君を忘れられないから(前編)
作:砂時





 0

 アーノルドが力なく彼の家の扉を叩いても、何ら反応は帰ってこなかった。明かり一つ灯っていない彼の家には人の気配がまったくない。
 肩を落とし、彼は家の中へときしむ扉を開けて入った。明かりを付けることもなく、ただまっすぐに彼はキッチンを抜け、右手の部屋のドアに手をかけ、開く。
 そこは彼と娘が起居を共にした寝室だった。枕の二つ置かれたベッドに腰掛け、彼は暗い室内を見回す。部屋はいつものように小奇麗に片付けられていて、いつも散らかしがちな彼の本も部屋の隅にある机に彼女の大切にしていたクマのぬいぐるみと一緒に重ねられている。
 枕元には、彼が娘に贈ったハンカチが置かれていた。彼はそれを手にとり、赤く充血した目でそれを見つめ、そっと頬にあてた。
 娘の残り香が、彼の鼻腔にほのかに漂ってくる。
 彼と娘が自分達で選び、迷った末にようやく決めた家。二人が共に夜を過ごした部屋。そこは何も変わっていない。娘が生きていた時そのままに。
「……アンジェっ」
 胸の内からどうしようもないほどの怒りが湧き上がり、アーノルドは布を引きちぎった。それだけで彼の憤りは収まるはずもなく、娘の衣装箱へ椅子を大きく振りかぶり、叩きつけた。それを何度も何度も、衣装箱の扉が砕けるまで繰り返す。
 アンジェ、君はどうして僕を残して死んでしまったんだ。
 なぜ、君が死ななければならないんだ。
 壊れかけた椅子を放り捨て、彼は床に膝をついた。やり場のない怒りが過ぎ去ってしまえば、彼に残ったものはただ言いようのない虚しさだけだった。涙さえ枯れ果て、憤りを叫ぶ言葉さえ彼には残されてはいなかった。
 本当は彼女は生きていて、また自分の元へ戻ってきてくれるのでは……彼にそんなほのかな期待がなかったと言えば、嘘になる。
 だが、彼はその目で棺の中で白い花に囲まれた彼女を見ていた。瞳を閉じたその顔は穏やかで、彼には眠っているようにしか思えなかった。だが、その棺は今は冷たい土の下。彼女の名前の刻まれた石盤の元に埋められているはずだ。最後の土が彼女の眠る棺を覆ったとき、彼の小さな希望も泡と消えた。
 小さな教会での結婚式。純白のドレスに身を包み、紅潮した頬を隠すようにうつむいた妻に、こちらも劣らず頬を染めた彼女の夫は約束した。きっと、君を幸せにする。そんなありきたりで、それでも偽りない彼の真実の想いを。
 それなのに、僕は彼女に何ができたのだろうか。
 苦しんでいる君に何もしてやれなかった。
 ただ側にいてあげることさえもできなかった。
 結局、僕は彼女に何もしてやれなかった。
 蓋を開けたように再び怒りが湧き上がり、彼は扉の砕けた衣装箱を床へ引き倒した。白いカーテンを引きちぎり、散らばった妻の服を踏み付け、黄色の花の生けられた花瓶を壁に投げつけて粉々に打ち砕く。
 アンジェ、君はどうして死んでしまったんだ。
 なぜ、君が死ななければならない。
 そして、君と永遠を誓ったはずの僕がなぜ君と離れたままここに生きているんだ。
 神よ、キリストよ、天使よ、サタンでも悪魔でもかまわない。
 誰でもいい。誰か、僕に答えてくれ……。
 どれくらいの時が過ぎたのだろう。
 枯れたはずの涙を溢れさせながら、アーノルドはその場に力尽きた。部屋の中は悪鬼となって暴れまわった彼の手によって見る影もない。ただ、娘が大切にしていたクマのぬいぐるみだけが無事に机の上でちょこんと座っているだけだった。
 もう、何もかもがどうでもいい。
 君のいない世界で、もう僕の生きる場所はない。
 それならば、僕は君の元へ行こう。
 彼は懐からナイフを抜くと、それを目の前にかざした。
 鈍い銀光を放つ刃の先に、彼は一人の少女がたたずんでいるのを見ていた。彼の追い求めた、ただ一人の最愛の人を。

 
 1

 久しぶりにアルフレッドが新聞社へ出社してみれば、普段でもなかば戦場のような職場はもはや激戦区に突入していた。
 死にもの狂いで書類や原稿に筆を走らせていないものはほとんどなく、そうでない者も山となった書類を抱えて駆け回っている。戦士達の大半は徹夜明けらしく、顔色は悪く目線も定まっておらず足取りはおぼつかない。おそらく、激戦は昨日の昼頃から続いているのだろう。
