食べ物
作:坂田火魯志





 その日彼は極度の空腹を覚えていた。
「腹が減ったな」
 昼食はとった。だが仕事が忙しかったせいかどうも普段より空腹を覚える。いつもはこんなことがないのに、である。
 彼は残業するつもりであったが切り上げ自分のアパートに帰った。外食は金がかかるのでいつもスーパーで買い物をしてそれで自炊している。
 いつものスーパーに入った。駅前にあるごくありふれたスーパーである。いつもそこで買っている。
「何がいいかな」
 店の中を見回る。すると缶詰の山が目に入った。
「お」
 見れば安い。一個三十円とはかなりのものだ。
「何の缶詰かな」
 果物か何かのようである。どうやら日本産のものではないらしい。文字はアルファベットでも漢字でもなく読むことはできない。だが貼り付けられている絵からそれが果物らしきものであると推測できるのだ。
 ものは試しと思い買ってみた。それはデザートにし他の食材をカゴに入れた後金を払いアパートに向かった。
 服を着替え早速食事にする。空腹だったのですぐに調理して食べた。
「やっと落ち着いたな」
 彼は満腹感を覚え一息ついた。そしてデザートにと考えていた缶詰を開けた。
「まさか手袋が入っているなんてことはないよな」
 以前開けてみたらその中には手袋が入っていたということがあった。運がないと言えばそれまでだがそのことが何時までも記憶に残っている。
「いくら俺でも手袋なんて食えないぜ」
 缶切りで開けていく。キコキコと音がする。
 中には幸いにして手袋は入っていなかった。桃に似た美味そうな果物が半分に切られて入っていた。
「何だ、桃そっくりじゃないか」
 彼はそれを見て少し落胆した。あまり桃は好きではないのだ。
 だが折角買ったものを捨てるのは気が引ける。フォークで取り出した。
「味はどうかな」
 口に含む。歯触りは桃とは少し違う。むしろ洋梨に近いか。案外固くシャキシャキしている。
 味はいい。ライチに似ている。やけに甘かった。
「美味いな」
 彼はライチは好きだった。だからこの味がえらく気に入った。
 美味しかったので何個か開けた。そして次々に食べた。何個目かを食べた時だった。
「ん!?」
 喉に何か変な感触があった。何かが喉から胃を伝わっていくのだ。
「よく噛んだ筈だけれどな」
 それはすぐに胃に入っていった。とてもその果物の感触ではなかった。何か這う様な感じであった。
 彼は妙に思ったがすぐに忘れた。その後はテレビで野球を観戦し十二時頃に寝た。翌日も仕事なのでそれに備えてあまり遅くまで起きるつもりはなかったのだ。
 次の日彼は普通に出勤した。そしてそれから数日経った。
 腹が痛くなってきた。中から何かチクチクするのだ。
「何だ、これは」
 数日経っても続き薬も一向に効果がないので彼は医者に行った。だが何処も悪くはないと言われた。
「おかしいなあ。凄く痛いんですけれど」
「レントゲンでも特に変わったところは見えませんよ」
 医者はレントゲン写真を見せながら彼に説明した。見れば本当にそうである。
「わかりました。異常がないというのなら」
 とりあえずは医者の言うことを信じた。最近の医療ミス等については聞いていたが彼は今回は医者の言うことを信じてみる気になったのだ。
 だが数日経っても痛みは一向に収まらない。それどころか益々酷くなるばかりである。
 それまでの痛みとは比較にならなかった。まるで火のついた棒で突かれる様な痛みである。
 会社にいる時もアパートにいる時も痛みは収まらない。彼は痛みで夜も眠れず次第に疲れていった。
 医者には何度も行った。その度に薬を調合してもらい飲んだが効果はない。診断を受けても何処も悪くはないと言われる。彼はそれが不思議ではなかった。
「本当に何処も悪くはないのですか!?」
 彼は問い詰めた。
「はい」
 医者は力なく答えた。彼にも全く原因がわからないのだ。
 その痛みは益々酷くなっていく。彼は最早骨と皮ばかりになりまともに生活をおくることができなくなっていた。
 医者は彼に病院を紹介した。そこは大きな大学病院であった。彼はそこで入院することとなった。
「俺は一体どうなったんだ・・・・・・」
