LOVE HAZARD 2
作:草渡てぃあら





 人の声が聞こえる。どこか遠くで大勢の人間が話している声だ。それは、途切れることなくボソボソと流れ続けて――。
「やっとお目覚めか」
 ぼんやりとした意識のまま、鷹明は視線だけを声のする方向へ向けた。落ちたときにうつ伏せに倒れたせいで、かなりの上目遣いになる。
 目の前には一人の男が立っていた。先ほどの美女と同じぐらいの歳にみえる。
「……あんた誰?」
「さっきの女性のもうひとつの姿だ」
「は?」
「騙すようなことをして申し訳ない。だが」
 生真面目に頭を下げる男の整った顔立ちを、鷹明はぼんやりと見ている。頭の中では、さっきまでの夢のような体験とその後の恐怖の展開が思い出されていた。
「警戒せずに胸を開かせて石を埋め込み、且つ、マザーサイドへの入り口である保健室のベッドへと導く最善の方法だと思ったのでな」
「……」
 確かにそりゃ最善の方法だと鷹明は納得し、ため息をついた。
「紹介が遅れた。私はアレク、マザーサイドの王室秘書をしている」
「ア、レク? い…痛つ……」
 起き上がると、落ちたときに打ったのか左の頭に激痛が走る。喉の調子もおかしかった。何かが引っかかっているのか、思ったような声が出ない。
 さらに痛みを堪えつつ、辺りを見回すと――。
「どこだよ、ここ?」
 まるで映画のセットのような平淡な印象の部屋である。全体的に現実感がなく、無機質な空間が近未来的な雰囲気を醸し出していた。十畳ほどの広さがあり、中央には大理石のような柱が不規則的に数本、その奥には巨大な銀のカーテンが掛かっている。
(ひょっとしてここは日本じゃなくない……?)
 混乱している鷹明の頭の中で、先ほどの大転落の感覚がよみがえる。思わずブルッと身体を震わせた。
(地球を貫通しそうな勢いで落ちたもんな。だったらここはブラジル辺りか?)
 だが、アレクと名乗る男の答えは全く違っていた。
「ここは保健室だ。いや、保健室の別の形と言うのが正しいか」
「……は?」
「先ほども言ったように時間がない。続きは王の御前で説明しよう」
「は? 王って何」
 鷹明の質問には答えず、アレクは黙って手招きをすると部屋の奥にある銀のカーテンの前に立たせた。
 そして、改めて鷹明に言い聞かせる。
「ここはマザーサイドと呼ばれているもうひとつの現実世界」
 彼の手でゆっくりと開かれるカーテン。その奥には、鷹明が想像することも出来ないの景色が広がっていた。
「我らの世界は鷹明の馴染みのある世界の生みの親とも言える――正確には受胎中だが。母子の関係と同じく、この二つの世界は同時に存在し、お互いに干渉しあってひとつの宇宙を支えているのだ」
 距離にして三百メートル程、長い廊下と真っ直ぐに続く赤い絨毯。そのはるか彼方になだらかな階段があり、立派な玉座が見えた。
 そこには王らしき人物が座っている。最近、また視力が下がってそろそろ裸眼ではキツくなってきている鷹明には、王の細かい表情までは分からないが、王は鷹明の方をじっと見ているような気がした。
 いや、じっと見ているのは王だけではない。
 鷹明と王をつなぐ道の両脇には、数千もの人々が立っていた。彼らは皆、鷹明を見ていた。何かを期待しているような目、救いを求めるような視線。小さな子供の憧れの瞳や中には疑いの眼差しもある。
 学校でもプライベートでも、おおよそ注目されることとは無縁の生活を送ってきた鷹明は、この異様な光景に完全に飲まれてしまった。
 額の辺りに冷や汗を感じながら、彼らをそっと見渡す。そのまま天井へと視線を移した鷹明は、更に言葉を失っていた。
