鬼哭の天蓋 3
作:草渡てぃあら





 京都市の北の外れである貴船や鞍馬の辺りは昔、鬼の国――すなわち魔界と繋がっていた。
 千年前、尊鬼王の命令によりその道が閉ざされてからも、人々はこの土地を神聖な場所として大切にしている。
 そのせいか市内からさほど遠くないこの辺りでも、人通りは極端に減るのだ。
(京極辺りに比べて、やはりこちらの方が落ち着くな……)
 紅牙はそう思ってため息をついた。
 決して人が嫌いなわけではないのだが、ここ百年の間に、京都にはいささか人が増えすぎたように感じる。
 おっとりとした時間が流れていた頃の都を懐かしく思い出す。しかし。
「すべては昔――移ろわぬ世はないか」
 北山杉の清らかな香りを胸に感じながら、紅牙はひとり、暗い山道を登っている。
 誰かが見たら、心配で声を掛けるかもしれない。中学生ほどの少女が、一人で山奥へと入っていこうとしているのだから――。
 だが外見がどうであれ、紅牙にとってはよく知った道だ。何も恐れるものはない。
 「……」
 紅牙はふと歩みを止め、顔を上げた。
 緩いカーブを描く道の外れ、山の中に何かがいる。暗闇の中に、大きな塊が見えた。
 獣や人間でないことは、気配ですぐに分かった。
 ガサリ。
 音を立てて、それは立ち上がった。巨大な影――。
 「まさか」
 緊張で胸が高鳴った。
 こんなこと、百年間で一度もなかったことだ。
 まさか、まさか鬼がこの辺りに出るなど。
「待たせたな、紅牙」
 巨大な影はそう言った。
「何奴!」
 紅牙は叫んだ。途端、空気が歪む。不快な気圧の変化に、紅牙は顔をしかめた。
 闇の鬼が近づいてくる。ゆっくりと、だが確実に。
 紅牙は動けなかった。鬼の姿を見て、呆然と立ちすくむ。
「貴様は……羅眼鬼!」
 小野が比叡山で倒したといっていた鬼だ。まさかまだ、人間界に生き残りがいたとは。
 しかも操られているわけではないらしい。しっかりと開かれた瞳は、真っ直ぐに紅牙を見下ろしていた。
「いかにも我は羅眼の鬼。凶暴であるがゆえに、尊鬼王から意識を奪われた哀れな一族の末裔だ」
 背筋の凍るような笑いとともに、羅眼鬼はそう告げる。
「紅牙、お前を迎えに来た。あとわずかで人間界は終わる」
「……!」
「千年もの間、鬼の力を取り上げられ人間界にひとり残されたお前は、さぞ辛かったであろうな。だがもう我慢せずとも良いのだ。新しい神のもと、我々鬼がこの世界をも支配するのだ」 
「新しい、神……だと」
「愚かな人間どもが生み出した怨≠ェ教えてくれた。我々の世界が始まるのだ」
 紅牙は息を飲んだ。羅眼鬼の言葉はあまりにも唐突で、どれも信じることができない。だが。 
 その内容は、小野が教えてくれた話と奇妙に一致しているのだ。 
(一体、何が……何が人間界で何が起ころうとしているのだ)
 さぁ、と差し出された羅眼鬼の大きな手に、紅牙は反射的に身を引いていた。 
「義理堅いことだ。小野の一族との約束を守ろうというのか?」
「……如いては尊鬼王との約束だ」
 紅牙の返事に、羅眼鬼は顔を歪めた。
「あの方の時代は終わる……人間など滅びるべきなのだ」
「勝手なことを……!」
 しかし、紅牙はそれ以上の言葉を発することが出来なかった。
 羅眼鬼が紅牙の首を持ち上げたのだ。
 小さな紅牙の身体は、いとも簡単に中に浮いた。今の紅牙には鬼の力もない。
「……っ……!」
 苦しさで、視界が涙に歪む。それでも紅牙は、羅眼鬼から目を逸らさなかった。
「小野篁(おののたかむら)――千年もの間、お前をひとり人間界に置き去りにした人間だ」
 間近にある羅眼鬼の口元から、鋭い牙が見えた。
「憎かろう? 人間界を守れと命じておいて、自分は勝手に魂を手放した。たかが千年も生きられず何が第二の冥官、何が尊鬼王の右腕だ」
 朦朧とする意識の中で、紅牙は、かの人のことを思い出していた。
 遥か昔、ともに京の都を守った人――豪快な笑顔。優しい手。
 魂の管理者である尊鬼王からの不老不死の申し出を断り、人間として死を選んだ人。
 小野篁。それは。
 その名は――。
「私の、愛した人間の名だ……」
 苦しみに息を詰まらせながら、それでも紅牙はきっぱりとそう言った。
 羅眼鬼の表情が険しくなる。愚かな、という声が聞こえた。
「人間なんぞに仕えよって……我々、鬼を愚弄しておるのか!」
「貴様こそ、何も分かって、いない。尊鬼王のお心を……鬼と人間の成り立ちを……っ…くっ!」
「もうよいわ。鬼ですらなくなったお前は」
 紅牙の華奢な首に、羅眼鬼の鋭い爪が食い込む。 
「死ぬがよい」 
 紅牙は目を閉じた。痛みよりも深い悲しみを感じていた。
 こんな風に終わってしまうのか。自分の魂は、自分の想いは――もう。
(……小野……)
 不思議なことに、最後に思い出したのは小野篁ではなく、現代の小野一族、鷹人の無邪気な笑顔だった。
 紅牙の頬に一筋の涙が流れる。
 ――刹那。
「グゥァァァァッ!」
 耳を劈くような叫び声が、紅牙を襲った。
 身体が浮くような奇妙な感覚がする。瞳を開けた紅牙は、羅眼鬼が真っ二つに割れてゆくのを見た。
 思考の止まった紅牙の身体が、ゆっくりと落ちていく。地面に叩きつけられるはずの身体は今、大きな力で支えられた。
「救えてよかった……私はかけがえのない者を失うところであった」
 姿は見えない。だが、限りない魂を感じることができた。絶対的な存在感。すべてを超越する鬼力。
「尊鬼王……様?」
「よくぞ耐えてくれた。紅牙には辛い思いばかりさせておるのに」
 そんなことっ、と紅牙は叫ぼうとして、喉の痛みに咳き込んだ。
 尊鬼王の悲しみに比べれば、自分など……!
