闇に消える黄金の牙 第一章
作:秋月のら





 世界に生まれし忌諱たる力
 それは究極であるがゆえ封印された
 愛という名の鍵で――

 ある者はそれを
 もろく儚い契約だといい
 ある者はそれを
 何より強い約束だと言う


 メティア神の収穫祭が終わる頃、ラメティア国には決まって吹く風がある。一年で最も穏やかな季節にふさわしい、優美で瑞々しく澄んだ風だ。それは万年雪を戴くザムメット山脈で生まれると、山麓にある守護神メティアの聖殿と国の中枢機関であるパラルクス城へと舞い降り、なだらかなティイエの丘を越えてラメティアの大部分の民が暮らす豊かな平地と流れていく。そしてラメティア国すべての大地を渡り終えた風は、はるか異国の大陸を目指し海の彼方へと消えていくのである。
 風が吹く。
 足元の夏草は朝露を輝かせながらいっせいに揺れ、生まれたばかりの陽光が東からゆっくりと大地に染み込んでいく。見上げる空は、海との境界線を失くしたまま薄紫色に輝き始めていた。
 この風は苦手だと、流れる黒髪をそのままにフェイは思う。季節が穏やかであればあるほど風が美しければ美しいほど、彼の心には暗い切なさがにじむ。
 三年前、まだ幼い少年だったフェイはこの場所で、この風の中で終戦を知った。まだ成長しきっていない細い腕と疲労し尽くした身体に、手にした長剣は重過ぎた。それでも恐怖から逃れるため、必死に握り締めていたことを覚えている。日々返り血に染まり死臭にも馴れ、徐々に麻痺していく感覚の中で、あの日の少年はただぼんやりと死だけを望んでいたような気がする。
 彼が立っているテェイエの丘からはラメティアの街と港、そして海までが一望できる。戦時中だったあの頃、あちこちに火の手が上り崩壊した瓦礫に埋没していた灰色の街も、今は平穏な朝焼けで満たされていた。
 黄金の牙の消滅。
 たったそれだけのことで、この国は数十年にも渡る「戦争」という死の病から立ち直った。永遠に続くと思われた血腥い戦乱はあっけなく終幕し、人々はかつて経験したことのない穏やかな日常を、戸惑いながらも少しずつ受け入れ始めている。もう半刻もすれば家々からパンを焼く香りが街を包み、朝市の準備が賑やかに始まるのだろう。
 フェイは今年で十七になった。この一年で背も驚くほどすらりと伸び、肉体も日々の訓練の中で鋼のようなしなやかさを得ていくのが、自分でもよく分かった。街の姿同様、すべてが未来へ向かって変わり始めているのだ。
 また風が吹く。
 数十年にも及ぶ長い長い戦争に、ようやく終止符を打ったこの国をいたわるかのように。まだ癒えぬ傷を癒すかのように――。
 風に乗って戦乱で失われた人々の声が、フェイの耳の内側だけに響く。
 幾千もの生命が聞こえる。その中にはあの人の声もあった。何かを伝えようとしているのだが、あまりに沢山の声にかき消されて言葉にならない。
 フェイは瞳を閉じる。あの人が、自分の名を呼んでいるのはわかる。何度も繰り返し叫んでいる。フェイ、フェイと。
 何を言おうとしていたのか。あの人は自分に何を伝えたかったのだろうか。
 届かない。どうしてもここまで伝わらない。もうすぐあの人は消えてしまうというのに。自分は独りぼっちになってしまうというのに――。
「フェイ!」
 ふいに聞き慣れた少女の声がして、フェイは我に返る。
 声の主は恋人のカナリエだった。カナリエは薄いブルーの質素なドレスをはためかせながら「ここに居ると思った」とフェイの立っている丘まで軽やかに駆けてくる。
「そろそろ朝御飯の時間よ。また……眠れなかったの?」
「いや。少し早く目が覚めたからちょっと散歩に、な」
 心配そうに見上げるカナリエに、フェイは優しい顔で嘘をついた。彼女はフェイの言葉を聞いて「良かった」と素直に微笑む。
「そうだ、今日は朝からルクルが来てるのよ。朝食を一緒にって」
「あの大貴族のお坊ちゃまが? わざわざ戦争孤児院の朝食を食べに?」
 大げさに驚いて見せたフェイに、カナリエが可笑しそうに肩を揺らす。
「寂しいのよ、きっと。ルクルのご両親は城での勤務が多くて何かとご不在が続いているそうだし」
「だったら貴族様の朝食の方に、俺達を招待して欲しいもんだな」
「もう、フェイったら。誘われたら断るくせに」
 言われてみると確かに、堅苦しい雰囲気はパラルクス城に呼び付けられた時だけで十分だという気もする。逆にルクルの方は庶民の生活が珍しいらしく、両親の留守を見つけてはフェイ達のいる孤児院に顔を出している。彼も寂しいなりに、持ち前の明るく前向きな性格で今の環境を楽しんでいるのだ。フェイはそんなルクルに、天性の強さを感じるときがある。自分にはない才能だ。
「それから、フェイ」
 カナリエの声がふいに沈んだ。
「さっき政府から連絡があったわ。緊急会議への召集命令。詳しい内容は資料を見てくれって」
 何故か拗ねたような顔で、カナリエは顔を背ける。フェイはやれやれと首を振った。
「闘貴師の俺が会議に呼ばれるなんて、今回の議題はよっぽど血生臭いんだろうな」
「嫌だわ。フェイはもう政府に関係のある人間じゃないのに……」
「会議といっても俺が政府に口出しする権限は実質皆無だよ。闘貴師の名が会議に必要なんだろ、きっと。俺に出来るのは政府の決定事項に従って、速やかに戦うだけさ」
 フェイの言葉を聞いて、彼女は「なおさら嫌よ」と可愛らしい頬を膨らませた。
 カナリエは、フェイが一刻も早く普通の十七歳の少年に戻ることを望んでいる。普通の十七歳――それは先の戦争で戦闘経験がなく、緊張した政府の内部事情にも疎い一般の若者を意味していた。
「仕方ないさ。俺は師匠を失った。いくら未熟とはいえ炎≠司る闘貴師の継承者として、政府に最低限の義務は果たさなきゃな」
「師匠を死に追いやった政府なのに?」
 何気ないカナリエの言葉は、予期せぬ沈黙を生んだ。フェイは上手く返事をすることが出来ないまま視線を足元に落とす。決して彼女の発言を責めているわけではなかった。ただ、乗り越えたとばかり思っていた過去の傷、己の弱い心が何も成長していないことに愕然としただけだ。
「……あの状況の中で……政府は最善を尽くしてくれた……死を望んだのは師匠自身さ」
 激しく揺れる内心を隠すように、フェイはゆっくりと言葉を選ぶようにそう告げた。それは、数え切れぬ眠れない夜の中で彼が最後に出した答えだった。
「……ごめんなさい」
 フェイの瞳の奥にある静謐さに、カナリエは自分の過ちの深さを思い知る。まだ何も変わっていないのだ。三年前の出来事にフェイは未だ傷つき、彷徨う心を癒せないでいる。唇を噛んで謝るカナリエに、フェイは慌てて首を振った。カナリエが謝ることではない。フェイは、傷ついた己を恥じるかのように困った顔で笑った。
「謝るなよ。カナリエは何も悪くない」
「でも」
「大丈夫だよ。国家反逆罪の師匠を持つ俺に新政府はとても寛大でいてくれる。もちろん、未熟とはいえ闘貴師の役得なんだろうけど、今はその立場に素直に感謝しているしいつかはその期待に答えたいとも思っている。……だから」
 フェイは何かを吹っ切るように顔を上げる。視線の先には、朝の陽光に祝福されたような街と輝く海があった。
「だから師匠のことはもう考えない。俺は未来を生きる。新しいラメティア国、そしてルクルやカナリエと一緒に」
「……フェイ」
 それより、とフェイは、まだ何か言いたそうなカナリエに明るい表情で振り返って見せた。
「早く戻った方がいいんじゃないか。ルクルの奴、待ちくたびれて怒ってるぞ」
「そうだね。早く、帰らなきゃね」
 少しだけ明る過ぎるトーンで、カナリエが優しく同意してくれる。カナリエのいつもの思いやりに感謝しながら、フェイはティイエの丘を後にした。
 そんな二人を包み込むかのように、風は流れていく。
「いい風。私、今の季節の風が一番好きよ」
 カナリエはうっとりと目を閉じる。彼女の美しい栗毛色の髪が風に流れ、細く頼りなげな白いうなじが姿を見せる。
「そうだな……とても、いい風だ」
 フェイは目を閉じてその風を身に受ける。どんな時も素直に自分を信じてくれるカナリエを、決して騙すつもりはない。それなのに、気が付くとまわりに心を閉ざし偽りを重ねている自分がいた。未来を生きると言った言葉に嘘はない。過去のすべてを忘れ、新しい自分として生きていけたらどんなにいいだろうと思う。事実、この三年間で自分は生まれ変わりつつあるのだと実感していた。
 しかし、ふいに心が不安になる瞬間がある。本当にこれでいいのかと誰かに問われている気がするのだ。そんな想いに煩わされるのは決まって今の時期だった。
 この季節の風は優し過ぎて悲しくなる。凛と美しくどこまでも透き通った風は、心の奥底に閉じ込めた傷まで届いてしまう。――そう。
(あの人が処刑された日も、確かにこの風が吹いていたんだ……)



