目玉焼きの女神様
作:九夜鳥





 真っ白。
 それは、確かに真っ白だ。
 芸術的なまでに。美しささえ感じる。
白にだって色々ある。例えば雪の色を指して白銀というし、花嫁衣裳は純白だ。
 でも、世の中で、今最も真っ白な、白。混じりけなしの白。
 それはこれだ。今、目の前にある物体。
 そうとしか思えない。そうでないとは考えられない。これこそ、世界で最も白い、白だ。
 だが、『それ』は全てが白で出来ている訳ではなかった。
 『それ』は歪んだ円形の、平べったい物体だ。構成面積の大半が白で占められているというのに、その物体の中央からやや右にずれた部分に、黄色い丸がある。その黄色の部分は、視線を少し傾ければ、全体からややぷっくりと膨らんでいるのが判るだろう。白の部分に埋没し、上側が露になっているのである。さらに。
 『それ』の下から、歪み、イビツになった赤と、肉の色をした薄いモノが見えている。所々には醜い焦げ目さえある。
 だが、だからといって、黄色や赤が、白の美しさを貶めることは無かった。むしろ逆だ。白と黄色と赤の、それぞれのバランス。配置。コントラスト。醜さと美しさが綯い交ぜになって、『それ』をより高次な美しさへと押し上げて……いや、昇華させている。僕はこの歳になって初めて、醜きものと交わることで、醜さを取り込むことで不完全という完全さを具現することもあるのだと識った。知識としてはそういう存在があると聞いてはいたが、自らの体験として識るのはこれが初めてだ。
「おお…………」
 知らずの内に、口から言葉が漏れた。
 否。
 言葉ではなく、まさに感嘆。心の震えが、そのまま音となって口から伝え出でたのだ。
「ねぇ」
「んっ、うぁ?」
 柔らかな、ソプラノの声を耳にして、僕は『それ』に目を奪われて以来初めて目の前にいる女性に気が付いた。
「そんな、見詰められると……恥ずかしいよ」
「あ、うん。ご、ごめん」
 本当に心を奪われていのだろう。彼女が小さなテーブルの向かいに座ったことにも気が付かなかった。
「ね、早く」
 ささやくように。誘うように。恥じらいを伴って、彼女が口を開く。
「早くして、よ」
 言葉は行為を急かすものだが、その実照れ隠しに他ならないことを僕は違うことなく見抜いた。
「判ったよ」
 彼女を焦らす気は、ない。
 僕は皿ごと『それ』を持ち上げると。
 右手に握った箸を操って。
 白い白い、真っ白な『それ』を口に運び。
 
 咀嚼した。


  *


 春もうららかな、というには既に強すぎ、初夏というには僅かばかり優しすぎる日差し。桜の花は疾うに散り、木の根元に溜まって土へと帰ろうとしている頃。葉桜の若葉が日に日にその色を濃くしてゆくさなか。暦が五月に移り変わって間もない時候。事の起こりが何時であるのかと問われれば、僕は真っ先にこの時期を思い浮かべることだろう。
 事、と漢字によって書き現わせば僅かに一字、たったの八画に過ぎないが、僕の人生観を根底から覆し、且つ僕の人生そのものの方向まで決定付けた出来事だ。世界の誰にとって大した事でなかろうとも、僕にとっては一大事である。
 もっとも。
 その事実に気が付くのは誰だってどんな時代だって、自らの足跡を振り返った時だ。まさにその瞬間、その最中に「ああ、この瞬間自分の人生は決定したのだ」なんて思う奴は、居たとしても全体に比して大した割合ではないと思う。
 僕だっていくらか人生を歩み進めたのちにこの出来事を振り返り、そして初めて実感したのだから、人類の大半に含まれるのだからえらぶって大きなことを言う資格など無いかもしれないのだけれども。
 具体的に何が起こったのか、というと。ぶっちゃけた話、今現在のカミさんと付き合うことになったのである。


