失われし刻 第一話 −2−
作:SHION







第一話 −2− 
「夢か、現か、幻か」
 その黒い球体は重低音を響かせ続けた。とてつもなく長い時間に思えたがきっと実際の時間ではそれほど経っていたわけでもないのだろう。しかしこの嫌な緊張感は時間の流れを遅く感じさせた。
 そしてその奇妙な音がぴたりと止んだ。
「……!?」
 緩められた時間の流れが今度は一気に加速をはじめる。球体は音もなく膨張を開始した。ゆっくりと、わずかに回転をかけながら少しずつ巨大な球体へと変化を進める。それはまるで風船が膨らむかのように。張り詰める。
 刹那…。
 球体の中央部に真っ赤な切り口が入った。そしてその開いた切り口の中からギョロリとした巨大な一つ目が現れた。それはその球体全体の半分以上を占める程の大きさで、生徒たちは全員その目に睨まれた。大きな目で一人一人の生徒を見つめる……そして弾けた。
「きゃぁぁぁああああぁあ!!?」
 球体は膨張しきったその体を弾けさせた。それは人間一人ほどの大きさの透明な硝子のようなものになって生徒たちに襲い掛かった。一つだけではない。無数にも思えた。生徒たちは硬直状態を解き放ち迫りくるソレから逃げようと必死に走った。各々叫び声をあげながら。しかし完全に閉ざされた空間には逃げ場などどこにもなかった。物陰に隠れたとしてもソレは生徒を簡単には逃がさなかった。どこまでも追いかけた。追い詰めた。そしてその硝子のような破片に生徒を一人一人吸収していったのだ。
 異様な光景だった。
 泣け叫ぶ生徒たち。それを追いかける謎の物体。本体は……弾けてなお本体はステージ上に残ったままだった……巨大な目でその様子を見ながら音もなくただそこにいた。
 未来はそれを見ていた。取り込まれていく生徒たちなんて正直どうでもよかった。自分が取り込まれることすらもどうでもよかった。未来が見ていたのはその目だった。球体の中心に現れた巨大な目。未来は食い入るようにそれを見ていた。いや、本当はなんとなくぼうっと見ていただけかもしれない。とにかく未来はそれを見ていた。自分の目の前や周りでなんとなく見たことのある顔程度の生徒たちが硝子のような物体に取り込まれていく所も見えていないかのように。
 立ち上がる。まだ逃げ惑う生徒の波を静かに掻き分けてステージへ向かう。意味はなかった。ただ身体が勝手に動いていた。襲い掛かる物体はまだ未来を取り込もうと向かってはきていなかった。球体に近づく程冷たい風がそれから発せられていることに気づいた。どこかで感じた感触。こんな得体の知れないものを見るのは当然初めてだったのだが、その目はどこかで見たことのあるような錯覚に陥った。
 ……では、どこで?
 瞬間的に浮かんだ顔があった。それが誰であるかを考えて自嘲する。
(………馬鹿馬鹿しい。あれは「夢」だ)
 自分の考えを否定する為にかぶりを振る。「夢」と「現実」が交差することなど有り得ない。ましては「現実」でこんな非現実が起きることなど到底ありえない。有り得ない。しかし今現実に起きているこの事象を認めなくてはならない。そして認めたならば次にすることは………。
 未来は身体の力を抜いてその場に立ち尽くした。球体からは視線を逸らさない。ただ受け入れようとした。自分が取り込まれる、その時を。
 生徒たちの悲鳴や怒号は少しずつ小さくなっていった。いや、小さくなったわけではない。大半が取り込まれた為に人数が減ったからそう感じるだけだった。体育館の中では今なお球体から弾け飛んだ物体は残っている生徒を取り込み続けていた。その度に生徒の悲鳴が聞こえた。
≪いやだ……たすけて……≫
≪しにたくない……ここから……だしてくれ……≫
≪ゆめならはやく……めざめて……はやく……はやく……≫
≪せんせい……たすけて……おかぁーさん…………≫
≪たすけて…≫
 取り込まれた生徒たちは、その硝子のような物体の中で必死で助けを求めていた。外に声は漏れなくともその様子は伝わった。……助けて……救いの言葉だけを繰り返す。
 目があった。
 視線だけをせわしなく動かし続けていた球体のその巨大な目と、未来は目があった。
「未来っ! 危ないっっっっ!!」
 瞬間、誰かの叫び声とともに未来はその場から横へと突き飛ばされ2、3歩よろけた。しかしすぐに体勢を立て直して声の主と自分を突き飛ばした者の位置を探るように向き直る。
 先ほどまで未来がいた場所にその主はいた。硝子の物体に閉じ込められてなお、その瞳は未来に向けられ、そしてその口は……逃げろ……と必死に語りかけていた。……大和だった。
