君を忘れられないから(後編)
作:砂時





 8

 まさか会えるとは思っていなかった。
 ジュリアには強気に宣言したが、こんなに簡単に会うことになるだろうとは思いもしなかった。
 蹴破った扉の前に立ち、そっと身構えるアルフレッドの目の前にアーノルドはいた。明かり一つ灯っていない薄暗い部屋の中で、ボトルの置かれたテーブルを前にして椅子に足を組んで腰掛け、グラスを手にしている。彼が扉を蹴り開けた大音に眉さえひそめた様子もなく、むしろその表情には小さな笑みさえ浮かべている。
 多少やつれてはいたが間違うことはない、アーノルド自身だった。
 小屋の中にはテーブルと椅子の他には何も置かれてはおらず、ただ部屋の隅に備えられた暖炉の隣に埃を被った薪が束になって置かれているだけだ。木目をさらけ出している壁には窓は一つもなく、絵や燭台の類さえも見当たらない。
 開け放たれた扉の奥から、鼻につく妙な匂いが漂ってくる。
 吐き気を誘うような、強烈な血の匂いだ。
「久しぶりだな、アーノルド」
 濃密な血の匂いに目眩さえ覚えながら、アルフレッドは小屋の中へと踏みこんだ。一歩進むたびに、古くなっている床が嫌な音を立てる。
「倫敦の街じゃお前の噂でもちきりだぜ。たった十日間くらいの間に切り裂きジャックの記録を大幅に更新しちまった殺人鬼だってな」
 詰め寄るアルフレッドにアーノルドは無言のまま小さく首を縦に振って肯定する。その余裕に溢れた様子が彼の怒りを呼んだ。
「なぜ、お前はこれほどまでに多くの人の命を奪って、そうやって平然としていられるんだっ?」
 こみ上げる激しい怒りと共に、アルフレッドはアーノルドへとさらに歩み寄る。
「どうして、お前がっ」
「兄さん、僕はただアンジェのために尽くしているだけです」
「……アーノルド」
 思いがけない答えに、アルフレッドは唖然として義弟を見つめた。
「兄さんなら、きっとわかってくれると僕は信じている」
 彼が黙りこくったままなのを見て、アーノルドはテーブルの上のボトルに手を伸ばすと、空のグラスになみなみとワインを注いだ。
「まずは椅子に座ってください。そして、僕の話を聞いてください」


