ある現象
作:河合 優





 気が付くと、自分がいた。
 視線を壁に移動し時計を確認する。
 六時四十二分。
 多分、朝だろう。
 自分がいる、というか蒲団で寝ている。
 では、それを見ている自分は誰なのだろうか。
 よく考えてみると、見下ろしている状態だ。
 体を確認しようとしたが、手や足は無い。体も無い。
 床から一メートルほど上空で、周囲を見渡すことが出来るが、動くことは出来ず、勿論移動することも出来ない。
 それから何も物音がしない。
 いや、実際はしているだろうが自分には聞こえない。
 何もする事はなく、今の状況について考えてみることにした。
 幽体離脱とはこのようなものなのだろう。
 いろいろな想像をしたが、それが一番近いと思う。
 だが、不思議とこの現象に対する不安を感じることはない。
 そのうち、空は白みはじめてきた。
 音を聞くことが出来ないので、時間の経過を感じることが出来るのは、壁に貼ってある安っぽいアナログ時計と、窓の外の風景だけだ。
 何もすることが無くつまらない。
 これ程までにあの、無造作になり続ける秒針の音を恋しくなった事はない。
 七時十四分。
 このまま、今日は学校を休んでしまうのか。
 蒲団で寝ている自分は何事もないかのように静かだが、死んでしまっている訳ではないようだ
 僅かだが胸も上下するし、寝返りも打つ。


 そして、また気が付くと、自分の体に戻っていた。
 手も足もあり、しっかりと動く。
 何処も具合は悪くない。
 時刻は七時四十二分。
 少し危ないだろうが、急げばなんとか間に合う時間だ。
 一階に降りてみると既に家族は誰もいない。
 皆、もう出掛けてしまったようだ。
 誰も自分を起こそうとか思わなかったんだろうか。
 確かに、これくらいの時間まで寝ているときもたまにはあるが。
 仕方なく炊飯器を開け、中のご飯をよそり、おかずもなしに麦茶で流し込み、急いで家を出た。
 学校に着いてからは、ずっと今朝のことについて考えていた。
 やはりあれは夢であったのではないか。
 物を見ることは出来たけれど、触覚も視覚も味覚も嗅覚も全く機能していなかった。
 視覚だけの世界。
 まさに夢の中の世界と言ったところだろう。
 しかし、窓の外を飛ぶ鳥や、刻み続ける時計の針はまさしく本物だったと思う。
 それに、あれほど意識がはっきりしていて、目覚めた後もこんなに内容を覚えている夢というものは見たことがない。
 そんなことを考えているうちに、少し前に呼んだことのある、一つの小説の中の出来事を思い出した。
 詳細は覚えていないが、機械により無理矢理作った夢の中に人間が入る、といったような話だったはずだ。
 その夢の中で人々はゲームを自分で体験する事が出来るが、その中では匂いを感じることが出来ない。
 そして、その話の主人公は最後には香水を持ち歩いて、常に自分が現実の世界にいるということを実感出来るようにするようになった。
 そんなことを考えつつも、一限のライティングは実に眠気を誘う授業であり、いつものように机にうつぶせになる。
 幸い席は後ろの方で、この先生は殆ど注意しない。
 既に、何人かの生徒は早くも睡眠学習に入っているであろう。
 目をつぶり、先生の話を聞いているだけで、どんどん意識は吸い込まれていった。


