イルカ文明・第三章(後編)
作:しんじ





 第三章 サメ(後編)


 背中を突つかれた。
 目を開くと、豊の目に明るくなりかけた空が映った。見慣れた朝の光景。
「いい加減起きやがれ」
 と、声がした。そして、海からクチバシが出てくる。
「スライトリー……」
 豊がつぶやくと、
「クェ〜」
 と、そいつは答えた。
「もう、大丈夫なのか?」
「クェクェ。咬まれ方が良かったんだろうな」
 と、そいつは笑った。


「血の匂いがする」
 スライトリーが言った。
「イルカって、鼻もいいのか?」
 と、豊は春菜を見る。
「いいわけないじゃない。っていうか、イルカの鼻は、呼吸をするためにあるんだからね。今さら言うみたいだけど」
「ああ、そうか」
 豊は、言われて思い出した。イルカやクジラが汐を吹くところ、頭のてっぺんにあるのが鼻だった。――ってことは……。
 豊は海面から顔を出し、鼻をヒクつかせた。
「ホントだ……」
 血の匂いがする。どこかで、大量の血が流れているということだろう。それはイルカの血か、シャチの血か。それとも……。


 ビルの破片やモルタルが積もる海底に、二人の男が佇んでいた。
「生き物は、その役目を終えたとき天に召されるのだという。君もそう思うかい? 真次くん」
 細江が聞くと、
「さあ? 難しいことは分からんですね」
 と、真次は首をひねった。「博士はどう思うんですか?」
「……どうなんだろう」
 細江はそうつぶやくと、視線を落とした。――視線の先には、両手を組み合わせて横たわる人影がある。
「由貴子くん。君が役目を終えたというなら、私のやり方は間違ってなかったということなのかな。そう思っていいんだろうか?」
 と、細江は屈み込んで、由貴子の頬に触れた。
 訊ねたところで、答えてくれるわけがない。そんなことは細江にも分かっていた。だが、人は死ぬことで神聖化される。何が正しくて何が間違っているのか、それすら知っているような気がするのだ。
「で、これからどうします?」
 真次が聞くと、
「私や由貴子くんが正しかったこと。それを証明する」
 細江はそう言って、夜の明けた海を見上げた。


 サメはときとして、数百、数千の群れを造るときがある。だがそれは、特別な理由があるときだけの話だ。――美しいガラパゴス諸島であったり、エサの多いところであったり。
「特別な理由……。血の匂いかな……」
 春菜はつぶやくと、身をすくめた。
 豊は、何も答えずに遠くを見据える。その視線の先にはいくつかのビルがあり、もっと先には帯のように広がる魚の群れがある。横長の黒い線にも見える。
「あそこで血が流れされているのかもしれない。サメは鼻がいいから……」
 春菜が言うと、豊は昨日のことを思い出した。そういえば、サメとシャチに戦いを始めさせたのはあの辺りだった。スライトリーがそう仕向けた。
 豊は、離れて泳ぐスライトリーを見やった。――なにやら、旋回を繰り返している。「病み上がりは、体の動きが不自然だ」とかなんとか言っていたから、違和感を楽しんでいるのかもしれない。
「でも、ホントにサメなの? アレ」 
 春菜が聞いた。
「たぶんな。なんなら、近くまで行ってみるか?」
「……襲ってきたって言ったよね。イタチザメとかオオメジロザメとかなのかな……」
「そこまでは分からない」
「でも、あれだけのサメが襲ってきたら、私たちももう終わりね」
 春菜は、なにげに言った。豊は、その意味を考えてみて、しばらくしてから、
「ああ」
 と、答えた。


 細江とシャチの群れは、少しずつサメたちに近付いていく。
「オオメジロザメたちか。これは強敵だぞ」
 細江がつぶやくと、
「あの……ちょっと用事を思い出したんですが……」
 と、真次は言った。
「用事?」
 細江は一瞬、顔をしかめた。が、それはすぐに微笑に変わる。
 仕方ないことなのかもしれない。誰だって命が惜しい。逃げ出してしまいたくなるのは当然で、そうする権利もあるはずだ。
「ああ。用事があるなら行っておいで。私は先に行ってるから」
 と、細江はうなずく。
「ホントですか!? じゃあ、すぐ戻りますから!」
 と真次は言うと、脱兎のごとく細江とシャチの群れから遠ざかっていった。
「行ったか……」
 細江は、ため息をついた。そして、少し真次のことを考えてみた。
 ――変わった人間だったが、案外好きだったけどな、私は。たぶん、もう会うことはない。
 そう思うと、細江の脳裏から真次のことなど消え去った。代わりに、娘の顔がはっきりと浮かぶ。
「春菜……」
 つぶやいてみる。
 自分が生きるためなら、他を犠牲にしてもかまわない。それは細江の一貫した考え方で、否定する人も少なくないが、そうだと言ってくれる人もある。そんな細江も、親子関係だけは別だと思っている。
 親は与えるだけの存在であり、子は与えられるだけの存在。もちろん、喜び悲しみを与えてくれることはあろうが、それは精神的なものでしかない。親が子に生命を与えることはあっても、逆はあり得ない。
「親は子のために死ねるのだ。それは、ここにいるシャチたちも同じ」
 細江は、シャチたちを見回すと、
「行こう」
 と呼びかけた。