 世界を構成するダナー大陸には5つの国が存在する。全能神ダナンは、大陸を5つの国に分け、ダナン神の子供達である豊穣のラティ女神、知徳のガナッド神、美貌のメティア女神、真理のディー神、静寂のバナリオ神の五神に与えると、それぞれ自国の民を守護し大陸の繁栄に努めるよう命じた。
 さらに思慮深きダナン神は、子神達に行いに過ちなきよう、統治される人間側にも力を与える。何十億の人間の中から7人の勇士を選び、炎、風、土、水、雷、闇、光の精霊とともに、子神をも超える力を授けたのである。7人の勇者――彼らはそれぞれの国に散らばり、子神と民の間に深く関わって生きる運命にある。ある国では『子神殺し』と恐れられ、ある国では『最後の審判者』と崇められた。
 ラメティア国で勇士は『闘貴師』と呼ばれ、国の軍隊の総指揮を任せられる立場にあった。現在、国は二人の闘貴師を抱えている。
 風の師バルディゴアは、今年三十五歳になる男盛りの闘貴師で、均整のとれた肉体と表裏のない言動はメティア神にも深く愛されている。現在、ラメティア国の軍事全般を引き受けている。
 もう一人は、炎の闘貴師アレクセイ。温厚で涼やかな風貌と王佐の風格を備える優れた人材であったが、三年前に国家反逆の罪により、二十八歳の若さで処刑されている。現在では彼のたった一人の弟子が炎の継承者として国事につく。
 彼の名はフェイ――若干十七歳の少年である。