 9

 あれほど多くの人を殺したことがアンジェのためだと?
 そんなことを俺が理解できるとお前は本気で思っているのか?
 いったい、お前は俺に何を話そうというんだ?
 アーノルドの向かい側の席に腰掛け、めまぐるしく頭の中を駆ける思いに混乱しながらアルフレッドは煙草を口にくわえた。深く吸い込んだ紫煙を吐き出し、そっと目を閉じているとようやく失われていた冷静さが戻ってくる。
 テーブルの上にはワインのボトルが一本に、グラスが三つ置かれていた。そのうちの一つはアーノルドのもので、もう一つは彼の手元。そして、最後の一つはなぜか誰もいない席に置かれていて、ワインが半分ほど注がれている。
 相変わらず足を組んだ姿勢のままでこちらを見つめている義弟の視線を感じながら、アルフレッドはグラスに手を伸ばした。グラスの中の赤い液体。まさか血ではないだろうかと彼は一瞬うたがったが、辺りに漂う血の匂いとは違い、その香りは間違いなくワインのものだった。
 ゆらゆらとグラスの中の液体を揺らしながら、彼は目の前のアーノルドへと目を向ける。だが、彼の刺すような眼差しをアーノルドは意に介することもなく、自らのグラスを差し上げ、乾杯の仕草をして見せるとアーノルドはぐいとそれを飲み干した。  
「兄さん。ずっと昔にもこうして、家から持ってきた葡萄酒を飲んでいたことを覚えていますか?」
 アーノルドが唇をテーブルに置かれた布で拭いながら、言う。
「ああ、覚えているさ」
 幼い頃、彼らが母親から聞いたお伽話の舞台であった森。未知という名の霧に包まれた、子供の足ではあまりに遠くあまりに深すぎる森。木の実狩りに出かけたその森の中で、三人はまったくの偶然でこの小屋を見つけた。
「初めてこの小屋を見つけたとき、お前は怖がって入りたがらなかったっけか。まあ結局、アンジェの背中にしがみつくようにしてついてきたけどな」
 天井を仰ぎながらのアルフレッドの言葉に、アーノルドは小さく苦笑して答える。
「あの時は本当に怖かったんですよ。お伽話の中では悪い子供をさらい、その肉を食べてしまう悪魔が住んでいるはずでしたからね」
 その小屋は遥か昔、おそらくはアルフレッド達が生まれる以前に見捨てられてしまった建物らしく、床には埃が絨毯のように積もり、めぼしい家具など何も見つからなかった。宙を舞う埃に口元を隠しながら小屋の中を探索している最中に、ふとアンジェラはこう呟いた。
 ここは私達だけのお城なんだ、と。 
「きっと、この小屋を一番大切にしていたのはアンジェだったのでしょう。この小屋を城と命名したのも彼女でしたし、最初はあんなにも汚れていたというのに、彼女は埃など気にもしないで掃除して、掃除する前とは想像もつかないくらいに綺麗にしてしまいましたからね」
「それを忠実な下僕のごとく手伝ったのはお前だろう? 疲れ果てて、歩いて帰れなくなるくらいまで働かされていたからなぁ」
「兄さんだって、どこかからテーブルや椅子を揃えるのに忙しそうでしたよ。でも、あんなものをどこから持ってきたのかは今でも不思議ですが」
 昔のことを思い出したのか、思い出し笑いを浮かべるアーノルドを見て、アルフレッドもまた口元に笑みを浮かべた。 
「そういえば、ここでは色んなことがあったな。両手に持ちきれないほどの葡萄酒やワインを持ってきて飲み明かしたり、迷子になったお前の同級生を森で拾ってきたり、長い休みには何日もここに泊まっていたこともあったな」
「ええ。特に、夏は面白かったですよ。日が暮れるまでここの近くを流れる川で泳いで、疲れたらハンモックで午睡して、夜は葡萄酒を飲みながら釣ってきた魚や木の実を食べる。時には溺れかけたり怪我したりもしましたが……楽しかったですよ」
 ああ、俺も楽しかったよ。
 涼やかな風が吹き抜ける、緩やかな水の流れ。
 太古の姿をずっと留めているかのように鬱蒼と茂る森。
 蝋燭一つの明かりに浮かびだされた小屋に流れる、少女の演ずるリュートの音色。
 目を閉じれば、大切だった可愛い妹と実の弟同然の少年の奏でる笑い声がどこからか聞こえてくる。
「だが、もう昔のことだ」
 グラスの中身を一息に飲み干し、アルフレッドは感傷的になりかかった自分の心を切り離すかのように吐き捨てた。
「俺もお前ももう大人になったよ。いつまでもあんな風に遊んでいられるわけじゃない。それに何より……もうアンジェはいないんだからな」
「アンジェが、いないですって?」
 アーノルドはグラスを置くと、戸惑いをたたえた眼差しでアルフレッドを見つめた。
「どうしてそんなことを言うのです。アンジェは今もここにいるのに」
 突然、大きな沈黙が訪れた。
 木々を駆け抜ける風の音も、どこかから聞こえる虫の声も、ささいな動作できしむ床の悲鳴さえも、その一瞬だけ消えてしまったかのようだった。
「……何だって?」
「私達の愛するアンジェは、ここにいると言ったのです」
「……」
「ほら、兄さんが変なことを言うから、アンジェが不思議そうに兄さんを見つめていますよ」
 アルフレッドの指差す先には、ワインの注がれたグラスの置かれた席があった。その椅子は人が座れるほどに引かれている。だが、そこにアンジェの姿を見出すことはアルフレッドにはできなかった。
「……冗談だろ?」
 かすれた声で言いながら、アルフレッドはアーノルドの瞳の奥を見つめる。だが、そこには彼をからかっているような意思は見当たらない。
「兄さんには、アンジェの姿が見えないのですか……」
 やや失望を含めた声で、アーノルドは呟いた。 
「でも、無理もありませんね。今のアンジェには宿るべき肉体がないのですから」
