鍛冶屋の値段 初仕事
作:AKIRA





 中山道の上を横たわっている大きなひつじ雲の群れがゆっくりと上下している。
まるで、空に描いた大きな羊が悠然と駆けるように見えた。
(いいお空だこと。・・・)
少し立ち止まって、女がまぶしそうに空を見上げた。
 年の頃は三十がらみであろう、肌は今見上げている雲よりも白く、細いうなじに小さな頭が乗っかっている。左の目尻にほくろがある。
 お世辞にも美人、とは云い難いが、妙に男をくすぐるような艶かしいまでの熟した色気があった。髪にも良く油が乗っており、うなじの白さも際立って美しい。
 この女が少なくとも江戸の人間ではない事という事が、髪型が先笄(さきこうがい)である事から伺える。先笄という巻き方は上方の既婚女性の髪の巻き方であるからだ。
 手甲に紐足袋、菅笠といういでたちである。手には旅装の杖。
中山道を日本橋に向かっているようで、京の三条大橋から東に向かって歩いている。
 折りしも晩夏から初秋に向かう、まだまだ暑さの残る季節であった。

 この日の夜、女は中山道の太田宿の旅籠で草鞋を脱いだ。宿帳には「おせん」という名前が記されてある。
 供のいない一人旅である。四畳ほどの部屋に通されたおせんは、湯殿で道中の旅塵を洗い落とし、部屋に戻って夕餉を箸をつけ始めていた。
 しかし、おせんの表情は自我を完全に忘れ去っていた。自然、箸の上げ下ろしが鈍くなる。幽鬼か何かに、意識を抜き取られたようであった。
 やや速度の遅い夕餉を終えたおせんは、徐にお守りを取り出した。
 紫の袋で、所々綻んでおり、相当古い物のようだ。「住吉」と書いているから、おそらく大坂の住吉大社で買ったものだろう。
 それを丁度みぞおちの辺りで強く抱きしめると、おせんは背中を震わせながら折り曲げた。畳に、幾つかの滴が浮いていた。
「失礼致します。・・・ああ、これは失礼しました」
宿の女中、夕餉の膳を下げに参ったのだが、おせんの姿を見てしまい何やら居た堪れなくなってしまった。
「あ、お膳ですか。どうぞ、持って行って下さい」
「ええ。・・・もし何かありましたらお申し付けください」
旅人の人となりを宿女中が聞くのは不文のご法度である。しかし、この女中はよほど情が濃いように出来上がっているのか、その後も何かにつけてはおせんの世話を甲斐甲斐しく焼いていた。
 丁度、布団を敷き終わり、後は寝るのみという頃になっておせんは女中に
「この辺りで、腕のいい鍛冶師がいると聞いたのですが」
と、尋ねた。
「腕のいい鍛冶師。・・・ここより少し離れていますが、関という所には鍛冶師が沢山おりますが」
「・・・。そうですか」
「特に『孫六』とか申されます方の刀は江戸にも聞こえたほど、と申しますから間違いないでしょう」
「その方は、何でもお作りになる?」
「稀代の鍛冶屋、という事ですから」
(関、の『孫六』)
と、おせんは何度も何度も心の中に刻み込むように唱えていた。
「包丁でも、お探しですか」
と女中は尋ねた後で、思わず口を手で塞いでしまった。
 上方からわざわざ包丁を買いに来る女性などいるはずも無い。ましてや、『鍛冶師』といっている以上、何かあるのだろう。
「まあ、ええ。・・・」
と言ったきり二人の間になんともいえない侵しがたい薄い壁のような沈黙が出来上がってしまった。女中はそのまま無言で、部屋を辞してしまった。

