Gunslave Youth 序章
作:健人





 間延びした鐘の音が意識の遠くの方で鳴り響き、泡沫の世界がその姿を失っていく。
 ピシャリと扉の閉まる音が響くと同時に、周りの空気が開放感に包まれてゆくのを肌で感じた。遠慮の無いざわめきに鼓膜を刺激され、朧げな意識が徐々に現実へと引き戻されていく。
 目を開いて最初に見えたものは、先刻までと変わらない黒一色だけだった。それが自分の腕と頭に蓋をされた机の影だと認識するまで、目覚めたばかりの思考で数秒を要する。
 もう少し、寝ていたいな…。
 声にもならない言葉を、一人頭の中で呟く。
 その台詞を待っていたかのように、軽薄な意識が再び夢の世界へと飛び立とうとする。そんな感覚を感じ取ると、意志とは無関係にゆっくりと瞼が下りていった。

「……くん…」
 不意に、喧噪に混ざった声が耳に入ってくる。
「……君」
 その声が自分に向けて発せられていると気付くと同時に、右の肩先に小さく揺す振られるような感覚が生じた。覚悟を決めて上半身を起こし、上側半分が閉じたままの両目で周囲を見回すと、紺のセーラー服に身を包んだ女の子が視界に現れた。
「もうHRも終わったよ。帰らないの?」
 いつも隣に座っているクラスメートの女子にそう言われ、室内全体に視線を巡らせると、既に半分近くの生徒が教室から姿を消している事にようやく気が付いた。まだ教室内に残っている人達も、その殆どが鞄か掃除道具のどちらかを手にして席を立っている。
「…ああ。すぐに帰るよ…」
 少しだけ首を振りながら立ち上がり、傍らの少女に向けてそう言った。
「そう。それじゃ、また明日ね」
 そう言い、女の子は白いスカーフを靡かせながら教室を出て行く。その様を見届け終えると、気怠さと共に小さな溜息を漏らし、未だに休息を欲している頭を無理矢理に目覚めさせた。
 学生鞄に机の中身を乱雑に押し込みながら硝子越しに校庭を見下ろすと、何かの体育会系の部活をしている人達と、校門へと向かって歩いている数人の生徒達が視界に入る。そしてその誰もが、早めの夕方の陽射しを受けてその影を伸ばし始めていた。
 昨日…一昨日…いや、それよりもずっと前から変わることの無い日常が、まるで毎日同じビデオを見ているかのように、確かにそこに存在していた。
 昇降口の扉を開けると、容赦の無い真冬の冷気が制服越しに伝わってくる。昔からの形式だけで、防寒性など殆ど考えてもいない学生服の機能に今更ながら不満を感じるが、そんな事を考えていてもどうしようもないと悟り、結局いつものように覚悟を決めて歩き出した。
 特にやりたいことも無く、ただ周りのみんなが行くからという理由だけで通い出した高校も、結局は無気力に毎日が過ぎていくだけの生活だった。いつもの商店街の道を家に向かって歩いていると、電気店の前に大小幾つものテレビが置かれているのが目に入り、そのどれからも全く同じニュースが流れていた。どうやら、政府の偉い人が殺されたとかいうニュースらしい。
 …しかし、最近はこんな事件は珍しいことではない。
 何年も前から続いていた不況のせいで社会不安が増大し、ある時期を境に犯罪数が急激に増えたなんて話を誰かから聞いたことがある。以前、テレビでどこかの学者が、ギリギリまで水を入れたコップに一滴の水を落として溢れ出させ、『このような状態が起きた』なんて説明しているのも見たことがある。その説明が正しいか正しくないかは分からないけど、実際に十数年前とは比べ物にならない程に、大小様々な犯罪が起こっているらしい。それこそ、今まで徐々に溜まっていたものが、ついに耐え切れなくなって破裂したかのように――。
 その増加の時期に乗じて、外国ではマフィアなんて呼ばれるような犯罪組織も幾つか生まれたらしいけれど、そんな類の話はあくまでも裏≠フ社会でのことだ。寝て、起きて、食事をして、学校へ行って家に帰る…そんな機械のような一連の流れの中で毎日を過ごしている表≠フ社会の僕等には、そういった話とは全く縁が無い。
 もしも何か大きな事件が起きたとしても、それは身近な事ではなく、ただテレビで見ているだけの傍観者に過ぎない。僕自身も、こんな『政府要人暗殺』なんてニュースより、今日は両親共に仕事が休みだから、家に帰ったらまた小言を言われるんだろうという事の方が気になって仕方が無い。
 …そんな考えを巡らせていると、いつも決まって、自分はどこにでもいる平和に慣れ親しんだごく普通の日本人だと感じる。
「………」
 珍しく色々と考えながら歩いていたら、いつの間にか家のすぐ目の前まで来ていた。さっきの思考の流れで思い出してしまった事が、前に進む足の速度を少しだけ鈍らせる。小さな溜息を白い息と一緒に吐き出し、どうやって親に顔を見せずに部屋まで辿り着くかを考えながら、いつもよりも重く感じる玄関のドアを開けた。
「ただい……」
唐突に視覚から入ってきた予期せぬ光景に、疑問の声を発する事すらも禁じられた。
 冬の風と、それ以外の冷たい何かが通り過ぎ、身体の芯までもを凍らせる。
「え……」
 ようやくそんな声が漏れると、同時に鼻孔の奥が鉄の臭気に刺激される。
 毎日のように見ていた二人分の輪郭が、眼前で朱に染まって横たわり…そして、それらに寄り添うようにして、幻のような黒い影が音も無く立ち尽くしていた。
 何が起きているのか理解しようとしても、それを拒んでいるかのように頭が動かない。
 ただ瞳に映る世界を、色と形だけの情報として受け入れる事しか出来なかった。
 赤…あまりにも鮮烈な赤…。
 まるでそこだけが違う世界のような、現実よりも深い赤の現実=c。
 そして、それと比べるとあまりにも儚く、今にも消えてしまいそうな黒い影…。
 ゆっくりと僕に向けられた冷徹な視線と、それよりも黒く冷たい小さな殺意だけが、確かな現実としてそこに存在していた。

 ――瞬間、僕の中で何かが弾けた。

「うわああああああああああああ!!」