失われし刻 プロローグ −2−
作:SHION





 高鳴る鼓動は収まることもなく、より激しく高鳴った。
 足音は近づく。それよりも速く鼓動は鳴った。
(どうする・・・?わたしの存在は知られた。この後どうする・・・。わたしはどうする?)
 未来は冷静になろうと必死に努めた。
 こんな時こそ我を忘れてはいけない。自暴自棄になってもいけない。冷静に対処しなくてはいけない時。
 カツン・・・。
 足音は遂に未来の真横から聞こえた。
 今、先刻ほど前に未来と目があった女性は未来の真横まで来ていたのだ。
 未来は息を殺し、気配を絶つことに専念した。ピクリとも身体を動かしてはいけない。
 目はあった。それは確実だと思う。
 しかしそれに慌てて自分から墓穴を掘るような真似だけはしたくなかったのだ。
 女性が未来に気づいていないということに賭けたのだ。
 それが冷静な判断かどうかは別として、この何もない広い空間の中ではそうするより他なかった。
 女性は変わらず前を真っ直ぐ見つめていた。
 そしてまた・・・カツン・・・と足を一歩前に進めた。変わらずまた一歩、そしてまた一歩と歩を進める。
 まるで未来のことなど知らないかのようなその行動に未来は安堵した。
(・・・気づいていない・・・。というよりも見えていないという方が正しいのか)
 未来はやっとこれが「夢」であることを思い出してようやく呼吸をした。ゆっくりと。
 そう、この氷の壁に囲まれた場所にいても吸い込んだ息は肺に冷たく突き刺さることはない。氷の壁についた手も背中も全て冷たさを感じない。これは「夢」。
 未来はそう自分に言い聞かせ、そして確認し納得すると壁から少しだけ離れた。
 足音はしない。前方を歩いている女性も未来の気配に気づく気配もない。
 ふと、女性が立ち止まっていることに気づく。
 女性は未来が先ほどまでいたあの巨大な氷の壁の前で立ち止まっていたのだ。そして見上げた先には未来の好奇心を沸き立たせるには十分のモノが存在している。
 そして未来はそれをすでに見ていた。
 この女性に気づかれたくなかった理由。死に対する恐怖など持っていないはずなのに、怖れていた理由。
 それがこの氷壁の中のモノだった。
 これがなんなのか。何故こんな所にあるのか。未来はそれが知りたくなっていたからだ。
 そして今ではこの女性も未来の興味対象となっていた。
 この場所に何故現れたのか。この氷壁の中のモノを彼女は知っているのだろうか。
 「夢」だと知りつつも、この「夢」の謎を知りたかった。こんな非現実的なモノ。自分が「夢」見ることすらも不思議に思えるくらいだからだ。
 未来は今度は臆さずに氷壁へと歩を進めた。
 ゆっくりと。しかし確実に。
「古の時代より・・・戦果を左右した存在・・・」
 女性の後方に近づいた時、初めてその女性が声を発していることに気づいた。
 大きな声ではない。小さな声でもない。弱弱しいわけでも騒がしいわけでもなく、耳に心地いい波長だった。
 澄んでいるけれどもか細くもなく。そして凛としたハリのある声でもあった。
 女性は今もまだ見上げてそれを見ていた。
 女性のその言葉はそれに話し掛けているようだった。未来は女性の声や言葉を聞き取ろうと足を止め、耳を澄ました。
「人が犯した過ちを・・・何度もその罪を被り、そして救いの手を差し伸べた。有翼人を束ね、精霊と和解し、魔族をなだめ、竜に委ねられたその力・・・」
 女性は淡々と言葉を続けた。
 未来には意味が分からなかった。有翼人?精霊?魔族?竜?聞きなれない単語が羅列された言葉は「夢」であるという意思をより強固にした。
 未来はもう一度、女性が話し掛けているモノの姿を見た。
 下から見上げていくとまず足の指が目に入った。
 氷漬けにされているとはいえ、その肌は白く透き通り、そして細く滑らかな曲線を描きながら上部へと足を形成していた。
 とても細くしなやかなウエストラインを過ぎるとそのモノは両手を胸の前で柔らかく握っていた。その手首は折れてしまいそうな程細く、手は小さかった。
 綺麗な顎のラインを過ぎるとそこにはとても整った顔があった。
 瞳は閉じているが、しかしとても強い意志の力を感じさせた。整った顔立ちの美しい女性だった。いや、女性というよりはまだ少女のあどけなさが残っていた。
 その髪は長く少しウェーブがかかっており腰よりも長く無造作に、けれども美しい光沢を放っていた。
 緑色が鮮やかに映える。
 そして・・・その背中からは美しい翼が生えていた。
 しかし何故か両翼はなく、左側のみ翼があった。
 髪のエメラルドグリーンを薄くした美しい色合いが彼女自身の美しさと中和して、それは素晴らしい造形となり存在した。
(翼・・・。人間じゃない・・・)
 未来は非現実的なものは普段あまり信用しなかった。興味もなかった。
 しかし「夢」とはいえ実際に目の前にそれがあると話は違う。
 信用はしなくともその美しさだけは讃えるには十分だった。時間が許すのならば飽きることもなくずっと眺めていることも可能だろう。
(有翼人・・・。翼が有る人・・・。この人は有翼人というものなのだろうか?)
