鬼哭の天蓋 2
作:草渡てぃあら





 放課後――夏の強い日差しが、消し忘れた黒板に照り返している。教室にはまだ、まばらに人が残っており、とりとめのない日常のざわめきが広がっていた。
「でさぁ、鷹人(たかと)のやつ、祇園祭の約束ドタキャンだぜ?」
 黒板に背を向け机に腰掛けながら、クラスメイトの谷崎が仲間内に大袈裟に話している。
「悪かったな、ホント。今度、仕切りなおすからさ」
 HRで配られたプリントを鞄に押し込みながら、小野は谷崎とその周りの友達に謝る。
 純粋なクラスメイトである彼らは、小野が鬼追であることを知らない。当然、それにまつわる諸事情も理解できるはずがなく、昨日のようなことがあると、小野はひたすら頭を下げるしかないのだ。
 別に隠さなければならないわけでもないのだが、小野だって、魔界を忘れて馬鹿騒ぎできる友達は大切にしたい。
「絶対、約束だぜ?」
 谷崎の念押しに適当な相槌を打ちながら、だが小野はまったく別のことを考えていた。
(……いや、ただの怨霊ごときなら比叡山に近づくことも出来ないはず。まして横川の結界を破るなんて不可能だ。やっぱり慈雨ちゃんは自分で……)
 そうだ。小野の考えが正しければ、慈雨は自分で結界外に出たはずだった。そこで怨≠ニ会った。怨≠ェ何故、慈雨を狙ったのかはわからない。何かの復活を待っているような話だったが……いずれにせよ、と小野は目を伏せる。
(もう少し調べて見ないと、答えは出ないか)
「聞いてンのか、鷹人」
「小野くん、スミって人が呼んでるよ。校門のところで待ってるって」
 神崎と、もうひとつ別の声が重なった。同じクラスの香奈だ。女の子だからというわけではないが、小野としては後者の声を聞くことにする。
「スミ……?」
 一瞬、きょとんとする。いつも下の名前で呼んでいるから、すぐにはピンとこなかったが、御雪の苗字は確か澄――。
「ああ! サンキュー」
 ガタガタと音を立てて机から立ち上がると、小野は香奈に礼を言った。下校途中にわざわざ教室に戻って伝えにきてくれたのだ。
「どういたしまして、小野っちの役に立ててよかったよ」
 可愛らしくウィンクして、香奈はサラサラのボブを揺らす。でさ、と香奈は声のトーンを少し下げた。
「あの人ってその……小野っちの彼女?」
 そんなわけないよ、と否定した小野に、香奈は「だよね」と素直にうなずく。
「小野っちなんかじゃ釣り合わないよねぇー。なんかぁ和服着ててさ、めちゃくちゃ美人なんだけどー! ね、どっかの業界のヒト?」
「業界……ねぇ」
 香奈のストレートな返答にいささか傷つきながら、小野は首を傾げる。
 御雪は確かに延暦寺に住んで修行を受ける身ではあるが、正式な尼ではない。それが証拠になるかは定かではないが、頭髪だってごく普通の高校生――艶やかに黒いストレートロングで通している。
 うーん、と小野は唸った。まさか鬼追仲間であるとも言えない。
「ま、とりあえず堅気。高校生、独身ってとこで……機会があったら香奈にも紹介してやるよ」
 小野の言葉を聞いて、周りの男達が一斉に騒ぎ出した。
「あ、俺も見た! 背ェ高くてモデルみたいな人だろ? 小野ってば、ホントにただの友達なわけ?」
「じゃあ俺に紹介しろっての」
「あー俺も俺も」
 へいへい、と野郎達の分かりやすい反応に呆れつつ、小野は教室をあとにした。御雪が学校まで会いに来るなんて初めてのことだ。事態に何か変化でもあったのか。
 だが、廊下に出てすぐの場所で小野はもう一人の知り合いを発見した。
 その姿に、小野はあきれて立ち止まる。
「当学校では、関係者以外の立ち入りを禁止しています」
「……だからこうやって変装してきた」
 声を掛けた小野に、少女は身長百五十センチの位置からキッと睨み付ける。
 どこで手に入れたのか、変装だという名のごとく確かに小野の高校の制服姿だった。
 体型は少女そのものだが、キツめの眼差しは妙に大人っぽく、真っ赤な髪に良く似合う。
 似合うのだが――。
「校則では染髪も禁止。こんな赤い髪でお前、風紀委員にでも捕まったらどう言い訳するつもりだよ?」
「人間ごときに捕まったりしない」
 捕まるってそういう意味じゃ、と言おうとした小野より早く、少女は、
「なぜ鬼を逃がした?」
 と睨み付けた。その眼差しはさすが鬼の子だけあって凄みがある。
 少女の名は紅牙(くれが)=\―人間界に住むことを許された八瀬という鬼の一族である。今から千年程前、人間界から完全撤退を行った鬼達の中で、唯一人間界に残ることを許された鬼なのだが、その代償に鬼の力≠フ象徴である角は、その力とともに失われた。そんな紅牙の使命は、彼女の主(あるじ)尊鬼王から鬼力を受け継いだ小野が正しく@ヘを使っているかの監視にある。
「逃がす……? 比叡山の鬼は、俺と皓矢で倒したけど?」
 紅牙の問詰めに、心中では「まずい」と思いながらも、小野は軽く誤魔化してみる。だがもちろん、紅牙は引っかかってはくれなかった。
「違う! 祇園祭のときの鬼だっ」
「……ああ、あれね。ごめん、ちょっとドジッた」
「お前の使命は人間界にさ迷い出た鬼を狩ること。そのために尊鬼王から鬼力を受け継いだ――勝手な振舞いは許さぬぞ」