 彼は病室で一人呟いた。原因不明の病気なので面会謝絶となり彼に会いに来る者はいなかった。家族も仕事の同僚も彼に会いに来ることはできなかった。
 彼と顔を合わせるのは医者と数人の看護婦だけであった。彼はその医者に対して尋ねた。
「先生」
「はい」
 医者は答えた。
「私の胃の中には何がいるのですか」
「・・・・・・・・・」
 医者はそれに対し答えようとしない。
「答えて下さい」
 彼はその幽鬼の様になった顔で医者に問うた。
「私は一体何の病気なのですか」
「それは・・・・・・」
 医者は難しい顔をした。
「ご存知なのですか、私が一体何の病気であるのかを」
「いえ・・・・・・」
 医者は難しい顔をしたまま首を横に振った。
「そんな、私は何の病気にかかっているのかもわからないのですか・・・・・・」
 彼はそれを聞いて絶望した顔になった。
「はい・・・・・・」
 医者は力ない声で答えた。
「貴方のご病気が何であるか、私達にもわかりません。身体の何処にも異常はないのです」
「そんな、私は今も胃に激痛を感じているのですよ」
 彼は苦しい声で言った。
「それはわかっています。しかし」
 彼は苦しい顔で言った。
「レントゲンを撮っても異常は全く見られないのです。確かにほんの小さな穴が数個見られるのですがとてもそこまでの衰えの原因になるものとは」
「穴ですか!?」
 彼はそれを聞いて言った。
「はい。ですがほんの零点数ミリ程の穴です。痛みなぞとても感じられないような」
「穴・・・・・・」
 彼はそれを聞いて考え込んだ。
「先生、手術をお願いできますか」
「えっ!?」
 医者は彼の申し出に驚いた。
「しかしそのお身体では・・・・・・」
 生命の危険すらあった。だが彼は頼み込んだ。
「お願いします、このまま死ぬよりは余程いいです」
「そうでしたら・・・・・・」
 彼もそれを承諾した。確かにこのままでは彼が死んでしまうことは火を見るより明らかであったからだ。
 そして手術は開始された。特別に外科の中でも特に知られた名医に頼んで来てもらった。
「開始します」
 彼は準備を整えた。
「はい」
 周りの者達が答える。そしてその医者は横たわる彼の腹部にメスを入れた。
「見たところ何もないが・・・・・・」
 胃には何もなかった。だが出血によりその中は血の海であった。
「この程度の穴でここまで出血するものだろうか」
 医者は不思議に思った。そして胃の中を調べていった。
「ムッ!?」
 そこで彼はとあるものに気がついた。血の中に何かが光っているのだ。
「これは・・・・・・」
 それをピンセットで取った。それは小さな、米粒よりも遥かに小さいものであった。
 気をつけないと見えない程のものだ。彼はそれを丹念に全て取っていった。
「これは一体何だ!?」
 彼は周りの者に尋ねた。
「それは・・・・・・」
 誰もそれが何なのかわからない。ただ首を横に振るばかりである。
 ともあれ胃の中にあるそれを全て取った。そして胃の傷跡を塞ぎ手術は終わった。
 彼は暫く絶対安静の状態であったが次第に体力を回復していった。身体にも肉が戻り血色も次第によくなっていった。
「どうやら助かったみたいですね」
 彼は手術を担当した医者に対してまだ弱々しい笑顔で言った。
「はい、どうやら峠は越えましたね」
 その医者も笑顔で答えた。
「ところで先生」
 彼は医者に対して尋ねた。
「私の病気は何が原因だったのですか!?」
「虫です」
 彼は答えた。
「虫!?しかし私の胃の中には何もないと・・・・・・」
「レントゲンでは確かに何も映ってはおりませんでした」
「ではその虫は・・・・・・」
「はい、どうやらレントゲンに映りにくい身体の構造だったようです」
 医者は深刻な表情で答えた。
「しかも薬に対しても異常に強い体質を持っておりました」
「恐ろしいですね」
「そのうえその小さな身体からは想像もできない程の食欲を持っていました。貴方は彼等により体内の血と養分を吸い取られていたのです」
「そうだったのですか。危ないところでしたね」
「はい、あと手術が三日遅ければ貴方はお亡くなりになっていました」
