鬼哭の天蓋 1
作:草渡てぃあら





 千年の刻を経て
 祈りと恨み 守護と呪縛 栄華と怨闇
 巡り逝きまた出づる想いに
 久遠の闇より鮮やかに浮かびあがる
 そこは――
 鬼と人との絆が息づく都


 京都の夏は暑い。ものすごく暑い。
 四方を山で囲まれたこの土地は、まるで巨大なフライパンのように太陽の熱を逃がさないのだ。同じ関西でも南に海を持つ神戸市とは違い、山から海へと吹き抜けるさわやかな風も望めない。特に祇園祭がある7月の京都はそんなフライパンの土地に、これでもかと言うほどの観光客が、全国どころか全世界から押し寄せる。そして京都は、満員電車をそのまま蒸し風呂にでもしたような最悪の状態に突入するのである。
――こんな暑い土地に、わざわざ都なんてつくらなくて良かったのに……。
 昔の人間の気が知れない、と灼熱のアスファルトを苦々しく見つめながら小野は大きくため息をついた。
 どこにでもいるような平凡な少年である。歳の頃は十六、七といったところか――Tシャツにジーンズというラフな格好を見ても、地元の人間に違いなかった。
 背はそんなに高くないが、全体のバランスが良いのですらりとした印象がある。気負ったところのない顔立ちは、人好きのする穏やかさと明るさを持っていた。ただ、瞳だけはわずかに闇が――深い。
 その瞳を、小野は自分の手元に落とした。
 買ったばかりのコーラは、一瞬の冷気を残して生ぬるい液体に変わっている。もはや飲む気にもならないそれを持て余しながら、小野は油小路通から四条に出て、烏丸の交差点をみやる。
 歩行者の為に広く開放された二車線道路は、おびただしい程の人達で賑わっていた。四条通りと呼ばれるこの通りには、祇園祭の主役とも言える山鉾達が絢爛豪華にそびえ立ち、観光客達の目を楽しませる。そして、その間を埋めるように出店や屋台が立ち並び、威勢の良い呼び声が飛び交うのだ。
 所狭しとばかりに軒を連ねる屋台とそれに群がる人々――巨大な山鉾は、そんな俗世の人々を、見守るかのような優美さで存在している。
 その華麗な装飾に魅了され、毎年この祇園祭に足を運ぶ人は多い。
 だが、と小野は思う。
 それら山鉾が、実は六十六の古代の武器であることを知っている人間がいるだろうか。祇園祭で八坂神社からかつぎ出される神輿は、都に災いをもたらす疫神――古代日本で虐殺の限りを尽くした荒ぶる神スサノオであることを知っている人間が、果たしてどれほどいるというのか。
 京都を魔界都市と言う著名人も多い。しかしそれは言い過ぎだ、と小野は思う。京都は断じて魔界都市などではない。――ただ。
(ただ、魔界の者達と寄り添って発展してきただけだ……)
 コンチキチンという祇園祭独特の祗園囃子が、にぎやかな雑踏に織り込まれながら響いていく。何も知らずに、祭りを楽しんでいるゆかた姿の少女達に、小野はちらりと目をやった。高校生だろうか、小野とそんなに変わらない歳だ。
 にわか雨に泣かされたものの、昨日無事に宵山(よいやま)を終え、今日の昼には、山鉾巡行が終わる。そして二十九日の神事済奉告がされれば、小野の仕事はひとまず終わりを告げる。――もちろん、無事に終わればの話なのだが。小野は思わずため息をつく。それに答えるかのように、携帯がなった。
 小野は慌ててポケットから携帯を取り出し、液晶画面に目をやる。仕事仲間のハルからだ。
「小野!」
 間髪入れずに、緊張したハルの声が電波越しに響いた。
「新町三条付近に鬼がでた。距離的に小野が一番近い。すぐに向かってくれ!」
 確かにハルの言った場所は、ここから走って10分もかからない。
「了解」
 ハルの指示に、小野は小気味よく答える。
 そして、緊張気味のハルの気持ちを解すかのように続けた。
「どうせ祇園祭に浮かれて出てきた鬼だろ。今日のところは穏便に魔界に帰してやるよ」
「小野らしいね」
 電話の向こうでハルの声が解ける。あとでまた連絡入れる、と小野は携帯を切った。
――問題はこの人ゴミだな。
 山鉾や屋台の出ていない通りを思い浮かべながら、残ったコーラを飲み干す。祇園祭用に設置された大きなゴミ箱まで、距離は3メートル強といったところだ。小野は軽く目を細めて狙いを定めると、そのゴミ箱に空き缶を投げ入れる。 
(行け……!)