「アーノルド、どういうことだっ?」
「兄さんは僕が倫敦の街でしてきたことを知っている。だからこそ、ここに来たのでしょう。でも、僕が何の意味も目的も持つことなく、多くの人の命を奪ってきたとでも思っているのですか?」
 アーノルドはグラスの置かれた誰もいない席へと手を伸ばした。もしそこに人がいたとすれば、彼の手はその人の肩を抱いていただろう。
「僕はただアンジェのために尽くしているだけなのです」
「馬鹿なっ。死んだはずのアンジェがそんなことをお前に頼んだとでもいうのかよっ?」
 吠えるように口走るアルフレッドに、アーノルドはまったく臆することもなく答えた。
「そうです。これは彼女が望んだことなのです」
 生まれてこのかた感じたことのないほどの衝撃がアルフレッドの身体を走った。
 そんなことは戯言でしかないと彼は叫びたかった。だが、アーノルドの言葉は力強く自信に溢れていて、その瞳の中に迷いなど一片も見受けることはできなかった。そして何より、誰が聞いても死者を冒涜しているとしか思えない言葉を平然と吐く義弟に、彼は恐怖に似たものを感じていた。  
「兄さんなら知っているでしょう。アンジェがどれだけ胸の病に苦しめられ、怯えてきたかを。皆の前ではいつも笑顔を浮かべながら、刻々と迫ってくる死を感じては涙を流していたことを」
「ああ。アンジェは自分が長生きすることはできないことを知っていた。だからこそ、あいつはいつ死んでも後悔しないようにと、一日一日を大切に生きてきた」
「僕は、アンジェの苦しみを癒してあげたかった。そのために僕は医者になりたかった。でも、医者を志しながらも僕はアンジェから離れたくなかったんです。兄さんだって気づいていたんでしょう? あの頃のアンジェがもう一年と生きられなかったということを」
「ああ。知っていた」
 少しずつ熱を帯びてくるアーノルドの口調にたまらなく切ないものを感じながら、アルフレッドは落ちてきた自分の前髪をかきあげた。
「だからこそ、アンジェとお前との結婚も許したんだ。俺はお前が医者を志望しているのを知っていたし、今アンジェと結婚すればその夢が大きく遅れることもわかっていた。だが、あいつ自身も背後から迫ってくる死の影を感じていたというのに、俺にそれ以上の何ができたんだ?」
「医者への道が遅れてしまったことを僕は後悔していません。むしろ、まだ子供だった僕達を応援してくれた兄さんに感謝しているくらいですから」
 アーノルドは小さな笑みを浮かべると、組んでいた足をとき、そっと天井を見上げた。
「結婚して、二人で暮らし始めてから僕は改めてアンジェの苦しみに気づいたんです。まだ死にたくない。もっと生きたい、と。苦しみを夫である僕にさえ隠しながら、彼女は泣いていたんです」
 アルフレッドはその様子を鮮明に思い描くことができるような気がした。
 まだアンジェラがずっと小さかった頃。夜半にアルフレッドが学校の宿題に悲鳴を上げていると、眠っていたはずのアンジェラがベッドから起き出してきていた。彼女は真っ赤になった目の縁に涙をたたえた、恐怖に怯えながら彼に問い掛ける。
『ねえ、お兄ちゃん。私は、あとどのくらい生きていられるの? もし死んだら、私はどうなっちゃうの? 私は天国に行けるのかなぁ?』
 その時だけだったかもしれない。彼が胸を押し潰されるような想いとともにアンジェラを抱きしめ、涙でかすれる声で必死に彼女を励ましたのは。
「そして、ついにアンジェは胸の病のために逝ってしまいました。でも、アンジェは魂だけの存在となって僕の元に戻ってきてくれたのです。もう一度僕と一緒に生きるために」
「そして、お前に人殺しを依頼したって訳か?」 
 燃え尽きた煙草を行儀悪くもグラスの中に放り、アルフレッドはアーノルドを見据える。
「ええ、そうです。アンジェのために百人を殺し、血の犠牲として捧げればアンジェはすべての病から解放され、再び僕と暮らすことができる。そう教えてくれたんです」
 アルフレッドの瞳に映るアーノルドの姿はどこまでも純粋だった。アンジェラのため、ただそれだけのためにすべてをかなぐり捨て、彼自身のすべてをアンジェラのために捧げようとしている。それは神のために献身的に尽くす神官の行いにさえ酷似していたかもしれない。
 だが、それゆえにアルフレッドは今のアーノルドに激しい恐怖を覚えていた。周囲に漂う、ワインの芳香などではとても隠し切れない血の匂いがアーノルドの行ってきたすべてを教えているというのに、気の狂わんばかりのこの匂いの中で、彼は微笑さえ浮かべている。
 ただ純粋にアンジェラを想うアーノルド。しかし、アルフレッドにはその純粋さがほとんど狂気にしか思えなかった。
「狂ってるぜ」
 椅子から立ち上がり、アルフレッドはアーノルドへ指を突きつける。
「お前は狂っている」
「それは違います。兄さんは僕を誤解している」
 自らも立ち上がり、小さく伸びなどしながらアーノルドは激昂しかけている彼へと背を向ける。
「僕のことがそれほどに信じられないのなら、兄さんに僕の正しさを証明して見せましょう」
 そう言うと、アーノルドはこの小屋に一つしかない部屋への扉を開けた。そこには地下の貯蔵庫へと続く階段があり、それはこの小屋と同様にひどく古びていて、今にも踏み抜きそうであった。
「さあ、行きましょう兄さん。アンジェの祭壇へ」
 アルフレッドを振り返ることなく、アーノルドは階段をゆっくりと下りていく。
 足元に広がる、底を見通すことのできない闇。その絡みつくような冷たさと地下から漂ってくるさらに強い血の匂いに、アルフレッドは義弟の狂気をひしひしと感じていた。