 気が付くと、今度は教室だった。
 今度は、自分の机から一メートルほど上からの視線だ。
 朝と同じように、先生の話し声も生徒のお喋りも全く聞こえない。
 下には、自分の本体が眠っている。
 どうやら理由はわからないが、自分は眠りにつくと幽体離脱をする、という特異体質になったらしい。
 それを理解していくにつれ、いろいろな思考が頭を巡った。
 この非科学的な現象に対しての、疑惑、不安、興奮そして希望など。
 今まで、霊媒や心霊現象、宇宙人やUFOの存在まで全く信じていなかったが、いざ、自分がなったとなると、以外とあっさり事態を飲み込むことが出来た。
 それほどまでに、今の状態は幽体離脱という言葉が合ったいる。
 まるで魂だけが体から離れていってしまったような感じ。
 教室の時計を見ると、眠りについてからだいたい二十分ほど経っている頃だろう。
 あと少しで休み時間だ。
 この状態で、周りをいろいろと観察してみた。
 他の生徒の様子からして、今の自分の姿は見えていないようだ。
 もっとも、自分でも見ることは出来ない。魂だけなのだから。
 先生が教務手帳の様な物を閉じて前を向いて口を動かした。
 そこで授業が終わったらしい。
 日直が立ち上がる、多分号令をかけたのだろう。
 数人の生徒が僅かに腰を浮かせ頭を下げる。
 何というか、生徒の三分の一は眠っている。
 気のせいか、今日はいつもより多い様な気がした。
 先生が出ていってからしばらくして、隣の席の友人が自分の本体を揺すっている。
 起こそうとしているのだろう。
 と、そこで意識は途切れた。


 目を開けると、友人の顔があった。
「おい、一時間目から随分と爆睡だな」
 自分はよく寝ている方だが、今日は特に気持ちよさそうに寝ていたらしい。
「ああ、昨日ちょっと夜遅くまで起きてたから」
 適当に話を流し、他にくだらない話をしていると二時限目が始まった。
 幽体離脱のことも話そうかと思ったが、やめた。
 まだはっきりしないうちは、馬鹿にされるだけだろう。
 それに、何となく自分だけの秘密にしておきたいという気持ちもある。
 二限の間もずっとこのことについて考えていた。
 先程の現象が夢でないとすると、とても凄いことだということになる。
 しかし、一体何の役に立つというのか。
 移動が出来ないので、盗みも覗きも出来ないし、カンニングをしようにもこれだけ離れて隣の奴の解答を見ることは不可能だろう。
 何も証拠が残せないので、この現象について説明する事も難しい。
 いろいろと考えるよりも、もう一度体験してみることにした。
 また机にうつぶせになると、まもなくして眠りについてった。


 …よし、成功。
 この先生は相変わらず、ひたすら黒板を埋めている。
 それから、いろいろとためそうと試みたが、駄目だった。
 まず、何も動かすことが出来ない。
 まるで植物人間にでもなったかのように。
 そして、植物人間とは違うであろう点は、やはり五感である。
 何も聞こえない、感じない、臭わない、寒くもなく暑くもない。
 他にやることもなく、退屈になったので本体に戻ることにした。
 しかし、どのようにして戻れば良いのだろう。
 目を覚まそうとしても何も出来ず、本体とくっつこうにも移動することが出来ない。
 考えてみれば、朝は、特に何も考えずに自然と目を覚ました。
 そして一限目は友人に揺り起こされた。
 今の状態は意識は有るが、何もコントロール出来ないのではないか。
 わき起こる不安を抑えつつ、何か出来ることをさがし、今の状態を完全に理解する事にした。
 まず、今まで全く意識していなかったことだが、目を閉じることが出来なかった。
 何も動かすことが出来ないのだし、今の自分に目は存在しないのだから、当然でもあるのだが。
 映像は、直接イメージとして頭に入ってくる。
 物を見る仕組みというものは、普段の生活でも殆ど考えることが無いので不思議な感じがした。
 これも、意識せずにいたせいで気がつかなかったことだが、映像は常に、左右、上下、前後の全ての方向を見ている状態だ。
 頭の後ろにまで視界が有る鳥というのはこんな感じなのだろうか。
 何というか、異様な感覚だった。
 幽霊とは、常にこんな感じなのだろうか。
 では、自分は死んでしまったのか。
 いや、そんなはずはない。
 実際に、真下に見える本体は、今もゆっくりと胸を上下させ、熟睡をしている。
 そしてまた、自分はこのまま元にもどれないのではないだろうか、という疑問が沸いてきた。
 だが、それは杞憂である。
 先程のように誰かに起こしてもらえば、元に戻れるし、時間が経って自然に目が覚めても大丈夫なはずだ。
 それに、今は学校にいるから安心だ。
 いつまでも寝ているわけにはいかないし、それに多分また友人が起こしてくれるだろう。
 問題は家で寝たときもこうなったら…
 今朝は朝方になってこのような状態になったけれども、今のように眠ってからすぐになるかもしれない。
 朝になって自然に目が覚めるまで、何も聞こえない、見える物も殆ど変わらない。そんな状態で何時間も過ごすことになる。
 更に不安が高まり、必死に起きることを、本体に戻ることを願った。
 勿論、何も変化はない。
 本体の自分は、相も変わらず安らかに眠っている。