  *

 
 僕と彼女が出会ったとき。
 僕らはまだ二十歳にならない若造で、ぶちぶちと文句を言いながらも親の脛をかじっていれば、それでよかった。彼女がどうだったか僕は知らないが、僕としては、ひいひい言いながら成し遂げた志望大学への入学に求めたのは、勉学でも知識でも将来でもなく、ただただ素敵な女性との出会いである。
 はっきり言って日常生活では何の意味も持たないような歴史や数学の公式をめいいっぱい頭に積み込んで積み込んで、半分くらい何のために机に向っているのか理解することさえ半ば放棄して、それが義務とさえ勘違いしながら。半年以上モノあいだ、死に物狂いで頑張ってきたのだ。そりゃあもちろん夢と希望に胸は膨らむに決まっている。
 我が母校である南石大学は、ちょうどY字型になる片側二車線の車道を挟んで三つのキャンパスが隣接しあった状態で配置してある。一番北側は工学部・理学部・農学部とそれぞれの実験場や畑や水田、家畜小屋、さらには農学部獣医学科付属の動物病院があり、とまさに理系キャンパスだ。Y字東側は、僕の通っていた文学部・法学部・経済学部と総合図書館、共通教育棟および大学本部があった。残る西側は、教育学部だ。といっても、専用グラウンドと二つの体育館、付属の小・中学校。面積だけはピカ一で、僕だって端のほうまで入ってみた事はなかった。他にも車で20分くらいの位置、海の側には水産学部、山側に走れば医学部と付属病院があり、院を除いても在籍学生数1万数千人は下らない。
 まあ要するに何が言いたいのかというと、南石大学は周辺屈指の大型総合大学であり、有体に言ってしまえば一人や二人くらい、僕と付き合おうとする女だって居るはずなのだ。
 ……きっと。


  *


 彼女との出会いは、入学後から一年を要した。
 せっかく大学に入ったものの、僕のようなごくごく普通の平凡な男と付き合ってくれるような女性はそうそう見当たらない。
 いや、それとも奥手な僕が悪いのだろうか。棚から牡丹餅を待っているだけではいけないと行動に移したこともある。だが、その全てが空振りに倒れるか、実行にさえ至らないのが殆どだった。僕の身近にいた女性の大半は彼氏持ちで、僕のことなど眼中にないと言った風情である。良くて友人止まり。恋愛の対象などとみてはくれなかったのである。
 そんな、五月ごろ。初夏の過ごしやすい陽気の昼過ぎ。
 午後の講義が急遽休講となってしまった僕は、手持ち無沙汰もあってとっとと家に帰ろうと自転車を漕いでいた。帰ってもすることなど別にないのだけれど。
 気持ちよく自転車で走る僕の目に、一人の女性が入ってきた。彼女は植え込みのツツジを越えて、溝の側でしゃがみ込んでいる。その溝は、溝というにはちょっと大きすぎる。深さがちょうど僕の身長と同じくらい、横の幅も一メートルちょっとはあるだろうか。水嵩はさほどでもないが、底は水苔が生えてぬらぬらとして、いかにも不衛生そのものである。
 何をしているんだろう……自殺? だが、そんな浅い場所に飛び込んだところで精々骨折がいいところだ。何気なしに側を通り過ぎた瞬間、小さな、だが確かにはっきりと、鳴き声がした。
 もしかして。
 自転車を停めて植え込みを乗り越え、溝を覗き込むと、真っ白な仔猫が、彼女の方をみて精一杯口を開きながら、助けてと叫んでいたのだ。
 僕は額を押さえた。大当たりだ。無視すればよかった。
 この女性は、自分で助けに入る勇気もなくて、かといって見捨てることもできずに途方に暮れていたのだ。
「あの……」
「持ってて」
「えっ」
 彼女が何か言いかけたが、有無を言わさず僕は肩掛けのバッグと上着を彼女に押し付けた。全財産の入った財布を、自転車に置きっぱなしにはできない。
 そして迷わず僕は縁に手を掛けて、溝の中へと降りていった。
「ほら、おいで」
「にゃー」
 だが、仔猫はあろうことか警戒心も露に毛を逆立てて、僕を威嚇してきた。
「おいおい」
 僕が一歩踏み出すと、脱兎のごとく逃げて距離を置く。そのくせまたこちらを向いては助けて欲しそうに、「ニー」と泣くのだ
「助けて欲しいのならじっとしてろッ」
 うああ、靴に水が滲みこんできた。と、不用意に踏み込んだ瞬間。
『アッ』
 僕と彼女の声が重なった。
 ずるり、どちゃっ。
 足元が滑って、大の字になって背中から着水。
 慌てて立ち上がったけれど、ズボンの尻とTシャツの背中から気持ちの悪い冷たさが伝わってくる。
 ふう、と立ち上がって僕はため息。
「もう手加減しねぇぞコノヤロォォォォッ」
 殺意も露に、僕は仔猫を追い掛け回し始めた。
 これが、僕と後のカミさんとの出会いであった。いや、まじで。


