イルカ文明・終章(後編)
作:しんじ





   終章 ガイア(後編)


 豊たちと、三匹目のメガロドンとの距離が縮まってくる。それとともに、細江博士らと間も詰まってくる。
 生きたメガロドンは、間近にするとやはり迫力があった。地球史上最強の魚類と言われるだけはある。
 ――だが、なぜだろう。恐怖を感じない。
 細江博士が近くにいて、メガロドンを倒してくれるという安心感があるせいだろうか。
「こんなに動きの遅い魚だったの?」
 春菜の言った言葉に、それだ、と豊は気付いた。
 メガロドンは、ゆっくりと尾ビレを動かし、胸ビレでゆっくりと体の向きを変えていた。
「なるほど、こういうことか」
 と、スライトリーが言った。
「なるほどって、何がだ?」
「コイツらに危険を感じなかった理由だ。前からお前たちが言うほど、俺はコイツらを危険だと思わなかった。全然動かなかったからなんだな」
 同じことを考えていた。だが、スライトリーはもっと前から気付いていたという。
 野生の勘という奴なのだろうか。自然界では勘がなければ生きていけないが、それだけを頼りにしても生きていけない。危険ではないかもしれない、と思いながらも避けてきた。そういえば、スライトリーにはそんな様子があった気がする。
 そんなことを考えている間にも、シャチと細江はメガロドンに近付いていく。――と、細江たちがその動きを止めた。そして、その位置からメガロドンを凝視する。
 ――どうしたんだろう?
 豊が思っていると、一匹のオオメジロザメがメガロドンに近付いていった。さらに一匹、また一匹と、その数は少しずつ増えていく。
 そして――。
「あっ!」
 と、春菜が声を上げる。
 オオメジロザメたちが、メガロドンに襲いかかったのだった。
 あるものは胸ビレを咬み、あるものは腹ビレを咬む。五匹、六匹、七匹、八匹と、その数は増えていく。
 メガロドンの体が傾く。そして、沈んでいこうとする。
「メガロドンは倒したのは、オオメジロザメだったんだ……」
 春菜はつぶやくと、細江博士のいる方を見た。「お父さんじゃなかったんだ……」
「メガロドンは、魚類最強なんじゃなかったのか?」
 と、豊は春菜を振り返って聞く。
「……そうだと思ってた」
「――おい」
 と、スライトリーが下で言う。「このまま、あのおっさんのところに近付いていいのか?」
 豊は、春菜の目を見た。すると春菜はうなずき、
「うん」
 その返事を合図に、スライトリーは動き出した。
 スライトリーに乗っている豊は、細江に近付いて行きながら辺りを見回す。
 メガロドンを喰らっているオオメジロザメがいる。それとは別に、ボーッとしているオオメジロザメもいる。これはおそらく、狂食状態でないものなのだろう。また、こちらをちらちらと窺《うかが》っているものもいた。隙《すき》あらば、と思っているに違いない。 
 ふうっと息を吐き、それにしても、と豊は思う。
 地球上のほとんどが海になり、魚類の時代がくるのだと思っていた。そして、絶滅したと言われたメガロドンが現れた。もしかしたら、このメガロドンが海の覇者となるのではないか。そう考えたが、オオメジロザメが圧倒した。そうすると、オオメジロザメこそが頂点か。いや、それも違う気がした。
 やはり、自然界というのは分からない。未来を予測するなど、おこがましいことなのかもしれない。
 シャチと細江の姿は、もうそばにあった。だが、細江はこちらには気付いていないようだ。
 何と話しかけたらいいか、豊は考えあぐねていると、
「――やあ。しばらく」
 細江が、突然振り返り言った。それとともに、シャチたちもこちらを見る。
「ガガ……」
 と、細江がシャチたちに何事かつぶやく。すると五頭のシャチは泳ぎだし、細江と豊らを囲むように輪を作った。
「さて……」
 と、細江は手足をバタつかせながら、豊たちの目前にやってきた。
 なんという稚拙《ちせつ》な泳ぎだろうか。初めて細江の泳ぎを見たが、弱弱しく形もまるでなっていない。だが、学者というのはそんなものかもしれない。知識はあれど……という奴だ。
「お父さん……。もう会えないかと思ってた」
 春菜が、泣き出しそうな顔をした。
「私もそう思ってた」
 と、細江は春菜を見つめる。だが、こちらは厳しい表情をしていた。
 やがて細江は、春菜から視線を外し豊を見る。次いで、スライトリーも一瞥《いちべつ》すると、再び口を開いた。
「君たちがオオメジロザメと戦いにきた、ということはシャチから伝え聞いていたよ。私を捜しにきたのだ、と思った」
 豊と春菜を交互に見ながら、細江は続ける。「それを聞いたとき、少しうれしかった。だが、自分たちの犠牲を無駄にする気か、と少し腹も立った。――だが、それは間違いだった」
 このとき、初めて細江の顔が緩んだ。何か、憑《つ》き物落ちた、とでも思える柔らかい表情だった。
「君たちとイルカたちが来たことで、我々は、この闘いに勝利することができたのだ!」
 豊はこの言葉を聞いて、妙な違和感を感じた。――これはまるで、勝利宣言だ。
「まだ終わってない。みんなまだ戦っている。シャチも人間も、イルカもサメも」
「そうではない」
 細江の口調は、諭《さと》すようだった。
「ガイアだ」 
「ガイア?」
 豊は、顔をしかめた。その言葉を聞いたことはあるが、ただガイアと言われても分からない。
「春菜は、知ってるな?」
 細江は、春菜を見る。