 玉座へと続く、はるかな絨毯の赤い道と数千人の人々――そのすべてを巨大な半透明のドームが覆っているのである。
「前へ進まれよ」
 背後から、アレクの小さな声がする。そして戸惑う鷹明の背中を押しながら、声高らかにこう言ったのである。
「かの人物こそが新たなるストゥームザイム! 我らの救世主なり」
 アレクの言葉に、人々はいっせいにどよめいた。
「ちょ、ちょっと何の話だよ? 大体、ここはどこなんだよ?」
 半ば強引に絨毯を歩かされながら、鷹明はアレクに詰め寄った。
「何度も言っているだろう、ここはマザーサイド。対して、お前達の住む世界はベビーサイドと呼ばれている。両世界は本来、同じ存在であるにも関わらず、決して交じり合うことはない。その扉を通れるのは邪悪なる闇の魔物とごくわずかの選ばれた人間だけ」
「じゃあここは、日本じゃないの?」
「……」
 今までの説明を全く無視した、あまりにも間のぬけた質問にアレクはうんざりとした様子で首を振った。
「分けわかんねぇよ、悪いけど」
 男の反応に鷹明はムッとして答える。いきなりこんな奇妙な場所に連れて来られて、難解な話を立て続けにしゃべられても、自分の知ったことではないのである。
「今はまだ理解しなくて良い。有りのままを受け入れることに専念するんだ」
「勝手なこと言うなよー」
 そうしている間にも、王との距離はどんどん近づいてきた。
 玉座があまりにも立派だったので気が付かなかったが、間近でみると王は幼かった。まだ十歳もいかないほどの、しかも小さな女の子である。
 引きずるほどのマントと、油断するとすぐに瞼まで下がってくる王冠が重そうだ。
「まだガキじゃんか。本当にこいつが王なの?」
 鷹明は、王に聞こえないようにアレクに耳打ちする。すぐに同じトーンで、アレクから返答が来た。
「外見に騙されるな、王族の寿命は長い。ああみえて御歳(おんとし)百歳を越えられている」
「……マジで?」
「そちが新たなる光の戦士、ストゥームザイムか」
 そこへ幼い少女の声が混じる。話しかけたのは王だった。精一杯威厳をもって発言したつもりなのだろうが、鷹明にはただの小生意気なチビスケに見える。
「……」
「何か答えよ。アレク、この者は言葉が通じぬのか?」
「いいえ、そのようなことは」
 慌ててアレクが言い、鷹明の背中を小突く。
「挨拶をしろ、挨拶を」
「挨拶ったって……どうも」
 居心地悪そうに軽く手を上げる。王は不快そうに顔をしかめる。
「……アレク。このような頭の悪い人間に、世界を任せてよいのか?」
「残念ながら、ベビーサイドには他に適合者がおりません。ストゥームザイムの中でも、タイプ0(ゼロ)は稀ですゆえ」
「あのー俺を無視しながら、俺の話をしないでくれます?」
「しかしベビーサイドの魔物を一手に引き受ける重要な任務であるぞ?」
「私が監督として十分に指導致します」
「だぁぁぁぁ!」
 王とアレクの会話に、鷹明は奇妙な雄叫びを上げて強引に割り込んだ。
「もういいから学校に帰してくれよ。ついでに例のお姉様も返してくれ。俺達、いいトコだったんだからなっ」
 鷹明の発言に、二人は沈黙をもって返した。
 また、二人の沈黙は周りにいる数千人もの沈黙でもあった。重苦しい空気が流れる。アレクは一息置くと、なだめるように鷹明に言った。
「いいか? あの女は私だ。騙されて石を埋め込まれたのがまだ分からんのか? 大体、お前みたいな冴えないガキを相手にする女性がいるわけないだろう」
「い、いい加減なことを! 大体、何で女が男になってるんだよ?」
「二つの世界の歪みが、体内のDNAに作用する。両者の世界が変わると、女性は男性に、男性はその逆へと必ず変化していしまうのだ」
