失われし刻 第一話 −3−
作:SHION





第一話 −3−
「夢か、現か、幻か」

「……ん…………」
 未来は遠い意識の底から、前方に眩い光が見えた為その眩しさに意識を取り戻し、そしてゆっくりと目を開いた。そこは先ほどとあまり大差ない白い空間に思えた。そこに未来はうつ伏せになって倒れていた。どこかを打った形跡もなく当然痛みもなかった。起き上がろうと地面に手をつく…その時初めて気がついたのは地面が冷たいということだった。感覚が戻ってくるのを肌で、そして鮮明になってくる意識から理解する。地面に触れている身体全体が冷たさを感じ、寒さを覚え始めた頃ようやく未来は立ち上がった。
 ゆっくりと立ち上がり、まだぼうっとする意識を迅速に活性化させる為に何度か頭を横に振る。脳が重く痛むのを感じて思わず目を閉じ、手で頭を押さえた。目を閉じたまま深呼吸を軽くして身体が本調子に戻るのを待つ。そうこうしているうちに辺りがざわついていることに気づいた未来は静かに目を開き、そして見回した。すると自分だけがこの知らない空間に出現していたわけではないことを知り、自分と同じように倒れている人間が、やはり同じように先刻ほど前まで同じ体育館にいた星稜南高校の生徒であるということも分かった。生徒たちはこの見知らぬ場所に恐怖し、戸惑っていた。また寒さに震え丸くなって身を寄せ合ったり、体育館で泣きすぎたのか今はすすり泣いている生徒もいた。
 寒い……。
 未来は生徒たちを確認すると、また別の奇妙な感覚を思い出していた。一度も訪れたことがあるはずもないこの空間。見覚えがあった。未来たちを取り込んだ球体の巨大な目も見覚えがあった。それと同じ感覚。既視感……それと似たようなものかと感じた。しかしそうではないことは瞬時に理解できた。未来は今朝この場所にいた。巨大な目はここにいた女性と同じ強い力を放っていた。そしてここは……。再び辺りを見回す。ここは先刻のまでの白い空間とは全く違う場所だった。未来は今朝この場所にいた。しかしその時は寒さなど少しも感じなかった。今はそれを感じることが出来る。これは「夢」ではない。しかし「夢」と同じ場所。そう、本当にここがその場所であるのならば女性の言っていた言葉がその地名。
 ここは「永久氷壁」。名前から想像すれば『永久に溶けることのない氷の壁』なのであろう。一面は壁も床も天井も全てが氷に閉ざされていた。「夢」と違うのは、寒さを感じること、自分が重力を感じていること、星稜南高校3年生が全員いること、そしてローブを着た女性と永久氷壁の中にいたシオンがいないことだった。
「……えっと……みんな、落ち着いてあたしの話を聞いてください!」
 寒さで震え、歯がガチガチとぶつかるのを押さえながら1人の女生徒が声を張り上げた。広い空洞となっているこの空間では女生徒の高い声は響き渡らせることができた。全生徒は一斉のその女生徒の姿を見て、そして静寂が訪れた。何かこの状況に対しての打開策でもあるのかと期待したからだった。今は何にでもすがりたい、元いた場所に戻れるのならば普段は耳を傾けたりしない仕切り屋の話にでもすがるつもりだった。
「ここがどこなのか、何故こんなことになったのか……あたしには分かりません」
 生徒からため息がこぼれた。しかし女生徒はそれに負けないように話を続けた。
「けれど、今あたしたちがここにいることが、それが現実なんだと思うの! だからまずは落ち着いてこれからのことを考えましょう。ここがどこなのか、何故こんなことになったのか……今は先生もいないし、親だっていない。あたしたちで解決するしかないと思います!」
 女生徒は声高らかに宣言した。未来はこの女生徒のことを何度か見たことがあったような気がした。そう、全校集会などでは必ず司会をしていた女生徒だった。
(生徒会長……たしか比奈という名前の。こんな時まで仕切ろうとするとはさすがだね)
