見守る瞳はただ優しく
作:砂時





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       「どうか私のぶんまで、エミリアを幸せにしてあげてください……」


 1

 漆黒の棺が目の前に運ばれてくる。ウェインはまだ立つことさえできないような年齢の女の子を胸に抱いたまま、その棺が地面に下ろされるのを待っていた。
 棺の中には、純白の衣装を纏ったまだ年若い女性が淡桃色の海の中に横たえられていた。衣装は彼から彼女への初めての贈り物であるドレスであり、海は彼が求婚の際に腕一杯に摘んできた高原にしか咲いていない小さな花だ。
 胸の前に組まれた指には銀のロザリオが握られていた。彼女が物心ついたときから祈りを捧げ、肌身離さず大事にしてきた厚い信仰の証。
 だが、誰よりも純粋に神を信じてきたはずの彼女が蘇ることはなかった。その瞳は堅く閉じられ、もはや何も映すことはない。
「エミリア。お母さんにお別れをしなさい」
 胸に抱いた彼の娘を、ウェインはそっと母親の元へと近づける。
 だが、まだ幼いエミリアは母親の死を理解できないようであった。その目を閉じた顔に手を伸ばすこともなく、ただちらりと一瞥しただけですぐに彼女は父親の方へ身体を向けると、その襟元を引っ張って無邪気な笑い声を上げる。
 ウェインはそれを母親への別れと受け取った。
「牧師様。お願いします」 
 彼の後ろに立っていた牧師は小さくうなずくと、控えていた村人たちに棺の蓋を閉じるようにと命じる。
 四人がかりでもって持ち上げられた蓋がそっと下ろされる。蓋が音をたてて閉められるその瞬間まで、この世では二度と会うことはないであろう妻の姿を瞳に焼き付けようとするかのようにウェインは彼女をじっと見つめていた。
 ムーア。君が死ぬのはあまりに早すぎたよ。
 エミリアはまだこんなに小さいというのに。
 君が命を縮めてまで産んだ、君にそっくりなこの娘は。
 君が満面の微笑みで祝福した、僕と君との小さな命は。
 まだ、この娘は君のことをお母さんと呼ぶことさえできなかったというのに。
 ムーア……
 いつのまにか葬儀はすべて終わってしまったらしい。棺は墓穴に納められ、花輪のかけられた十字架の前には彼女の名前を記した墓石が置かれていて、夕日に染められようとしている丘には彼とその腕の中で寝入っている娘の他に誰もいない。
 いや、一つだけまだ残っている長く伸びた影があった。
 それは彼と同じくらいの年齢の、どこか活発な雰囲気を纏った女性だった。肩までの金髪はあまり手入れされておらず、服装も機能性を重視した乗馬服でおせじにも女らしいとはいえなかったが、日に焼けた肌とすっきりとした顔立ち、気丈さをたたえたその青い瞳は十分に魅力的であった。
「バーネット……まだ残っていたのか」
「まあね。ぼ〜っと死んじゃった奥さんのお墓を泣きそうな目で見つめている幼馴染みを放って帰るなんてさすがにできないわよ」
「俺を心配してくれていたのか?」
「冗談。私が心配していたのはエミリアちゃんよ。まだこんなに小さいのに、黄昏ちゃってる親父に夜になるまで付き合わせるわけいかないじゃない」
「……そうだな」
 苦笑しながら、ウェインは寝息を立てている娘をそっと抱きしめた。その身体は驚くほどに温かく、ほのかに幼児特有の日向くさい匂いがした。
「……大丈夫なの?」
「何がだい?」
「この子はこんなに小さいのに、母親がいなくなっちゃって大丈夫かって聞いたのよ。あんたはこの子と二人きりなんだよ。これからどうすればいいのか、考えていないわけじゃないでしょ」
「俺の愛さえあれば問題はない」
「……本気で聞いているの」
 まっすぐに彼に向けられた眼差しは、ただ真剣に彼を案じている。
 その揺れる瞳に堪えきれなくなり、ウェインは目を伏せると彼の妻の墓に向き直った。
「本当は、すごく困っているんだ。エミリアを産んでからムーアの具合は悪かったけど、まさか死んでしまうとは思わなかったし、俺もムーアも両親はもういないし、こうして親子二人きりだとどうしていいのかわからないし……」
 こぼれ落ちそうになる涙を必死に堪えようとしたが、もはや止められなかった。頬を伝っていく涙を拭いながら、赤くなった目でウェインは墓石の前に膝をつく。
 そう。もう俺とエミリアしかいないんだ。
 たった三人の家族だったというのに、もう二人だけになってしまった。
 どんなに会いたくても君はいない。もう二度と会えはしない。
 だが、ここにいる俺はこれからどうすればいい。
 エミリアと二人、俺はこれからどうやって生きていけばいいんだろう。
「まったく。大の男がめそめそといつまでも泣いているんじゃないよ。情けないなぁ」
 バーネットはウェインの襟首を掴むと、力任せに彼を立ち上がらせた。
「ほら、さっさとあたしのうちに行くよ。母さんがあんたとエミリアちゃんの分の晩御飯を作って待っているんだ。しっかりと歩きなよ」
「いや、俺は……」
「うるさいっ!」
 彼女の申し出を断ろうとするウェインの手を荒々しく握り締めると、バーネットは女性とは思えない力で彼をずるずると引っ張っていく。
「こういうときは一人でいるよりも大勢といたほうがいいんだよ。エミリアちゃんだって、こんな湿っぽい親父と二人きりじゃかわいそうじゃない」
 強引ながらも思いやりの含められたバーネットの口調に、ウェインは小さく笑った。
「……ああ、そうだな。お前の言うとおりだよ」
 手を引っ張られながら、ウェインは妻の墓を見つめていた。
 暗くなっていく空の下、白い十字架がぼんやりと薄闇の中に浮かんでいた。その元に眠るのは彼の最愛の人。彼が愛したただ一人の女性。
「さよなら、ムーア」
 胸に募る思いを切り捨てるようにウェインは墓に背を向けると、遅い遅いと騒いでいるバーネットに手を引かれ、エミリアを起こさないように村へと続く道を歩いていった。