 
 10

 ようやく、踏みしめるものは腐りかけた木の階段から堅い石畳の床へと変わる。
 冷たい闇の中で、アルフレッドは壁に手をついた姿勢で無言のまま遠ざかっていくアーノルドの靴音を聞いていた。追いかけようにも、一寸先さえ見えない暗闇の中ではどうにもならない。
 ポケットの中のマッチに手を伸ばそうとも思ったが、この階段を下る前のアーノルドの狂気を帯びた態度を見てしまった今では、下手に彼を刺激する行動をとる気にはなれなかった。
 何より、ここに漂う血の匂い。
 その意識を奪われそうなほどに猛烈な匂いに、アルフレッドは圧倒され、立ち尽くすしかなかった。
 マッチを擦る音とともに、闇の中に小さな明かりが生まれる。
 アルフレッドが思っていたよりも遠く、壁に備えられた三叉の銀の燭台に灯された明かりの中にアーノルドの姿が浮かびだされる。ぼんやりとした明かりの中で、その顔はぞっとするほどに白く見えた。
 貯蔵庫の中には何もなかった。少なくとも見える範囲にはワインの棚も薄汚れた箱さえもなく、ただアーノルドの隣に二人用のベッドが置かれているだけだ。
 ベッドの中には人が横たえられている。
 白い服に身を包み、まるで眠っているかのように胸の上に手を組み合わせているまだ若い金色の髪の女性。
 あれは。
「……アンジェ」
 気がつけば、何かに引かれるかのようにアルフレッドはアンジェラの元へと歩み寄っていた。もはや血の匂いさえも気にすることなく、頼りない足取りで冷たい石の床を歩いていく。
 いくつもの思い出が彼の頭の中を駆け巡っていた。手を繋ぎながら彼を見上げているアンジェ。背を伸ばして木の実に手を伸ばすアンジェ。緩やかにリュートを演奏するアンジェ。純白のドレスに飾られ、アーノルドの並んで歩いていくアンジェ。
「アンジェ」 
 とうとうアルフレッドはアンジェラの横たえられたベッドの前にまで来た。
 その寝顔は白い花に抱かれ、漆黒の棺に納められていた時のものとまったく変わりなかった。化粧でもされているのだろうか、その頬はかすかに赤みを帯び、髪はまっすぐに梳かれていて、唇には薄く紅が差されている。
 無意識に彼女の頬に手を伸ばしてみれば、冷たくなっているはずのそこはほのかに温かかった。そのありえないはずの熱に、彼は思わず身を震わせた。
 貯蔵庫とはいっても、はるか頭上にとはいえ天窓がある以上はあまり冷たくならない。少なくとも、人間の腐敗を止められるほどまでには。
 だが、アンジェラは生きていたときとまるで変わりのない姿でそこにあった。かすかな腐臭さえ発することなく、むしろ死によってその美しさが洗練されたような気さえするほどに。
「だから言ったでしょう。アンジェはまだ生きていると」
 彼の隣に並んだアーノルドの手にはいつのまにかグラスがあった。その中には紅い液体がゆらゆらと揺れている。
 さっき飲んでいたワインだろうか。横目でグラスを覗き込み、そこに揺れている液体を一目見てアルフレッドは戦慄を覚えた。
 酒などではない。血だ。おそらくは人間の。
 動けずにいる彼に構うことはなく、アーノルドはグラスに溢れんばかりになっていた血をアンジェラの胸元に注いだ。
 細い糸となって落ちていく紅がアンジェラの白い着衣を紅く染める。だが、服が紅く染まっていくのと同時にアンジェラの身体にはかすかに、だが確実に赤みが差していく。目前で起こっている光景に、アルフレッドは言葉さえもなくただその奇蹟を見つめていた。
「これでわかってくれたでしょう。アンジェは本当に戻ってくるということが」
 決して、彼は死者が生き返るなど信じてはいなかった。
 神の御子であるキリストはともかく、世界中の多くの権力者が不死の法や復活の秘術を求め、誰もそれを手に入れられなかったことなど子供でも知っていることなのだから。
 だが、目の前で起こった奇蹟は明らかにその常識を否定していた。
 もう一度、彼はアンジェの頬にそっと手を当てる。その明らかに赤みの差した頬は弱々しくはあったがやはり熱を放っていて、その瞼がいまにも開きそうな予感に彼は身震いした。
 まさか、アンジェは蘇るのだろうか?
 もう一度、あいつの笑顔を見ることが叶うのだろうか?
 もう戻らないと諦めていた日々。それがもう一度戻ってくるというのなら……。
「……本当に、アンジェは生き返るのか?」
 アンジェラの髪を撫でながら、アルフレッドはそうアーノルドに尋ねる。
 彼の声色の微妙な変化に気づいたのか、アーノルドは満足そうな笑みを浮かべて彼の手を握った。
「今までに九十八人の命をアンジェに捧げてきました。あと二人。あと二人分の命を捧げれば、アンジェは生き返ります。いや……」
 不意に言葉を切ったアーノルドの瞳には、あのときの光が浮かんでいた。
 倫敦の暗い通りで彼にナイフを突き出したときの、冷たい殺気に満ちた光。
「あと一人ですね」
 アルフレッドが静止するより遥かに早く、獣のような俊敏さでアーノルドは階段の方へと駆け出していた。
 小さな悲鳴とともに、階段を駆け上がる音。だが、たちまちのうちにアーノルドに追いつかれてしまったらしく、ひときわ大きな悲鳴が上がったかと思うとそれきり悲鳴は聞こえなくなった。
 まさか殺したのか。アルフレッドの身体に緊張が走ったが、足音が二つ聞こえてくることからするとどうやら脅しでもして黙らせただけらしい。
 アーノルドに背後からナイフを突きつけられ、哀れな生贄が階段を下りてくる。その姿を一目見て、アルフレッドは驚愕のあまり叫んでいた。
「ジュリアっ?」
 馬鹿な。なぜジュリアがここにいるんだ?
 倫敦の街を離れる前、いや、店を出たそのときからあいつを完全に振り切っていたはずだ。
 俺の後をつけていたはずはないというのに、なぜあいつはここにいるんだ?
「兄さんの知り合いでしたか。そういえば、あの夜に兄さんと一緒に歩いていましたね」
 アーノルドは一人うなずくと、アルフレッドの方へジュリアを強く突き放した。身体を小刻みに震わせながら、ジュリアはアルフレッドの腕の中へと飛び込む。
「アル先輩っ」
「ジュリア。すまないが、俺の服で鼻水を拭くのはやめてくれないか」
「アル先輩。アル先輩っ」
「……わかったよ、ジュリア。わかった、から」
 子猫のように彼の胸に顔をうずめるジュリアの頭をそっと撫でながら、アルフレッドは奇妙な感覚を感じていた。
 道標にしていた木の下で一人泣いている少女。木の枝に引っ掛けたのか、その服はぼろぼろになっている。手を差し伸べてやると少女はその手を大切な宝物のように握り締め、大声を上げて泣き出した。
 泣きつかれた少女を背中におぶり、彼は姉弟の待つ小屋へと向かった。彼の背にしがみつくようにしている少女は思いのほかに軽く、その熱は不思議なくらいに温かく。
 まさか、こいつなのか。
 森の中で迷子になっていた、あの泣き虫の女の子は。
「ですが、この場所を知られたからにはこの女性を帰すわけにはいきませんね」
 彼の全身を無数の氷の槍が貫いた。
「……何だって?」
「その女性をアンジェに捧げる、と言ったんですよ」
「アーノルドっ」
「手を下すのはあなたですよ、兄さん。やってくれますね」


