イルカ文明・終章(前編)
作:しんじ





   終章 ガイア(前編)

 それは恐ろしい光景だった。軽く百を超えるサメがいるのではないかと思う。もしかしたら、千を超えるかもしれない。さらにシャチが絡《から》み合い、赤い血が際限なく流される。


 オオメジロザメとシャチは、ともに生態系の頂点に属する。ではどちらが強いか、と言われれば体の大きい方、ということになる。さらには、社会性が強く組織力のある方。
 豊たちがそこに辿り着いたとき、理屈通りの戦いが展開されていた。
 3m程度のオオメジロザメが口を開け、9mのシャチにぶつかっていく。その様は、人間の子供が大人に歯向かうかのようだった。
「俺たちの助けなんか、必要なかったかな」
 豊は、その戦いを遠目につぶやいた。
「そうね」
 と、春菜もうなずく。
 シャチたちは、向かってくるサメたちを胸ビレや尾ビレで叩く。そのたびに強烈な重い音がする。ペダンクルスラップとかテールスラップなどと呼ばれたりするが、これを喰らったサメたちは、死なないまでもその動きを止める。
「お父さんはどこだろ?」
 と、春菜が目を細めて先を見る。
「捜してみるか」
 豊は一応聞くが、「でも、大丈夫と思わないか? シャチたちに守られているはずだ」
 春菜は、それには何も答えず首を傾げ、
「ねえ」
 と、不安そうな顔をして言う。「シャチたちにとって、お父さんの存在って何だろう?」
「存在?」
 今度は、豊が首をひねった。
「あのね、シャチたちにとってお父さんが大切な存在なら、命に替えても守ってくれるかもしれない。でも、利用しているされているっていう関係なら、そんなことはとても望めない」
「そういう意味か」
 豊はうなずき、考えてみる。
 ――それなりの信頼関係を築いているようには見えた。だが、命に替えても守ってくれる関係か、と言われれば違う気がした。では何だ。自分たちに対するイルカと似たような関係だろうか。豊にとってスライトリーは、友達であり仲間だと思っている。では、スライトリーにとって自分は……。
「なあ、スライトリー」
 と、豊は近くで浮いているスライトリーに声をかけた。「お前にとって、俺たちってなんだ?」 
「あ?」
 と、スライトリーは少しも考える様子を見せずに、「知るか」とだけ言った。
 相変わらずスライトリーはめちゃくちゃだ。聞いた自分がバカだった。豊はそう思ったが、お前は友達だ、などと臆面もなく言う奴の方が疑わしい。スライトリーらしい物言いだ、と思い直した。
「ともかく、私はお父さんを捜す」
 春菜はそう言うと、血の海に進んでいった。
「あ、おい、ちょっと待て!」
 豊は言いながら、春菜を追いかけた。スライトリーは、何も言わずにその後からついてきた。