 2  

「なぜ、貴女はまだこんなところにいるのです?」
 背後から聞こえる声に振り向くこともせず、ムーアはただ遠ざかっていく彼女の夫の背中を見つめていた。
 葬儀の間中、彼女はずっとウェインとその胸に抱かれたエミリアを見つめていた。だが、彼らは彼女の存在に触れることはなく、彼女の呼びかけに答えることはなく、ただ彼女の肉体が納められた墓の前でずっと立ち尽くしていた。彼の名を呼ぶ彼女の声に気づくことさえなく。
「主への信仰厚きムーアよ。なぜ貴女は主の元へ召されることを拒まれるのです? 貴女を天へと導く門は今も開いているというのに」
「……私は貴方についていくことはできません、天使様」
 ムーアが振り返った先には、簡素な白い衣服を身に纏い、透明の覆いをかぶせたかのごとく形を保ったまま白く透けて見える翼を持った男がいた。
 彼の姿はまぎれもなくあらゆる天使としての神話的な約束事を果たしていた。その女性的な顔立ちは彫像のように非の打ち所がなく、あらゆる小さな動作にさえ威厳が感じられた。だが、ムーアは目の前に立つ天使に動じることなく、差し出された手を首を横に振ることで否定する。
「どうしてなのですか? 貴女は誰よりも主を信じていました。その信仰がどれだけ深いものであったかを私は知っています。そして、ついに天への階段を登るときが来たというのに、どうして貴女はそれを拒むのです?」
「私には愛する人がいるからです。天使様」
 薄茶色の瞳を細め、ムーアは胸元の銀のロザリオを握り締める。
「私の夫であるウェインは、何の富もこれといった取柄もない孤児であった私を妻にしてくれました。彼には私よりももっと美しく、優れた女性がいたというのに私を選んでくれたのです。そのウェインが泣いているというのに、彼を置いて私はどこに行けましょうか」
「……貴女のように残された者への想いのあまり天へ召されることを拒んだ者はこれまでにも多くいました。ですが、魂だけの存在である貴女の声は彼らに届くことはありません。また、肉体の納められたこの墓の周囲から動くこともできません」
 かすかな苛立ちをあらわにしながら、天使はまたムーアへと手を差し伸ばす。
「残された者とて、いつかは天へ召されるのです。彼らが地獄に落ちるべき罪業を犯していない限り、再会は約束されています。ここに留まっていれば、貴女は永遠に天へと召される機会を失い、人々に霊と呼ばれる力ない存在になってしまうことでしょう。さあ、どうか私と一緒に来てください」
 その言葉には真摯な意思を感じ取ることができた。だが、ムーアはやはりその手を取ることなく、また首を横に振る。
「……ごめんなさい。やっぱり私にはウェインとエミリアを残してどこかに行くことはできません」
「ムーア。それはいけません。主の御意志に背くようなことはやめてください」
 懇願とさえ受け取れる天使の眼差しに目をそむけながら、ムーアは眼下に広がる石垣によって区切られた牧草地のなだらかな広がりに目を向ける。
 わずかな木立に囲まれてそびえ立つ教会の尖塔、そこから少し右に目を向けた場所に彼女とウェインの小さな家が建っている。その近くを、バーネットに腕を引きずられたウェインがエミリアを胸に抱いて歩いているのをムーアはじっと見つめる。
 バーネットが彼を見るたびにウェインは小さく笑ったり返事をしたりしていたが、どこか遠くを見つめる彼の表情はまるで置き去りにされた子供のようであった。ときどきエミリアの頭を撫でながら垣間見せる頼りない微笑みに、ムーアは思わず涙ぐんだ。
 どうして、私の声は彼に届かないのだろう。
 どうして、私はここから動けないのだろう。
 生きていた頃なら、私の声はここからでもきっとウェインに聞こえるはずなのに。
 ウェインの元へ走っていくことができるなら、私は彼をぎゅっと抱きしめるのに。
 でも、私には何もできない。
 ウェインが泣いていても、私はその涙を拭ってあげることさえできない。
 ウェインを見つけても、私はその背中を追いかけることさえもできない。
 ここにこうしていても、天使様が言うように私には何もすることができない。
 でも、私の家族を残して天国への階段を登るなんて。
 私たちのエミリアを見捨てて天へと召されるなんて。
 私には、絶対にできはしない……!
「……貴女はどうしてもここから離れられないのですね。貴女自身への考えが及ばないほどに、彼らへの愛は深いものなのですね」
 小さく溜息をつき、天使はムーアの頬に流れるひとすじの涙をそっと拭った。
「神への信仰厚きムーアよ。主は貴女のために天国の扉を開いておいでです。ですが、その扉をくぐるのはあくまで自主的なものでなければなりません」
 天使は微笑をたたえたその表情にわずかな悲しみを浮かべながら、ムーアの足元にそっとひざまずいた。  
「主への信仰厚きムーアよ。貴女が望むのなら、私は貴女の願いを叶えましょう」
「天使様っ。では、私は……」
「ですが、条件があります」
 喜びに震えるムーアの手をその両の手でそっと包みながら、天使はどこか憐れむような眼差しで彼女を見つめる。
 だが、涙を流して感謝の言葉を述べるムーアには、彼の眼差しを感じることはできなかった。
「貴女の肉体はもう死んでしまいました。最後の審判の日まで、貴女の肉体が目覚めることはもうありません。ですから、貴女は彼らに触れることも話すこともできず、ただ彼らを見つめている権利のみを与えられます。よろしいですか?」
「……はい。喜んで受け入れます」
 天使の足元にひざまずき、わずかにためらいながらもムーアは感謝の意を示す。
「たとえ何もすることができなくても、私は私の家族が幸せになれるようにただ祈ります。二人が幸せになれるまで、私はずっと祈り続けます」
「わかりました。貴女はもう自らの骸に縛られることはないでしょう。誰からも気づかれることのない代わりに、貴女は望む限り家族の側にいることができるでしょう」
「天使様……ありがとうございます」
「礼には及びません。これは主の御意思なのですから」
 子供のように泣き伏すムーアの頭を優しく撫でながら、天使はその瞳に憐れみと悲しみの光をたたえて茶色の髪の中で時折揺れる細い肩を見つめながら、彼女に聞こえないように呟く。
「ですが、貴女は誰にも気づかれることのないという寂しさに耐えることができるのでしょうか。そして、彼らのこれからの行いのすべてを見つめていることができるのでしょうか」


