君を忘れられないから(中編)
作:砂時







 朝のテムズの水面は、足元さえ見えにくいほどの濃霧に覆われていた。
 どこからか霧笛の音が遠く聞こえてくる。音が聞こえた方に目をやっても、テムズを走っているであろう舟の姿は霧に紛れて見えない。霧が晴れているならば鮮明に見えるであろう倫敦塔もまた、霧にその姿を覆い隠されてしまっていて、かすかな輪郭さえ認めることはできない。
 その向こうを見ることのできない霧を河沿いの歩道から眺めながら、無意識にアルフレッドは包帯の巻かれた左腕を手で押さえていた。
 つい数日前に刻まれた傷。その傷自体は決して深いものではなく、出血こそ多かったが今では自由に動かすこともでき、痛みもたいしたことはない。だが、そんな痛みよりもむしろ、彼にとってそれは精神的な傷として深く刻み込まれ、その痛みは今も癒えることがなかった。 
 歩みを進めながらも、アルフレッドの視線はテムズの霧を見つめたまま離そうとはしなかった。じっと目を凝らし、乳白色のカーテンの向こうを見透かそうとする。だが、いくら見つめてもその向こうに何があるのかをうかがい知ることはできなかった。彼が義弟の心をいくら理解しようとしても、決して理解できはしないように。
 どうしてなんだ、アーノルド。
 人を傷つけることなどできそうにもなかったお前が、どうして人の命を奪い続けている?
 お前は何か意味を持って人の命を奪っているのか?
 それならば、お前がそこまでするほどの意味とはいったい何だというのか?
 彼が義弟に腕を刺され、駆けつけた人達に病院に運び込まれて治療を受けている間、彼の新聞社からはしきりに今回の事件を書類にして提出するようにと指令が来ていたが、彼は決して義弟の名前を出そうとはしなかった。
 本当は義弟が犯人であるなどと信じたくなかったからかもしれない。だが、心のどこかでは彼はもう義弟がジャックの再来であることを認めていたのだ。
 病院で手当てを受けている間に彼が読んでいた新聞によれば、切り裂きジャックの再来によるものと見られる犠牲者はかつてのジャックの比ではなく、市民の緊張が高まるにつれていよいよ倫敦市警や首都警察も本格的に動き出そうとしているらしい。
 一応新聞記者を務めているアルフレッドとしては、ここ最近の警察の無能ぶりからしてアーノルドがそう簡単に捕まるとは到底思えなかったが、それでも彼の胸の内は穏やかではなかった。
 何とかして、俺はアーノルドの奴に会わなければならない。
 たった一度、ほんの少しでもあいつと話さなければならない。
 そうしたところでどうなるかなど、俺にはどうにもわからないが。
 少なくともあいつの義兄として、できることはすべてやってみせよう。
 そうでもしなければ、今頃は安らかに眠っているだろうアンジェに申し訳ないからな。
 やがて、踏みしめるものは湿った土ではなく、石畳の道へと変わっていく。薄い霧がかかっているが、朝の倫敦の街はたいていこんなものだ。むしろ晴れている方が珍しい。人通りの多い路地を人と肩をぶつけながら歩いていると、ようやく目当ての店が見つかる。
 白を基調とした、いたって質素な造りの店だ。雰囲気はどこか女性的な感じがあり、テラスに並べられているテーブルや、窓にほんの少しかかっている純白のカーテンなどにその趣味のよさをうかがうことができる。
 アルフレッドが店に入ると、店内に座って朝食をとっている客は彼も予想はしていたがやはり女性客ばかりだった。集まる視線にかなりの居心地の悪さを感じながら、彼は窓際の席に座って紅茶をすすっているジュリアの姿を見つけて、声をかける。
「よっ、久しぶりだな、ジュリア。少しは痩せたか?」
「ええ……おかげさまで」