 未来は胸中で嘆息した。そんな未来の無関心をよそに比奈は全生徒をいつものように整列させると点呼を取り、人数を確認し始めた。未来はその光景を横目で見ながら「夢」でシオンが眠っていた壁まで来て見上げた。あの時と違って氷は透けてはおらず、完全に不透明になっていた。整列という言葉を完全無視して壁を見つめ続ける未来に比奈は必死で声をかけ続けていたが、あまりにも無視されるので諦めたのか声をかけるのをやめ点呼に集中した。
 星稜南高校の3年生は全部で266名だった。しかしこの日は欠席者が2名いたのでこの場にいるのは264名だった。少なくとも計算上では。紙も鉛筆もないこの場所で比奈は1人で各クラスの人数を把握した。勿論生徒1人1人の名前もちゃんと確認までした。生徒会長として全校生徒の顔と名前を覚えることは最低条件であると豪語している比奈だからこそ出来た点呼だった。結果、やはり体育館にいた全員がこの場所に辿りついたという結論に達した。
「各クラスの男女1名ずつの代表者は前に出てきてください。今後のことについて話し合います。他の生徒はこの場所からは離れないように。それと出来るだけ他の人と側にいて体温を保ってください」
 比奈は中心になりテキパキと行動した。声は震え、手足の自由もままならなくなっている状態でこれほどまとめあげる力と責任感は大したものであった。未来は比較的比奈たちの側にいたため(比奈たちが移動してきたのだが)話し合いの内容は聞こえてきた。しかしそれは支離滅裂だった。無理もない。比奈は必死でこの状況をどうにかしようと訴えるだけであるし、他の生徒は諦め気味であるか、何も考えられないかのどちらかだ。右も左も分からない見知らぬ土地で、突然起こったイレギュラーな事象。これを考え、この先を考えることなど重荷でしかなかった。
 吐く息は白く、防寒具も何もつけていない生徒たちは寒さに耐え切れなくなりはじめていた。比奈を中心とした今後の傾向と対策の会議も集中力が切れ始めた今となっては一向に進むはずもなく、ただ救いといえば風がないということだけだった。氷に囲まれた空間で風など吹こうものなら生徒たちの体温は一気にさがり、死への恐怖からきっと全ての気力を失っていただろう。
 未来も例外ではなく、この場の身を切るような寒さに凍え始めていた。どんなに強靭な精神力を持っていたとしても所詮は人間であることに変わりはなく、自然の力には抗うことは出来ないのだ。震えるだけで、自己の意思では動かなくなった手をそっと不透明な氷の壁に触れようとした。
 その時だった。
 広い空間の中心部に生徒たちは集まっていたが(比奈の指示通り)それの更に中心部に1つの小さな炎が浮かび上がった。
「今度は何!?」
 比奈は、そして生徒たちも突然出現した火の玉を見て脅えた。しかし勇気を奮い起こして生徒たちの前に立ち、守ろうとした。これも生徒会長たる者必要な素質だと思っているのだろう。思っている、というよりは自然と身体が動くようになっているのだろう。比奈の顔を火の玉から発せられる光が赤く染める。比奈は凍りついた身体が火の玉の熱で溶け始めるのを感じて、同時に寒さで虚ろになっていた意識もはっきりとしてきた。それは体育館であの球体を見た時の恐怖をも思い出させた。あの時もわけが分からないまま取り込まれて、そして今の状況があった。今度の相手は火の玉だった。これが襲いかかってくるようなことがあれば……今度の災いは直接死へ繋がるものと思った。
 緩やかな炎はその場で浮遊するだけでしばらく何の変化も現れなかった。未来も注意を凝らして火の玉を見つめていた。生徒はざわつくことも忘れただじっと炎を見ていた。体育館での教訓からか逃げることが無意味だということは学習したようだった。ただほのかな暖かさが心地よく緊張感も溶け始めた。
「駄目よ! 油断しないで! 何が起こるかわからないんだから……」