 3

 果てしない緑の広がりの中で、白い雲のように群れた羊たちがのんびりと草を食んでいる。
 雲雀のさえずりがどこからか聞こえてくる。馬を杭にしっかりと繋ぎ、四歳になったエミリアを馬上から抱き下ろしながら、ウェインは珍しく晴れ上がった群青の眩しさに目を細めた。
「パーパ。エミリアはお花摘んできてもいい?」
 あどけない笑みを浮かべながら、エミリアがウェインの顔をのぞきこんだ。母親ゆずりの茶色の髪が、風に揺れて彼の頬をくすぐる。
「いいけど、あんまり遠くに行っちゃだめだよ」
「わかってる〜」
 両手をぐるぐると振り回しながら、エミリアはオークの森へと走っていく。その姿が木陰の下で止まるのを見守ると、ウェインは馬の手綱を掴んだまま遠い景色に目をやる。
 なだらかな丘とその麓の低い谷の反復がどこまでも続いている。やや高い山に阻まれて見えないが、その山の麓にはこの辺りで一番大きい街があり、そのもっと遠い先にはまだ彼が見たことのない海が遠く大陸の遥か向こうにまで続いているのだろう。
 ときおり村を訪ねる吟遊詩人の歌った景色をあれこれと想像しながら、ウェインは頭の後ろに手を組んで横たわる。
 うららかな午後のひととき、牧童頭のウェインにはこれといってする仕事がなかった。彼の本来の仕事は羊の世話なのだが、羊たちは牧場に放しておけば勝手に草を食べ、散らばることなくひとかたまりになっているので特に追う必要もない。
 細々とした仕事も確かにあるのだが、それらはすべて他の牧童たちの仕事なので、毛狩りなどの忙しい時期以外のウェインの仕事はほとんどないに等しかった。
 それでもいつもならば真面目に見回りの仕事でもしているのだが、今の彼にはそれよりもずっと大切なことがあった。
「あんまりサボってると仕事をクビにしちゃうぞ、ウェイン」
 いつのまに後ろにいたのか、不意に背後から肩を叩かれてウェインは弾かれたように振り返る。
 そこには相変わらずの乗馬服に身を包んだバーネットが花束を片手に悪戯っぽく笑っていた。日に焼けた笑顔はまったく変わっていなかったが、肩までだった髪は長く伸び、腰の辺りで結ばれている。それが彼女を昔よりずっと女性らしい姿にしていた。
「悪いけど、今日は特別な日なんです。お見逃し願えないかな、お嬢様」
「……あんたにお嬢様って呼ばれるとなんか馬鹿にされているみたいでイヤ」
 口を尖らせるバーネットに、ウェインは肩を震わせて笑う。
「そんなことありませんよ。君は地主の御令嬢で、俺はそれに雇われている牧夫なんです。君をお嬢様と呼ぶべき理由はあると思うんですが」
「無茶苦茶な敬語使っているくせによく言うわよ。とりあえず、あたしのことは普通に呼びなさい。言っておくけど、これは命令だからね」
「かしこまりました、バーネット様」
 笑いながらバーネットの前にひざまずき、そのまま手の甲にキスしようとするウェインの頬に彼女の平手打ちが炸裂する。もっとも、これは二人からすればただのじゃれ合いのようなもので、子供の頃からの習慣みたいなものであった。
「まったくもう。あたしたちって本当に変わらないよね」
「そうか?」
「だって、子供の頃からあたしとウェインって何にも変わっていない気がする。いっつもこういう風に遊んでいて、今もこうしてるじゃない」
「いや、俺たちは変わったよ」
 うつむいた表情に陰を落とし、ウェインはぽつりとつぶやくとバーネットの横を通り過ぎ、白い十字架の前に立った。
 それは彼の妻であるムーアの墓だった。かつては純白であったその十字架も今は色褪せ、彼女の名前が刻まれた墓石も芝に覆われてしまっている。
「子供の頃にはムーアがいてくれた。気がつけばずっと幼い頃からムーアは俺の側にいてくれた気さえするのに、今はいない」
 赤ん坊の頃に教会の前に捨てられていたという、茶色の髪の少女。
 始まりは日曜日の礼拝。牧師の手伝いをしていた彼女の姿を、今でもウェインは思い出せる。
 教会の窓から、球遊びにふけるウェインたちの姿を遠く見つめる薄茶色の瞳。
 その彼女を遊びに誘うのに、彼はどれほどの勇気を必要としたのだろう。
 おずおずと彼に手を引かれて彼女が仲間の輪に加わったとき、なぜか彼は嬉しかった。
 彼女の姿が自分の側にあることが、とても嬉しかった。
「よく遊んだんだよな。教会の側の芝生で球蹴りをしたり、川で泳いだり、下手な楽器を演奏したり。ときには森で狩りをしたこともあったっけか」
「あのときは女の子はあたししかいなくてちょっと寂しかったな。他のみんなって、馬にも乗れないし弓も引けないんだから」
「まあ、普通の女の子は乗馬よりも縫い物とか料理を習うからな」
「……それって、私が女の子じゃないみたいに聞こえる」
「違ったっけ?」
 バーネットの手の花束が彼の頭上に放り投げられ、思わずそれを見上げた彼の不意をつくように飛んできた平手打ちをウェインはとっさに身体を低くして避けた。だが、遠慮のない蹴りに追撃され、彼は墓石からできるだけ離れるように横に転がる。
「絶対に行動がすべてを証明してるよな」
 赤く腫れた右腕をさするウェインを、バーネットは半眼で睨みつける。
「乙女への侮辱は万死に値するのよ」
「お前は乙女なんて歳じゃないだろうが。恋人もなく、独身のまま二十二……」
 ウェインが言い終えるより早く、明らかに殺意のこめられた蹴りが彼に襲いかかる。その殺人的な勢いの一撃はかろうじてかわしたものの、逃げようとしたところに足払いをくらい、彼は綺麗に宙を舞って仰向けに倒れた。
 ウェインはさらに逃亡を続行しようとしたが、鼻先に乗馬用の鞭を突きつけられ、冷ややかに彼を見下すバーネットに両手を上げて降伏の意を示す。
 だが、彼女は無言のまま彼の顎を鞭の先端で持ち上げる。乗馬用でやや太い鞭のぞっとしない感触に、ウェインの頬に冷や汗が伝い落ちた。
「成人して速攻で結婚したあんたには行き遅れたあたしの気持ちなんてわからないだろうけど、そういうこと言われるのってすっごく傷つくんだよね」