 帯のように見える魚の群れ。遠くから見ていた豊たちにも、それが赤くなっていくのが分かった。
「血の赤ね」
 春菜がつぶやいたので、豊もうなずいた。
 あのどす黒い赤。血の色以外にあり得ない。サメとシャチが戦っているのだろうか。
「イルカではサメに勝てないから、シャチと手を組むんだと由貴子さんは言っていた。こうしてみると、そのやり方も間違いじゃなかったように思えてくる」
 豊がつぶやくと、
「うん」
 と、春菜がうなずく。「でも、そう言ってくれたらよかったのに。そうすれば、無駄な争いもせずに済んだ」
「ああ、まったく」
 と豊は言ってから、ホントにそうだろうか、と考えた。――サメにやられるかもしれないから、イルカたちと別れてシャチと暮らせ。そう言われれば、そうしただろうか? サメや魚の時代が来るから、生き残れる可能性の高い方を選べ、と言われればそうしただろうか? ただでさえ生きる望みを失ってる人々にそんなことを言えば、プラスよりマイナスが多いに違いない。真実は知らない方がいいこともある。そう判断したのだろう。
「ん? あれは何?」
 と、春菜が言った。その視線は、赤い帯の反対側に向けられていた。
 豊も、振り返ってその方向に顔を向けた。
「あれは……」
 と、豊は目を細める。――まさか。
 赤い帯の反対側にも、黒い帯が現れていた。
「あれも、サメの群れなんだろうか?」
 豊が聞くと、
「そうとは限らないけど……」
 と、春菜は自信なさそうに言う。「普通の魚かもしれない。でも、普通の魚がエサのない東京にくるかな? 食物連鎖から考えたら、イルカより上のサメだって考えた方が自然な気がする」
「イルカよりでかいサメってことか。すると、俺とスライトリーが見た、シャチよりでかいサメかもしれないな」
 豊がそういうと、
「シャチより大きいサメ?」
 春菜は首を傾げた。「そんなのいないと思うよ。いるとしたら、ジンベエザメくらい。あと、メガマウスザメ、ウバザメ……は絶対違うし」
「いや、ジンベエザメじゃなかった。それくらい俺にも分かる」
「見間違いじゃない?」
 春菜は、顔をしかめた。「クジラとかなら分かるけど。魚類はね、大きくならないの。大きくなれば、それだけエサが必要になる。だから大きくならないように進化したの」
 ――そんなこと言ったって、見たものは見たんだ。豊は、反論しようと思ったがやめた。理屈っぽい人間というのは、見たものを信じようとしない。自分が見たのでなければ、なおさら。そんなことでは新しい発見はできないと思うが、春菜にはどうでもいいことだ。
「でも俺も見たぞ」
 そう言ったのは、スライトリーだった。いつの間にか、豊の隣りにいた。
「ホントにサメだった?」
 春菜が、スライトリーの目を見て聞く。
「ああ、間違いねえ」
「うーん」
 と、春菜は首を傾げた。「今知りたいのは、あっちの黒い魚の群れが何かってことよね。そんな巨大魚があんなにたくさんいるとは、どうしても考えられないの」
「でも、俺たちイルカとかシャチはたくさんいるじゃねえか」
 スライトリーが反論する。
「哺乳類は恒温動物だから。同じ形なら、大きいほど体積に対して表面積の割合が小さくなる。大きいほど冷たい水の影響が少なくなるってこと。イルカやクジラは、大きくならざるを得なかったわけね」
「ふん」
 と、スライトリーは噴気孔からボコッと空気を出した。「そんなことはどうでもいい。俺は見たんだ、シャチよりもでっけえサメを」
 スライトリーがそう言うと、
「うーん……」
 と春菜は、首を傾げながら遠くに見える魚の群れを見やった。それから黒い魚の群れを指差すと、「シャチよりも大きいサメはいるかもしれない。でも、あっちの黒い塊はそれじゃないと思う」
「じゃあ何だと思う」
 豊が聞くと、
「それは分からない」
 と、春菜は首を振った。
「しかし……」
 豊はつぶやくと、腕を組んで考える。――あそこに見える群れが何であれ、敵だと考えた方がいいかもしれない。だとするならば、バラバラになっているイルカや人間は、まとまって行動するべきだろう。
「ともかく、みんなを集めよう。――全員だ。シャチの海に残った人間も、全員捜そう」
 と、豊はスライトリーを見る。
「そうだな」
 スライトリーが答えると同時に、
「あれ?」
 と、春菜がスライトリーの後ろを指差した。
 豊はその指差す方向に顔を向け、スライトリーは振り返る。
 巨大な甲羅が泳いでいた。人ほどもあるかもしれない。
「亀だ」
 春菜は、指差したまま言った。――ウミヘビと並ぶ海のハ虫類。
 豊は顔をしかめた。その存在が何を意味するのか、まったく分からなかったからだ。
「と、ともかく、みんなを集めよう」
 豊は、もう一度言った。