 払暁といっていい頃に、おせんは太田の宿を出た。
 この太田宿から北に向かう事、およそ数里である。
この数里先の関、という町に『孫六』という名前の鍛冶屋がいる。
 おせん、脇目もふらずただ一心に北に向かっている。
 向かいから来た旅の商人は、おせんの気迫に圧倒されてしまう程であった。
 そうしている内に関の町に着いた。明け四つ、昼前であった。
 しかし、なにぶん始めての町であるから右も左も分からず、とにかく誰からか話を聞かずばなるまい。
そうこう思い巡らしていくうち、不意に
「もし」
と後ろから声がした。おせん、振り向くとそこには青年が一人。
 年は二十そこそこの若者で、青紺の甚平を着けていた。純朴そうな青年である。肩幅が広く、線の細さは一見して分からないが、決してやせ細った印象ではなく、むしろ無駄な肉のついていない精悍な青年に思えた。
「もし、何かお探しですか。それとも、誰かを探しに」
青年は綺麗な二つの眼でじっ、とおせんの瞳を見ながら尋ねた。
「え」
「あ、いや。・・・ここの人ではないから、何か用事があって来られたのだ、と思ったものですから」
「はい。・・・この町に『孫六』という鍛冶師の方がいる、と聞いてきたのですが」
「そのお方に、何か御用でも。・・・申し遅れました、私は新介と申します。『孫六』は私の父なのです」
「そうでしたか。で、その方は」
「父は、先月から遠く加賀の方に。・・・急ぎの用事ですか。なら、とりあえず家のほうまでご足労願えませんか。ここでは、なんだから」
 新介と名乗った青年は、待つこともなげに行ってしまった。おせんは、すがる様に後を追った。

 青紺の肩の稜線が少し窮屈そうに左右に動いている。
それが、新介という青年の性格の一端を表しているようにおせんは思えてならない。
「孫六さんは、何故加賀のほうに」
と、おせんは尋ねたが、
「父は、剣術時代の剣友の所に遊びに行ってまして」
新介はそう言ったきり、黙然と歩いている。
 二人が孫六の家に着くまでに交わした言葉はこれだけである。
少し忙しないほど動いていた肩の振り子運動は突如として、治まった。
 そこは、田園風景が見事な風景画におさまりそうな場所で、関の中心からはほんの少し外れる。
周りには数件の家が軒を連ね、一見すると長屋のようである。
 しかし、新介が立ち止まったところはその長屋の一角ではなくそこからも路地挟んだ向かい側、ちょうど長屋を見渡せる一際目立った藁葺き屋根の大きな家である。
 大きな屋根から目線を落とし、表戸を見てみれば
 ――― 孫六不在ニツキ。
という紙が貼ってあった。
「かといって、まったく仕事をしないわけではないんです。ここの長屋の住人さんの包丁を研いだり、あるいは田畑を手伝ったり」
 おせんの表情を察したのか、お勝手にいた新介は背中から声を出した。
「まあ、何もありませんが」
と手盆で持ってきたお茶は玉露であった。それもかなり高級なものである。
 客から時折貰うそうで、物には不自由が無さそうである。
「父がどう、とか仰られておりましたね。もしかして、ご依頼ですか」
「ええ」
「でしたら、また折を見てお訪ねください。何分、父である孫六の許しが無い事には。・・・」
新介、ばつがわるそうであった。せっかくの客を追い返すのだから。
「・・・そうですか」
「なにかありますね。よろしかったらその胸の内を晴らしてみれば」
おせん、黙ったまま玉露を啜ることなく、じっと畳のへりを凝視している。
「・・・出過ぎた事をしたみたいですね」
「いえ、そういう訳では。・・・御免なさい」
「いいえ、いいんですよ。ただ、どういったものを所望されているか、それだけお聞かせ願えませんか」
暫く閉ざしたままであったが、やがて意を決したようにその重い口を開けた。
「・・・女性でも手軽に扱える物は何ですか」
「手軽に扱えるとすれば、ここには物騒な物しかありませんのでなんですが、匕首や懐刀はあります。ただ、懐刀は少なくともお侍の娘さんでなければ持てないし、匕首くらいか。後は、包丁の類になります」
と新介は現在工房にあるだけの匕首数振り、包丁数本をおせんの膝元に並べた。どれも、一級品の出来である。
 おせんは、その内の一振りの匕首を手にとってみた。
少し黒味のかかった暗い赤の鞘に納められたものであったが、かちり、と抜いてみせた。
 抜いた刹那、おせんの顔色がみるみるうちに青ざめていった。
その刀身は、まことに見事というほか無いほどの妖しさを漂わせ、まるでそれ自体が血を欲しているような狂気を感じさせる逸品である。
「それは先代の代物だそうです」
と新介は話を続け、どうやら暇に任せて造ったものであるがよほどの出来栄えに当の先代自身がそらおそろしくなったのか、死蔵したままで今、日の目を見たらしい。
「では、これには」
「値をつけなければならないのでしょうが、特にはなんとも」
「では」
とおせんが懐から取り出したのはやや古ぼけた財布、であったがそれをひっくり返すや小銭が降ってきた。
 新介が小銭を弾いてみると、一朱銀が二枚、百文銭が十枚、十文銭も十枚ほど。現在の価値でおよそ三万円ほどにはなるであろう。
「これだけあります。これを、下さい」
「それは、急に言われても」
「急なのは分かっています。でも、これを下さい」
何分、当主が不在であるのに、と新介は再三申し上げたのだが、このおせんという女は案外見かけよりも頑固であるらしく、遂には土間で膝を折って頼む始末である。
 さすがにこれには閉口し、ついに新介は先代の死蔵品を売ってしまうのである。