「それについては、誠意をもって謝らせてもらいたいな」
「でも、ガラス細工の心は一度砕けてしまったら元に戻らないんだよ」
「はぁ」
「このままではあたしの心は空白のまま」
「……わかったよ。今度、お前がほしがっていたヴェネチア製のガラス細工をプレゼントするから」
「よしよし。それじゃ、今回は許してあげようかな」
「そいつはどうも」
 ころっと表情を笑顔に変えるバーネットに苦笑し、ウェインは地面に打ちつけたのか少し痛む頭に手をやりながら彼女を見つめる。
「なに笑っているのさ」
 その眼差しはどこか笑っているように感じられ、バーネットは少し頬を赤らめてウェインから顔をそむける。
「いや、ムーアの墓の前で俺に殴りかかってくる礼儀知らずなんてお前くらいのものだと思ったら、どういうわけかおかしくってさ」
「それはあんたがからかったりしたからでしょうが」
「あれは悪かったよ。でも、こんな風にじゃれ合えるなんてお前くらいだと思ってさ……」
 口元に寂しげな雰囲気を漂わせ、ウェインはまた遠くの景色を見つめる。
 その横顔は涙を流さずに泣いているように見え、バーネットは少し戸惑いながらもそっとウェインの背中を抱きしめた。
 ウェインはかなり狼狽したようだったが、バーネットがそのまま動かずにいるとそれ以上の抵抗をすることなく、彼は胸元にまわされた手に自分の手を添えた。
「元気出しなよ。エミリアちゃんにそんな顔見せたらだめだからね」
「ああ。わかってるよ」
 ごめんな、バーネット。
 俺は少しばかりどうかしてしまっているのかもしれない。
 さっきお前がふざけて言ったように。
 心の中に空白ができてしまって、その部分がたまらなく冷たくて切ないんだ。
 だけど、ガラス細工なんかがこの空白を埋めてくれそうはない。
 俺の空白を埋めてくれるのは、たった一人しかいない。
 そう。たった一人しかいないというのに……
「パーパ。お花摘んできたよ〜」
 エミリアの声にふと我に帰れば、両手いっぱいに青い花を持ったエミリアが彼の足元にちょこんと立っていた。いつの間に彼から離れたのか、バーネットはさっき自分の放り投げた花束を手に彼から少し離れたところに腰を下ろしている。
「いっぱいいっぱい摘んできたよ〜」
「ああ。ありがと、エミリア」
「ふふぅ〜」
 頬の肉がすべてゆるんだような顔をするエミリアに、ウェインは微笑みながら受け取った花を草で器用に巻き、小さな花束にする。
「う〜ん。ねねのより小さい」
「ねねって……もしかしてバーネットのことか?」
「そうなの。ねねがエミリアにあたしのことをお姉さんって呼んでって言ったの。でも、言いにくいからエミリアはねねって呼んでるの」
「なるほど」
 ウェインはにやにやと笑いながら、こちらを見ないように顔をうつむかせているバーネットの肩に手を置いてその耳元に囁く。
「お前、エミリアにおばさんだとか呼ばれたろう?」
 バーネットの肩がかすかに、しかし確実に跳ね上がる。それを見逃さずにいたウェインはそのにやけ笑いをさらに濃くして彼女の首を腕で抱く。
「しかし、自分のことをねねって呼ばせるなんて、お前も相当歳を気にしているみたいだな。でも、エミリアにとってはお前はおばさんだぜ」
「ぐ……ぐっ」
 くやしそうにうめくバーネットのこめかみが微妙に引きつる。それに気づかず、ウェインはさらにバーネットに追い打ちをかけた。
「まあ、お前も身体と髪の長さだけとはいえ一応女なんだし、歳を気にする気持ちはよくわかるよ。でもさ、小さい子供から見てもおばさんって歳になっちゃったんなら、それを潔く認めるのが大人っていうものじゃないのかい?」
「うっ、るさいなぁっ」
 ついに我慢の限界に達したのか、エミリアの見ている前でバーネットはウェインの襟元を掴むと、力任せにぶんぶんと上下に激しく振り動かす。
「言っていいことと悪いことっていうのがあるでしょうがっ! ああ、あたしは確かに二十二だよ。でも、あんただって同じ歳じゃないかっ。おっさんが人のことをおばさんだなんて言うんじゃないっ」
「おいおい。俺はお前のことをおばさんだなんて言っていないぜ」
 がくがくと揺さぶられながらも、ウェインは余裕に溢れた表情のまま肩をすくめてみせる。それが気に触ったのか、バーネットは襟元を交差するようにしてウェインの首を締め上げた。
 その途端にウェインの表情が一気に青ざめる。慌てて首元に手をやるが、バーネットの女性にしてはかなりがっしりとした手は猟犬のように彼の襟元に食いついて放さない。
「やめろバーネットっ。マジで苦しい」
「またおばさんだなんて言ったな。許さないんだからぁっ!」 
「言ってないっ。俺は言っていないぞっ」
 もはや彼の言葉など耳に入っていないのか、半狂乱といった感じのバーネットはさらに腕の出力を上げて止まるところを知らない。ウェインがほとんど意識を失いかけたそのとき、エミリアの叫び声が二人の耳に響いた。
「やめてねね。パーパが死んじゃう!」
 その一声に我を取り戻したのか、はっとするバーネットの手からどさりとウェインが倒れ伏す。立って歩くことさえできそうにない状態のウェインに駆けより、エミリアは父の頭をゆさゆさと揺さぶる。
「パーパ。起きて。パーパ」
「……痛いよエミリア。ちゃんと起きるからさ」
 ふらふらしながらもなんとか膝に手をついてウェインは立ち上がったが、その目線は明らかに別世界に向けられていた。そのまま足取りも危うげにふらふらとどこかへ行ってしまおうとする彼にバーネットが慌てて肩を貸す。
「ごめんねウェイン。しっかりしなよ」
「パーパ。しっかりしっかり」
「……ああ」
 ようやく戻ってきた世界の中で白い十字架を認め、ウェインはふと妻の墓の前でこんなことをしていてもよかったのかと自問する。
 だが、その答えは常識的に考えれば明らかに否であり、寛容なムーアがいつものように困った顔をしながら許してくれることをウェインは心の底から祈った。