 鬼の寿命は長い。すでに千年以上も生き続けている紅牙だが、見た目は十二、三歳ほどの少女である。自分よりもずっと年下に見える彼女に説教されながら、小野はささやかな反撃を試みた。
「殺すばかりが任務の遂行ではないだろう? 現にあの鬼は素直に魔界へと帰った」
「その勝手な判断が命取りなのだ! 馬鹿者っ」
 が、結果は炎に油である。小さな顔を真っ赤にさせて怒っている紅牙にを見下ろしながら、小野は小さくため息をついた。
 彼女のいうことは間違ってはいない。だが、尊鬼王の本心を知る小野は、むやみに鬼を殺す気にもなれないのである。
「ごめん、俺、人を待たせてるんだよね。続きはまた」
「こら! 逃げるな」
 結局、いつものように逃げ出すことを決めた小野は、早々にその場を去ることにする。
 そんな小野の背中に怒声を投げながらも、紅牙はそれ以上追うことをしなかった。
 分かってはいるのだ。小野の甘さはまた優しさ≠ナもあるということを――けれど。
「優しさが己を殺すことだって……あるのだぞ」
 小野が見えなくなってから、紅牙はひとりつぶやいた。

 校門を出たところに、御雪が立っていた。本人は全く意識していないのだろうが――。
(こりゃ、目立つわ……)
 人目を引くのは、なにも和服姿だからというわけではない。一陣の風のように、すらりと伸びた背、ひと目を惹きつける涼やかな容姿――あまりにも身近すぎて、小野は普段意識しなかったが、御雪は典型的かつ正統派の美少女だった。
「なんで和服なわけ? 何かの撮影でもしてるのかと思われるぜ」
「撮影……?」
 挨拶抜きで話し掛けた小野に、御雪は怪訝な顔をした。
「芸能人とまちがわれるってこと!」
 ずいぶん俗物的な発想だな、と御雪が笑った。そのクールで洗練された表情は、小野と同い年には見えないばかりか、ちょっと浮世離れした美しさである。
「袈裟は己にかけた呪縛だ。封魔の香を焚き染めてある――京都は延暦寺と違って、すべての魔所に結界を施してあるわけじゃないからな。私にとって危険な土地だ」
「……?」
「私の中の鬼が――騒ぐ」
 いたって真面目な御雪の答えに、小野の表情が固まった。御雪は、京都からいって比叡山の逆側、滋賀県の高校に通っている。あまり京都に遊びに来ないと思っていたら、そんな事情があったのだ。
――ごめんなー。こいつを紹介する勇気、俺にはないかも……。
 御雪の端正な横顔を見ながら、小野は心の中でクラスメイトに手を合わせた。

「で、なんか進展あった?」
 小野の高校から歩いて少し――四条大橋の架かる鴨川のほとりに腰掛けながら、小野はそう切り出してみる。もちろん、慈雨の一件だ。こうやって御雪が小野を尋ねてやってくる理由は他に考えられない。
 ああ、と御雪はうつむいた。そして、鴨川のおおらかな流れを見つめながら、
「小野に、頼みがある」
 とだけ言った。
「これを」
 と差し出された御雪の手の中には、野球ボールほどの水晶玉があった。小野は目を細める。
「中に鬼が」
 よく見ると、それは慈雨にそっくりの鬼だった。額にある第3の瞳。耳の後ろあたりから生える小さな角を別にすれば、慈雨本人といっても分からない。
「これは……?」
 不思議な鬼だった。日ごろ目にする鬼達とはまったく異なる生き物にも見える。
「慈雨の中で共に育った鬼だ。横川の庵のそばで泣いているのを見つけた」
「慈雨ちゃんの中で、育つ?」
「そうだ。本来なら、一生慈雨の中で育ち、その姿を目にすることはあり得ない存在」
 だが、と御雪は続けた。
「何者かが、その鬼を慈雨の中から追い出した。慈雨を器として使うために……」
 御雪はそこで、かすかに顔を曇らせる。慈雨を思ってのことだろう。小野は、御雪の気持ちを慮るかのように、そっと横顔を見た。だが、そんな気持ちを吹っ切るように御雪は強い表情を向ける。
「小野、和尚に罠だって言ったらしいな」
 その瞳は、冷静に事件を解決する鬼追の責任に満ちている。小野は、そんな御雪の強さに胸が痛んだ。だが、それを気づかせないようにひとつ呼吸を置くと、小野は「ああ」と静かに答える。
「どうして罠だと?」
 小野の答えに、御雪は怜悧な瞳を細めた。
 ただの予測だけど、と小野は前置きして話し出す。
「玄関に、慈雨ちゃんの靴がなかったんだ。普通、攫われた人間に、丁寧に靴を履かせる奴なんていない。人間以外の者ならなおさらな」
「あの子が……慈雨が一人で結界の外に出たと?」
「たぶん、な。理由までは分からないけど。そして結界の外で怨≠ノ捕まり、術にはまった。そのあとに怨≠ヘ、わざとその結界の力が破られたように見せかけたんだ」
「結界が再び張られないように――和尚達に結界は役に立たないと思わせた」
 御雪が結論を引き継ぐ。その答えに小野はうなずくと、静かに付け加える。
「羅眼鬼たち魔界の住人を、人間界に呼び寄せるためにな」
 鬼門である横川の結界は、そのまま魔界封じの扉でもある。
 恨みや憎しみなどの強い思念である怨℃ゥ体では、何かを傷つけたり殺めたりすることはできない。だから人に取り憑いて人格を歪めたり、鬼を操ったりするのである。今回のことでも怨≠ェ巧みに魔界の鬼を利用している――そしてその為には、魔界を封じる結界が邪魔だったのだ。