 11 

 この俺に、ジュリアを殺せというのか。
 あの路地に転がっていた死体のように、ジュリアを血溜りの中に沈めろというのか。
アーノルドの言葉に全身を震わせ、ジュリアはアルフレッドの顔を見上げた。その恐怖に凍えた瞳に見つめられて、彼は思わずジュリアの身体をさらに強く抱きしめていた。
 一歩一歩近づいてくるアーノルドの手にはまだナイフが握られている。その気になれば、ほんの一動作でジュリアの命を奪うことができるだろう。
「お前、本気なのかっ」
 激昂する彼に、アーノルドは小さな笑みを返した。
 魂の奥底からぞっとさせるような、氷のように冷たい笑み。
「僕はアンジェのためにもう何人もの人の命を捧げてきました。兄さんは僕よりも遥かに力強い。それなら、兄さんが僕と同じことをできないはずがないじゃないですか」
「……アンジェちゃん?」
 アンジェラの名前を聞いてジュリアはふっとアルフレッドの胸から顔を上げ、その場に凍りついた。
 小さな悲鳴と共にアルフレッドの胸にしがみつくジュリアの視線の先にはベッドに横たえられたアンジェラの姿があった。その視線は血に染まった胸元に集中している。
 がたがた震えながら、ジュリアはアンジェラの赤みの差した頬にそっと手を伸ばした。触れる寸前に一度だけ戸惑い、目を閉じてその頬に触れ、その温かさに驚く。
「嘘……アンジェちゃんはずっと前に死んじゃったはずなのに」
「そんなことありません。アンジェは生きていますよ。私の隣にいるじゃないですか」
 ナイフにそっと指を滑らせ、戸惑うジュリアにアーノルドは言う。
「確かに今のアンジェには肉体に戻ることはできません。ですが、百の命を彼女に捧げれば彼女は再び眼を覚ますことができる。あなたはその九十九人目となるのです」
「百の命って……まさか、アーノルド君が切り裂きジャックの再来だったの?」
「……あなた、僕のことを知っているのですか?」
 眉をひそめ、アーノルドは虚空に向かって何事かを呟く。ややして、何らかの啓示を得たのか彼は妙に納得した顔でジュリアの方に目をやる。
「なるほど。僕は忘れていましたが、あなたは僕達が学校に通っていた頃のクラスメートだったんですね。何度かここで一緒に遊んだこともあったとアンジェが教えてくれましたよ」
「……お前、本当にアンジェと会話が成立していたんだな」
 今新たに証明された不可解な事実に背筋を震わせながら、アルフレッドはふとあることに気がつく。
「おい、アーノルド。お前にはアンジェの姿が見えるらしいが、アンジェの意思を聞くことは可能なのか?」
「もちろんできますが、それがどうかしたのですか?」
「アンジェは今起こっていることをどう思っているんだ? 目の前でかつてのクラスメートが自分のために命を捧げられようとしている。それをアンジェはどういう眼で見ているんだ?」
「そんなこと、わかりきっているでしょう」
 さも心外というように両手を広げながら、アーノルドは首をかしげる。
「アンジェは喜んでいますよ。もうすぐ生き返ることができるってね」
「そうかよ……」
 そう呟くと、アルフレッドは怯えるジュリアをそっと暗い壁際に押しやり、アーノルドを睨み据える。その激情を秘めた眼差しに、アーノルドは一歩後じさった。
「アーノルド。それはアンジェじゃない」
 かぶりを振り、彼はアーノルドに指を突きつける。
「今ようやくわかったさ。アンジェなら、俺の妹なら決して人の命を奪ってまで自分が生きようとはしないはずだ。目の前で昔の友達が殺されようとしているのに、喜ぶことなどできはしないはずだっ」
「そんなことはありません。実際にアンジェはここにいるじゃないですか」
「違う。アンジェはお前の隣になどいない」
 この感情は何なのだろう。
 怒りなのか。悲しみなのか。もしくは哀れみか。
「アーノルド。アンジェはもういないんだ。お前の見ているものは幻でしかない、そんなこともわからないのかっ」
「……兄さんはアンジェを否定するというのですか?」
 今までになく冷静さを欠いた口調で、アーノルドはアルフレッドに詰め寄った。
「兄さんならわかってくれると信じていたのに、アンジェを否定するのですか?」
「否定も何もあるかよ」
 アーノルドの瞳に映る憤りの感情。その白い炎を見据えながら、彼は吐き捨てるように言った。
「最初からアンジェはいなかったんだ。お前の見ていたものは、ただの幻さ」
「言うなっ、兄さんっ」
 断定するアルフレッドに、喉の奥からの叫びと共に突きが繰り出される。確実に心臓へと向けられた一撃を、彼は後ろに飛びのくことでかわす。  
 胸を大きく上下させながらナイフを手にするアーノルドの瞳はあの夜道で彼を刺したときと同じ光をたたえていた。だが、彼は恐れることなく素手のままアーノルドへ向き合い、腕を前にして身構える。
「兄さんっ」
 雄叫びを上げながら、アーノルドは再び彼へと突進する。
 突き出される銀の光。だが、それはあっけなくも空を切り、がら空きになった懐へアルフレッドはためらいなく飛び込み、拳を振り上げる。
 快音と共に、アーノルドの身体は石畳の上に叩きつけられた。