 一匹のオオメジロザメが突っ込んできたので、春菜は両手を差し出し、
「やあっ!」
 と叫ぶ。――衝撃波でそのサメはぐるりと反転し、白い腹を見せた。だが安心する間もなく、次のサメが襲いかかってくる。
「やっ!」
 再び声を上げ、その小さめのサメを弾き飛ばした。さらには、向こうから他のサメが近付こうとしている。
 やはり、サメたちは「狂食」状態に入っているようだ。――狂食とは、捕食に際して極度の興奮状態になることを言う。何度も攻撃を繰り返し、狂ったような状態になる。この状態のサメは特に危険であり、近付くべきではない。
 春菜はその様を目の当たりにして、恐ろしいと思わざるを得なかった。相手が強いとか弱いとか、自分が生きるとか死ぬとか、まったく無関係に攻撃を繰り返してくる。自然界に住む生き物とはとても思えない。
 ――自分は、どうしてここにいるんだろう?
 春菜はふと思った。こんなサメとシャチが戦うど真ん中に、人間の私がやってきて何をするつもりだったんだろう。何ができると思ったんだろう。こんなのは、ただの自殺行為ではないか。
「何ボーッとしてんだ!」
 豊の声が飛んできた。ハッとして見れば、一匹のサメが突進してきていた。
 咬まれたら死ぬ、死ぬ、死ぬ。そんな言葉が頭をよぎり、体をめちゃくちゃにくねらせてその攻撃を避けた。
 その突進を避けたところで、サメがいなくなるわけでは当然ない。サメは勢いそのままに、Uターンして再び春菜に向かってくる。
「やっ!」
 声を上げ、春菜は衝撃波を放つ。が、サメはそれが見えるかのように、体を動かしかわした。
「たっ!」
 さらに衝撃波を放つと、サメは弾かれて後退した。だが安心するヒマはない。サメは次々と迫ってくる。
 このままではいつか殺されてしまう。
 春菜は、豊の方を見た。そこにはスライトリーの姿もある。
 豊とスライトリーも、やはりサメに囲まれ苦戦している。
 と、豊がこちらを見た。――春菜と目が合い、その口が動く。
「――あぶない!」
 え!?
 春菜は慌てて振り返ると、サメの口が間近にあった。規則的に並んだ三角の歯が目に飛び込んでくる。
 ――咬み殺される!
 が、そう思った瞬間、目の前にはサメの代わりに黒と白の巨体が躍《おど》っていた。
 人間の何倍もの大きさを持ったその体躯。
 それはシャチだった。サメに体当たりしたあと、勢い余って向こうに流れていく。
「助けてくれたの!?」
 春菜は、そのシャチに呼びかけた。するとそのシャチは、首を曲げてこちらを見た。
 黒い背と白い腹の境目に、小さな目があった。――少し前、自分たちを追いかけ回したシャチとはまるで別の生き物のように、優しい目をしていた。
 子供の頃、春菜が好きになったシャチがそこにはいた。
 気がつけば、春菜たちの回りにはシャチが輪を作っていた。――春菜や豊を守るように。仲間を守るかのように。


「シャチどもに守られるなんてな。ちきしょーめ」
 スライトリーが、シャチの輪の中で毒づいた。
「まあ、そう言うな」
 豊は、言いながら見回す。――シャチがサメを叩き、次々と気を失わせている。さらには咬み殺す。中には、遅れをとって胸びれなどを咬まれるものもいるようだが、すぐに振り払う。
「シャチはやっぱり、人間の友達なんだ」
 春菜がうれしそうに言う。「お父さんもきっと大丈夫。シャチたちに守られているはず!」
「ちっ。シャチなんか信用できるか」
 と、スライトリーは相変わらずシャチを睨《にら》み付けていた。「最後に自分を守るのは自分なんだ。甘ったれてやがる」
 いつもの憎まれ口だ。豊はそう思ったが、いつもの憎まれ口は、いつも正しかったことも知っている。
 豊は、再び自分たちを取り巻いて戦うシャチとサメに目をやった。
 少しみれば、シャチが圧倒しているようには見える。だが、シャチも精一杯というように見えなくもない。何しろ、サメの方が絶対数が多いからだ。
 シャチ9m、オオメジロザメ3m。およそ3倍シャチがでかいが、サメの数は5倍、いや、10倍を超えるのではないかと思われた。
 やはり、海というのはホ乳類のものではなく、魚類が中心なのだということを思い出させられる。
「今はシャチが優勢なだけに過ぎない……」
 豊がつぶやくと、スライトリーはケッと毒づいてから、
「最初から分かれ。シャチの体力だって無限なわけじゃねえ。結局、自分を守るのは自分だ」
 だが……と、豊は考えてみる。シャチがやられたとしたら、それは自分たちに手に負える相手ではない、ということではないだろうか。それに対して、どう戦えというのか。
「――ねえ」
 春菜が小さな声で言った。「どうして、シャチたちは戦っているんだろう? それに……どうしてお父さんは戦っているんだろう?」
 それは小さなつぶやきだった。だから、豊は答えなかった。


 ――シャチや細江博士は、一体何のために戦っているのだろう。
 聞かれて、初めて豊は考えた。どうして今までそれを考えなかったのか。不思議といえば不思議だった。
 そもそも、シャチとサメは争う理由なんかないはずだ。だが、意味もなく争うだろうか?
 生き物が戦うときというのは、喰うか喰われるかという場合がほとんどだ。もしくは、メスの奪い合いか。
 だがこの戦いは、喰うか喰われるか、などはあまり関係ないような気がする。
 では、次代の覇権争いか。これも少し違う気がした。
 シャチたちも、体力がなくなってしまう前に逃げればいいではないか。何も、死ぬまで戦い続ける、ということを選ぶ必要はないはずだ。
 それは細江博士にしても同じだ。なぜ戦うことを選ぶのか。何のために戦っているのか。
 いくら考えたところで、答えは出そうになかった。