「何にしても怨≠フ目的が分からないとな」
 そう言って小野は、河原に寝そべる。冷やりとした土の感触が背中に心地良い。小野の言葉に、御雪もうなずいた。
「何かの復活を望むような口ぶりだったが」
「復活ねぇ……怨≠ェ取り憑くことができるのはもっと精神の不安定な人間だ。子供とはいえ慈雨ちゃんみたいな強い力の子に降りることが出来るのは――」
「尊鬼王レベルの鬼か、もしくは神……」
「恐らく、その辺りだろうな。俺達を襲った怨≠ェ、そのまま慈雨ちゃんに憑くことはまずありえない」
 御雪は大きなため息をつく。
「何故、慈雨は結界の外になど……」
 御雪は口の前で手を組むと苦しそうに目を閉じた。それは、恐らく昨日から何度も、彼女の中で繰り返された言葉なのだろう。
 小野は寝転んだまま黙って、暮れゆく空を見ていた。
 慈雨のことを誰より心配しているのは、間違いなく御雪なのだと改めて思う。小野にはそれが分かるからこそ、慈雨に手を下すことができなかったのだ。なんとしても助けなきゃな、と思う。二人の間に、わずかな沈黙が流れた。
「この鬼のことだが」
 と、御雪は再び水晶の中で眠る鬼の子を覗き込んだ。
「半身である慈雨と離れて随分弱っている。水晶は時間を止める作用があるから、中にいる限り死ぬようなこともないだろうが、ずっと閉じ込めておくわけにもいかないだろう……だいたい、この手の鬼が単体で生きていけるものなのか?」
 御雪の言葉に、小野は身を起こしてその水晶を手に取る。水晶の中の鬼は、泣き疲れて眠ってしまっていた。
「今は何とも言えないな……降魔の鬼なんて俺も初めてだし。まぁ、とりあえず預かるよ」
「いや、もう私の手には戻さなくていい。慈雨を失った以上、その鬼が人間界にいてもつらいばかりだろう。小野から、魔界に返してやってくれないか」
「慈雨ちゃんを失うって……」
 御雪の言葉に、小野は戸惑う。答えを出すにはまだ早いだろう、と語る小野の目に御雪は、
「ハルに嫌われるのはこんなところなんだろうな」
 と薄く笑った。そして、降魔大師である自分の両手を見つめながら表情を厳しくする。
「私達はその身に鬼を宿す。精神を鬼と共有するということは、常に起こりうる鬼の暴走を、理性で押さえ続けるということだ。私達姉妹は、その強い精神力を得る為に、幼い頃から比叡山で世話になっている」
 だから自分は感情で動くことはできない。御雪の横顔はそう語っていた。
「ハルはきっと怒ったんじゃないよ」
 小野は、川面を見ながらそう言った。小野の言葉に、御雪は怪訝な顔をした。
「ハルは優秀な陰陽師だ。あの一族は千二百年もの間、人間の心の闇と戦ってきた。だから、誰よりも人の心に敏感なんだ。人の痛みや悲しみ、苦しみが手に取るように分かる」
 そこで小野は少し置いて、再び繰り返す。
「――隠していても、分かる」
 驚いたように顔を上げる御雪を、小野の真っ直ぐな目が捉えた。
「だからハルは怒ったんじゃない。御雪、お前が、お前の心が心配であいつは――でも上手く伝わらなくて……結局ケンカみたいになっちゃったけど」
 だいたいさ、とそこで小野は笑って続ける。
「ハルとは一番長いからよく分かるんだけど。あいつ女の子みたいな顔して結構――不器用で気が短い……職人気質の性格なんだよな」 
 小野の言葉に、御雪は目を閉じた。そして、ゆっくりと開けると自分の手を見た。
「……分からなくなる。慈雨に心を痛めることをためらうのは……私か鬼か。もはや人として生きてゆくことはできないのか」
「御雪」
「小野……私の中にいるのは鬼だけではない。もっと何か――大きな意識を感じるんだ」
 御雪は、その端正な眉をひそめる。
「私にはそれが……怖い。ときどき自分が何者かわからなくなる」
 その言葉を聞いて、小野は御雪が抱きつづけている不安を初めて知らされた気がした。鬼追の中でも己に厳しく、やるべきことを確信している印象しかなかったが――。
(そうだよな……)
 本当は、御雪の苦しみに触れることはできないのかもしれない。鬼追は、それぞれが唯一の存在である以上、背負う痛みもまたそれぞれだ。
 それでも。
 同じ鬼追として、一番近くにいる者として、小野には伝えなければならないことがあった。夕映えの赤が、鴨川を鮮やかに染め上げる。
 上手く言えないけど、と小野は言った。
「俺は御雪が好きだよ、鬼でも人でも。ハルだって、嫌いな人間に本気で怒る奴じゃない」
「小野……」
 御雪に、二人は思わず見詰め合ってしまう。だがすぐに、照れもあって吹き出した。笑いながら、小野はきっと伝わったなと思う。
「この鬼のことはとりあえず俺に任せてくれ。どちらにせよ、魔界には行かなくちゃ行けないし、尊鬼王に相談してみるよ。今回のことも報告しないと――俺の鬼追としての依頼主(クライアント)は、みんなと違うからな」
「尊鬼王が、今回の手から手を引けと言い出すことも?」
「それは問題ないと思う。人間界で鬼が暴れるのは、あの方も嫌がるからな。その原因を絶つのが、俺の仕事だし。基本的な目的は和尚達と変わらないさ」
 小野はそう言って、軽く笑う。