 どうやら誰かがドジを踏んだらしく、熊のような編集長の罵声が聞こえてくる。超音波の領域にでも入っているのではと思えるような大声に耳を塞ぎつつ、アルフレッドは知り合いに適当に声をかけながら自分の事務机に向かった。
 彼の机の上には、見覚えのない書類が山になって置かれていた。椅子に腰掛け、アルフレッドが煙草に火をつけようとしていると、一人の女性社員がふらふらと彼の隣の机に崩れ落ちた。
 まだ少女の面影を残した顔立ちに、肩のあたりでそろえた髪がよく似合っている、いかにも新入社員といった感じの女性だ。だが、やつれきった彼女の視線はまったく焦点を結んでおらず、顔色は死人のように青ざめている。
「よお、ジュリア。やっぱりあの熊野郎に怒鳴られていたのはお前か」
「……そうですよぉ。真っ白に燃え尽きちゃいましたぁ……」
 書類の上に突っ伏し、ジュリアは涙声で弱音を吐くとアルフレッドに恨めしげな視線を向けた。
「それにしても、どうしてアル先輩はこんな忙しい時に会社を休んでいるんですかっ?アル先輩がいないおかげで、私への負担がぐぐっと増えたんですからねっ」
「あのなあ、俺一人がいなくたって、お前にかかる負担なんざたかだか数十分の一しか増えねえって。それに、今回はちゃんと正当な理由があるんだぜ」
「まさか、怪しい女性と一緒に朝まで過ごしていたんじゃないですよね?」
「馬鹿なことを言うな。妹の葬式に行っていたんだ。ちゃんと熊野郎にも許可は取ってある」
「えっ。妹さんって、アンジェラさんですよね。亡くなられたんですか?」
「ああ。あいつは胸の病を持っていたからな。それが悪化して、あっけなく逝っちまった」
 顔色を変えてすまなさそうにしているジュリアに気にするなと手を振り、アルフレッドは机の上の写真立てに目をやった。
そこには、セント・ジェームズ・パークの水路の前で撮られた一枚の写真が飾られていた。大木の幹にもたれかかって煙草を口にくわえているアルフレッドの隣で、やや地味だがさっぱりとした服のアンジェラが兄の腕を抱いて微笑を浮かべている。そしてアンジェラの隣、アルフレッドとは逆の位置には、線の細い若者がアンジェラの肩を抱いている姿が見て取れた。
「あの……ずっと気になっていたんですけど、この写真でアンジェラさんの隣にいる人って誰なんですか?」
「ああ。こいつはアーノルドっていう俺と妹の幼馴染みで、あいつの夫だ」
「ええっ、アンジェラさんって結婚していたんですか?確か私と同じ十八のはずなのに」
 驚きをあらわにするジュリアにアルフレッドは苦笑し、
「まあ、結婚してからまだ半年と経ってはいなかったさ。本当は二十歳までは待たせようと思ったのに、アーノルドの奴がどうしても待てないって頼むものだからな……」 
 そう。まだ、あれから半年しか過ぎていない。
 結婚式の前日に撮った一枚の写真。そして結婚式。両親の顔すらほとんど覚えていないあいつを親代わりになって育てた俺の手から、あいつは愛する男の元へと旅立っちまった。
 寂しくないわけではなかったが、仕方のないことだ。それに、あいつの伴侶が俺が小さい頃から遊んでやっていたアーノルドだということは、少なからず俺を安心させた。
 あと何年かすれば俺もおじさんと呼ばれちまうのか。結婚式当日、俺はそんな冗談を二人に飛ばしてやったことを覚えている。
 だが、そんな冗談で二人の顔を赤らめさせてやることさえ、もうできはしない。
 失われてしまった時間は、もはや二度と戻ってくることはない。
「それにしても、アル先輩って本当に幸運ですよね。私達がこんなに苦労している時に限って会社にいないんですから」
「そういえば、この騒ぎはいったいどういうことだ?何か大きい事件でも起こったのか?」
 耳に響く騒音に、アルフレッドは眉をしかめた。普段であればこの時間帯は朝刊を発行した後なので、徹夜で勤務した社員が仮眠を取るほどには余裕があるはずだ。だが、今は仮眠室に入るものなど誰一人としてなく、誰もが血走った目で作業に没頭するばかりだ。
「ふっふっふっ。知りたいですかぁ?美しきジュリア様、どうぞ私に豪華な夕食を御馳走させてくださいって、頭を下げるなら教えてあげてもいいですけど?」