「……?」
 ついてケないよ、と拗ねる鷹明を相手にアレクは大きなため息をついた。
 それを見ていた小さな王は「論より証拠という話か」とひとりごちると、近くの家来を呼ぶ。
「鏡をここへ」
 は、という歯切れの良い返事を残して数人の家来が奥に消えた。
 やがて、布で覆われた巨大な鏡が現れた。大の大人が、等身大で丸々2、3人は入る大きさである。
 王は玉座から立ち上がると(チビなので正確には飛び降りた)鏡に掛けられた布に手をかける。
 そして改めて姿勢を正すと、鷹明に向かって言った。
「いいか? 保健室で女性だったアレクの姿は、マザーサイドとベビーサイドの移動によって歪められた結果に過ぎない。そしてマザーザイドに戻ってきた今、本来の姿である男として、お前の前に立っているのだ」
 そこで王は一旦言葉を切った。警戒している鷹明を手招きして、鏡の前に立たせる。
「同じように今のお前の姿も」
 王の手によって、鏡の布がゆっくりと引かれる。
「……」
 きっかり三秒。
 鷹明は固まっていた。言葉もなく、息もしていなかった。
 お姉様の誘惑に負けて胸が痛くなったことも、そのあと奈落の底に落ちたことも、奇妙な世界も難解な話も驚いたが、これ以上の驚愕はないだろう。
(間違いなく今日のトップサプライズだぜ……)
 鷹明は息を飲む。
 覗き込んだ全身鏡の中には、とても可愛らしい女の子が映っていたのである。
 後ろに誰かいるのかと鷹明が振り返ると、その娘も振り返る。まじまじとみると同じように見返してきた。――間違いない。
「コレ俺?」
「少しは理解できたか」
 アレクはそう言って、確かめるように少女の肩に手を置いた。
「!」
 アレクの手の感覚を、鷹明は自分の肩で感じている。
 鷹明は鏡の中の自分を見た。
 歳は鷹明と同じぐらい。大きくて茶色い瞳。露出の高い服からはほっそりとした腕が伸びており、立派な胸はツンと健康そうに上を向いていた。
「……」
 思わず手で、そのふくよかな胸を握り締める。手には何とも言えない柔らかさが残り、同時に胸には経験したことのない痛みが走った。
 慌てて自分の胸から手を離すと、鷹明は再びマジマジと鏡の少女を見る。
「……幸せだが不幸だかわからない体験だ」
 鏡を見たまま鷹明はつぶやく。さきほどから気になっていた喉の調子――その声も改めて聞くと全くの女の子の声なのである。
「少しは理解できたようだな」
 と、王は満足気にうなずいた。そして、
「もう少し説明を進めたいのだが――そちの名前は何と言う?」
「鷹明」
「タ、カァアキ?」
 王は言いにくそうに繰り返す。
「名前の呼び方についてだがタカアキは呼びにくい。もしよければアキとでも呼びたいのだが?」
言われた鷹明は黙ってうなずく。本当は、両親に付けてもらった大切な名前なので勝手に変えないで欲しいのだが、身体が女の子になってしまった今、それも無意味なクレームのようにも思えた。
「よろしい。アキは遺伝子学に明るいか?」
 王の質問に、鷹明は無言で首を横に振った。遺伝子なんて、保健体育のHな授業でしかきいた記憶がない。
「じゃあ哲学はどうだ? プラトンの唱えたイデアの世界観ぐらいは習っただろ?」
「……知らない。習ったような気もするけどテスト前以外は興味ないし」
 鷹明の答えに王は「やはりこいつ、アホだな」とため息をついた。一体どこから説明すればよいのか途方に暮れている。もちろん、途方に暮れているのは鷹明も同じだった。