 そしてふいに御雪の肩に手を置いて言った。
「頑張ろうぜ、慈雨ちゃんがもう一度笑えるように」
 そうだな、と御雪はかみ締めるようにつぶやく。
 鴨川は、京都の夏の風物詩である『納涼床』目当ての客で、賑やかになりつつある。
 都は、ゆっくりと夜を迎えようとしていた。

 深夜。
 下弦の月を見上げながら、小野は一人清水坂に立つ。京都最大の観光名所である清水寺に程近く、昼間は観光客で賑やかなこの場所も丑三つ時にもなれば人影もない。
 そこからしばらく歩くと『篁堂』と呼ばれる御堂があり、かの有名な閻魔大王が安置されている。その隣に並んで鎮座している像がもう一体。この像のモデルの名は小野篁――小野のはるか昔の先祖である。
 小野の遠い祖父に当るこの人物は、朝廷の高級官吏として働きながら、肩書きは歌人。同時に魔界への出入りを許されていた唯一の人間であり、それだけか『閻魔庁第三の冥官』として尊鬼王に仕えたという、なかなかのツワモノである。
「こんばんは、じいちゃん。あなたの子供は元気に頑張ってます」
 小野は、篁の像に向かって手を合わせた。お墓参りでもあるまいし、たいした意味もないのだが、これは小野が魔界に降りるようになってからなんとなく始めた習慣である。
「まぁ、じいちゃんには全然かなわないけどね」
 そう言って軽く手を振ると、御堂の裏手にある小さな井戸へ向かう。一見、なんの変哲もないこの井戸だが、これこそが尊鬼王が小野篁のためにと開いた、人間界に存在するたったひとつの魔界への正式な入口であった。
 もちろん、誰でも入れるというわけではない。井戸そのものは一般の人でも見ることができるが、その井戸の闇の中には、人間界の物理理論を無視した巨大な空間が広がっており、それを捉えることができるのは小野の血を引く者だけだ。
 その中でもさらに、魔界へと続く階段を降りることが許されているのは、現代において小野鷹人だけなのである。
 小野はゆっくりと階段を降りていく。
 一歩ごとに人間界の空気が薄くなっていくのが分かる。かわりに、この世のものではないねっとりとした空気が小野を包む。生暖かい気圧の壁。柔らかな抵抗――。
 延々と続く螺旋状の階段の所々に鬼火が燈っている。熱を持たない不思議な炎は、青白く小野の足元を照らす。
 幼い頃、小野は父親から人の怨念というのは、鬼にとって麻薬のようなものだと教えられた。鬼はその魔に取り憑かれて己を失い、力を暴走させる。怨念に取り憑かれた人間はそんな鬼を取り込んで悪鬼となる。人と鬼――お互いは、それぞれの魂を見失い、虐殺を繰り返しながら破滅の道を突き進むしかないのだ。
 千年前の都で、そんな人と鬼の悲劇は後を絶たなかった。血族同士の権力争い、愛を待ちわびる女の情念、貧困の中で引き離される親子……愛と憎悪は混沌とした世界を覆い尽くし、怨念はいくらでも誕生した。
 ちょうどその頃、魔界の統一に成功したのが尊鬼王である。
 鬼の世界を正常に保つため、尊鬼王は諸悪の根源である人間界と隔離した。さらに閻魔大王として人の魂を管理し、少しでも人間から怨≠ェ生まれないように業の浄化の手助けを行ったのだ。
 その浄化の方法が少々荒っぽい分、魂の汚れた人間にとっては恐怖となり――これが後に、人間界でも語り継がれることとなる『地獄の閻魔大王』の誕生である――そしてそのシステムの構築に、人間界代表として力を貸したのが、小野篁、その人である。鬼とともに京都の平安を築くことが、篁の理想であった。
 だからこそ、悪鬼化した鬼(あるいは怨念化した人間)を退治し、京を守ったハル達陰陽師とは、鬼という存在の捉え方が異なる。小野家は常に、鬼の立場と人間の中間であることを位置付けられた。
 悪鬼から人間を守るとともに、人間の怨念からも鬼を守ること。尊鬼王から小野に与えられた鬼の力は、すべてはその為にある。
 御雪との会話に中で、クライアントが違うといっていたのはこのことだったのだ。
 小野は顔を上げる。
 無音だった世界に、かすかに人間達の叫びが聞こえてきた。子供の泣き声や女の悲鳴。男のうめき声など、耳を覆いたくなるような阿鼻叫喚は、歩みを進めるにつれだんだんと大きく響いてくる。魔界と人間界の隙間にさ迷う、成仏できない魂たちの叫びだ。
 偶然これを聞いてしまった者は、地獄絵図を思い浮かべたに違いない。
 小野も魔界に来たばかりの頃は、子供心に足にすくむおもいだが、慣れとは恐ろしいもので、今の小野には何の恐怖もない。
 やがて夕焼けのような朱色の光が小野を包んだ。魔界の中枢までもう少しだ。気が付くと階段は消えている。
 突然、光が量を増した。その明るさに、小野が思わず目を伏せた途端――。
「鷹人!」
 後ろから首筋に抱きつかれる。それは小野の腰ほどまでしかない子鬼であった。
「コラ、境界で遊ぶなって言われているだろ?」
 背中にぶら下がった子鬼を地面に降ろしながら、小野は注意する。
「鷹人を待ってたんだよ」
 拗ねたように口を尖らして、小野を見上げる。そして、
「ギオンマツリは無事すんだのか? 尊鬼王様が心配しておられるぞ」
 大人ぶって人間界のことを心配してみせる。そんな子鬼に、小野は笑って答えた。