 絶命した羅眼鬼の身体が闇に溶けていく。同時に、どこからともなく白檀の香りが立ち込める。尊鬼王のせめてもの供養なのだろう。
「羅眼鬼の苦しみもよく分かる。人間界と我らが共存するために、私が選んだ道は……結局、この者達を苦しめるだけだったのか」
 愛する存在を手にかけねばならぬ悲しみが、痛いほど伝わってくる。紅牙は息を整えてゆっくりと言った。
「尊鬼王様、私は尊鬼王様の選ばれた道を信じます。人間と鬼は必ず共に生きていけます」
「その言葉、深く受け止めよう。だが今、我らの及ばぬところで人間界が大きく変わろうとしている」
「……!」
 紅牙は瞳を上げた。先ほどの羅眼鬼の言葉は、嘘ではなかったのだ。
「今、小野達が――例の社(やしろ)を調べに行っています。助けに向かった方が良いでしょうか……!」
 紅牙の言葉に、しかし尊鬼王は沈黙で答えた。
「我ら鬼の力では、あの復活は止められん。今はただ、見守るしかないのだ」
 そんな馬鹿な。
 紅牙は唖然とした。鬼の力で止められぬことが、人間だけで解決できるのか。
 それと同時にもうひとつ疑問が湧いた。助けられぬという尊鬼王が何故、わざわざ人間界に?
「……尊鬼王様?」  
 紅牙はその時になって初めて、こちらを見ている小さな女の子の存在に気がついた。


 それは、ごくありふれた小さな社(やしろ)だった。形式だけで簡単に作られたことがすぐ分かるような安物で、使用されている木や金具はまだ新しいが、それが返って空虚な感じを与えている。
 この場所には一番大切な信仰≠ェない。外見の傷みこそないが、それはすでにうち捨てられ、朽ち果てた社だった。
「げ、何だよこれ? 気持ち悪ぃー」
 皓矢が閉ざされたままの社の扉を指差して、嫌な顔をする。
 その部分を見ると、何かが無理に抜け出たような五十センチ程の穴がぽっかりと口を開けている。木造であるにも関わらず、溶接でもしたような不自然な空き方だ。
 ――木が、溶ける?
 小野が眉をひそめる。こんな現象は決して起こり得ない。人間界では。
(――いるな)
 鋭く視線を上げて、その扉を見る。小野はその奥に異界を感じていた。そこには 怨≠ェいる。それから、慈雨も一緒だ。
「それにしても、この奥の空間は一体何?」
 御雪が覗き込みながら、ハルに尋ねた。
「魔界と人間界の境のような空間になっている。けど魔界の要素がある以上、僕と皓矢は入ることができないんだ」
「?」
「これ以上立ち入るには鬼の力がいる。つまり鬼の加護を得た小野と、その身に鬼を宿した御雪さんのみ……」
 そこでハルは一旦言葉を切り、慎重に付け加えた。
「気をつけて。怨≠ヘこの空間に身を潜めることにより、何かを選んでいる気がするんだ」
「選ぶ?」
「最初に会ったとき怨≠ヘ、鬼追の力を欲しがった。怨≠ノとってに鬼追の力など、どう考えても無意味だ」
「……私達の力が復活≠ノ関わるということか」
 御雪の言葉に、ハルが黙って頷く。そして社から少し下がって両手を広げた。
「ここには二つの結界が張り巡らされている。先ほど、仲間の陰陽師達の作らせた社全体を包む結界、そしてこの社の内側にある怨≠ェ張った異世界の結界――この二つの間に、今から僕が第三の結界を作り、社の扉を開く。そして怨≠フ成仏する昇道を創るんだ。小野と御雪さんはそこに怨≠追い込んで欲しい」
「了解」
「おい大丈夫かよ、二人だけで? 俺と蓮華丸のスーパーテクが必要なんじゃないの?」
 ハルの計画に、皓矢は宝刀蓮華丸を軽く鳴らした。皓矢しか操れない蓮華丸は、鬼や怨霊を斬ることができる唯一の日本刀だ。
「皓矢には別の仕事がある。社の結界は内部の者を外に出さないだけで、外部からの進入防げない。だが、この扉の結界を破ると怨≠ノ引き寄せられた鬼や怨霊たちが襲ってくるはずだ。それを退治するのが皓矢の役目」
「俺一人で?」
 きょとんとして、皓矢は自分の鼻のあたりを指差した。皓矢はすでに嫌な予感を察知していた。
「……で、どれくらいいらっしゃる予定なんだよ?」
「少なくとも数百は……」
 大真面目に答えたハルに、皓矢がずっこける。
「ばか……いくら俺様が最強ヒーローだとしても! んなもん、全部退治できるわきゃねぇーだろ!」
「社の中も、力関係でいうと十分無謀だよ。皓矢には僕の式神を預けるから、協力してなんとか持ち堪えて欲しい」
 ハルはそう言ってあっさり皓矢を切り捨てると、小野と御雪に向き直った。
「あ……こらっ、ハル!」
 慌てて反論しようとするが、すでにハルの気持ちは小野と御雪に向けられていた。
「ごめんね。その一番重要な復活する者≠フ正体が、見当もつかないんだ。僕達の実力を遥かに超えた存在である可能性だって――高い」