「先ほどから何度も申しておるが、この世界がマザーサイド、そしてアキがこれまで普通に暮らしていた世界がベビーサイドと呼ばれているように、この世界とアキの世界は妊娠中の母子の関係に例えられる。ベビーサイドで一番近い発想をしたのが、ギリシャの哲学者プラトン。彼は理想の世界イデアの投影された世界として、アキのいる世界を表現した。古代の老人にしては、悪くない発想だ」
「で、なんで俺が女の子になるんだ?」
 はっきり言って、今の鷹明には世界の説明などどうでもよかった。教えて欲しいのは、この不可解な胸のふくらみである。
「話を急ぐな。妊娠中の母親とその子供。本来なら二つの生命は、互いに共存し影響し合っているにも関わらず、決してひとつになることはない個々の存在だ。もちろん人間や魔物が行き来することなど不可能なはずだった」
「だった?」
「マザーサイドに異変が起きている――各地で魔物による被害が増え続け、さらにその影響はベビーサイドにも広がっている。これこそが世界崩壊への予兆なのだ」
 ホウカイへのヨチョーねー、と鷹明は繰り返した。当然のことながらまったくピンときていない。
「だが、救う手立てがないわけではない」
 王に代わって、アレクが話し始める。
「母なる世界が死するとき、己の御子の体内から光の戦士が現れるだろう。閉ざされた子宮を越え、光の力で闇を滅ぼす。その名をストゥームザイムという――マザーサイドに古くから伝わる予言だ」
 アレクは反応を確かめるように、鷹明の顔を覗き込む。なんとなく嫌な予感がして、鷹明は顔をしかめた。
「……ひょっとしてそれが俺、とかじゃないよね?」
「正解だ」 
 眉を一ミリも動かさずアレクは言った。反対に、鷹明が大きく顔を歪める。
「ヤだよー、何で俺なんだよ? 大体、予言なんて嘘だって。ノストラダムスとかもビビッて損しただけだったじゃん」
 鷹明の過剰な拒否反応に、王とアレクは互いに顔を見合わせた。
「残念ながらこの予言はすでに証明済みだ。あれは十数年前のこと。魔物にマザーサイドが侵されたとき、同じようにベビーサイドから一人の少女が現れた。彼女は闇の化身である魔物達を光の剣で倒し、我らの世界を救ったのだ」
「じゃあ今回もその人に頼めばいいだろ?」
「彼女は三年前に死んだ。そして、その頃から再び魔物がマザーサイドに現れ始めている。分かるだろう? 我らには新しいストゥームザイムが必要なのだ」 
「……」
 真剣な面持ちの王から視線を逸らして、鷹明はひとりため息をついた。
「だからって何で俺なのよ? 他にもいるでしょーが」
「確かに彼女の後継者として、すでに優秀なストゥームザイムが一人いるし、実際に彼女には動き始めてもらっている」
 アレクはあっさりとそう言った。その言葉に一瞬表情を明るくした鷹明だったが、続くアレクの言葉に再び顔が曇る。
「しかしアキには別の仕事をお願いしたいのだ。恐るべきことに魔物はベビーサイドへの侵入も始めた。結界を張ったので、今はまだ学校内に止まっているが、やがてアキの世界をも食らい尽くすだろう」
「つまり学校内にいる魔物を退治しろと? 余計無理だよ、そんな」
「残念だがその仕事は絶対にそちにしか出来ないのだ。そのことについてはさらに説明がいるのだが……ここからは遺伝子学の分野だ」
 いいか、と王は確認するかのように鷹明の瞳を覗き込んだ。
「アキの身体の誕生は、約三十億塩基にも及ぶ遺伝子暗号を有し通常『設計図』と呼ばれるヒト・ゲノムを両親から継承することから始まる。そして設計図に従って細胞を増やし、形成されていくのだ。この時、遺伝子の本体であるDNA――デオキシリボ核酸は本来、絶対に書き換わることはない」
「?」
