水面(みなも)
作:唐沢りょう





 冷蔵庫を開けるとそこはもう一面の海で、爽やかな潮の香りが鼻腔をくすぐった。
 風呂に入っていたのか姉が「きゃ」と頬を上気させて、長い髪をゆらしながら給水タンクの方へ引っ込んで行った。後でやかましく云われるんだろうなあ。
 ぼくは棚にある清涼飲料水のボトルを手に取り、奥の棚で寝転がりながら高校野球の中継に見入っている親父に、何とかなだめてくれと頼んだ。
「あいつは母さんに似てしつこいぞ。2週間は口を聞かんのじゃないか。なんにしろ覚悟したほうがいいな」わははと股間を掻きながら人事のように笑う。なんて父親だ室温設定を低くして風邪でもひかせてやろうか。
「おう。そこのあんちゃんあんちゃん。ちょっと海の家「おらだのくろしお」によっていかんべあ」
 話し掛けてきたのは、人なつっこい笑みを向けてくる日に焼けた老人だった。この暑いのに黒く焼けたいかにも人が眼前にいたのではさらに暑くなるが、仕方がないのである。この老人だけではない。あたり一面、人、人、人の山である。どいつもこいつも例年通り、夏真っ盛りという顔しやがっていらいらする。ところが、カップルできゃっきゃっ騒ぎやがって、けっ、大きな水溜りのどこがたのしいのじゃという毎年のような怒りがわいてくる事は無く、その原因を思い浮かべると自然と顔がほころんでくるのが自分でもわかり、それにも増してさらに顔がにへらあとしてくるのである。
 老人には、あいにく泳ぐ気も日に焼ける気も肉の少ない焼きそばを食べる気も無いのでと丁重にお断りした。海の家によっていけと云われても冷蔵庫の外は自宅である。こっちのほうが快適快適。だけど、ななみちゃんの水着姿はみたいなあ。まさか家の中で水着になってくれるなんて嬉しいことは起こらないと思うので、どうしようかなあ。一緒に泳ごうと誘ってみようかなあ。
「取るもん取ったなら早く閉めろ。電気代がかさむ」親父がスイカを頬張りながら云った。
 海につながっているのだから、冷房のための電気代もくそもないような気がし、首を傾げるしかないが、思いつきで書き始めたのでそれも仕方がないと冷蔵庫の扉を閉めた。
「しんどうくんー。どうかしたの?」
「あ、ななみちゃん」
「遅いから心配してたよー」
「だいじょうぶだいじょうぶ。今ね、海にいこうか迷っていたところなんだ」
「海かあ、いいね。だけどここからだと結構遠いんじゃないのかな。えー?冷蔵庫の中を通って海へ行ける? またばかなこといってー」と君は笑って。
 それに冷蔵庫を開けるのにいちいちノックがいるなんて信じられるかい。さっきも姉さんが……。と云うと眩しい笑顔をみせて揺れた髪からひまわりの匂いがしてぼくは幸せに包まれて。