 一頭のシャチが、数匹のオオメジロザメに喰い付かれた。
「ギャギャッ!」
 シャチが悲鳴を上げ、サメたちはシャチを喰いちぎる。やがて赤い内臓が剥き出しになっていく。真っ赤な血が広がり、そこにさらにサメが群がる。
 シャチの骨や内臓はバラバラになり、海面に浮かんでいこうとする。が、また別のサメが喰い付く。
 豊は、その様子を凝視していた。
「とうとうやられた……」
 シャチたちに疲れが見え始めた頃だった。ついに犠牲者が出てしまった。いや、もちろん見えないところで犠牲は出ていたのだろうが、自分たちを守って死んでいったのだ。
「私たちって、一体何しに来たんだろ」
 春菜がつぶやいた。「お父さんを助けにきたつもりだったのに、足を引っ張ってるだけじゃない、これじゃ」
 豊も同感だった。自分たちがここに来た意味は、何もなかったということだ。だが……。
「戦おう、俺たちも。守られているだけじゃだめだ」
 豊が言うと、
「……うん」
 と、春菜はうなずき、スライトリーは何喰わぬ顔で、
「最初からそのつもりだ」
 豊は、春菜とスライトリーの顔を見てうなずき返す。
 ――これだけの数のサメを相手にしたら、シャチが仲間であったとしても死んでしまうかもしれない。だがそれでもいい。少しでも、サメの数を減らせればそれでいい。後に残る人のため。自分の大切な人のため。
 豊にも、細江博士やシャチの気持ちが分かった気がした。


「おりゃあああ!」
 スライトリーにまたがった豊は、叫びながらサメの群れに突っ込んでいく。その叫びが衝撃波となり、数匹のサメを退《しりぞ》けた。
「りゃりゃあ!」
 豊は再び叫び、サメを狙い打つ。――一匹のサメが弾け飛び、白い腹を見せる。
 人間、死ぬ気になれば色んなことができるようになる。もちろん、どんなに努力しても、できることよりもできないことの方が絶対的に多い。だが、ひとつのことができるとできないでは、大違いだ。
 今、豊たちはサメを圧倒していた。春菜も、離れたところから援護射撃を行っている。
 スライトリーが素早く動く。その上の豊が、衝撃波でオオメジロザメの気を失わせる。そして、シャチが咬みつきとどめを差す。
 時間とともに、サメは少しずつその数を減らしていった。それは推測通りだ。だが、豊たちの体力もいつかなくなって、サメに殺されてしまうこともまた、推測通りなのだ。


 突然、辺りにいたサメたちが次々と弾け飛んだ。そして気を失い、白い腹を上に向ける。
「なんだ!?」
 豊は、何事が起きたかと思った。何もしてないのにサメが倒れるなんて、ありえない話だ。
「――やっぱり、俺たちはお前についてきちまった」
 豊は、声のした方を振り返った。
 そこには、数十頭のイルカと数十の人間がいた。
「人を見殺しにしてまで、生きる勇気が俺にはなかったよ」
 声の主は、三十代男だった。両手を前に突き出し、衝撃波を放った格好だった。
「ああ……」
 豊は、三十代男の名前を呼ぼうと思った。が、名前が出てこない。当然だった。なにしろ聞いてない。
「みんなで戦おう。なんとかなるかもしれない」
 三十代男は言うと、仲間を振り返った。
「おう!」
「しゃあ!」
「クェクェッ!」
 イルカ軍団から、掛け声が上がった。
 三十代男は、大きくうなずく。――その姿は、いかにもリーダー然としていた。
 最初から、この人がリーダーをやればよかったのだ。豊は、そんなことを今さらのように思ったりした。だが、豊の口からは別の言葉が出てきた。
「えーっと、アンタの名前って何だっけ?」
 一瞬、三十代男は顔をしかめたが、
「……林だ。林 卓郎」
 と、口元を少しほころばせた。
 