 カラン、と乾いた音を立ててコーラの缶はゴミ箱に消えた。
「ナイスッ」
 満足げに方眉を上げると、小野は最短距離で三条へと駆け出した。 


 比叡山は、滋賀と京都の境の位置する霊峰である。遥か一千二百年も昔、密教僧最澄が桓武天皇の命を受け、ここ比叡山に延暦寺を創建した。以後、京の都を守る最大の霊場として、比叡山延暦寺は現代も多くの修行僧達を抱える。
 だが、この寺にはもう一つの顔がある。最澄が、唐の国から持ちかえった“密教”という新しい仏教が表の顔だとすれば、延暦寺の裏の顔は“魔道”である。実際に、延暦寺では四大魔所と呼ばれる場所が存在し、かつてその場所に魑魅魍魎を封じ、その力で魔族の侵入を食い止めた。そしてその裏の顔こそが、四神相応の都、京都の鬼門を今も守り続けているのである。
 その四大魔所のひとつである横川の『元三大師御廟』の近くに小さな庵がある。
「慈雨殿が……まさか!」
「焼け爛れた護符、異形の腐臭……疑う余地はあるまい」
 北に突き出た台地の先端、切り立った断崖からは絶えず風が吹き上げるこの場所は、比叡山の北の外れ――延暦寺の鬼門にあたる。この不吉な方位を守るかのように、ひっそりと佇む庵の前で、和尚と数人の僧侶が深刻そうに話し込んでいた。
「しかし慈雨殿は……」
「言うな。ここは魔界と現世の交わる場所――安易な発言は言霊となりて新たな敵を増やすばかりぞ」
 和尚の厳しい声に、僧侶は黙り込んだ。魔をはらんだ不吉な北風が、彼らの袈裟をはためかせる。慎重に言葉を選んで、別の僧侶が口を開いた。
「御雪殿は、このことを……?」
 和尚の顔がわずかに曇る。
「今、学校に使いをやっておる。いずれこちらに参るだろう」
 しかし、と和尚は無残に食い破られた庵を振り返る。
「これほどまで頑丈に施した結界が、こうもあっさりと食い破られるとは……」
 和尚の言葉に僧侶は皆、鎮痛の面持ちでうつむいた。和尚の言う通り、この庵は比叡山延暦寺最強の結界で守られていたはずだった。それが跡形もなく破られた。しかも何の気配も感じさせずに、だ。敵は鬼か、怨霊か……それとも人間のまだうかがい知れぬ魔≠ェ為したのか。正直、何者の仕業なのか検討もつかない。だが和尚は、その穏やかな瞳に強い意思をたたえてこう言った。
「よいか、比叡山延暦寺の滅びるときは京の都が滅びるときだ。皆のもの――心してかかれ」


「おい!」
 振り返ったその顔は、どう見ても普通の若者である。やんちゃそうな今風の顔に、派手に染めた金髪と方耳だけ3つのピアス――。
 だが、小野の鋭い感覚はそれを見逃さなかった。
「人に憑くとは……怨霊の真似事か?」
 自分より少しだけ背の低いその身体からは、わずかだが異形の気配がする。
「趣味にしては悪すぎる。鬼の名が泣くぞ?」
 それとも、と小野はこの尋常でない会話をできるだけ周りに聞かせないように、少年の襟首をグッと自分に引き寄せていった。
「なにか悪巧みでも?」
 驚いた様子で見上げる少年を、有無を言わさず細い路地に連れて行く。引きずられるようについて来た少年は威嚇するように、カッと目を見開いた。
「貴様……安部晴明か……!」
 その瞳が一瞬朱に染まり、同時に口元にもかすかに牙が見える。間違いない、鬼だ。小野はそう確信する。
 鬼の言葉に、小野は「違うよ」と肩をすくめた。
「俺は小野家の者だ。ついでにいうと晴明殿は亡くなられた。もう千年も昔の話だぞ?」
 まったく、時代錯誤もいいところだ。呆れ気味の小野を尻目に、「そうか死んだか」と少年は安心したように息をついた。
「あいつは凶悪だからな。鬼とわかれば殺されるか、式神としてこき使われる……いずれにしても恐ろしい話だ」
 心底嫌な顔をして、少年は身震いをしてみせる。一千二百年も昔に、陰陽師として京の都から魔を払い続けた阿部晴明という人物は、魔界でも強烈なインパクトがあったらしい。
「今の安部家はみな優しいお人ばかりだがな」
 ハルの穏やかな笑顔を思い出しながら、小野はそう言った。
「同じだ。あの血は鬼を受け入れぬ。我々のことを、式神の材料としてしか見ておらん」
 それに比べて、と少年に憑いた鬼は目を細めた。
「同じ人間でも小野家の血筋はいい。小野篁(おののたかむら)殿は、我が尊鬼王も優秀な右腕として認めておられる唯一の人間だ」
「褒められるのはありがたいが、その尊鬼王の許可を得て人間界に? 俺も鬼追=iおにおい)の端くれだ。良い顔をしている分、晴明殿より腹黒いやもしれんぞ?」
 小野の言葉に鬼は黙った。ふいと顔をそむける。
 その様子を見て、小野は説得を決意した。何も戦うばかりが鬼を払う方法ではないのだ。