  *


 無事に仔猫を保護した後、溝から這い上がった僕は彼女から荷物を受け取った。このとき初めて僕は彼女の顔を見たのである。
 一目ぼれだった。
「だ、大学の構内には野良猫多いからね」
 先ほどの仔猫は、きっとこの春生まれたばかりの一匹だろう。ここの所良く見かけるのだ、親子連れの猫どもを。
 無事助け出された直後、アイツは礼も言わずに走って逃げ去っていきやがった。まあ、あの仔猫にしてみれば、親からはぐれ溝に落ち、巨大な人間に追い掛け回されて捕まってしまったのである。たいそう怖かったに違いない。
「そうなんですか……。ありがとうございます。私じゃ、助けようにも」
「そりゃしかたないさ」
 女子では、ちょっと深いからな、この溝。躊躇うのも仕方ない。
「あ、あのッ。よければ、お礼というほどでもないんですが、その……私の部屋、すぐそこですから。Tシャツとジャージくらいでしたら……あの」
「……いいの」
 彼女はこくんと頷いた。 
 そうして僕と彼女の交際が始まったのである。


  *


 口の中で、白身は淡白な癖のない味を演出する。カリカリのベーコンが適度なジューシィさと塩気を添える。流れ込んできた半熟の黄身が、甘味とコクを下の上に表現した。それだけでない。彼女の手製のタレは、ほのかな酸味と辛味を加え、『ソレ』をより高次の高みへと押し上げる。
 非の打ち所のない、完璧な目玉焼きであった。
「……うまい」
「ほんとに?」
「ホントだよ」
 嘘偽りのない、僕の本心。満足したように彼女は満面の笑みを浮かべ、もっとあるわよと言って二皿目の目玉焼きを差し出した。
 今日僕は、初めて彼女の手料理を披露してもらっているのである。
 彼女はかわいらしく、表情が豊かで、ちょっと子どもっぽく、普段はしっかりモノのくせに僕と居る時は甘えてくる。そんな、絵に描いたような素敵な女性であった。いっこ年下であったという彼女。彼女と会うため、僕は一年間をずっと一人で過ごしてきた、そういう運命であるのだと言われれば、僕は無条件で信じる。
 そしてその運命の転換点は、あの仔猫だ。
 よろしい、寛大な心で以って、あの仔猫に対する全ての怒りとわだかまりとを捨て去ってしまおうではないか。買ったばかりのシャツとジーンズが凄まじい事になってしまったのも、運命の代償だと思えば安いものだ。グッジョブ! 仔猫!
 ああ、それにしても。
 僕はついに、大学生活における目的の七割を達成することができた。夢にまで見た恋人の手料理である。しかも、この上なく美味しかった。たかが目玉焼き、されど目玉焼き……これほどシンプルな料理を、彼女は至高と言っていいほどに高めている。当然、他の料理への期待は否応なく高まっていく。
 彼女はアレだけ渋っていたが、一週間もかけて手料理が食べたいと口説き落とした甲斐はあったというもの。しかし、本気で料理ができないだのと嫌がっていた割には、見事な腕前ではないか!
 目の前の、とろりと黄身が流れ出した目玉焼きを箸で掬って、噛み付いた。生ハムと目玉焼きをあわせるというのは、ちょっと思いつかない発想である。だが、ハムの塩気と目玉焼き本来の味が合わさって、口の中にコクのある……それていてあっさりとした風味が広がった。
 前菜でこれならば、メインディッシュはどれほどの出来だというのだろう。ハンバーグだろうか、ステーキだろうか。鶏か? 魚か? 和食か洋食かすら、僕は聞いていない。
 ああ、待ちきれない……!
「美味しいよ、ほんと。この目玉焼き」
 ぺろりと二皿目を平らげた僕の前に、三皿目の目玉焼きが差し出された。
「…………」
 おお、これはベーコンではなく、チーズがふりかけてあるのか。コイツもまたまた美味である。添えられたレタスまであっという間に食べてしまった。
 間を置かず、四皿目が差し出される。乗っているのは目玉焼きだ。それはそれは美しい目玉焼きだ。タルタルソースの添えられた目玉焼きだ。
 あれ?
「これ食べながらちょっと待っていて下さい。すぐ次のが出来上がりますから」
「次のって……」
「はい、目玉焼きです」
 手料理を食べてくれるのが嬉しくて仕方のない、そんな笑みを浮かべながら彼女は空いた皿を持ってキッチンへと消えた。
 ……待て、待て待て待て待て、ちょっと待て。ちょっとでいいから、ちょっと待て。ちょっと冷静になってみようか。んんんー? ちょ、ちょっと待って。え、何?
 目玉? 
 バーニング・アイボール?
 いや、違うか。それじゃ燃え目玉だ。
 ああ、根本的にそーじゃなくて、ええっと……。
 際限のない疑問符に苛まれ続け待つこと数分。
「お待たせ。できました」
 彼女の持つトレイには、目玉焼きが盛られた皿が三枚ほど。
 ちょ、ちょっと待て。何かおかしくないか?
「さあ召し上がれ♪」
 えええ、待ってぇぇぇぇぇッ!?