 数の上では、サメの方が多いようではあった。だが、もう恐れることはなくなった。量と質の合計は、明らかに豊たちに分があった。
 シャチ、イルカ、人間。これらが協力すれば、ある程度のものは怖くない。よほどの相手でない限り……。
 豊は、息をなくしたオオメジロザメの一匹に近付き、その背ビレに触れてみた。死んでしまえば、凶暴だろうが優しかろうが、どんなものでも動かなくなる。当然と言えば当然だが、命というのは平等なものなのだと今さらのように気付かされる。
 豊は、今度はオオメジロザメの胸ビレに触れてみた。
 サメのヒレ。まさしくフカヒレだが、当然コレを食べる気などあるわけがない。そもそも食べられるかどうか疑わしい。――フカヒレ問題。サメの命を巡る問題も、よくよく議論されたと聞く。まったく、命というのは平等であって平等でないものだ。
 そんなことを考えていると、春菜がヘタな泳ぎで近付いてきた。
「お父さんを捜したい」
 彼女は、豊の目を見てそれだけを言った。
「ああ。分かってる」
 豊はうなずくと、スライトリーを振り返った。
 少し向こうで、サメ数匹を相手に動きだけで翻弄しているようだった。スライトリーに気を取られたサメは、近付くシャチに気付かず咬み殺されたりする。
「スライトリー!」
 豊が呼ぶと、スライトリーはサメの間を縫ってすぐにやってくる。まるでサメを問題にしていない動きは、さすがと言うしかない。
「なんだ」
「細江博士を捜しに行く」
 そう言うと、
「勝手に行け」
 と、スライトリーは冷たく言い放った。
「ああ。勝手に行く」
 豊も何食わぬ顔でそう言うと、春菜を見やって、「あっちに行ってみるか?」と向こうを指差した。
 豊と春菜は無言でうなずき合うと、そちらに向かって泳ぎ出す。そしてその後ろから、スライトリーは勝手についてくるのだった。


 サメが近付いてくると、豊たちは衝撃波を発し弾き飛ばす。飛ばされ気を失ったサメは、見る間に近くにいたシャチかイルカに咬みつかれる。
 こうなると弱い者いじめで、どちらが悪者か分からなくなってしまうがしょうがないことでもあった。太古より、人間はこうして力でもって地球を支配してきたのだから、それを今さらどうこう言っても仕方がない。
「お父さーん!」
 耐えかねたか、春菜が叫んだ。――近くにいれば返事がある。そう考えたのだろうか。
「ん? 見つけたのか?」
 スライトリーが、春菜を振り返った。
「え? 見つけたの?」
 と、春菜もスライトリーを見る。
「は?」
「ん?」
 一人と一頭は見つめ合うと、そんな言葉を繰り返した。
 実に間抜けだ。豊は傍《はた》で見ていてそう思ったが、おそらく本人たちはそう思っていまい。しかし、こんな間抜けなことも生きてなければできない。生き物は生きてこそなのだ。
 生きてこそ。豊は、遠くを見て細江博士の姿を捜す。血の色が混じっていて、とても見にくい。だが、この赤い水のどこかに細江博士はいるはずなのだ。
 細江博士。――春菜の父親であり偉大な学者であると聞く。敵であったり味方であったり、時には何者なのか分からなくなるときもあった。だが、基本的に味方であることは疑いようもない。
 ふと、敵とか味方っていうのは、何を基準に言うのか疑問になった。敵も味方も、すべて食物連鎖の輪があって生き物は存在することができる。生き物だけではない。植物だってそうだ。地球に存在するものすべて、ひとつのものと考えることもできる。敵とか味方なんて、本当はありはしないのだ。
 豊はそんなことを考えたりしたが、それはただの現実逃避のような気がした。今大切なのは敵から身を守り、味方を救うことだ。
 豊は、もう一度細江博士の姿を捜した。
 血の海の中に、数え切れないシャチやサメがいる。背ビレがあり胸ビレがあり、丸い体をしている。体温保持のために体は丸くなっている。その中に違う形を捜す。――細くて小さく、肉もない人間の体を。
「ん?」
 と、何か違うものを見つけた。いや、形は同じだ。ただ、ずいぶん遠くなはずなのに、シャチやオオメジロザメより遥かに巨大な気がする……。
「おい、春菜。あれは……」
 と、豊は春菜の肩をつかみ、そちらを向かせる。
「え? 見つけた?」
「アレだ、アレ」
 と、豊は指を差し、「なあ。アレ何だと思う?」
 春菜は顔をしかめると、豊の言う方向に目を細める。
 しばらくそれを見てから、睨むように豊に向き直ると、
「メガロドン!」
 と言った。「そうだった。ホホジロザメは百リットルの水に一滴の血があれば感知できる嗅覚を持っている。ムカシオオホホジロザメが、この大量の血に反応しないわけがない」
「メガロドン……」
 豊はつぶやく。
 ――体長十五mを超えるサメで、地球史上最強の魚類とも言われる。絶滅したとも言われたが、今そこに存在している……。
「オオメジロザメも、シャチもイルカも人間もみんな食べられる!」
「何慌ててるんだ」
 豊は、春菜の背中を叩く。「いくらデカかろうが、たかだか一匹のサメにこれだけの人間とシャチがやられるわけがない。もっと冷静になれ」
「そうかもしれないけど……」
 と、春菜は言ってから、「でも、これからたくさんのメガロドンが集まってくるんじゃないかって、そんな気がするの」
「じゃあ、なおさら早く細江博士を捜さないと」
 豊が言うと、春菜は無言でうなずいた。
 なぜか、スライトリーも何も言わずにメガロドンを見据えていた。
「どうした、スライトリー?」
「……いや」
 と、スライトリーは無表情に、「何でもない」
 とだけ言った。