「無能社員が調子に乗るな」
「きゃあぁぁぁっ」
 頭をがっしと鷲掴みにされ、ジュリアは悲鳴を上げた。必死に振りほどこうともがくが、アルフレッドの筋肉質の腕からは抜け出すことができない。
「痛い痛いっ。すみません、許してくださいっ」
「今日の昼食、お前のおごりな」
「それって酷いですよっ。懐の寂しい後輩を脅迫するなんて!」
「ふう、なんか久しぶりに右腕を全力運転させたい気分なんだけどさ……いいか?」
「ごめんなさい。何でも言うこと聞きますから許してください」
「まったく……」
 アルフレッドが手を離してやると、解放されたジュリアは頭を抱えながら涙目で彼を見上げ、
「時々、アル先輩ってどう見たって肉体労働の方が似合うと思うんですけど……」
「汗臭い仕事は俺の趣味じゃないんだ。で、この騒ぎはいったいどういうことだ?」 
「ここのところ、倫敦市街で殺人事件が多発しているんですよ。世間では、切り裂きジャックの再来だってみんなで噂しています」
 切り裂きジャックのことを知らない英国人など、おそらく一人としていないだろう。
 ほんの三ヶ月のうちに娼婦ばかり五人を殺害し、警察にその死体の一部を送り届けるような殺人者。殺しの手口は残虐かつ猟奇的であり、喉を掻き切られ、耳をこそぎ落とされ、下腹部を裂かれたものもあったという。
 初めて切り裂きジャックがその姿を現してからもう十数年の月日が流れている。だが、いまだジャックは捕まってはいない。世間では、ジャックはまだ倫敦の街に潜んでいていつかその姿を再び現すのではないかと噂する者も少なくなかった。
「で、やっぱり殺されたのは娼婦で、死体は肉屋のべーコンよろしく切り分けられちまっていたりするのか?」
「ううん。全部が同一犯ってわけじゃないでしょうけど、殺されているのはだいたいスラム街の男性浮浪者。最も多い被害者の外傷は鋭利な刃物で喉笛を裂かれたものだそうですよ」
「ちっ。ホモの上に面白みのない殺し方をしやがって」
「……アル先輩、それって危険思想入ってますよ」
「冗談だ。それにしても、こんな騒ぎになるくらいにそのジャックもどきは人を殺したのか?」
 アルフレッドの問いに、ジュリアは彼の机の上に置かれていた書類の一つを彼に手渡す。
 それは、倫敦市街での殺人事件に関しての書類だった。被害者の名前や外傷、犯行現場、付近の状態が記されており、ジャックの犯行とおぼしきものには赤線が引かれている。
「ここ一週間で倫敦市街での殺人件数は普段の数倍に膨れ上がっています。増えた件数がすべてジャックもどきの仕業だとすると……約六十人ってところでしょうか」
「おいおい。切り裂きジャックの記録なんかとっくに更新しちまっているじゃねえか。殺しの手口を差し引いても、正気の沙汰じゃない」
 赤線の引かれた数の多さに、アルフレッドは軽い目眩を覚えた。 
「おかげで、警察も私達の新聞社も大忙しですよ。今や倫敦中がジャック再来の噂でもちきりですからね。他の新聞社に負けないようにって、編集長も気が立っているんですよ。ちょっとしたミスで私のことを怒鳴るんです。おかげで、取材の仕事を言いつけられてしまったんですよぉ」
「何でそんなに嫌がってるんだよ。お前はデスクワークよりも外で取材している方がいいって言っていたじゃないか」
「私、三日間もろくに寝てないんですよ。いくら外が好きでも、ベッドの方がいいです」
「三日ねえ。どうせお前のことだから書類を書き間違えたり、それが期日に間に合わなくて徹夜したり、コーヒーを机にぶちまけてそれを書類に染み込ませたりして他人の足を引っ張りまくったあげくに編集長の逆鱗に触れたんだろ。それで、休む暇なく牛馬のように働かされているわけだ」
「うっ……」
 声もなくうなだれるジュリアに、アルフレッドは溜息をついた。学生時代からの彼の後輩である彼女がここに就職してからもう一年。腐れ縁が祟って彼女の膨大な失敗のとばっちりはすべて彼に回ってくることになっており、おかげで彼の気苦労は耐えることがない。今回は彼が不在であったからよかったようなものの、会社にいたのならほぼ確実に彼もジュリアと同じ目にあっていただろう。
