Gunslave Youth 第一章-1-
作:健人





 ――名前も知らない鳥の声で、深い眠りから呼び起こされた。

 瞼を開けて入ってきた眩しさに思わず目を細める。
 冷たい空気と陽射しの暖かさが交わって、何とも言えない不思議な心地良さを肌で感じていた。

 徐々に光に慣れてきた瞳をゆっくりと開くと、白を基調とした小さな部屋が映し出された。小窓から射し込む柔らかな陽光が、汚れを知らないような壁全体をぼんやりと照らしている。

 ――何故か、太陽の光を浴びたのは随分と久しぶりのような気がしていた。

 ……これも、夢か?
 あまりにも優しすぎる陽気に、一つの疑問が起こる。
 内容こそ覚えていないが、さっきまでとても長い悪夢を見ていたように思えていたからだ。
 いや……もはや、何が夢で何が現実だか分からなくなっている。
 もしかしたら、この世界も夢なのかもしれない――。
 そんな考えを裏付けるかのように、心の中は妙にカラッポになっていて、風さえも通り抜けてしまうかのような感覚があった。

「……やっとお目覚めか」
 ゆっくりと身体を起こした僕に向かって、聞き覚えの無い声が話し掛けてきた。
 その声の方を振り向くと、小さな窓から差し込む柔らかな陽射しが、ちょうど部屋の隅まで斜めに伸びているのが見えた。
 その光のカーテンを掻き分けるようにして、一人の男性が悠然と歩み寄って来る。服装は、部屋の景色と対照的なダークスーツ。年は……二十代後半から三十代前半ぐらいだろうか……。
「あなた…は……?」
 得体の知れないその人物に、あまりにも純粋な疑問を投げかけた。しかし、目の前の男は僕の問いに答えるでもなく、ただ嘗め回すかのように僕の事を見つめ続けている。
 やがて沈黙に耐え切れなくなり、戸惑い出した僕の表情を見咎めると、彼はようやく重い口を開いて話し始めた。
「お前が今日から入る奴か……まあ、他の奴等もまだ基礎訓練ぐらいしか始めてないから、大きく遅れるようなことはないはずだ」
「……え?」
「教官の命令には全て従うこと、それがここでの絶対のルールだ。色々と細かい質問はあるだろうけど、それはその都度教官に聞くんだな。それじゃあ、そこのタンスの二段目に入ってる服に着替えて、他の連中に合流するんだ」
 男は矢継ぎ早にそう言うと、隅に置いてあった小さめのタンスを指差し、部屋から立ち去ろうとして踵を返した。
「ちょ、ちょっと……」
 僕がそう言うと、彼は足を止めて振り返る。その顔は止められた理由が本当に分からなそうな……とても不可思議とでも言うかのような表情をしていた。
 だが、全身で「何だ?」と言っているその男がそれを口にするよりも早く、僕は声を発する。
「さっきから一体、何を言っているんですか?それに、ここは……」
「……お前、まだ何も聞いてない…のか?」
 その質問の意味が飲み込めず無言のままに困り果てていると、目の前の人物は驚いたような呆れたような表情を見せ、ふぅと小さい溜息を一つ吐いた。
「参ったな…まさか何も知らないとは……通りで俺が来る羽目になった訳だ」
 彼はそう呟くと、僕の視界の隅にあった机から椅子だけを引っ張り出し、ベッドの横……僕の目の前に腰掛けた。
「……いいか、今から話す事を全て理解しろとは言わない。いや……今は理解は出来ても納得することなんて出来ないだろうな。それでも……お前がどれだけ足掻こうとも、この状況を変えることはもう絶対に出来ない。それだけは覚えておけ……」
 重々しい雰囲気でそう言われると、部屋の空気が少し張り詰めた様な気がした。
 何故だろう……僕はそんなに難しい事を聞いているのだろうか……。
 そんな台詞が脳裏を過ぎる。
「ここがどこか知りたがっていたな……詳しくは言えないし言う必要も無いが、ここはある目的のために作られた施設だ。まあ、学校みたいな所だと思っていればいい」
「目…的……?」
 幾つもの疑問の中から最新のものが口をついて出る。
「……お前は青少年育成法≠ニいう名を聞いた事があるか?」
 一呼吸の間の後に男が返してきた言葉は、僕の問いへの答えではなく、一つの質問だった。
「……いえ」
「まあ、そうだろうな。目立たない法律……いや、目立たないように隠蔽された法律≠セからな」
「……?」
「青少年育成法というのは、数年前に改正された少年法と同時期に、犯罪の多発・多様化に伴って新たに成立された法律の名前だ。簡単に言えば、『増加傾向にある犯罪を抑止する為に、未来の大人である子供達を政府が責任を持って教育する』なんて、どこにでもありそうな内容の法律だ……」
