闇に消える黄金の牙 第二章
作:秋月のら





 先の戦争終了後、王政を廃止したラメティア国にとってパラルクス城は行政の中枢機関であり、同時に国家軍隊の本部でもある。美貌の子神メティアの意思を中心とする神老院と国民の意思に重きを置く民老院から各四人の代表が選ばれ、さらにその中から首相が輩出される。それに加え法務と外交までは両院の管轄であるが、軍事においてのみ全権が二人の闘貴師に委ねられている。つまり首相、闘貴師、神老院、民老院の合わせて十人が、現在のラメティア国を治めているのである。
 今回の最高会議には、もちろんその十名全員が出席していた。一番最後に部屋に入ってきたバサミ首相が席に着くのを待って、議長が慇懃な挨拶を始める。
「我が国の守護神ラメティア様に尽きることなき畏敬を。我が国の誇り高き剣、風と炎の闘貴師殿に尽きることなき感謝を」
 同席している八人の政府の最高幹部達が「畏敬と感謝を」と続ける。隣に座っているバルディコアは感謝を受けるべく、胸の前で静かに両手を組んで頭を下げた。フェイも少し送れて後に続く。
(炎の闘貴師に、彼らは一体何を感謝するのだろう……)
 複雑な心境に顔を伏せたまま、フェイはそっと唇を噛んだ。苦い思いが胸に広がる。そんなフェイの心情を察してか、パサミ首相が二、三度軽く咳をして場の空気を実務的な印象に変えてくれた。
「単刀直入に言おう」
 今年六十八になる首相は、年齢相応の威厳と年齢を感じさせない柔軟な思考を併せ持つ好人物である。また長年続いた戦乱を憎み民に平和をもたらした歴史的指導者でもあった。
「わが国に再び災いが降りかかろうとしておる。隣国ガナットとディーが同盟を結び、我が国へ『黄金の牙』の譲渡を正式に求めてきた」
 緊張の糸が張り巡らされた室内が首相の言葉にざわりとうごめき、テーブルの中央に鎮座する豪奢な蝋燭台の炎が不吉に揺れる。
「三年だ」
 疲れたような表情でパサミ首相はため息をつく。
「終戦からまだ三年――それは平和に飢えた民にとってあまりにも短い安らぎでしかない。黄金の牙の呪いはそれほどまでにこの国を苦しめるか……」
 呪い、とパサミ首相は言い切る。かつてラメティア国を数々の勝利に導いた最強の戦力であった『黄金の牙』を。
 戦争続行を希望するメティア神を説得し、炎の闘貴師アレクセイを処刑してまで、ラメティア国を和平へと導いた首相である。両院の中で最も平穏を愛した彼にとって『黄金の牙』は確かに諸悪の根源に過ぎないのかもしれない。
 フェイは、首相の落胆と苛立ちに満ちた横顔にそっと視線を向け、さらに隣にいる風の闘貴師バルディコアの顔を見る。実際に戦場で戦ってきた――すなわち黄金の牙の威力を目の当たりにしてきたバルディコアにとっても『黄金の牙』は呪いなのか。しかし、思量深く井然とした彼の表情からは何も読み取ることが出来ない。
「しかし首相」
 しばらくの沈黙の後、神老院の一人が慎重に口を開く。
「隣国の要求は矛盾しておりませぬか? 三年前に黄金の牙は消失した――その事実を認めたからこそ、ガナット国との長きに渡る戦争は終結致しました。ディー国にせよ、それは十分承知のはず……」
「その通りだ。黄金の牙はすでに失われた。我らは国の宝であるアレクセイ殿を、自らの手で失うことにより、それが真実であることを証明したはずであった」
 アレクセイという名に、その場に居たすべての人間が表情に影を落とす。彼らにとって、いやラメティア国民全員にとってアレクセイの死は重く苦い傷である。無論、最も深く顔を伏せたのはフェイであった。
 しかし、その場の泥炭のような空気を切り裂くかのように女の笑い声が響いた。
「だから言ったであろう?」
 高らかに艶めく女性の声。輝くような圧倒的な存在感が、部屋の空気を一気に高貴で濃密な空間に変える。嫣然たる微笑みを浮かべたその女性はひどく美しかった。感情を一切表さぬ陶器のような顔に、神秘に満ちた深海色の瞳。特に麗しく濡れる真紅の唇は、残虐さをも内包する完璧な美そのものである。
 国家の代表である彼らにとって女性の姿は見慣れたものであったが、それでも見るたびに言葉を失くす。彼女はそれほどに美しかった。やがて首相がやっとの思いで、その女性の名を告げる。
「女神メティア様」
「かつて我は言ったはずじゃ。この世界で永遠の平和を望むのは人間だけだと。我ら神々も精霊も世界の平穏など望んではおらぬ。まして隣国との和平なぞ、何の意味があろうか」
「しかし我ら人間は、互い平和であろうと約束したのです」
「移ろい易き人間の想いなぞ神の前には無力。現にガナット国の民どもは、ラメティア国に裏切られたといきり立っておるときいたぞ? それとも奴らは人間ではないのか? お前らとて敵軍に攻め込まれ、家族を虐殺されても同じように平和を叫び続けられるというのか」