 彼を見上げるジュリアの顔色はこころなしか青ざめていた。見るからにわざとらしい感じの作り笑いは引きつっていて、こめかみのあたりは小さく脈打ち、カップを持つ手は小刻みに震えている。彼女の背中から何か見えざるものが熱く噴き出しているようで、さすがのアルフレッドも思わず一歩後ろに下がった。
「数日振りの再開だってのに退院おめでとうの言葉もないとは……なあ、ジュリア。ひょっとしてお前、何か怒っているのか?」
「心当たりがないわけじゃないですよね、アル先輩?」
「あ、ああ……もしかして、お前の持っていたシャーロック・ホームズの本を無断でグロースの奴に貸してまだ返していないことか?それとも、お前の学生時代の馬鹿話を酒の話題にしたこととか。実験室の話は皆が爆笑してくれたからなぁ。体育祭の話でもよかったけど」
「……それも許せないけど、私が怒っているのはそんなことじゃないですっ!」
 両手をテーブルに叩きつけ、ジュリアは喉が裂けんばかりの叫び声を上げた。叩きつけた反動でカップが宙に跳ね上がったが、アルフレッドがさっと手を出してそれを受け止める。
「よくもよくも私をアーノルドさんの家へ行かせましたねっ。すっごく怖かったんですよっ。今だって震えが止まらないんですよっ」
「肝試しさ。いいダイエットになっただろう?」 
「だからって……」
「まあ、落ち着けよ。これだけ女性に注目されると頬が赤くなっちまう」
 ようやく自分が周囲の注目を集めていることに気づいたらしい。慌てて座り直し、アルフレッドがうやうやしく差し出した紅茶を一口啜る。それでようやく落ち着いたらしく、ジュリアは小さく息をついて彼に椅子をすすめた。
「まったく……少しは回りの目を気にして騒げよ」
 椅子に腰掛け、足を組みながらアルフレッドは口にくわえた煙草にマッチで火をつけた。左腕が包帯で束縛されているとは思えないほどに自然な動きだ。
「そんなこと言うなら、アーノルドさんの家にいたいけな女の子を行かせないでください」
「お前がウエストが気になるとか言っていたから先輩としてダイエットを手伝ってやったんだ。ありがたく思え。そもそも、俺がお前にアーノルドの家に行ってくれって頼んだら、お前はちゃんと首を縦に振って合鍵を受け取ってくれたじゃないか」
 肩をすくめながら、アルフレッドは何か興味深そうにこちらを見ているウエイトレスに紅茶を注文する。
「ベッドの上であんな死にそうな顔されて頼まれたら、誰だって断れませんよっ。しかも、命の恩人の頼みを断るのか、とか散々脅されたらもう引き受けるしかないじゃないですかぁ」
「おいおい、そんな涙目で睨むなよ。そもそも、最初からアーノルドの奴が家にいないことはわかっていたんだからさ」
「えっ」
 目を丸くするジュリアに、アルフレッドはからかうように笑いかけた。
「おいおい、よく考えてみろよ。仮にアーノルドの奴が切り裂きジャックの再来だとすれば、俺を刺したからには自分の家にいると思うか?もし俺が警察にちょっとあの夜のことを教えてやって、あいつが家にいたのなら速攻でとっ捕まるだろうぜ」
「だけど、何か大切なものを取りに戻って来ていたところにばったり出くわす可能性もあったんじゃないんですか?」
 詰め寄るジュリアに、アルフレッドは窓の外に目をやりながら小さく煙を吐き、
「だとしたら、今日の新聞はお前の死体で賑わっていたかもしれんな」
「冷静に爆弾発言しないでくださいっ!」
「そんなに大声出すなって。ほら、頭撫でてやるから」
「うんっ……」
 苦笑しながらアルフレッドが頭を撫でてやると、ジュリアはまだむすっとしながらもくすぐったそうに笑った。こういうときのジュリアは、実際の年齢よりもかなり幼く見える。というか、ほとんど猫。