「あと、忘れてましたけど編集長からアル先輩に伝言です。今回の取材において私一人で行動させるのは不安なので、アル先輩が同行するように。だそうです」
「……なぜ俺が?」
 まあ、理由なんかわかっているんだがな。
 昔っからそうだった。こいつが何か失敗したとき、そのツケはすべて俺に回ってくる。
 本当に、昔っから変わっちゃいない。場所は変わろうとも、どれだけ時が流れても、こんなところばかりまったく変わっちゃいないんだ。 
 不思議なおかしさに、アルフレッドは口元に小さな笑みを浮かべた。
「ま、俺も外の方が好きだし、お前に付き合ってやるよ。その代わり昼食はお前のおごりだぜ」
「そんなことは忘れてくださいよぉ」
 情けないジュリアの声に、今度こそ声を上げてアルフレッドは笑った。胸の奥でわだかまっていた途切れぬ悲しみが薄らいでいくのを感じながら。


 2
 
 霧の街倫敦とはいえ、まさか街がいつも霧に覆われているというわけではない。
 空を仰ぎ見れば、そこには珍しく澄み切った蒼が広がっている。倫敦の天候は不安定なので、いつもこういった空が見られるわけでもないのだが、やはり曇り空よりは日差しの差し込む空の方が倫敦の街が美しく見える。
 煉瓦造りの小さなカフェの窓際の席で紅茶を啜りながら、アーノルドは窓の外に映る景色を見つめていた。
 石畳の道路では乗合馬車が蹄の音をたてて走っており、道路の向かい側ではパン屋の主人が通りがかりの主婦を引きとめて世間話に興じている。遥か遠くには背の高い赤煉瓦の塔が見え、そこからは時報を知らせてくれる鐘の音が小さく聞こえてくる。
 そんないつもと何ら変わりはしない倫敦の街を眺めながら、彼はアンジェラと共に過ごした日々に想いを馳せていた。
 二人手を繋いで出かけた倫敦の街。目的などはなく、ただ色んな場所を歩き回り、面白そうな店を見つけては小物などを買い、歩き疲れるとカフェで紅茶を飲み、少し休むとまた二人で手を繋いで歩き出す。
 何をするでもなく、ただ二人でいられる時間。幸せだった、二人だけの時間。もう二度と戻っては来ない、大切な二人の時間。
 だけど、もしそれが取り戻せるのなら。
 頭の前で祈るように手を組み、彼はそれに額を押し付ける。
 再びアンジェと二人、昔のように手を繋いで歩くことができるのなら。
 アンジェと一緒にもう一度、二人だけの生活を過ごすことができるのなら。
 僕は……。
 彼は立ち上がり、代金を店員に手渡すと倫敦の街に出た。
 外に出れば、そこは静かな店内とは違い、様々な音に溢れている。
 吹きつける風は穏やかとはいえ、冬の風はやはり冷たい。
 喧騒に溢れる街を嫌うように、彼はできるだけ静かな場所を探して歩き出した。
 どれだけ歩いたのだろう。
 いつしか、彼はセント・ジェームズ・パークの中にいた。
 水路を流れる水の音が静かに聞こえてくる。公園の中に人影は少なく、この静けさを破るような無作法な者もいない。彼はそんな心地よい静寂の中をゆっくりと歩いていたが、やがて一本の大木の前で立ち止まると、その根に腰を下ろした。
 その大木は、かつて彼がアンジェラとその兄のアルフレッドと一緒に写真を撮った木であった。あの時は緑に染められていた葉も、今では冬の足音と共にすべて枯れ果ててしまっている。
 冬を告げる、葉を失った木を見上げながら、彼は愛しい人の姿を見ていた。
 アンジェ、僕の大切な人。
 もし、もう一度君と一緒に暮らすことができるのなら。
 またこの手に君を抱きしめることができるというのなら。
 僕は、悪魔との禁断の契約でさえ恐れはしない。
 見上げる空はいつの間にか夕焼けに包まれている。まもなく空は紺色に染められていき、いずれ夜を迎えることだろう。徐々に世界が薄闇に包まれていく中で、彼はただ娘の微笑みを見つめていた。その表情はまるで子供のようにあどけなく、どこか頼りなさを漂わせていた。
 やがて月がその姿を現し、白光が倫敦の街に降り注ぐ頃、彼は闇に溶け入るようにそこから姿を消していた。


 3

 ふとアルフレッドが窓から夜空を見上げれば、そこには夜の闇を彩るように瞬く星達の姿を認めることができた。倫敦の街は霧が発生しやすく、また天気もすぐれないことが多い。そして何より、ここ最近は夜空に目を向けることなどなかったこともあって、彼にはその星達がとても貴重なもののように思えた。
