗んで、崖の花を取ろうとしたの。
 ――そうしたら、落ちちゃった。
 葉月は涙ぐんだ。
 ――馬鹿よね、お兄ちゃん。あたしの為に死んじゃうなんて。あたしの為に、その花を握って、頭打っちゃうなんて。
 ――それからよ。あたしが花を嫌いになったのって。

「葉月ちゃん」
 茶を淹れる葉月に、芙美子が話しかける。
「何ですか?」
「ねぇ……葉月ちゃん。とても言いにくいんだけど……」
 葉月は、眉をひそめ
「どうしたんですか? おばさまらしくない」
「お願いよ、葉月ちゃん、ショックを受けないで」
「だから、ほんとにおばさまどうしたの? わたしは平気ですよ。なんでも言ってください」
 芙美子が、一呼吸おいてからゆっくりと告げた。
「実は……この病室、もう新しい人が入るの」

『そっか。葉月ちゃんが花が嫌いっていうのは、しょうがないよね』
『でも多分、葉月ちゃんは、花が嫌いなんじゃなくて、見るのが辛いんだと思う』
『お兄ちゃんが、大好きだったんだね』
『だから、同じくらい好きだった、花を見るのが辛いんだ』
 このこと、人に言ったのは初めてよ、と葉月は、独り言のように呟いた。
 ――誰にも言ってないの。怖くて怖くて。人殺し、って言われるのが怖くて。
 ――馬鹿だよ、あたし。
 ――花に責任押しつけてんの。花があんまり綺麗だから、お兄ちゃんが取ろうとしたんだ、って。あたしの所為じゃないって。だから、花が嫌いになったの。
 ――辛いんじゃないの。嫌いなの。本当に。嫌いなの。嫌いなのよ……

「何言ってるんですか? おばさま」
「分かって、葉月ちゃん。崇明は――」
 自分の頭が混乱するのを実感していた。ヒステリックな声が、喉元にこみ上げてくる。
「崇明はここに……」
 白いベッドを指さした。崇明が、――あの優しく、おだやかな表情で――微笑んでいる。
「もういないのよ。崇明はもうここにいないの。現実を見て、葉月ちゃん」
「崇明はここにいるじゃないですか!」
 葉月の叫び声にも、崇明は驚きもせず、葉月の買ってきた花――薄桃色の花――を弄(もてあそ)ぶだけだった。
「いないのよ!!」
 葉月はびくっと身体を震わせた。滅多に声を荒げない、芙美子が出した声とは思えないほど大きな声、いや、叫びだった。
「あの子はもう居ないの! 悲しいけど現実なの!!」
「……」
「いないのよ!もう、もう……」
 最後の方はほとんど小さな泣き声だった。
「い……ない……?」

『本当に?』
『僕には葉月ちゃんが、自分が壊れないように、自分が罪悪感で壊れてしまわないように、必死で逃げてるように見える』
『それは悪いことじゃないと思う』
『誰も悪くないよ。葉月ちゃんも、お兄さんも、花だって』

『でも、花は綺麗だと思わない?』
 葉月は頷いた。
『僕には、難しいことは分からないけど、さ』
『花ってとっても綺麗だよね』
『多分、僕は花を咲かす時間が、とっても短いからだと思う』
『人間と違って、とっても限られた時間の中で、精一杯生きているから』
『だから、綺麗なんだよ。きっと』

 葉月はよろめいた。腰に何かがぶつかる。テーブルだった。
 ガシャリ、と何かが割れた。
 ゆっくりと――滑稽なほどゆっくりと、彼女は床を見た。
 床には、紅い小さな花が散らばっている。白い花瓶は、二つに大きく割れ、少しだけ、小さい破片を撒き散らしていた。
 赤い、紅い花……。崇明が、大事に大事に育てた、大切な花だったのに……。
 葉月の脳裏に『あの光景』がよぎった。
 崇明は血を吐き、悶え、苦しんでいた。
 ただ泣き叫ぶ自分。あわててナースコールを押す芙美子。
「崇明!!」

 葉月は、呆然とした表情でベッドを見た。
 誰も、いなかった。

 白いシーツが見えるだけ。整えられたシーツ。何人もそのベッドに横たわったはずなのに、まるでそれを感じさせない清潔感。
 崇明だって、確かにここにいたはずなのに……! ――その清潔感が非常に憎くて、葉月は口唇を噛み締めた。錆びた、鉄の味がした。

『人間だって同じだよ』
『人間だっていつか死ぬ。そして、美しい時間、花で言うと、花の咲く時間だ。だけどそれは、花と比べれば、驚くほど長い。』
『長い分、疲れてしまうかもしれない。いやになってしまうかもしれない。けど……』
『それを精一杯、生きなくちゃ、人間は綺麗になれない気がして』
『葉月ちゃんのお兄さん、精一杯生きてたんだね』
『だから葉月ちゃんの為に、花を取ってきてくれた。そして、取ろうとしたんだ』
 崇明との、会話だった。
 意味はなかったのかもしれない。でも葉月は、確かに、確かにその時、少しだけ救われた気がした。

「……花…を」
 葉月は呟いた。
「花…あげ…た…いの…花……を」
 嗚咽を交えながら、途切れ途切れに呟く。
「た……かき…花……花が…好き…だっ…たから……」

葉月ちゃん、と崇明は言った。苦しそうな聞き取りづらい声だったけど、確かに聞こえた。
『葉月ちゃんには僕の分まで、精一杯生きてもらいたいんだ』

 そういえば、どこか崇明はお兄ちゃんに似ていた。優しい崇明。穏やかで、植物を愛していた崇明。
 もう、いない。

「花を……」
 葉月の両目から、涙が溢れた。


『僕は、花みたいに綺麗な時間が短いから』
『だからその時間は飽きることなく、精一杯、美しくいようと思って』