失われし刻 プロローグ −1−
作:SHION





 「夢」を見ていたのかもしれない。「夢」ではないのかもしれない。
 普段の生活とはかけ離れた空間に未来は佇んでいた。
 騒々しい車や生活の音、そして家族や近所の耳障りな声が聞こえてこない。
 未来は何故か制服を着て、そして見ず知らずの一度も訪れた記憶のない場所に一人佇んでいた。
 家もない、ビルもない、そして毎日通わなくてはいけない煩わしい学校もない。
 あるのは一面の氷の世界だけであった。
 見渡す限りの・・・天井も壁もそして床さえもが氷で形成されている洞窟であった。
 そう、洞窟という表現が一番適切ではないかと未来には思えた。
 小学生の頃遠足で一度だけ訪れた鍾乳洞にどこか似ているけれど全く違うものであった。
 寒さは感じなかった。吐く息も白くはない。
 氷に囲まれていれば寒いはずなのに未来はそれを感じなかった。むしろ自分自身の体温すら感じることもなかった。
 一瞬、自分が死んだのではないかという考えが過ぎる。
 しかし死者に意識があるというのは未来の考えにはなく(人は死ねば無になると思っている。煩う者もそして自分すらも消滅する世界だと)すぐさまその考えは否定され首を振った。
 これは夢だ。
 未来はそう判断した。
 「夢」だと判断したあとは躊躇うことなど何もなかった。未来は氷の床に足を静かに下ろした。
 今まで見ていた情景が空中から見ていたものだとその時に分かり、ここが「夢」の世界だということを改めて認識して未来は苦笑した。
 よく考えればすぐに理解できたはずなのに「夢」というのは厄介な代物だと思った。
 そしてこれが「夢」であると判断したあと、いつもならばすぐに目が覚めていた。気づく時は常に目覚めが近い時であったからだ。
 しかし今日は目覚めの瞬間をすぐに迎えることはなかった。
 未来は不思議に思いながらもこの見慣れない景色にその理由が隠されているのではないかとふいに思った。
 普段なら思うはずのないことも、普段起こらない現象の中であるからこそ考えそして実行に移すことが可能だったのだ。
 ゆっくりと周辺を見回した。
 しかし一面は分厚い氷に囲まれているだけで何もない。音もない。当然のように人気もなかった。
 一歩、足を踏み出してみた。
 まるで地に足がついていないような感覚でその一歩は音もなく消化された。未来は不自然さに違和感を抱きつつもまた一歩踏み出した。
 しばらく氷の廊下を歩いていると、ふと洞窟の奥へ続く天井が少しずつ高くなっていることに気づいた。
 ほんの少し身震いをした。恐怖からではない、好奇心が疼いたのだ。
 ゆっくりと・・・、足音はもともとしないのだが、それでも何故か音を立てないように未来はゆっくりと奥へと進んだ。
 ふいに視界が開けた感覚に陥った。
 視界は真っ白に埋め尽くされ自らの手や身体全てすら見えなくなった。
 感覚的に未来は自分の身体のすぐそばを「何か」が静かに通り過ぎるのを感じ取った。
 空気が揺れ、髪は微かになびいた。
 一瞬の出来事だった。意識が飛んだのではないかとすら疑った。
 その瞬間が去ったあとは今までと同じ情景が広がっていた。未来は混乱した頭を整理するために2、3度頭を横に振った。
 それで全てが解けるわけではないが、これは「夢」だからと理解することができた。
 未来は再び進み始めた。
 天井はもうかなりの高さにまで達していた。そろそろ空洞の中心に辿り着くだろう。未来はそう考え更に足を進めた。
 実際に中心に到達したのは予想通りで未来はその目の前に広がる光景に「夢」だと理解しつつも唖然とした。
 そこには今まで歩いてきた床や、周りにある壁や天井などの氷とは全く違う、そしてあまりにも巨大で存在感のある氷の壁が存在していた。
 思わず足が止まる。そして息を飲み込む。それはその巨大な氷の壁の美しさからか何なのかは分からない。
 とにかくそこは洞窟の最終地点であり、その壁は透明感のある綺麗で儚げで・・・そしてそれはこの洞窟のどこにそんな高さがあるのか分からないが天井が霞むほどの高さまでそびえていた。いや、実際のその壁の高さは目で見ることは出来ないのでそれ以上あるのかもしれなかった。
 とにかく巨大。とにかく優美。今まで見たどんな自然よりもそれは偉大であった。
 この場所へ来てから始めて未来は感嘆の声を漏らした。
「・・・凄いな・・・」
 カツン・・・。
 背後から迫る足音に未来ははっとして口を塞いだ。
 隠れる場所などどこにもないのにとにかく未来は身を潜める場所を探した。
 カツン・・・。
 音はまだ遠くの方から聞こえるようだった。未来は中心部から外へ出る道を探した。しかし出口など入ってきた道しかなかった。
 そしてそこからは一本道で足音の主と鉢合わせになるのは明確だった。
 未来はここにあるモノを見てしまっていた。これはこの足音の主にとっては不都合になることかもしれない。いや、むしろ不都合であるはすなのだ。だからどうしても遭遇するわけにはいかなかった。
 最後の賭けであった。
 未来は入り口付近の壁際に背中をピッタリとつけた。今まで感じなかった氷の体温がひんやりとするのはきっと緊張から汗をかいたせいだ。しかしそれが未来からこれが「夢」であるということを忘れさせるには十分だった。
 カツン・・・。
 足音は更に大きく、そして近づいてきた。同時に未来の緊張感も募った。
 どんなやつがくる?見つかった場合は(見つからないことのほうが不自然であることは分かっているが)どうする?そしてもし足音の主が未来を排除しようとしてきたらどうする?
 排除・・・。その単語が頭を過ぎった瞬間に未来は声を出さずに口元だけを緩めて笑った。
 それは願ったり叶ったりだなと思った。
(・・・しかし・・・・・・)
 未来は目の前にそびえる氷の壁を見やった。
 透き通った壁の中にうっすらと浮かびあがっているものがある。この距離からではよくは見えないが先刻ほど前に間近で確認したのでそれが何なのかは分かっている。
 あれが何故こんな場所にあるのかが未来の好奇心を埋めていた。そしてそれを知る前に排除されるのは嫌だと感じていた。
 カツン・・・。
 ふいに足音が止まった。未来の緊張感も最大にまで達していた。冷たい汗が背中を流れるのを感じたような気がした。
 ほんの少しの時間だが足音は全く聞こえなくなり、そして人の気配すらも感じなかった。
 壁からほんの少しだけ覗いて相手を確かめてみたい衝動に未来は駆られた。
 生唾を飲み込みたいのを一瞬我慢して、そしてそっと壁の端から入り口を盗み見た・・・。
「・・・!!!?」
 未来は思わず叫びそうになるのを理性から必死に堪えた。
 覗きこんだ瞬間未来の眼前にそれはいた。きっと今までの足音の主なのであろうことは明白だった。
 薄茶色の髪に碧色の瞳、そしてゆったりとしたローブを着た女性であった。強い眼差しで真っ直ぐに前を見つめていた。
 目があった。
 その女性と目があった気がした。いや、気のせいではなく確実に目があった。そのはずだった。
 未来は身体を硬直させてはいたが、その精神力からなんとか体勢を立て直し再び壁に背中を張り付けた。荒くなりそうな呼吸を必死で抑える。
 目があった。自分がここにいることを相手に感づかれたことは間違いなかった。
 カツン・・・。
 再び足音が響いた。