 小さく音をたててアルフレッドの手元に紅茶と陶器の灰皿が置かれた。さきほど彼が紅茶を注文したウエイトレスが瞳に妬みの色を浮かべながら二人を見つめている。その視線に、ジュリアは頬を染めて慌てて彼の手を振り払った。
「ところで、アーノルドの家はどうなっていたんだ?あと、近所の人達には最近のアーノルドの様子についても聞き込んできてくれたよな?」
 ウエイトレスが足音を荒げて去っていくのを認めてから、アルフレッドは再び話を切り出した。
「任せてください。このジュリアちゃんの仕事に不覚はないです」
「……お前の仕事はいつも不覚だらけだった気もするが、まあいい。それで、どうだったんだ?」
「ええ。アーノルドさんの家の近所の人達の話では、アンジェラさんが亡くなってからアーノルドさんの様子は見るからにおかしかったそうです。挨拶をしてもほとんど反応がなかったそうですし、夜中には家からすごい物音が響いてきたとか」
 得意そうにまくしたてていくジュリアの説明に、アルフレッドは眉をひそめた。
「それで、家の中はどうだったんだ?」
「すごかったですよ。まるで動物の群れが暴れ狂ったみたいに破壊されていました。どこもかしこも穴だらけで、無傷な家具なんてほとんどありませんでしたからね」
「……それじゃ、決定だな」
 アルフレッド重々しく息をつき、大袈裟な身振り手振りで壊された部屋についての説明を続けているジュリアに一枚の切り抜きを見せた。
 それは、倫敦郊外の公共墓地で埋葬されたばかりの遺体が何者かに掘り返されてそのまま行方がわからなくなっているという掘り返された墓の写真付きの記事だった。記事の日付は一週間ほど前のもので、遺体については何の説明もされていなかったが、ジュリアにしてみればだいたいの見当はつく。
「……やっぱり、これってアンジェラさん?」
「ああ。病院でこの記事を見つけて、今日の朝早くに墓守に問い詰めてきたんだが、本気で驚いたぜ」
 乱暴に前髪をかきあげ、アルフレッドは不機嫌そうに煙草をふかす。
「墓守の連中はアーノルドには一応何度も連絡していたらしいんだが、あいつは一度も家にいなかったらしい。で、他に伝える人間もいないからアーノルドが帰って来るのを待っていたらしいが、おかげで俺は妹の遺体がなくなっているのをずっと知らなかったんだぜ」
 灰皿に乱暴に煙草を押し付けるアルフレッドの仕草に、その墓守達が無事でいるのかどうかジュリアは多少不安になったが、とりあえず考えないことにしておく。
「でも、アンジェラさんの遺体を掘り返した人はだいたいわかっているんでしょう?」
 ジュリアの問いに、アルフレッドは小さくうなずきながら紅茶を一口啜る。 
「入院している間に調べていたんだが、アンジェの遺体が掘り返された日と切り裂きジャックの再来の初めての犯行らしきものは同じ日に行われている。もし、ジャックの再来の正体がアーノルドだとするなら、この二つの間に関連性があると思わないか?」
「アーノルドさんがアンジェラさんの死に自暴自棄になって、遺体を掘り返して、無関係な人を殺しまわっているっていうことですか?なんか理屈が合わないというか、行動が無茶苦茶ですよ」
 まったくもって、その通りだ。
 今のアーノルドの行動は、あいつと実の兄のように暮らしてきた俺でさえまったく理解できない。
 だが、だからこそ俺はあいつに会わなければならない。
 あいつと会って、俺は……。
「さてと、俺はそろそろ失礼させてもらおうか」
「えっ、ちょっと待ってください」
 紅茶を飲み干し、アルフレッドが立ち上がろうとすると、焦りを帯びた声が彼を引き止めた。
「アル先輩……やっぱり、アーノルドさんに会いに行くんですか?」