 12

 どうして、兄さんはアンジェを否定するのだろう。
 今もアンジェは必死に兄さんに呼びかけているというのに。
 殴られた頬を押さえ、その痛みを耐えながらアーノルドは立ち上がった。彼を庇うようにして傍らに立つアンジェラの激励を受け、ナイフを前に突き出すようにしてアルフレッドと対峙する。
 彼の目の前に立つアルフレッドは何かの表情をたたえた眼差しで彼を見下ろしていた。だが、それが何を意味するのかをアーノルドには理解することができなかった。
 だが、今さら兄さんを理解することに何の意味があるのだろう。
 兄さんはアンジェを否定している。アンジェのために尽くしている僕を否定している。
 それなら、もう何も言うことなんてないじゃないかっ。
 今度は声を上げず、アーノルドは素早い一動作でもってアルフレッドの胸元を握り締めたナイフで縦に切りつける。
 だが、アルフレッドは彼の一撃を身軽にかわし、さらに何度も繰り出した突きを右へ左へと彼を弄うかのような動きですべて避けてみせる。
 胸の奥からこみ上がってくるような焦燥に、彼は逆手でもってアルフレッドの肩口を狙う。
 だが、振り上げたその手は彼のそれよりも遥かにがっしりとした腕に掴まれていた。
 驚愕に目を開く暇さえなく、強烈な蹴りが彼の鳩尾にたたきこまれる。身体をくの字に曲げ、彼はその場に膝をついた。
「無駄だよ、アーノルド」
 頭の上から聞こえてくるその声は、むしろ優しげでさえあった。
「子供の頃からずっと、お前が俺に一度でも喧嘩で勝ったことがあったのか? そんな危ないおもちゃを手にしたところで、俺を殺せると本当に思っているのか?」
「うるさいっ」
 ずきずきと痛む腹を押さえ、アーノルドはただめちゃくちゃにナイフを振る。だが、それはアルフレッドの身体にかすらせることさえできずに、いたずらに空を切るばかりだ。
 めくらめっぽうにナイフを振りながら、いつしか彼はアルフレッドを親の仇のように憎んでいる自分を見つけていた。
 そうだ。僕は昔から兄さんが好きだったと同時に、ひどく憎んでいたんだ。
 僕の隣にはアンジェがいたけど、その隣にはいつも兄さんがいた。
 僕がずっと独占したかったアンジェの微笑みは僕だけで、なく兄さんにも向けられていたんだ。
 兄さん……。
 肩で荒い息をしながら、アーノルドは獣のようにアルフレッドに飛びかかり、狂ったようにナイフを突き出す。だが、それは一度としてアルフレッドに触れることはなく、襲ってくる疲労にアーノルドはもはや立っていることさえ難しかった。
 汗で狭まってきた視界の隅に、アーノルドはアンジェラの遺体が横たえられたベッドへとそっと近づくジュリアの姿を認めていた。
 それまでずっとアーノルドを見守っていたアンジェラが、警戒の声を上げる。
「アンジェっ」
 その声に弾かれたかのように、目の前に立つアルフレッドに背を向け、アーノルドはジュリアの方へと駆け出した。その血走った眼に睨まれ、ジュリアは悲鳴を上げて立ちすくむ。
 ジュリアはその場に凍りついたように動くことができず、ただ顔を腕で庇うようにしてきつく目を閉じる。まったく隙だらけのその胸に彼は銀の光を振り上げ。
 力の限りに振り下ろそうとした瞬間、腕からすべての力が抜け、彼はナイフを取り落とした。
 アンジェラの悲鳴を遠く聞きながら、アーノルドは遺体の上に重なるように崩れ落ちる。燃えるように熱くなっている胸に手を当てると堅い金属の手触りがあり、彼の身体の下の遺体は真紅の血で染め上げられていく。
 誰かが彼の背を抱いていた。泣いているのだろうか、温かい液体が彼の首筋に流れ落ちていく。抱きしめられた背中は不思議なほどに心地よく、懐かしい感じがした。
 いつだったろう。ずっと昔にも、こうやって抱かれていた気がする。
 ほとんど顔を見せなかった父さんだったか。愛しいアンジェだったか。
 それとも、大好きな僕の兄さんなのか……。
 ごめんね、アンジェ。僕はもう君のために尽くすことはできそうにないよ。
 かすれていく視界の中に、彼は森の向こうに立っているアンジェラの姿を見ていた。アンジェラは彼を優しく見つめながら、そっと手招いている。
 アンジェ、僕を呼んでくれるのか。
 君のために何もできなかった僕を許してくれるのか。
 アンジェ……。
 愛しい人の手招く先へとアーノルドは歩き出す。その背中にまだあの不思議な温かさを感じながら、アーノルドは先の見えない深い森の奥へとアンジェラと二人、歩いていく。