 4

 羊の肉がふんだんに使われた白いクリームシチュー。近くの川で取ってきたものらしい鮭。ふんわりと焼かれたパンや鳩の丸焼き、様々なみずみずしい果物に砂糖菓子までもが銀盆に盛られ、テーブルの上に並べられている。
 ウェインの横から、給仕の女性がワインを注ぐ。ふと目に入ったその銘柄に、彼は思わず目眩を覚えた。それはただの牧夫ならとうてい口にできないような高級酒であり、テーブルに並べられた料理も貴族の食卓に勝るとも劣らない豪勢なものであった。
 貴族や王族の勢力が後退しつつある時代、代わりに台頭したのは領主や商人、そして地主であった。バーネットの父親はそれほど有力な地主ではないが、それでさえも祝いのときなどはこのような食卓になる。
 もっとも、彼の訪れが祝いに当たるのかどうかはウェインにとっては疑問以外の何でもなかったが。
「どうしたんだい、ウェイン君。あまり食が進んでいないようだが」
「そんなことないですよ、おじさん。こんな御馳走は初めてなので、ちょっともったいないかなって」
 恰幅のよいバーネットの父親にどこか引きつった笑顔で答えながら、ウェインは淑女とはほど遠く豪快に鳩の肉を食いちぎっているバーネットの足を軽く蹴り飛ばした。
「おい、バーネット。これはどういうことだ」
「さっきあたしがあんたをぶんぶん振り回しちゃったから、そのお礼」
 にやにやと、さっきはウェイン自身が浮かべていたような笑顔で、バーネットは赤ワインに満たされたグラスを口にする。
「お礼だったらそのワインを一瓶だけでもいいじゃないか。なんだってお前の家の夕食に招待されなきゃならないんだよ」
「小さい頃はよくあたしの家で食事してたじゃない。そりゃ、あたしだってこんなに豪華な夕食になるとは思わなかったけど」
「勘弁してくれよ。俺、お前のおじさんは苦手なんだ」
「うちの親父は、どういうわけかあんたのことが大好きみたいだけどね」
「俺だって嫌いじゃないさ。でも、とにかくあのおじさんは苦手なんだ」
「ま、その気持ちはわからなくもないけどね。とりあえず、せっかくの御馳走なんだから味わって食べなよ。エミリアちゃんだっていっぱい食べているから」
 バーネットが目で示す先には、バーネットの母親の膝の上で切り分けた果物を食べさせてもらっているエミリアの姿があった。仕事中のウェインはよくバーネットの母親にエミリアを預けているので、エミリアはよく彼女に懐いていた。
「パーパ。エミリア、お砂糖食べたい」
「はいはい」
 多少行儀が悪いかな、とは思ったが、ウェインはテーブルに手をついて身体を伸ばすと、盆の上の花形のお菓子を一つつまみ、エミリアの小さく開いた口の中にそっと入れてやる。
 ぽりぽりと、まるでリスのような可愛らしい仕草でエミリアはお菓子を一口で食べてしまう。
「パーパ。おいしい」
「おいしかった? よかったね」
「ねえ、エミリアちゃん。よかったら私たちの娘にならない? そうすれば、毎日おいしいお菓子を食べさせてあげるけど」
 バーネットの母親がエミリアに頬擦りをしながら言うと、エミリアはまだ盆の上にたくさん盛られているお菓子を見つめ、
「ほんと〜?」
 無邪気に瞳を輝かせる。
「……おばさん。お願いですから、小さな子供に冗談を言うのはやめてください」
「いやいや。冗談などではないぞ、ウェイン君」
 白ワインの入ったグラスを掲げ、バーネットの父親は身体をウェインの方へ向ける。
「君がわしの息子になれば、エミリアちゃんはわしの孫になる」
 彼の目は充血し、頬は赤らみ、すっかり出来上がってしまっていた。
「どうだね。君はバーネットと結婚する気はないか?」
「せっかくのお言葉ですが……」
 突然にそう言われても、ウェインはそれほど驚きはしなかった。隣で座っているバーネットに目で話しかけると、彼女もまた苦笑して口を布で拭う。
 実のところ、こんな話は彼らにとって初めてのことではなかった。
 バーネットとウェインの父親はお互いに友人同士であり、食事に相席することは珍しくない仲であった。ウェインの両親が相次いで他界してしまってからは、彼は家の一室をウェインに貸し、牧童としての仕事を与えながら家族のように接していた。
 息子のいないバーネットの父親にとって、身寄りのなくなったウェインをバーネットの婿にすることで彼を後継ぎにしようと思うのは当然であった。だが、ウェインはその話を受けることなく、孤児であったムーアと結婚した。
 彼は仕方なく娘の婿を探したが、村でも評判のじゃじゃ馬とあっては嫁の貰い手がなく、いつしかバーネットは完全に婚期を逃していた。バーネット自身も結婚する意思がないらしく、彼は正直なところ頭を抱えていた。
 しかし、ムーアは若くして亡くなり、ウェインは幼いエミリアを抱えたまま二人きりで暮らすようになった。それからというもの、彼は何度もウェインに縁談を薦め、同じ家に住むようにも説得したがいつもやんわりと断られてしまう。
 ところが、今日はいささか勝手が違っていた。
「えっ。パーパとねねが結婚するの?」 
 驚いたように目を丸くしながら、喜びに溢れる声を上げるエミリアの笑顔を見て、ウェインは戸惑いを隠せなかった。バーネットの両親もエミリアのあまりの喜びように何も言うことができず、バーネットに至っては突然のことに顔を赤くしてうつむいている。
「ね〜ね〜。パーパはいつ結婚するの〜?」
「エミリア。別に俺とバーネットが結婚するなんて決まったわけじゃないんだよ」
「え〜。そんなのやだよぅ」
 バーネットの母親の膝の上で駄々をこねるように暴れるエミリアを見て、ウェインの胸はなぜか小さく痛んだ。
「……エミリアは、パーパにバーネットと結婚してほしいの?」
「うん。そうなの」
 両手を握り締め、エミリアははっきりとした声で言う。
「だってね。パーパがねねと結婚したらねねはエミリアのママになるんでしょ。エミリアはね、ママがいてほしいの。他のみんなみたいに、ママと一緒にいたいの」
 どこか切実なものを滲ませたエミリアの言葉に、誰も口をはさむことはできなかった。その一文字一文字が自分を責めているようで、ウェインはただその言葉を受け止めていることしかできなかった。
「それでね。お休みの日にはママにおいしいお砂糖を作ってもらうの。夜はパーパも一緒に、みんなで御飯を食べるの。それでね、それでね……」
 なおも続こうとするエミリアの言葉を遮り、
「わかったよ。わかった、から」 
 ウェインは席から立ち上がると、そっとエミリアをその腕に抱き締める。
「もうエミリアはお腹一杯だろう? もう夜遅いから、寝る準備をしなくちゃ」
「……うん。エミリアも眠い」
「さあ。早く家に帰って寝よう」
「ウェイン君。今日はもう遅いから君が昔住んでいた部屋を使うといい。ベッドは一つだが、掃除はしてある……なんなら、もう一つベッドを運ばせてもいいが」
「ありがとうございます。ですが、ベッドは親子で寝ますので一つで十分です。それと……」
 腕の中でこちらを見つめているエミリアに目をやり、さらにまだうつむいたままのバーネットをちらりと視界の隅に認めて、ウェインはバーネットの父親に頭を下げる。
「結婚の話は、よく考えさせてください。それでは……」
 踵を返し、ウェインは見慣れた廊下を歩いていく。耳を澄ませば、小さなエミリアの寝息が聞こえてくる。燭台からの薄い明かりに映し出されたエミリアの寝顔は、彼にとって何よりも美しいものに思えた。