(さても、どうするか)
新介は悩んでいる。
いくら相手が半ば無理強いにせよ、無断で先代のものを売ってしまったのである。今更、
 ――― 無かった事に。
と置いていった金を戻して取り返す事もできようが、それはもうなるまい。
(後で、父上に謝るしかないな)
先代のものとはいえ、死蔵しておいた品である。そういう意味では益になりこそすれ、損にはなるまい。
「悔やんでも、先にはたたないからな」
と言い聞かせながら、ふとおせんの陰影さを思い出した。
新介が、おせんに胸の内を吐き出してしまうよう、促した時の横顔である。
 怨みとも云えず、さりとて刃物を好むというような狂気さも感じられない。その細いうなじの上に何か、大きな荷物を自ら背負っているような、悲壮さがにじみ出ていたのである。
(やはり、どうしても気になるな)
と思った時、すでに新介の足はすでにおせんを追いかけていた。
 そのおせんは、というと。
 関の出て、太田宿に戻ろうと南に足を向けていた。
おせんは、向けていた足を止めた。
 今、手に持っているこの匕首が全財産である。当然、宿に泊まる路銀はすでに無かった。かといって、野宿をするような気にもなれない。
 さすがに逡巡したが、おせん、関に戻る事に決め、踵を返した。
 おせんが関の町の入り口である長良川の河岸から大橋を渡っていた時である。
向こうから大柄な青年がやってきた。青紺の甚平を着けていた。新介である。
 息せき切って走っていたので、少し息を整え、
「どうしても、気になっていました」
「何がです」
「貴女のその哀しい影です。それと。・・・」
「それと」
「お金、です。ありったけ出したようだから、宿に困ってはいないかな、って」
という新介の表情はばつが悪そうであった、おせんはそんな新介に噴出さずにはいられなかった。

 孫六の寓居である。
しかし、主である孫六はおらず、代わりにおせんという女性が泊まっていた。
 夜が、だいぶと落ち込んでいる。すでに陽の光は完全に失われ、代わり、といってはあまりにもか細いが、恒星が蛍のようにところどころに浮かんでいた。
 新介は奥の間にて布団を敷いている。その後は、軽い夕餉、そして風呂と続いた。
「哀しい影、って仰いましたよね」
と、おせんは外で薪をくべている新介に問うた。
「私のどこに、哀しい影を」
「最初の時から、ずっと」
「ずっと?」
「ええ、それで私が『胸の内をお開けなさい』といったが、貴女は開かなかった。まあ、初対面ですからね」
「それを、今までずっと考えてらして」
「・・・はい。なにせ、全財産をはたく程でしたからね」
おせんは、耳を赤く染めていたが、風呂が熱かっただけでは無さそうである。
 風呂をもらったおせんは、そのまま囲炉裏の一角を行儀よく占めている。風が戸を叩く。
「風が少し強くなったようです。が、この程度なら、大丈夫でしょう」
新介は首筋を拭いながら現れた。多少、湯気が立っている。
そのまま、囲炉裏の傍に腰を下ろすと鉄瓶のお茶を椀にいれ、一挙に飲み干した。
やや、沈黙が空気を覆った。
「・・・。三年前の事です」
覚悟を決めたように、おせんは朴訥と語り始めた。
「私は、大坂の住吉という所で飯屋の酌婦をしていました。当時、私には太吉という主人が居ました。太吉は、道頓堀の改修をしていました」
「という事は、その太吉さんに何か」
と新介が尋ねた途端、おせんは声を震わせながら
「・・・殺されたんです。心の臓を一突きにされ、堀に打ち捨てられていました」
(惨いな)
新介は唇を噛んだ。
「何か、恨みとかは」
おせんは首を振った。
「じゃあ、相手がわからないままあだ討ちに出た、そういう事ですか」
と尋ねたが、おせんは再び首を振った。どうやら、あだ討ちをするつもりもないらしい様子であった。
「ただ、主人の無念さを思うと、晴らしてやりたい。しかし、どこの誰かもわからず、よしんば分かったところでどこに居るのかまるっきり見当がつかない。どうすればいいのか分からなくなって、気がついたら。・・・」
「・・・気がついたら旅に出ていた。そういう事でしたか。・・・よくお話になってくれた。ありがとう」
新介は背中を手のひらでなぞるように擦ってやった。おせんが嗚咽を漏らす。
「もう、今日は遅いから、奥で休んでください。仔細は、明日また考えましょう」
この頃になると、夜風ははたと已み、虫の音が大きく響くほど静かになった。