「うるさいくらい聞いた。ガイアは地球全体のこと。――だったね」
「そう」
 細江はうなずく。「だが、そう単純な意味でもない。――地球には、さまざまな生物がいて環境がある。それらはすべて、地球という生命のために存在する。我々人間もそう。おっと、もちろんイルカもな」
 と、細江はスライトリーの視線に気付いて言う。
「サメやイルカやシャチ、そして人間たちは敵同士でありながら、地球存続のために協力しあっているのだ。我々が意識しようがしまいが、無関係に。――そう。地球が我々を誕生せしめた時から」
 豊は聞きながら、壮大な話だ、と思うと同時に、似たようなことを考えたことがあったことを思い出した。
 ――本当は敵も味方もなく、食物連鎖という輪が存在してそれぞれの生物が生存することができる……。
 だがそれを考えたところで、何がどうなるというわけでもない。ただの現実逃避でしかないと思ったから、それ以上考えるのをやめたのだ。
「話が見えてこない。だから、そのガイアがどうしたというんです?」
 豊は、率直に言葉をぶつける。
「焦るな、豊くん」
 細江は静かに言う。「それが君の悪いところだ。急《せ》いては事を仕損じる」
 ときどき、年寄りが若者を見下したような態度を取ることがあるが、それとは違う、柔らかな物言いだった。若い人の意見に耳を傾け、新しい知識を貪欲に吸収してきた、偉大と言われる人間だからこそそう感じるのかもしれない。
「なぜ、地球が水に沈んでしまったのか。その理由は分かるかい?」
 と、細江は豊を見た。
 それに関して、万人の意見は一致している。豊は考えるまでもなく、
「地球温暖化でしょう?」
 と、答えた。
「そう。それこそがガイアだ。地球を守ろうという意思が、人間を破滅へ導いた。そうすることで地球が守られる。――地球温暖化は人間の罪だとも言われるが、そうだろうか。人間が誕生したときから、ずっとそこへ向かっていたような気がする。地球に対する罪。そうだろうか。人間の住めない環境になることは、地球に対する罪だろうか。――違う。それこそ自分勝手な言い草だ」
 豊も春菜も、黙って聞いていた。ただ、スライトリーだけはよくわからない、と言った顔をしているが。
「ふむ。また話がよく分からない方向に行ってしまったな」
 と、細江は苦笑すると、後ろを振り返った。そしてメガロドンを指差し、
「あの巨大なサメは、なんと言うか知っているかい?」
「ムカシオオホホジロザメ。通称メガロドン。太古に滅んだとされた、地球史上最強の魚類。でしょ?」
 春菜が答えた。
「ご名答」
 細江は、数度うなずく。「だが、なぜそのメガロドンが、オオメジロザメなんぞに殺《や》られてしまったのだ?」
「それは……」
 と、春菜は口ごもりながら豊を見る。
 分かるわけないだろう、と思いながら豊は首を振る。
「浸透調節という機能が関係している、と考えられる」
「しんとう調節?」
 豊は聞き返す。
「簡単に説明しよう。――体内と環境水では、塩やイオンバランスが異なる。それを調節する魚類の機能だ」
 さっぱり分からず、豊は顔をしかめる。
「あー、もっと噛み砕いていうと、海水に棲む魚が淡水で暮らせるようになる機能のことだ」
「……なるほど」
 とりあえず、豊はうなずいておいた。だが、それがどうしたというのか。
 細江は、その先を話し始める。
「だが、いかに浸透調節という機能を持っていようが、限度がある。――当然だ。海水魚が淡水で暮らせるわけがない。とりわけ、サメ類は顕著だ。しかし、唯一大丈夫な種がある」
「――オオメジロザメ!」
 そう言った春菜の顔は、興奮しているのか、少し赤かった。
 何が言いたいのか、豊にも少し分かった。
「つまり、メガロドンが弱くオオメジロザメが強いのは、ここが淡水だから、というわけですか?」
「その通り」
 細江はうなずく。「正確には、まだ完全な淡水というわけではないがね。だが、確実に淡水化している。――これで、この闘いに勝利した、と言った理由が分かっただろう?」
 正直、豊にはまだよく分からなかった。
 確かに、ここが海水ではなく淡水なら、戦いそのものは有利にはなるだろう。だが、オオメジロザメが淡水でも大丈夫というなら、勝ちだと言うのは早過ぎる。
「ふむ。まだ説明が足りないか」
 と、細江は腕を組んだ。「ガイアだよ。地球を一個の生命体と考える。――一個の地球を、一個の人間に例えると分かりやすい」
「一個の地球……」 
「そうだ。温暖化というのは、例えて言うなら、地球が風邪をひいたということだ。――人間に例えてみよう。人間が熱を出すのは、体に入った細菌やウイルスを殺すためだ。それは地球にしても同じで、熱を出してウイルス、つまり人間を殺したのだ。そしてウイルスがなくなれば……どうなる?」
「熱が下がる……」
 答えたのは春菜だった。
「そう。それが風邪が治るということだ。そして熱が下がれば……」
「え? ちょっと待って、お父さん。私の想像している答えで合ってるの? ねえ。ホントに?」
 春菜の声は上ずっていた。
「合ってるとも」
 細江は微笑む。
「地球のウイルスが死に、風邪が治った。そして熱が下がる――温暖化の解消。海水だった水が淡水になった。それはつまり――」
「ここから水がなくなる……ということでしょうか?」
 豊が言うと、
「そう。そして私の調査した結果――ここの水は、もう引き始めている」