 
 5

 夜も更けたというのに、風が暖かい。
 もう、夏がすぐそこまで来ているのか。
 バーネットの家から少し歩いた緑の丘陵の斜面に腰を下ろし、ウェインは先ほどエミリアが話していたその一言一句を思い出していた。
『えっ。パーパとねねが結婚するの?』
『エミリアはね、ママがいてほしいの。他のみんなみたいに、ママと一緒にいたいの』
『お休みの日にはお砂糖を作ってもらうの。夜はパーパも一緒に、みんなで御飯を食べるの。それでね、それでね……』
 ウェインも若くして両親をなくしたが、彼の場合は寂しいなどとは思わなかった。
 そもそもほとんど成人する間近という年齢であったし、親戚こそいなかったがバーネットの両親が後見人のようにいてくれたおかげで、生活にもほとんど不安はなかったのだ。
 だが、エミリアの場合はどうなのだろうか?
 ムーアがいなくなってしまってから、俺はエミリアを一人で育てるつもりだった。
 できる限りエミリアの側にいて、ムーアのぶんまでエミリアを大切にするつもりだった。
 だけど、エミリアの望んでいるものは……。
 ウェインはふと、彼の母親に思いを移した。
 父親のあとを追うように、眠るように亡くなってしまった母親。
 厳しい一面のある彼の母親は、彼が何か悪戯をする度に彼を鞭で打ち据えたものである。その痛みは、どういうわけか今になっても鮮明に思い出すことができ、忘れることがない。
 だがその反面、ことあるごとに彼に優しくしてくれた母親の面影は鞭の痛み以上に彼の胸に焼き付いていた。その温もり、その安らぎは何よりも彼を満たしてくれたものであった。
 あるときには厳しく、あるときには優しい母という存在。だが、その行いのすべては彼のためを思ってのものであると、今だからこそ彼は理解していた。
 だが、エミリアにはその母親という存在がない。
 ムーアという母親はいたが、あいつはもうエミリアの求めることを何もしてやれない。
 もし、俺に母親という存在がなかったら?
 そう考えて、ウェインは思わず身体を振るわせた。そして、バーネットがママになるかもしれないと聞いたときのエミリアの歓喜の表情を思い浮かべ、重い息をつきながら草の上に寝転がる。
 夜空を仰げば、そこに瞬くものは幾千幾万の星。
 彼ととムーアがその夜空を一緒に眺めていたのは、いつのことだっただろうか。
「……ウェイン」
 誰の声かなど、問うまでもなく彼にはわかっていた。
 少し間を置いて、肩越しに振り返る。
 闇の中、バーネットの姿が彼から数歩離れたところに浮かび上がる。湯浴みでもしたのだろうか、ほのかに石鹸の香りがする。
「眠れないの?」
「……エミリアのことを考えていたんだ」
 背中を地面に預けたまま、バーネットが彼の側に腰を下ろすのを待ち、彼は口を開いた。
「エミリアのような子供にとって、やっぱり母親っていうのは必要なのかな、って」
「そりゃそうだよ。お母さんっていうのは、なんていうかその……温かいから」
 どこか言いにくそうに答えるバーネットにウェインは苦笑し、
「俺は父親失格だな」
 自嘲めいた吐息をもらす。
「バーネット。俺は、ムーアに頼まれたんだ。私のぶんまでエミリアを幸せにしてください、ってな。だから、俺はエミリアをあいつのぶんまで幸せにしようとしたつもりだったんだ」
「ウェイン……」
「俺は馬鹿だな。エミリアを幸せにしていたと思っていたのに、エミリアの一番ほしかったものにさえ気がつかなかったなんて」
 母親ができるかもしれないと聞いたときの、あのエミリアの表情。
 あれほどに眩しい笑顔を、俺はこれまでに見たことがあっただろうか。
 それほどまでに、母親という存在を求めているのだろうか。
 やはり俺だけでは、エミリアを幸せにすることなどできないのか。
 ムーア、俺は……。
「一人だと重すぎるなら、二人で背負っていけばいいじゃない」
 耳元で、震える声がささやく。
 野性の花のような香りのする髪がウェインの頬を撫でる。思わず立ち上がろうとするが、そっと指を握られ、その温もりに彼は動くことを忘れた。
「あたしじゃ、だめなのかな?」