 ハルの言葉に、小野は尊鬼王の言葉を思い出す。
「神であって神でない。善でも悪でもない者……」
「小野?」
「尊鬼王の言葉だ――行くしかないよな、何が出てこようがさ」
 小野の言葉に、図らずも4人は同時に、扉の奥を見つめる。
「終わらせよう」
 御雪が小さく、しかし力強くつぶやいた。

 
 社の向こうは、奇妙な空間が支配していた。ムッするような熱気と背筋を凍らせるような冷気が渦巻いている。光と闇は不完全に融合し、闇の濃淡が不自然な明るさを生み出していた。
『くくく』
 小野と御雪の進入を待っていたかのように、怨≠フ声が響いた。その声は幾重にも反響し、まるで怨≠フ体内にでもいるような不快感が全体を包む。
 見えざる声に、二人はそれぞれ身構えた。
『歓迎するぞ。鬼を宿す者――人間ではない者たちよ』
「怨! どこだっ!」 
 威勢良く小野が叫ぶ。相手の手の内での戦闘は圧倒的に不利だ。せめて気持ちだけでも負けずにいなければ。
『慌てるな……鬼追よ、その真の姿を拝見させていただく』
 ――!!
 怨≠フ言葉を合図に、足元がぐらりと揺れた。防御姿勢を崩さぬまま、視線を走らせた二人の先に――。
「御雪……あれ!」
 小野は息をのんだ。地面から数百体もの土人形が、ゴボゴボと不気味な音をさせてわいて来たのだ。ちょうど成人男子ぐらいの大きさである。よくみると片腕が無かったり、左右の目の位置が違っていたりと、無理に人間に似せてある分余計に気持ち悪い。
 土人形達は、恐怖感が欠落しているのかうつろな眼差しのまま、小野と御雪に向かってくる。これは鬼ではない。ただの人形だ。恐らく怨≠ノ操られる為だけに生み出された存在――強度も戦闘能力も比較的低く、本来なら小野や御雪の相手ではない。だが。
「小野、気をつけろ。後ろに羅眼鬼達がいる……」
 御雪が耳元でつぶやくと、顎でその方向を示した。闇の中で、ひときわ巨大な身体が数体浮かび上がっている。
「鬼退治は俺が受け持つよ。御雪は怨≠ニ慈雨ちゃんの居場所を」
「分かった」
 身体を寄せて素早く打ち合わせる。いずれにせよ、と御雪は静かに言う。
「あの雑魚どもを片付けないと」
 小野は大きく頷くと目を閉じて気≠高める。身体に鬼の力がみなぎっていくのが分かった。両手に集められたエネルギーは風を生み、小野の髪を煽る。
「!」
 カッと開かれた瞳。同時に土人形に向かって走り出す。間髪いれず、御雪も駆け出した。一面を埋めるほどの土人形が、波のように大きく揺れる。
「行くぜ!」
 小野の放った鬼力が、赤い閃光となって土人形達を崩した。御雪は完全な肉弾戦だ。降魔を主とする御雪の能力は、強大な鬼の存在自体をその身体に宿す。それは御雪の体力と精神に大きく負担をかけるのだ。その点で、小野とは違い、御雪に長時間の戦闘は不可能だった。
 だが怨≠フ作った土人形など、日頃から比叡山で鍛えている御雪の敵ではない。手際よく鮮やかに倒していく。
 その様子をちらりとみると小野は、両手に宿る赤いオーラを一本の長い刀に変化させる。そして自分の目の前で斜めにかざすと、群がる土人形に向かって叫んだ。
「かかってきやがれっ!」
 誘われるように群がってきた土人形達五、六体を一気になぎ払う。そのまま小野は身体を反転させ、振り向きざまに背後の敵の胴体部分を切りつけた。吹っ飛ばされた人形は、後ろに控えていた仲間を巻き込んでガラガラの崩れる。
 小野はさらに切り込んでいく。怒涛のごとく勢いに乗る小野に――。
 ふと影が落ちた。見上げるより早く、小野の背中に悪寒が走る。
「――っ!」
 瞬間。わずかの差で小野は避ける。数センチ横で、羅眼鬼の拳が突き刺さっていた。
(鬼の力……尊鬼王の力……)
 小野の頭に中に、羅眼鬼の声が響く。驚いて顔を上げると、そこには目を見開いた羅眼鬼の姿があった。比叡山のときに出会った羅眼鬼とは格が違う。
「お前……意識が?」
 怨≠ノ操られているのではないのか? 小野は息を飲む。羅眼鬼が自ら怨≠ノ協力するなどあり得ない話だ。
「尊鬼王に――逆らおうというのか?」
 小野の言葉に、羅眼鬼は不気味に顔をゆがませる。笑っているのだ。
(人に媚び、欲望を抑えて生きるのはうんざりだ……我々は新しい神を見つけた)
「新しい神だと?」
「小野!」
 その時、少し離れた場所で御雪の声がした。小野のすぐ後ろに、何十体もの土人形が迫っていた。逃げ場が塞がれる。小野は目前に迫った羅眼鬼を見上げた。
「勝手なことを言うな! 尊鬼王は鬼達のためにどれほど心を砕いているか、お前! 知ってのことか!」
 状況的に悪化していることは承知しながらも、小野は思わず声を荒げる。
(心を砕いているのは人間に対してであろう……あの下らぬ生き物のために……!)