「おかげ様で……それより、今日は別件で来たんだ。尊鬼王にお目通し願えるかな?」
 お目通しもなにも、小野が魔界に来て向かうのは尊鬼王の元以外ありえない。それでも子鬼は嬉しそうに「了解」と敬礼した。これはもちろん人間のマネだ。早く早くとせっつく子鬼に、半ば引っ張られるようにして、小野は尊鬼王の元へと向かう。
 城門には朱色の柱が天高くそびえ立つ。その遥か奥には、見上げても天井の見えない巨大な扉が見えた。その扉の向こうに座する偉大なる魂こそが、尊鬼王――すべての魂の管理者。地獄の閻魔大王である。
 見上げる空は、絵の具を溶かしたように常に色を変えて続ける。子鬼をそこで帰し、一人で城門を通る小野は、比叡山の和尚とはまた違う緊張を感じていた。それは、尊鬼王の信頼を失ってはいけないという使命感にも似た思いだ。
 扉は、小野が近づくと待っていたかのように地響きを立ててゆっくりと開いた。
「お久しぶりです、尊鬼王様」
 小野はそう言って、尊鬼王の前に跪いた。
 その威圧感。全体を把握するのは不可能だ。小野の目で像だけを追っても、顔までは正確に捉える事ができない。しかも大きいというだけではなく、全体を包み込む気≠フすべてが、如いてはこの魔界すべてが尊鬼王なのである。
「鷹人か……よう来た」
 はるか彼方の頭上から、深く包み込むように、大きな声だけが響く。
「羅眼の鬼どもが魔界から消えた。人間界で悪さをしておらねばよいが」
「お心遣い痛み入ります……うち2匹は比叡山に現れました。怨≠ノ憑かれたようで――なんとか無事に済みましたが、結局は鬼を殺めることに……」
「その為に授けた力じゃ、気に病むことはない」
 鬼たちを誰よりも愛している尊鬼王である。悪鬼となった鬼は殺されるという決まりは承知しているものの、羅眼鬼を失った悲しみは、深い憂いの声で分かった。
 どうしようもないとはいえ、小野が暗い気持ちのなるのはこんなときだ。
「しかし何故じゃ……何故、羅眼たちが人間界に」
 尊鬼王の声に、小野は瞳を上げた。
「そのことでご相談したいことが……」
 そして、比叡山の一件を事細かく話して聞かせる。
「その怨≠フ存在――時々感じることがある。そうか、あれは人間界のものだったか」
「怨≠、感じるのですか?」
 尊鬼王が、どんな風に怨≠感じ取っているのか、小野には想像もつかなかったが、尊鬼王の言葉は有力な手がかりになるはずだ。
「怨≠ニは、純化した思念じゃ。その思いがあまりに強い場合、わしの耳に聞こえることもある。場所まではわからなんだが……そうか人間界から聞こえていたとはのう」
「……怨≠ヘ何と?」
「悔しい寂しいとすべてを憎んでおる。だが、器を見つけたと――復活が成功すれば、この世の恨みを晴らせると」
「器!」
 小野は思わず声を上げた。慈雨のことだ。
「慈雨ちゃんを器に、何を&怺させようと?」
 その質問に、尊鬼王は唸った。
「どう表現してよいか分からん。神であって神でない者。善であり悪」
「神であって神でない者。善であり悪……」
 禅問答のようだ。小野は首をかしげた。尊鬼王も知らない神など――。
(日本古来の神々とは違うということか)
「あれはいかん……あまたの無縁仏を取り込んで巨大に膨れ上がっておる。まるで宇宙のチリを集めて星が出来るように――」
 そこまで言うと、尊鬼王は大きくため息をついた。
「人間界にいるとすれば、時間がないぞ。五山の送り火までに始末をつけないと、京に成仏できない魂達があふれかえり、出口を失った魂は怨念へと変わる。そうなれば鬼追の力だけでは封じきれぬ」
「五山の、送り火……」
 小野はつぶやいた。五山の送り火とは、大文字焼きとも呼ばれる京都の夏の恒例行事である。毎年大勢の観光客が集まるこのイベントも、祇園祭と同様、京都を魔から守る上で重要な意味があった。行われる日は8月16日――あと1ヶ月もない。
「とにかく探すしかあるまい」
 尊鬼王の言葉に、小野は頷くしかなかった。何としても探し出さなければ――。そしてもう一つ、小野には成し遂げたい望みがあった。
「先ほど話した、怨≠ノ囚われた少女のことですが……助ける方法はないですか?」
「不可能だ。一度壊れたものは戻らん」
 尊鬼王はきっぱりと言い切った。それは恐らく、小野を慮ってのことだ。予想されていた答えとはいえ、小野はさらに食い下がる。
「ですが、怨≠ノ憑かれたわけではないんです。復活を食い止めることができれば……」
「小野、そなたの哀しい顔を見るのは辛いが……あきらめろ。鬼も人も、一度怨≠ノ魅入られたら終わりだ。だからこそ我々は怨を恐れ、日々努力しているのではないか」
 返す言葉がなかった。分かっている。それは千年前から普遍の悲劇なのだ。だが絶望的な状況の中、それでも諦めきれずに小野は目を閉じる。御雪の哀しい決断を、ハルの勇気を、どうしても無駄にしたくはなかった。
「あるいは……」
 小野の様子に耐え切れず、尊鬼王は口を開いた。それは、不要な優しさなのかもしれない。不可能な望みに希望を託しても、無駄に傷が深まるだけだ。だが、諦めの悪い小野の、人間らしい魂の輝きに尊鬼王はどうしても弱いのだった。
 よいか期待はするな、と尊鬼王は言う。