「この一ヶ月は、都の人間にとって厄を払う大事な日だ。我ら鬼追もいつもより気を張っているのはわかるだろう? こんな時期にわざわざ何をしにきた?」
「……八坂神社に眠るスサノオ――荒ぶる神の恩恵に与りたいと願うは、なにも人ばかりではない」
 ふてくされたまま、鬼はそう言った。やれやれ、と小野はため息をつく。いくら鬼とはいえ、普通、スサノオの恩恵など授かれるはずがない。おそらく、この鬼は好奇心でやってきただけなのだ。許してやりたい気もするが、なにぶん、人は鬼を怖がる。それに実際、こんな会話が正常に行える鬼ばかりではないのだ。気の毒だが、と小野は意識的に語調を強めた。
「ここは人間界だ、お前の来る場所ではない。さっさと魔界へ戻れ……それとも」
 小野は脅すように、自分の拳を強く握り締めた。いままで何もなかったはずの空間に小さな歪が生まれ、熱を持たない冷炎が小野の手を包む。
「お前が尊敬するスサノオと同じように、生きたまま、この人間界に封じられたいか?」
 小野の左手から発せられる強烈なエネルギーに、鬼は息を飲んだ。それはまさしく、魔界を統べる尊鬼王の鬼力(きりき)――怨を封じ、魔を払い、鬼を統べ人の魂を支配するに至った、最強の魔力であった。そして、その力を有する武器を与えられた人間は、この世でただ一人――見上げる鬼の瞳に、小野の顔が映る。
「大人しく帰るなら、今回だけは尊鬼王には黙っといてやるよ」
「……分かった。仕方あるまい」
 鬼は名残惜しそうに、もう一度山鉾に目を向ける。そして、小野に向かってこう言った。
「名を聞こう。我が魔界の主に仕えし唯一の人間、小野篁殿の生まれ変わりであるお前の名を――」
「俺は鷹人。小野鷹人(おのたかと)だ。生まれ変わりではなく、ただの祖先だがな」
 小野の言葉に、鬼は眉をひそめた。
「ソセン……? 生まれ変わりとはまた違うのか。やれやれ、人間界は難しいものよ」
 そして、諦めたようにゆっくりと顔を伏せる。少年の首の後ろあたりから、熱の塊のようなものが沸きあがり、微かな陽炎を作った。常人には姿も見えないだろうが、小野の特別な視覚は、それが額に一本の角を持つ異形の生き物だと正確に捉える。2mはあるかという巨体を、くの字に曲げたまま少年から抜け出た鬼は、天を仰ぐように立ち上ると忽ち空にかき消えていった。その影がきれいに消えてなくなるまで見届けると、小野は足元に視線を落とす。
 あとには、ぐったりと抜け殻のようになった人間の若者が残るばかりだ。
「おい、大丈夫か?」
 肩を揺するが、反応はない。自分の魂以外のものが身体に入り込んだのだ。同じ人間の生霊ならまだしも、異形の鬼となると、その器に影響のない方がおかしい。
――とはいえ、命に別状はないだろうし……この先は俺の仕事じゃないよな。
 小野はあっさりと諦める。そして、一番近くにいた警察官に、すみませんと声をかけた。
「あっちの方で人が倒れてるみたいなんですけど……」
 人の流れを整理していた警察官の一人が慌ててかけて行く。その様子を見届けると、小野は足早にその場から離れつつ、携帯を取りだした。ワンコール半で、聞き慣れた声と繋がる。
「大丈夫だった? 今、そっちに向かおうと思ってたところなんだけど」
「問題なし、ただの野次馬だよ。ハルがわざわざ封じるような相手じゃないって」
 電話口でハルの笑い声がする。
「そうやって普通に言うけど、話し合いだけで鬼を魔界へ帰すなんて、小野ぐらいしか出来ないんだからね」
「そういえば、あの鬼、お前のことも話してたな」
「僕の?」
「ああ、安部家は鬼を式神の材料としか見てないってさ」
 なんだよそれー、とハルの不服そうな声がする。正統な陰陽師の血筋を受け継ぐハルが、鬼に嫌われるのは仕方のないことなのではあるが、日頃の彼の苦労を想像するとそう言い切るのはいささか酷な話でもある。事実、鎮めた怨念が目覚めないように観光地開発を食い止め、人々の悩みを聞いては魔≠取り込まないように日々励んでいるのは、ハル達、陰陽師なのである。鬼追の仕事だけを単独で受持つ小野とは、立場が違う。もちろん、そんな苦労など鬼に伝わるはずもないが――。
「ま、そういうことで無事に済んだことだし、俺はそろそろ一般高校生として祇園祭を純粋に楽しむことにするわ」
 そう言って電話を切ろうとした小野に、ハルの慌てた声が重なった。
「ああ、ちょっと待って! 緊急の召集がかかってるんだ、比叡山から」
「比叡山? 御雪(みゆき)からか?」
 小野の頭にすぐに浮かんだのは、同じ鬼追仲間の御雪だった。延暦寺に住んでいる御雪は、鬼追の中で唯一の女性である。別に彼女という存在ではないので頻繁に逢うことはないのだが、同い年ということもあって仲の良い友達関係にはあった。