「つまり、一度両親から受け継いだ設計図通りに作られた人間は、その造形を生涯変えることはできないということだ。猫の子は大きくなっても、決して虎にはなれないしライオンにもなれない。これは分かるだろう?」
「うん」
 鷹明は初めて頷いた。いくら鷹明でも、それぐらいは分かるつもりだ。
「だが、奇跡に近い確率で設計図を白紙に戻せる能力を持って生まれる人間がいる。我々は『タイプ0(ゼロ)』と呼んでいるのだが」
「……まさか」
「そのまさかだ。アキこそが世に珍しき人間、タイプ0(ゼロ)なのだ。アキは瞬時にして早瀬鷹明という人間を消滅させ、そのリセットされた設計図に新たな人格を描くことができる非常に稀な人間――つまり」
「つまり?」
「アキは変身という形で以って、マザーサイドでの自分を呼び出せるということだ」
「……」
 これは大変なことになってきたぞ、と鷹明は初めて思った。変身ヒーローなぞ、ただでさえ非現実的な話なのに、さらに女の子に変身してしまうだなんて――ややこしくて頭がクラクラしそうである。
「学校内の現れる魔物はすべて、マザーサイドの生き物だ。ベビーサイドの生き物がいくら優秀でも傷ひとつつけられないだろう。アキだって男の姿のままで戦っても意味はない。だから『変身』が必要になる。我らの中でアキだけが、マザーサイドの姿を呼び出せる能力があるのだ。その深紅の石を使ってな」
「なるほど。でもなぁ、俺、忙しいし。何とかならないわけ? あ、そうだ。閉じちゃえばいいじゃん! 保健室にある二つの世界の扉をさ」
 いかにもグットなアイデアだと言う様に、鷹明は人差し指を立ててみせた。しかし、王はさらに表情を厳しくさせて「無理だ」と短く言う。
「両世界を司る運命の子≠ェ殺され、継承者は行方不明なのだ。扉が閉じないといことは恐らく、次の運命の子≠フ継承者はベビーサイドに存在するのだろうが、未だ発見できていない。だから扉を閉じることが出来ない」
「運命の子?」
「我らマザーサイドの統治者のことだ」
「統治者は王様じゃないの?」
「違う。私は実務的な統治を行っているだけだ。運命の子≠ヘ我ら王族のような世襲制ではなく、先代の指名によって継承されていく。マザーサイドで生まれた子ならば、どんな子も十五歳で運命の子≠ノなり得るのだ。そしてその人間こそが、マザーザイドの真の統治者となる」
「で、その大切な継承者がいなくなったわけ?」
 魔物は増えるわ、重要人物は消えるわで、そりゃえらい災難なことだと鷹明は他人事のように思う。だからといって「一緒に世界を救おう!」とはならないのが、鷹明の鷹明たる所以でもあった。
「気の毒だとは思うけど、俺には関係ないな」
 鷹明のそんな様子に、王とアレクはため息をつきながら付け加える。
「いいか、アキ? マザーサイド、つまりはアキ達の世界の母体が滅びようとしている今、アキの世界も同じ運命にあるんだ。考えてみろ、母体が死ねばその胎児はどうなる?」 
「うー…死ぬ、かな」
 それこそが世界の滅亡を意味するのだが、鷹明にはダイレクトな危機感として響かない。事がデカ過ぎて実感が湧かないのだ。
「……アレク。本当にこいつ以外に頼る相手はいないのか」
「残念ながら。変身能力を有しているストゥームザイムは彼しかおりますまい」
 頭が痛いとでも言うように、小さな王は首を振った。
「よいかアキ。世界の破滅を避けるために、アレクやもうひとりのストゥームザイムも必死に戦っている。実際、戦況は大局にきているのだ。今回の異常事態を引き起こした犯人である姿なき魔女≠フ所在もつかめてきたし、運命の子≠フ継承者はその姿なき魔女≠ノ囚われているとの情報もある。アキにお願いしたいのは、敵にトドメを刺すあとわずかの間だけ、ベビーサイドの安全を魔物から守って欲しいということ」
