イルカ文明・第三章(前編)
作:しんじ





   第三章 サメ(前編)

 ぐったりとしたイルカが、海中を漂っていた。春菜と数人が近付いて、
「大丈夫?」
 と声をかけると、そのイルカは薄目を開いた。
 ――これは危ない……。
 口には出さなかったが、春菜は顔をしかめる。
 イルカは右脳と左脳、交互に眠ると言われ、片目ずつ目を閉じる。だがこのイルカは、今両目を閉じていたのだ。もちろん、そうして眠るイルカがいないとは限らない。が、普通に考えると……。
「大丈夫?」
 もう一度聞くと、そのイルカは噴気孔から小さな泡を出した。
「呼吸がしたいのね?」
 そう聞くと、今度は大量の泡を吐き出した。そして、その両目が閉じられる。
「あ……」
 という誰かの声とともに、そのイルカの体が沈み始める。春菜は、慌ててイルカの体を支える。
「みんな、手伝って……」
「ああ」
 と、数人がイルカの体を支える。
 春菜は、息のなくなったイルカを海面に押し上げながら、疑問を感じていた。
 このイルカは、どうしてこんな状態になってしまったのだろうか。シャチに襲われたのだろうか? だが、外傷がない。エビーナでも食べたのか、あるいは病気か。
 シャチやエビーナ以外にも、何か敵がいるのではないか。春菜は、そんな不安に捕われていた。


 すべてのサメが危険というわけではない。豊も、それくらいは知っていた。
 だが、豊たちの前でシャチを追っていたものは、危険と言われる種類のサメではなかったか。
「あんなでかいサメは、見たことがない」
 スライトリーが言った。
「ああ」
 豊はうなずく。うなずきながら、昔水族館で見たサメを思い出す。
 ジンベエザメとかいう名前だった。今見たサメとは似つかないが、大きさは近いかもしれない。魚では最大と言われる十数mの体長。
 ただ、ジンベエザメはプランクトンなどを食べるが、今見た奴はシャチを襲っていた。
 最大と言われるものと同じ大きさだが、習性の違うサメ。それはつまり、既存の種ではないと言うことなのか。
 ――俺には難しいことは分からない。
 豊はそう思いながらも、これだけは確信した。
 東京だからと言って、もう安全ではない。
「もう、ここは出て行くべきなのかもしれない」
 豊が言うと、
「そうだな」
 と、スライトリーも言った。


 どこか、冷たさを増したような東京を豊たちは泳ぐ。とにかく、春菜たちと合流することにした。
「考えてみれば……」
 豊は、またがるスライトリーに言う。「シャチさえいなけりゃ、エビーナ爆弾が使える。そうすりゃ、サメなんかにもやられずにすむ」
「そういえばそうだな」
 と、スライトリー。
「シャチと俺たちの敵が一緒なら、一時休戦して手を組むってのはどうだろう?」
 豊が言うと、スライトリーは不愉快そうに、
「やっぱりお前も同じだ。あの由貴子って女と変わらない。都合のいいことばかり考えやがる」
 辛辣《しんらつ》な物言いに、シャチに対する憎悪が感じられた。豊は、思いつきを口にしただけだったが、少し無神経だったかとも思う。
 ――だったら、どうすればいい?
 豊は自問する。
 東京を出たとする。ならば、そこは安全なのか。そうでなければ、ここを出て行く意味がない。いくら敵が増えたとは言っても、ここが一番安全なのではないか。
 とすると、シャチと一時的に手を組む、というのが理想のように思える。シャチどもは、細江の管理下にあるようなので、不可能なことではないはずだ。もし、スライトリーたちイルカが嫌だと言っても、それはそれでいい。細江が承知すればいいだけの話だ。
「スライトリー」
 豊が声を掛けると、
「ああん?」
 と、返事が返ってくる。
「やっぱり、ここは出ていかない。ここが一番安全だ」
「そうかもしれないな」
 スライトリーはそう言い、「でも、どうする。シャチやサメどもからは、逃げ回るだけか」
「……とりあえず、な」
 豊がそう言うと、スライトリーは訝《いぶか》しげな目をした。