「ううん。連絡があったのは清源和尚から」
 げ、と小野は嫌な顔をする。それは確実に楽しい話ではない。この間も、鬼追の使命について延々と説教されたばかりだ。
「詳しいことは僕にも……とにかく来てくれの一点張りでさ」
「無事に終わった祇園祭の打ち上げ、とか?」
「――あの清源和尚が? 比叡山延暦寺で?」
 たたみかけるようにハルの質問が飛ぶ。
「だよなー」
 厳格≠ニいう文字が世界一似合う人物である。和尚に限りそれは、ない。小野は諦めたように同意した。
――参ったなぁ。
 これからクラスメイト達と河原町界隈で、遊び倒す予定だったのだ。
 小野は大きくため息をついた。祇園祭を断っただけで、付き合いが悪いと随分文句を言われたのだ。その上、今夜の約束まで破るとなると……高校の友人達の怒った顔が浮かぶ。
「小野、大丈夫?」
 電話越しにハルの心配そうな声が聞こえた。
「ああ、うん。了解、何時にいけばいい?」
 覚悟を決めて、小野はそう返事した。ハルも立場は同じなのだ。自分ばかりが我がままを通すわけにはいかない。それにしても……小野は空を仰ぐ。
――鬼追も楽じゃないぜ。
 そんな小野には無関心とばかり、空には相変わらずの太陽が全開で輝いていた。


 何と言ってもこの空気が苦手だ。密教の修行場である独特の厳格さが、必要以上の緊張感を与えるのだ。この場所に住んでいる御雪には悪いが、小野は早くも帰りたくなっていた。床の間にある、地味だがやたら高価そうな水墨の掛け軸にぼんやりと目をやる。
――仕事の打合せなら、せめてどっかの店でお願いしたいよなぁ……。
 しかしもちろんそういう訳にもいかず、比叡山の本堂から少し奥まった座敷で、小野とハルは和尚の登場を待っていた。
 隣ではハルが、神妙な顔つきで正座している。天然栗毛色の前髪が、色の白い横顔にかかって柔らかな影を落とす。今でこそ優しい感じの少年という印象のハルだが、幼い頃はそこらへんの女の子よりずっとかわいく、ホリプロのスカウトマンに「女の子」として声を掛けられたのは有名な話だ。
 そのハルに、小野はそっと耳打ちする。
「今回の呼出しって、鬼追限定だっけ?」
「そのはずだよ」
 ハルが小さく返事した。と、なるといつものメンバーが足りない。
 京都に巣くう鬼退治を生業とする鬼追≠ヘ、現代の世に小野をいれて四人しか許されていない。しかも一言に鬼追といっても、それぞれの能力はまるで違うので、彼らはまさにこの世に二人といない稀有な存在であった。
 今、一緒にいる陰陽師のハル――兎柳 晴彦(とやなぎはるひこ)は、かの有名な陰陽師の末裔だし、延暦寺で修行を積む澄 御雪(すみみゆき)は降魔大師の能力を有し、高杉皓矢(たかすぎこうや)は、源家の宝剣・蓮華丸を受継ぐ人間だ。そして、魔界との行き来が許され、鬼の力を与えられた唯一の人間、小野鷹人(おのたかと)。この4人の共通点はただひとつ――京を惑わす魔や怨霊、鬼と戦えるかという点のみである。単に京都を守るというだけならば、他にも魔道を受継ぐ比叡山の僧侶魔徒衆≠竦ー明神社の陰陽師達がいるが、彼らは主に結界を守護するだけの職であり、直接、鬼や怨霊と対峙することはない。
 そして今回の召集は、鬼追だけにかかった。比叡山に住む御雪はよいとして、小野達と同じく京都市内に住む高杉皓矢は、すでに着いていなければならない時間だ。
「皓矢は?」
 それが、とハルはさらに声を小さくする。
「連絡したんだけど……デート優先だって断られた」
「なっ!」
 小野は思わす言葉を失った。ハルも困った顔でため息をつく。皓矢の性格を考えると、十分予想できた回答とはいえ――。
(あの野郎……! 友達の約束を振り切って来た俺の立場はどうなるんだ)
 小野は思わず握りこぶしを固める。とにかく連絡をとってみようと、携帯に手を伸ばそうとしたその時。
 障子が静かに開き、清源和尚が姿を見せた。作法に厳しい和尚らしく、丁寧に障子を閉めるとゆっくりと部屋を見渡す。小野とハルは、反射的に深く頭を下げていた。
「高杉の姿が見えぬようだが……時間も守れぬような者に鬼追の資格はないぞ」
 いきなり和尚の厳しい声が飛ぶ。それを聞いた二人は、何故か自分のことのように身のすくませる。こんな状況でまさか「皓矢は今日デートなので召集をすっぽかしました」などとは死んでも――言えない。とっさに小野が機転を利かせる。
「はっ、岩倉の塚の様子があやしいようで偵察にいかせています。何もなければいいのですが……」
 岩倉のあたりは常に不安定だから、あながち嘘ではない。嘘ではないのだが――。
――くそー、皓矢の奴! 清源和尚相手に嘘つかせやがって……これは大きな借りだからな!!