 まったくもって、ここの生態系はどうなっているのか。いや、どうなろうとしているのか。
 豊は、スライトリーの背で考えていた。
 自分も生態系に詳しいわけではないが、普通小さいものをそれより大きいものが食べ、さらに大きいものがそれを食べる。そして最大のものもいずれ死にゆくが、そこから最小のものが生まれる。そうやって生命は育まれていく。
 だが、ここはどうだろう。エビーナ、イルカ、シャチ、サメ、ヘビ、カメ、そしてヒトだ。生態系とか食物連鎖というよりも、新時代の覇権を求めてここに集まっているのではないか、という気がする。
「シャチもサメもいなくなってるな。全部あそこに集まってんのかな」
 と、スライトリーはそのイルカに言った。
「たぶん」
 と、そいつは遠くを見据える。――その視線の先には、赤い塊が見えているのだろう。豊も、その視線の先を追う。
 初めは帯のように細長く見えていた赤い群れだが、今は塊としか言えない。入り乱れて争っているのか。
「昨日まではシャチとかサメがうろうろしてたけど、今日は見ないね。で、東京タワーに集まればいいのね?」
 その優香という女が言ったので、
「うん。そうしてもらえるとありがたい」
 と、豊はちょっと頭を下げた。
「頭を下げられてもね。自分のためなんだし」
 優香はそう言うと、そのイルカとともにハタハタと泳いでいった。
 ふうっ。豊は息を吐く。――あと何頭、あと何人がこの東京にいるのか。
「しかし、シャチもサメも今は見かけないな。こうしていなくなってみると……」
 豊はつぶやく。「別に争いなんかしなくてもいいじゃないかって気がしてくるな。生き物ってのは、こうして争わずにいられないのか」
「また人間のキレイ事か」
 スライトリーは、冷たく言った。


 東京タワーには、相変わらずエビーナがうろついていた。光るものもそうでないものも。
「酸化した鉄から、いろんな毒素が出てる。それがエビーナを引き寄せているんだろう」
 太めの女、玲奈が言った。
「とすると、東京タワーが落ちるのも時間の問題かもしれないな」
 と、不細工な男がうなずく。
「クェー」
 ――ここに集まった人間とイルカが、思い思いの会話を交わす。その中で、豊は考えていた。
 とりあえずみんなを集めてみたが、これからどうすればいいのだろうか。これまでいろいろ考えてやってきたが、今度はどうしたらいいのか。正直なところ、現状すらつかめていない。――この東京から、みんなで逃げるというのはどうだろうか?
「なあ。これからどうするんだ?」
 と、一人の三十代と思える男が話しかけてきた。
「あ、いや、これから考えようかと思って……」
 豊がそう答えると、
「ふーん」
 と、男は腕を組んだ。豊には、その表情が不服そうに見えた。
 ――仕方ないじゃないか。バラバラにいるよりも、とりあえず固まっていた方がいい。そう思ったからみんなを集めた。それのどこが悪いんだ。
 心の中で、豊が無意味な弁解していると、
「あっちの赤い塊な、シャチとオオメジロザメだぞ。あっちには行かない方がいいと思う」
 と、男が言った。
「メジロザメ?」
 豊は、意外な言葉に目を丸くした。――批判的なことを言われると思っていたし、男の物言いが柔らかったからだ。
「いや、メジロザメは分類だ。オオメジロザメ。ウシザメとも呼ぶ。サメってのは何百種類いるが、危険なものはほとんどいない。その中で、何にでも咬み付く危険なのがこのサメだ」
「うん。私も見た」
 と、太めの玲奈が会話に入ってきた。「海の掃除屋とも言われるオオメジロザメ。分別なく何でも食べるだけに、掃除屋としては0点だと思う」
「ちょっとうまい」
 と、三十代男は微笑した。「乱獲とか環境とかで、絶滅の危機にある種類のサメは多いが、こいつらは大丈夫だろう。なにしろ、淡水でも生きられるような奴らだ」
「へー。淡水でも」
 豊は感心した。
 やはり、ここにいる人たちは海の生き物に詳しい。豊は、恥ずかしく思った。この人たちの意見を差し置いて、自分一人で悩む必要などなかったのだ。
 歳も若く、物も知らない。ただ海に一番適応できていると言う理由から、リーダーのようなことをさせられていた。自分がすべてを考えなければならない、なんて思っていたが、そうではなかった。
 人を知り己を知る。人の知恵を借り、自分らしい答えを出す。それこそが理想的なリーダーと言うものなのではないだろうか。
「これから、どうしたらいいだろう?」
 豊は、誰に聞くでもなく問いかけてみた。
「クェー」
 と、答えがある。
「なんだ、スライトリー」
 豊は後ろを向く。と、スライトリーがいつになく真剣な顔をしていた。
「なんだ、どうした」
 豊が再び聞くと、
「気付いてるか?」
「何をだ」
 と、豊は顔をしかめる。
 やっぱりか、とスライトリーはつぶやき、
「あっちの黒い方の塊だ」
 と、スライトリーはそちらに顔を向けた。豊も、同じ方向を見る。
「あっ!」
 豊は声を上げた。
「気付いたか」
 と、スライトリーは言ってから、フン、と噴気孔から泡を出した。「あそこの黒い塊が何の集まりか知らないが、ずいぶんこっちに近付いただろう。逃げるか隠れるかしないと、アレにぶつかるのは時間の問題だ」
 スライトリーの言う通り、黒い塊はこちらに近付いてきていた。自分たちを標的にしているわけではないだろうが、生物であることは間違いなさそうだ。
「ひょっとすると、あれはハ虫類の集まりかもしれないぞ。ヘビとかカメとかの」
 三十代男が、腕を組みながら言った。
「あ、そうかもしれない」
 言われて見て、豊は気付いた。「ヘビが出たって、みんな言ってた。俺もカメを見た」
 豊は、再び遠くの黒い塊に目を向けた。
 ――カメはともかく、ヘビは恐ろしい。迂闊《うかつ》に近寄らない方がいいだろう。
「あの黒い塊と赤い塊。今はあの二つに気を付けよう。そういうことでいいだろうか」
 豊が、みんなにそう呼びかけると、
「何言ってんだ、バカ」
 と、スライトリーが噛み付いた。「これだから人間は困るんだ。これだけを気を付ければいい、とか、あれだけを気を付ければいい、とかいう考え方はダメだ。海は常に危険だ。弱い者が群れる。強い者は群れない。弱い群れに気を取られて、強い者に気付かない。典型的なバカだ」
「おお。鋭いな、君」
 そう言ったのは三十代男だった。「そうだな。まったくそのとおりだ」
 何かを決断すると、必ず否定する奴が出てくる。豊は少しムカッとしたが、それをこらえ、
「じゃあ、他のものにも気を付けつつ、あの二つから逃げる。意見のある人は?」
 意見は出なかったが、「俺は人じゃねえ」とか何とか、スライトリーが文句を言っていた。