 まず、春菜たちにサメが来たことを知らせる。次に、細江に会って話をつける。そしたらシャチとともにサメをやっつけて、その後は平和に暮らす。
 豊はそんな計画を立ててみるが、同時にそんなにうまく行くわけがない、とも思う。言うは易《やす》し……という奴だ。
「みんなどこ行ったんだ。全然見つからねえじゃねえか」
 出だしからつまずいてしまい、豊は苛立ちを口にする。
「まあ、海は広いからな。――いや、分かった。あっちだ」
 スライトリーはそう言うと、泳ぐ方向を変えた。
 なぜ分かる? 豊は疑問に思ったが、あえて聞くのはやめた。


 ♪海はーひろいーなーおおきーなー
 月はのぼるーしー日はしーずーむー♪
 豊の耳にも、その歌が聞こえてきた。
「なんだ、この歌で分かったのか」
 豊は言いながら、春菜の声であることに気付く。耳のいいイルカにとって、歌や声で連絡を取り合うのは当たり前だと言う。春菜は、それを実践しているのだろう。
 スライトリーの背中に乗った豊の目に、春菜と数人の姿が見え始めた。と同時に、一頭のイルカにも気付く。
「なんだ? そいつは」
 豊がそのイルカに近付いて言うと、
「あれ? 由貴子さんは?」
 と、春菜は歌を止めて言った。
「あ、ああ。あの人は……」
 豊が言い終わらないうちに、「この子、死にかけてるの」
 と、春菜は動かないイルカを見やって言った。「どうしたらいいかって思って。もしかしたら、由貴子さんなら分かるんじゃないかって」
「あの人は、イルカを助けてなんかくれないぞ」
 豊がそう言うと春菜は、
「はあ?」
 と、顔をしかめた。「由貴子さんを捜しに行ったんじゃなかった?」
「そうだけど、もうあの人は……」
 豊がそう言いかけたとき、
「おい」
 と、豊は背中をつつかれた。
「なんだ」
 豊が振り返ると、
「シャチが来たぞ」
 と、スライトリーは言った。「歌なんか歌うからだ」
 見ると、遠くに数頭のシャチが見えた。
「あ!」
 春菜が声を上げた。しまった、という顔をしている。耳がいいのはシャチも同じ。それを知らないはずがないからだ。
「逃げよう! スライトリー!」
 豊が言うと、
「でも、この子は!?」
 と、春菜が死にかけのイルカを見やって言う。
「ほっとけ」
 と、スライトリー。「どうせ死ぬ奴だ。喰われた方がそいつのためだ」
「でも!」
 春菜は言い返そうとする。
「いや、スライトリーの言う通りだ」
 豊は言う。「そいつを守ろうとして、お前が殺されるかもしれない。お前が助かる方が大切だ」
 春菜はうつむいた。それから「分かった」とつぶやくと、そのイルカから離れた。
「それでいい」
 豊は言うと、スライトリーの背に乗った。それを見て春菜は、
「またひとりで行っちゃうの?」
「ああ」
 と、豊は近付くシャチを見やる。「狙われてるのはイルカだからな。スライトリーだけは、アイツらに追いつかれるわけにいかない」
「あ、ちょっと待って!」
 春菜は、行きかける豊を呼び止める。「私、前にみんなで集まったビルのところで待ってるから!」
「ああ」
 と、豊がうなずき、「気を付けろよ!」
「あなたも!」
 春菜のその声を合図にみんな散り、その後には一頭のイルカだけが残った。


 シャチたちと暮らすと言って、このビルに集まったのはずいぶん昔のことのような気がした。
 ――ほんの二日前なのにね。
 春菜はそんなことを思いながら、一人ビルの前に佇《たたず》む。
 豊はもうしばらく来ないだろう。春菜もそれは分かっていたが、周りを見回し人影を探す。――やはり誰もいない。
 屋上で待っていようか。春菜はそう思い、ビルの階段のある方に回り込む。
 と、そこには、壁にもたれて苦しむ人間の姿があった。不審には思ったが、
「誰?」
 と春菜は、それに近付いて聞いた。
「や……やっと来た……」
 その人間は、うめくように言った。
「由貴子さん?」
「うん……」
 と、由貴子は、やはり弱弱しく答える。
「どうしたの? 苦しいの?」
 と、春菜が由貴子の顔をのぞき込んで聞くと、
「うん……。助けて……私のこと、助けてくれる?」
「何言ってるの。当たり前じゃない」
 春菜は、そう言って由貴子を抱きかかえると、屋上に昇る階段に向かった。