 また地上が甦るのだ。
 細江はそう言った。そして、それは最初から分かっていたことだとも言った。その時期はまったく予想できなかったけれども、風邪はいつか治るものなのだ。
 ――この闘いの勝利。細江は、それを言っていたのだった。
 それにしても、と豊は思う。
 本当に地上に帰れるとすれば、課題は山詰みになる。――地上はどんな状態で甦るのか。そこでの生活はどうなるのか。いろいろ考えることはありそうだが、差し当たって必要なのは、ここから水が完全に引くまでどれくらいの時間がかかるのか、ということだ。それによって、今何をすべきなのか、考えなければならない。
「――クェッ」
 スライトリーの声がした。
「あ、ああ。なんだ」
 と、豊は我に帰りスライトリーを見る。
「どうするんだ、これから」
 そう言うスライトリーの口調は、今までと何ら変わるものではなかった。だが、分かっているようだった。別れがきたことを。
「お前こそ、どうするんだ」
 逆に聞き返すと、スライトリーは細江をちらりと見て、
「そのおっさんの話だと、ここから水がなくなるそうだからな。ホントかウソか知らねえが、水のなくなる心配のないところに行かないと」
「そうか。やっぱり行くのか」 
「当たり前だろう。水がなくなれば死んじまうからな」 
 スライトリーは、いつものように淡々と話す。だが、どこか寂しそうだと感じるのは、豊の勝手な思い込みかもしれない。
「お別れか、スライトリー」
 豊が言うと、
「ああ。そうだな」
 スライトリーは言った。