「まあな。愚弟の愚挙を止めるのは賢兄の宿命だ」
「でも、アーノルドさんがいる場所さえもわかっていないのに」
「おいおいワトソン君。本当にわからないのかい?」
 からかうような口調で、アルフレッドはジュリアの額を軽くつつく。
「よく考えてみろよ。アーノルドの奴は家にいなくて、しかもアンジェの遺体を担いでいるらしい。これじゃまさかホテルにも泊まれないし、スラム街っていうのも危険すぎる。とはいえ、今も犯行を続けているのだから倫敦から離れているわけでもない」 
「……そんなこと言ったって。それだけの手がかりじゃ場所まではわかりませんよぉ」
「ところが、ここまで手がかりがあれば俺にはあいつの居場所はわかる」
 揺るがぬ自信を言葉に含め、アルフレッドは小さく笑った。
「さっさと愚弟を説得して、首に縄をつけて戻って来るから大人しく待ってろよ。その時は、調査料も兼ねて何かおごってやるから」 
「待ってください! まだ話は……」
 なおも追いすがるジュリアに、アルフレッドはにやりと笑みを浮かべて必殺の一言を放った。
「俺の分の紅茶の請求、任せたぜ」
 金切り声で響いてくる罵詈雑言を背中で受け流しながらアルフレッドは店を出た。ウエイトレスの一人が彼を見て意味深な笑みを浮かべていたが、あえて無視。
 雲の切れ間からわずかに差し込む朝日に目を細めながら、アルフレッドは足早に店を離れた。ジュリアが彼の後を追うことがないように、すぐに大通りを離れて狭く暗い道を歩いていく。
 待っていろ、アーノルド。
 お前の考えは今も俺には理解できない、が。
 義兄として、そしてアンジェのために、お前のやってきたすべてにカタをつけてやる。
 待っていろ、アーノルドっ。
 どこか遠くで、アルフレッドは彼を呼ぶジュリアの声を聞いたような気がした。
 だが、彼は振り返らなかった。


 5

 叩きつけるように店員に銀貨を放り、気に障る笑みを浮かべてこちらを見ているウエイトレスを八つ当たりとばかりにすれ違いざまに突き飛ばしつつ、ジュリアが転がるように店を出たそのときにはアルフレッドはもう姿を消していた。
 遠くまで続く大通りの先を見通しても、人ごみの中の顔を一人一人探してみても、アルフレッドの姿を求めることはもうできなかった。声の限りに彼の名を呼んでみても、返ってくるのは周囲からの訝しげな視線だけで、彼が戻って来る気配はまったくなかった。
 たまらなくなり、ジュリアは思わず駆け出していた。アルフレッドが行ったであろう方角へ息をせき切らし、髪振り乱し、道を行く人とぶつかっても構うことはなく、ただ彼の姿を求めて走り続ける。
 どうして、アル先輩は私を連れて行ってくれなかったのだろう。
 危険だってはわかってる。だけど、だからこそ、私は連れて行ってほしかったのに。
 ずっと昔から、私はいつもアル先輩の足を引っ張ってばかりいた。
 ついこの間も、私は怯えるばかりで何もできなかった。
 今度も私は足を引っ張ってしまうかもしれない、だけど……。
 いつしか、ジュリアはセント・ジェームズ・パークの園内にいた。はっと我に返ると同時にひどい疲労に襲われ、彼女は倒れこむようにベンチに腰を下ろす。
 まだ朝早いせいだろうか、薄い霧の立ちこめた園内には人の姿はどこにもなかった。ゆっくりと息を落ち着かせ、涼やかな風を汗ばんだ身体でそっと受け止めていると、ようやく物事を考えられるくらいに心が落ち着いてくる。
 なんとか落ち着きを取り戻したジュリアの脳裏に真っ先に浮かび上がったのはアルフレッドの姿だった。またすぐに追いかけようと思わず立ち上がりかけるが、もはや完全に彼の姿を見失っていることに気づき、仕方なく浮かせた腰を下ろす。