 メガロドンと思われる影は、少しずつ増えているようだった。
「一、二、三、四……」
 遠くに見えるそれを数え、豊は春菜を見やる。
「私は……もう少しお父さんを捜したい」
 聞くよりも早く、春菜は答えた。
 ――では、いつまで捜すのか。メガロドンに喰い殺されるまでか。
 聞こうとも思ったが、やめておいた。春菜自身が判断するだろうし、できるだろう。
 豊たちは、再び彷徨《さまよ》い始めた。   


 辺りには、無数のサメがいてシャチがいる。
 赤く濁った水の中に、それらは限りなく広がっている。
 その中にあっても、十五mのメガロドンは遠目にも目立って見えた。
 と、その一匹のメガロドンの体が傾き、沈み始めた。
 何気にその光景を目撃した豊は、
「え!?」
 と、思わず声を上げてしまった。
「どうしたの?」
 と、春菜は豊を見た後、その視線の先に目を移す。
「あ、メガロドンが……」
 春菜はそうつぶやいたあと、「そうだ!」と声を上げた。
「あそこで何かが起こった! もしかしたら、お父さんかも知れない!」
「そうかも知れない」
 豊もうなずくと、「おい、スライトリー。あそこまで行ってくれないか?」
「ほんっとにお前らは、俺をこき使いやがって……」
 スライトリーは不服そうな顔をしたが、ほれ、と言うと豊に背を向けた。
「ああ」
 言いながら、豊はその背にまたがる。春菜も続く。
 しかし考えてみれば、生き物が背中を向ける、というのはよっぽどのことだ。ましてや人を乗せるなど、何をされてもおかしくない。自然界に生きる動物としては、有り得ないことだと言ってもいい。スライトリーには、本当に感謝しなければならない。
「ありがとうな」
 豊がその背で言うと、
「何言ってんだ、気持ち悪い」
 スライトリーは憎まれ口を利《き》いてから、全速で泳ぎ始めた。