「アル先輩、格好つけて夜空なんて見上げないでください。恥ずかしいじゃないですか」
「うるせえな。どうせ誰も気にしていないだろうが」 
 チーズを一口つまみながら茶化すジュリアに舌打ちしつつ、アルフレッドは馴染みのパブの中を見回した。店の中に座席などはなく、誰もが背の高いテーブルやカウンターを相手にして食事をする。こういった店は老舗のものが多く、当然料理や酒の味も折り紙付きだ。常連の客も多く、アルフレッドとジュリアもまたこの店にはよく足を運んでいた。
 だが、普段なら夕食時より少し遅いこの時間、テーブルもカウンターも満席のはずなのだが、今日はやけに空席が目立つ。また、いつもならば談笑に溢れているはずの店の雰囲気もどこか沈んでいて、まるで店内に霧がかかっているかのようだ。
「やっぱり、これも切り裂きジャックの影響なんでしょうか?」
「まあ、そうだろうな」
 アイリッシュコーヒー、いわゆる酒入りコーヒーをすすりながら問い掛けるジュリアに、アルフレッドはジョッキを軽く上げてみせた。
「いくら殺されている者の大半が浮浪者とはいえ、一般人の被害者だって少なくないからな。いくら星が出ているとはいえ、夜中に出歩くなど危険この上ない。そのせいか、深酒する客も少ない。まるで禁酒週間みたいだな」
「ジョッキで派手に飲んでいるのなんて、アル先輩だけですよ」
「酒は人生の妙薬だぜ。飲めるときには飲まないとな」
 ジョッキに半分ほど残っていたビールを一息に飲み干し、彼はテーブルに置かれていた白ワインのグラスを手に取る。
 彼とジュリアが取材の仕事を終えたのは、街が夕暮れを迎えようとしていた頃だった。仕事の内容はボンド通りという倫敦でも古い歴史を持つこの通りに並ぶ店についての取材。まさか今話題の切り裂きジャックのことだけで新聞を埋めるわけにはいかないとはいえ、非常に重要性の低い仕事ではある。
 まあ、そんな仕事に回されたおかげで会社では今も激戦中であろう時間帯にパブで呑気に酒など飲んでいられるわけなのだが。
「ねえ、アル先輩。聞きたいんですけど、アーノルドさんってどういう人なんですか?」
「どうしてそんなことを聞くんだ?」
 首をかしげるアルフレッドに、ジュリアは小さく笑い、
「ただの興味ですよ。特に意味はないです」
「……まあ、いいけどな」
 どうして、俺はこんなことまで話しているのだろう。
 普段なら、話すべきことではないはずなのに。
 そういえば、ここ最近は誰かと話すことなどほとんどなかった気がする。
 それなのに今は口が軽い。どういうわけか、色んなことを吐き出してしまいたい気分だ。
 少し、飲みすぎたのかもしれない。
「アーノルドは昔から俺の家の近所に住んでいたんだ。あいつの母親は若くして死んだらしくて、父親も鉱山で仕事してあまり家に帰らなかったからあいつは一人でいることが多かった。それを見かねたアンジェの奴がアーノルドの奴を家まで引っ張ってきたんだ」
 呼び鈴を鳴らす音にドアを開けてみれば、そこにはいつもなら一人で帰ってくるはずのアンジェラが見知らぬ少年の手を引いていた。彼の問うような視線に、少年はうつむきがちに自分の名前を紹介し、おずおずと遥かに背の高かった彼に握手を求めた。
「あいつは男のくせにどこか気の小さいところがあって、よく泣いてはアンジェの奴に叱られていたな。はたから見ていれば、どう見てもアンジェの方が奴よりも年上に見えた。あいつらを見ていると、まるで姉と弟のような感じがして、俺も弟ができたみたいで嬉しかったよ」
 木の実を狩りに出かけた森の中。初めて訪れる場所に不安になり、泣き出したアーノルドをアンジェラはその頭を撫でるようにしてなだめていた。夕暮れの帰り道、木の実をいっぱいに詰めたバスケットを抱えて二人は一緒に笑っていた。
「結局、あいつらの関係はずっと変わらなかった。まさに姉と弟といった感じで、一部では本気で家族だと思われていたらしいからな。俺も実はそう思っていたから、アーノルドの奴がアンジェラにプロポーズしたと聞いたとき、正直なところ驚いた。あの二人が夫婦になるなんて、まったく予想もしていなかったからな」   