「何度もいうが、その者は死ぬしかないだろう。だが、一瞬だけ意識を通わせることができるとすれば、それは身体から魂が離れるときだ。その者に強い意思がある場合だけ、正気に戻る場合がある」
「強い意思……?」
「生きていく者に伝えたい何か、だ」
 厳しい話だった。だが、それが現実なのだろう。慈雨が伝えたいこと――小野はふと顔を上げた。
「この水晶の鬼ですが」
 手の平に、御雪から預かった水晶をのせた。その水晶は、尊鬼王が近くで見るために、ゆっくりと空へと消えてく。
「これは珍しい……降魔の鬼とは」
 やかて声が降りてきた。
「囚われた少女の中で育った鬼です。もし伝えたいことがあれば何か知っているかと……弱っているように見えたので、水晶からは出さずに魔界へ連れてきました」
「やはり単体で生きていくには生命力が足りんか……」
「何か――言っていますか?」
「あまりに小さい声だが……小野にも聞こえるかの」
 耳を済ませて神経を集中する。鈴の音のようなかすかな声が響く。
〈……ごめんね……大切な……だから〉
 細かいところまでは聞き取れない。
「かすかに声がする程度ですが」
「一時的に気を入れることは可能だが、この鬼の命を救うのならそれは良い方法ではないだろう」
「その鬼の命を助けてください」
 小野は反射的に言った。そして尊鬼王を見上げて言う。
「そして――もう一つだけお願いが」
「何か考えがあってのことなのだろう? 小野の要望なら、答えねばなるまい」
 しかし小野の望みを聞いた尊鬼王はふうむ、と考え込んだ。
 小野はもう一度、尊鬼王に深く頭を下げた。

 慈雨がいなくなって、早くも二十日が経とうとしている。祇園祭も無事終わり、暦は七月から八月へと移った。小野達、高校生は俗に言う夏休み真っ最中である。本来は楽しいはずの夏休みなのだが――。
「あーあ」
 京都駅の喫茶店でストローを加えながら、皓矢が情けない声をだす。
「夏休みですぜ? こんなことでいいんですかい、旦那」
「なんだよ、急に」
 だれが旦那だ、という突っ込みは流して、小野は胡散臭そうに皓矢に視線を投げる。
「俺達のセーシュンは一度しかないってのに、海辺ではビキニが花咲かせてるというのに――」
 そこで皓矢は一呼吸置いて、力強く続ける。
「なーにが悲しくて野郎二人、喫茶店でだべってなきゃならないんだ?」
 皓矢の言いたいことは分かる――いや、それどころか共感したい部分も多いのだが。
 小野はため息とともに答える。
「仕方ないだろ? 慈雨ちゃんが消えてから二十日も経つのに、俺達は手がかりすらつかめないんだから」
 そうなのだ。あれから、怨≠ヘ不気味なほど静寂を保っていた。まるで、見つけ出してみろとでも言わんばかりに――おかげで小野達は連日、休日返上で慈雨の捜索にあたる羽目となっている。
「だからさ、そういうお膳立てぜーんぶハルんとこの陰陽師集団と、延暦寺の坊主達にまかせといてさぁー。俺らは鬼追専門の業務だけをやればいいんじゃないの」
 ダルそうにガラステーブルに突っ伏したまま、皓矢は言う。
「鬼追の専門業務?」
 そ、といって皓矢は西陣織の高価な鞘袋に包まれた日本刀を手にする。
「鬼を見つけて、切る――それだけだろ、俺たちの仕事は」
「ハルと御雪はそういうわけにもいかないだろ?」
 ハルは陰陽師の若き統率者として、怨≠ノついての調査と場所の特定を指揮している。その発生原因やゆかりの場所がわかれば、怨≠セけを成仏させることも可能だからだ。
 御雪はというと、和尚達とともに各地に点在する京都の結界の強化に勤めている。京都の魔≠ェ、他府県に出るということは前例のない未知数の恐怖だ。それだけは絶対に避けなければならなかった。
 そして、そんな表立った二の大きな動き以外をフォローするのが、小野と皓矢である。それは、慈雨の捜索に他ならなかった。
 ただ、怨≠ニともにいることが可能性としては高いので、結局はハルに手伝いとなる。ハルが、一条の晴明神社から離れられない分、足を使って動けるのはこの二人だけだ。
 今日も朝から京都の南、羅城門から伏見稲荷まで、妖しいところはすべて当ってみたが大した収穫はなく、仕方なく京都駅まで北上して一休みしている。
「怨≠フヤロウ、隠れるほどの劣勢じゃないはずなのに……嫌がらせとしか思えねぇぜ」
 皓矢の言葉に、小野も黙って同意する。
 展開の兆しのない状況に、小野だって愚痴りたい気持ちがないわけではないのだ。だが、慈雨の安否を思うと、居ても立ってもいられないというのもまた、本心である。
 そして小野の中には、もう一つの焦りがあった。
(ハル達が怨≠見つけ出す前に、慈雨ちゃんが結界から出た理由を見つけないと)
 その理由がわかれば、慈雨の残したい気持ち、強いては目覚めさせるきっかけになるかもしれない。
 御雪もあきらめ、尊鬼王も不可能だといわれた慈雨の救出を、まだ小野は真剣に考えていた。このまま怨≠ニ対決しても、比叡山と同じ事の繰り返しだ。それどころか、ハルは食い止めようとした悲劇は今度こそ起きてしまうだろう。
(せめて慈雨ちゃんの意識が戻れば……)
 慈雨の意識を取り戻すためにも、結界を出た理由を知りたかった。