 現在、人間十九人。イルカ四十頭。
 数え終えてから春菜は、確実に減り続けているな、と思った。逆に、いずれ全滅するんじゃないかという不安は大きくなっている。
 どうせ全滅するなら、こうしてあがき続けることに何の意味があるというのか。そして、次に死ぬのは自分ではないのか。そんなことを考えると、やりきれなくなってくる。
 こんなとき、春菜は早くに死んだ母親の言葉を思い出すことがある。
『人間にとって、一番大切なことは何だろうって考えることがあるの。いろいろ言う人はいるけど、私は生きることだと思う。それ以外のことなんて、それほど重要じゃない気がする』
 病床で言った言葉だけに、説得力があった。それからほどなくしてこの世を去ったが、死の淵でいろいろなものを見たのだろう。それがこの言葉に繋《つな》がったのか。
 春菜は、隣りを泳ぐ豊をチラリと見る。
 きっとこの人もいろんなことを考えながら、私と同じような気持ちでいるのだろう。いや、ここにいる全員がそうだ。イルカもそう。魚やヘビやカメもそう。
 先のことはともかく、この時を生きよう。春菜は、そう思うのだった。


 黒い塊は、赤い塊に近付いているようだ。とりあえずその間からは逃れよう、と豊は考えていたのだが、
「なんか、でっかい生き物がいるな」
 と、スライトリーが進行方向を見ながら言った。
「どこに?」
 と、豊は目を細める。
「見りゃ分かるだろう」
 スライトリーはそれだけ言う。
「いや、お前らイルカには見えるんだろうが……」
 と、豊は言いかけて「もしかして、あの点々か?」
「そうだ」
 わずかに明るい海の向こうに、黒い点がいくつかある。
「でも、あれが巨大生物とは限らないだろう」
 豊が言うと、
「確かに、あれが生き物とは言いきれないし、大きいとも言えないよね」
 と、春菜もうなずいた。
 だが、君子危うきに近寄らず。そんな言葉もある。
 豊は、再び辺りを見回してみる。
 右手のずっと先に見える黒い塊。左手のずっと向こうに見える赤い塊。――ずっと向こうと言いながらも、視認できるほどだ。そんなに遠いわけではない。
 そして進行方向に見える点。あれが生物だとするならば、接触するのは危険だろう。
 ――引き返すか……?
 と、豊は振り返って、今来た方向を見た。
 豊の後からついてくる、数十のイルカと人間。その向こうに、ぼんやりと東京タワーが見える。――いや、その手前に黒い点々が見えた。
「まずいぞ」
 と、豊はスライトリーを見た。
「ああ、知らんうちに囲まれてやがる」
 黒い点が巨大生物だと決まったわけでもなければ、敵だと決まったわけではない。それでも、まずいと思った。まがりなりにも自然界で生きてきた豊には、それは当たり前の感覚だった。
「どうする。スライトリー」
 困ったときはこう言う。これも身に付いている感覚だ。
「このまま進もう」
 スライトリーは言った。「相手がなんであれ、逃げられないことはない。間を突き抜ければいい」
 この方法が最良かどうかはともかく、ひとつの手段ではある。
「よし、そうしよう」
 と、豊はうなずいた。