 13

 気が遠くなるくらいの時が過ぎても、目前に迫った死が訪れる様子はなかった。
 ジュリアがおそるおそる目を開けてみれば、そこにはアンジェラの遺体に重なるようにして倒れるアーノルドとその背中にナイフを突き立てているアルフレッドの姿があった。
 そのナイフには見覚えがあった。あの夜、アルフレッドの腕を刺したままアーノルドが置いていったものだ。
 血が流れ出す。昔は彼女とも遊んだことがある男の身体から流れた血はアンジェラの身体を染め上げただけでは飽きたらず、床に滴り落ち、赤い血溜りをつくる。
 義弟の背中を抱きしめ、アルフレッドは泣いていた。声を上げずに、服が血に汚れていくことを気にすることもなく、ただただ涙を流し続けていた。
 もはやもの言うことのないアーノルドの遺体をジュリアは呆然と見つめていた。殺されかかったというのに、憎しみなどはなかった。ただ、切ないほどに悲しく、胸の奥が空っぽになってしまったかのような喪失感があるだけだ。  
 でも、アーノルド君はもっと悲しかったんだろう。
 アンジェちゃんが死んで、アーノルド君はどんなに悲しみ、絶望したんだろう。
 許されることのない、ほんのわずかな希望にさえすがりつかずにはいられなかったんだろう。
 不思議だね。アーノルド君の気持ち、私にもちょっとだけわかったような気がする。
 途端に涙が溢れ出し、ジュリアはその場に崩れ落ちた。緊張の糸が切れたのか、もう涙を拭くことすらできずにただ子供のように泣きじゃくることしかできなかった。
 小屋の中で、少女がリュートを奏でていた。森を駆け抜ける風をイメージした、陽気でテンポの速い曲だ。曲に合わせ、その場にいた同級生の少年とずっと年上の少年が足を踏み鳴らし手拍子を叩く。しばらくその様子に見とれながら、いつしかジュリアもまたそれに合わせておぞおずと身体を動かす。
 沈んでいく夕日を背に、薄暗くなりかかった森を四人で歩いていく。片手に年上の少年の手を、もう片方に女の子の手を握り、とりとめのないお喋りを楽しみながら森の出口へ向かう。その手のぬくもりに彼女は不思議な安らぎを覚え、ぎゅっとその手を握り締める。
「ジュリア」
 そっと身体を包まれるような感じに目を上げてみれば、彼女の側に膝を折り、そっと抱きしめているアルフレッドの顔が近くにあった。こみ上げてくる安堵に、彼女は彼の胸に顔を押し付け、胴に腕を回してその涙が枯れてしまうまで泣き続けた。
「もう行こう、ジュリア。これ以上ここにいても仕方ない」 
 ジュリアが泣き止むのを見計らい、アルフレッドはお姫様を扱うかのように彼女を抱き上げると、祭壇と呼ばれていたベッドに背を向けて階段の方へと歩き出す。
「待ってください。アンジェちゃん達はどうするんですか?」
「置いていくさ。まさか死体を持って帰るわけにもいかないしな」
 吐息し、アルフレッドは陰のかかった表情で後ろを振り返った。紅く染め上げられ、抱き合っているかのように重なり合った二人の顔には確かに幸せそうな表情が浮かんでいた。
「二人、ここでずっと過ごせばいい。誰も訪れることのないあいつらだけのこの城で、ずっとな」
 それはジュリアが子供の頃に聞いたお伽話に似ていた。
 それは森の奥にひっそりと立つ城で眠るお姫様の話。王子は伝説になっていた姫に会うために森へと向かい、いばらに囲まれた城を見つける。そして、永遠を眠り続けるお姫様にを口付けをし、呪いの眠りからお姫様を目覚めさせる、と。
 でも、アーノルド君はお姫様の愛を受けながら目覚めさせることはできなかった。
 アーノルド君はアンジェちゃんと二人、これから永遠に眠り続けるのだろう。
 誰の目にも触れられることなく、ただ二人だけでずっと……。
「なあ、ジュリア。俺は正しかったのかな?」
 脆い階段に足をかけ、慎重に登って行きながらアルフレッドはもの悲しげな眼差しを足元に向けたままジュリアに尋ねた。
「俺はアンジェが他人の命を奪ってまで生きることを望んでいるとはどうしても思えなかったんだ。だが、アーノルドはアンジェがたとえ百の命を犠牲にしても再生を望むと信じて実行した。あいつはアンジェのためと信じて、実際に多くの人の命を奪ってきたんだ。ただアンジェのためだというだけで、何ら罪悪感もなく」
 泣いているようなその口調に、ジュリアは何も答えることができなかった。
 ようやく階段を上りきると、そこはアルフレッドとアーノルドが向かい合っていたテーブルの置かれている部屋だ。三つ置かれたグラスを見つめながら、アルフレッドは瞳を伏せた。
「俺とアーノルド、本当にどちらが正しかったのだろうな。そして……」
 アーノルドがアンジェラの席だと言って引いた椅子、それを彼はテーブルの方へ押し戻す。
「アンジェは何を望んでいたんだろう」
「……きっと、アンジェちゃんは他人を傷つけることを望まなかったと思います」
 それは気休めの言葉でも、思いやりのある嘘でもなかった。
 ただ、あの子供の頃の友達ならこう望んだであろうと思ったことを口にしただけだった。
「アンジェちゃんはきっとアーノルド君を止めたかったんだと思います。だから、アル先輩はアーノルド君に会うこともできたし、結果はどうあれ、アーノルド君を止めることができたじゃないですか」
 そっとジュリアはアルフレッドの首に腕を回し、小さく抱きしめる。
「アンジェちゃんはきっとアル先輩に感謝していますよ」
「……そうだといいな」
 ジュリアの顔を見つめながら、アルフレッドは苦笑を漏らした。
 アーノルドの命を断ってから初めて彼の顔に浮かんだ笑みに、ジュリアはなぜか泣きたくなって、無理に笑った。
 小屋の外に出る。気持ち悪かった血の匂いは消え、かすかな風の声が聞こえてくる。空を仰げば、木々の隙間からどこか蒼ざめた月を見ることができた。
 アルフレッドの腕の中から、ジュリアは遠ざかっていく小屋を見つめていた。お伽話のお城、子供の頃の思い出の場所が夜の闇の中に消えていく。
 泣き疲れたからだろうか、強い眠りへの誘惑にジュリアはそっとまぶたを閉じる。
 どこからか、遠くリュートの音色が流れてくるような気がした。
 懐かしい、聞きなれた感のある緩やかな旋律。
 その曲に見送られるように、ジュリアはそっと涙を流しながら夢の中へと沈んでいった。