 残忍な笑みを唇に浮かべ、メティア神は問いかける。人間の意志の儚さと弱さを。
「パサミよ。何もお前が憎くて言っているわけではない。我は美の女神。美しきものを愛するさだめならば、お前の苦悩もまた美しい。隣国を治める知恵の子神ガナットも真理の子神ディーも同様に、人間の持つ知恵と真理を愛しておる。だからこそ戦いは終わらぬだろう。何故ならば、戦いの中にこそ美しさがあり真理があり知恵があるからじゃ」
「……しかし、それでも我々人間は……平和を望みます」
 苦しげに、しかし確かな意志をパサミは告げる。それは三年前のやり取りとほぼ同様の問いであり答えであった。
「穏やかな日々に何の意味がある? お前の愛する民は瞬く間に平和に馴れ、奢り堕落し、戦乱の中で見出した命の尊さや正義の意味、己の国を守るということさえ忘れていくだろう。やがて個人の欲望のままに身近な者同士を傷つける。パサミよ、人間は所詮、平和など似合わぬ生き物なのだ」
 メティア神の言葉に誰もが黙した。しかし、先の戦いで、絶対的な勝利を目前に剣を引きガナット国と公平な和議を望んだパサミ首相は否定的意味を持つ沈黙。そんなパサミ首相のやり方に不満を持つ神老院は肯定の意味を含んた沈黙である。
「それでは……我らメティアの民は永遠に争い続けることが定めであると申されるか」
 敵意に近い意志をもって、パサミは女神に問う。張り詰めた糸のようなパサミとは対照的にメティア神は、優美だと表現したくなる程の穏やかさで睫毛を伏せる。
「好きにするがよい。我は国の流れそのものには興味はない。最もガナット神は世界の統一を望んでおる。僅かでも戦乱の芽があれば我らの国に攻め入ろうな。しかし我は違う。戦乱の中で平和を望みながら戦う優れた人間。その美しき魂。それが我の望むすべてじゃ……ぜいぜい楽しませておくれ」
 話は済んだとばかり、メティア神の姿が徐々に薄れていく。パサミをはじめ、その部屋の誰もが見守ることしか出来なかった。
 しかし、その時――。
「黄金の牙はどうなのですか?」
 女神の濃密な美に支配された部屋に、清しい一筋の声が通る。フェイだった。
「女神にとって黄金の牙は世界の救いですか? それとも呪いなのですか?」
 フェイの真っ直ぐな瞳。その高潔な想いは、まるで眩しい光のようにメティア神の目を細めさせた。
「少年、あれは世界にあってはならぬ。生まれてはならぬ宝石であった」
 メティア神から発せられた答えには、さきほどまでの高圧的な印象が消えている。
「五国の子神すべてが忌諱すべき恐怖。五国の子神すべてが魅了される愛しき魂。あれは世界にとって存在にてはならぬ力なのじゃ。あやつを封印する為に、我は愛する魂を手放した」
 あの人のことだ。フェイは思わず息を止める。
「我が悲嘆は天まで届き、今もなお空を濡らす。しかし、それでもなお封印すべき存在だったのだ。少年、我が寵愛を受けし炎の継承者よ。忘れよ。あれの存在は忘却の彼方へと流し二度と手繰り寄せるでないぞ」

  

「どうしてなんですか……!」
 泣きたい気持ちを無理やり怒りに変えて、フェイはアレクセイを睨みつける。
 時間がなかった。王宮の兵はすぐ側まで来ている。大切な人の命を助けたい一心で、フェイは師匠に詰め寄る。
「何故、何も言ってくれないんですか? 俺はたとえ貴方が反逆者だとしてもかまわない。そうだとしても二人でこの国から逃げればいい。俺は、俺はどこまでもついていきます。だから!」
 だから、とフェイは強い力で師匠の腕を掴んだ。伏せた顔からは激情のあまり、止め処なく涙がこぼれ落ちる。
「迷惑をかけてすまない、フェイ。だが僕はもう決めたのだ」
 死を受け入れた師匠の瞳はあまりにも優しく穏やかで、だからなおさら深くフェイの心を傷つける。
「僕のしたことは国家への反逆だ――今更その罪から逃れる気はないよ」
 アレクセイの横顔には悲しみも絶望も浮かんではいない。そこにはただ頑な決意だけがあった。揺るぐことなき強き想い。
「それでも。祖国を裏切ってでも……僕には守るべきものがある。『黄金の牙』はこの世界に生まれるべきではなかった」
 絶望と焦燥に駆られているフェイに、その言葉の意味など理解できない。ただ救いたかった。国としてもアレクセイを失うことなど望んではいない。だからこそ、彼とともに消えた黄金の牙――その場所さえ口にすれば彼の命は助かり今後の立場も保障するという、ギリギリの条件を与えたのだ。
 それでも彼は口を閉ざしたまま、何も語ろうとはしなかった。
 罪は受けるという。極刑だと知りながら。
「フェイ」
 いつもの――せつないほどいつも通りの温かい眼差しで、師匠はフェイを見る。