 
 サメの群れと戦っていたのは、増え過ぎたオオメジロザメを減らすためだった。自分たちが死ぬことになっても、後に残る者のためになると思っていたから。だが、陸が甦《よみがえ》る以上それは意味のないことだった。
 豊たち人間と、イルカ、シャチはサメとの戦いから撤退することになった。
 戦《いくさ》というのは、攻めるときよりも逃げるときに犠牲が多く出やすいというが、そんなこともなかった。絶対能力が違うためと思われた。
「――じゃあな」
 と、スライトリーはビルの上の豊たちを見上げた。
「ああ」
 豊も、海から顔を出しているイルカたちに手を挙げて答える。
「クェー」
「クェクェ」
「キュー」
 イルカたちは、何かしらの音を発した。まだ、豊たちには理解できない言葉でもある。
 スライトリーは向こうの海を見てから、もう一度豊を見上げた。
 豊とスライトリーは、目が合うとうなずきあった。
 それからスライトリーは、海面上を泳ぎ始めた。豊たちから、少しずつ遠ざかって行く。
 ――さよならだ。
 豊は、その影を見送る。
 ――お前がいたから、ここまでがんばれた。
 イルカたちの姿は、やがて見えなくなった。


「何をしているんだ! 早く降りてくるんだ!」
 ビルの下から、細江博士が叫んでいた。
 水はだいぶ引いてしまったようで、細江博士がずいぶん下に見えた。そしてその回りには、もう取り巻きのシャチたちはいなかった。
「なぜです? ここで水が引くのを待つ。それじゃダメなんですか?」
 豊がビルの上から答えると、
「ダメだ! このビルは浮力に支えられている部分が多い! 水がなくなれば倒れてしまうぞ!」
 なるほど。もっともだ。
 豊たちは、ビルから飛び降りた。


 海底をのぞくと、ヘビの群れがいた。
「ヘビたちは、水が引いてしまえばどうするんでしょう?」
 豊が聞くと、
「それはヘビに聞いてみないと分からない」
 と、細江は言いながらも考える素振りをし、「だがおそらく、水がなくなる前に気付くだろう。そして本来の海に帰るのだろうな」
 やはり、ヘビたちも生きることに必死なのだ。生きるということ。生きようという意思こそが大切なのだ。
 細江博士にしろ、イルカにしろシャチにしろ、誰の考え方や方法が正しかったとも言えない。だが、生きようとする気持ちが今の結果につながったのだと思う。それだけは間違いない。
「確かに、海面は少しずつ下がってきているみたい」
 春菜が言った。
「ああ。そうみたいだ」
 豊は答え、海面から突き出している建物を見上げる。――水上部分が多くなり、ビル群が高くなって見えた。
「そういえば……」
 と、三十代男がそばに寄ってきて聞く。「エビーナはこれからどうなるでしょうか?」
「エビーナか……」
 聞かれた細江は辺りを、そして海底を見渡す。エビーナの姿を探している様子だが、ちょっと見当たらない。「おそらく、海に帰るだろう。適応放散を繰り返しながら、新しい姿になるかもしれない。もしくは、海ヘビや他の生き物のエサであり続けるかもしれない」
「あ、そっか」
 と、春菜がつぶやいた。「海ヘビはエビーナをエサにしてたんだ。だからこんなにもヘビが増えた。なるほどなるほど……」
 自然とは、実にうまくできているものだ。豊は今さらのように思う。喰って喰われて、生きるか死ぬか。自然であるということは、厳しいことだ。だがそれを放棄すれば、地球のサイクルを外れてしまう。そこに待っているのは終わりだけだ。丁度人間に訪れたように。
 スライトリーたちイルカは、自然の海へと帰って行った。厳しい世界が待っていると知りながら。
イルカたちを守り、イルカの文明を見届ける。それこそが、人類に残された最後の役割なのではないか。そう考えたこともあった。
 なんだか、それは違う気がする。豊は、今思っていた。
 イルカやシャチ、クジラたちは、ホ乳類でありながら海に生きることを選んだ種なのだという。それは、今のような状況を考えた上での進化だったのかもしれない。そうだとすれば、数千年、数億年を視野に入れた壮大な文明とも言える。
 それともただ単に、地球上のほとんどを占める海に、活路を求めただけなのかもしれない。
 どちらにしろ、イルカ文明という完成された文明に対し、人間ができることなどほとんどありはしない。
 生きることとはなんなのか。
 数千年、数億年、地球全体、宇宙すべてを視野に入れて生きて行くということを言うのだろうか?
「人間にとって、生き物にとって、一番大切なのは生きること」
 春菜が、豊の顔をのぞき込んで言い、
「そんなに難しい顔しないで」
 と、微笑んだ。
 春菜には、豊の考えていたことが分かったのかもしれない。これまでずっと、「生きよう生きよう」と心の中で繰り返してきた。それは、豊も春菜も同じだったから。
 春菜のその表情《かお》を見た豊は、
「ああ。そうだな」
 と、微笑んだ。
 