 残りの時間は、この事をなるべく考えないようにした。
 考えれば考えるほど、不安は募っていく。
 それならば、ゲームの事を考えたり、友人と他愛のないお喋りにでも興じていた方が良かった。
 それでも家に帰ると、今の事態から逃げるわけにはいかないだろう。
 一度は、こんな事について悩まずに無視すればいいとは思った。
 しかし、あの現象はとても悩まずにはいられない。
 まず、あの状態になるととてつもなく孤独を感じる、退屈で何もなく、話し相手もいない。一人で居ることが好きな自分であっても、淋しいと感じる。
 先程はあの現象を幽体離脱と称したが、とてもそんな代物ではない。
 身動きをとれなくしてから、何もない部屋に閉じこめられたような感じ。
 もっとも、痛みも感じないが、音も匂いも感じない。
 つまらない講義を受けているときや、試験を受けているときの、思いきり体を動かしたくなる心理。
 まるで、精神的な拷問だ。
 いや、本当にそうなのかもしれない。
 自分に恨みを抱く誰かが、精神的に苦しめる為に薬か何かを盛ったのだとしたら。
 だが、その仮説はすぐにうち消された。
 第一そんなに好意的な方ではなかったが、恨みを抱かれる覚えはない。
 それに、あの現象はそんなに簡単な物ではないはずだ。


 そして、そこでその考えは中断した。
 家に着いてからは、食事や入浴以外、ずっとゲームに没頭していた。
 今の時刻は一時二十九分。
 普段は零時前には寝るのだが、やはり今夜は眠ることが出来なかった。
 音楽をいつもより大きめの音量で鳴らし続けている。
 やはり、あの本と同じだな。
 それにしても今夜はずっとこのまま、徹夜でゲームをし続けるのか。
 いつかは寝なければいけないはずだ。
 そして、決心しゲームをやめ、音楽を止めた。
 代わりにテレビをつけておくことにした。
 今日(というか厳密に言うと昨日)の学校では一、二限しか寝なかったので、もう限界だ。
 電気をつけたまま、蒲団に潜るとすぐに睡魔は襲ってくる。
 くだらない芸能人がくだらない歌手のグループと笑いあっているのを聞きながら、段々と意識は途切れていった。


 気が付くと、朝だった。
 外はもう明るく、時計の示す時刻は七時五分。
 最初はボーっとしていたが、急いで体を確認するとしっかりと自分の体はある。
 夜つけっぱなしにしておいたテレビには、ニュースを説明するアナウンサーが映っている。
 スピーカーからは抑揚のない丁寧な口調でニュースが告げられる。
 もっとも、犯罪少年が捕まっても、食中毒が発生しても関係なかった。
 今、自分の中で重大なニュースがあったのだから。
 時間もあることだし、もう一度確認のために寝てみることにした。
 すぐに寝付くことは出来なかったが、しばらくして眠ることが出来たようだ。
 そして、気が付くとまた蒲団で寝ていた。
 時間はもう遅刻確定域ではあるが、それにも勝る清々しさがある。
 何しろこれからは、またいつものようにぐっすりと眠ることが出来るのだから。
 それからその後は、学校での睡眠は勿論、次の日もまた次の日も、生涯あの現象が起きることはなかった。