「……それが一体、何の関係が……」
 全く話の意図が掴めない僕がそう言うと、目の前の男の表情が静かに変わった。
「表の意味≠ヘ……な」
 その声で室内が満たされると、空気の冷たさが少しだけ増したような気がした。
「この法には、政府の人間でもごく少数しか知らされていない、裏の意味≠ニある計画≠ェ隠されているんだ……」
 ――背筋に冷たいものが走る。
 何か、触れてはいけない様な……未知の領域に足を踏み入れる様な……そんな得体の知れないモノに包まれていく感じがする。
「その計画は、青少年育成――Juvenile - Growing≠フ頭文字を取ってJG計画≠ニ呼ばれている。そしてその内容は、お前ぐらいの年の有能な少年達を育成……即ち訓練≠オて、犯罪を抑止する為の活動をさせる……」
 そこまで言うと彼は静かに両目を塞ぎ、一呼吸分の間を置いてから言葉を紡いだ。
「つまり……暗殺者として育て上げるということだ」
「暗殺…者……?」
 危険な雰囲気を嫌という程に含んだ、聞き慣れないその単語の響きに、無意識の内に体が反応する。
「それ……は……」
 もはや、何を聞けばいいのかすらも分からなく、ただ意味の無い言葉を口走る事しか出来なくなっていた。
 目の前の男は、流れについていけないそんな僕を置き去りにしたまま、感情を感じさせない淡々とした口調で話を続ける。
「その計画を遂行する為に、ある一つの組織が極秘裏に作られた。若く、有能な暗殺者を育成し、社会悪を抹殺する事を目的とする組織……」
 いつの間にか開かれていたその両の瞳に、射抜くような視線を浴びせられる。
「……ここは組織の暗殺者を育成する場所であり、そして俺はここの教官の一人……オリオン≠ニいう名の組織の一員だ」
 空虚な器のようだった僕の身体が、理解出来ない幾つもの情報によって徐々に満たされていく。
 ……そして、その全てに対して、脳が危険信号を発していた。
「オリオン≠ノ素質を認められここで訓練することになった者達は、今までの過去を取り払われ、代わりに訓練生の証である腕輪と識別名(コードネーム)が与えられる……」
 その言葉を聞き、まるで何かを思い出したかのように、視界の外に置かれていた自分の両手首を見下ろす。そこには、光を浴びて鮮やかな銀色に反射する、小さなリング状の金属が取り付けられていた。
 明らかに人間の体組織とは異なるそれは、小さく彫られた窪みの影で K A Z U Y A ≠ニいう文字を映し出している。
 まさ……か……
「……そう、お前はその能力を認められたんだよ。暗殺者としての可能性を、オリオン≠ノよって……な」
 瞬間、目の前に真っ白な世界が現れた。
 そこで気を失いそうになるのを感じながらも、半ば反射的に抵抗し、脳に喝を入れて目覚めさせる。
 はは……そんな、馬鹿な……。
 そう一笑しようにも、目覚めてから妙に虚ろなこの身体の事を考えると、並べた言葉が出てこなかった。
 ……そして、ようやく気が付いた。
 この肉と骨の器に自分≠ニいう物が、何一つ存在していないということが……。
「痛っ……!」
 男の言葉と耐えようのない不安感を否定する為に記憶を手繰り寄せようとした途端、頭の奥深くに鋭い痛みが沸き起こった。
 不意に襲われたその感覚に、思わず思考を中断する。
「ああ、止めておけ。記憶を消す薬の副作用で、過去を掘り返そうとするとそうなる。まあ、その痛みが無かったとしても、記憶を取り戻す事なんて出来ないけどな」
 男はまるで子供の悪戯のような笑みを浮かべながら、サラリとそう吐き捨てる。それは背筋に悪寒が走る程の、酷く冷たい微笑みだった。
 ……痛い。
 頭が割れそうに痛い。
 そして、どれだけ痛くなろうとも、何も思い出せない……。
 男の言葉を……目覚めてからの全ての事を否定しようとすればする程、押し寄せてくる抗い様のない現実の波に呑み込まれる。
 何処からか吹いてきた隙間風が、僕のことを戒めるかのように空っぽの身体を通り過ぎていった。
 でも……何故かこの痛みが、以前にも感じたことがあるような気がするのは気の所為だろうか……。
「始めは受け入れられないかもしれないが、お前も段々慣れてくる」
「やめて……くれ……」
 男が声を発するたびに、頭の痛みと共に全身に圧し掛かってくるモノがその重量を増していく。
「ここで暗殺術の訓練を受けて生きていくことが……」
「もう、やめてくれ!」
 そう叫ぶと同時に自らの重さよりも重くなっている両手で、打ち拉がれて項垂れた頭と耳を一緒に押さえた。