   エピローグ

 海から顔を出すと、空には真っ黒い雲が見えた。
「雨雲か……。そういえば、ずっと見てなかったな」
 豊がつぶやくと、
「海草も生き返りつつあるということか」
 隣りで言うのは、細江博士だ。「海草や植物プランクトンの発する物質が硫化ジメチルとなり、それが光化学反応や酸化によって微粒子となる。これが雨粒を作るときの凝結核となるわけで、ただ単に水が蒸発すれば雲ができるのではない。――これまで雨雲を見なかったのは、環境の変化に海草たちも弱っていた、ということなのだろうな。そして雲は、直射日光を防ぎ地球を冷やす役割も持っている。そんなことの繰り返しで、地球は環境を保っているわけだ」
「なるほど……」
 と、豊は相槌《あいづち》を打っておいた。なにしろ、細江と行動するようになってから、こうした講義の連続だ。しかも、豊にそれを理解させようとする。必要な知識だと言って。――確かに重要なことではある。知らなくても生きていけることでもあるが。
 豊は、雨雲を見上げた。
「降りそうですね」
「そうだな」
 細江はうなずいた。
 ――そういえば、アイツはどうしてるだろう?
 豊は、クェクェという笑い声とともに、この数日のことを思い出す……。


       ※


 目を開くと、高い空が見えた。
「いてて……」
 豊は、背中の痛みと体の重さに気付き、ここが海でなくなったことを思い出した。
 水がなくなって初めての昨日は、まだ不安定な瓦礫の山に、平らなところを見つけて何とか眠った。だが、とてもゆっくり眠ることはできなかった。
 モルタルやアスファルトを中心とした瓦礫の山は、軽い衝撃で簡単に崩れた。何もしなくても崩れることもあった。瓦礫の中に、腐った木や酸化した金属等軟《やわ》らかいものがあるせいでもある。だが根本的には、水の浮力がなくなってバランスが崩れた、というのが原因だ。
 豊は、辺りを見回した。
 廃墟――であるに違いないのだが、例えていうなら、海岸にあるテトラポット群が延々と広がっているというところだろうか。もちろん、山の高さは一定ではないし、色も黒々としている。その中に、崩れかけたビルもいくつか見える。
「ここは危険過ぎるよ」
 いつのまにか、目を覚ましていた春菜が言った。――豊のそばで眠っていたのだった。
「そうだな……」
 と、豊はうなずいた。
 ――ここでは暮らせない。
 昨日、海ではなくなった東京で話し合い、みんなで出した結論がこれだった。あれほど望んでいた場所だったというのに。
 結局、どこまで行っても思う通りになるということはないのだな。
 東京から水がなくなって陸地に戻れたなら、すべてが変わる。良い方に動くんじゃないかと、どこかで思っていた。誰も、口には出さなかったけれど。
 まあしかし、人生とはそんなものかもしれない、とも豊は思う。
 止まない雨はなく、明けない夜もない。辛く苦しい時、それを乗り越えるためにそんな喩《たと》えが使われたりする。
 だがそれはただの自然現象であり、空が晴れて朝になったからと言って、楽しいことばかりあるわけではない。長い冬を越えても、また来年も冬が来る。
「やれやれ、だな」
 と、豊はため息を吐き出す。
「ホントに」
 春菜も疲れたように言う。が、首を振ると、「ま、元気出していきまっしょー」
 と、笑った。
 それを見た豊も、自然と笑顔になる。
「ああ。そうだな」
 長い冬を越えても、また来年も冬が来る。そんなことを考えると、生きているのがホントに嫌になる。だが、「冬は嫌いだ」と言いながら、何度冬を越えてきただろうか。――そうだ。冬が来れば、また越えればいい。
 豊たちは、海岸のある方に向かって歩き始めた。