「……でもなぁ」
「不安も多いと思う。だが私もできるだけの協力はするつもりだ」
 アレクは強い口調でそう言った。そして、
「姿なき魔女……運命の子を連れ去り、この世界に魔物を呼寄せた諸悪の根源。あいつの息の根さえ止めれば!」
 と唇をかみ締める。
 姿なき魔女という言葉を発したアレクは、その表情を一転させた。普段は大人しいであろう端正な顔が、怒りと憎しみで満ち満ちている。きっと鷹明の知らない苦労があったのだろう。
 鷹明は、そんなアレクの強い思いに気圧されてなんとなく視線を逸らす。アレクの気持ちはよく分かる。
(分かるけど……)
 目の前の鏡には、困ったような顔でこちらを見ている少女がいた。鷹明は、少女から目を離して天井を仰いだ。もちろん、鏡の中の少女も同じことをする。
 そのときであった。
「!」
 鏡の中に何か別の気配を感じて、鷹明は視線を戻す。刹那――恐怖が電撃のように全身を駆け抜けた。
 ドームの中の人々も異変を察知し、動揺は波のように広がっていく。
「早く、皆の者を安全な場所へ!」
 王が叫び、家来達が走り出す。ドーム内にいた大勢の人々は王と家来の号令に導かれてどこかへと消えていった。――が。救世主である鷹明にはノーフォローである。
「こら! 俺はほったらかしかいっ」
「お前はストゥームザイム。この闇と戦わなければならない人間だ」
 背後でアレクの声がした。
「勝手なこと言うなよ! 大体、どうやって――」
 鷹明の声を掻き消すように、ガァァという音とともに激しく地面が揺れた。反動で鷹明の前にある巨大な鏡が、ピシリと鋭い音を立てて不吉なひび割れを作る。
 緊張が一気に加速する。何かが鷹明に狙いをつけて近づいている気配がするが、恐怖で振り返ることも出来ない。鷹明は鏡の中でうごめくそれを見た。あれは――。
(……闇?)
 にわかに鷹明の視界は暗転した。何が起こったのか把握できないまま、不気味な威圧感に心臓が悲鳴を上げる。
「わ!」
 苦しむ間もなく、さらなる現象が彼を襲った。鷹明の周りで奇妙な気圧の変化が起こり始めたのだ。肺が閉めつけられるように痛む。呼吸は極度に制限され、苦しみに歪んだ視界は、さらに悪くなった。
 視界が閉ざされたかと錯覚するほどの巨大な闇は、不気味な膨張を繰り返しながら、鷹明の身体に近づいてくる。近づくにつれてそれはただの闇でなく、燃えるような赤い目を凶暴な牙を持った生き物だと認識することができた。
 中心部に赤い炎のようなものが見える。
「ア、アレク……!」
 助けを求めるつもりで叫んだが、強大な闇に埋もれてアレクの姿は見えなかった。
(やばー……! 俺、このまま死ぬのか)
 胸の苦しさと戦いながら、鷹明は目前に迫っ邪悪な牙を見つめていた。覚悟を決めたというより、あまりの恐怖に反応できないという方が正しかった。
(こんな)
 わけの分からない世界で。
 わけの分からない生き物に殺されて終わるなんて――。
(……)
 悔しい気もしたが、同時に自分らしいと自嘲する気持ちもあった。
(オヤジもオカンも先立つ不幸ってやつを許してくれ。弟よ、これからは犬の散歩役はお前だけになったが頑張れ。それから巳子、部長になれなくてゴメンな。あとは……)
 色々な思い出が走馬灯のように駆け巡る鷹明の前に、スッと一筋の影が差した。闇の魔物と鷹明の間に立ちふさがるシルエット――。
 いや、違う。これは影ではない。魔物のせいで闇はすでに深く、影など生まれるはずはないのだ。これはその逆で。
(光……?)