 ……何も、聞きたくはなかった。
 これ以上、今の自分の境遇を受け入れて、絶望で身体が満たされていくのを感じたくはなかった。
「僕に……そんなことできるわけ……」
 絞り出したような声が、喉を震わせる。
「そんなふうに思ってるのは、お前みたいな奴だけだ。ここにいる連中は全員、選ばれた人間なんだよ。人殺しとしての才能を認められた……な」
「嘘だ…そんなの……」
「お前も、何かしらの理由でその才能を認められた人間だ」
「嘘だ……僕に人殺しなんて、できるわけがない……」
 男の表情が、静かに変わる。
「何故、そう言い切れる?」
 あまりにも冷静なその口調に、一瞬だけ全てが止まったように思えた。
「お前は、今まで誰も殺してないと、何故そう言い切れるんだ?」
 男の言葉が、胸に強く突き刺さった。
 そう……今は、自分が誰なのかも分からない。今の自分にあるものは、この両手首の金属と、そこに彫られたK A Z U Y A≠ニいう文字だけ……自分が人殺しじゃなかったという証拠など、何一つとして存在しない。
 目の前の男の言葉が本当のことなら、自分に認められた何か≠ェあったということ……暗殺者として育成することを決定付ける程の、何かが。
 だけど……
「そんなこと、できるわけない!」
 何もかもを拒否するかのように、泣き出しそうになりながらそう叫んだ。
 今はこの想いだけは否定してはいけないと、そう感じる。
 しかし、それを口にする事だけが……それだけが、僕に出来た唯一の抵抗だった。
「じゃあ……ここで死ぬか?」
 瞬間、今まで話していた者とはまるで別人のような、凍える程に冷徹な口調が耳に飛び込んできた。
 その言葉の意味を理解するよりも早く、小さな金属音と共に額に何かを突き付けられた感触が起こる。
「え……」
 まるで時が飛んだかのようにいつの間にか伸びていた彼の右手には、何か黒い物が握られていた。
 ――それが銃だと気付くまでに、二・三秒は要しただろうか?
 あまりにも現実から離れすぎたその光景をようやく判断した途端、堰を切ったように全身から冷たい汗が流れ出した。
「別に、強制させるつもりはない。お前自身で選べばいい。だけど……さっきも言った通り、ここまで来た奴には後戻りは許されないんだよ」
「そん…な……」
 確かな殺意を額に感じたまま……しかし何も言葉が出てこなかった。
 死ぬか……人を殺す為に生き残るか……そんな選択、出来る訳がない。
「お前は……ここで死にたいのか?」
 僕の心中を察したかのような問いをさっきよりも冷たく吐き捨てた男に、僕は首を小さく横に振る事でしか答えられなかった。
「じゃあ、お前はここで生きていくしかない。それがたとえ、人を殺す訓練だけの生活でもな……」
 男はそう言うと、小さな溜息と共に右腕を振り上げ、そのまま右手の物を懐に押しやった。
「今すぐに答えを出す必要はない。だけどここにいる限り、いつかはその選択に向き合うことになる。お前も……他の奴等も、その運命からは決して逃れられないからな……。せいぜい、早いうちに答えを出しておくことだ」
 男がそこまで口にすると、部屋の緊張感が少しだけ解けたように感じた。それと同時に全身の力がどっと抜け、白いベッドの上に倒れ込みそうになる。
「今日は、もういい。訓練には明日から参加しろ」
 彼はそう言いながら椅子から立ち上がり、踵を返してドアへと向かって歩いていく。
「……一つだけ、助言しといてやる」
 ドアの前で立ち止まった男が、黒い背中を向けたまま語りかけてきた。
「これからはカズヤ≠ノなりきるんだな。カズヤ≠フ視点で見て、カズヤ≠フ耳で聞いて、カズヤ≠フ頭で考える……死にたくなかったら、お前はカズヤ≠ノ生まれ変わるしかない」
「僕は…そんな名前じゃ……」
 俯きながら悲嘆に満たされた声を絞り出すが、最後まで言葉が続かない。
 ……分からない。
 何年もの間そう呼ばれ続け、数え切れない程の思い出を作った筈の自分の名前を。
 それどころか、思い出そうとすればする程、頭に走る鈍い痛みがその強さを増していく。
 気付けば、両頬に熱いものが伝っていた。
 まるで重力に引き寄せられているかのように、それは留まる事無く溢れ出す。
 そしてただ流れるままに、何の装飾もない服の上に落ちていく。
「こんなの……全部、夢だ……ただの悪い夢なんだ……」
 涙でぼやけた視界の中、ようやく零れ出したのはそんな他愛もない一言だった。
 男の背中から、小さな溜息が洩れる。
「そう思っていた方が、楽かもな」