 屋上に出ると、外は晴れていたが向こうの空は赤かった。すぐに日は沈むだろう。
 春菜は、黒ずんだコンクリの上に由貴子を寝かせると、
「大丈夫?」
 と聞いた。
「……ううん。ダメかもしれない」
 潤んだ目で、由貴子は小さく言った。
「どうしたの一体。何があったの?」
「きっとバチが当たったんだ」
「バチ? どうして?」
 と、春菜は首を傾げる。
「豊くんから聞いてない?」
「何を?」
「……そう」
 由貴子はそう言うと、目を閉じた。「これも運命なのかな。まだ死ぬなってことかもしれない」
「何かよく分からないけど、私にできることがあればなんでも言って」
「うん。ありがとう」
 由貴子はそう言うと、手を伸ばして春菜の手を握った。


 ビルの陰に隠れていると、突然隣りのビルがガラガラと崩れ始めた。
「わわわ!」
 豊は言いながら、そのビルから遠ざかる。スライトリーも逃げながら、
「またコイツらか」
 と、沸き上がる砂煙の中を見据える。――青白い無数の光。エビーナだ。
「見つかった!」
 と、豊は自分たちを追ってきたシャチたちを見る。
「やれやれ」
 スライトリーはのん気に言ったかと思うと、「あ」
 と、別の方向に声を上げた。
「ん?」
 と、豊もその方向に目をやる。
 まばらに立ち並ぶビル群。その間に何かが見えた。数匹の何かだが、左右の動きから魚だと分かる。シャチやイルカならば、人間と同じように足を上下に動かすからだ。
「あれは……」
 と、豊は目を凝らす。「まさか、サメ……か?」
「たぶんな」
 と、スライトリーは言ったあと、「ただ、さっき見たサメよりはずいぶん小さい気がする。俺たちの敵にはなっても、シャチたちの敵にはならんだろう」
「で、どうする!?」
 豊が聞くと、
「そうだな……」
 と、スライトリーは面白そうに言った。


「海ヘビ?」
 春菜は聞き返した。
「うん」
 横になったまま、由貴子は言った。「足を咬まれたの」
 春菜は、由貴子の差し示すところを見やる。確かに、左足ふくらはぎの辺りが大きく腫れていた。それは、イルカスーツの上からでもよく分かった。
「いつ? いつ咬まれたの?」
「ついさっき……」
 この腫れ方から言って、毒のある海ヘビに違いないだろう。春菜はそこに触れてから、
「毒は吸い出した?」
 と聞いた。
「ううん」
 由貴子は言った。
 それはそうだろう、と春菜は納得する。ふくらはぎに口が届く人間は、ほとんどいまい。そこを咬まれたのは不運ではあるけども、頭から遠いところで助かったとも言える。
 春菜は、由貴子の足のイルカスーツをまくって、そこに吸い付いた。
「いたいっ!」
 と、由貴子は短く悲鳴を上げたが、その後は声を出さなかった。
 春菜はしばらくそうやったあと、「こんな感じでいいのかな?」と不安になった。なにしろ、毒ヘビに咬まれた人の治療などしたことがない。
 由貴子の足は、変わらず腫れていた。春菜は、由貴子の顔を見る。
「もう大丈夫よ」
 由貴子は、薄く微笑んだ。
「ホントに?」
 春菜が不安そうに言うと、うん、と由貴子は声に出さずうなずき、
「たぶん、私が咬まれたのはアオマダラウミヘビって奴。場合によっては致命傷になるけど、たぶん大丈夫」
「ホントに大丈夫なの?」
「うん。すごく痛いけど。――でも、普通はケガ人が痛い痛いって言って、他の人が大丈夫大丈夫って言うのよね。おかしいね」
 由貴子はそう言うと、ニコッと笑った。
 これだけの笑顔が作れるということは、ホントに大丈夫ということだろう。春菜は少し安心した。
 ――でも、海ヘビって……。
 春菜は、嫌な予感がしていた。海ヘビのようなものが来るということは、この東京も本当の海になりつつあるということなのではないか。ここが本当の海になったら、どんな生物が集まり、どんな生態系が作られるのだろうか? その時、そこで人間は生きられるのだろうか?
 空が暗くなってきた。そして、由貴子の寝息も聞こえ始めた。