 その真摯な眼差しに捕らわれてしまったかのように、ウェインは頬を真っ赤に染めたバーネットの瞳から目をそらせなくなっていた。
「いつからかなんてわからない。でも、あたしはあんたをずっと見ていた。あんたはずっとあたしの側にいてくれる人だって、ずっと信じていたんだ」
「バーネット。俺は」
「あたしはずっと待ってたよ。あんたがムーアと結婚してからは、半分諦めようと思ったりもしたけどね。ムーアはあたしにとっても友達だったし、あんたも幸せそうだったから」
 すっと首に回された手に、ゆっくりと顔が引き寄せられる。
「あんたとの婚約の話だって、あたしはいつだってあんたが受けてくれることを望んでいたんだ。だけど、あんたはいつも逃げてしまうから、あたしは冗談だよって笑うことしかできなかった。本当は、冗談なんかじゃなかったのにね」
「……すまなかったな」
「ううん。あんたが謝ることなんてない。悪いのはあたしだから。ずっと昔に言うべきだった言葉を言うことができなかったあたしだから」
 彼の胸元に身体を寄せる、バーネットの意外にも豊かな柔らかさにウェインは狼狽していた。霞がかかるように、頭のどこかがはっきりとしなくなっていく。
「ねえ。あんたは、あたしのことをどう思っているの?」
「よくわからない」
 ああ。本当に、よくわからないよ。
 友人としては誰よりも気心が知れていると思っているのは確かだけど。
 あるいは、ムーアよりも気軽に話せる間柄だったかもしれないな。
 だけど、一人の女としてのバーネットは。
 俺にとって、いったいどういう人なのだろう。
「本当に、よくわからないんだ」
「じゃあ、あたしのことが嫌い?」
「嫌いなんかじゃないさ。むしろ、好きなんじゃないかな」
「あたしは、あんたが一番好きだよ」
 髪を結っていた紐がほどけ、波打つような金色の髪が夜に燐光を放つかのように広がっていく。そして、衣擦れの音。
「ずっと、夢見ていたんだ」
「バーネットっ」
「いつかこんな風にあんたに抱かれて、あんたと一緒に暮らす。そんな生活が始まることをずっと夢見ていたんだ。ウェインっ」
 日にあまり焼けていない、服に包まれていたバーネットの肌は闇の中でさえわかるほどに白かった。不思議なくらいに長い髪が彼を包み込み、甘い香りに酔わせていく。
 おずおずと、ウェインはバーネットを抱き寄せていた。熱っぽくなっている肌に触れ、胸の鼓動はどんどん高まっていく。身体の中で白い炎が走っていくのを感じながら、彼は最後に残っていた冷静さをふりしぼって潤んだバーネットの瞳を見据える。
「バーネット。俺は元とはいえ妻帯者だ。それに、エミリアだっている」
「そんなこと、わかってるよ」
 小さく笑いながら、バーネットはウェインの髪をゆっくりとかき上げる。
「あんたがムーアのことを忘れられないことも、エミリアちゃんが大切なこともあたしにはちゃんとわかってる。でも、そんなことあたしは構わない」
 甘えるように、彼の胸に顔を埋める。
「あたしは、あんたと一緒にいたいだけなんだ。ムーアをずっと想いつづけて、エミリアちゃんを何よりも可愛がっているあんたと一緒にいたい。ただ、それだけなんだ」
「……バーネット」
 頭のどこかで、彼を引きとめようとする声が聞こえたような気がした。
 だが、目の前の女性に対する想いがはっきりとした形となって彼の中に現れてしまったことはもはや否定のしようがなかった。
 まぎれのない歓喜が湧き上がってくるのを感じながら、ウェインはバーネットの肌に指をすべらせながらその身体を草のしとねの上に横たえる。
 ふと、汗ばんだ肌に指をすべらせるウェインの脳裏に、茶色の髪の大人しそうな娘の姿が浮かび上がった。
 ムーア。君はこんな俺を責めるだろうか。
 君への想いは偽りなんかじゃない。それは今だって変わりはしない。
 だけど、この気がついてしまった想いもまた、偽りじゃないんだ。
 だから……。
 いま初めて本当に女性として姿を現した幼なじみの少女に、ウェインはそっと口づける。
 夜を彩る星に包まれ、風の声と虫の歌だけがかすかに聞こえる薄闇の中、ウェインはすべての想いを吐き出すかのように強くバーネットを抱きしめた。