 黒い点は近付くにつれ、当然ながら大きくなってくる。だが、それは想像以上に大きく、なにしろスライトリーをたじろがせた。
「あれは、あれじゃねえか? シャチを追いかけていたバカでかいサメ」
 と、スライトリーは豊の方を向く。
「……たぶん」
 遠目にも分かる。――丸々とした体躯《たいく》。背は灰色で腹は真白。閉じられた口からも歯がのぞく。
「ホホジロザメだ!」
 誰かが言った。
「ホホジロザメ? 聞いたことがあるな」
 と、豊は春菜を見る。
 その春菜は、あからさまに顔をしかめた。
「映画に出てくるような人喰いザメって言ったら、だいたいこのホホジロザメのこと。危険度は最凶。体長5m、3tを超えるものも珍しくない」
「それだ。シャチを追いかけてたのはそいつらだ」
 と豊が言うと、春菜は首を振る。
「違う。5mとか3tってのは、シャチの半分くらいでしかない。……でも分からない。ホホジロザメは絶滅危惧種だった。そんなにたくさんはいないはず」
「環境は変わったんだ」
 豊は言う。「環境が変わった。絶滅危惧種だろうが絶滅種だろうが、いても不思議はない」
「絶滅種!」
 春菜は大きく目を開き、声を上げた。「そうかもしれない。それならシャチより大きいかもしれない。――ムカシオオホホジロザメ。ずっと昔に絶滅したっていうホホジロザメ」
「メガロドンか!」
 三十代男が、近付いてきて言った。
「メガロドン?」
 豊は、男を見て顔をしかめる。
「そうだ」
 と、三十代男は近付きつつあるそれを見据える。「通称メガロドン。恐竜的な名前がついてるほど巨大なサメだ。体長十五mを超えるという。絶滅したとも言われたが、深海に棲んでいるという説もあった。――こうして出てきたということは、絶滅してなかったわけだ」
 そのオオホホジロザメは、少しずつ近付いてきていた。――十五mと言えば、アパートだとかマンションを超える大きさだ。今見えているよりも、はるかに大きなサメだということだろう。
「地球史上最強の魚類だ。もっと近くで見てみたい気もする」
 と、三十代男は続ける。「だがそれはできない。近付いてはいけない」
 近付いてはいけない。――それは逃げなければならない、ということだ。
 ではどこに?
 豊は振り返る。後ろにも、黒い点がやはり見えた。――右手に黒い塊。左手には赤い塊。
「四方塞がりだ。でも、八方塞がりというわけじゃない。逃げ道はまだある」
 豊は、みんなを見回す。「それに、戦うという選択肢もまだ残っている。俺たちは強い。何があっても取り乱す必要はない」
 言ってから、今のセリフはリーダーらしかったな、と豊は思った。


 豊たちはUターンすると、オオホホジロザメのいる方と逆に泳ぎはじめた。
「でも、あっちもメガロドンかも知れないよ」
 と、春菜はそちらの黒い点を指差す。
「別に、あっちに行こうってんじゃない」
 豊は首を振る。「あの黒い点が何か分からないが、あれと黒い塊の間を行く。うまくいけば、この包囲網から抜け出せるはずだ」
「包囲網……」
 と、春菜は首を傾げた。「別に、私たち人間に対して包囲しているとか、そういうんじゃない気もするけど……。もしかしたらここにいるだけで、周りが勝手にどこかに行くかもしれないよ」
「それも手だな……」
 豊は、そうした場合のことを考えてみた。――自分たちはビルの上なんかに隠れておき、周りが静かになるのを待つ。だが、何かがここに攻めてきたらどうなるか。逃げて逃げて逃げ回れば、なんとかなるだろうか? ここにいるということは、何もしないということでもある。何もしないということも、できることのひとつだ。そして、もっとも勇気のいることでもある。
「結局、結果論だな」
 豊はつぶやいた。――それに、自分たちはいつか滅ぶかもしれない。何もしないまま終わりたくない。
「たぶん、何やっても結果は似たようなもんだぞ」
 スライトリーの軽口が聞こえた。豊は、少し笑った。
 迷ってみたところで、大きな流れというものは変わるものではない。とかく人間は勘違いしがちだが、自然の中で生きるということはそういうことだ。
 思った通りにやればいい。スライトリーなりに、そうやって励ましてくれているのだろう。豊には、その気持ちがうれしかった。