 豊とスライトリーは、サメの方に向かっていった。後ろからは、シャチが追いかけてきている。
 サメはそれほど大きくない。イルカと同じくらいではないかと思われた。もちろん、サメとしては大きい方なのだろうが、前に見た奴が大きすぎた。それならばサメとシャチをぶつけてしまおう、そう言いだしたのはスライトリーだった。
「うまく行くかな?」
 豊は聞いたが、
「行くに決まってんだろ」
 と、スライトリーは言い切った。そう言われると、豊としても納得してしまう。
 しかしいつも思うのだけど、このスライトリーの自信はどこからくるのだろう。豊は不思議だった。同じことをやるにしても、自信を持ってやるのとやらないとでは、結果も違ってくる。必ずしも良い結果になるというわけではないだろうけれど、そういうのに人はついてくる。これも、リーダーとしての資質かもしれない。
 サメとの距離が縮まる。――灰色の体と、三角の長い歯。かわいらしくも見える小さな目が不気味だ。
「おい! 突っ込む気か!?」
 豊は、スピードを緩める様子のないスライトリーに言った。が、何も答えは返ってこない。
 豊はシャチたちを振り返った。奴らもかなり近付いている。
「落ちるなよ!」
 突然、スライトリーが言った。
「え?」
 と、言いながらも豊が体を緊張させると、次の瞬間にはサメとサメの間にいた。気が付けば、サメの鋭い歯が目の当たりに迫っていた。
 ――喰われる!
 瞬間的に思った。
 が、また次の瞬間には、それは遠ざかっていた。なんというスピードだろうか。
「くーっ! 今のはやばかったな!」
 スライトリーが、なぜか楽しそうに言った。
「やばいどころじゃない……」
 豊は、言いながら振り返った。ちょうど、サメとシャチが鉢合わせたところだった。
 ブルブルッ。過ぎ去った恐怖に体が震えた。
「さて、今のうちに逃げるか。クェクェ」
 と、スライトリーは笑った。
 が、豊は、サメとシャチのいるであろうところに、血煙が昇るのを見ていた。
 ――どっちの血だろう。
 そう考えると、また震えがきた。


「おい春菜! いるのか!?」
 豊は、ビルの屋上に向かって叫んだ。
 しばらく返事はなかった。いないのかな、と豊が思い始めたとき、
「いるよ!」
 と、春菜が屋上から顔を見せた。
「降りてこいよ!」
 豊が言うと、
「ダメ! 無理!」
「は? なんでだ!?」
「だって由貴子さんがいるもの!」
「なに?」
 豊は、顔を険しくした。「おい。聞いたか、スライトリー」
「ああ」
 と、スライトリーの顔つきも変わる。
「今から上に行くからな!」
 言って、豊は階段の方に向かった。


 屋上に上がったと同時に、ドボーンという音がした。
「どこ行くの!?」
 と、春菜がビルの下をのぞき込んでいた。
「逃げたか!」
 豊は、言いながら駆け出した。――が、バランスを崩して転んでしまった。走る筋肉が衰えている。
「くっそ! 逃がさねえぞ!」
 再び立ち上がると、春菜がそばに寄ってきた。
「追ってこないでって」
 春菜が言った。
「なに?」
「豊くんが追ってこないように、私に足止めして欲しいって」
「何言ってんだ、お前」
 豊は、顔をしかめる。「あの人を逃がすわけにはいかねえ」
「やめて」
 と、春菜が豊の腕をつかんだ。「由貴子さんが何をしたか知らないけど、許してあげて」
 いちいち、説明する時間などない。豊は、何も言わずにその腕を振りほどいた。そしてビルの隅に向かい、海を見る。
「あ」
 スライトリーが浮いていた。
 ――由貴子さんにやられたか。
 豊は、ビルから飛び降りた。――水飛沫が上がり、足が少し痺れる。
「スライトリー! 大丈夫か!?」
 豊が近寄ると、
「大丈夫じゃねえ……」
 と、苦しそうに言った。
「あの人か!? どっちに行った!?」
「知るか……」
 スライトリーは言う。「それどころじゃなかった」
「は?」
「……ヘビに咬まれた。あの女が降りてくる前に何かいたから、つい……。」
「ヘビ? そんなものがここにいたのか? いや、それよりも大丈夫なのか?」
 豊が聞くと、
「知るか……」
 と、またスライトリーは言った。
 ――このぐったりした様子……。
 先程のイルカとイメージが重なった。まさか、死にはしないよな?
 もう、由貴子のことは放っておくしかないようだ。