 そう吐き捨てると、羅眼鬼は小野に向かって拳を振り上げた。
 ――早い!
 目を開いた羅眼鬼の動きは、まるで別の鬼だ。
 不意を突いた攻撃ではない分、間合い的には避けられたはずだった。だが、身を引いた背後には土人形が控えていた。
 ――っ!
 逃げ場を失って避け損ねた小野の肩に、羅眼鬼の拳がかする。それだけで耐えがたい痛みが身体を貫いた。思わず動きの止まった小野に羅眼鬼は間髪いれず、腹部を蹴り上げる。
 鳩尾に激痛が走る。一瞬、息ができなくなった。地面に屈した小野は、牙を向く痛みに耐えながら、グッと己の拳を固める。
 小野は自分のことを決して強いとは思っていない。己の力の及ばない敵などざらにいるし、今の自分にそれらすべてを倒せる力があるとは思わない。思わないのだが――。
(……尊鬼王の敵だけにはっ!)
「負けるわけにはいかないんだよっ!」
 肩の痛みに耐え、強引に引き上げた小野の左手から赤い閃光が迸る。羅眼鬼が怯んだ。
 小野は素早く身を起こすと、逆の右手に構えた刀で羅眼鬼の脇腹を切り捨てる。
「ぐぁぁぁっ!」
 強烈な一閃に、羅眼鬼の身体は真っ二つに裂ける。地面を揺るがす断末魔が響いた。
 その声に、少し離れたところにいた別の羅眼鬼が反応する。
(きっつー……)
 痛む腹部を抑えながら、小野は羅眼鬼との距離を作る。体勢を立て直しながら攻撃の機会を窺うつもりだった。
「!」
 ふいに一匹の土人形が駈け寄り、小野の腕を掴む。予想外の敵に大きくバランスが崩れた。それに呼応するかのように、土人形達は次々と小野に群がった。
「……っの雑魚がっ」
 小野の身体が、紅のオーラに包まれる。小野の鬼力とて無限ではない。
 まだ数体はいる羅眼鬼との戦闘を前に、無駄な力の消費は避けたがったが、それは状況が許さないようだ。
 だが次に瞬間――小野の肩にかかった土人形の手が砕け散った。
 気が付くと隣には、駆けつけた御雪がいる。
「小野、下がってろ」
 御雪は素早くそう言うと、わざと土人形の山の前に、無防備に立ちふさがる。
 もちろん、敵はそんな御雪を放っておく訳がなかった。誘われるように、土人形が一気に襲いかかる。その数数十匹――御雪の身体はあっという間に見えなくなった。
 だが、次の瞬間。
「降魔! 刹那月」
 御雪の凛とした声が響く。
 落雷のような激しい光が、中央に突き刺さった。群がった土人形が一斉に砕け散る。
 崩れ去った敵の山の真中に。
 鬼がいた。
 すらりと均整のとれた身体に、腰あたりまでの長い銀髪が流れる。頭には、天を貫く高貴な角。
 それはもはや人ではない姿だが、その毅然としたオーラはまさに御雪である。
 御雪に降臨した刹那月は、土人形の群像に手をかざした。それだけで十分だった。手の平から放たれた青く輝く光は、はるか遠くの土人形までもを、一瞬にして消滅させていく。
(つ、強ぇー……)
 思わず肩の痛みも忘れて、小野はその様子に魅入ってしまう。
 一掃、という言葉がふさわしい。あとには役に立たない数体の土人形と羅眼鬼が三体残るばかりだった。その後ろに控えている透明なゼリー状の物体は――。
『刹那月――その姿を待っていた! もうすぐだ……あと少しであの方の封印が解かれる』
「怨=I」
 刹那月の姿を宿した御雪が叫ぶ。
『……刹那月を捕らえろ……』
 かみ締めるように低くつぶやく怨≠フ言葉に、ゆっくりと羅眼鬼が動いた。
(狙いは、御雪? ……だとしたら)
 小野はわざと怨≠ゥら離れた場所にポジションをうつす。そこから怨≠目掛けて鬼力を放った。その攻撃自体は、あっさりと怨≠ノ避けられたが、否応無く、羅眼鬼のうちの2体が小野に向かってくることとなる。
「今のうちに!」
 小野の言葉に、御雪は頷くと怨≠ノ強い眼差しを向けた。怨≠ニ刹那月の間の空気が揺れる。突如――怨≠フ傍で控える羅眼鬼が、刹那月に飛びかかった。
 刹那月は、その拳を正面から受け止める。
 バチッという電撃にも似た気の衝突が起こった。間髪入れずに刹那月の痛烈な足払いが飛ぶ。まともに食らった羅眼鬼はもんどりうって倒れるが、すぐに起き上がると怒りの咆哮を上げた。
 小野は御雪の方をちらりと見ると、大きく息を吸い込んだ。
 目の前には二匹の羅眼鬼が立ちはだかる。どうやら、御雪を心配している余裕はないようだ。小野は鬼力を刀に変化させ、両刀で臨む。
「ケリをつけようぜ……あの世で尊鬼王に悔いるがいい!」
 小野の言葉に、羅眼鬼は嬉しそうに牙を向いた。
 
 
 刹那月の強烈な蹴りに、羅眼鬼は吹っ飛んだ。
 その軌道上に血がしぶく。