 鷹明は顔を上げた。
 そして。そして彼は――。
 恋に落ちたのだ。
「ストゥームザイムの名のもとに」
 彼の耳に少女の可憐な声が響く。くびれた腰に流れる彼女の艶やかな黒髪、凛とした横顔――そして形の良い唇が動く。
「……滅びよ!」
 刹那――激しい爆風がその場を襲った。間髪入れず、彼女は手にした剣を魔物に振りかざす。熱を持った空気は切り裂かれ、剣は容赦なく獲物の心臓部を捕らえる。
 激しい断末魔が部屋中に響き渡った。しかしそれもだんだんと弱まってくる。
 そして突き刺さった剣に集中していくかのように、闇は渦を巻いて消えていった。
「無事か? 怪我はないか?」
 振り返ってそうたずねる少女の顔を、鷹明は一生忘れることはないだろう。
 真実を宿した賢そうな黒い瞳。サラサラと揺れる艶やかで長い髪。端正なつくりの小さな顔は、可愛らしくも凛々しい雰囲気にあふれている。
「本当に……大丈夫?」
 優しく差し出された指先はたおやかに美しく、先ほどの戦闘で見せた煌くような殺気が嘘のようだ。
 少し前の恐怖も忘れて、ただ少女に見惚れているだけの鷹明だったが、彼女はショックでしゃべれないと勘違いしたのだろう。心配げに覗き込む。
 しかしその少女の顔色が変わった。視線は、鷹明の素肌に埋め込まれた深紅の石にある。
「……ひょっとしてストゥームザイム、いやタイプ0(ゼロ)なのか?」
「いつもながらお見事だ、ナオ」
 鷹明が何か答えようとする前に、背後からアレクの声がする。
「アレク! いくらストゥームザイムとはいえ、この人間はまだ情況を理解していない。それを魔物と戦わそうとするなんて――」
 ナオと呼ばれた少女は、即座に抗議した。しかし、アレクは肩をすくませながら「すまなかったな」とだけ言った。
「先天的なストゥームザイムの能力に興味があった。もちろん、アキが本当に危なくなったら助けるつもりだったが……ナオが来てくれたから安心して任せられたよ」
「冗談だろ? 俺、死ぬとこだったんだぜっ」
「ストゥームザイムであるアキが本当にあのまま死ぬ程度なら、いずれ世界のすべてが死ぬだろう」
 いつの間にか、逃げたはずの王が立っている。あきれた顔で鷹明は、その小さな王様を見た。
「……」
「先ほどの話にもあったように、ナオもまたストゥームザイムの一人だ。世界を救うために尽力してもらっている」
 まだ不服そうな表情は残しながらも、アレクの紹介にナオはぎこちなく笑って手を差し出す。
「そういうわけだ。よろしく頼むよ、アキ」
 感覚がイマイチ麻痺したままだったが、鷹明も反射的に手を差し出す。
 ナオから伝わる柔らかくて暖かな手の感触が、「生きている」という実感を与えてくれた。
 二人のストゥームザイムを見守るように、王は微笑む。そして鷹明に向かって、
「魔物との戦いについては、おいおい慣れてくる。ベビーサイドでアレクも教えてくれるであろう」
 と言った。王の言葉にアレクもうなずく。
「私とナオはベビーサイドに渡り、姿なき魔女≠フ退治、及び消えた運命の子≠フ保護に全力を上げるつもりだ。その間、アキはベビーサイドで学校内にはびこる魔物を倒してくれ。いずれも世界の滅亡を食い止める大切な仕事だ」
 差し出されたナオの手を握り返したまま、鷹明はぼんやりと考えていた。
 自分はストゥームザイムという特別な存在だという。そして、今見たような魔物と戦わなくては世界は滅びる。そしてナオ。
 彼女も同じストゥームザイム――。
(ということは……)
 鷹明の表情が、今までになく引き締まった。眉間に皺を寄せ、ひとり遠くを睨みつける。
 鷹明の顔の変化を見て、王とアレクは「やっと事の重大さが分かってきたか」と胸を撫で下ろした。苦労して説明した甲斐があったというものだ。
 しかし、残念ながら王達の予想は大幅に外れていた。
 確かに、鷹明は珍しく頭をフル回転させて考え込んでいる――。
(ナオは実は男で、俺は女の子に変身した彼女を好きになったことになる。しかし今は、俺もまた女の子なのであり……)
 鷹明は来たるべき未来を想い、苦悩に満ちたため息をこぼした。――この恋心の行き着く先は、ホモなのかレズなのか。
(これは……本格的にややこしいことになったぞ)
 言うまでもないがこの男にとって、世界の危機などまだ遠い存在のことなのであった。