「逃げろ?どこに?」
 未来は大和を見つめながら失笑した。何の意味があってかは知らないが未来を救おうとして自ら犠牲になった男。その様を見ながら、失笑した。
(誰を助けた所で誰も救われない。最後には全員同じ状況になるのは目に見えているのに救おうとするなんて馬鹿な男……)
 辺りには再び静寂が訪れた。どうやら未来以外の全員は取り込まれたようだった。長い時間をかけたわけではない。それは緩やかであって、なお迅速だった。未来が最後に残ったのはたまたまで特別な理由があるわけでもない。順番なんてどうでもよかった。球体は生徒全員を取り込むことが役割であったから。
 最後の硝子の物体が背後から未来に近づく。未来は大和からはさっさと目を逸らして再び球体の巨大な目を見つめていた。手足から、身体全体から力を抜く。ただ目だけを逸らさずに。
 未来が取り込まれるのも一瞬だった。
 ただ最後まで球体から目を逸らすことはなかった。
 生徒を取り込んだ硝子の物体は一つずつ綺麗に列をなして球体のまわりを囲んだ。中の生徒たちは今も助けを求めて叫び続けていた。泣くだけの生徒も、泣き疲れて身体が震えるだけの生徒も、一心不乱に見えない壁を叩き続ける生徒も、様々だった。ただ皆に共通しているのは助けを求める気持ちだった。
 球体から再び重低音が響きだす。それは静寂が訪れた体育館にとてもよく響いた。そして球体がその巨大な目をゆっくりと閉じると……何事もなかったかのように全ては消え去った。
 球体に吸収されるのを感じながら未来は再び思った。
(やはりこの目は「あの女」の目だ。「夢」でわたしの存在に気づいたあの女の目と同じだ……)
 それを認めると未来はようやく目を閉じて、そして意識を失った。


『……お兄ちゃん?』
 遠い意識の中で未来は夢を見ていた。いや、それは夢ではなく遠い過去の記憶なのだろうか。それともやはりただの夢なのか。とにかく未来は夢を見ていた。真っ白い空間。辺りを見回してもただ白いだけで何もなかった。先刻までの慌しさも、煩わしさも何もない。静かで落ち着いた。未来はその空間を身をまかせて漂っていた。重力は感じなかった。まるで海の中にでもいるかのように、ゆったりと漂った。
『……お兄ちゃん?』
 またあの声が聞こえた。喧騒が去ったかと思えばさっきからこの声がずっとどこからか響いていた。近くでとても大きい声である時もあれば、遥か遠くで聞き取れない時もあり、またある時はかすれた泣き声のようでもあった。その声が聞こえる度に未来の心は苛立った。それは幼き頃の自分の声であったから。まだ自我が確立する前の、忘れ去りたい過去の自分だった。未来は頭痛を覚えて身をまかせるのをやめた。意識がハッキリしてくると途端に未来の身体は重力に引き付けられるように、それまでただ真っ白で地もなかったはずの空間の地に降り立った。とん……という着地音が静かに空間に響く。
『お兄ちゃん?』
 真後ろで突然発せられた声に驚いて振り向く。そこにはこの空間と同じように真っ白いワンピースを着た小さい小さい少女が座っていた。未来は憎憎しげにその少女を見た。
「思い出なんてわたしにはいらない。だから貴方もわたしにはいらない存在……」
 未来は睨んでいた。
 感情を表すことなどとうの昔に止めたはずだった。それでも過去の自分を見れば吐き気がする。これが夢であろうと記憶であろうと関係ない。今一番しなくてはいけないこと、それは……この少女を自らの手で消し去ることだった。未来は大きく手を振りかざし、そして幼い自分に対して振り下ろした。
 鈍い音がして少女は倒れた。思いのほか重量があった。感触もリアルだった。未来はさらに嫌な気分になった。
 少女が倒れた時に髪の隙間から赤い物がキラリと輝いた。それがきっかけとなったかは定かではないが、未来は倒れた少女に何度も何度も蹴りを注いだ。立ち上がることのないように。二度と立ち上がることのないように、何度も何度も。一発蹴りを入れる度に少女の呻き声とごつっという音が。それが繰り返された。しかし少女は泣くことも叫ぶこともなく、ただ蹴られ続けた。やがて未来が力尽きるその時まで……。体力を失い、出来る限り最後の力で蹴りを入れたあと、少女は消えた。それまで何もなかったかのようにあたりは再び純白の空間と化した。未来は荒げる呼吸を落ち着けようと努めた。そして、いつからか癖になってしまっていた失笑を行う。
(……馬鹿馬鹿しい)
 身体の力を抜くと、未来はまた空間に身をあずけて漂った。閉じていた瞼の先から淡い光が差し込んでくるのに気づいたのは、それから大した時間が経ったあとではなかった。