 重低音とともに、羅眼鬼はあお向けに倒れこんだ。それが致命的な一撃であったことは、ドクドクと流れ出る血で分かる。それから、二度ほど巨体を痙攣させると、羅眼鬼は動かなくなった。
 それを見届けると、刹那月は最後の敵に振り返る。
「怨=I」
 まさに鬼の形相で、刹那月が怨≠にらみつけた。
『やるな……褒美だ、お前の望むものをお目にかけよう』
 さほど焦りもしない、怨≠フ声がする。刹那月のすぐ横で、ドサッと何かが落ちる音がした。その小さな身体。見覚えのある花の髪留と艶やかな黒い髪――。
「慈雨……!」
 御雪は思わず慈雨を抱き寄せる。怨≠フ含み笑いが、空間を揺らす。策は成った。
 御雪が慈雨に気を取られた一瞬――。
 死に絶えたはずの鬼が動いた。怨≠ェ取り憑いたのだ。
「御雪!」
 危ない、という小野の警告は間に合わなかった。小野はすでに二匹の鬼を倒していた。
 だが、小野の体力も限界に近い。焦るばかりの気持ちに反して、身体は鉛のように重かった。
 甦った羅眼鬼は、刹那月の頭を鷲掴みにする。
 『動くな! この鬼追の頭を握りつぶすぞ』
 小野の反応よりも先に、怨≠フ声が飛ぶ。
「くっ!」
 動けない小野は、視線だけを御雪に走らせる。頭を掴まれた御雪は、すでにぐったりしていた。
 意識がないのか抵抗もしない。御雪の小さな顔に、ギリリと羅眼鬼の爪が食い込んだ。
『さあ、そのお姿をお見せください……』
 怨≠フ声が響く。
 その奇妙な行動に小野は眉を寄せた。
(どういうことだ……?)
 嫌な胸騒ぎがした。
 怨≠ヘ今、確かに刹那月に向かってそう言ったのだ。
「なんだよ……お前らのいう神って……一体……」
 突如。
 御雪の体が光を放った。その光はものすごい勢いで御雪を包み込み、さらに圧倒的な輝きで空間を支配していく。小野はまぶしさの中で、必死に様子を探ろうと目を細めた。
『おお! そのお姿は間違いなく!』
 羅眼鬼の姿を借りた怨≠ゥら、歓喜の声が上がる。
 視線の先には、すでに怨≠フ手から離れた御雪が立っていた。その姿は刹那月から御雪へと戻っている。だが。
「――!」
 小野は息を飲んだ。人間の御雪ではなかった。
 寒気がするほど美しい。それはもはや人間ではありえない美しさ――無表情の御雪の背中から、ふわりと何かが浮かび上がる。
 純白の大きな翼が4対。正視するのを躊躇うような神々しさだった。
『お待ちしておりました……』
 怨≠ェ、恍惚の表情でゆっくりとその名を呼ぶ。
『堕天使――ルシファー様』
 その言葉に小野は驚愕する。まさか御雪の身体の中に、こんな霊魂が眠っていたとは。
 小野も詳しいことは分からないが、ルシファーといえば確かキリスト系の最高天使だ。
 日本古来の神々と違って絶対唯一である神に逆らい、今は地獄に囚われていると聞いていたが――。
「愚かな……何ゆえに我を呼び出した?」
 御雪の身体を借りて、ルシファーが口を開く。
『その鬼追から貴方様を解放し、貴方様を神と崇めるため――どうぞこの少女の器に御降臨ください』
 怨≠フ言葉は興奮に震えていた。
 小野は愕然とする。人間界を滅ぼす力――尊鬼王の力及ばぬ邪悪な存在。すべてが納得できる。
(だから羅眼鬼は、尊鬼王に反旗を翻す気になったのか……) 
「神……?」 
 ルシファーが笑う。
「我の力もずいぶん見くびられたものだ。解放だと? 我がこの者に囚われていたとでも思うたか。本来、我が存在するのに器など必要ない」
 御雪の身体から白い霧のようなものが浮かび上がる。その霧は、そのまま大天使の姿となった。
 崩れ落ちる御雪の身体を、ルシファーは背後から抱きとめる。
「憎き神の作った人間に宿り、我はその未来を見届けているのだ。我がその気になれば貴様などの力がなくとも、この人間を使って世界を滅ぼしてくれようぞ」
 それに、とルシファーは、御雪の頭を愛おしそうに自分の胸に寄せた。
「我はこの魂、この身体を気に入っている」
 ルシファーの言葉に、怨≠ヘ言葉を失っっていた。
『そんな……そんな馬鹿な……』
 すべてを賭けて待ち望んだ神の復活が、脆くも崩れていく。
 そんな怨≠ノ、ルシファーは冷ややかに言い放った。
「去れ。お前は――醜い」
 差し伸べられたルシファーの指先に、膨大なエネルギーが集まっていく。
 面白くもなさそうに、ルシファーはそれを怨≠ヨと飛ばした。
『ぎゃぁぁぁ!!』
 地を這うような憎悪にうめきは、耳を劈くような金切り声へと変わる。
 圧倒的な光を受けて、ただの影となった怨≠ヘ断末魔を残して消えた。あとには乳白色の魂が散乱している。
「御雪!」
 小野が走りこみ、倒れる御雪を何とか受け止める。ルシファーはすでに姿を消していた。
(御雪の身体に戻ったのか……?)