「そうですか・・・・・・」
 彼はそれを聞いてあらためて戦慄を覚えた。
「ただ一つ気になることがあります」
 医者はこおで表情を変えた。
「あの虫は一体何処で入ったかということです」
 その顔は仁術を施す者から研究者のものになった。医者は大なり小なりこの二つの顔を持つ。
「あのような虫は今まで見たことも聞いたこともありません。当然我が国にはおりません」
 彼は医者が次に何を言うか大体予想していた。
「最近海外旅行に行かれたり出張で海外に行ったことはありませんか?」
「いえ、全く」
 彼は答えた。
「そういう仕事じゃありませんから。それに私は出不精で国内旅行にも行ったことがありません」
「そうですか」
 彼はここで聞く内容を変えた。
「それでは海外から輸入された食べ物を口にしたことはありますか?」
「食べ物ですか?」
 一概には言えない。スーパーに行けば外国から入ってきた食べ物が溢れている。オレンジにしろ魚にしろ何でもそうだ。
「そうですねえ、入院する前に食べたものといえば・・・・・・」
 彼は記憶をたどっていった。そしてあるものを思い出した。
「あ!」
 彼は思わず声をあげた。
「思い出しました、あれですよ」
「あれとは!?」
 医者は身を乗り出して尋ねてきた。
「実は安売りだった缶詰を買ったのですがね」
「はい、缶詰ですね」
 医者は真剣な表情でその話を聞いている。
「見た事も無い文字で書かれた輸入品だったんですがね」
「中身は一体何でしたか!?」
「果物でした。外見は桃みたいでしたが歯ざわりは洋梨に似ていて味はライチそっくりでした」
「また変わった果物ですね」
 医者はそれを聞いて顔を顰めた。
「はい。はじめて食べるものでした」
 彼は答えた。
「味は良かったのですが途中で何か奇妙なものを飲み込んだという感触がありました」
「それですかね」
「私にはわかりませんが・・・・・・。それからです。胃の中に虫が住むようになったのは」
「それではその缶詰の中に入っていたと考えるのが妥当ですね」
「はい。しかし不思議なことがあるのですよ」
 彼はここで顔を顰めさせた。
「何がですか!?」
 医者はその表情を見て問うた。
「いえ、缶詰ですよ」
 彼は医者に顔を向けた。
「中には何もいない筈でしょう?真空状態で密閉されているんですから」
「はい」
「それが何故虫が潜んでいたんですか?」
「ごくごくたまにあることなんです」
 医者は落ち着いた声で語った。
「真空状態で生きることが可能な微生物もいるのです。しかも雑食性の」
「それが缶詰の中に入っていたということですか」
「おそらくは。まだ断定はできませんが」
 医者は答えた。
「ただ一つ言えることがあります。残念なことですが」
「それは何でしょう」
 彼は尋ねた。
「貴方は非常に運がなかったということです」
「・・・・・・・・・」
 彼はそれを聞いて言葉を失った。
「こう言っては見も蓋もありませんがこうしたことは普通は考えられないことなのです。缶詰の中にそうした寄生虫が
潜んでいることなぞ」
「そうですか、やはり」
「それだけではありません。それが未知の種であるということも。貴方はそうした意味で非常に不運でした」
「正直言って有り難いものではないですね」
 彼は顔を暗くさせた。
「命こそ助かりましたがね」
「それは幸運と言っていいでしょうか」
「当然です。命がある限り人には運が巡ってきますから」
「そうであって欲しいですね」
 彼は憮然とした表情でそう言った。

 それから二週間後彼は退院した。そして仕事に復帰した。
 彼の中にいた虫の存在は後日学会で発表された。これは医学会に一大センセーションを巻き起こした。それ程までに恐るべき虫であったのだ。
 だが彼はそれをどうでもいいことのように感じた。助かった命を大事に使おうと思った。
 さしあたって彼はそれ以降生ものを食べなくなった。必ず火を通すようにした。
 当然缶詰には見向きもしなかった。彼はそれから缶詰に限らず海外の食品にもかなり厳重な警戒をするようになった。


食べ物    完



                                2004・5・12