 結婚式を彩る鐘の音と賛美歌。純白の花嫁衣裳を身にまとい、ブーケを手に笑顔で彼の元へ歩み寄る花嫁。その隣には緊張のあまり彫像のように固まったアーノルドが顔を真っ赤に染めている。皆の祝福の中、花嫁の放ったブーケは狙い誤らず彼の手へと渡された。
 あれから半年。そう。まだ半年しか過ぎてはいない。
 まさか、たった半年であいつらに終わりが来るなんて想像もできなかった。
「だが、今ではお前も知っている通りアンジェの奴は死に、葬式も終わっちまった」
「アーノルドさん、悲しんだでしょうね」
「まあ、な。俺はあいつが後追い自殺しないかと心配だったよ。葬式の間にずいぶんとやつれちまったし、視線も虚ろでまともに話すことすらできそうになかった。一日中アンジェの遺体の側で祈ってばかりいて、食事すら満足にとっていなかったと思う。葬式が終わった後は青い顔して帰って行ったが、これから大丈夫なのか……」
 だがな、アーノルド。悲しんでいても仕方がないんだぜ。
 アンジェは天に迎えられ、俺達はこの世に残された。それは変えようもない。
 でも、残された者は自らも天に迎えられるその時までただ生き続けるしかない。それしかないんだ。
「アル先輩も、やっぱり悲しいんですね」
「俺が?馬鹿言え」
 アルフレッドはグラスを半分ほど傾け、小さく息をついた。
「俺はアンジェの死をもう気にしちゃいない。誰だっていつかは死ぬんだからな。それに、あいつは小さい頃から胸が悪かったからいつかはこういう日が来ると思っていた。だから……」
「アル先輩って、嘘をつくのが下手ですよね」
 呆れたようにジュリアは溜息をつき、飲み干したカップをテーブルに置いた。
 騒がしかった喧騒が、今は遠くに聞こえる。
「別に強がらなくたっていいんですよ。私とアル先輩の仲ですから」
「そういう意味深な言い方はやめろ」
「実際、学生時代からもう何年の付き合いになっていると思っているんですか?」
「……その付き合いが俺にとっては悪夢のような気がしてならない」
「人を疫病神みたいに言わないでくださいっ」
「お前を疫病神と呼びたくなる俺の気持ちも考えてみろっ。学生時代からことあるごとにお前のミスはすべて俺に回ってきたんだぞ。何が悲しくてお前の追試対策を俺が世話しなくちゃならなかったんだ?どうしてお前が休んだら休んだで俺が資料を届けなくてはならなかったんだ?お前が遠足で迷子になったらどうして俺が探さなければならないんだ?俺は学校にいたっていうのに……」
「ううっ、私知らないですもん」
 過去の行いを指折り数え、彼は怒りを含んだ目で机に垂れているジュリアを睨みつけた。
「しかも、うちの会社にお前が遅れて入社してからも大変だったなあ。どうしてお前が失敗すると俺まであの熊野郎の説教をくらわないといけないんだ?確か入社三日目でやってくれたっけ?しかも手に余る仕事はいつも俺に押し付けやがって。おかげで仕事量がお前が来る前の二倍くらいに膨れ上がった気がしてならない。まったく……」
 アルフレッドは額を押さえながら小さく笑みを浮かべ、
「まったく、お前はまるで手のかかる妹のようだよ」
「確かに、会社のみんなもそういう目で見てますからねえ。いっそのこと、アル先輩の家にお世話になってもいいですか」
「ありがたく辞退させていただく」
 即答しつつ、膨れているジュリアを無視して彼は窓の外に何気なく目をやった。窓の外の景色は先ほど星を見上げたときとは違い、わずかに白みがかかっている。
「霧……」
「深くなりそうだ。こいつは早く帰ったほうがいいな」
 底の方に残っていたワインを飲み下し、マスターに声をかけて銀貨を放ると、彼はもう荷物をまとめて外に出ていた。先ほど彼が店の中から外を眺めていた窓には、急いで皿の上のチーズを頬張っているジュリアの姿が見える。
 冷たい風が吹いている。その冷たさに彼がコートの前を合わせていると、蹴り飛ばすようにドアを開ける音と共にジュリアがチーズでいっぱいになった口のまま転がるように店から出てきた。明らかにマナーに反した行動ではある。
「ひどいじゃないですかっ、置いていかないでくださいよ」
「喋るな。口の中が見えるぞ」
 一言でジュリアを黙らせ、アルフレッドは石畳の歩道を歩き出した。その後を口を押さえたままジュリアが続く。