 だがその降臨は、確実に御雪の体力を奪っていた。熱を失った御雪の顔を、小野は心配気に覗き込む。
 御雪、と呼びかけた小野の声に、瞼が動いた。形の良い唇がかすかに動く。
「……慈雨、は……」
「心配ないから……それより、しっかりしろよ、御雪!」
 小野の必死の呼びかけに、御雪はかなり強い意志を持って顔を上げた。
「私は……大丈夫だから、慈雨を」
 御雪に肩を貸しながら、慈雨を抱えて小野は出口へと向かう。怨≠フ存在を失った空間は、不安定に歪み始めている。このあたりは、間もなく魔界に取り込まれるだろう。
 魔界空間は、今の小野や御雪の体力をさらに奪うことになる。
 それだけは避けたかった。出口へ行けばハルの浄化が待っているはずだ。
(そこまでなんとかたどり着かなければ――)
 やがて社の扉とそこから洩れる人間界の明かりが見えた。その付近は人間界にかわりつつあるのだろう。入ったときよりもずっと手前でハルが待っていた。小野達を発見すると慌てて駆け込んでくる。
「大丈夫? 怪我はっ?」
「俺は無事……それより慈雨ちゃんと御雪を」
 そういうと、小野は安心して一気に膝をついた。結界を守っていたハルの顔の顔が、ひどく懐かしく感じる。
 だがその時――。
 小野の背後で、急速に闇が集まっていく。
「小野!」
 ハルが叫んだ。振り向くと怨≠ェ再び形を取り戻そうとしていた。
「馬鹿な……っ!」
 御雪が搾り出すようにつぶやく。地を這うような怨≠フうめき声が響いた。
『うううっ……消えてたまるかぁぁぁ!』
 闇が激しく渦巻き始める。なんという執念だ。その暗いエネルギーに三人は愕然とした。
「ハル、昇道を開け! 強引に葬ってやるっ!」
 小野は力を集中させる印字を組み、最後の鬼力を振り絞った。
 その言葉に、ハルが素早く反応する。ハルの手の中で風が生まれ、やがて天を貫く大きな柱となった。
『無駄だぁぁぁぁ! 何度でも蘇るぅぅぅ何度でもなぁぁぁ』
 背筋も凍るようなその憎念。だがその意識は、ある人物に集中していた。
 怨≠ヘ小野もハルも見てはいない。
「慈雨!」
 背後で御雪が叫んだ。驚いて振り返ると、ぐったりとしていたはずの慈雨が立っていた。
 小野は息を飲んだ。慈雨が意識を取り戻すのは、と尊鬼王の言葉が脳裏をよぎる。
 (その魂が身体から離れるときだ……!)
 聞き覚えのある、鈴の音のような慈雨の声。
「ごめんね。お姉ちゃん……約束破ってごめんね」
 慈雨はそう言ってふっと泣き顔になる。
「横川の庵から、出ちゃ行けないっていったのに……慈雨、慈雨ね……」
 そのまま、慈雨は泣き出した。許してね、と何度も繰り返す。御雪は、そんな慈雨を抱きしめる。
「もういい。もういいから」
「良かっ……た」
 御雪は腕に力を込める――何かを予感するように。
 でも、と慈雨はぽつりと言った。
「慈雨がいたら、この子は成仏できないの。だから……一緒について行ってあげなくちゃ」
 そう言って、自分から静かに離れる。慈雨の左手の指先を握り締めたまま、御雪は動けなかった。
「慈雨ね、お姉ちゃんと――もっと一緒にいたかったよ……」
 涙を溜めたまま、それでも慈雨は少し笑った。
 そして怨≠ノ向かって優しく語り掛ける。
「一緒に行こう? もう寂しくないから、ね?」
 怨≠ヘ誘われるように、慈雨に身体に溶け込んでいく。小野もハルも、それを止めることが出来なかった。
 慈雨はゆっくりと、ハルの作った昇道に向かって歩き出す。指先をすり抜けていく慈雨の柔らかな手。
 突然。
 御雪の中に、押さえようもない衝動が突き上げた。
「駄目だ! 行くな、慈雨!!」
 それは押し殺してきた御雪の心だった。
「そいつが成仏できないなら、私が何度でも戦うから! だからっ……だから行くな、慈雨!!」
 血を吐くような御雪の叫びが社の中にこだました。
 慈雨は笑顔で手を伸ばす。だが。
 最後に伸ばされた手は、この世に残るためではなかった。
 御雪の目の前でそっと開かれた、慈雨の小さな手の中には。
 一輪の――花。横川の庵に咲く小さな野花だった。
 強く握り締められたその小さな花は、すでにしおれている。
「お姉ちゃん――お誕生日だったから……」
 その言葉を聞いて、小野は胸が塞がれるような傷みを感じていた。
 慈雨はこの花を御雪に渡したくて結界を出たのだ。その幼い思いを、悲しい過ちを、一体誰が責めることが出来るだろう。
「慈雨ね、お姉ちゃんが大好きだよ……」
「慈雨!」
 それが最後だった。淡雪のような微笑を残して、慈雨は――消えた。
 地面に手を付いたまま、御雪は土を握り締める。
「御雪……」
 小野に手が遠慮がちに、御雪の肩に触れる。その暖かさを感じながら、御雪はゆっくりと目を閉じた。
「よかったんだ……これで」