 
 どうやら逃げのびることができそうで、この包囲網からは抜けられそうだ。――まだとても安心できる状態ではないのだが、とりあえず豊はホッとする。
 妙に澄んだ水の向こうに、黒い塊が見える。推測ではヘビの群れということになっているが、ホントは何だろう。
 そして、遠く見えていた黒い点々。これは、もう肉眼では確認できない。さらに向こうには赤い塊が見えるが、これはとりあえずはいいだろう。――メガロドンとの接触が現時点での最悪の事態であるわけなので、それは避けられたわけだ。
 さて、これからどうするか。豊は考える。
 確かに、もう少し遠くまで逃げたい。だが、遠くに逃げるほど安全、というわけではない。敵のいない平和なところなどどこにもなく、理想郷などありえないからだ。
 ならば、これからどうすればいいか……。豊が考えを巡らせていると、
「イタッ!」
 と、女の声がした。
 声のした方を見ると、玲奈という太めの女が腕を押さえていた。
「どうした?」
 と、豊が近付こうとすると、
「来るな!」
 玲奈の近くにいた三十代男が言った。
「最悪……」
 と、つぶやきながら玲奈は腕から何かを引き剥《は》がした。――それは、細長いものだった。
「ヘビ!」
 豊は、驚きに目を見開いた。――黒と白のストライプ。玲奈に頭をつかまれたそいつは、うねうねと身をよじる。
「コイツめ!」
 と、三十代男が玲奈の手からヘビをひったくり、その頭を殴りつけた。――ヘビは、あっさりその動きを止めた。
「くそっ!」
 と、三十代男は死んだウミヘビを見つめながら、「ウミヘビってのは、好奇心の強いだけのハ虫類なんだ。こんな凶暴になるなんて考えられない。コイツらもこの海の犠牲者ということか……」
 玲奈が、苦痛に顔を歪ませながらうつむいた。――その顔色は蒼白で、死の影を感じる。
「……みんな、下を見て」
 絞り出すように、玲奈は言った。
「下?」
 と、豊は言われた通りに海底に目を向けた。
『あ!』
 と、何人が声を上げたか。豊は、声も出なかった。
 海底一面にヘビが這っていた。――いや、海底のことなので、はっきりとヘビと判別できるわけではない。だが、その動きはヘビ以外のものとは思えなかった。
「ありゃりゃりゃ。とんでもねえな」
 と、スライトリーの声がした。いまいち緊迫感のない物言いだが、表情はひきつっている。
「しかし、これだけのヘビがいて、今まで誰も気付かなかったとは……」
 と、豊は春菜に声を掛ける。
「保護色だから……」
 と、春菜は首を振った。「魚類も同じ。上から下を見たときは見つかりにくい。明るいときなら、下から上を見ても白いお腹と光は同化するし」
 なるほど。豊は少し感心しながら、再び海底に目を向ける。ヘビたちは這い続けているが、ふと豊は気付いたことがあった。
「こいつらって、全部同じ方向に動いてないか?」
 と、言ったのはスライトリーだった。
「ああ。俺も今言おうと思った」
 豊はうなずく。
「どうやら、あっちに向かってるみたいね」
 と、春菜は黒い塊の方を指差した。元々、ヘビやカメの集まりではないか、と言っていた方だ。
「あそこに集まろうとしているんだろうか?」
 豊が、誰に聞くでもなくつぶやくと、
「分からないけど、そうじゃないかな……」
 と、春菜もつぶやくように言う。
 だが……。豊は考える。
 分からないのは、ヘビたちは集まって何をしようとしているか、と言うことだ。生き物の行動というのは、生きるという概念に基づいているはずだ。さらに言えば、飯を食うために行動する。集まったところでできるのは共喰いぐらいのもので、小魚をエサにするというウミヘビの喰う物などあるまい。――ただ、強大な敵に立ち向かうため、という考え方はできる。サメであるとか、シャチやイルカ、そして人間……。
 これだけのヘビに襲われようものなら、人間などひとたまりもない。まったく、俺たち人類に未来などないんじゃないか。豊は再び思い知らされた。が、それと同時に、このまま逃げ回り続けても未来は手に入らないのではないか。どこかで戦わなければならないのではないか。そんな気にもなった。
「――うぶっ!」
 そのとき、玲奈が空気を吐き出した。ゴボゴボと空気の泡が海面に昇る。
「大丈夫か!?」
 豊は振り返ったが、玲奈は苦悶の表情を浮かべていた。
 三十代男が近付き、玲奈の腕を取って海面に引き上げようする。だが玲奈は、
「私はもう助からない……」
 と、首を振った。「ああ。でも、今私には分かった。未来はすぐそこに近付いてる。どんな未来か分からないけど、人間はそこにいられるよ……」
「もうしゃべるな」
 三十代男が言ったが、玲奈は薄く笑った。――人間は死の直前には、痛み苦しみから解放されるのだと言う。その微笑なのか。
 玲奈は自ら目を閉じた。その口元もほころんでいた。
「ああ……」
 と、春菜が声を漏らす。
 だが豊は、人の生き死にに深いものを感じなくなっている自分に気付いていた。


 三十代男が玲奈の腕を離すと、少し太めのその体はゆっくりと沈んでいった。――海底にぶつかったとき、そこにいたウミヘビが数匹浮かび上がった。
「みんな気をつけろよ」
 と、豊は注意を促《うなが》したが、ウミヘビたちはすぐに海底に戻った。
 豊は、再び玲奈の遺体に目を向けた。海底でヘビに囲まれて眠っている。――彼女の人生が幸福だったのかどうかは知らないが、どんな形であれ人生を完成させた敬《うやま》うべき存在となったわけだ。その彼女が死の間際、「未来はすぐそこに近付いてる」と言った。さらには「人間はそこにいられる」とも言った。一体、なぜそんなことを言ったのか。ただの気休めなのだろうか? 女は気休めを言うことが多いが、彼女はそういうタイプではなかったはずだ……。
「――おい。ありゃなんだと思う?」
 と、スライトリーが胸ビレで豊を叩いた。
「痛えな。何がだ?」
「アレだアレ」
 と、クチバシでそれを差した。
「ん?」
 見ると、少し離れた海底に魚らしきものが沈んでいた。数mはあろうかという巨大魚。ヘビのいる海底にその身を横たえている。
「クァッ! ありゃサメだ!」
 と、一頭のイルカが言った。
「確かにサメだな」
 と、三十代男が目を細める。「イタチザメだな。鎌みたいなデカい尾ビレがある」
「もしかして、あのサメもヘビにやられたのかな?」
 と、春菜が三十代男に聞く。
「さあな。だが、そう考えた方が自然だ」
 三十代男のその言葉が指し示すように、数匹のウミヘビがそのサメに咬みついているのが見えた。ヘビは獲物を丸呑みするが、エサが巨大すぎる場合は喰いちぎるのだろうか。
 それにしても、オオメジロザメ、メガロドン、そしてイタチザメ。三種類目のサメの発見だ。――いまさらそれがどうだと言うのではないが、人間の敵であることは間違いないだろう。
「なあ。イタチザメって、どんな奴らだ?」
 豊は、春菜に訊ねた。
「え? えーっと……」
 春菜は、首をひねりながら三十代男の方を見た。三十代男はうなずく。
「イタチザメはな、オオメジロザメとよく似た性質を持っている。何にでも喰いつき、何でも喰う。それは下等のように考えられるが、まったく逆だ。高度に進化したこの歯のおかげで、絶滅する危険がない」
「ふーん」
 と、豊は納得したが、ふと感じた疑問があった。「なあ。アンタって、やたらに詳しいみたいだけど昔は何やってた?」
「は?」
 三十代男は、豊の疑問に顔をしかめた。
 正体不明の人間というのは、実に危険な存在だ。由貴子のときに豊はそれを知った。聞いておかなければならない。
「……役人だよ。水産庁に勤めていた。食べるクジラ、イルカ、魚の管理をしていたわけだ」
「役人か」
 ならば問題ないだろう。豊はそう感じたのだが、よくない顔をした人間が数人いることに気が付いた。
「なんだ、どうした?」
 豊は、春菜に小声で聞く。春菜も、少し顔をしかめていた。
「……クジラ保護団体とか、イルカ愛護団体は水産庁を敵対視する人もいる。一部であれ、食用としての鯨、イルカを認めていたわけだから……。ううん。本当は敵なんかじゃないの。そう感じる人がいるってだけで」
「なるほどな」
 と、豊はうなずいておいた。その辺りはややこしい事情があるのだろう。だが、今の状態にあって水産庁がどうのこうの、保護団体がどうの言う意味も価値もない。そもそも世界がこうなる以前には、豊にとって保護団体などは宗教的なものでしかなかった。
「おっとあぶない。みんな気を付けろ!」
 三十代男が叫んだ。ヘビが数匹、体をくねらせながら海底から浮かんできたのだ。
 豊たちは、そのヘビたちを遠巻きにする。
 ヘビどもも、ちょっとばかり危険だ。逃げた方がよさそうだ。
「ヘビのいない方に行こう」
 豊が言うと、反対するものは当然なかった。