 どうすればいいんだろう。
 足元にはえていた名前も知らない草を摘み、そっと風に流しながらジュリアは溜息をつく。
 私はどうしてもアル先輩を追いかけなくちゃいけない。
 アル先輩が心配だからっていうのもあるけど、それだけじゃない。
 アンジェちゃんのこともアーノルド君のことも、私にとっては他人事じゃないんだから。
 だけど、本当にどうすればいいんだろう。
 風に乗り、薄霧の中に消えていく草を眺めながら、ジュリアはアルフレッドの漏らした言葉の断片を胸の内で思い返していた。
『よく考えてみろよ。アーノルドの奴は家にいなくて、しかもアンジェの遺体を担いでいるらしい。これじゃまさかホテルにも泊まれないし、スラム街っていうのも危険すぎる。とはいえ、今も犯行を続けているのだから倫敦から離れているわけでもない』
 もしアーノルド君がアンジェちゃんの遺体を持っているのだとしたら、やっぱり遺体を置いておく場所が必要なんだろう。
 遺体が見つかったらもう言い逃れなどできない。だから、ちゃんとした場所に隠してあるはず。
 でも、アーノルド君は家に戻っていない。友達や親戚の家っていうのはさすがにないだろうし……。
 遺体をホテルに置けるわけはないし、スラム街に隠すというのは人目もあるし、無理だと思う。
 そうなると、もしアーノルド君がアンジェちゃんの遺体をまだ持っているとすれば、そこは倫敦からあまり離れていなくて、人目がなく、それでいてアーノルド君が遺体を安心して置いておけるような場所っていうことになるけど……。
 そこまで考えて、ジュリアは思わず軽い目眩を覚えた。無理に慣れない作業に頭を使ったせいか、少し熱が出ているような気さえして、彼女は思わず額に手を当てる。
 やっぱり、無理。
 たったこれだけの手がかりじゃ、やっぱり場所まではわからない。
 シャーロック・ホームズさんならともかく、私なんかじゃもう何もわからない。 
 そういえば、どうしてこんなことになってしまったのだろう。
 遠い記憶の森の中をジュリアは歩いていた。彼女の家からでは子供の足ではやや遠い場所、寝床で母親が話してくれたお伽話の舞台でもある不思議な場所だ。
 だが、そこにはお菓子の家もいばらに囲まれた城もなかった。どこまで歩いてもそこにはただ鬱蒼と覆い茂る木々しかなく、歩き回っているうちに帰り道さえわからなくなり、時々聞こえる鳥の声に怯えながら追い立てられるように歩くしかなかった。
 そしてついに彼女が力尽き、膝を抱えて泣いているところに、その手は差し伸べられた。
 彼女を見下ろす少年の眼差しは優しく、夢中で握り返した手は力強く、思わずその手にすがりつくように泣き出してしまったことをジュリアは覚えている。
 彼の後ろには彼女の見知った顔があった。一人は気が強くていつも学校ではみんなに囲まれていた女の子。そして、もう一人はその女の子の奴隷か召使いのようにしか見えない頼りなさそうな男の子で、今も女の子の背中に隠れるようにして彼女の方を見つめている。
 三人の新しい友達に囲まれて、ジュリアは彼らだけのお城だという建物へと招待された。それは城と呼ぶにはあまりにみすぼらしいものだったが、当時の彼女にとってその建物は本当にお伽話の中のお城だった。
 純白のテーブルクロスも大勢の召使いも豪華な料理もない、みすぼらしい外見のお城。それでも、そこはジュリアにとって忘れられない思い出の場所だった。
 そう。あのお城は私がみんなと最初に出会った思い出の場所。
 お城なんて呼べるものではなかったけど、それでも私達にとっては立派なお城だった。
 私達の他に誰も知らない、私達だけのお城。
 私達の他に、誰も、知らない……?