 今頃、楽しくデートしているであろう高杉を思い浮かべながら、和尚に嘘が悟られないように小野はさらに深く顔を伏せた。
「和尚様、御雪さんの姿もみえないようですが?」
 ただでさえ感覚の鋭い清源和尚である。小野のでまかせが墓穴を掘る前に、ハルがさりげなく話題を変えてくれた。うむ、と和尚の顔が曇る。
「……今、必死で慈雨を探しておる」
「慈雨、ちゃんを?」
 和尚の言葉に、小野は思わず視線を上げた。慈雨は御雪の妹だ。歳が離れた姉妹で、まだ小学校にも上がらない慈雨は姉を慕い、時々遊びに来る小野にもよくなついていた。
 慈雨の、淡雪のような可愛らしい笑顔を思い出す。
 清源和尚は、二人の正面に座を正した。
「では、さっそく本題に入ろうかの――慈雨のことは知っておるな?」
「もちろんです。慈雨ちゃんに何か?」
「今朝から行方がわからんのだ。何者かに連れ去られた可能性が高い」
 和尚の言葉に、小野は驚きを隠せなかった。それはハルも同じだ。延暦寺の中でも、このあたりは特別な聖地だ。誘拐などありえない。――魔界の者以外は。
「やはり、魔≠フ気配が……?」
 ハルが慎重に問う。その言葉に、和尚はしばらく沈黙した。
「それが……分からぬのだ。魔を払う結界は厳重に執り行っておったし、魔の気配を察知した者もおらん。よっぽど邪心のない人間が偶然に入り込んだか、それとも」
 和尚の顔が厳しくなる。
「我らの力及ばぬ、魔の仕業か」
 小野は、ようやく自分達が呼ばれた理由がわかってきた。比叡山延暦寺の結界が破られるなど、小野がこの世界を知ってから一度もなかったことである。
「ここで話をしても仕方あるまい――ついて来られよ」
 和尚はそう言うと、音もなく立ち上がった。小野とハルが、慌ててその後を追う。本堂を出たところで、小野は立ち止まった。
「和尚様、方向が違うのでは?」
 清源和尚の足が向かう場所は、御雪と慈雨が住む家とは逆の方向だった。
「よいのだ。慈雨は、七五三の厄を払う為、3ヶ月ほど浄化の修行に入っておる最中だった」
「では、鬼門である横川の庵に……?」
 そうだ、と和尚は歩みを止めずにそう言った。後ろから着いていく小野とハルは、思わず顔を見合わせる。そうなると慈雨の失踪はますます不可解だった。
 一般には、子供の成長を祝う行事である七五三も、鬼を宿すとされる御雪や慈雨にとっては、最も気をつけなければならない危険な時期となる。幼子の不安定な精神はただでさえ魔に魅入られやすく、また奇数を好む神々に神隠しに会う可能性もある。
 その為、御雪や慈雨のような特別な子はこの時期、結界で厳重に守られた場所で暮らすのが普通だ。そして慈雨の場合、比叡山横川の庵がその場所であった。
(そんなところから、慈雨ちゃんを連れ去ることができる存在など……)
 いるはずがない。それが小野の出した結論だった。だが、慈雨のいた庵を目の当たりにして、小野はその考えを改めないわけにはいかなかった。
「これは……一体!?」
 隣でハルが絶句する。それは小野にしても同じで、すぐには言葉が見つからなかった。
 焼かれた護符、破壊された結界。見るも無残な爪跡が、なんとが原型を留める程度の庵のあちこちにうかがえた。庵には後片付けを任された僧侶達が数人、掃除を続けている。
「小野、兎柳――この惨状をどう捉える?」
「魔≠フ異臭が致します。それ以外の仕業なら護符を焼く必要もないかと」
 的確にハルが答える。その意見に小野も黙ってうなずく。
「やはり……そうか」
 苦しい表情で、和尚はそう言った。魔≠ノよるものだと断定出来たところで、事態はいっそう深刻化する。それはつまり、慈雨を連れ去った何者かにとっては――。
「我らの結界など、たやすく破られるということか……」
 和尚の沈痛な声に、二人は言葉を返すことができない。無言のまま、小野は庵の周りを詳しく調べてみる。庵に残った傷は、その激しさを雄弁に伝えていた。慈雨はどんなにか怖かっただろう――そう思うと、小野の顔は自然と険しくなる。
「……!」
 ふと、小野の目にとまった場所があった。玄関である。何かおかしい。建て掛けてある鏡と小さな靴箱。その上には慈雨が置いたのか、ウサギとクマのぬいぐるみが仲良く肩を寄せ合っている。小野は注意深く見渡してみる。そこには、あるべきものがなかった。自分の中に沸き起こった違和感を手繰り寄せるように、小野は一人考え込む。
――そうか……!
 突き当たった答えに、小野は思わず目を見開いた。そして、慌てて玄関から表に飛び出すと、和尚に向かって叫ぶ。
「和尚! すぐに結界を張り直して下さい!」
 そうだ……結界は破られたんじゃない。意図的に壊された庵、焼かれた護符。自分の考えが正しければ――これはきっと。
「罠だ!」
 だが、和尚が返事をするよりも早く――耳を劈(つんざ)くような轟音が響き、地面が激しく揺れた。高く舞い上がった砂埃に包まれ、その場の誰もが驚愕の表情で立ちすくむ。
「小野! あれ!!」
 いち早く立ち直ったハルが指差した方向に、小野は素早く目を走らせた。その瞳に映ったものは――!
「なんだ、と……」
 最悪の状況に、小野の背筋に冷たいものが突き抜ける。魔界の入り口とされる鬼門から姿を見せたのは、5メートルはある2匹の鬼が立っていた。

 不気味な咆哮が響き渡る。
 小野は目を見張って、呆然とつぶやいた。
「こいつらは……羅眼鬼……!」
 それは巨人のような外見をした人型の鬼だが、人間の目にあたる部分がない。怒りが最高潮に達したときにその目が開かれると言われているが、そこまでは小野も見たことがなかった。とはいえ、閉じた状態でも十分視覚ははっきりしているし、その腕力は鬼の中でも最高クラスだ。気性は荒く、精神は常に混濁していて人の言葉は通じない。一匹だけでも難儀な相手なのに、それがもう一匹となると――。
(それにこいつらだけで魔界から出てくることはないはず……操ってる奴がまだ)
 魔界の瘴気と土埃のせいで視界はひどく悪い。必死に視線を走らせるが、鬼達以外の姿は見えなかった。
 小野は、ゆっくりと目を閉じる。ともすれば、極度の緊張で荒くなりそうな息を必死に整えて、慎重に気配をうかがう。羅眼鬼の背後、暗い闇の中にそれ≠ヘいる。怨霊……それとも悪鬼か、いや違う……!