 御雪がつぶやく。分かっていた。最初から、助からないと分かっていたのだ。
 よかったんだ、と御雪はもう一度言った。だが、それは諦めではなく。
 「小野の言った通り……最後に、笑った」
 御雪が小野に瞳を向ける。その言葉を受け入れるには、まだ激しい胸の痛みを伴うけれども――。


 小野と御雪の容体は、ハルの浄化によって大分回復した。だが、純粋な傷や全身に広がる疲労だけはどうしようもない。特に御雪は、比叡山での本格的な浄化が必要だった。
「とにかく二人が無事で良かったよ。ものすごいエネルギーを感じたから不安で仕方がなかったんだ」
 懸命に介護するハルが、その手を休めることなく言った。サンキュー、と小野が身体を伸ばす。とりあえず、一息つける。無性にシャワーが恋しい。
「でさ、ハル」
 俺も今、気付いたんだけど、と小野は苦笑いする。
「俺達、誰か……忘れてない?」
「ああ! 皓矢!!」 
 ハルが高い声で驚く。三人が祠の前まで駆けつけると、累々と積み上げられた妖怪や怨霊、鬼達の屍の山の中から、皓矢が顔を出した。
「こら、ハル! お前の式神、30分でダウンしたぞ! この役立たずが!」
 そういって、ただの紙人形になった式神を投げてよこす。
「ああ」
 と、必死になって受け取るハル。
「あーのーなー! その思いやりの半分でもいいから俺に向けろっちゅーのっ」
 その変わらないテンションと頑丈さに感心しながら、小野は皓矢の肩を叩いた。
「よく、鬼に食われなかったな」
「あったりめぇーだろ! この皓矢様、女は食っても鬼になんて食われないっての!」
「終わったようだな」
 新しい声が加わった。小野が顔を上げると紅牙が立っていた。
「紅牙……」
「尊鬼王からの伝言だ――約束の者を連れてきた。ともに育った娘の影響か、不思議な力を持っている」
 その言葉と同時に、新しい気配が生まれた。
 何も無かったはずの場所に、一人の少女が立っている。
「慈雨……!」
 御雪が叫んだ。少女は、その声に不思議そうに小首をかしげる。
「全く、小野も無茶なことを頼む。尊鬼王から話を聞いて、私は正直、あきれたぞ」
「ご迷惑をかけました」
 小野は紅牙に、丁寧に頭を下げる。
 そして、そっと少女を手招きした。警戒もなく少女は小野の傍に寄ってくる。御雪は目を細めた。
「小野……まさかこの子は」
 小野は黙ってうなずいた。少女は、小野が魔界に連れて行った水晶の鬼の子だった。
 恐らく、尊鬼王の心使いだろう――元々あった第三の目や、耳の後ろの角が消えている。
 子鬼の少女の小さな肩を抱きながら、小野は御雪に言った。
「人間界で育てることが正しいとは言い切れない。尊鬼王にもそう言われた。けど……この鬼もまた、魔界では異質な存在なんだ。どうか慈雨ちゃんの片割れと思って、大切に育ててやってくれないだろうか」
「小野……」
 御雪は言葉を失っていた。突然の出会いに、どう答えて言いか分からない様子だった。
 だが、御雪の戸惑いなど気にすることなく、慈雨とそっくりの子鬼は小野から離れて、御雪の元へとことこと歩いてきた。
 御雪の顔は見ない。幼い子供独特の好奇心で、御雪の手の中にある枯れた花を見つめている。
 その小さな手が、花に触れた。
「――!」
 次の瞬間。みんな息を飲んでその光景に魅入っていた。
 御雪の手の中で、しおれていた花が色を取り戻していく。損なわれた生命に、新たな力が注ぎ込まれていく。
「!」
「お花、戻ったね」
 少女はそう言って、初めて御雪をみた。心に沁みるような無邪気な笑顔。
 二人の間に、柔らかな風が吹いた。


 小野は、ハルと紅牙の三人で大文字の送り火を見に来ている。
 御雪は比叡山で療養中、子鬼の慈雨も一緒だ。人間として生きていくのは大変だろうが、強くなって欲しいと思う。
 皓矢は、喫茶店で会ったエリカさんと二人で、この大文字をどこかで見ているはずだ。あの状況から今日の約束まで扱ぎ付けるとは、皓矢の口説きテクは結構ハイレベルなんじゃないかと、小野は改めて感心する。
「今夜、慈雨ちゃんの魂も送られるね」
「そうだな」
 鬼追の中でも特に感覚の鋭い二人には、幾千の魂が成仏されていくのが見える。それはまるで、天に放った蛍の大群のようだった。
「僕は……御雪さんにあやまらないといけないね」
 その儚い光達を見上げながら、ハルがぽつりとつぶやいた。
「結局僕は、御雪さんを傷つけただけだった。えらそうに正義を振りかざして、御雪さん一人を責めて――自分は何もできなかったのに……!」
 ハルは辛そうに唇をかむ。細く綺麗な髪が、柔らかい肌に淡い影を落した。
「今回の一件で、誰かが謝るようなことは何もないさ。ハルはよく頑張ったと思うし」
「そうだ。強いて言えば、悪いのはみんな小野だぞ。祇園祭で鬼を逃がしたりしたから」