「エミリア。実は大切なお話があるんだ」
「う〜ん。どうかしたの〜?」
「エミリアに、新しいママができるんだ」
「えっ、ほんと?」
「本当だよ」
「新しいママって、ねねのこと?」
「そうだよ」
「わ〜い。エミリアにもママができるんだ〜」
「ねえ、エミリア。エミリアは、バーネットのことが好き?」
「うん。パーパの次に、大好きだよっ」


 6

 エミリアはバーネットのふくらんだお腹にじっと耳を当てていた。
 最初のころ、母親のお腹の中に赤ちゃんができたことをエミリアは信じられなかった。だが、今では大きくなったバーネットのお腹の中ででときどき小さく動くものが自分の弟か妹であることを信じるようになったらしく、いつしかその音を聞くことを楽しみにするようになっていた。
「ねえ、ママ。赤ちゃんはいつ生まれるのかなぁ」
「あと二ヶ月くらいって、医者が言ってたよ」
「じゃあ、二ヶ月したらエミリアに弟ができるんだね」
「弟かどうかはわからないけど」
「え〜。エミリアは弟がほしいなぁ」
「おいおい、そんな無理をママに言っちゃダメだぞ」
「あっ。パーパ」
 ウェインが部屋に入ってくるのを見ると、エミリアは勢いよく彼の足に抱きついた。そんな元気のいい娘の頭をウェインはそっと撫でてやる。
「おかえりなさい、あなた」
「ああ。ただいま、バーネット」
 お腹に手を当てながら彼に笑いかけるバーネットはどこから見ても母親といった雰囲気を漂わせていた。かつてのじゃじゃ馬からの変貌ぶりは村でも有名な話で、夫であるウェインすらもまだそんなバーネットの雰囲気に慣れきってはいない。
「あのねあのね。今日は赤ちゃんがいっぱいいっぱい動いたんだよ。エミリアが耳をこうやって当てると、とんとんって動くの」
「そうか。きっと元気な赤ちゃんなんだろうね」
「うん」 
 楽しそうにおしゃべりする三人を、ムーアは窓の外からじっと見つめていた。彼女のすぐ後ろには、白い翼を背にした天使が沈痛な面持ちで従っている。
「……貴女は、辛くはないのですか?」
 赤ちゃんが動いたのか、嬉しそうにはしゃぐエミリアの姿を見つめているムーアへ天使はそっと語りかける。
「何が辛いというのですか?」
「貴女の夫はバーネットという女性と結婚してしまいました。そして、あの女性の腹には彼の子供がいるのです。それなのに、貴女はどうして彼を憎もうともせずに彼らを見守りつづけることができるのですか?」
「私だって、憎まなかったわけじゃありません」
 弱々しい微笑を浮かべながら、ムーアは空を見上げる。
「だけど、エミリアはあんなに幸せそうじゃないですか。ウェインだって、バーネットさんと結婚する前よりずっと明るい顔をしている。バーネットさんにも、もうすぐ子供ができます。みんなが幸せになったというのに、それを憎めるはずがないじゃないですか」
 うつむいたムーアの目には、涙が縁ぎりぎりまで溜まっていた。
 透き通った水晶のようにきらめきながら。
 雫がこぼれ落ちる。
 また一つ、こぼれ落ちる。
「貴女はもう天へと召されるべきです」
 ムーアの涙を見ないようにしながら、天使は優しくムーアに声をかけた。
「彼らはもう大丈夫でしょう。貴女が見守らなくても、彼らはきっと幸せに生きていくことができるでしょう」
「そう……ですね」
 

 ウェイン。私は貴方とエミリアをずっと見守ってきました。
 私は貴方に一度も声をかけることができなかった。
 貴方が苦しんでいるとき、私にはただ祈ることしかできなかった。
 エミリアが寂しがっているのに、私はただ見つめていることしかできなかった。
 だから、貴方がバーネットさんを選んだことを責めたりはしません。
 貴方が私のことをまだ想ってくれていることを知っているから。
 私の願いどおり、エミリアを幸せにしようとしてくれているから。
 私は、ずっと待っています。
 いつか貴方が私と同じ場所に召される日まで。
 また貴方と一緒に暮らせることを。
「天使様。一つだけ、私のわがままを聞いていただけないでしょうか?」


「ね〜ね〜パーパ。この綺麗なものはな〜に?」
 ウェインの服の袖を引き、エミリアが差し出したものを見れば、それは銀で作られたロザリオだった。日の光を反射し、それは不思議な輝きを帯びている。
「……ムーア?」
 それはまぎれもなく、ムーアの両親が彼女に唯一残したロザリオ。
 ムーアとともに埋められてしまったはずの、彼女の大切な宝物。
「パーパ。どうかしたの?」
「いや……なんでもないんだ」
 エミリアを安心させるように笑いかけながら、ウェインはそのロザリオをエミリアの首にかけてやった。それが気に入ったのか、エミリアは無邪気にロザリオを手でいじくっている。
「ねえ、パーパ。この綺麗なものはな〜に?」
「それはね……エミリアの本当のお母さんからの贈り物さ」
 ふと、ウェインは窓から空を見上げてみる。
 今日もよく澄んだ空は、どこまでも遠くに続いていた。















〜あとがき〜

 こんにちは。最近ずいぶん影の薄くなった砂時です。
 掲示板とかではよく顔を出していたりするのですが、チャットではもはや存在すら忘れられていそうですね。とっとと苦痛でしかない受験勉強を終わらせなければ……
 初めての短編ですが、出来の方は時間をかけすぎたということもあって……またまた辛口コメントの期待できそうな作品です。もう少し短編の書き方は練習してみたいところですね
 そういうことで、感想をお待ちしています。辛口だろうがなんだろうがいくらでもどうぞ。楽しみに待っています。