 扉の閉まる乾いた音が、その台詞と共にいつまでも耳の奥に残っていた……。





「さすが洗脳の専門家だな、萩原」
 ドアを閉めて廊下を歩き出した男に、後ろから声をかける人物がいた。
「洗脳とはちょっと違いますよ……綾川さん」
 萩原と呼ばれたその男は、声のした方向を振り返りながらそう洩らす。
 その視線の先に立っていたのは、美麗と言っても差し支えのない端整な顔立ちに、皺一つ無い深紅のスーツが印象的な一人の女性であった。
 純白の肌に服と同じ色のルージュが一層際立って見え、一般人のそれよりも幾らか細く外側が吊上がっている双眸が、廊下内に木霊するヒールを踏みしめる音と共に、生まれ持った高圧的な性格を垣間見せていた。
 その堂々とした立振舞からは、まるで全てが意のままになるとでも思っているかのような、そんな雰囲気を感じざるを得ない。
「心理学を専攻していたからか……何と言うか、自分が言った事で相手がどう考えるかが分かるんですよ。後は少しのきっかけを与えてやるだけです。まあ、交渉術の類ですかね。彼らの場合、置かれた状況を教えてやるだけですから、マニュアルがあるようなものですよ」
 萩原はそう言い終えると、蠱惑的な香りと乾いた残響を従えて自分の横に並んだその女性に、少しばかりの嫌悪感を露にする。それに気付いた素振りも見せず、歩調を変えずに歩き続けながら、綾川と呼ばれた女は会話を続けた。
「まだ幼いとはいえ、一人の人間に人殺しの道を選ばせる事が出来るのだから、それも立派な才能だよ……」
 珍しく褒め言葉を洩らしたその女性に、萩原はほうと小さく驚きを示す。そして、その後に気恥ずかしそうな苦笑を浮かべ、一言だけ付け足した。
「最終的には、ほとんど実力行使になってしまいましたけどね……」
 口調、態度、表情……男のどれを取っても、さっきの部屋の少年と向き合っていた時とは大きく異なっている。
 しかし、そのことに疑問を持つ者は誰一人としていない。
「まあ、それは当然だろう。実際に選べる道なんて無いんだからな。それよりも……」
 女の表情が、少しだけ固くなる。
「本当に……あの少年が?」
「……はい、ガンマ≠ェ見つけてきた人材です」
「まだ、信じられないな……。本当にカズヤ≠フコードネームを与える必要があるのか?」
「それを言われると……確かにあの少年も、今まで手掛けてきた者達と何ら変わらない反応でしたからね。それで信用しろと言うのは無理がありますよ。まあ、あの少年の場合は初めての事例ですから……」
「これから監視をしていけば、当たり≠ゥ外れ≠ゥはその内に明らかになる……か」
 女はまるで人間味を感じさせない口調で、冷酷とも取れるそんな台詞を口にする。
「この事…あの女には……?」
「すでに報告済みですが……それが何か?」
 少し考え込んでから発した綾川の短い問いに、その意味を解した萩原は頓狂な声で答える。
「いや…別に……」
 そう言った綾川は、一瞬だけ険しい顔を漏らしたかと思うと、続いて自分にも聞こえないような小さな音で、無意識的に舌を打ち鳴らしていた。
「そうそう……できればこれからは、どの辺りまで洗脳≠オているのか、面会前に教えて欲しいものですね」
 隣の女性の態度を知ってか知らずか、冷笑を交えながら萩原がそう言い放つと、綾川はその中に隠された皮肉を意にも介さずに言葉を返した。
「もう、その必要は無い」
「……と、言うことは」
「ああ……あの少年で最後だ。これから本格的に訓練を始める」
「そうですか……」
 萩原は軽く頭を掻きながらそう言うと、溜息と共に胸中の小さな不満を吐き出した。
「また、仕事が増えるな……」