「おいおい、それは関係ないだろー? まったく紅牙はなんでも俺のせいにするんだから」
 紅牙と小野のやりとりに、ハルは弱々しくくすりと笑った。 
 小野は、そんなハルの横顔をちらりと見る。昔から、ハルの辛そうな表情が苦手だった。
 なんとなく女の子を苛めているような、落ち着かない気分になるからだ。もちろんそんなこというと、ハルにグーで殴られるに決まっているが――。
「小野はやさしいね。優しくて……どうしたら人の傷を癒やすことができるかちゃんと分かっている。僕は……全然だめだ。小野の優しさが羨ましい」
「そんなかっこいいもんじゃないって――」
 慌てて手を振る。相変わらずだな、と小野は思う。ハルとは幼稚園からの長い付き合いだが、こういう真面目で素直なところは何も変わらない。そのくせ頑固で気が強い。
「じゃ、正直言うよ」
 小野は観念して告白することに決める。誤解されたままでは、いささか夢見が悪い。
「?」
「俺、本当は御雪に殴られる覚悟だったんだ。慈雨の代わりなんていらないっとか言ってさ」
「そんな……代わりなんかじゃ」
「まぁ、そうなんだけど、それはあくまでも俺の気持ちだろ? 相手の受け取り方なんて、ぶつかってみないと全然わかんないよ」
「……そうだね」
 噛締めるように、ハルが言った。
 それに、と小野は付け足す。
「ハルにああでも言われないと、御雪はあんなにちゃんと悲しめなかったと思うな。あいつ、不器用だし」
「……僕……今から御雪さんのとこに行ってくる」
 突然ハルはそう言った。かかったな、と思う。
 思い詰めたように見上げるハルの可愛い顔に、小野は内心、笑いをかみ殺すのに必死だ。
「急いでいって来るね!」
 そう言うと、ハルは人ごみの中を軽やかに走って消えた。
「……何だかよく分からん説得の仕方だな」
「いいんだよ、あれで」 
 駆け出したハルを見送りながら、小野はやれやれと大きく伸びをする。
 そして隣の紅牙に向かって言う。
「それより……今回のことはすべてが解決したわけじゃない。特に鬼と人間の絆を守る俺達にとっては、新しい問題が山積みだな」
「そうだな」
 とは言え、と小野はそこで表情を崩した。いつもの人懐っこい笑顔が浮かぶ。
「とりあえず休息が必要だよな。切ないことに宿題も手付かずで残ってるし。それが済んだら、またよろしく頼むよ、紅牙」
「お前に頼まれなくても、それが――私の仕事だ」
 ぶすっとしなから、紅牙は顔を伏せた。そしてぽつりとつぶやく。
「全然、似てない」
 え、と顔を上げた小野に、紅牙は続けた。
「お前は、小野篁殿と全然似てないな。本当に生まれ変わりなのか?」
「生まれ変わりじゃないってば。あの人はただのおじいちゃんだよ。でも……」
 そこで一旦言葉を切り、小野は空を仰いだ。
「でもその意志は確かに受け継いだと思う。人はさ、紅牙。永遠の命も生きられないし、思いのままに転生することもできない。けれど、その想いや意志を受け継ぐことができるんだ」
「小野……」 
 その横顔を、紅牙は複雑な思いで見ていた。鷹人は本当に、かつて愛した人と似ていないだろうか。
 もちろん、そんな紅牙の心中に小野が気付くはずもなく――。
 一人、全く異なることを考えていた。
 毎年繰り返される夏に祇園祭や大文字を鮮やかに織り込んで、京都は美しく時代を超えていく。にぎやかな人ごみを見つめながら、小野はこの街がすきだなぁ、としみじみ思うのだ。めくるめく歴史の中で、街も人もどんどん変わって行く。だが今、大文字の送り火を見上げる気持ちは、小野も京都の土地の人も、観光客も、きっとみな同じだ。
 何千年も昔から変わらない気持ちがあるとすれば、それはこの都を好きだということ。
 怨≠フ正体はまつろわざる神の恨みである。誰も忘れ去られることを恐れている。人も鬼も、神や魂も。
 ―――信仰心をなくし、無に帰されることを心底恐れ、憎んでいる。
 だとしたら、この観光客たちこそがこの京都を守っているのだ。
 大文字の大きな炎に照らされて、みんなの顔が闇から美しく浮かび上がる。
 キレイだな、と小野は思うのだ。
 観光客やそれを暖かく迎える地元の人々――たとえ意識になくても、この賑わいこそが霊を慰め、呪いを諌めて、京都に祈りを呼ぶ。魔界の一番近くに存在する人間界に清らかな流れをつくっていく。
 ――俺たちはその手伝いに過ぎないんだよな。
 千二百年も昔、この都を守り続けた偉人達も、きっと理由は同じだ。京都が好きだという理由だけでいい。それだけで、この都は生きていける。
 なんだか満ち足りた気持ちで、小野は一人、五山の送り火を見上げる。そして、その胸に浮かんだのは、
「今年の夏も終わるなぁ……」
 という、実に平凡な高校生の意見だった。

                           (終わり)