 いつもどおりに新介は朝早く目覚めると、裏手に回って水を汲み、顔を洗う。
その後、朝餉に向かうのだが、この日はいつもと違っている。
 三河の大叔父からいつも届いている味噌を使った吸い物、香の物と、近所から貰う野菜の煮物が並んでいる。
新介が勝手をのぞくと、おせんの背中が手際のよさを見せていた。
 仲睦まじい夫婦のようであった。
新介が空けた椀におせんが飯をよそい、また新介がそれをかきこむ。
「私は母を早くに亡くしていて、長らくこういった生活をする事が無かったんですが、つくづく嫁さんというのは男にとってはありがたい者であることを、考えさせられました」
 新介にとってみれば、おせんとの生活は若夫婦のそれであった。更に長らく女の食事というものにありついた事がない為、すべてがひどく新鮮に思った。

「ご免」
という野太い声が引き戸の向こうからきこえたのは、新介とおせんの奇妙な“夫婦生活”が始まって幾日か経った頃であった。
 年のころは三十を半ばほど過ぎ、少々小太りながらも肩幅が広く、いかり肩。容貌は、というと雄雄しく太い眉が対称にしっかりと生え、それでいて眼は小さいどんぐりのように丸く、えらく顎が発達した四角い顔。それを太く短い首がしっかりと支え持っている。
「はい」
どちらさまでしょう、と若女房の如きおせんであった。男は
「師匠にこのような女性(にょしょう)がいたであろうか」
と、酷く驚いた様子でしばし口をつぐんでしまった。
 二人の奇妙な出会い頭を見た新介は、肩を揺らしていた。

「なんだ、女房でもないのか。この朴念仁が」
からからとひげの男は大笑し、新介の肩を大きく張り飛ばした。新介が思わず突っ伏しそうになった。
 このひげの男、名を誠太郎といって元は今現在加賀へ行っている孫六の弟子であり、その孫六の元を辞して後は上方で鍛冶をしていたという。
 新介にとっては実の兄のような存在であり、また誠太郎にとっても実の弟のように思っている。
「しかし、誠さん、どうして」
「実はな。・・・上方でちょっと、な」
誠太郎は、さっきまでの底抜けな豪快さから打って変わって、杯を置き、うな垂れてしまった。
「どうしたんです。まるでいつもと様子が違うじゃありませんか」
「・・・いや。まま、大したことではない。もう遅いから寝よう」
問いかける新介を尻目に、誠太郎は床について、寝息をたててしまった。