「自分の中で生まれた気持ちに目を閉じてはいけないよ。その強い気持ちはやがて、願いとなり祈りとなって、必ず届く」
 いいね、と師匠は最愛の弟子に最後の教えを説いた。
 フェイの唇が、何かを言おうとして動く。だがその時――。
 激しく叩かれるドアの音。武装した兵士達がなだれ込んでくる。
 大切な人をただ守りたくて、とっさに武器を手にしたフェイの肩に、しかしアレクセイの手は静かに置かれた。その温かさ、その重さをフェイは今でも思い出すことが出来る。
「あとは頼む。フェイ、お前は僕の誇りだ」
 それが最後の言葉だった。肩に残る手の温もりだけが現実に感じる。あとの世界はすべてが止まってみえた。ただ凍りついたようにフェイは愛しい人の後姿を見送ることしか出来ない。
 その日は、穏やかに晴れた。
 収穫時期の豊かな太陽の光を受け、世界は信じられないほどに美しかった。果てしなく広がる青空の下、すべてはとど懲りなく行われていく。
 処刑台の正面にはパサミ首相とガナット国王が並んで座っている。脇にはもう一人の闘貴師バルディコアもいた。本来ならその場にいなければならないフェイだったが、彼の心情を察してか処刑日の決まった翌日に提出した欠席の意に反対する者はいなかった。
 しかし哀悼衣である黒のフードを深く被り、フェイは民衆に紛れて遠くから見ていた。本当は逃げ出したい気持ちで一杯なのに、何故か処刑の光景から目が逸らすことが出来ない。涙はなかった。フェイはただ感情を失ったまま、漠然と流れる時間だけをその身に感じていた。光を纏った透明の風は、キラキラと輝きながらあの人の血の匂いを運んでくる。
 反逆罪の処刑は、通常通り三本の槍で行われた。両手両足を後ろに縛られた罪人は一本の木に縛り付けられ、『悔恨』と『断罪』の二本の槍を、横腹から対称する肩に向かって突き刺される。罪人の身体でクロスする二本の槍は互いに肩を突き抜け、天を目指す――そして最後の槍は『救い』。全身を襲うであろう想像を絶する激痛を終わらせる為に、『救い』の槍が心臓部へと貫かれるのだ。
 アレクセイは最後まで一言も声を上げなかった。静かに閉じられたままの瞳はまるで眠るように穏やかであり、それこそがアレクセイの精神力の強靭さを物語っていた。
 死はゆっくりと、だが確実に彼に舞い降りる。
 壮絶な処刑を目の当たりにしたガナット国王は、絶句していた。国の至宝である闘貴師を手にかけることが、今のラメティアにとってどれほどの損害であるかは語らずとも理解できる。ガナット国が奪うべき『黄金の牙』は本当に失われたのだ。それはあまりにも尊い罪人の死と、戦場では常に優勢にあったラメティアからの和議の申し立てを以って十分に証明された。
「貴国の意志はガナット国に伝わった。ここに戦争の終結と両国の平和を約束しよう」
「我がラメティア国も同意する。速やかなる戦争終結と、願わくば永劫の平和を」
 最高指導者同士の握手を、民衆のざわめきが包み込む。安堵と戸惑い。消えない悲嘆とやり場のない怒り。様々な人の感情が入り乱れる。処刑台を前に交わされる約束。血の匂いの立ち込める和議――それは一種異様な雰囲気ともいってよかった。
 しかし、それらとは遠いところにフェイの精神はいた。ゆっくりと力を失っていく師匠の指先を見つめながら、フェイは唐突に思った。
 裏切られた、と。
 真っ白だった心に激流のように流れ込んできたのは、意外にも悲しみではなく抑えようのない怒りだった。
 自分は裏切られたのだ――フェイはきつく目を閉じる。自分にとって一番大切だった人は、今死んだ。生きてくれることをあれほど強く望んだのに、師匠は最後まで真実を打ち明けようとはしなかった。それは師匠が、自分を信頼に値する人間だとは思ってなかった証拠じゃないのか。
 アレクセイの元で、フェイが炎の闘貴師の修行を始めてからすでに十年になる。五歳で戦争孤児になり戦火の中で孤独に怯え、ひたすら泣くだけだったったフェイを育ててくれたのは、当時十八歳のアレクセイだった。フェイにとってアレクセイは、命を繋ぎ止めてくれた親であり、世界を教えてくれた兄であり友であった。常に人生のすべてであり続けたのだ。フェイが師弟の関係以上の強い絆を感じるのも無理はなかった。
 けれど。
 あの人の指先から流れ落ちるひどく美しい血――それを見つめながらフェイはきつく唇を噛んだ。
 すべてはフェイの一方的な感情に過ぎなかったのだ。
(師匠……俺達の十年間は一体何だったんですか……!)
 堪えようのない激情に拳を固める。爪が食い込んで、自らの皮膚を傷つけてもなお、フェイはそれを止めようとはしなかった。
 風が吹く。優しく澄んだ風は、死せる罪人と怒りに震える継承者の間に吹き渡ると、静かに空へと消えていった。