 だしぬけに繋がりかけた考えに、ジュリアは身体を震わせた。
 もし、あのお城にアーノルド君がアンジェちゃんといるというのなら……。
 あの森は倫敦の街からは馬車で三十分くらいだけど、そのくらいなら歩いてでもなんとかなる。
 確か地下にワインの貯蔵庫もあったはずだから、アンジェちゃんの遺体も置いておける。
 今でも私達のお城が残っているのなら、もしかするとアーノルド君とアンジェちゃんはそこにいるかもしれない。
 そして、アル先輩も……。
 確信などはなかった。
 ひょっとしたらまったく違うかもしれないという不安に、ジュリアは思わず浮かばせかけた腰をベンチへ戻す。
 だが、どんなに頭を働かせてもジュリアにはこれ以上の考えは見つけられなかった。刻々と迫ってくる焦燥に、ジュリアは両手で自分の身体を抱きしめる。
 あのお城にアーノルド君とアンジェちゃんがいるのかどうか、自信なんてない。
 だけど、何もしないままじゃ、どうにもならない。
 ただ待っているだけじゃ、何も変えられない。
 行かなくちゃ。
 行かなくちゃ。私達のお城へ。
 薄霧の向こうの大通りでは、何人かの子供が追いかけっこをしていた。通りかかった乗合馬車の御者が手を振ると、彼らは無邪気に手を振り返し、笑いながら小さな路地へと消えていく。
 そんな光景を見つめながら、ジュリアはこちらへと向かって来る馬車を止めるために手を振る。
 笑っていた子供達に、いつかの自分の姿を重ねながら。 


 6

 深い眠りから覚め、天窓の外を眺めてみれば、明け方なのか、昼間なのか、もしくは日暮れなのかさえも周囲に立ちこめる霧のおかげで判然としなかった。
 天窓から差し込む薄明かりが、同じベッドに横たわっているアンジェラの姿を闇の中から浮かび上がらせる。その姿は彼女の命が消えてからもう一週間以上経っているとは思えないほどに美しく、まるで小さく寝息をたてているかのように安らかな表情をしていた。
 アーノルドはそっとアンジェラの頬に手を当てる。ほのかな期待に反してその頬は氷のように冷たく、彼がその髪にそっと触れてみても彼女が眼を覚ます様子はなかった。彼が彼女を暗い土の中から救い出したそのときから彼女は何も変わらず、ただ眠りつづけているだけだ。
 でも、もうすぐだ。
 もうすぐ、アンジェは僕の元に蘇ってきてくれる。
 あと少し。あと少しで、もう一度僕はアンジェと一緒に暮らすことができるんだ。
 彼はアンジェラの胸元を紅く染めた着衣を脱がし、その柔らかな肌を湯で湿らせた布でそっと拭いていく。若々しい肢体のすみずみまで、割れ物に触れるかのように優しく。白い肌を飾る紅を残すまいと丁寧に。
 胸の奥から湧き上がる歓喜に身を震わせながら、アーノルドはアンジェラの上半身をそっと起こし、その金色の長い髪をかつて彼女が大切にしていた櫛で手馴れた様子ですいていく。髪から漂うほのかな香りに酔いしれながら、彼はゆっくりとした動作で髪をすき続ける。
 すべてが終わると、アーノルドは洗濯したばかりの服を彼女に着せ、そっとベッドへ戻した。薄明かりに照らされた横顔はぞっとするほどに美しく、それはまるでいつか彼が童話で読んだ眠れる森の美女のようだった。
 その横顔を見つめながら、アーノルドは数日前の夜に自分が刺してしまった義兄に思いをめぐらせていた。
 あれはアーノルドにとって思わぬ事故であった。不意に狩りの現場を覗きこまれ、冷静さを失った彼は何も考えずに目撃者を消すべくナイフを突き出してしまったのだ。
 相手がアルフレッドと気づいたのは、思わぬ反撃によってナイフを失い、地面へ強烈に突き飛ばされてからのことだった。左腕を血に染めて膝をつく義兄の姿に彼は思わず駆け寄ろうとしたが、彼の側にはもう一人見知らぬ女性がいて、さらに複数の足音が近づいてくるとあっては逃げないわけにはいかなかった。
 アルフレッドは彼の顔をしっかりと見てしまっている。さらに彼はここ最近家をずっと留守にしているので、アルフレッドが警察に彼の名前を通報すればまず疑われることは間違いない。だが、彼の捜索が出ていない以上、どうやらアルフレッドは警察に彼を突き出すつもりはなさそうだった。