 14

 俺はアーノルドを止めるべきだった。それはきっと間違いではないのだろう。
 少なくとも、今の俺はそれを信じて疑っていない。
 だが、よく考えてみれば、他にも取るべき道はあったんじゃないのか。
 アーノルドを殺さずとも、すべてを解決できるような道はなかったのか。
 ならば、どうしていたら最良の道を歩むことができたのだろう。
 どうしていたら……。
 右の拳を血の気が失せるほどに握り締め、アルフレッドは墓石を前に独りごちた。
 薄霧の立ち込める早朝の倫敦の街。その郊外にある公共墓地の中にアルフレッドはいた。目覚めの時間にはまだ早いせいか、もともと人気の少ない墓地には彼とその隣で花を両手に抱えたジュリア以外の誰もいない。
 白濁色の霞に包まれ、二人は互いに一言も交わすことなくただ墓石を見つめていた。
 墓石にはかつて彼がずっと愛していた妹と義弟の名前が刻まれている。義弟の名前は彼が墓守達を脅しつけて刻ませたものだ。だが、その二人の亡骸はそこには眠っていない。二人はここからずっと離れた彼らだけの城で、誰にも侵されることのない眠りに抱かれているはずだ。
「眠る者のいない墓に、どんな意味があるんだろう」 
 視線を墓石から離さぬまま、アルフレッドは口元だけで笑った。
「花を捧げるなら、あいつらの眠れる城の前に捧げてやるべきなのにな。ただあいつらの名前を刻んであるだけの石に捧げてやる必要なんてないだろうに」
「あくまで気持ちですよ、アル先輩」
 墓石にそっとかがみこみ、両手の花をその墓前に丁寧に飾ってやりながら、ジュリアは石に刻まれた名前をゆっくりと指でなぞる。
「あのお城はアンジェちゃんとアーノルド君だけのものなんですから、誰も近づいちゃいけないんです。だから、こうやって気持ちだけでも捧げてあげなくちゃ」
「そうだな……」
 小さくうなずきながら、アルフレッドは花を飾る作業を続けるジュリアの肩に手をやった。
 大学時代からずっと彼の後ろに付き従っていた、彼にとってはほとんど疫病神の属性を持つ後輩。だが、彼女との最初の出会いはそれよりも遥かずっと昔のこと。彼もずっと忘れていたが、あの森で迷子の女の子に手を差し伸べたあの日からのこと。
「なあ、ジュリア。二つだけ聞いていいかな?」
「ランチセット三人前でどうぞ」
 手を休めることなく、肩越しに振り返って笑顔で告げる後輩の首筋にアルフレッドはさりげなく手刀を構えた。
「気絶への特急券っていうのはどうだ? 往復にしておいてやるけど」
「……せめて一人前で許してくれませんか?」
「しょうがないな。じゃあ各駅停車にしておこう」
「何ですか各駅停車って!?」
「とりあえずじわじわと腹から……っていうのは冗談だって」
 本気で恐怖を顔に浮かべるジュリアに、アルフレッドは笑って手を振った。
「俺はお前と最初に出会ったのは大学生の頃だと思っていた。だが、実際にはずっと昔にお前と会っていたし、お前は俺のことを覚えていた。さらにアーノルド達と幼馴染みだっていうじゃないか。どうしてそのことを黙っていたんだ?」
「……恥ずかしかったんです」
「はぁ?」
 深く目を伏せて思いがけないことを言うジュリアに、アルフレッドは首をかしげた。
「だって……最初の出会いがあの森で顔をくしゃくしゃにして抱きついたことなんて格好悪いじゃないじゃないですか」
「……大学でのお前の普段の行動の方がよっぽど恥ずかしかったと思うが」
「私そんな恥ずかしいことなんてしていません」
「じゃあ思い出させてやろうか? まずは恐怖の実験室から」
「……遠慮します」
 ようやく立ち上がり、頬を膨らませてそっぽを向くジュリアに、アルフレッドは肩で笑いながら問いを続ける。
「じゃあ二つ目だ。どうしてお前は十分に危険だということを知って俺の後を追いかけてきたんだ?」
「わからないんですか?」
 心底から驚いたように、ジュリアはアルフレッドへ向き直った。
「わからないから聞いているんだがな」
「そんな……本気で言っているんですか?」
「ああ。本当にわからないんだ」
 悪戯っぽく笑いながら、アルフレッドはジュリアの身体を包むように抱き寄せる。
「だから、教えてくれ」
「……意地悪なんだから」
 頬を真っ赤に染め、うつむきながらも顔を近づかせるジュリアに、アルフレッドが奪うような口づけをする。そのまま、しばらく穏やかな風の音に耳を澄ませる。
「ねえ、アル先輩。私、一つだけ気になったことがあるんです」
 唇を離し、彼の胸に額を押し付けながらジュリアは呟くように言う。
「どうしたんだ? 腹でもへったのか」
「そうじゃなくて……アンジェちゃんのことなんです」
 その名前を聞いてアルフレッドの表情に陰がかかる。それを見ないようにしながら、ジュリアはあえて続けた。
「アーノルド君は百人の命の血を捧げることでアンジェちゃんが生き返ると言っていました。アーノルド君が九十九人目の命を捧げたとするなら、残りはあと一人です」
「それがどうしたっていうんだ」
 彼は苦笑し、かぶりを振った。
「そんなことは奴の作り話、戯言さ。現実に死者が生き返ることはありえない」
「ですが、アンジェちゃんの遺体は不思議なくらいに温かかったじゃないですか。もしも、今からでもアンジェちゃんに最後の血を捧げれば、あるいは……」
 彼は最後までジュリアに言葉を続けさせなかった。
 彼女の抵抗がなくなるまで、思いきりその小さな顔をその胸に抱きしめる。
「ジュリア……それはもう終わったことなんだ」
 その可能性を考えたことのないわけではなかった。
 横たわったアンジェに触れたとき、そのぬくもりに彼は確かに生の鼓動を感じ取っていた。
 だが、アンジェを仮に蘇らせるとしても、また誰かの命を奪わなくてはならなくなる。
 そして、アンジェの復活を誰よりも望んでいた男は、もういない。
「さあ、ジュリア。腹も減ったし、街に戻って何か食おうぜ」
「それってアル先輩のおごりですか?」
「ああ。今日だけは、特別にな」
「やったぁ」
 おおげさに喜ぶジュリアに小さく笑いながら、アルフレッドはほんの一条だけ天から降り注いでくる朝日を見つめてる。
 兄弟そろって楽しく遊んでいた森が、そのまぶたの裏には浮かんでいた。
 子供時代の思い出。
 そして、大人になってからも続いた、本当の家族のような交流。
 だが、それはもう戻らない過去の出来事でしかないんだ。
 だから、さようなら。
 俺の大切な二人……。
 隣ではしゃぐジュリアに腕を引かれながらアルフレッドはもはや振り返ることなくかつての迷子の少女と二人、霧の街倫敦へと続く石畳の道を歩いていった。















   〜あとがき〜

 予定よりかなり遅れてしまって申し訳ありません。かなりの時間がかかってしまいましたが、ようやく『君を忘れられないから』完結です。これでも前作よりは時間はかかっていないんですけど、個人的な満足度はかなり低かったりするのです。色々とうまく言えない不満もありますしね。
 そういうことで、毒舌チックな感想をお待ちしています。今回ばかりは何も言われても耐えられそうな気がしますので……次は短編でいきます。それでは

                               〜砂時〜