「今回は慈雨ちゃんのこともあるし……普通の敵じゃないしな」
 小野の言葉に「慈雨ちゃんなぁ」と皓矢は背もたれに体重をかけて、天井を見上げる。
「小野、慈雨ちゃんが自分から出たって言ってたよな」
「うーん、まだはっきりとは言い切れないけど」
「いや、絶対そうだって。3ヶ月も一人で閉じ込められて平気なわけねぇじゃん」
「お前と一緒にすんな。慈雨ちゃんは我慢強い子だ」
「わかってねぇな、お前らは」
 そう言って、皓矢は小野に強い視線を投げる。皓矢は時々こんな風に、みんなから距離を置いて物を言うことがあった。
「そういう人間離れしたストイックさが落とし穴なんだぜ? 人間の行動なんて理性で片付くことばかりじゃなさ、追い詰められたらなおさらな」
 皓矢の言葉を聞きながら、小野は案外そうかも知れないと納得する。
 子供の頃からつらい思いをしてきたのは皓矢も同じだ。清和源氏の血筋を引く武将源頼光の子孫である皓矢は、本来ならば「源」という苗字でなければならない。だが、何千年の続く家系になかで、鬼追として力を受け継ぐには、源家はあまりにも有名すぎた。呪をかけられたり、命を狙われることも少なくなかったのだ。
 その防衛策として、力のある子供は離縁され、血のつながらない家に養子縁組という形で入る。それは血筋を守り鬼追の力を絶やさぬようと考えられた、苦肉の策なのであった。
 ハルも同じ理由で本来の土御門家から出されている。
 もともと小野家は鬼の加護があり、その必要はない。また、御雪達降魔大師≠ヘ血を選ばぬ存在なので関係なかった。だがハルは兎柳に、皓矢は高杉へと、それぞれ名を変えて親から離れて生きていくことを強制させられたのだ。
 ハルは同じ京都に肉親がおり、離縁とは形だけでよく会っていると聞く。受け入れた兎柳家もたいした資産家で、大切なご子息をお預かりするのだからとそれはもうVIP待遇である。
 だが、皓矢は違った。皓矢の本当の家族は東京にいる。京都の古い習慣を毛嫌いする親は、皓矢一人をまるで厄介者を切り捨てるかのように、京都の里親に預けたのだと言う。もちろん今も会いに来たりはしない。高杉家とは仲良くやっているみたいだが、高校に入ってすぐに皓矢は一人暮らしを願い出た。
 どうしてそうなったのかは小野も知らなかったが、皓矢が幼い頃から随分辛い思いをしたであろうことは分かる。
「きっと寂しかったんだろうな」
 誰が、ということもなく小野はつぶやいた。
「決まってんだろ? そんな慈雨ちゃんの気持ちも分からないで、なにが浄化だよ」
 まさか自分のことを思われているとは知らず、皓矢は勢い良く言いきった。そして、少し肩の力を抜くと、
「なんで分かってやれなかったんだよ……」
 と繰り返して、悔しそうに窓ガラス越しの街に目をやった。皓矢なりに、慈雨を救えなかったことに苛立ちを感じているのだ。
 だが、湿っぽいのが嫌いな皓矢はすぐに空気を切り替える。
「ま、さすがの俺様も、あの慈雨ちゃんが寂しい≠チてだけで結界を出たとは思えないけどさー」
「大きな要因のひとつってとこか」
「そーいうこと! だから悪いのはあの和尚というわけよ? あのヤロウ、助けてやった俺達にエラそうに説教たれやがって! 一度、鬼に食われろってんだ」
「お前、結局それが言いたかったんだな」
 比叡山での一件を、まだ恨んでいるのだ。とばっちりを食らったのは小野の方なのだが。
「こんなとこで何やってんの?」
 そんな二人の会話に、突然入ってきた声があった。
「エリカさん!」
 皓矢が嬉しそうな声を上げる。見上げると、女子大生風のかなりの美人が立っていた。
「コウが女連れじゃないなんて、珍しいわね」
 ずいぶんストレートな挨拶である。その言葉に、皓矢はガーンと大袈裟にのけぞった。
「なーんてひどいことを! それはエリカさんが相手してくれないからだろー?」
「下手な嘘」
 ねぇ、と肩をすくめてエリカは小野に同意を求める。
「ですね」
 小野も正直に答える。
「フォローしろよ、小野! 友達だろ?」
「お前のフォローはしないことに決めたんだよ。延暦寺の修行の成果だ」
「賢明な判断ね、君。コンパでこいつの同類って思われたら最後よ」
 情け容赦のない二人に、皓矢は一人固まった。ひどい、とテーブルに泣き崩れる。
「まったく、子供なんだから」
 呆れてエリカが言った。
「……その少年っぽさにキュンとなったりしない?」
 テーブルに顔を埋めたまま、皓矢のくぐもった声が聞こえる。
「しない」
 即答である。「じゃあ私、買い物の途中だから」と席を離れようするエリカに、
「ああ、待って! これ」
 と、皓矢はテーブルに往けてあった花を紙ナプキンに包むと、即席のミニ花束を作る。そして、営業スマイルよろしくニッコリと微笑んで、エリカに渡した。
「?」
「誕生日だろ? 来週の水曜日」
「……あんたよく覚えてるわねー」
「あったりまえじゃん! 俺はエリカさんのことを」
「誕生日か……!」
 突然、小野が大きな声を出した。
「な、なんだよ急に」
 皓矢が気持ち悪そうに小野を見る。
「あ、ごめん。俺ちょっとハルんとこに行ってくる。皓矢、携帯つながるようにしとけよ!」
 小野はそう言って席を立った。