 ――アァ、アァ。
 見上げると、黒い鳥が飛んでいた。
「カラス」
 豊が言うと、春菜もそれを見上げた。
 数羽のカラスが、東京の空を旋回していた。
「あいつら、生きていたのか」
 豊は、その姿をしばらく眺めていた。
 鳥というのは、空の生き物である。だが、陸を失くして生きることは難しい。繁殖には陸を使うし、羽を休めるために止まることも必要だからだ。
「どうやって生き延びたんだろう?」
 春菜がつぶやいた。
「さあ?」
 言いながら、豊も少し考えた。
 根本的に、考えるのは春菜の方が得意だ。
 だが、当然ながら春菜はカラスではない。この答えは難しいかもしれない。
「でも、カラスだもんな。あいつらなら、なんとかしたんじゃないか?」
 何気に豊が言うと、
「うん。そうかもしれない。カラスは頭がいいもの」
 と、春菜は確信したようにうなずいた。
 カラスは頭がいい。――その知恵は、時に人間を凌《しの》ぐ。
 豊は、もう一度空を見上げた。
 カラス数羽は、悠々と空を巡っていた。
 あまりに自由なその姿は、「世界は自分たちのものだ」と言わんばかりに感じる。――今の自分たちと比べてしまうから、そう見えるだけなのかもしれないけれど。
 ハ虫類の時代からホ乳類の時代を経て、陸は鳥類の時代を迎えようとしているのかもしれない。
 ふと、そんな考えが頭に浮かんだ。
 このような不自由な陸では、ハ虫類やホ乳類は生きれないが、鳥類ならあるいは……。
「カラスってさ、人間に似てるよね」
 春菜が、ふいに言った。
「ああ。確かに」
 豊はうなずいた。
 もちろん、姿かたちが人間に似ているという意味ではない。その存在が、という意味で。真っ黒いその姿も、超自然でなぜだか人間を彷彿《ほうふつ》させる。
 次代の覇者というのは、もしかしたら彼らなのかもしれない。だとしたら、彼らはどんな時代を造り上げるのだろうか。
 ――分からない。それに、ホ乳類の時代が終わったなんて認めたくもない。
「もう行こう」
 豊は春菜を促《うなが》すと、不安定な瓦礫の上を踏み出した。――そこが踏んでも大丈夫なところか、一歩ずつ確かめながらゆっくり進んで行く。滑らないように、転ばないように。
 

    ※


 顔に水滴が当たった。
「降ってきましたね」
 豊は言って、視線を雨雲から細江博士に移した。「どうします?」
「ふむ。海が荒れる前に帰ろう」
 細江のその言葉通り、海面上は波が強くなっていた。豊たちを、あらぬ方向へ押し流そうとする。
「はい。そうしましょう」
 そう答えると、豊は海中に潜《もぐ》った。そして、両手両足で水を掻いて泳ぎ出す。
 二、三度水を掻くと、細江の姿がアッと言う間に遠ざかる。
「おっとっと」
 豊は動きを止め、不格好な細江の泳ぎを見守る。決して速くはないが、確実に前に進んでいる。
 豊たちは、そうしながらしばらく泳いだ。
 やがて、水深は豊の背よりも低くなった。その頃には、雨は本降りになっていた。
 砂の底を踏みしめながら、豊は聞いた。
「雨が降って、また増水するっていうことはないんでしょうか?」
 聞かれた細江は、歩きながら腕を組むと、
「ふむ。ないとは言い切れないが、そんな単純なものでもないだろう」
 と、答えた。
「俺もそんな気がします」
 豊は同意した。そう。そんな単純なものではない。それは身に染みて感じている。
「――うわー。降ってきたね!」
 と、砂浜を駆けてくる春菜の姿が見えた。
 豊は、右手を挙げて応《こた》えた。
「ねえ! どこで雨宿りするの!」
 春菜がそう言うのが聞こえて、豊と細江は顔を見合わせた。
「雨宿りねえ……」
 豊はつぶやくように言い、「海の中とかどうでしょう?」
 それを聞いた細江は、少し笑った。