 海ヘビの毒は、コブラの五十倍とも言われ、象をも殺す。
「じゃあ、イルカも死ぬってことか?」
 豊は言いながら、スライトリーに触れる。
「私もよく分からないけど、由貴子さんはそう言ってた」
 と、春菜は隣りで言う。「でもイルカは皮が厚いから、毒が体に入ることはないような気がする」
 豊は、スライトリーの体を見回す。――確かに、皮は厚そうだ。だが、どこを咬まれたというのだろうか。まるで外傷がない。
「おい」
 豊は、スライトリーに声をかけた。
「……は……」
 と、弱弱しい返事が返ってくる。
「ヘビに咬まれたって、どこを咬まれたんだ?」
 そうやって豊は聞いた。が、スライトリーは何も答えなかった。
「おい」
 再び言うと、スライトリーは口を開けて、
「ここだ」
 と言った。
「は?」
 何を言っているのか分からなかった。
「あ、口の中!」
 春菜が言った。ああ、そういうことか。豊は、納得し口の中をのぞいた。
 円錐型の小さな歯がたくさんならび、赤い舌がある。そしてその赤い舌からは、血が昇っていた。
「ああ、そうか」
 舌を咬まれたわけだ。豊は納得した。
 舌ならば、皮も厚くないだろうからヘビの毒も入りうるわけだ。
 いやしかし、なんだって口の中を咬まれるのか。ヘビに口の中を咬まれるとすれば……。
 豊がそう思っていると、
「からかってたんだ」
 と、スライトリーはつぶやいた。
「そ、そうか。俺はまた、てっきり……」
 喰おうとしてたんじゃないか。そう言おうと思ったが、やめておいた。今はそんなことはどうでもいい。――生きてこそ。豊は、そう思うのだった。


 すっかり悪者ね。
 由貴子は、そう思いながら海を泳いでいた。
 ――数ヶ月前、地球の終わりが来たのだと思った。だが、それは地球の終わりではなく、人類の終わりに過ぎなかった。とかく混同しがちだが、人類の終わりは地球の終わりではない。
 しかし、地球の終わりでなければ、人類は生き残るチャンスがあるはずだ。それを信じて由貴子はやってきた。ただ、そのやり方が正しかったかどうかは分からない。……いや、極論を言えば、人を殺してでも自分が生きるというのは正しい。それがホントかどうかは知らないが、由貴子はそう信じている。
 ――体が思うように動かなくなってきた。
 海ヘビのせいだ。あの、黒と白のシマシマ。咬まれ方が悪かった。
 種類にもよるが、海ヘビの毒は奥歯にあるため、一度咬まれても毒は入らない。だが、咬み直されると奥歯が刺さる。
 「勧善懲悪」という言葉が由貴子の脳裏によぎる。――悪者は死ぬ。
 私、やっぱり悪者なんだ。
 そう思うとおかしかった。
 全壊したビル、モルタルに埋もれた街。かつての都は水に沈んでいる。――由貴子の視界から、その景色がかすれはじめた。


 日が暮れ始め、水面は赤い光に覆われる。波がきらめいて美しい。だが、今さらそれを楽しむ気はない。
 ――もうこんな時間か。
 と、豊は朝から何も食べてないことに気付いた。それはきっと、スライトリーたちイルカも同じだったのだろう。昨日から何も食べてないから、見つけたヘビに反射的に手を出した。そして咬まれた。
 もう暗くなる。腹は減ったが、今から動くのは危険だろう。
「俺たちはもう、長くないかもしれないな……」
 豊がつぶやくと、
「そうね……」
 と、春菜が隣りで言った。