 そして、アーノルドは傷が癒え次第アルフレッドが彼を探し出すことを予想していた。彼が知る義兄の性格上、それはほぼ確信に近いものであった。
 僕は、兄さんに謝らなければならない。
 いくら間違いとはいえ、兄さんに傷を負わせてしまったのだから。
 だから、せめてもの償いに僕は兄さんのために待ち遠しい時間を堪えよう。
 そうすれば、きっと兄さんは僕を許してくれる。
 いや、すべてを話せばきっと兄さんは僕に協力してくれるはずだ。
 霧の奥から足音が聞こえてくる。
 迷いなく、ただ一直線にここに向かってくる足音。アーノルドはベッドを揺らさないように立ち上がると、彼の背後で微笑むアンジェラに小さな笑みを返した。


 7

 流れ過ぎる霞の中、立ち並ぶ木々の幹がけぶっては消え、また現れては消える。
 霧に包まれた森の中を、やや頼りない記憶に頼りながらアルフレッドは手探りに進んでいた。彼がまだ子供だった頃に、彼よりもずっと小さかったアンジェラとアーノルドを連れてよく遊びに来ていた森。それはもうずっと昔のことなのに、森の中は記憶の中とそう変わっていない。
 だが、彼と共に手を繋いで歩いていた二人はもういない。
 一人は胸の病に命を落とし、天へと召されてしまっている。そしてもう一人は、彼には理由すらわからないが、多くの人々の命を奪う殺人鬼としてこの森の中に潜んでいるはずだ。
 ふと目についた果実の木に、アルフレッドは過去の記憶を呼び覚まされた。果物で一杯になった籠を持つことができず、弱音を吐くアーノルドにアンジェラは厳しく叱咤しながらもその籠の中身を少し自分の方に移してやる。そんな二人に、アルフレッドは声を上げて笑ったものだった。
 だが、彼と共に手を繋いで歩いていた二人はもういない。
 もはや楽しかった日々が二度と戻ってくることはない。
「なぜ、お前はこんなことをしているんだ? アーノルド」
 アルフレッドはそっと、胸の中で何度も自問してきた問いを霞の中にささやきかけた。
「なぜ、お前は……?」
 突き出される銀光。腕に走る激痛。振り上げられた、街灯の光を反射する刀身。うろたえた表情で彼を見上げる瞳。そして、義弟の背後に広がる血だまりともはや物言うこともない肉塊。
 彼の知るアーノルドは、少なくとも人を殺せるような人間ではなかった。やや臆病な一面もあったが、思いやりのある気のいい男であるはずだった。
 だが、実際には少なくとも彼の目の前で一人の人間を殺し、また彼にも傷を負わせている。
 アーノルド。俺には、やはりお前の行動が理解できない。
 なぜお前が変わってしまったのか、どうしてこんなことをしているのか。まったくわからない。
 だから、俺はお前に会う。
 すべての真実。お前の知るすべてを知るために。
 白い世界の中におぼろな輪郭となって浮かび上がる粗末な二階建ての小屋。その窓から、アルフレッドはわずかに義弟の姿を見たような気がした。
 だが、彼は足を止めなかった。
 歩調をいささかも変えることなく、ただまっすぐに小屋の前へと向かう。
 そしてほんの小さなためらいを投げ捨てると、一呼吸おき、古くなった扉を容赦なく蹴破った。















     〜あとがき〜

 こんばんは、砂時です。五月中に書き上げてしまおうと思っていたんですけど、少し遅れてしまいました。
 本当は前編・後編だけで終わるはずの作品だったんですが、文章をまとめる才能に乏しいのか、なぜか中編が追加されてしまいました。このまま長編にまでずるずると延びてしまうのでは……なんて、さすがにそこまではないと思いますけどね。
 なお、今回は登場人物達の心理描写について多少の矛盾があると思いますけど、意図的にそうしてあるところがありますのでご了承ください。もっとも、意図的ではない部分もあるかもしれませんけど……目につく部分があれば御指摘お願いします。