 黒々とした目玉。剥《む》き出しになったその歯のひとつひとつは、人間の頭ほどもありそうだ。
「これがメガロドン……」
 海底に横倒しになったそれを間近にし、豊は言葉をなくした。メガロドン、という意外になんと形容したらいいか分からない。
 その姿は、まさしく化け物であった。いや、化け物ではない。神々《こうごう》しいとも言える。
 サメと言われれば、大抵の人間がこの姿を想像するだろう。だが、この大きさは想像しない。――大きな三角形の背ビレは、海面に浮かべばサメという恐怖を人に植え付ける。真っ直ぐに伸びた胸ビレは、飛行機の両翼を思わせる。三日月形の尾ビレは、強力な推進力を得るため、やはり巨大だ。
 だが、全長十五mにもおよぶそれは、もう動かなかった。辺りには、その屍骸《しがい》にたかるオオメジロザメと、豊たちについてきたシャチがいるだけだった。
「お父さんはいないみたい……」
 辺りを見回し、春菜が言った。「このメガロドンを殺したのは、お父さんじゃないかって思ったんだけど……」
「いや、まだ結論を出すのは早過ぎる」
 豊は、横たわるメガロドンを見据えて言う。
「こんな真似ができるのは、あの人くらいしか考えられない」
「じゃあ、お父さんはどこに行ったっていうの?」
「……次のメガロドンを退治に行ったのかもしれない」
 豊は、少し向こうに見えるメガロドンを指差した。
「まさか、あっちに行くってんじゃないだろうな」
 そう言ったのは、スライトリーだった。
「そのつもりだ」
 豊が答えると、
「バカか、お前は」
 と、スライトリーは口を大きく開けて、咬みつく真似をした。「死にたいのか。あんなもんに近付いて、何になる。だいたい、お前らがここに来た目的は何だ?」
「目的?」
 言われてみて、豊は考えた。
 春菜の父親でもある、細江博士を捜すためだ。――何のため捜しているかと言えば、その命を救うためだ。オオメジロザメと戦っている細江博士を助けるため……だったはずだ。
「ああ、そうか。確かに、目的と少しズレていたかもしれない」
「そうだろう。だったら、あんなもんに近付く意味なんかない……キュ?」
 と、スライトリーが変な音を出した。その視線は、少し向こうのメガロドンに向けられていた。
 豊にも、その理由は分かっていた。――そのメガロドンの体が、沈み始めたのだ。
「行ってみよう」
 豊が言うと、
「クェ」
 と、スライトリーは返事をした。


 サメたちが勝手に死んでいく。それは前にもあった状況だった。
「ねえ。イタチザメのときもそうじゃなかった? 私たちが何もしてないのに、知らないうちにいなくなってるっていう……」
 春菜が、背中から話し掛けてくる。
「ああ、そうだった。でもあの時は、ヘビがイタチザメをやっつけたって話じゃなかったか?」
 前を向いたまま、豊は答える。その間にも、二人を乗せたスライトリーは高速で進んでいく。
「ヘビがイタチザメをやっつけたっていうのは、ただの推測でしょ? その線が強いっていうだけで」
「じゃあ何だってんだ?」
「そんなの分かるわけないじゃない」
 春菜のその口調は、少しイラつき気味だった。
「結局分からないじゃねえか」
 言ってから、嫌味な言い方になってしまった、と豊は思った。
 だが、その後春菜は何も答えなかった。無意味な口論を避けたのだろう。豊自身も、少しホッした。――だったら、最初から余計なことを言わなければいい。そう思わなくはないが、できないのが人間なのだろう。
 二匹目のメガロドンに近付いてきた。


 横たわる巨大な体躯。それにたかるオオメジロザメども。さっき見た光景とほぼ同じだ。だが、ひとつだけ違う……。
「おい」
 豊は、それを見据えて言う。
「うん」
 と、春菜も豊の方を見ない。
 ――遠ざかる数頭のシャチがいた。そして、その中心には一人の人間がいる。
 この距離では、はっきり誰と分かるわけではない。だが、確信はできた。
 細江速人。春菜の父親であり、偉大な生物学者。
 数頭のシャチとともに、この巨大なメガロドンを打ち倒したというのだろうか。だとすれば、なんと底知れない人なのだろう。
「どうやってメガロドンを倒したんだろう」
 春菜がつぶやく。
 別に答えを求めているわけではないだろうが、
「分からない」
 と豊は答え、「追いかけよう」
「うん」
 と、春菜はうなずいた。
 ――おそらく細江の向かっている先は、三匹目のメガロドンのいるところだろう。細江の遠ざかって行く方向には、確かにメガロドンが見える。
「追いかけよう、だと?」
 スライトリーが嫌味に言う。「追いかけるのは、お前らじゃなくて俺なんだろうが」
「……まあ、そうだが……」
 豊は、そう言って顔をひきつらせるしかなかった。