 もともと海ヘビというのは稀少動物であり、その数は多くない。天然記念物に指定されているものもあったくらいだ。
 だが、進めども海底からヘビの影は消えなかった。
「どれだけいやがるんだ」
 豊はつぶやいた。――海ヘビが稀少動物だというのは、ウソなんじゃないかという気さえしてくる。いや、これまでどこかに隠れていたんじゃないかとも思う。海の中は、今も昔も謎だらけだ。
「――ねえ、見て」
 そう言って、春菜が向こうを指差した。
「あれは……」
 と、豊は目を細める。何かが数匹、海中を漂っているようだ。「サメだ。イタチザメだ」
 鎌のように大きな尾ビレ。黒く大きな体躯は、先ほど海に沈んでいたものと同じだ。
「全然動かねえな」
 スライトリーもそちらを見る。「ありゃ、よっぽど弱ってるな。それか死んでるか」
「やっぱり、ヘビにやられたのかな?」
 春菜が、誰に聞くともなく言う。
「さあな。だが、そう考えた方が自然だ」
 豊は言ってから、いやちょっと待て、と思う。もしそうだとするなら、それはとんでもないことだ。これだけでかいサメならば、魚の中では最強クラスと言っていい。それを死に追いやる。――そもそも、ヘビはその毒性により恐れられてはいるが、自然界ではひどく弱い生き物なのだ。小さく非力な種でしかない。
「そうか……」
 豊はつぶやく。「ヘビたちも、こうして群れることで強くなろうとしている。ハ虫類の時代を取り戻そうとでも考えてるんだろうか」
「確かに、群れることで強くなろうとしているのかもしれない」
 三十代男がうなずく。「だが、ハ虫類の時代がなんとか、ということまでは考えてない気がする」
 すると春菜も、
「私もそう思う。なにしろヘビだもん」
 豊は苦笑した。そうだ。たかだかヘビが、そこまで考えたりはしないだろう。それに、ハ虫類が時代を取り戻すというよりも、時代が選ぶ、という言い方が正しいのかもしれない。
「――おい! 見ろ!」
 そのとき、誰ともなく声が上がった。そして、その声に合わせて数人がひとつの方向を指差す。
 そのずっと先は、黒い塊だ。いや、だった、と言った方がいいか。形を変え、霧散しはじめていた。
 黒い塊は大きくなり、それとともに薄くなっている。そしてもはや塊とは呼べなくなり、やがて……消えた。
 豊たちは、その様子をじっと見つめていた。
 ――何かが崩れていく。何かが変わっていく。豊は、そんな思いに捕らわれていた。