  *


「実は、私、目玉焼き以外に料理が作れないんです」
「…………」
「美味しそうに食べてくれるから、私、嬉しくなっちゃって……。あ、あの……怒ってますか」
「いや、そういうわけではないんだけどさ」
 怒っているというよりも、戸惑っているといったほうが良いのだけど。
 結局様々なバリエーションに富んだ十五種類の目玉焼きを食べて、僕は彼女にどうして目玉焼き尽くしであったのかを問いかけた。目玉焼きは全て美味しかったが、白米すら出てこなかったのである。
「ほんとに、私料理に関してはずっとこどもの頃から不器用で……例えば」
 と、何処からともなく取り出したのはカップ麺である。ビニールを破いてお湯を注いで3分待つ。硬い麺が解れ、粉末のスープが湯に溶ける。たったそれだけ。料理ともいえない料理だ。
 彼女はそのカップ麺にお湯を注いで、しばらく待ってくださいと言った。
「……?」
 キッチリ時間を計って三分。開けてくださいと言われるままにカップ麺のフタを取り除いた僕の目に入ってきたのは、ただの麺だった。
 透明なお湯の中に浮かぶ麺だった。
 それだけ。
 麺だけ。
「あれ、え、具は!?」
「さぁ……」
 さぁって……ええええ!?
 さっきお湯注いだ時、確かに僕は粉末スープや乾燥チャーシューやらを見たぞ。それは、一体何処へと消えたッ!?
 お湯を啜ってみる。
 何の変哲もない、ただのお湯だった。ちょっと麺の風味が香ってる……ッて、違う、そうじゃないッ!
「スープ! スープは何処に消えたんだあッ!?」
「私、そういう体質なんです」
「たいし……うそぉ!」
 もちろん、僕も彼女も待つ間にカップ麺に手を触れてはいない。本当に、手品でもなく、中身は麺とお湯だけを残して消えているのだ。
 まさか、信じられない。
「ホントに、そういう体質なんです」
 と、彼女は何処からともなくカップうどんを取り出した。さっきのカップ麺より手順は多少複雑だ。なにせお湯を注ぐ前にビニールから薬味やスープを取り出すという作業がある。……というか、いまカップうどん、何処から取り出したんだろう。
 的のずれた僕の疑問を他所に、彼女はたおやかな手つきで作業をこなして行った。お湯を入れる直前、僕は指差して麺・粉末スープ・薬味・乾燥油あげの存在を確認する。ちょっと齧ったりしてホンモノであるということも確かめた。
 お湯を入れて待つこと三分。
 フタを開けた僕の僕の目に入ってきたのは――
「麺は、麺は一体何処に消えたぁぁぁッ」
「お、落ち着いて、落ち着いてッ。そういう体質なんですから、私ッ、体質が――」
 薄茶色のスープに浮かぶ油揚げとネギが所在なさげに浮かんでいる。
「麺は――――ッ!?」