 そしてお愛想程度にエリカに微笑むと、
「テキトーに相手してやっててくださいね」
 と言い残して店を出る。同時に、ハルに連絡を取ろうと携帯の手を伸ばす――その手がふと止まった。
(そっか……ハルは晴明神社で術を使っているんだった)
 ハルは、他の陰陽師達と、一条橋のたもとにある晴明神社に篭もり、怨≠フ行方を追っている。その術は磁場を使うため、携帯は使用できないのだ。
「直接行くしかないか」
 小野は一人そうつぶやくと、夏の暑い日ざしを見上げた。

 堀川通りを北上して、二条城を越えたら晴明神社までもうすぐだ。だが小野の予想に反して、そのずっと手前の丸太町の交差点から、走ってきたハルと合流した。
「小野の気≠ェ近くにあったから、携帯鳴らすより早いかなって思って」
 息を切らせながら、ハルが言った。
「なんか動きがあったのか?」
「そうなんだ。慈雨ちゃんと怨≠フ居所がわかった」
 ハルの言葉に、小野は顔を上げた。
「どこに?」
「神社に車をつけてあるから、中で話すよ。とにかく現場に!」
 やたら高級そうな黒ベンツに乗り込んで――もちろん兎柳家の所有物だ――小野は皓矢に連絡を入れ、京都駅で拾うことを伝えた。隣ではハルが御雪の携帯を鳴らしている。
「うん、和尚達は近付かない方がいい。こっちも一足先に向かった陰陽師達に、結界を張ったらすぐに戻るように指示してあるんだ。怨≠フいる社の状態がどうなっているのか詳しく掴めない――鬼追以外には危険すぎるよ」
 ハルはそう言うと、詳しい場所を伝えている。どうやら御雪は、バイクで直接向かうようだった。ハルの口調がいつもより固いのは、緊張のせいと――あとは御雪との確執だろう。恐らく、御雪は慈雨の安否を口にはしていないのだ。
 小野は、ハルに電話を代わるように合図する。
「御雪、慈雨ちゃんの意識を戻せるかもしれない」
 いきなりそう切り出した。受話器の向こう、御雪が息を飲むのが分かる。
「詳しい話は合流してからな。とりあえずお前に知らせたくてさ」
「――分かった。私は直接バイクで向かうから現場で会おう」
 小野、と携帯越しに御雪の声がする。少しの沈黙があって。
「感謝している」
 どういたしまして、とだけ小野は答えた。
「慈雨ちゃん、助けられそうなの?」
 電話を切るとすぐ、ハルがそうたずねてくる。その問いに小野は少し顔をしかめた。
「尊鬼王には、かなり厳しいこと言われたんだけど……」
「そっか……そうだよね」
 ハルの顔が曇る。怨≠ニ関わった人間の行く末は、ハルも十分理解しているはずだ。
「正気を取り戻せる可能性はある。慈雨ちゃんが一番望んでいたことを思い出せばいいんだ。そして、それこそが慈雨ちゃんが結界を出た理由なんだと思う」
「理由が――分かったの?」
 ハルが大きな瞳をついと上げた。小野は少しためらう。
「あの日は御雪の誕生日だったんだ。慈雨ちゃん、きっとそれで……」
「そうだったんだ……」
 車のシートに身を沈めながら、ハルは泣きそうな顔をしている。心根がやさしいのだ。
「ハルの方は? 怨≠フ正体が分かったのか?」
 うん、と頷いてハルは顔を上げた。
「怨≠ヘもともと兵庫県との境にある村に祭られていた土地神だったんだ。ところが、今から二十年も前にダムの建設で村は沈み、そこにあった社は京都に移された」
「待てよ、何で土地神が京都に?」
 そこで小野が口を挟んだ。土地神とは、その名の通りその土地に住む守り神である。なんのゆかりもない京都に社を移すなんて、筋違いもいいところだ。
「きっと社の処分に困った建設業者の人間が、表面上だけでも取り繕おうとしたんだろう。神抜きの儀式もせずに、勝手に新しい社を作ってご神体を置いた。それも、よりによって京都に――」
「馬鹿な、そんなことしたら」
「そうなんだ。違う土地の神様を崇める人々がいるはずもなく……その社は間もなく廃れた。神の力の源は人々の信仰心だ。普通、それを失えばただ消えていくしかない。そのことを恨んだ土地神はやがて、その身を怨≠ワで貶め、消えていくことを拒否した――皮肉にも京都が持つ霊力が作用したんだ。そして怨≠ヘ行動を起こした。すべてはこの世への復讐の為に――」
 なんてことだ。小野はおもわず目を閉じる。建設業者の人間の行った何気ない行動――親切心ですらあったのかもしれない――がこの悲劇を招いた。結果的に怨≠ヘ生まれ、慈雨はその幼い命を奪われようとしている。
 小野は、ハルを見た。
「だが怨≠ノ成り果てたとはいえ、土地神だけでは復讐するほどの力はないだろ? 何かきっかけがあったはず」
「それが奴の言っていた、復活だ」
「復活させる何か≠ノ 己の恨みを託したってことか……」
 僕が分かったのはここまでだよ、とハルは申し訳なさそうにため息をついた。
「上等だよ、あとは現場で吐かせればいい。大丈夫」
 そう言って、小野はうなだれたハルの頭に手を乗せた。怨≠フ狙いは見えてきたものの、その復活する何かの力は未知数だ。怖くない、といえば嘘になる。だが。
 慈雨の失踪、尊鬼王の忠告、そして怨≠フ正体――何かが像を結び始めている。
「大丈夫だ」
 と、小野は自分に言い聞かせるようにもう一度言った。