 砂浜の海岸が、延々と続いている。海岸沿いの砂漠、と言ってもいいかもしれない。ずっと遠くに、滅びた街が見える。
 この辺りには、貝殻であるとか木片であるとか、そういったものと一緒に、錆びた缶やガラスの破片、ビニールも落ちていた。
「もともと、この辺りは陸じゃなかったんだろうな」
 豊は砂浜に座り込み、赤い夕焼けを見ながら言った。
「たぶん」
 と、隣りに座る春菜が答えた。
「この辺りなら、人間も生きていけるかな」
 豊が再び聞くと、
「たぶん」
 と、また春菜は言った。
 その声にうつろな響きを感じて、豊は春菜の顔をのぞき込んだ。
「ん? なに?」
 と言う春菜の目は、半分閉じられていた。眠いのだろう。
 ――そっとしておくか。
 豊はそう思った。が、夕日に赤く染められた春菜の姿に、体が熱くなった。
 この感覚は久しぶりだ。単なる欲情かも知れないが、それが生きているということであり、子を残すということにつながる。
 豊は眠たげなその顔に、自分の顔をゆっくり近付けた。春菜もそれを受け入れようと、目を閉じかける……。
「――おーい! 豊!」
 遠くから声がした。
「なんだ?」
 と、声のした方を見る。するとそこには、いつも肝心なときにジャマするあの男の姿があった。
「真次さん」 
 豊はつぶやき、砂漠の向こうから小走りにやってくるそいつを見据える。
「またあの人!」
 春菜は目を見開いて言う。
「まあそう言うな」
 豊は、苦笑する。「たぶん、あの人も寂しいんだよ。変わり者だから、気の合う人がいないんだろう。たまになら相手してやろう」
「うーん。たまに、ねえ……」
 と、春菜は渋い顔をした。
「なんだ。たまに、じゃないのか?」
「最近よく話しかけられるの。取材が何とか、小説がなんとか言って」
「ふーん。小説ねえ……」
 豊は首をひねると、真次を再び見た。
 向こうから走ってきているのだが、足が短いせいか、なかなか近付いてこない。
 まったく、変な人だ。豊は思う。だが、ふと感じたこともある。
 あの人もこうして生き延びたということは、人知れない努力があったからではないか、と。見えている部分で人を判断するのは簡単だ。だが、大切なのはむしろそれ以外ではないか。
 ――と、その真次が何もないところで転んだ。
 それを見て、いや、買いかぶり過ぎか。とも、豊は思った。


 これからの大目標は、砂漠を土に変えることなのだそうだ。
「どうやって?」
 豊が細江博士に聞くと、
「私も農業に詳しいわけではないが……」
 と言いながら、説明してくれた。
 屎尿《しにょう》や生ゴミを一箇所に固め、太陽光にさらし発酵《はっこう》させるのだそうだ。数ヶ月、一年、もしくは数年かけて。そうすることで初めて、養分たっぷりの土が出来上がる。
 それを畑として、作物を育てる。そこでできたものをまた食べる。それを繰り返すのだ。
 人間の文明時代、糞尿や生ゴミ処理機とやらで加工したものを、直接畑にバラまく人があったそうだが、それは物を知らない人間の考え方なのだそうだ。ともすれば、有害ともなり得る。もちろん、土に混ぜるとか、肥料に混ぜるなどの工夫をすれば有用となるわけだが。
 太陽光にさらすことで、さまざまな化学反応が起こる。その原理すべてが解明されているわけではない。だが、そんなもの分からなくても、それが本当のことであると分かる。それこそが最も大切なことだ。
「途方もなく時間がかかることですね」
 豊が言うと、
「そりゃそうさ」
 細江博士は言ったものだった。
 気の遠くなるような話――。
 だが、差し当たって何をすればいいか。それはいくつもない。飯を食って眠る。それを繰り返す。単純にそれだけだ。