 結局、あれは何の塊だったのだろうか。何かの群れであったことは間違いないだろうが、イタチザメであったのかヘビであったのか、はたまたオオメジロザメであったのかは分からない。ただ現実として言えるのは、ヘビたちがそちらに向かっているということ。黒い塊は消滅してしまったということ。実際に衰弱したイタチザメがいたということ。
「あの黒い塊は、イタチザメの群れだった、と考えていいだろうか」
 豊がつぶやくと、
「さあな。俺の知ったこっちゃねえ」
 と、誰かが言った。誰が言ったかと思ったが、どうでもいいことだった。
「私たちだけじゃなくて、みんな、戦ってるのね」
 と、春菜が海底のヘビを見据える。「私たち人間やイルカだけが、こうして苦労しているわけじゃない。それぞれが生きるために必死なんだ」
 まったくその通りだ。いちいち口に出して言わなかったが、豊は心の中で何度もうなずいた。逃げ回るばかりでなく、ときには戦い、ときには誰かが犠牲になることも必要なのかもしれない。そしてその役割は、自分なのかもしれない……。
「うん。さすが春菜ちゃん。いい事を言うね」
 と、また誰かが言った。――この軽口。自分はえらいのだと言わんばかりの態度。だがその実《じつ》、何の中身のない……。
「真次さん」
 と、豊はそいつに目をやった。「いつ来たんです?」
「ああ。今来たとこだ」
 まったく、いつの間に近付いてきたというのか。現在、十数の人間と数十のイルカが群れになっているが、周囲には気を配っているつもりだった。何かが近付いてきたら分かると思っていたのだが。
「まあなんにせよ、うまく見つかってよかった。伝えておきたいことがあったんだ」
 と、真次は春菜を見た。
「私に?」
 と、春菜は目を丸くする。「なに?」
 豊も目を丸くする。――春菜は、もともと真次があまり好きではない。また何を言って困らせようと言うのか。
「細江博士が戦っている。あの人は死ぬつもりだ」
「は?」
 と、春菜は顔をしかめる。「何言ってるの? あなたの言うことは、いつも訳が分からない」
 春菜の口調は、少しばかりキツくなっていた。豊は、見かねて口を挟む。
「ちょ、ちょっと真次さん。もっと順序立てて話してくれませんか? 何の話です?」
「ふむ……」
 と、真次は腕を組んだ。


「つまり、あっちで細江博士はシャチと一緒に、オオメジロザメと戦ってるんですね?」
 と、豊は遠くに見える赤い塊を指差す。
「そうだ」
 と、真次はうなずく。「俺はそれを伝えにきたんだ」
「助けに行かなきゃ!」
 春菜が声を上げる。「お父さんが死んじゃう!」
「おっと、それはやめた方がいい」
 と真次は指を立て、顔の前でチチチ、とやった。
 何をこんな時に格好つけようとしているのか。豊は少し腹が立ったが、真次の言葉には同意する。
「細江博士もそれは望んでないと思う。みんなのため、何より娘のために犠牲になろうとしているはずだから」
「そんな理屈は知らない」
 と、春菜は首を振る。「私は行く。絶対に行く」
「じゃあ俺は力ずくで止めるぞ」
 豊が言うと、春菜はこれまで見たこともないような目つきをした。


 そもそも、人間というのは何のために生きているのか、ということに行き着く。
 父親を見殺しにしてまで生きる価値はない。春菜はそう考えていた。だが、何を犠牲にしてでも生き延びるべきだとの考えもある。
 答えは簡単に出るものでもなく、その価値観も常に一定ではない。そもそも、その答えを迫られることなど普通はない。
「それでも、私はお父さんを助けに行く」
 再び春菜が言うと、
「じゃあ俺も行く」
 と、豊は言った。「逃げ回るばかりでなく、ときには戦い、ときには誰かが犠牲になることも必要なのかもしれない。そしてその役割は、自分なのかもしれない」
 春菜は、そう言った豊の顔を見つめた。行くなと言ってた人が、突然自分も行くと言い出した。だがおそらく、このセリフは突然思いついたものではないだろう。ずっとそんな気持ちでいたからこそ、出てきた言葉なのだろう。
「……うん」
 と春菜がうなずくと、
「やっぱり狂ってるな、お前らは。せっかく教えてやったのに逆効果だ」
 と、真次があきれたように言った。

 
 もともと、リーダーなどという柄でもなかった。そう思って行動したこともほとんどない。だが、意外にもみんなはそう思っていてくれたようで、豊は少しでも甲斐があったと感じられた。
「お前がいなかったら、俺たちはもう死んでたかもしれないな」
 と、三十代男が言った。
「どうだろう?」
 と豊は笑う。
「またどこかで会おう」
 と、三十代男が手を差し出した。豊はその手を握り、
「もう会えないみたいな言い方だな」
 と苦笑しながら、そうかもしれない、と思う。これから自分たちは、戦場へ、死地へ赴《おもむ》くわけだから。
「バカ言うな。俺は生きて戻るぞ」
 と、言ったのはスライトリーだった。「俺は死にに行くわけじゃない。生きるために行くんだ」
 スライトリーは、豊が行くと言うと自分も行くと言い出したのだ。曰《いわ》く、イルカの未来は人間が作るものであってはならない、のだそうだ。シャチと人間とサメの戦いにイルカ一頭が参加したところで、何ができるとも思えない。だが、そこにイルカがいることでイルカの歴史が作られるのだと言う。そして、イルカの未来を手に入れる。
 なんだか分かりにくい理由だが、それはスライトリー流の言い訳なのだと豊は思う。力になってくれようとしているのだろうが、自分のためだということを強調したいらしい。そんな必要があるとも思えないのだが、本人には重要なことなのだろう。
「じゃあな」
 と、真次が片手を上げた。
 豊はうなずくと、スライトリーの背にまたがった。続いて春菜がその後ろにまたがる。
 おそらく、真次は戦いから逃げてきたのだろう。そして、入れ替わりに自分たちが行く。憎まれっ子世に憚《はばか》る、という言葉があるが、その理屈で言えば真次は長生きする。
 豊がそんなことを考えていると、スライトリーはゆっくり泳ぎだした。


 赤い塊が見える。あの赤は血の色だという。そして今、そこに向かっている。
 これからどんなことが起こるのか。豊には想像もできなかった。