 倫敦の夜は暗い。街灯が設置されているとはいえ、その光は蛍の灯のように小さく、霧に包まれた夜を照らすにはひどく心細い。大通りならともかく、脇道には街灯など設置されてはいないので、夜にはカンテラを持ち歩くことが一般的だが、大通りを歩くだけなら街灯の明かりだけで問題はない。
 だが、今日の倫敦の街は人がやけに少ない。普段ならよく見るはずのカンテラの明かりは一つも見えず、霧のおかげで周囲の様子さえよくわからない。耳に入る音は風の音くらいのもので、街中だというのに人の声はまるで聞こえない。
「アル先輩、なんか不気味ですね」
 いつの間にかジュリアは彼の腕にしがみついている。そんな彼女に苦笑しながら、アルフレッドはその頭を少し乱暴に撫でてやった。
「こうされると落ち着くだろ。子供の頃はアンジェやアーノルドが泣くたびにこうやってやったんだが、どうやら効き目があるらしい」
「確かに落ち着きますけど……なんか子供扱いされているみたいで好きじゃないです」
 うつむいて膨れてみせるジュリアの横顔は妙に可愛らしく、アルフレッドはそんな彼女にたまらなく意地悪してみたい誘惑に駆られた。
「それなら、お前が子供かどうか試してみようか」
「えっ」
 そのまま、アルフレッドはジュリアを強く抱き寄せる。彼女の方から彼の腕を抱いているので、体の向きを変えればすぐ側にまで二人の顔は近づく。ジュリアの頬は薄い明かりの中でもわかるくらいに赤く染まっていた。
「ちょっとアル先輩、こんなところでやめてください!」
「子供じゃないんだろ?それなら、そうやって照れるなよ」
「でも……」
 ためらいがちに横を向いているジュリアの顎を彼はそっと上げた。その動きに抵抗はほとんどなく、二人の顔は更に近づく。彼女の瞳はまだ戸惑いを浮かべてはいたが、拒絶の意思はどこにも見あたらなかった。
「さあ、身体の力を抜いて目を閉じるんだ」
 彼の言葉に、ジュリアは少し戸惑いながらも目を閉じ、緊張を残しながらもすっと身体の力を抜く。その頬は燃えているかのように赤く、彼の胸に伝わる鼓動は心臓が裂けはしないかと心配するくらいに高鳴っている。
 瞳を伏せ、ただ彼の口付けを待つ少女。アルフレッドは顎につけた手をそっと彼女の背中に回し、彼のほうへと寄せるようにして。
 もう片方の手に忍ばせていたチーズの破片を、その震える唇に押し付けた。
「ううんっ?」
 すっとんきょうな声を上げて瞳を開くジュリアに、アルフレッドは悪戯っぽい笑みを浮かべてその額を軽く押した。
「どうやら、まだまだ子供だったみたいだな」
「あ、アル先輩っ。女の子を侮辱しましたねっ!」
「嘘をつく方が悪いんだぜ」
「関係ないですっ。絶対に許しませんから覚悟してください!」
 怒り狂った彼女の一撃を軽くいなし、アルフレッドは笑いながら夜道を駆け出した。ジュリアもまた懸命にその後を追うが、二人の距離はまったく縮まることはない。息を切らせて走るジュリアの存在を背中に感じながら、彼は胸の奥に暖かいものを感じていた。
 そういえば、アンジェが死んでからはこうやって笑うことなどまったくなかったな。
 たった二人の家族だったんだ。あいつを失って、悲しくないわけがない。
 だが、悲しみは忘れなくてはならない。そうしないと、あまりにつらすぎるから。
 忘れることは難しいかもしれないが、こうやって笑っていることができるのなら。
 ただ心の底から笑う。それができるというのなら……。
 後ろを振り向けばジュリアはそろそろ限界らしく、彼との距離はずいぶん広がっている。そろそろおしまいにしようと彼が足を止めようとすると、足に変な感触が伝わってきた。
 足元を見れば、それは水溜りのようだった。だが、踏みしめる感触はただの水とは違いどこか抵抗が感じられる。鼻につく妙な匂い。そして、薄い街灯の明かりに照らされた水の色は。
 夕暮れに見た空の色よりも遥かに深い紅。
 彼は思わず脇道へと視線を向けた。その先の地獄の穴のような暗がりの中に転がっているものを見て彼は言葉もなく一歩後ろに下がり、その背中にふらついたジュリアが鼻をぶつけてうめいた。
「痛ったぁ。もう、急に、止まらないでください……それとも、どうかした、んですか?」