   *



「だから、私そういう体質なんです……」
 申し訳無さそうに彼女は言った。
「体質……ねぇ」
 アレルギー持ちだとか、アルコールに極端によわいだとか、赤いものを見ればつい襲ってしまうだとか言うならまだわかるが、カップ麺の具が消えるなんてそんな体質、聞いたことがない。
 というか、体質で済ませてしまっていいものなんだろうかこれは……?
 カップ麺の具消失する事件から、一週間が過ぎた。
 その間ずっと納得の行かない僕は、毎晩彼女の部屋に寄っては手料理を振舞ってもらったのだが、まともな物が出来上がった例は一度としてなかった。ずっと横で見ていて、彼女に怪しい素振りもなかったにも関わらず。
 例えば。
 カレーを作って煮込んでいれば、入れてもいない筈の味噌がてんこ盛りになっている。炊飯器で炊いていたはずの米は、水の分量を間違えていないはずなのにお粥……を通り越してペースト状になっていた。ほとんどスープといって差し支えない。
 ハンバーグ。どれだけ火加減を調節しようともなぜか表面が焦げ付くだけで中身に火が通らない。仕方ないので二つに割って火の通りを良くしようと繰り返しているうちに、挽肉の炒め物になってしまった。
 炊き込みご飯。出汁と具を入れて炊飯器のスイッチを入れる。念のため、炊飯器は僕が使っているものを使用したにもかかわらず、蓋を開ければ炊き上がった真っ白な白米が姿を現した。勿論、具も出汁も何処に消えたのか定かではない。
 逆手にとって白米を炊くつもりで炊き込みご飯の準備をすれば、炊き上がった時には具を残して米が消えている。なかなか手ごわい体質である。
 インスタント系の料理も全滅だった。カップ麺系の食品は例のごとくだし、ただレンジとかお湯で温める系の食品は破裂して粉々に飛び散るか、ビニールごとどろどろに溶けて影も形もなくなるかのどちらかだ。
 炒め物系は確実に焦げ付いた。
 焼き物系は消し炭である。
 煮物系は汁気が完全に無くなり、噛めばサクサクとスナック菓子のような歯ごたえになっていた。家庭用ガスコンロでこれほどの調理ができるというのは、かえって驚嘆に値すると思う。
 爆発する可能性があるので、圧力鍋を使った料理には怖くてとてもチャレンジなどできはしない。火災の恐れのある揚げ物も同様だ。
「結局、私に作れる料理って、目玉焼きだけなんです……」
 悲しそうに彼女は言う。そんなことはない、こんなふざけた体質なんてあるはずがないじゃないかと僕は慰めるのだけれど、それがどれだけ空しいことか……。彼女は小学校の調理実習で始めて包丁を握って以来、目玉焼き以外の料理に成功したことがないのだという。それ以来ずっとこの体質に苦しんでいたのだから。
「目玉焼きは、目玉焼きだけはソレはもう、絶品でした。誰に習ったというわけでもないのに。食べた同級生はあまりの美味しさに泣き出したくらいです。以来、私のあだ名は『目玉焼きの女神様』となりました。やがてソレも縮められて『目玉さま』、と……」
 ヨヨヨ、とばかりにシナを作って肩を落とす彼女に、僕は掛けてやれる言葉が無い。というか、『目玉さま』ってあだ名、いじめぢゃねぇか。由来を知らなければ何の妖怪かとさえ……。
「仲の良い昔からの友人は親しみを込めて『目ェちゃん』と呼んでくれるのですけれど」
 ……訂正。結構打たれ強いな、この娘。
「そういえば、ほかの卵料理は? 目玉焼き以外の、たとえばゆで卵とか、出汁巻き卵とか」
 彼女は無言で首を振った。
「ゆで卵は茹でてる最中に殻が割れて中身が流出、お湯に溶けてしまいました。出汁巻き卵は入れてもいないお酢の味でとても食べれたものじゃありません。スクランブルエッグなんてこう……メニョメニョと音を立てつつ」
 メニョメニョと音を立てつつ、なんだよ?
 そんな音、スクランブルエッグでは絶対にありえない。
「あー、なんか聞くのが怖くなったからもういいや」
 一体なにがスクランブルエッグの身に起こったのやら……。
 しかし、どうして入れてもいない食材が溢れたり、具が消失したりする? 最早体質どころか、超常現象といって差し支えないんだが。
「父からは料理人と結婚しろと言われました。母は、料理人を雇える金持ちと結婚しろと言われました。姉は毎日外食できるようレストランの経営者と結婚しろと言います。弟は全自動調理マシーンが開発されればいいのにと慰めてくれます。でも……」
 ため息を付いて、彼女は言った。
「毎朝私に目玉焼きを作ってくれと」
 無理もない。彼女の目玉焼きは絶品なのだから。
 僕と彼女は同時にため息を吐いた。重いため息だった。