 この狭い部屋に一人きりになってから、一体どれぐらいの時が経ったのだろうか?
 あれから一通り泣き尽くした後は、窓の外側をただぼんやりと眺め続けていた。そこから入ってくる柔らかな光すらも、今はただ僕を苦しく締め付けるだけだ。
 そんな温かい現実を無邪気に浴びせられ、そしてそれが、ふと気付いた時には星々の瞬きに変わっていた。
 夜の冷気に周囲が覆われていく。
 それと同時に、自分の思考も少しずつ冷めていくのを感じる。

 ――もう、頭痛は治まっていた。

「どうしよう……」
 狭い夜空を見上げながら、ふとそんな言葉を呟く。すると、ようやく動くようになった頭が、僕の意志に反してさっきの男の話を思い返し始めた。
 組織オリオン=c…そして、Juvenile - Growing計画=B僕に暗殺者としての素質があるとも言っていた……。
 それに、記憶――過去を消されているとも。
 再び記憶を手繰ろうとするが、あの頭痛を思い出して反射的に止まってしまう。
 まるで、意識が考えることを拒絶しているかのように。
 でも、何もかもが分からない訳じゃないみたいだ……。さっき聞いた言葉の意味も、周りに置いてある物が何かも分かる。それなのに……知識はあるのに、自分の記憶だけが一つ残らず抜け落ちているんだ……。
 鈍く痛み出した頭を抱えると、深い悲しみの波が押し寄せてきた。同時に、感じたことの無い喪失感が全身を蝕む。
 しかし今の自分には、何を失ったのかさえも分からない。
 多分もう、以前の僕には戻れないのだろう……。
 絶望的な答えが、しかし何物にも阻まれずに浮かび上がった。昼に死人のように眺めていた緑一色の外の景色に、ここは外界から完全に遮断されているんだろうと思わせられれば、そんな考えに行き着くのも無理は無い。
 きっとここは交通手段もままならない、どこかの山か何かの奥深く……逃げ出す事など、絶対に出来ないような……。そうでなければ、あの男が僕にそんな極秘計画なんてものを伝える筈が無い。暗殺者を育て上げる≠ネんて突拍子も無い事も口に出来ないだろう。
 それは裏を返せば、いつでも口封じの準備が出来ているとも取れる。
 それに……
 視線を上から下に落とし、静寂の光に照らされて一際輝いて見える手首を見やる。
 そこには、オリオン≠ノ……JG計画≠ノ選ばれた者に与えられるという腕輪が、まるで僕の身体に根付いているかのように嵌められていた。
 これに発信機の様な物が仕込まれていないとも限らない……つまり、逃げ出す事なんて考えられない……か。
 まるで今まで押さえ付けられていた反動のように、自分でも驚くほどに動く思考が、今はひどく恨めしかった。
 鈍い光を放ち続けているその銀輪は、見たところ簡単に取れそうにもない。まるで今も、そしてこれからも、永遠に自分を縛り付けようとする意志が溢れ出しているかのようにも見える。
「カズヤ≠ノ…生まれ変わる……」
 再び窓に戻した視線が夜空の星と交錯すると、男が言っていた台詞が口をついて出た。
 そんなこと、できるわけない……。
 もう何度目になるのかも分からない言葉が、またも脳裏を過ぎった。
 それでも、そうする以外に生き延びる方法は無いという現実が、胸の奥で葛藤となって蠢き続けている。
 多分、さっきの男の口振りからすれば、すぐに殺し屋になれという訳ではないのだろう……。どれぐらいの期間かは分からないけど、とりあえずは色々な訓練を受けなければならないらしい。
 ……人を殺す為の訓練≠。
 それだけでも気が狂いそうだけれど、ここで生き延びるにはそうするしか無いんだ……。そうしなければ……
 先程の冷たい銃口を思い出し、小さく身震いが起こった。
 死にたくなんてない……だから、今はここで訓練をして生きていくしかない……。僕に人を殺す事なんて出来るのかどうか分からないけれど、今はそうするしかないんだ……。
 結局そう行き着いた結論に、そんな答えしか出せない自分の弱さを痛感させられる。
 頬を伝う一筋の涙が、何よりもその事を象徴していた。

 冬の冷気を纏った暗く狭い空の片隅から、他の星々に混ざったオリオン座の光が、いつまでも部屋の中に青白い明かりを灯し続けていた……。