「――来るぞ……!」
 大きな瘴気の塊が、爆風となって襲う。
 刹那――空気の質が変わった。突然の気圧の変化に、誰もが苦痛に顔を歪める。激しい耳鳴りと耐え難い重圧感。一気に呼吸が制限され、圧迫された全身の血管が悲鳴を上げているのがわかる。これは魔界の風だ。実際に魔界を知る小野でも、この空気にいきなり襲われるとさすがに苦しい。まして他の人間など――。
「ハル、結界を張って和尚達を外に……!」
 小野の言葉に、ハルは素早く両手の指で印を組み込む。キーンという高い金属を打つような音が響いて、瘴気は一瞬浄化される。その隙を突いて、ハルは鬼達を囲むように直径8m程の結界を張った。和尚や僧侶達がその外側に急ぐ。
 だが、本来ならば結界は、塩や清めの塩や水を使い、時間をかけて作るべきものである。それに比べて、これはハルの念だけで作った、いわば即席の結界だ。補助となる護符もない。強力な敵を相手に、どこまで持つかは分からなかった。
「……くっ……!」
 それでも、人間界と魔界との境を守る為に、ハルは全神経を集中させる。
――手短に終わらせなきゃな……。
 苦しそうなハルの横顔を見て小野は大きく息をつくと、一人、結界の内側に入る。
 小野に向かって、2匹の鬼が咆哮を上げた。言葉や意思は通じない種類の鬼達だが、いきなり狭い結界に閉じ込められて機嫌が悪いことぐらいは分かる。だが、小野がもっとも気をつけなくてはいけないのは、鬼達を操っている何か≠フ存在だった。
『くくく……待っておったぞ』
 結界内に不気味な笑い声が響いた。
「誰だ!」
 小野の感覚を持ってしても、その姿すら捉えることができない。だが、鳥肌の立つような邪悪な気配だけは感じて取れた。
『まさかこれほど早く鬼追に出会えるとは……その力、見せてみよ』
 羅眼鬼を隠れ蓑にするかのように、背後で声だけが響く。鬼追を恐れるどころか、その力に興味を持つとは……尊鬼王の支配の及ばぬ存在か? 小野は両手を自分の前にかざした。拳に力を込める。どちらにせよ、羅眼鬼を倒さないと話は前に進まないようだ。
――だったら。
 小野の中に鬼の力が満ちていく。身体を包む紫のオーラ。その拳に赤い炎が生まれ、やがて激しく渦巻いていく。
「望みどおり見せてやるよ!」
 小野は地面を蹴った。瘴気をはらんだ風が巻き上げる。その動きに誘われるかのように、羅眼鬼達が同時に咆哮を上げた。小野に向かって大きな牙をむき出すと、間髪いれず襲いかかる。2匹の巨体に覆い被さられた小野の姿は、たちまち見えなくなった。
「小野!」
 結界の外から、和尚が叫んだ。いくら鬼力を有するとはいえ、小野は生身の少年だ。身体的な劣りは否めない。それなのに、まるで挑発するかのような小野の態度は、無謀としか言い様がなかった。
――が、次の瞬間。
 どう、と地面が揺れる音がして、右の鬼がバランスを崩す。片膝をついてうずくまったその隙間から、小野の姿が見えた。小野の左拳から発せられた光が、鋭い刃に姿を変えて片方の鬼のわき腹を切りつけたのだ。だが、巨体を誇る羅眼鬼にとってそれは致命的な傷とは程遠い。
「……いかん!」
 和尚が眉を寄せる。中途半端な攻撃はかえって危険だ。もし怒りで羅眼が開けば、小野一人の力で抑えるのは不可能だ。それが証拠に、傷ついた鬼はもう立ち上がろうとしている。だが、和尚の心配に反して、小野は思わぬ行動に出た。
 立ち上がろうとしている鬼の立膝を足場に、素早く肩に乗る。そして立ったままの、もう片方の鬼の方へと跳んだ。きわどいバランスでその鬼の肩に飛び移る。驚いた鬼は、小野を振り落とそうと巨体を振るわせた。――だが、それより一瞬早く。
 小野は自ら飛び降りる。5mもの高さから落下しながら、小野は身体を反転させる。
「――食らえ!!」
 その手から、幾筋もの赤い光が放射線状に放たれた。先ほどまで刃として形を結んでいた光は一旦小野の手の中に戻り、強力な鎖となって鬼に襲いかかる。 
「がぁぁぁっ!!」
 予測不可能な小野の動きに、振り払う間もなく、鬼はその鎖の餌食となった。赤い光が、鬼の首に幾筋も絡みつく。
 その鎖をブレーキにして、小野は地面に着地した。小野のスニーカーが、ザッと砂塵を上げる。鬼は、その呪縛をうるさそうに振り払おうとする。羅眼鬼にはまだ余裕があった。こうなったらあとは力比べだ。いくら鬼の武器が使えようと、人間である小野が力で勝てるはずがない。羅眼鬼はわざと首を突き出した。そして一気に片を着けようと、強く引いた瞬間――!