   *


 翌日より、僕と彼女の猛特訓が始まった。
 ぜひとも僕は恋人の手料理を(目玉焼き以外にも)食べてみたい。できることならドラマの中でしかお目にかかれないような料理の数々を披露してもらい、『うまくできたかどうかわからないけれど……』などと恥らいつつこちらに熱い視線を送る恋人に、心の底から美味しいよとのたまいたいのである。
 その夢を叶える為には、是非とも彼女には様々なレパートリーをマスターしていただかねばならないのだ。
 彼女のほうにも、情熱があった。生まれて初めて包丁を握って以来十年近く、(目玉焼きを除く)ありとあらゆる料理にそっぽを向かれ続けた彼女。何もプロの料理人を目指しているわけではない。ただ、人並みに……そう。人並みに料理を作ってみたい。たったそれだけの、ごく平凡な願いではないか。
 今までどれだけひとりで頑張ったところで無駄だった。教えてくれる家族も友人もすぐに匙を投げた。だが、彼女はもう一度、僕に賭けてみようと応えてくれたのである。


結果は―――散々なものだった。


  *


 乾麺類はどれだけ茹でても表面が柔らかくなるだけで、どうしても芯が残る。パスタの茹で方において、髪の毛一本分の芯を残す湯で具合をアル・デンテというが、彼女のソレは髪の毛一つまみ分ほどもある。コシの強いどころか、噛めばポキポキと音がしそうだ。つーか、音がした。
 サラダや刺身の類は、材料からしてもうだめだった。スーパーでどれだけ丹念に新鮮なものを選ぼうとも、いざ俎板へと取り出してみると既に傷んでいる。どう考えても尋常な速さではない。何らかの特殊な菌の存在さえ疑ってしまう。彼女が刺身を作ろうとすることでバイオ・ハザードさえ呼び起きかねないと危惧するのは、僕が心配性だからだろうか。
 今晩もまた麻婆豆腐に挑み、僕らは見事撃沈した。
「えーっと、これで中華系の料理は三十三種類。全敗ですね……」
「和食は六十四敗だっけか?」
「洋食系はまだ四十八敗です」
 料理の本を買ってきては、ポピュラーなものから珍しいものまで片っ端から挑戦した結果である。
 僕らは再びため息を付きながら、鍋の中身を見やった。
 赤茶けたとろみがかったスープ。火の通った挽肉に、香ばしいかおり。その中に浮かぶ、一センチ角の白い豆腐……。
 見た目は完璧だ。非の打ち所の無い麻婆豆腐である。ただ、浮かんでいる豆腐が杏仁豆腐でなければだが。
 味見をしてみて僕は思わず吹いた。予め料理の本で研究し、豆板醤やらなんやらを使った辛味際立つ結構本格的な麻婆の中に、甘い甘い杏仁豆腐の組み合わせは嫌がらせかとさえ思えるほど。無論、材料を買ってきた時点では普通の木綿豆腐であったというのに。僕も彼女もそんな木綿と杏仁を入れ替えるようなことはしていない。となると、超常現象説が俄然真実味を帯びてくるワケである。
 何かの呪いじゃねえの、これ。
「出来上がった料理が、絶対に食べられないわけではないんですけれどね……」
「こないだの石狩鍋のこと? アレは美味しかったけどさ」
 彼女の料理の失敗には大別して幾つかのパターンがあった。
 入れたはずの物が消える。
 入れてないはずのものが増える。
 調理自体が失敗する。
 そして今回の麻婆豆腐のように、中身の一部が致命的な具材と入れ替わるパターンだ。
 『石狩鍋』というのはこの間起こった今回同様入れ替わりパターンだ。
 しかしおでんを作っていたら煮込んでいる最中に石狩鍋に変身した、という部分入れ替わりでなく完全入れ替わりで、料理自体が全く別なものと入れ替わるのは、数多い失敗の中でもなかなか特殊な例なのだった。
「おでんの具はいったい何処に消えたのか、不思議でならないよ俺は」
「私はどこから鮭の切り身が湧いて出たのかということの方が不思議です。けど、考えても答えが出ない時は、行動あるのみですから」