 その様子をいち早く察知した比奈が生徒に注意を促した。再び警戒心を強め、火の玉を見つめる。そしてその様子がまるでお気に召したかのように火の玉は一度だけ大きく燃え上がった。生徒は驚いて中心にいる火の玉から後ずさりをした。
「!?」
 生徒たちの円から外れた場所にいた未来はいち早くその異変に気がついた。いつの間にか生徒たちは最初に現れた火の玉と同じような小さな炎がいくつか出現していて取り囲まれていたのだ。後ずさりをした生徒たちは背後を別の火の玉に押えられていて今度こそ慌てふためいた。中心と背後を取られていては今度こそ逃げ場はなくなったのに、逃げ場がなくなった今こそ逃げようとするのだから不思議なものだった。
 しかし火の玉たちは生徒たちに危害を加えることなく(逃げ場は塞いでいるが)浮遊しているだけだった。未来は火の玉に囲まれてはおらずどこにでも行動できたが、それはしなかった。逃げる気など最初からなかったからだ。例えこの場でこの火の玉に焼き尽くされたとしても構わない。いつだって死ぬことを怖れることはない。どうでもよくなっていた。ここがどこなのか、何故こんなことになったのか、自分が死ぬことも、誰かが死ぬことすらも。だから、寒さで凍えた生徒たちが火の玉に対する警戒心を完全に取り払い暖をとるために火の玉を奪いあっても気にすることはなかった。生徒たちは今を生きることが大事で、どんな不可解な現象であってもすがるしかなく、そしてその火の玉は寒さに震えた生徒たちにとって救世主以外の何者でもなかった。
「ちょっと! 今はそんなことしてるわけじゃないでしょ!? 皆で助かる方法を考えましょうよ!」
「うるせぇ!」
 必死で呼びかける比奈に一喝をあびせた男子生徒は比奈を突き飛ばし火の玉を独占しようとしていた。
(気づいていないのか? 奪い合いなどしなくてもこの空間全体にもう冷気はたちこめていない。全く愚かだな。しかし……)
 未来は奪い合いをする生徒から目を離し、空間を見回した。
(これだけの火の玉があるのに、空間を暖かくするだけで溶ける気配は全然ない。やはりここは永久氷壁なのか?)
 不透明な壁に今度こそしっかり手をあてる。
 すると、まるで波紋のように触れた場所から波が広がった。未来が驚いて手を離すとそれはすぐに収まり、また不透明な状態に戻った。いや、手を触れる前より中が透けて見えるような感じもした。
 後方で激しい爆発音に似た音が発生したのはそれと同時刻だった。未来は振り返りもせずに壁を見続けていた。喧騒が収まった。きっと先刻のようにまた炎が激しく燃え上がったんだろうと推測する。実際そうであった。奪い合いをしていた生徒たちは一部吹き飛ばされて壁に身体を打ち付けた者もいた。それで頭を冷やしたのだろう。未開の地で安全の保障など何もないことを。
 辺りには再び静寂が訪れた。
 今まで一度たりとて吹かなかった風が一陣……生徒たちの間をすり抜けた。未来は見えるはずもない風を目で追った。そして確信した。
(……来た)
 広い空間で生徒たちは中心に固まっていた。立ち尽くしていた。火の玉は今も小さく浮遊しながらその火をたやすことはなく、生徒たちを逃がさぬように隙はなかった。
 風が収束し、人の形が形成されていく。まずは足元、そこから胴体へと風は収まり、完全にやんだ時にその形の全貌を見ることができた。女性だった。長くゆったりとした薄い勿忘草色をしたローブを身にまとっていた。薄茶色の髪は肩ほどまで伸ばされ、額にはサークレットのような美しい飾りをつけていた。背には純白の両翼を携え、生徒たちの頭上に浮いていた。そしてその碧色をした目に未来は見覚えがあった。
 「夢」で見たシオンに話し掛けていた有翼人の女性であった。
 恐怖に慄き、声をなくした生徒たちを女性は見渡すと微笑み言葉を発した。
「ようこそ、名もなき大陸へ……。貴方達は選ばれた冒険者たちです」
 女性はそう告げた。
 それはあまりにも美しすぎて怖いぐらいの微笑みだった。