「縛呪――殺刃!」
 小野の声が結界内に響いた。鎖はたちまち針金のような刃物に変わる。その変化に、鬼が気付いたときにはもう手遅れだった。声を上げる間も許さず――。
 ゴロン、と不気味な音をさせて鬼の首が転がる。
「……あとはお前だ」
 そう言って小野は、もう一匹の鬼へと振り返った。さすがに小野の息も荒い。残った鬼は、何故仲間が死んだのか、また理解できないようだった。ただ不用意に動いてはならないと判断したのだろう。先ほどまでとは違い、その場で蹲ったまま機会を窺っている。
 一方、ハルの為にも早くと気はせるものの、小野の体力も鬼力もしばし回復を待たなければならない状態にあった。両者のにらみ合いが続く。――と、その時。
『そこまでだ』
 後ろの影が揺れた。いままで姿を見せずに様子を窺っていた何か≠ェ動いた。羅眼鬼はその声に従うように動きを止めた。やはり操られているのだろう、羅眼鬼はそのまま不自然に固まり、まったく動かなくなった。
『その鬼追の力……我に』
 不気味な声を響かせながら、透明なゼリー状の物体が徐々に像を結んでいく。警戒しながら、小野は目を凝らした。
(何だ……? この感じ……)
 それは、人間や鬼のように一定の形を持たない生き物。暗い想いや思念の塊――怨≠ニ呼ばれる存在だった。その中央に黒い渦が見える。そしてその渦が、あたかも生命体の核であるかのように不気味な鼓動を打っていた。
(狙うなら、あの渦か……)
 小野は身構える。だが、そんな小野の考えを読んでいるかのように怨≠ヘ言った。
『良いぞ……その鬼力見せてみよ』
 その言葉の真意はまだ分からない。何かの罠である可能性も高い。だが、解決の糸口が見つからない以上、いたずらに時間を引き延ばすのはハルの為にも良くない。今の小野には攻撃あるのみだ。
(とりあえず、黒い渦に鬼力を叩き込んで様子をみるか)
 狙いを定めるように目を細めて、小野は両手を突き出す。だが――。
 次の瞬間、小野は凍りついた。結界を守るハルも、和尚や僧侶達も、その光景に息を飲む。陽炎のように揺らめく何か≠フ中心部。その黒い渦を守るかのように――。
 慈雨がいた。
「慈雨ちゃん!」
 眠らされているのか小野の声にも反応せず、その瞳は固く閉ざされたままだ。
(無事…なのか?)
 ひと目では、慈雨の生死を確認することはできない。
『くくく……撃てるか? この娘を……かまわぬぞ』
 試すような声がする。小野は動けなかった。慈雨を助けたかったが、正直、どうしていいか検討もつかない。
『この器は美しい――が、まだ力がたりぬ』
 声が一段、低くなった。ぞっとするような黒い野望。
『あの方が復活するための……力が』
 そのとき、結界の外から声が響いた。
「かまわん! 撃て小野!」
 振り向くと、結界から少し離れた高台に御雪がいた。小野はその言葉が、実姉である御雪から発せられたことを知って愕然とする。御雪は、たった今駆けつけたのだろう、息が荒れている。
「慈雨は怨≠ノ食われた。もう助からない――今、こいつを逃せば大変なことになるぞ!」
「な、何言ってんだよ、御雪……そんなこと」
 出来るわけがないだろ、と信じられない思いで小野は、御雪を見上げる。
 漆黒の闇を思わせる真っ直ぐでつややかな長い髪。透き通るような雪色の肌。ついと上げた御雪の怜悧な瞳に、迷いはなかった。
 なおも躊躇う小野を見て、御雪はゆっくりと右手を上げる。その先に雲が生まれる。凝縮された小さな雲は、渦巻きながら、そのエネルギーを増していく。いくつもの雷が雲を走り、やがて大きな電気の塊となって青白く輝きはじめる。御雪の行おうとしていることに、小野は息を飲んだ。
「小野に出来ないなら……」
「やめろ、御雪!」
 小野が止める前に、印字を組んだままのハルが叫んだ。ハルの意識と深くコミットしている結界が大きく揺れる。
「私達姉妹はこの身に魔を宿す器だ。強い意志がなければ破滅を招く……慈雨とて覚悟はできている」
 視線を慈雨から逸らさぬまま、御雪ははっきりとそう言った。
「なに言ってんだよ! 覚悟なんて……御雪さんが一番っ……!」
 ハルが、白い顔を紅潮させて必死に怒鳴る。
『愚かな……』
 小野の耳に、興醒めしたような怨≠フ声が響く。雪善が自分を、慈雨もろとも消滅させようとしていることは、怨≠ノも伝わったらしい。恐れと怒りのオーラが膨張する。まずい、と小野は身構えた。
『この娘もろとも死ぬがいい!』
 ピシッ、という氷の割れるような音が幾重にも重なる。ハルの表情がさらに苦しくなった。結界が壊れようとしている。怨≠ヘこの結界から出るつもりなのだ。
「迷っているひまはない!」
 御雪叫んだ。そして慈雨めがけて力を放つ――!
「やめろーっ!」
 ハルの悲痛な叫び声が重なる。結界が崩れた。その力は集約されて一枚の盾となる。慈雨の前に立ふさがった結界の盾は、わずか数秒の差で御雪の放ったいかずちから、慈雨を守護することに成功する。
『下らぬ……この器はもらって行くぞ』
 だがそれは同時に、怨≠ノ隙を与えた。
「待て……!」
 小野の声もむなしく、慈雨を取り込んだ怨≠ヘ音もなくかき消える。
 ハルはなんとか慈雨を守った。が、崩れた結界の前に和尚や僧侶達が無防備になる。
 その時、鬼が動いた。
 怨≠フ「動くな」という呪縛から解かれた鬼は、たちまち咆哮を上げ立ち上がる。それは怨≠フ残した置き土産でもあった。
「いかん……鬼の眼がっ!」
 和尚が叫んだ。羅眼鬼の目がゆっくりと開こうとしている。結界を失ったその場は、鬼の独壇場と化していた。羅眼鬼は身を翻し小野から離れると、5人ばかりの僧侶達がいる方向へ向かった。驚いて小野が振り返る。だが小野の動きよりも早く、鬼は手前の僧侶に手を伸ばした。
――間に合わないっ……!