 打たれ強いなぁ……。
「じゃあ、今夜も目玉焼きを作りますね。ご飯をお願いできますか?」
 そういうと、彼女はエプロンをかけなおして再びキッチンへと立った。何だかんだで、彼女の作る目玉焼きは絶品である。他の料理がなぜか成功しないこと同様、彼女の目玉焼きが美味くない筈がないのは間違いないことなのである。
 そのことを僕は彼女に伝え続けているうちに、彼女は他の料理をマスターしようと努力する傍ら目玉焼きの腕も伸ばしてやろうと前向き(と書いてやけくそと読む)になったのであった。
 主食である白米くらいはきちんと食べたいということで、炊飯器に触るのは僕だけであった。
 繰り返し試した結果、彼女がほんの僅かでも調理中に手を触れた場合、その料理は失敗することが確認されている。たとえたまたま手が当たっただけだとしても。
 蓋を開いてみたら見事な銀シャリが炊き上がっていた。これでほっと一安心。炊飯器で米炊くだけでスリリングな体験ができるというのも珍しいと喜ぶべきか。
 僕は鍋の中から杏仁豆腐だけを丁寧に取り除くと、マーボーの汁を落とすため水で丁寧に洗った。さらに水気を切って大きな器に盛り、フルーツミックスの缶詰を開けて今夜のデザートとした。冷凍庫の方に入れておけば、食後には充分間に冷えていることだろう。
 僕が杏仁豆腐の処理をしている最中にも、彼女は目玉焼きに専念している。
 よく熱したフライパンにごま油を薄く引く。
 香ばしい香りがキッチンに立ち込めると、卵を投入。片手に一つ、両手同時に卵を割って見事なものだ。手早く塩を一つまみ振り掛ける。胡椒は無し。
 火の通り具合を念入りに確認しながら、間もなく彼女は火を止めた。
 カレー用の深皿に、杏仁豆腐を取り除いたマーボーを盛り、その上に目玉焼きを乗せた。目玉焼きは真っ白な白身の縁が黄金色の焦げが飾り、中央の半熟の黄身と下に敷かれたマーボーの赤とで見事なコントラストである。
 言うまでもないことだが、その目玉焼きはこれ以上ないほど美味かった。
 マーボーの辛味を生かすため、あえて薄めの味付け。香りの良いごま油が、両者の一体感を更に高めている。麻婆目玉焼きを口にした時、僕はその味にため息をついた。至福のため息である。
 実を言えば、この目玉焼きのためなら他のあらゆる料理が犠牲になったとしても仕方がないかもしれないと思ったことは、一度や二度ではないのだった。なにせ、彼女の目玉焼きはあらゆる具材を引き立て役とするのだから。
 と、そのとき僕は変なことに気が付いた。
 彼女は決して、目玉焼きだけは失敗することはないのだ。
 今回のように失敗した料理を目玉焼きの具とすることはままあることだったが、その全てが成功である。ため息どころか涙が出るほど美味い。
「美味し……くなかった?」
「いや、そんなことはないけど」
 向かい合って食事する彼女は、僕のほうを見て怪訝そうに首を傾げた。僕も内心で首を傾げる。
 そういえば、……だが。まさか、そんな……いやいや。けれど……そんなことがありえるはずがないが……?
 彼女は目玉焼きだけは失敗しない。
 ハムエッグやベーコンエッグも失敗したことはない。何度も食べている。間違いない。
 目玉焼きに添えるための温野菜なんかも失敗したことはないのである。付け合せも目玉焼きという料理の一部と考えるのであれば……。
「……ねぇ、明日のリクエストなんだけどさ」
「はい、なんでしょう」
「カレーに挑戦してみないかな」
「えっ……でも」
 彼女が躊躇ったのには理由がある。カレーは既に十回以上も失敗しているのである。どんなに手順を工夫しても無駄だったのだ。
 だが、今回のカレーはそうではない。根本的に、違うのである。
「その、カレーなんだけどさ。ただのカレーじゃなくって……」