 幾日か過ぎた。
誠太郎は新介と同じ部屋で枕を並べ、おせんは一人別部屋にて起居している。
 誠太郎がこの家に来てから、新介には新たな日課が出来た。
 不在である孫六に代わって、刀を打つようになったのである。
それまでは孫六が居ない間は、砥ぎなどをしながら帰るを待って、再び打ち込んでいたが、誠太郎という、いうなれば兄弟子が居る事で、幾分かはそれが解消されたのである。
 刀を打ち込む間は、厳然たる師匠と弟子という厳しい間柄であり、そこには妥協という精神性の堕落は一切見当たらず、近くで見ているおせんですら、
 ――― 憎くてやっているのか。
と思うほどに、厳しい鍛錬であった。
 しかし、一旦工房を離れるとそれはすでに男兄弟のそれであり、時折無邪気に笑い合って飯をかき込んでいたりする。
 工房では非常に厳しく、眼光鋭い誠太郎であったが、しかし勝手向きとなると生来気ままな一人暮らしな為か、一向に不精で、それでいて屈託が無いものだから、ついついおせんも引き込まれてしまうのである。
 引き込まれるのは、それだけが理由ではなかった。
 誠太郎が時折見せる、哀しく、苦悩するまなざしであった。
(丁度、私もあのような感じだったのかしら)
かつて、新介が言った『哀しい影』というものが、あの誠太郎にもあるような気がして仕方なかった。
あの誠太郎という人物に何があったのかは分からない。しかし、彼の見せる愁いがその重大さを物語っている。聞けば、以前ここに住んでいた事を思い出したのも、その心中を癒したかったからに違いない。そう考えれば、おせんと誠太郎は互いを投影しているのではないか。
 そう考えると、おせんの中に何やら言い知れぬ運命めいた何かが、やにわに持ち上がってきたのである。
 誠太郎におせんが惹かれ始めたのは、この頃からである。
新介、おせん、そして誠太郎という三人になった奇妙な共同生活は、若夫婦に兄の転がり込んだ如きで、まことに無粋極まりない。
 町の連中も、なまじ誠太郎を知っているだけに表にこそ出さないが、
(もっと気を使え)
 と心の中で思っている。
実際、百姓の与蔵などは、
 ――― 若先生に嫁が来たと思ったのに。
と、暗に誠太郎の“無粋な邪魔”を陰口を叩く始末である。
 もっとも、新介にとってみれば単なる客であるし、迷惑なだけである。ただ、この生活は新介にとっては非常に爽快で気持ちがいい。この事だけは、否定できないでいる。
 ところが。

 この日からまた数日過ぎた夜半の事である。
何かが外れるような案外乾いた音が響いた事で、おせんは眼が覚めた。といっても、半分寝ぼけている。
 その眠気が覚めたのは、擦ったような音がその後すぐ、存外に大きく聞こえたからである。
静かに床を這い出たおせん、その頃にはすでに夜目に慣れている。
 障子をすっ、と開けると玄関の土間までは死角が無い。
おそるおそる近づいて見れば、表戸が開いているのみで、誰かが入ってきた気配が無い。
(外に誰か、いる)
おせんが、ひょこりと顔を出してみるや否や、腹の底からせりあがってくるような酸化した臭いが鼻についた。
「誰ですか、そこにいるのは」
勇気を出して、声を絞り出した。すると、
「起こしてしまったのか。すまない」
そこには口を拭っている誠太郎の姿があったのである。
 土間上がりの部屋にある行灯に火を入れた。
浮かび上がったのは、おせんと誠太郎の二人だけである。
「一体、どうなさったのですか。お体の具合でも悪いのですか」
正座して対峙しているおせんは、まるで子供を叱るような口ぶりでたずねた。
「いや、そうではない」
という誠太郎は、悪さをした子供のように縮こまっている。
「では、一体」
「いや。実は。・・・」
「・・・。何か心に抱えているものがあるのですね」
誠太郎は、遂に観念したように頷いた。
「言って御覧なさい」
「・・・。わかりました。何もかもお話しよう」
行灯の火が、少し揺れた。