 小野の心臓が一気にせり上がる。ハルも御雪も、僧侶を助けるには距離があり過ぎた――戦慄が走る。
 と、次の瞬間。
「ぎゃぁぁぁぁ!」
 ものすごい叫びが響く。なにが起こったか分からない小野の目の前に、背中から袈裟切りにされた鬼が倒れこんだ。ドーンという大きな地響きがする。
「このタイミングはもしかして――ヒーロー登場ってやつ?」
 ことの成り行きに唖然としている一同の中、場違いの明るさで登場した茶髪の少年いた。その手には――宝刀、蓮華丸。
「皓矢!」
 小野がその少年の名を呼んだ。そして、
「遅刻だよ、バカ」
 内心ホッしながら、小野は皓矢に駆け寄る。小野のせリフを聞いて、皓矢は「けっ」と鼻を鳴らした。
「来る予定はなかったんだよ。せっかくのデートだったのに弘美の彼氏とバッタリ……男は怒るし弘美は泣き出すし――で、面倒くさくなって逃げてきたんだ」
「お前なぁ……」
 あまりに現実的で能天気な話に、小野はがっくりと肩を落とす。だが、皓矢の呑気な答えが、小野の緊張を一気に解きほぐしてくれたのも事実だ。苦笑いとはいえ、小野の顔に笑顔が浮かぶ。
「何でだよ!」
 だがそんな中、ハルの厳しい声が飛んだ。見ると、ハルが御雪に詰め寄っている。
「慈雨ちゃんは御雪さんの妹だろ?!」
 ハルの言葉に、御雪は表情ひとつ変えず、静かに答える。
「……あれを逃したら、被害は京の都に及ぶ」
「そういう話じゃないだろっ!」
「同じだ! あれを逃した責任をお前は取れるのか?」
 御雪が初めて声を荒げた。そんな二人を見て、小野はやりきれない気持ちになった。ハルも御雪も、きっと間違ってはいない。だからこそ自分はあの場面で動けなかったのだ。
(2人とも、普段は滅多に怒鳴ったりしないのに……)
 慈雨ちゃんを手に掛けようとしたお前が、とハルはうつむいたまま言った。
「御雪さんの行動が正しいというのなら――心も、痛まないというのなら」
 ハルが顔を上げる。真っ直ぐな瞳だった。それは、千二百年前から受け継がれてきた安部晴明の血を色濃く残す、魔≠寄せつけない凛とした横顔。
「お前が鬼だ!」
 そう言い捨てると、ハルはその場を立ち去った。
「御雪……」
 残された御雪に、小野が心配そうに声をかける。だが、そんな小野の気持ちを振り払うかのように、御雪は言葉を遮る。濡れたような黒髪がさらりと揺れた。
「小野、それから皓矢。寺の者を救ってくれて礼を言う。ハルにも……そう伝えてくれ」
 そう言って御雪は背を向け、本堂の方に消えていった。
「なんだよ? 仲間割れか?」
 片手で蓮華丸を軽く肩に乗せて、皓矢が言う。なにぶん途中参加の為、2人の事情がよく飲み込めない。
「そんなんじゃ……ない」
 小野は答える。そんなことではないのだ、きっと。けれど、小野にはどちらが正しいとはいえなかったし、そのことを上手く皓矢に説明できなかった。
「和尚様、ご無事でしたか」
 話の見えない皓矢は「ま、そんなこともあるか」とそれ以上詳しく聞こうとはせず、近くにいた和尚達に声をかける。
「助かった。礼を言うぞ」
 お役に立てて光栄ですよ、と皓矢がにっこり笑う。日頃から、鬼追の不良≠ニレッテルが貼られている皓矢の、これは名誉挽回のチャンスなのだ。
 だが、と和尚は続ける。
「先ほど話、小野から聞いたものとはちと違うようだが……高杉」
「はい?」
「そちはいままでどこに行っておったのだ?」
「どこって……」
 きょとんとして、皓矢が答える。
(やべ……!)
 小野が慌てて割に入るが、間に合わなかった。何も知らない皓矢が口を開く。
「祗園の方に」
 和尚の眉がひくりと動いた。小野は思わず目をつぶる。
「祗園とな……岩倉ではなく?」
「岩倉? なんの話っすか?」
「あー! 和尚!! そろそろ本堂に戻られた方がっ」
 もちろん、そんな小野のフォローが効を成すことはなく――和尚はギロリと2人をにらみつけて言った。
「高杉! 何度も言ったはずだ。鬼追の使命を軽んじるな!!」
 派手な雷が落ちる。さすがの皓矢も肩をすくめた。それから、と和尚は続ける。
「小野! 悪人を庇うが優しさは善≠ノあらず。2人とも、延暦寺でしっかり学んで帰れ!!」
 それから、たっぷり3時間――小野と皓矢は、仏教に修行に中でもっとも過酷とされる密教の修行を受けることととなる。 















 【あとがき】

久々の新連載です。何だかいまいちピリリとしない(涙)作品なんですが、なーんとなく気に入っていたりするので、もう少し手直ししてやりたいと切実に思っています。感想を頂けるだけでもう! サイコーにハッピーなんですが、贅沢を言うなら少し辛めでお願いします……どきどき。それではまた!