「いや……何でもない。さっさと帰るぞ」
 アルフレッドは何気ない素振りを装って息切れしているジュリアの背中を押す。
 そんな彼をジュリアはいぶかしそうに見上げていたが、不意にその瞳が驚愕に凍りつくのを見て彼は舌打ちした。
 見ちまったか……あんなもの見せたくなかったんだが。
 だが、ジュリアの視線は下を向いてはいない。その視線の先はアルフレッドの背中の向こうにある。 もし、あの凄惨な殺人が今まさに行われたものだとしたら。
 この倫敦で大量殺人を起こしている奴、それは。
 ほとんど本能的な動きで彼はジュリアを突き倒し、自分もまた石畳の上へと身を投げた。その襟元を冷たい風がすっと横切る。
 あとほんの一瞬でも遅れていたら、彼もまた先ほどの死体の仲間入りをしていたことは間違いない。 背後を振り返れば、鈍い光が彼の喉元へと迫ってくるのが見えた。必死に身をよじり、右腕を薄く裂かれたもののなんとかそれを避ける。
 薄闇の中、彼は自分を見下す殺人者の影を見た。
 それは彼が想像していたよりもずっと細く、背も彼よりずっと低かったが、その手に握られた刀身の長いナイフは身体に震えが走るほどに凶暴な光をたたえている。
 だが、相手が自分よりも体格が劣るということは、彼の最高潮に達していた恐怖感を多少なりとも軽減させてくれた。
 振り上げられた光を、彼は膝をついた姿勢のまま見据えていた。
 ジュリアが彼の名を叫ぶ悲鳴が聞こえてきたが、それもまた遠いものに感じられた。
 間近に迫ってくる死から背を向けようとする気など彼にはなかった。
 ましてや、素直に死を受け入れることなどは思いもよらない。
 ただ、胸の奥から湧き上がってくる熱いものが彼を支え、身体を突き動かす。
 彼の頭部へと光が振り下ろされる。それが彼へ届く前に、彼は手元に転がっていた鞄を盾のように構え、光を受け止めた。
 同様を見える相手に彼は無我夢中に体当たりをくらわせ、地面へと叩きつけてやる。だが、二の腕に鋭い痛みを覚え、彼はそこにうずくまった。
 刀身は鞄を貫き、彼の腕へ突き刺さっていた。血が彼の腕から流れ落ち、石畳を朱に染めていく。
 血に彩られた腕を押さえ、脂汗を浮かべながら彼は街灯に照らされた相手に顔を向ける。
 電撃が彼の身体を貫いた。
 片手では数え切れないほどの人間を殺し、今まさに一人を殺し彼に一撃を与えた者の素顔。それは、
「……冗談だろ?」
 街灯の下にうずくまる義兄弟の姿を見たとき、彼の口からはそれしか言葉が出なかった。ジュリアもまた、何も言えずに身体を振るわせるばかりだ。アーノルドもまた、まさか相手が彼であるとは思わなかったのだろう。その眼は驚愕に見開かれている。
「アーノルド、お前がやったのか?」
 信じられない。
 お前が、あれほどの人達を殺したのか?
 お前が、この俺を殺そうとしたのか?
 自分の腕を刺した虫さえも殺すことをためらうようなお前が。
 な、ぜ……?
「答えろっ、アーノルド」
 彼の問いに、アーノルドは何も答えなかった。ただ、その瞳を同様に揺らせ、うろたえた表情で彼を見つめるばかりだ。それはまるで、罪を犯した子供のようだった。
 その姿は、少なくとも人を一人殺し、先ほど彼を死の淵にまで追い詰めた者と同一人物とは到底彼には思えなかった。
 ジュリアの悲鳴が聞きつけたのだろう、複数の足音が近づいてくる。石畳を踏む音に、アーノルドは何も言わずに彼に背を向けて先の見えない闇へと駆け出した。
 彼の方へと何度も振り返りながら、その姿は遠ざかっていく。
 それを呼び止めることも、ましてや追いかけることもアルフレッドの頭の中からは喪失していた。
 ただ、彼の手の届かないところへと駆け出していく義兄弟の姿をその姿が闇に包まれるまで見ていていることしか、今の彼にはできなかった。















    〜あとがき〜
 
 皆さんどうもお久しぶりです。ようやく書き上げることができました。
 創作日数はこの前より長かったんですけど、前作よりもうまく書けなくなっているような……。未熟さ全開、かなり情けない。
 辛口でも酷評でもこの作品の感想をよろしくお願いします。自分ではどこか悪いのか全然わからないので……。