「三年前の事でした。当時、私は上方の道頓堀で鍛冶をやっていました」
誠太郎は、ぽつり、ぽつりと語り始めた。おせんは、座を直して聞き入った。
「私の工房の近くに小料理屋があって、三日と開けず通っていました」
「何か、お目当ての人でも」
おせんの問いに誠太郎は手を振って、
「いえ、そうではなく、ただ静かな雰囲気が大好きでした」
「・・・」
「ところが。・・・」
「ところが、どうなさったのです」
「ある日、いつもの通りに店に行ってみると、その日に限って繁盛していました。静かな雰囲気とはかけ離れた、喧騒の店になっていたのです」
「それは、どうして」
「どうも、橋の大工達が一挙に店に押し寄せたらしく、たしかに見慣れない若い連中がたくさん居ました。私は一旦席を立って帰ろうか、とも思ったのですが他に店を知らず、そのまま飯を頼んだのです」
「それから」
「それから待っても一向に飯が来ないものですから、苛立った私は料理場に行こうと席を立ちました。すると、女中が若い大工にからまれていました」
「・・・」
「苛立ちもあり、私はその若い大工の男を嗜めました。すると。・・・」
「すると」
「その若い男は逆上し、どこから持ってきたのか刃物を持って襲いかかって来たのです」
おせんは眼を大きく見開いた。
「酒の席での逆上ですから、二、三回、顔でも打擲すれば、酔いも醒めるだろう、と店の外に連れ出したのです。ところが、揉みあっているうちに。・・・」
「刺してしまった、と」
おせんの言葉に誠太郎は頷いた。
 おせんの膝の上の両手が震えていた。
 道頓堀の店であること。
 若い橋大工。
 胸を刺したこと。
すべてが、おせんの探していた「太吉殺し」の特徴にぴたり、と合致していたからである。それでも尚、懸命に落ち着けて、
「その橋大工は何かぶら下げていませんでしたか」
と尋ねた。すると、
「これでしょうか」
と誠太郎が取り出したのは、おせんが持っていたお守りと同じものであった。
「あなたが殺したその橋大工は、私の亭主の太吉です」
その時には、おせんの眼にはすでに涙が溜まっている。
「申し訳ない」
誠太郎は、堰を切ったように泣き始めた。頭を畳に擦り続け、ただただ謝っていた。
 しばらく、誠太郎は畳を睨み続けていた。そんな誠太郎をおせんは恨みとも、怒りともとれない表情で眦を決している。
「・・・。ひとつだけ聞かせてください。なぜ、堀に打ち捨てたのですか」
「いや、打ち捨てるつもりは無かった。・・・すべてが言い訳になるが、聞いて欲しい。揉みあった時にこのお守りを私が引きちぎってしまったのです。その大工 ― 太吉さん、でしたか ― は更に逆上してしまったのです。それこそ、本当に殺すつもりだったのでしょう、私も自分の命が惜しかった。しかし、刺してしまった時、その勢いで彼は堀に落ちてしまったのです」
 誠太郎の言葉が終わった時、おせんは暗闇の天を仰いだ。
「私は、実は亭主を殺した人が憎くて仕方が無かった。もし、あなたがそれこそ極悪非道の人であったら、迷わず仇を討ったでしょう。しかし、あなたはそうじゃない。・・・」
「本当に、すまない」
「謝らないでください。本を糺せば、うちの亭主の酒の乱暴で起こってしまったこと。・・・しかし、私はあなたを許しません」
「・・・」
「だから、罪を償ってください。どんなお裁きでも受けて、また出直してください」
そうして二人して涙にくれた頃には、もう夜が明け、白み始めていた。

 誠太郎とおせんが旅支度を整えている。
「誠さん、もそっとゆっくりしていけばいいのに。おせんさんも」
新介はすこし不満げであったが、双方とも、声をそろえて
「これ以上世話にはなれない」
といって聞かない。
「・・・仕方ないでしょう。そこまで送りますよ」
こうして、三人の奇妙な生活は幕を下ろしたのである。
 関の町境である。
「誠さん」
と、新介は声をかけた。
「何だい」
「誠さん、明るくなったね。おせんさんも」
「・・・ああ。憑いていたものが取れたようだ」
と、三人は笑ったのである。
 そして。

 孫六が我が家に帰ってきた。
「父上」
と新介が事の顛末を余すところ無く伝えた。
「・・・そうだったのかえ。誠が、殺してしまった相手の女房に鉢合わせしたとはな。奇縁だの」
「ええ」
「しかし、そうやって双方が泣きくれた事で胸につかえていた物が降りたであろう。さぞ、苦しんだあろうな」
と、孫六は眼を瞑った。
あの朴訥で豪快な誠太郎が人殺しの咎にかかろうとは。人生というものは、まことに不思議なものである。
「で、その匕首は」
「ここに」
「ふっふふふ。・・・ははははは」
「父上、何がおかしいのです」
「もう、それは蔵にしまっておいていいだろう。そうか、使わずにすんでよかった。それにしても、とんだ初仕事だったな」
「ま、匕首を売るだけでしたからね」
「いうわ」
といって、孫六はまた大きく笑った。
涼しい一陣の風が工房を吹き抜けていった。