 「夢」であるというのに未来は真剣に考えてしまった自分に苦笑した。
 もういいだろう。そろそろ現実世界への目覚めを待つとしよう。どうすれば目が覚めるのかなど分からなかったが、未来はとりあえずこの世界についてまともに考えることをやめた。
 しかし「夢」は続いた。
 そして女性の声も続いた。
「けれど人は犯した過ちを反省し、そして向上しようとする意思は見せなかった。救った女神に依存してのさばるだけ。あげくには救ったのは人間という人種ではないにも関わらず、人間以外の者を排除しようとする・・・そんな人たちを今更救うことなんてない。なのに何故貴方は女神の意思を遂行しようとしない?新たな女神と成り得るほどの力を持ちながら何故今尚人間に加担しようというの?そして・・・それだけの意思がありながら何故永久氷壁から出てこないの?」
 女性は次々と永久氷壁と呼ばれる氷の壁の中にいる少女に向かって質問を投げかけた。
 当然答えが返ってくるはずもなかった。
(人間を・・・憎んでいるのだろうか?この人は・・・)
 未来は女性の語りかけを見ながらそう感じた。けれどもその中にまだ戸惑いがあることも感じ取れた。
(結局何が言いたいんだ?何がしたいんだろう?)
 女性の言葉が途切れた。
 未来は不思議に思い(さっさと終わらないかという気持ちもあったが)今度は女性を見つめた。
 女性はゆっくりとその両手を左右に広げた。
 そして今度は女性のその背中が少しずつ盛り上がっていくのが見てとれた。
 それは奇怪ではありもしたが嫌悪感は感じさせず、ローブの切れ目(今気づいたのだが)から白い翼が生え出てくる瞬間であり美しい情景の1コマでもあった。
 永久氷壁の少女とはまた違うこちらは純白の翼だった。そしてきちんと両翼が携えられていた。
 この女性もまた人間ではなかったのだ。
(これもまた有翼人というものか・・・)
 未来は一人納得した。すでに驚くよりもこの光景を楽しむことが出来るようになっていた。
 女性は翼を羽ばたかせ永久氷壁の少女の眼前まで浮上した。
「・・・古の時代より戦火を左右した存在。・・・女神・・・。その永久氷壁から早く目覚めないと貴方は女神になれなくて、そして消滅してしまう。それでいいの?助けたい何かがあるんじゃないの?早く目覚めて・・・わたしは貴方が何かを変えてくれると信じている。さぁ・・・女神となりなさい、シオン」
 女性はそう言うと、突然クルリと少女に背を向けた。
 そして目線だけ下に下ろした。
「・・・貴方はシオンに近い存在?」
「・・・・・・!!!??」
 女性は明らかに未来に質問を投げかけた。
 その瞬間に未来の身体はその場から消え去り、残されたのは女性と少女だけとなった。
「この場に来れるということは、少なくともシオンの波長に近い者があのコの側にいるということね・・・。次のターゲットは決まったわね」
 女性は再びシオンに向き直り、そして微笑んだ。
「目覚めなさい、シオン」


「・・・・!!???」
 勢いよくベッドから未来は飛び起きた。こんなことは今まで18年間生きてきて稀なことだった。
 汗をかいた額を手の甲で軽く拭う。荒げる呼吸を整えるのには少しの時間がかかった。
 朝の匂いがした。
 階下からは家族の慌しい声が聞こえる。窓の外からは車の音や子供たちのはしゃぐ声、近所の主婦たちの耳障りな笑い声、そして交差する車の騒音が未来を目覚めさせた。
 いつものように不快な目覚め。
 しかし今朝はいつもとは違う不思議な夢を見たからか普段よりは不快さを感じなかった。
 窓を開けると春が近づいた匂いが未来の鼻をよぎった。
 呼吸が完全に落ちつくと未来は寝間着を脱ぎそして制服へと着替えた。
(・・・「夢」なんだ。だけどやっぱりあの時目が合っていたのは錯覚なんかじゃなかったんだ・・・)
 「夢」であるけれど未来の意識はハッキリとしていてあれはまるで「現実」のようだった。
 「夢」と「現実」が交差した世界。
 それを記憶から忘れぬまま未来は家を出、そして卒業式を間近に控えた残り少ない高校生活をする為に歩き出した。