  *


 十年が経った。
 僕らはずっと付き合い続けて、やがて結婚することとなった。つい一昨年のことである。
 僕らは互いに大学卒業後一般企業に就職したのだが仕事を辞め、店を開くことにした。また、それを機に僕らは籍を入れた。開業資金のため貯蓄が底をついてしまったため豪華な結婚式も新婚旅行もなかったが、僕らは満足であった。
 開いた店の名前は、『目玉焼きの女神様』。
 おそらく世界に一軒しかないであろう、目玉焼き料理の専門店である。


 きっかけとなったのは、あのカレーだった。
 彼女が生まれてはじめて、作るのに成功したカレー。
 僕はあの時、彼女にこうリクエストしたのだ。
『ただのカレーじゃなくて、目玉焼きを乗せるため付けあわせとしてのカレーライスを……』と。
 彼女は『目玉焼き』であれば、完璧に作りこなすことができるのである。ベーコンエッグのベーコンが消し炭にならないのもそのためだ。
 では、カレーやハンバーグを目玉焼きの付け合わせとして作るとしたらどうだろうか。チキンのソテー、ステーキ、トンカツ、麻婆豆腐にパスタ各種、サラダ、鍋物、ありとあらゆる料理を『目玉焼きの具』とするのであれば?
 半信半疑、だめで元々の試みは大成功であった。市販のカレールーを用い、特別な工夫は何もしていないにも関わらず、その味は僕が今まで口にしたどのカレーよりも美味しかった。あの『目玉焼きの呪い』が、良い方向に作用したのである。
 それになにより。
 ただあらかじめ目玉焼きの付け合わせと意識して作っただけで、彼女はカレーを作ることに成功したのだ。
 カレーライスができあがっても、彼女はどこかで失敗しているのではないかと半信半疑であった。盛り付けながら、ご飯に栗が混じっていないかルーから豚肉が消えていないか念入りにチェックする。
 いざ、目玉焼きを乗っけて口にするまで、彼女は見ているこっちが痛々しくなるくらい怯えて、心配していた。
 変な話だが、異常が通常になっている彼女にとって、異常でない状況こそ異常なのだ。あるいは、変に期待しすぎて失敗した時の落胆を抑えるため、予めどこかで失敗してしまえば良いと思ってしまう心理。
 初めて自分が目玉焼き以外の料理を成功したと知った時、彼女は嬉しさのあまり泣き崩れさえした。僕はそんな彼女がいとおしくて、抱きしめて一緒に泣いてしまった。僕も彼女も、目玉焼きをチョコンと乗っけたあのカレーの味を、一生忘れることはないだろう。後に彼女は、『ちょっと塩辛かったけどね』と照れくさそうに笑った。一口ごとにぼろぼろ涙を流せば、そりゃ塩辛いに決まってる。
 成功した料理はそれだけではない。ありとあらゆる『目玉焼きの付け合せ』として作る料理は絶品だった。
 入れていないはずの材料が入っていて、それが料理の味を格段に上げていることなどしょっちゅうである。例の『呪い』の逆作用というか、なんというか。
 時折『目玉焼きの付け合せ以外の料理』にチャレンジしてみたが、案の定というか見事に失敗した。やっぱり彼女の料理は『目玉焼き限定』なのである。
 そんなわけで、僕らの店『目玉焼きの女神様』では、全ての料理に目玉焼きが乗っかっている。鍋であろうとサラダであろうと麺であろうと。というか、メインはあくまで目玉焼きであって、それ以外は付け合せに過ぎないのだ。
 どうしても目玉焼きを乗せることができないデザートとか飲み物関係は僕が担当することとなっている。彼女の手にかかれば、お茶を煮出すことさえ失敗が可能なのだ。
 厨房の奥から、彼女の声がする。
「一番テーブル、冷やし中華目玉焼き上がりです。運んでください」
「オーケイ」
 彼女の目玉焼きは絶品だ。店の経営も軌道に乗り、最近はあらゆる料理に目玉焼きを乗せる不思議な店として雑誌やテレビでも紹介された。食事時ともなれば目の回る忙しさである。常連のお客さんもずいぶんと増えた。
 まさか自分の運命が、目玉焼きに左右されるとは思わなかったが、それでも毎日が充実している。料理を運ぶと、奥から手の空いた彼女が顔を出した。
 ちょうどお客様が来たらしい。備え付けのドアベルが鳴って――
 僕と彼女は同時に言った。


『いらっしゃいませ、『目玉焼きの女神様』へようこそ!』




                                   了