 海の中は、名前の分からない魚が増えている気がした。だがなんとなく、食べられる魚とそうでないものの区別はついた。
 豊は、小魚の群れに近付いていく。――緑色をした小魚。大きくなれば、どんな魚になるのだろう?
「ミドリウオ」
 豊はつぶやいてみた。そんな名前なのかどうか知らないが、そう呼べばそういう名前になる。その子供は、コミドリウオだ。
 豊は、コミドリウオを追いかけた。
 コミドリウオたちは、豊と反対側に逃げる。小魚とは言え、そのスピードは人間である豊を軽く凌ぐ。
 逃げられるか……。そう思ったとき、コミドリウオたちは向きを換え、豊の方に向かってきた。
「なんだ!?」
 と驚きながらも、コミドリウオに手を伸ばす。――その手の中に、コミドリウオ数匹が収まる。
 魚たちが、逃げる方向を換える。その理由はいくつもない。――反対側からも敵が来たからだ。
 コミドリウオの群れの中から、大きな影が近付いてきた。その姿は、人間の倍はあろうかというもの。
「やっぱりお前か」
 そのイルカは言った。
 豊は、そいつの円《つぶ》らな瞳を見つめた。少し白目がのぞいて、可愛らしさに欠ける。――間違いない。
「スライトリー……」
 豊が小さく言うと、
「また会ったな」
 と、スライトリーは少し嬉しそうな顔をした。
 嬉しそうな顔。いや、それは気のせいかもしれない。豊の勝手な思い過ごしかもしれない。スライトリーは淡白な奴で、あまり感情を表に出さないからだ。
「いや、まいったぜ。海の中は大変なことになってる。シャチもクジラもサメもイルカも、見たことのねえ魚どもに戸惑っている。で、どうだ、陸の方は」
 スライトリーは饒舌《じょうぜつ》だった。どちらかと言えば、必要なこと以外はしゃべらないタイプだったのに。
 やはり、自分に会えたことが嬉しいのだろうか?
 豊がそんなことを考えていると、
「聞いてるだろうが。陸の方はどうだって」
 スライトリーが怒ったように言った。
「あ、ああ」
 こんな口の利き方が、スライトリーらしい。豊はなぜだか、目頭が熱くなるのを感じた。
「なんなんだ、おめーは」
 スライトリーが再び言う。
 何か言わなければならない。そう思っても、言葉が出てこない。
 コイツがいなければ、自分は今ここにはいなかった。イルカ文明を守る、なんて思っていたが、守られたのは自分たちだった。
「スライトリー。ありがとう……」
 豊は、感極まって言った。海の中だが、涙が流れていることを感じる。だがスライトリーは、
「はあ?」
 と、変な顔をすると、「何言ってんだ、おめーは。バカか」
 と、迷惑そうに言った。

         (イルカ文明・完)

              2003.12.19
















 あとがき

 この作品を完成させるのに、ずいぶん長い時間がかかってしまいました。
 このあとがきもその延長のような気がして、『読んでくれた人に』というよりも、僕の独り言を書いてるだけのような気がしています。
 書き始めたのは、二年以上前でした。その頃の僕と今の僕は、根本的には同じですが、当然同じではありません。
 二年以上前に書いた第一章を読み返すたび、恥ずかしくて顔から火が出そうとはこのことでしょうか?
 また二年たってこれを読めば、「赤面の至りでござる」とか言うんでしょうか?
 僕は作品に対して、読みやすさということを重要視しています。ですが読み返すたび、「これは読みやすいんじゃなくて、稚拙なだけだ」と感じることがあります。
 もちろん逆もあるでしょう。華麗さや重厚さを求めた結果、読みにくいだけの作品になるといった。
 結局、どれが正しいということはない。
『汝自身を知れ』というのは僕の好きな言葉ですが、そういうことなのでしょう。
 自分は何を書きたい? 自分は何を楽しいと思う? 自分はどうやったら面白い作品が書ける?
 僕はいつかプロになりたいと思っています。
 でも、がんばればなれるわけではない。しかし、なれないと思えば絶対になれない。言うまでもない、分かりきったことです。
 たかが小説。されど小説。
 ああ。しょーもないことを長々と書いてしまいました。
 最後に、読んでくれた方々にお礼を言います。
 ありがとうございました。